ヴェルディオペラとイタリアのベルカント

第247回 イタリア研究会 2001-01-19

ヴェルディオペラとイタリアのベルカント

報告者:東京プロムジカ代表取締役 在原 勝


第247回イタリア研究会

日時:2001年1月19日

場所: 六本木・国際文化会館

講師:在原 勝 東京プロムジカ社長

演題:「ヴェルディオペラとイタリアのベルカント」


司会 第247回イタリア研究会を始めたいと思います。今日の講師は在原勝さんです。

東京プロムジカの社長さんでいらっしゃいます。実は声楽家で、東京芸大の声楽家を出られて、13年間イタリアで、コンセルバトアル・サンタチチリで勉強されたりしまして、声楽活動といいますか、音楽を続けられ、16年前から東京プロムジカの社長さんでいらっしゃいます。ヴェルディの生まれましたブセットという町がありますが、そこのコンクールの審査員を2年前からされております。在原さんに関しましては、やはりイタリア音楽に詳しいキングレコードの洋楽部長の新井さんからご紹介をいただきました。ヴェルディ没後100年というのが今年でして、スカラ座もそうですが、ヴェルディの曲が次々演奏されておりまして、初日のトロヴァトーレは大変もめたという、スカラ座ではムーティさんが歌っている方が少し失敗したそうで、大変にやじられて、騒ぎになったとも聞きましたが、そんなことが

 今年はヴェルディイヤーということになっています。そこで「日本におけるイタリア2001年」事業として、東京プロムジカも3つコンサートを計画されております。ヴェルディのコンサートが早速4月ということで、在原さんのところで招聘されたとコンサートですので、ぜひともお越しをいただければと思います。それではお願いします。


在原 みなさん、こんばんは。第247回というイタリア研究会、こういう会でお話をするということはめったにございませんで、半分あがっております。ご紹介いただきましたように、元々はオペラ歌手を目指して勉強をしていたひとりの歌手なのですが、現在は完全にもうそれをやめております。

東京芸大に入りまして、それがそもそもの間違いの始まりだったと思っておりますが、どうしてもイタリアへ行きたいとその後イタリアへ参りました。皆さんイタリアの大ファンがほとんどというふうに伺っていますが、私がイタリアへ行った頃は、なかなか行くだけで大変な時代でして、2つの方法がありました。まず、横浜からナホトカに船で渡りまして、それからシベリア鉄道で1週間かかってやっとローマにたどり着くという方法が1つ。後は飛行機なのですが、飛行機も今みたいに12時間くらいでもうダイレクトで到着してしまうという時代ではございません。各駅停車ですね。南回りで24時間くらいかかりまして、東京出て香港、バンコク、ニューデリー、そういうところを乗り継ぎながら、やっとローマにたどり着く、そういう時代でございましたけれども、とにかく歌の本場に行っていろいろ勉強したいということで、イタリアへ参りました。27才から3年計画ではじめ渡ったのですが、なにごともそうだと思いますが、3年たっていろいろなことがやっとわかってくる。3年たった段階で、帰ろうかなと思った時に、いや、今までやってきたことを生かすにはもっといなくてはいけないと。私にとっては人生の大変な決断の時期だったのですが、そのまま帰ってくれば今頃どこかの大学の声楽の教授あたりに出世できていたと思いますが、それを選ぶか、それとももっと深く掘り下げたイタリアの音楽、音楽だけではなくて、いろいろなことを見て勉強した方がいいのか、迷いました結果、そういう大学の先生はあきらめまして、40才まで向こうで遊んでおりました。遊学ですね。留学ではなくて、最初は留学だったのですが、その後は遊学をして、いろいろな、日本では勉強できないもの、見ることができないもの、そういうものをたくさん楽しんできたつもりです。

日本に帰りまして、何か仕事を始めようかということで、いろいろあったのですが、向こうで見たり聞いたりしてきたものを、日本のみなさん、特に音楽ファンですね。オペラファン、声楽ファンの方々にご紹介するような仕事がいいのではないかと。ど素人でございます。何も知りません。マネジメントの仕事のノウハウも知りません。経営のノウハウも知りません。で、始めてしまいました。とにかく向こうから有名な、手本になるような歌手たちを連れてくれば、そして日本で良い音楽をを聞いてもらえば良いのではないか。ただそれだけです。で、チケットを買って頂いて、という簡単な、今考えると恐ろしいようなことから始まったわけですけれども、その中に、例えば、そこにチラシがありますカルロ・ベルゴンツィーとか、一昨年亡くなりましたアルフレッド・クラウスとか、その他いろいろ、僕が学生の頃は神様と思っていたような歌手たちが来て下さいまして、カティア・リチャレッリもそうですね。それからこの間来ておりましたデミトローバ、その他、カプッチリ、ジャコミーニ、亡くなりましたけれどもヴァレンティナ・テラーリ、その他、マルティヌッチとか。とにかくパヴァロッティとかああいう大物は除いて、ほとんどの歌手が、私の事務所を通して、日本で皆さんに歌を広めてくださる。そういう大変嬉しい仕事。必ずしも事業としては成功しておりませんけれども、内容的には非常に満足した仕事を現在しております。


そのようにこの仕事をずっと続けているわけなのですが、たまたまイタリア年、またヴェルディが没後100年ということで、何かお話をしてくれないかというお電話をいただきまして、躊躇したのですが、私は今申しましたように学者でもないし、大学の先生でもありませんし、批評家でもありません。ということで、あまり堅苦しい、また細かいお話はできないと思いますが、今までの経験を生かして、見たり、聞いたり、感じたもの、そういうものをお話させて頂ければいいのではないかなということで、貴重な会に出席させて頂いたわけです。

今日はそのヴェルディの100年にあたってというタイトルなのですが、ヴェルディだけではなくて、そのヴェルディの100年にあたってヴェルディのオペラ、またイタリアオペラのこと、その他いろいろなオペラに関することお話させていただきたいと思います。

まずオペラ好きな方は、ほとんどでございますか。嫌いな方はいらっしゃいますか、ここに。いらっしゃらない。見たことないという方はいらっしゃいますか。おりません。恐ろしいですね。下手なことは言えません。オペラというのは大変古い歴史がありまして、皆さん造詣の深い方たちばかりだと思いますので、私よりそういう歴史的なこととか、そういうものは詳しいと思いますが、16世紀の後半、フィレンツェのギリシャ悲劇といいますか、そういうものが音楽劇に変わってきたと。その一番最初に作曲されたオペラは、ペリーという方のエウリディーチェというオペラ。これが1600年に作曲されたと言われておりまして、端的に言いますと、レスタティーボ、序章ですね。語りがちょっと抑揚をつけた型になり、メインの、当時はラメンタと言いますが、今はアリアと言っておりますが、そういうものが間にはさまった音楽劇として始まったというふうに聞いております。

このペリーのオペラはあまり今上演されておりませんで、あえて古いオペラで時々上演されるものは、モンテベルディのオルフェオというオペラ。ご覧になった方もいらっしゃると思います。そういうものが1607年くらいに作曲されたと言われております。

そんなことで、オペラとは何かと。オペラというのはイタリア語だったら簡単なのですが、要するにオペラの中心になっているのは、声だと思うのですね。人間の声。人間の声を使った歌唱によってドラマを作り上げていく。そこにいろいろなバレエとかコーラスとかいろいろなものが加わりまして、ひとつの総合舞台芸術として完成した。これがオペラだと思うわけなのですが、その基本はあくまでも歌だと思うのですね。私が歌出身ですから、別の方は別の意見があると思いますが、どんな立派な舞台装置、どんな立派なオーケストラの演奏があったとしても、歌手が全然だめだとしたら、そのオペラは失敗になってしまうわけで、あくまでも人間の声を使った歌唱によって作られるドラマ、これがオペラの基本だと私は思っております。


その人間の声、例えば今新国立劇場もできまして、1800客席がありまして、あそこの舞台ではマイクを使っていないと思いますけども、マイクを使わずに、その7~80名のオーケストラ、ものによっては100数十名のオーケストラをバックに、その伴奏で自

分の声を、その2000人のお客様に聞かせると。これは大変なことだと思うのですけど、どうしてああいう声が出るのだろうと。声というのは皆さん出ます。しかしながら皆さん、あそこの舞台に立って、「あー」と張り上げても、皆さんの声が全部2000人のお客さんに通るとは限らないわけです。

どうしてああいう声が出るのだろうと。オペラをああいう声で歌うにはどういう訓練が必要だろう、ということからお話しますと、まずよくイタリアのオペラにベルカント唱法という言葉をお聞きになったことがあると思います。ベルカントのベルというのは美しいとかきれいだとか、カントというのは歌なのですが、専門的に申しますと、このベルカント、ただきれいに、そして歌うということではなくて、あの声を出すには相当の訓練が必要だと思います。まず一番重要なこと、ベルカントの声を出すのに一番重要なことは、のどをあけるということなのですね。皆さんの中で歌をお歌いになる方いらっしゃいますか。オペラとかそういうクラシックな声。おやりになってらっしゃいますか。まずのどをあけるということ。のどをあけてどうするかというと、のどをあけて、息を吸いますと、自然におなかの方に息が入ってまいります。もっとやさしく言いますと、あくびを

していただけますか。あくびをして息を吸いますね。息を吐いてあくびをする人はいないと思いますけども。息をあくびをして吸いますと、腹式呼吸になるわけですね。のどがあかないでいくらおなかの方に息を吸おうと思いましても、これは入りません。

 ベルカントの基本というのは、まず第1にのどがあいている。残念ながら日本の言葉から来る影響だと思いますが、日本語をしゃべっている我々は、基本的にはのどはあいておりません。イタリア語、スペイン語。まあフランス語は別にして、スペイン語とかイタリア語はのどをあいてしゃべっています。基本的に。勉強をしなくても。ですから皆さんイタリアをご旅行なさる機会が多いと思いますが、どこへ行ってもいい声が、ベニスの船頭さんもいい声しています。別に勉強しなくても、オペラをすぐ歌えるような声の連中がごろごろしているわけなのです。そしてまずのどをあけて息をおなかに吸って腹式呼吸をする。その吸った息を吐いて

しまわない。これが難しいわけです。どうするかと言いますと、横隔膜というのがあります。息を吸った時、その吸った時の状態は、横隔膜は下がっております。普通の時より下がっている。そしてその横隔膜をすぐ上げないように、横隔膜を使って息を送り込んで、帯を100%その息で鳴らして声を出す。

 僕のついた先生から教わったことなのですが、「インスピラーレ」と言われたのですね。どういうことかと言いますと、息を吸って声を出せと。そんなことがで

きるのかと。声を出すには息を吐かなければいけない。ただし「インスピラーレ」、今申しました要するにおなかまで息を吸って横隔膜で徐々に息を送り出して出す。そうしますと、「インスピラーレ」とはこういう状態だなと。要するにあくびの状態です。あくびをして、声を出してみて下さい。だいたいあくびをしますとアーアと出しますよね。その時息を出しているのではなくて、息を吸っている状態なのですね。実際には出ているのです。声が出ている。声帯が鳴っているわけなのですから、そういう状態。これがベルカントの基本だということをよく言われました。ですから日本人が外国人の声、ああいう声に対抗して、まず訓練しなくてはいけない、そこがもう日本語を忘れるしかないと。日本語をしゃべらないようにするしかない。ですから向こうの発声で、のどをあけて日本語をしゃべりますと、少しきどったような感じになってしまうわけです。これで普段しゃべっていますと、あいつはばかかと思われてしまうのですが、そこが違うわけです。ですから日本の声楽家たちが向こうに行って苦労することは、もう日本語を忘れてしまって、のどをまずあいて、そしてデイァフランマ(横隔膜)を100%使って歌う訓練。これから始めなくてはいけない。残念ながらそれを日本で確実に教えて下さる先生というのはあまり僕の時代はおりませんでした。今も多分あまりいないと思います。ですから大学を卒業してから、皆初めて目覚めて外国へ行きたいというふうに思うようになってしまうわけです。その100%鳴らした声、無駄な息が出ない、声帯を鳴らした声というのは、2000人のホールでも通っていくわけです。音というのは、1秒間に300何十メートルですか、正確な数字は数十メートル飛んでいく。息を吐いた声というのはそこに落ちてしまう。息を吸いながら出した声というのは、空間をこういうふうに回って、2000人の奥の方まで通っていく。だからああいう声が出るのですというふうに習ったわけなのです。たまたま僕が師事した先生は、ダンテ・ペローネ、誰も知らないと思いますが、という先生で、その先生の仲間、これは皆さんよくご存知だと思います。ベアビーノ・ジーリですね。同級生なのです。それからラウリ・ボルピという名テノールなのですが、2人とも。それが僕の先生だったダンテ・ペローネの同級生で、その先生からいろいろベルカントの基本というのを、もう90才近い方だったのですが、教わりました。大変いい勉強をしたなと今は思っております。で

すからこのベルカントというのはやれば誰でもできるわけです。ただすぐはできないと。

それを完全にマスターするには、訓練が必要です。横隔膜を下げて、それを徐々に上げる。大変なことなのですね。すぐに上がってしまいます。訓練しないと。

そのベルカントの基本「インスピラーレ」で声を出している人がいるのです。生まれたての子供はみんな腹式呼吸でベルカントなのです。「おぎゃあ」と生まれてきて出す声というのは、全部腹式呼吸。皆さんの中にお孫さんとかそういう生まれたばかりの赤ちゃんがもしいらっしゃいましたら、まず寝ている赤ちゃんのおなかをさわってみて下さい。腹式呼吸をしております。その子供が立ち上がって、よちよち歩きの時、その時には腹式呼吸と同時に、姿勢がものすごく良いのです。猫背の赤ちゃん、歩きたての赤ちゃんにはほとんどおりません。ほとんど背筋がぴんと伸びて、後ろにそっくり返るような格好で歩いております。これが姿勢としての基本だというわけなのです。それがいつの間にか年を取るにしたがって姿勢が悪くなって参りまして、猫背になってしまう。第1の自然、これが赤ちゃんの状態だとしますと、僕の先生は、第2の自然に帰れと。要するにもう1回赤ちゃんに帰ってやり直せと、そういうことをよく言われたのですが、しわがれ声の赤ちゃんはおりませんよね。どら声の赤ちゃんはおりませんね。耳が痛くなるように泣く。みんな良い声をしております。あれがオペラを歌う場合の基本の声だと。ですから皆さんも昔はベルカントで声を出していたのです。今は出していないと思いますけれど。

何千人の人々の前で、たゆまぬ訓練を積んだ声で舞台に立って、その声を皆さんに聞かせて、完全なテクニックをマスターした声というのは、意味が分からなくても感動を与えます。さきほども言いましたように、音楽というのは理屈ではなくて、感性だと思うのですね。ですからいい声は言葉がなくても、「あー」だけで皆さんの前で歌って下さったその声だけで感動するはずなのです。そしてそういういい声を聞いた場合、聞いている皆さんも一緒に呼吸ができます。そうしますとリラックスして参ります。舞台の歌手と聴衆の息づかい、これがマッチした時、これが本当の成功なのですね。だから色々なジェスチャーとか、言葉の意味とか、そういうことではなくて、オペラの基本は人間の声、その人間の声によって、ドラマが作られる。その正しい声で作り上げられた総合舞台芸術。これがオペラだと私は思っております。


今声の出し方の説明で少し時間をとってしまいましたが、声の中に種類が色々ございまして、これも皆さんご存知だと思いますが、女性の中には一番高い声でソプラノとか、中音でメゾソプラノ、低い声がアルトと呼んでおりますけれども、男性の方は一番高い声がテノール、それからバリトン、一番低い声はバスと。どこで区別するか。これはもちろん声域で区別できるわけですけれども、ほとんどその人の持っている声帯で決まるわけです。声帯というのは、見た方もいらっしゃると思いますが、小さくて、きれいな声帯はピンク色の、僕はたばこを吸いますのでもう汚れていると思いますが、ピンクのきれいなものなのですね。その小さな声帯。それを空気の振動によって、息の振動よって鳴らして、ああいう声が出るわけですから、持って生まれた声帯によって声域が自然に分かれてしまう。

ソプラノとかアルト、メゾは技術をマスターするのはわりに簡単です。一番難しい声これはテノールなのですね。テノールの声、特にソル、2点ソルですね。ドレミファソのまたその上のソのそれ以上の声。これは持って生まれた方、カストラーレ、または変声期前の男性を除いておりません。ほとんどが作られた声なのです。どういうふうに作るかと言いますと、先程言いました横隔膜を使って、高い声というのは声帯を伸ばして音程を取るわけなのですが、声帯を細くすれば細くするほど、それだけいろいろな力が必要なのです。そうしてどんどんどんどん作り上げていったものがテノール。このテノールがオペラの僕は花形だと思うのですね。ですから6種くらいの声がありますが、その中で出演料の一番高いのがテノールなのです。ソプラノはどんなに有名でも、テノールの上をいくようなソプラノはおりません。いい声をしたテノールに大変な出演料を私は払わされております。払わざるを得ないわけですね。というのは、世界中捜しても、すばらしいテノールというのは、5本の指に入るくらいしかいないと思うのですね。テノールというのはたくさんいますよ。でもいいテノール。そういう意味で、大変なギャラを稼ぐわけです。

こういう声の種類によって、オペラのそれぞれの人物が設定されるわけなのです。今言った一番高いギャラをもらったテノールが一番いい役をやります。テノールでおじいちゃんの役をやっているのは聞いたことがありません。中にはあるかもしれませんが、だいたい若いすてきな恋人役とかですね。それから伯爵家の息子さんとか、ほとんどいい役はテノールが持っていってしまいます。それに対して女性の一番いい役はソプラノですね。これもテノールの恋人役になる娘さんとか、そういう役柄がソプラノなのですが、メゾ、これは役割的にも、オペラによっては大変重要な役をもらったオペラなんかもございますが、ほとんどが侍女とか、ソプラノを支える回りの裏方さんみたいな形になります。アルトになりますともっとひどくなります。おばあさんとか召し使いとかですね。そういう役。これが一番低い声のアルトになってしまうわけです。男性のテノールは花形の役で、バリトンはお父さんとかちょっと年を取った感じの声の人物。これがバリトンの役なのですけれども、バスになりますと、神父さんとかお坊さんとかの役割になります。声の質にそれぞれ違った役割を与えて、ひとつの物語、舞台芸術が作られているわけなのですが、皆さんの中にテノールはいらっしゃいますか。ソプラノはたくさんいらっしゃいますか。

たゆまぬ訓練を積んだ上で舞台に上がって、すばらしい声を皆さん、スカラ座とか色々なところでお聞きになっていると思いますが、特にテノールを聞く場合は、大変苦労しているなと、それでよくあそこまで声が出るようになったなと、ご苦労さんだと、そういうふうに考えながら聞いてやって下さい。普通の声ではないのです、あれは。


そして良く訓練した声を使った総合舞台芸術を見に行く時の心構えなのですが、皆さん、ほとんどオペラに行ってらっしゃいますから、こんなことをお話しても余計なことだと思いますが、でももし初めてオペラかクラシックのコンサートに行く時とか、お友達を連れていく場合もあると思いますが、これは僕の考えなのですが、頭から理屈は言わない。理屈を言ってしまいますと嫌いになってしまうわけですね。これは音楽だけではなくて、すべてのこと、これは教育の面でも言えると思うのですが、特に語学の勉強などもそうだと思います。音楽は感性から入って頂きたい。もちろん、今度行くオペラはだいたいどのようなあらすじ、そのくらいは知っていていいと思います。それは何年にどこで作られて、どういう様式のもとに、登場人物がこうなっていて、こういうけんかをして、仲直りをして、そこまでは説明する必要もないし、そこまで考える必要もあえてないと思います。初めて音楽会に行く時、初めてオペラに行く時、それはほんの少しの知識だけで、音楽会に行って頂きたいと思います。そして、1時間半か2時間足らずの間、本当にいい演奏を聞いた時、皆さんのお持ちになっている感性に何か訴えるものがある。その感性に何か訴えられた時、人間というのはそのものに対して興味を抱くと思うのです。興味を抱いて、そういう人達に理屈を言ったら、そういう人達はその理屈をスムーズに受け入れてくれます。興味を持たない人に理屈を言って、頭からこういうものだと、能書きを言っても、全然入っていきません。これは語学でもそうだと思うのですね。日本の語学、僕も大学で4年イタリア語をやりました。読み書き。でもヒアリングは全然なかった。ですから向こうに行った時、読む、書くことはできる。でも言っていることが全然わからなかったのです。これは日本の語学教育の一番の欠点だと思います。生まれたての子供は文法なんか知りません。でも耳から、お母さん、お父さん、友達の声を、言葉を聞きながら、どんどん覚えていくわけですね。あれと同じ方法でやはり語学というのはやらなくてはいけないのではないかと。まずヒアリングです。

向こうに行った時私は全然イタリア語がわからない。どうしたかと言い

ますと、まず最初にやったことは、テレビを買いました。それで暇がある時はテレビをつけっ放しですね。見てなくてもいいです。ラジオでもいいわけなのですが、そうするとイタリア語がどんどんどんどん聞こえてくるわけなのです。その聞こえてきた何百語、何千語の中に、聞き流しているようなのですが、1つの言葉が頭の中に残るわけなのですね。

残った言葉というのは、もう記憶されているわけです。ですからその残った言葉を辞書を引いて意味がわかる。そういうふうにして覚えていったわけなのですが、まずテレビを一番最初に買いました。

2番目は、女性の友達を作りました。男性ではなく。男性では興味ないです。女性は興味があるのです。興味のあるものは自然に入っていけると。フランスのことわざに、「語学は枕の上で覚えろ」とこういうことわざがあるとフランス人から聞きました。別に枕の上で語学の勉強をするのではなくて、要するに人間、男性、女性だったら、お互いに何か引きつけるものがあると。そういう土俵の上で興味を持って勉強する。これが語学の勉強だというふうに言われたのです。どうせ作るのだったら、男性の友達より女性の方がいいということで、女性の友達を作って一生懸命イタリア語を勉強しました。一人の時はテレビをつけっ放しでイタリア語を勉強しました。

3年くらいたったある朝、突然目を覚ましました。イタリア語で夢を見たのですね。お

袋とイタリア語で会話したのです。お袋はイタリア語など全然しゃべりません。それがイタリア語で夢の中で会話しているのです。それでびっくり仰天して目を覚ました。それを今でも覚えておりますが。ようは語学を完全にマスターする。そのマスターされた時期というのは、3年でマスターしたわけではありませんけれども、イタリア語を聞いて日本語に訳して、その日本語をまたイタリア語に訳して理解している間はだめなのですね。

イタリア語を聞いてイタリア語として理解した場合、その時が本当に語学の出発点に立っていると。コップはコップですね。それからビッキエーレ。ビッキエーレはコップではなくて、ビッキエーレなのです。ビッケーレをコップとして、水をアックアとして理解した場合、これが語学の本当の意味で対等に勝負できる出発点に達したと言えるのではないかと思うのですね。ですから、イタリア語でお袋がしゃべった。それからたびたび出てきましたが、いつもイタリア語をしゃべります。時々日本語もしゃべったりするわけなのですが。本当にびっくり仰天したことがございます。ただ専門的にイタリア語を真剣に勉強しますと難しいですよね。でも私は専門的に勉強した覚えはありませんで、必要に迫られて、まず耳から覚えて、後から文法を勉強した。これが語学の原点だと思うのですけれども、語学だけではなくて、すべてのものにまず興味を持っていただく。興味を持っていただいたことに対して、色々詳しい能書きを教えていく。これが一番正しい勉強の方法ではないかなと僕は思うのですが、皆さんいかがでしょう。


今の若者たちは、興味を持つもの、また自分がやりたいものが何かと、そういうものが

見つからないで苦労していると、色々雑誌とかに書かれておりますが、見つける時期が少

しずれているのかなという気もします。我々の時はわりと若い時に見つけた経験があるわ

けなのですが。でも大人の責任において、その若者たちにどうしてあげなくてはいけない

かということを考えますと、まずそういう若者たちが興味を抱くであろうソフトを色々た

くさん与えてあげる。子供にですね。まず選択肢をたくさんにしてあげると。その中か

ら1つくらいは選んでくれる。これが親の子供に対する義務ではないかなと僕は思って、

自分の息子にそういうふうに教育してまいりました。イタリアで遊学しておりました関係で大変結婚が遅くて、この歳で今やっと大学1年生の息子がいるのですが、小さい時からそういうふうにやってきたつもりです。まだ見つかっておりません。やはり僕の教育、考え方間違っていたかなと、内心反省はしているのですが、いずれそのうちに見つけてくれるのではないかなと思っております。

そういうことで、オペラ、音楽会、そういうものをお誘いする場合でも、あまり頭から能書きを言わないで、まず皆さん誰でも持っております感性、そのもので感じて頂いて、これすばらしい、この曲はどんな曲でしょう、とそんなふうになったらもうしめたもので、

難しいことはあまり最初から考えないで、まずオペラに、音楽会に、足を運んでいただきたいと思います。


日本はオペラの本場ではございませんけども、現在オペラブームと言われております。このオペラブームのきっかけはいつ頃からと考えてみますと、僕なんかの学生の頃、徹夜してチケットを買ったことを今も覚えております。NHKさんがイタリアオペラ団というのを呼びまして、その時テレビなんかのはしりの時代ですけれども、テレビでそれを放映して、そして字幕を、映画館によくありますようなあれがテレビに映し出されて、その字幕のシステムの発達ですね。そういうものがオペラのあるブームのきっかけになったのではないかなと思っております。だいたい7回か8回くらい、そういうイタリアオペラ団をNHKさんが呼んだというふうに記憶しております。皆さんの中にも、それをお聞きになった方いらっしゃるのではないかと思いますが。あの字幕スーパーというのはいいですね。詳しい方はあれ面倒だと。私は自分の企画する演奏会で、1回だけリサイタルで字幕スーパーをやったことを覚えております。それでその時アンケートをとりました。オペラの字幕スーパーはもう当たり前になっておりますのでね。リサイタルの字幕スーパーについてどう思いますかというアンケートでしたけれども、3割の方は邪魔だと。あんなのは目障りだと。という方がおりました。7割の方はあれはあった方がいいというご意見が多かったですね。善し悪しは別にして、字幕スーパーによってオペラのブームにより一層火がついた。これがひとつのきっかけになったのではないかと思っております。私が学生の頃聞いたのは、マリオデルモナコとか、バスティアニーとか、ティートゴッビとか、シミオナートとか、テバルディとか、そういう往年の名歌手たちを、徹夜してチケットを買ったことを覚えておりますが、その当時ベルゴンツィもおりました。イタリア歌劇団の中に。私たち学生にとっては、そういう人達が神様だったわけですね。歌を勉強している学生にとっては。その神様の中に思いもしなかったアルフレッド・クラウスもおりましたですね。そして今私がやっている仕事、その当時思いもつかなかったこと、神様が私からギャラをもらっているのです。そういう点少し優越感を感じました。昔はもう神様と思っていた人達が、契約して、公演が終わったら私が出演料をお払いする。大変気持ちのいい思いもしたこともございます。


2番目にオペラのブームのきっかけを作ったのは、これはもう最近の話ですね。例の大

きなイベント。3大テノールというのがございました。サッカーのワールドカップ。ロー

マでだったですね。メータの指揮で、パヴァロッティ、カレーラス、ドミンゴ。あれが全世界に放映されまして、日本でもあれを見て、あれはいいなと。全然ああいう歌なんか聞いたことのない、興味を示さなかった方も、サッカーのオープニングでああいうことがあって、それを初めて耳にして、目にして、ファンになった方もけっこう多いですね。そして日本にもその後、国立競技場かなにかでありましたし、大阪ドームのオープニング記念

にもやりましたし、東京のビッグエッグ、あそこでもやりました。1回はキャンセルになりましたが。今までいなかったクラシックファンをどんどん掘り起こしてくれたということで、3大テノールの及ぼす影響、効果というのは、大変ありがたい面もあると思っております。


3大テノールの話になりますけれども、僕にとってあれは音楽会ではなくて、大きなイ

ベントなのですが、相当なお金が動くと。これは新聞とか雑誌でお読みになった方がいら

っしゃると思いますが、私の友達で、マルコ・アルミリアートという若い指揮者がおりま

す。今はもうメトロポリタンとかそういうところにどんどん出て振っている中堅の優秀な

指揮者なのですが、だいたいあの3大テノールの公演で指揮をするのは、レバインかメー

タなのですね。レバインとメータがだめな時、そのマルコ・アルミリアートの方に仕事が

回ってくる。彼から聞いた話なのですが、メルボルンで3大テノールの公演があって、2人ともだめだったので「私が行って振った。在原、その時のギャラで、ジェノバにすごいアパートを買ったのだよ」。そのくらいもらっているわけなのですね。一説によりますと1億以上と。ですから3人で4億5千万、そこにメータが1億で5億5千万。黙っていてもそれだけのお金が動いていく。

そういう大きなイベントを世界中でやって、今度日韓のサッカーの時にどうなるかわかりませんけども、その後の歌手たちがいないわけです。プロモーターは、彼らの後の3大テノールを誰にしようといろいろと考えているようですが、ホセ・クーラー、皆さんお聞きになった方いらっしゃると思いますが、ホセ・クーラーというアルゼンチンのテノールがおります。日本にも来ておりますが、彼に聞きますと、私はあんなことはやらないよと。もう1人、ロベルト・アラーニヤという、シチリー系のフランス人なのですが、有名なソプラノ、アンジェラ・ギオルギュというソプラノの旦那なのです。彼も、私やらないよ。2人ともイタリア人ではないのですね。もうひとりイタリア人誰かいるのか。いないわけなのです。それで困っているという話も聞いております。要するにあのイベント、またそれだけの価値のある3人のテノールなのですが、あれを引き継ぐ、匹敵するだけの若い歌手たちが、今育っていないという現状、これが現実なのですが、ちょっと話が飛んでしまいましたが、そのワールドカップのサッカーのイベントがオペラファンを増やしたのではないかなと言われておるわけです。


そして現在日本でどんどんオペラの引越し公演が行なわれています。日本ほど世界中

の劇場のオペラを見られる国はないくらいですね。いくらお金があっても足りないくらい

のオペラの引越し公演が日本でも行われ、特に今年は2001年、ヴェルディイヤーと。

またその上に2001年の日本におけるイタリア年でもあるということで、有名な劇場が

めじろ押しに来ると思います。ヴェネツィアの有名なフェニーチェ劇場の引越し公演もございますし、メトロポリタン歌劇場の引越し公演もあったと思います。そのフェニーチェで少し思い出しましたけども、あれが焼けたのは4~5年前だったと思います。あの焼ける2日前に僕はあそこの舞台のそでの支配人の部屋でお話をしておりました。シチリアーノという有名な支配人だったのですが、話をしておりまして、工事、確かに思い出しますと、舞台の工事をしておりました。その工事をしている舞台を通り過ぎて、外に出て、日本に帰ってきて、名古屋にいた時に、フェニーチェが燃えているよというニュースが入ったので、本当にびっくりしました。ある意味では、最後にフェニーチェの中を見た日本人は私ではないかなと幸運だったと考えておりますが、とはいえ喜ぶことではないのですが、いまだに再建、復興していないわけで、真珠のような大変すばらしい劇場だったのですが、そのフェニーチェ劇場、今はテントを使って公演をしております。その引越し公演があると聞いております。それも大変すばらしい公演になるのではないかなと思っております。ただ有名な歌手はあまり来ませんけれども。


そしてそういうオペラの大変な消費国となっている現在の日本なのですが、多くのオペラ作曲家の中でも、今年が没後100年にあたるヴェルディが一番のオペラ作曲家ではないかと一般に言われております。そのヴェルディについて簡単に、これも皆さんの方がお詳しいと思いますが、簡単にお話させて頂きたいと思います。

まずヴェルディというのは、生まれたのは、ブッセートという町がありますが、その近郊のロンコーレという小さな村があります。そこの小さな木賃宿、雑貨商、食料品などを売っていた小さな貧しい家庭に生まれたと言われております。1813年の10月10日というふうに通説言われております。ただ向こうの色々な研究家の本を読んでみますと、1814年の10月9日だと言う方もいるわけなのですが、一般的には1813年の10月10日が彼の生まれた日というふうに言われております。大変貧しかった家庭に育ったヴェルディなのですが、そのロンコーレのすぐ近く、小高い丘の上に丘にブッセートという町があります。そのブッセートの町、ヴェルディが若い時を過ごした町です。いらっしゃった方いらっしゃいますか。


 町の真ん中の広場には、ヴェルディの大きな銅像が立っておりまして、その裏側が市

役所になっていて、その脇にテアトルヴェルディという、皆さんヨーロッパで、特にイタ

リアでご覧になるような、馬蹄型の劇場なのですが、ただキャパシティが300くらいしかないのですね。本当にこじんまりとした、2、3年ほど前までは、お客さんを入れるとこの劇場が壊れてしまうので、入れられなかった。で、修理をして、公演ができるように昨年あたりからなったようですが、そのテアトルヴェルディというのがそのブッセートの町にございます。そこでヴェルディの声というコンクールがもう40回くらい続いているわけなのですが、これは世界でも古い歴史を持った、数々の有名な歌手を生んでいるコンクールなのですが、そのブッセートの近郊のロンコーレという小さな町で生まれました。その彼の生まれた家は現在も残っておりまして、もちろん住んではおりませんが、観光客に中を見せたりしています。その向い側には小さな教会も残っております。これも若き頃のヴェルディがオルガンを弾いて、生活の糧を稼いだといういわれのある小さな教会なのですが、そのロンコーレで生まれたヴェルディが、どうして後のあの偉大なヴェルディになったかということですが、貧しい家庭ですから学校にもろくに行けない。その家庭のお父さんと知り合いだったブッセートの裕福な商人、バレッツィという豪商がおりまして、これがアマチュア音楽家として名前が知られていたそうです。本人は商売をしながらブッセートに楽友協会を設立しました。また作曲もしたり、オルガンを弾いたりアマチュアの音楽家としてある程度名前が知られていた裕福な方。この方の援助を受けまして、学校にもいけない程困っていたヴェルディに助けの手を伸ばして、ブッセートの町の靴屋さんで仕事をさせながら、学校に通わせた。この方のヴェルディに与えた影響というのは、相当大きなものがあると言われているわけなのですが、そしてオルガン、バイオリンも習ったそうですが、楽友協会、バレッツィの環境で生活をしていたヴェルディ。そのヴェルディの才能を見つけまして、金銭的な面、それから音楽的な面でも相当な援助を与えたというふうに言われております。たわけなのですが、18才くらいまではブツセートで過ごし18才になったヴェルディ少年が、チーズなどで有名な町パルマの町からミラノの方に向かっていく途中のちょっと入ったところにある町ですが、そのブツセートに満足できず一念発起しまして、当時の音楽の中心だったミラノに行って、ミラノのコンセルバトーリオに入り勉強しようと思ったわけです。

もちろんスポンサーの援助、許可をいただいて出かけたわけなのですが、18才の少年がコンセルバトーリオに行って試験を受けました。残念ながら試験は通らなかったというふうに聞いております。なぜ通らなかったのか。別に才能がないから通らなかったのではなくて、まずその当時イタリアは都市国家時代ですよね。いろいろな町、いろいろな地方を中心にして、独立国がたくさんあった時代でもあったわけで、ミラノの国から見ますと、要するに彼は外国人ということが1つ。それから18才という歳はコンセルバトーリオに入るには年齢制限をとっくに越えてしまっているからだめだよと。これが2つ目の理由。そしてもう1つは、定員がもういっぱいだからだめだよと言われて、とうとうそのコンセルバトーリオに入ることはできなかったそうです。そういうことをブセットのスポンサーに手紙で知らせた。気落ちしたその手紙を見たスポンサーは、当時ミラノで名前の知れていたコンセルバトーリオの先生、ラヴィーニャといいますか、その先生を紹介した。スカラ座のチェンバリストだったそうです。そしてコンセルバトーリオのソルフェージュの先生。そういう先生の個人レッスンを受けられるようにしてあげたといわれております。ミラノにいる間はその先生の教えを受けながら、ヴェルディは勉強した。


世の中でジュゼッペ・ヴェルディという名前が認められたのはいつ頃かということになりますと、それから数年たって26才の時初めて、第1作のオペラを書いたのですね。彼は生きている間に26のオペラを作ったと記憶しておりますが、フランス語版の改訂版、そういうものを入れますと30曲を少し越えるというふうに言われています。その第1作のオペラを26才の時に彼が書きました。1839年に作曲の「オベルト」というオペラです。そのオペラはあまり演奏されないわけなのですが、聞いたことございますか。さきほどチラシを置かさせて頂きましたカルロ・ベルゴンツィが今77才になります。今度日本でリサイタル、またハイライト監修してますけど、歌います一番最初のアリア、これが「オベルト」のアリアなのです。めったに聞くことのできないアリアを歌うわけなのです。彼の気持ちからして、多分もう日本で歌うのは最後だから、ヴェルディイヤーを記念しての公演なので、ヴェルディの第1作のオペラのアリアを一番最初に歌い、一番最後は「オテツロ」のアリアを歌います。「オテッロ」は最後のオペラではなく「ファルスタッフ」が最後のオペラなのですが、その「ファルスタッフ」の前に作られた「オテッロ」のアリアでリサイタルを閉めると、こういうふうに彼の方から申し出がありました。もし演奏会にいらっしゃって頂けた場合は、それを聞くことができると思います。内容的にはミラノの上流階級の伯爵と侯爵家のいざこざを題材にしたオペラと言われておりますが、一応ジュゼッペ・ヴェルディがオペラ作曲家として名前が出てきたのが26才ということですね。

そして完全にジュゼッペ・ヴェルディが世の中にオペラ作曲家として認められたのは第3作になります。皆さんもよく聞いたことがあると思いますが、例の「ナブッコ」というオペラですね。これが「オベルト」の次から3年くらいたった年代です。その時に「ナブッコ」というオペラを作りまして、その成功によって、初めてジュゼッペ・ヴェルディが世の中に完全に認められたといわれております。なぜ認められたかと言いますと、ナブッコいうのはアラブの王様の名前ですね。元の名前はネブラドネザールですか。これが原題だそうです。「ナブッコ」は当時のバビロンの王様の名前で、その後、バビロンの新王様になって、ナブッコと改名して今のオペラの題名「ナブッコ」になったというふうに聞いております。その「ナブッコ」のオペラの中の第3幕で歌われる、バビロニアの国がユダヤを占領して、そのユダヤの捕虜たちが遠い祖国を思いながら歌うという有名な合唱曲があるのですね。皆さんたぶん歌ったことがあるのではないかと思います。サントリーホールの10月に行われていますガラコンサートなんかいらっしゃった方おりますか。あの時一番最後に紙を配って一緒に歌う。この曲は第2のイタリア国歌とも言われています。ミラノはオーストリア

の支配下にあった代でして、ちょうどその時代に「ナブッコ」がミラノで初演されたわけなのですが、それを聞いたイタリアの市民たちは、ちょうど自分たちがオーストリアの政府によって支配されている。それとイスラエルの捕虜たちがバビロニアの支配されている。それとダブったわけなのです。その合唱曲を聞いて、イタリアに対する愛国心、オーストリアからの支配から逃れようという、そういう運動。それが大変盛んになった。勇気を与えたと、そういうふうに言われる曲なのです。日本語の題名は「行けわが思いよ 黄金の翼にのって」とそういう題名になっていますけれども、聴いたことございますか。イタリアのベローナで野外オペラ「ナブッコ」をご覧になった方いらっしゃいますか。舞台の合唱団がこの曲を歌い始めますと観客席も一緒に歌い始めます。それだけイタリア人にとっては大変思い入れの深い曲。この「ナブッコ」を上演することによって、はじめてジュゼッペ・ヴェルディが大オペラ作曲家として世の中に認知されたと言われております。あまり日本ではやらないわけなのですが、オペラ「ナブッコ」を聞くような機会がございましたら、その合唱曲をぜひ聞いて頂きたいと思います。またレコードやCDなども売っていると思いますけれども、なかなかきれいな曲。オペラの実際の舞台では、地の底から沸き上がってくるような、そういう鳥肌が立つような感じの合唱曲でもあるわけなのですね。もう一度題名を言いますと「行けわが思いよ 黄金の翼にのって」という「ナブッコ」の第3幕の合唱曲です。

そのジュゼッペ・ヴェルディ、さきほども言いましたように26曲のオペラを書いている。それを最初から最後まで年代とか名前、私は言えません。何か本があったら読んだらわかりますけれども、それは学者におまかせすることにして、26曲のオペラの中で、皆さんがたぶん耳にしたり、またご覧になったオペラ、代表的なオペラを3つあげますと、「リゴレット」というのがありますね。それから「トルヴァトーレ」。これも有名なオペラですね。それから「トラヴィアータ」つまり「椿姫」。この3つが彼の中期の、ちょうど26曲の真ん中の辺に作られた曲として知られておりまして、彼の代表的なオペラとして世界中のいろいろな劇場でたくさん公演されているわけなのです。後2曲、最後の方の作品で、さきほどの「オテッロ」というオペラがありますね。日本でさきほど出ましたNHKのイタリアオペラ団、マリオデルモナコの「オテッロ」。今もはっきりと覚えております。本当にすばらしい公演だったのですが、その「オテッロ」と、それから一番最後の「ファルスタッフ」。この2曲、合わせてさきほどの中期の3曲、これが私は26曲の中でも大変成功した、大変価値のある、見る価値のある、ヴェルディのオペラの特徴を大変表した作品ではないかなと思っております。



ここで今あげましたヴェルディのオペラの中の「リゴレット」ともう1曲「アイーダ」というオペラもありますが、この「アイーダ」、それから「トラヴィアータ」。その曲をこれからCDで聴いて頂きたいと思います。まず1曲目はご存知の「リゴレット」ですね。今日お持ちしたのは、たぶん皆さんは僕よりたくさんCDをお持ちではないかと思って、あえて古い歌手の「リゴレット」を聞いて頂きます。さきほどもお話が出ましたアルフレッド・クラウス、スペインが生んだ最高のテノール。私はクラウスを呼んで2回ほど公演をいたしました。一番最後にクラウスに会ったのは、今から3年前、ナポリのサンカルロ劇場で彼が「ウエルテル」を歌っていて、その時、ナポリのサンタルチアの海岸のすぐ角にサンタルチアというホテルがあるのですね。そのロビーで彼と彼の奥さんに会いました。それが彼の声を聞いた最後の公演だったわけなのですが、奥さんももちろんおりました。元気でした。何か月後かに電話しましたら、奥さんの容態がおかしいと。要するに脳の血管の中にばい菌か何かが入ったと、そういう病気らしいのですが、それで数か月後に奥さんが急に亡くなってしまった。

サンカルロ劇場に行って、サンタルチアのホテルで彼と話したことは、日本での公演の話だったのですね。本来だったら、一昨年の暮れに彼の引退公演をやろうという話だったのですが、彼は、いやおれはまだ引退はしないから、そういうのではなくてちゃんとしたコンサートをやりたいという返事がありまして、そんな話をしていたのですが、奥さんがそういう突然の急病で亡くなってしまうと同時に、彼も力がなくなってしまったのですね。いかに一心同体だったかと。奥さんを愛していたかということですが、別にそれまでは病気一つしない本当に元気なクラウスだったのです。真冬でもだいたい歌手たちは風邪をひいたらいけないということで、マフラーを首の回りに巻いたり、僕なんかよくマスクをさせるのですが、そして風邪をひかないように注意する。彼なんかはノーネクタイで、首を開けっ広げで、大阪から京都見物に行ってしまう。上着だけでですね。そのくらい健康で、元気な彼だったのですが、急に奥さんを亡くして、力を無くし、身体の免疫がなくなってしまったのだと思いますが、すい臓ガンになって、マドリッドで亡くなってしまったのです。


スペインを代表するテノールといいますと、プラシド・ドミンゴ、皆さんご存知ですね。本来のスペイン人ではないのですが、それからカレーラスがいます。日本のレコード店に行きますと並んでいるのはドミンゴのCDなのですね。その次がカレーラスのCD。クラウスのCDはほとんどないのです。それがスペインのバルセロナとかマドリッドへ行きますと、一番上がクラウスのCDなのです。彼のオペラの全曲版、それがばーとあるわけなのです。その次がドミンゴ。それからカレーラス。そのくらい実力的には優れた歌手です。それではアルフレッド・クラウスが昔録音した「リゴレット」のオペラの中の有名な「女心の歌」、これを知らない方はたぶんいらっしゃらないと思います。それを聴いて頂きたいと思います。


「リゴレット」


今の曲が「リゴレット」の中で歌われるマントヴァ侯爵の「女の気持ちは羽のようなも

のだ」という有名なアリアです。日本でも昔浅草オペラというのがはやっていた時代があ

ったそうですが、その時に田谷力三さんという方がこの歌でヒットしたというふうに伺っておりますが、今お聴き頂いたこの曲は3幕で歌われるテノール。マントヴァ侯爵のアリアですね。、録音が1989年4月3日、ライブです。どこでやられたかといいますと、ローマにあるフォロイタリーコというコンサートホールです。そこで特別な夕べ、なぜ特別かと言いますと、ティートスキーパという有名なテノールがいたわけなのですが、その生誕100年を祝った特別コンサートのライブの録音です。お持ちになっている方もいらっしゃると思います。一番高い声、どのくらいの高さかわかりますか。何か軽く歌っているようなのですが、さきほども言いましたように、大変な高さなのですね。ドレミファで言いますと、2点シ ナトゥラですね。出すのは大変なのです。ちなみに彼のギャラは言わないことにしておきます。


次に聴いて聞いて頂きますのは「トラヴィアータ」、椿姫の第一幕の有名なアリアで、オペラをご覧になった方は誰でも知っている歌ですね。「花から花へ」という歌です。1853年にフェニーチェ劇場で初演されたもの。アルフレッドという田舎の純朴な好青年に愛を告白されたヴィオレッタ、当時のフランスの社交界の花形だったのですね。もっと悪く言ったら娼婦みたいな女性なのですが、それが田舎の純朴な青年に恋を告白されて、自分の身の上をあざ笑いながら、自分の気持ちの揺れ動きを表現して歌っております。歌手は、全部私が呼んだ歌手ばかり持ってきてしまって申し訳ありませんが、レオンティーナ・ヴァドゥーヴァというルーマニア出身の歌手です。

ルーマニア出身でもうひとり有名な歌手がおりますが、さきほどアラーニアという名前が出ましたけども、アンジェラ・ゲオルギュとおしどり夫婦で名前が知られています。これもルーマニア出身で、ほとんどが同年代ですね。大変なライバル意識のある2人です。2人ともパリに住んでいます。ロベルト・アラーニアというのは、さきほど言いましたシシリー生まれのフランス人。お父さんがシシリー人で、移民の子アラーニアは奥さんがいたのですね。最愛の奥さんとの間に2人子供がおりました。ただその最初の奥様が病気で亡くなってしまった。その次に結婚したアラーニアの2番目の奥さん、これがアンジェラ・

ゲオルギュという有名なソプラノです。日本にも藤原オペラで2~3年前に「トラヴィア

ータ」のピンチヒッターで来て、そのすばらしい歌声を聞かせたと思いますけれども、私も2回ほどあのカップルを呼んで公演をしました。皆さんの中にいらっしゃって下さった方がいらっしゃるかもしれませんけども、場所は東京フォーラムの5000人のホールで、アンジェラ・ギオルギュとロベルト・アラーニアのデュオ・コンサートをやったのですが、2回目もあそこでやりました。そのレオンティーナ・ヴァドゥーヴァと同国のアンジェラ・ギオルギュ、なぜか仲が悪い。それを証明する1つの話がありまして、アンジェラ・ギオルギュがロベルト・アラーニアと結婚する前、ロベルトのオペラでの相手役はレオンティーナ・ヴァドゥーヴァが多かったのです。現在の所属はいずれもEMI。そこからレオンティーナ・ヴァドゥーヴァとアラーニアの「椿姫」の全曲版も出ております。そしてアラーニアが奥様を亡くして、再婚しました後アンジェラは、全部とり直して下さい、うちの旦那がヴァドゥーヴァと歌っているCDは私は嫌いです、全部とり直して下さいということで、アラーニアと今度はアンジェラの2人による「トラヴィアータ」をもう一度EMIはとり直した。そのくらいライバル意識があって、女同士の戦いというのは怖いですね。男性はそこまでいかないと思います。ホセ・クーラーという今有名なテノールとアラーニアは一般的に仲が悪いと言われておりますが、全然仲は悪くありません。ゲオルギュとアラーニアのコンサートにホセ・クーラーが東京フォーラムAに来ました。その時、彼は日本に別のコンサートで来ていたのですが、ちょうど空きの夜だったので、アラーニアのコンサートを聞きに来たわけですね。その時に楽屋で撮った写真なんかも持っておりますが、男性の場合はそこまで徹底はしないと思いますが女性はそういうことで、このヴァドゥーヴァ、今年の7月に新国立劇場で待望の「マノン」を歌いに参ります。6月14日が最終の公演と記憶しております。その後引き継ぎまして、私の方で東京と大阪で1回ずつのコンサートを計画しております。今パリでは本当に有名な、今がちょうど最高と言っていいと思いますが、レオンティーナ・ヴァドゥーヴァの歌う「トラヴィアータ」のアリア、「花から花へ」これを聴いて頂きましょう。


「トラヴィアータ」


ただ今のがレオンティーナ・ヴァドゥーヴァという、パリで大変人気のあるソプラノ、「トラヴィアータ」の「花から花へ」でした。最後のところで3点エス。ミーベモーレ、を出さなかったのが不満なのですが、ソプラノで、この手のソプラノ、「トラヴィアータ」を歌う場合3点エスを完全に人々を納得させるような声で出すということは大変難しいことだと言われています。こんなことを言うと、レコード会社の営業妨害になりますが、CDをあてにして劇場に行きますと大変がっかりします。僕もCDの録音に立ち会ったことがありますが、立ち会った時に知ったのですが続けて録音するのではなく全部止めてしまうのですね。昔はテープを切って張り合せて、本当に天才的な職人芸でレコードなんか作ったらしいのですが、今はもうコンピュータですから、本当にとんでもないことができるわけです。声楽の場合は、どうしてもあの声が出ないというテノールを、他の声を持って来てしまう、そういうこともあるというふうに伺っておりますけども、似たような声ですね。というようなことがごく当たり前にスタジオでは行われるわけなのです。またはエコーをつけたり、ちょっと音程が下がっている時も、コンピュータによって少し上げることができるわけなのですね。そういうことで、それをあてにして、ああすばらしいと思って劇場に行きますと、だいたいがっかりする方が多いわけです。

ですからCDは1つの判断の基準として聴いて頂いて、実際に劇場のアーティストの声、これが本物だというふうに考えて、その時に3点エスを完全に出したら、ブラーバと言ってあげて頂きたいと思います。日本人は無理やたらにブラヴォーが、劇場に行きますと多いです。さくらなのかどうか知りませんが、本当にいいと思った時はどんどん騒いで頂きたいと思いますが、良くない時は逆にヨーロッパでよくあるように、ブーを出して頂いて結構だと思います。

イタリアにパルマというブーの非常に厳しい劇場があります。ここの劇場は新人の登竜門として名前が知られていますが、若手がそこで成功すればどこへ行っても怖くない。それほど聴衆が難しい聴衆なのです。ヴェルディの生まれた所からすぐ近くの町なのですが、舞台というのは、歌手たちにとっては厳しい試練の場であるわけです。すばらしくないのにすばらしいという声を聞いたら、歌手の方がのぼせてしまいますから、皆さんあまりそういうことはなさらないで、本当に良かった時はブラボーと言ってあげて下さい。だめな時はブーを出して結構でございます。


脱線してしまいましたけど、次は「アイーダ」。今日お持ちしたのは、また手前味噌の今度4月にございますカルロ・ベル

ゴンツィー、若い時の「清きアイーダ」ですね。ご存知のように「アイーダ」という曲

はスエズ運河の開通記念にヴェルディが依頼されて作ったというオペラなのですが、この

オペラも、僕もあまり学術的な頭はないものですから、その誰と誰がくっついて、こうなってこうと、ものすごく複雑なのですね。アムネリスというのですか、これがエジプトの王女様なのです。その王女様が好きなのがラダメスなのです。ラダメスはアムネリスが好きではなくて、好きなのはアイーダなのです。そのアイーダはどういう人かというと、捕虜なのですね。捕虜でアムネリスの侍女をしている。本当は外から連れて来た奴隷の身分なのですが、侍女をされているわけです。それがラダメスが好きな女性なのです。こういう三角関係で、いろいろあるのですが、その一番最初、第一幕にすぐ歌われるアリア「清きアイーダ」という有名なアリアがございます。

これはテノール泣かせの曲なのですね。なぜかと言いますと、声というのは、声帯というのは温まってこないとよくならないのです。本当のテクニックをマスターした歌手たちは、後半になればなるほど声が伸びてきます。テクニックをマスターしていない歌手たちは、後半になればなるほどだめになってくるのですね。カティア・リチャレッリという、今はもうだめですけれども、ソプラノを呼んで来て公演をしたことがございます。いちばん最初に日本に連れて来た時に、横浜の神奈川県立音楽堂というところで公演をしました。それまで全国で何回かやったのですが、その時に、これは多分日本最高記録だと思います。アンコールに16曲歌いました。プログラムの曲数は12曲です。リサイタルが終わったのが10時半を回っておりました。大変な超過料金を払われたことを記憶しております。10時くらいを過ぎますと、余分にまたお金を払わなくてはいけないのです。ホール代。それはお客様には請求できませんので、こちらの方から支払うわけなのですが、もうリサイタルの最後の方は足が痛くなって、足がむくんでしまって靴を脱いで、その靴をピアノの脇において裸足で歌ったのです。どんどん声帯が充血してくるにしたがって、声帯の鳴りが良くなる。だから歌いたくなってしまう。そこにお客様がどんどん拍手をして下さるものですから、もうのってしまって、16曲歌って終わったことを覚えております。日本人ではなかなかそこまでいかないと思います。

調子の悪い時どうしたらいいか、ちょっと一杯引っかけるのですね。アルコール入れますと、声帯が充血しますから、いい声が出ます。でも最初だけです。それを繰り返しておりますと、今度は飲まないと歌えなくなってしまいます。名前は忘れましたけど、昔のテノールで、契約書の中に出演料いくら、ワインを何本と書いてあったテノールがいたそうです。要するに彼にとっては、それはもう飲まないと声帯がいうことを聞かなくて、歌えなくなってしまっているわけですね。そのくらい声帯というのは微妙なものです。

 ですから、歌をやっていた時は、私は飲めば飲むほどしゃべらなくなってしまいました。

声を出さなくなってしまうのです。今はどんどん出しますけど。どういうことかと言いま

すと、お酒を飲んでますと、声帯が充血して参りますから、つい大きな声でしゃべったり

なんかしますと、いい声が出てびんびん響く声が出るわけなのですね。それに調子を合わせていますと、今度はアルコールが抜けた時に、声帯がうまくくっつかなくなってしまうのです。息漏れのした声とか、しわがれ声とか、そういう声になってしまうわけで、本当に声を大切にする人達は、飲んだら黙ること、騒がないことです。そういう酔っ払いはおもしろくないですね。それで一回声をつぶしたことを記憶してますけども。「清きアイーダ」、歌っているのはカルロ・ベルゴンツィーです。エジプトのカイロの劇場で1871年に初演されました。スエズ運河の開通記念のオペラの第一幕の最初に歌われる、のどが温まっていない時に歌わなくてはいけないというアリアで、それも高い声、また中音の難しい所がたくさんあるわけで、テノール泣かせの歌を、ベルゴンツィーがどういうふうに歌っているか、お聴き頂きたいと思います。


「アイーダ」


このCDはアメリカでのライブ録音でした。これが不滅のテノール、20世紀の生んだ最高のベルカント歌手と言われているカルロ・ベルゴンツィーの「清きアイーダ」でした。だったわけなのですけども、他にヴェルディ歌手と言われている代表的な歌手は、マリオデルモナコ、それからソプラノではレナートテバルディ、メゾではシミオナート、それからバリトンではバスティアニーニ、があげられると思います。ヴェルディ歌手とそうではない歌手の違いはどこだとはっきり申し上げることは、まず響きが非常になったのではないかと思います。これはさきほど言いましたように、完全にディアフランマで、声を100%コントロールして、それをたゆまぬ訓練のもとに常に最高の状態で使うように努力しています。ベルゴンツィ、今年77才になりますけど、毎朝10分呼吸の練習をするそうです。ベルゴンツィの話は後ほどさせていただきますが、ベルカント唱法の特徴のひとつは声の響きの美しさ、それからもう1つは、他の作曲家にあまり見られないフレーズです

ね。息をついてからその次の息継ぎまで持っていく間のフレージングの美しさ。流れるように、むらのないように、息づかいを持っていきながら歌う、ヴェルディのオペラは歌唱は非常に難しいといわれる理由なのです。それから、下は1点ツェーの方から上は3点エスまでの幅広い音域を持っていなくてはならない。それから中音は、軽い中音ではなくて、ある程度ソプラノでもテノールでも、力強い中音の声を必要とされる、そんなところがヴェルディ歌手とその他の歌手、要するにロッシーニ歌手とかいろいろ言われておりますが、

あえて言いますとそういうところに違いがあるのではないかと思われます。


ヴェルディ歌手といわれる中で今生きている歌手、今度4月すこの77才のベルゴンツィーについてお話させて頂きたいと思いますが、完全なヴェルディ歌手と言われているのは彼くらいしか今残っておりません。ベルゴンツィーはやはりブッセートの生まれなのですね。ヴェルディの生まれたロンコーレのすぐ近くの、本物のブッセートの町の生まれでして、今年9月でちょうど77才になると思います。実は彼はバリトンでデビューしているのですね。バリトンで「フィガロの結婚」でデビューして、その3年後に「アンドレシエニエ」でテノールに変わったと、少し変わった経歴を持っているわけなのですが、ベルゴンツィーのテノールとしてのデヴューオペラ「アンドレシエニエ」が大成功して、とんとん拍子で、オペラの歌手としてのキャリアが始まったわけなのです。ある日カラヤンと一緒に仕事をする機会があったのです。スカラ座での話ですね。その時まだデビューしてから5~6年くらいのキャリアしかなかったと思いますが、ベルゴンチィーの声を聞いたカラヤンがびっくりして、「ベルゴンツイー、今度『オテッロ』一緒にやろう」と言ったそうです。その時彼は、カラヤンの申し出を「オテッロを歌うには自分の声はまだ早い」と断ったそうです。でも今の若い歌手たちですとカラヤンクラス、今だったらアバドとかムーティとかですね。そういう人たちからやろうと言われたらOKしてしまうのではないかと思いますけども、彼は断わった。いろいろなインタビューが日本でされておりますのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、77才まで歌い続けるその原因はどこにあるかというと、「断る勇気を持つこと、これが重要である」と。それから、クラウスもそうだったのですが、「自分のレパートリー以外の歌は絶対に歌ってはいけません」。この2つだと。「これが70を過ぎても歌える大きなこつなのだよ」と、そういうふうに言っております。

実は1992年サントリーホールで、カルロ・ベルゴンツィーの引退公演を企画しました。その後、今度で4回来ております。別に僕が嘘をついたわけではなくて、確かに彼は1992年5月、日本のサントリーホールから、引退公演を始めたわけです。それから世界中で引退公演をいまだにやっております。それだけお客様が要求するということだと思うのですが。彼も日本が好きですから、来たがっている。ということで、97年がそのデビュー50周年のリサイタル。98年は、今度のタイトルはどうしようかと言ったら、50周年記念リサイタルのアンコール公演ということにしようということで、そのままタイトルをつけたことを覚えております。今年はどうしようかと。今年は堂々と来れると。ヴェルディ没後100年だと。日本におけるイタリア年2001年だということで、もう全然問題なく彼は来るはずでございます。機会がございましたら、ぜひ聞いていただきたいと思います。

いかに彼がすばらしい歌手かという証明するエピソードが1つございます。スカラ座で

デビューした後、カラヤンの申し出を断ってまで自分のレパートリーをかたくなに守って、節制しながらとんとん拍子にスター街道を歩み、、ニューヨークのメトロポリタンでマリア・カラスと「ルチア」を歌います。その時に、例の有名な狂乱の場というソプラノの大変なアリアがありまして、その狂乱の場を歌い終えたカラスがそでに引き込みます。その後は今度はテノ

ールのアリアが続くわけなのですが、だいたいプリマドンナになりますと、自分の出番が済みますと、次の出番まで時間があった時は楽屋に入ってしまって、そこで休養して、コンディションを整えたりするわけですが、その時マリア・カラスはそでまでは帰って来たけども、そででずっと立ちっぱなしで、ベルゴンツィーの歌を聴いていたそうです。スタッフが楽屋に帰りませんかと聞いた時に「彼以上にこの歌を歌う歌手はいない。その歌を私は聞きたいから、ここで立って聞いているの」と答えたそうです。カラスの前にカラスなし、カラスの後ろにカラスなしと言われたマリア・カラスが、舞台のそでで狂乱の場を歌い終わって疲れ果てていながら、まだ若造だったベルゴンツィーを聞いていたというくらいの、今もそうだと思いますが、若い時はすばらしい歌手だったということの1つのエピソードだと思います。

そのベルゴンツィーは、ブッセートで生まれて、いろいろ苦労したわけなのですが、現在はミラノに住んでおりまして、ブッセートに「イ・ドゥエ・ホスカリ」というホテルがございます。今度いらっしゃったら、ちょうど市役所の左側奥の古ぼけたホテルですが、これはヴェルディのオペラの名前ですよね。「2人のホスカリ」という。その名前をつけたホテルを経営してまして、実際にはマルコという彼の息子がオーナーでやっているわけなのですが、そのホテルを使いまして、ちょうど10月から3月まで、若手の優秀なオペラ歌手の卵を教育する、若手を育成する方にも力を注いでいるわけです。アカデミア・ヴェルディアーナというプライベートなアカデミアを作っておりまして、そこから巣立った歌手の中には、有名な歌手、例えば最近ではついこの間来たスカラ座の公演で歌った若手のディッチートラというテノールがいたと思いますが、彼なんかはこのアカデミアの出身です。今回の公演は、私の方も遠慮して、彼の方も77才という年齢を考え

て、一晩全部1人でやるのはちょっとリスキーだから、後半だけ全力投球をすると。後半

は私がヴェルディのアリアを歌うと。前半はそのアカデミーの将来性のある若手をピック

アップして、ヴェルディの代表作の「トルヴァトーレ」のオペラハイライトを、自分が仕

込んだ歌手で編成してみたいという形で、前半は「トルヴァトーレ」のハイライト、テノ

ール、ソプラノ、メゾ、それからバリトン、4人によるハイライトをやりまして、後半は

彼のアリアを歌う。そういうプログラムを組んでいるわけです。



とりとめのない話を長々と致しましたが、今年はイタリアの生んだジュゼッペ・ヴェルディの没後100年という記念すべき年にあたるわけで、もしNHKかなにかでキャッチすれば見られるのですが、今出て来たブッセートのテアトロヴェルディで、スカラ座の若手メンバーによる「リゴレット」が今練習真っ最中で、それを演出しているのが、有名なゼッフレリ。そして歌手たちを教えこんでいるのが今言ったカルロ・ベルゴンツィーなのですね。この2人のコンビによって、世界衛星放送で没後百年記念イベントの企画、ヴェルディの命日に演奏されます。今ブッセートで準備されているわけなのです。現在そういうヴェルディの年で、世界中、ミラノをはじめ、ウィーンでも始まっておりますね。日本でも新国立劇場では、「リゴレット」をはじめ、「トロヴァトーレ」ですか、今やっているのは。そういうオペラが頻繁に行われ、その年にあたって、確かにヴェルディを歌う歌手というのは数は少ないので、内容的には非常に心配なのですが、記念の年でありますので、ぜひ劇場などに足を運んで、ヴェルディのオペラを堪能して頂きたいと思います。ちなみにヴェルディが亡くなったのは、1901年の1月27日、ミラノで亡くなりました。大変奇遇なのですが、同じ日に生まれた偉大な作曲家がおります。モーツァルトが1756年1月27日に生まれております。その生まれた同じ日に、ヴェルディがミラノで、もっとずっと後になりますが、亡くなっている。ということをちょっとつけ加えさせて頂いて、終わらせて頂きます。どうもありがとうございました。



報告者プロフィール

在原  勝

東京芸術大学声楽科卒業

イタリアで十三年間勉強など。

現在東京プロムジカ社長

ヴェルディゆかりのブッセートで行われるコンクール審査員







この講演内容は印刷物としても発行されています。


イタリア研究会報告書No.93

2001年9月19日発行

企画編集 イタリア研究会

発  行 スパチオ研究所・伊藤哲郎

     (目黒区青葉台4-4-5渋谷スリーサムビル8F)

事 務 局 高橋真一郎

     (横浜市青葉区さつきが丘2-48)