マラリアはローマの友達

第260回 イタリア研究会 2001-12-01

マラリアはローマの友達

報告者:国立鈴鹿病院神経内科医長・名古屋大学講師 小長谷 正明


第260回イタリア研究会(2001年12月1日 六本木・国際文化会館)

小長谷正明国立鈴鹿病院神経内科医長・名古屋大講師

「マラリアはローマの友達」


司会  第260回のイタリア研究会を始めたいと思います。今日の講師は、名古屋大学の講師で、国立鈴鹿病院の国立療養所鈴鹿の内科医長、神経内科の医長さんの小長谷正明先生です。最近、中公新書から「ローマ教皇検死録」というのを書かれまして、その他に岩波新書に2冊、神経内科という本を書かれています。それでは、よろしくお願いします。



小長谷  ただいまご紹介いただきました小長谷と申します。名前だけ聞くと、昔、電話で友達のところへいって、小長谷ですと言うと、お母さんが僕の友達に、こ何とかさんという変わった人から電話がかかってきたけど、どこの国の方かしら、とよく言われたことがあります。ちゃんと日本の名字です。私、今日本当にここにお呼びいただいて、そして、このようなところで、イタリア通の皆さん方の前でイタリアの話をさせていただくというのは、非常に光栄に思っております。ただ私自身は、留学はアメリカですし、学会でいろいろ行ったところというのも、ほとんどイタリアはなかったのですね。イギリスだとか、あるいはドイツ、あるいは中国へ講演旅行に行ったりとか、そういうふうなことをやって、イタリアに関してはあまり、この間まで縁がなかったのです。なぜこのような本を書くことになったかというと、またお話しますけれど、非常にちょっと面白いなと思って、そして何かやはりイタリアというのは魅力があって、すっと入って、たった1回ふっと行っただけで、本の構想ができて、帰ってしまったというふうな、実にそんなものなのです。本当に今年の正月休みに、まったく暇だから何かしなければいけないなと思って、手元のいろいろな本だとか、図書館へ行って書いたもので、1ヶ月たったら、出版社が出しましょうという話になっていたという、非常にラッキーな本だったなと思っているのですが。

 では早速スライドに入りたいと思います。これはこういうふうな題名で、ちょっとおこがましいのですが、僕自身は推理小説を書いたつもりではなくて、これからお話しするみたいに、バチカン、あるいはローマ教皇というふうなものを中心にして、中世ヨーロッパ、あるいはルネサンス期にかけての医学の歴史について書いてみたものです。医者がバチカンみたいなところへ行ったとき、何を感じるかというふうなことを、まず最初にお話したいと思います。

 これはちょうど私が行ったときには、2000年の8月でして、大聖年の年で、教皇様がサンピエトロ広場を説教のために回って、非常にみんな歓声をあげていたのですね。私のちょうど2メートルくらい前のところをこういう具合に通っていかれたものですから、僕もさっそく帽子を振って、ワーッと言っていたのですが、ところが前々から言われたのですが、やはり教皇様の手を見ると、震えているのです。手が非常に震えていて、それから次にまたお示ししますが、やや前かがみなのですね。それで顔の表情が少ない。これは、私は神経内科という領域の医者をやっていますが、パーキンソン病なのですね。明らかなパーキンソン病だと。そう思いまして、ずっと観察していたわけです。これちょっとかなり遠くで、望遠レンズを持っていかなかったものですから、ここの部分を大きく引き伸ばすとこうなったのですが、かなり荒い絵になりましたが、こういう独特の姿勢をされていた。この辺のところから、医者というのは時々変に凝るというか、物事にはまり込んで行くというところがありまして、じゃあそのローマ教皇というのは、歴代どういうふうな病気があって、どういう具合だったのだろうかというふうなことを、今年の正月に考えてみたわけです。

この教皇は、非常に元気なときは、今もそうですが、次から次へと新しいローマ教会の立場、いろいろな解釈というのを出されていますし、古いガリレオなんかはとんでもない奴だと言っていたのを、そうではないと。あるいは、ダーウィンの進化論に対しても、一定の見解を出すというふうな方でした。ですから、こういうお坊様であるにもかかわらず、魅惑的な女性が通ると、そちらに目が行くのだなと思って、こういうのを用意したわけです。これは確かライフか何かに出ていた絵だと思います。ライフではないですね。ライフはなくなっていますから。ともかくこういうふうな絵があります。非常にユーモラスで、今の教皇の人柄を反映しているなと思います。

 最初少し女性の話をします。ローマ教皇というのは、歴代女性はいないのですよね。全部男性ばかりです。タリバンではないですが、どうも聖書を信仰するユダヤ教、あるいはキリスト教、あるいは回教というのは、やはり女性に対して非常に厳しいなという感じを持っています。かつて伝説で、女性の教皇がいたんだという伝説があって、これが1700~800年頃までは信じられていたという話があります。いろいろな昔のことがきちんと整理されていなかった時代だと思いますが。

どういうふうな話かといいますと、だいたい西暦の800年代か900年代くらいのところなのですが、多分イギリス出身の若者がローマに来ていて、そして女性であることを隠して、学問をしていたのだそうですね。当時やはり学問するというのはお坊さんなものですから、女性ではなかなか学問がしにくい。ブルカをかぶっていたかどうかはしりませんが、そういう状況で、それで非常にこの方は、頭脳明晰で、優秀な学僧だったのだそうです。ギリシャなんかにも留学して、ますますさえていると。あまりりっぱな教養のある人だということで、教皇になってしまったわけですね。教皇にまつりあげられて、そして女性ながら教皇を務めていたのですが、やはり恋人がいまして、そしてこういうふかふかのものを着ていますから、あまり目立たないのですが、おなかが大きくなってしまった。そしてあるとき、バチカンからラレラノ宮殿か何かに行っている最中の行進か何かのときに、突然赤ちゃんを産んでしまったわけですね。そしてその次にどうなったかというのが、いろいろな説があるのですが、怒った群集に石を投げつけられて殺されたとか、あるいは天地が裂けて、血の雨が降ったとか、いろいろな話がありますが、ともかく女教皇というのは非常にタブーだというふうなことで、この方は子供を産んだことによって、命をなくしたという話があります。

これはタロットという古いトランプの前身みたいな占いみたいなのがありますね。タロットの中にもパペッサー、女教皇というカードがありまして、それがこのヨハンナです。それに関しましてはいろいろ考証学的にやって、やはりそういうふうな人はいなかったのだという話に17世紀か18世紀には決まったみたいです。ですから今の教皇表には載っていません。

面白いものがありまして、これがバチカンの博物館にある椅子で、僕が撮った写真ではなくて、これ医学論文から取ってきた写真なのですが、こういうふうな椅子があるのです。これは確か僕が行ったときも見たと思います。真ん中にこういう具合に割れているのですね。これはおまるという話もあるのですが、実はそうではないというのですね。ローマ教皇の場合は、こういうふうな椅子がなぜあるかという、教皇になったときに、即位したらまず、即位式の前に、コンクラーベで決まった教皇はここに座るのだそうです。なぜ座るかといいますと、ちょっとこれわかりにくい絵なのですが、これが決まった教皇なのです。お坊さんの1人が下のほうから手を入れています。男性であることを確認しているのですね。女教皇ではなくて、男性であることを確認している。そういうふうなことをかつてやったというふうな話があります。これも僕もバチカンのギフトショップで買ったローマ教皇についてのモノグラフの本があったのですが、それの1番最後にも、こういうふうな伝説があるというふうなことが書いてありましたから、そしてこの椅子の事も書いてありましたから、ある程度そういう話としては信憑性のある話なのかもしれません。よくはしりませんけど。ちょっとできすぎた話だなという気もしないでもありません。

実際これスペインの誰かの描いた絵なのですが、女教皇といって、女性が男性のふりをして、子供を産んでどうのというのは、本当に見破られなかったかというふうなことを、医者というのは変にこる医者がいるものですから、こういうふうな絵があると、スペインの古い絵で、ひげを生やしているのですが、ごらんのような立派なおっぱいをしていて、赤ちゃんを抱いています。こういうふうな病気によっては、一見男性なのだけど、女性の機能があって、子供を産むことができるのもあるのだというふうなことを書いた論文があったものですから、その元の絵というのを探して持ってきました。性ホルモンの異常の病気なのですけど。こういうものは本当にあったかどうか、伝説が関係あるかどうかちょっとわかりませんが、そういう話もあります。

非常に西洋の中世からついこの間まで、女性に対して厳しくて、そして特に魔女狩りというふうなことがよく行われていました。魔女について今日はあまり話しませんが、医学のほうの目からしますと、どういう人が魔女になったかというと、産婆さんみたいな人だとか、それから民間の祈祷師みたいな人がまじないの薬を出したとか、そういうことをやっていたわけですね。そういうふうな女性がよく、昔の日本で言うと、拝み屋のおばあさんみたいな人が魔女というふうなことで、迫害をされて、焼かれたりしたわけです。こういう人たちは、薬草だとか、そういうふうなことをよく知っていますし、いろいろな生薬ですね。今の日本だと漢方でいろいろ使っているような薬草だとか、そういうものを野原に行って採って、そしてあまり人には言わずに、ひそかにいろいろな薬を使って、今で言う民間医療みたいなことになりますが、治療に当たっていたわけですね。そういう人たちが何か胡散臭く見られる。それから当時の正式な医者というのは、あまり理屈ばかり言ってちっとも患者を治さずに、ろくな連中がいなかったせいもあるかもしれませんが、かえって逆に民間医療に対して厳しい態度が出てきて、余計こういう人たちが魔女としてひどい目にあったのではないかと言われています。

これはベルニーニが描いた「聖テレジアの法悦」というふうな彫刻ですが、スタンダールの本「ローマ散策」を見ますと、その中に、彼がここへ行ったら、そこの坊様が、もちろんこれは聖女なのですね。聖女なのですが、こういう風な顔というのは、非常にエクスタシーの顔ですから、こういうのを見て、案内をした坊様が、この顔を見て邪悪な心を起こすのは、それだけでいけないとか、もっともらしいことを言ったというふうなことが書いてあります。ベルニーニというのは非常にいろいろ、バチカン宮殿を最終的に完成させた人ですけれど、いろいろ面白い彫刻を作っているなと思っています。

さてそれで、これはご存知のようにミケランジェロの「天地創造」のアダムの誕生の部分です。これが神様ですね。エホバです。我々、脳みそを対象とする医者や研究者からすると、これは面白いのです。全知全能の神がまさにその脳みそと同じ格好の中にいるのです。この格好は非常に脳の格好と同じなのです。ここは脳下垂体で、何たらかんたらといろいろ言っている人もいるわけですが、非常になんと言うか、ミケランジェロがひょっとしたら脳が全知全能であるというふうなことをわかっていたのではないかなんてもっともらしいことを言っている人もいます。

「天地創造」や「最後の審判」なんかの絵のあるシスティナ礼拝堂というのは、ここは皆さんお行きになったことがあると思いますが、非常に大きい空間で、ローマカトリックの中ではまた特別の位置を持っているところですが、ここでコンクラーベが行われるわけです。コンクラーベというのは、枢機卿が互選して、次の法王を決めるところです。コンクラーベで外からロックアウトされて、この中でずっと決まるまで延々とやるという話ですが、1600何年かにここでコンクラーベをやったときに、当時枢機卿が21人か22人くらいしかいないときに、8人くらいの枢機卿があっという間に亡くなってしまったのですね。熱病で亡くなって、しかも外で待っていたそれぞれの枢機卿の従者が40人くらいやはり熱病で亡くなったということがあります。非常にコンクラーベのときに熱病が流行って、あっという間に、本来だったらくじ運がよければ当選したかもしれない人を含めて、どんどん死んでしまったということがあります。そのとき当選したのは、このウルバノス8世という方で、この方自体も発病したのですが、幸い命はとりとめたみたいです。そしてこの方はガリレオ・ガリレイの友達で、ガリレオが非常に迫害を受けたときに、どういうわけかこの偉いお坊様が、ガリレオを保護していたという話もあります。ですけれど、最終的にこの方が法王のとき、どうしても宗教裁判上の関係がありまして、ガリレオを有罪と、この法王自体がしなければならなかったというふうな皮肉な結果にもなったのですが、たぶんガリレオが火あぶりにならなかったのは、こういうふうなこの教皇のせいかもしれません。

今言ったようなコンクラーベのときに、何人も教皇が死んだり、周囲の人が死んだりというのは、その前の1600年ごろのコンクラーベでもありました。数回こういうコンクラーベのときに、ばたばたと教皇やその周辺が亡くなっていることがある。しかもそれが夏に多いというふうなことがあります。

これはダンテですね。フィレンツェのほうへ行って、やや時代がさかのぼりますが、ダンテが「神曲」を書いています。「神曲」の地獄変の中に、「ぎゃくを患う人、あっきょうをおぼゆるときせまれば、つねすでにししょくをおび、ただひかげに見るのみにても、その身ふるいわななくことあり」というふうな言葉を、大正時代の翻訳ですが、そういうふうな言葉があります。このぎゃくというふうな病気は、当時マラリアのことを言ってました。これはどういう場面かというと、ダンテが地獄の中でこういうふうな怪物の背中にへばりついているのですね。この怪物の背中にへばりつきながら、ある地獄から次の地獄へ移るときに、非常に怖かったことを、震えて怖かったということを表現する意味で、マラリアの人が寒くて恐れおののくような具合に怖かったというふうなことを、表現として使っているわけです。つまりダンテの頃は、震えて非常に怖いのは、マラリアで震えるのを例えにするくらい多かったというふうなことだと思います。

さらに次の「神曲」の場面なのですが、この辺にダンテが立っているわけですが、ここの下のほうに、地獄に落ちた人たちがうごめいているわけですね。そのときの「神曲」の中で、このときを描写するのに、「7月9月の間に、ベルリキアーナ、マレヌマ、サルディーニアの施療所よりもろもろの病、みな1つのごうに集まらば、その悩み、このところのごとくなるべし」というふうなことがかかれています。このバルリキアーナ、マレヌマ、サルディーニアというのは、私はよく知りませんが、やはりこの辺について調べられた医者がいまして、その方のお話だと、これはこの時期、古代から中世のローマの周辺にあった療養所、あるいはその患者を遺棄する所だったというふうなことを言っています。つまり、7月9月の間ですから、マラリアにもちろん限らないのですが、いろいろな疫病の患者さんを集めているような施療所のような感じで、非常に恐ろしいという、あまりいい話ではないのですが、そういうふうなことを言っています。ちなみにこれを書いたダンテ自体も、マラリアでその後亡くなっています。

マラリアというのは、古代から中世、近世までのローマには、切っても切れないものだったようです。これは聖地巡礼に行く巡礼たちの絵なのですが、こういう金持ちではない人は歩いていって、金持ちや貴族は馬で行ったそうですが、こういうヨーロッパ中からローマに行って、しかし帰るときには、かなりのパーセントが戻りつかずに、途中で死んでいるのですね。マラリアで死んだらしいです。ローマに行って、マラリアをもらう。

これはバチカンとそれからカステロサンタンジェロの古い銅版画なのですが、カステロサンタンジェロというもの自体も、なぜカステロサンタンジェロといわれるようになったかといいますと、非常に疫病が流行ったと。たぶんマラリアみたいな疫病がローマに流行りまして、そしてローマの人たちが、ローマ市内のほうからバチカンに向かってお祈りの行進をしているときに、ちょうど当時はハドリヤヌス廟だった現在のカステロサンタンジェロのところまで来たときに、天使がこの上に立って、剣を振るっているというふうな啓示があったと。それ以降、ハドリヤヌス廟を改めて、大天使城、カステロサンタンジェロというふうな言い方をするようになったという具合に言われています。


今日、私高橋さんからどういう題にしますかというふうなことを聞きまして、マラリアはローマの友達というのを1つの題にしていただきたいというふうなことを申したのですが、これはどういうふうなことかと言いますと、アルクインという、カール大帝ですね。フランク王国のカール大帝の宮廷にいた非常に偉いお坊様で、フランク王国の文部大臣兼宗教大臣みたいな方だったみたいです。これがいい絵がなかったのですが、これは中央公論の世界の歴史からとってきたのですが、こういう風な顔だったそうです。この方が若い頃、ローマに行ったのですね。ローマにいって病気をもらってきたわけです。たぶんドイツだと思いますけど、ドイツに戻ってきて、時々熱が出るわけですね。熱が出て、先ほど言ったマラリアの発作が起こる。そういうときに、アルクインが、自分に執拗に再発をくり返す熱病へ皮肉を込めて、「またローマの友達が来た」というふうな言い方をしたわけですね。当時の人からすれば、ローマに行くのはいいけれど、ローマに行って、こういうローマの友達というのを背負って帰るということがあったみたいです。

これは、皆さん方、中学校か高校の世界史の授業を思い出してもらわなければいけないのですが、古代ローマが崩壊した後、ゲルマン民族の大移動というのがございましたね。まずフン族というのがいて、このフン族は元々中国のキョウドだったのですが、このフン族というのが動き始めたことによって、いろいろ起こってくるわけです。連鎖反応的にいろいろなゲルマン民族が起こってくる。ちなみに時間がありましたら、最後に申し上げたいと思いますが、このフン族が動いたのは、今の炭疽病ですか、アンソラックス。アンソラックスが、遊牧民ですから、フン族の飼っている家畜の中で起こってきて、そして一緒に感染して、そこの今まで住んでいたところを放棄して動き始めて、それが最初の引金になって、ザーッと来たわけです。だから病気というのは非常に歴史に関係するわけです。そして、いろいろな各地のゲルマン民族が連鎖反応的に移動を始めて、バンドル族みたいにアフリカまで行ってローマを襲ったのもいますし、東西のゴート族みたいに、ローマに何度も来たのもあります。東ゴートは一時かなりいた時期もありますけれど。

しかし、古代ローマが崩壊した後、イタリアがその後今日に至るまで、かなり大きな力強い国というのができたことはありません。西洋の歴史というのは、イタリアに関しては古代ローマ以降、その中心になったことはない。ほとんどフランスであったり、スペインであったり、ドイツであったり、イギリスであったりしますけれど、イタリアに本拠を置く政治権力というのはできませんでした。それは何か。みんな来るのですが、この頃なんか、この辺は森しかないわけですね。だからローマは非常に明るくていいのですが、来るけれど、居つくことができないわけです。

どういうふうな歴史的事実があったかというと、410年に今言ったゲルマン民族の1つ、西ゴート族というのがローマを攻略しています。このときアラリックというのが酋長だったらしいのですが、この酋長も南イタリアを経て、シチリアを狙っていたらしいのですが、その山中で、どうもマラリアらしい熱病を発病して死亡している。西ゴートは結局ローマに居つくことができずに、今度はスペインのほうに流れて行きます。

それから910年にオットー大帝というのが、神聖ローマ帝国になりますが、そのときに、当然ローマにこういう名前をつけたくらいですから、ローマに政治権力を打ち立てたかったのですが、やはり恒久的に打ち立てることはできなかった。それからその後ローまでマラリアにみんな苦しむわけですね。

1077年にカノッサの屈辱というのがあって、このときの、これは教皇権とそれから皇帝が非常に争った事件なのですが、最終的にハインリッヒ4世というのが、グレゴリウス7世に勝つのですが、この人自体もだけどローマに何度も来るのですが、とうとうローマを落とすことはできなかった。春まではいいのですが、夏になるとやはりローマから撤退せざるを得なくなるのですね。

さらにサッコデロマーノのときも、最終的にドイツ、スペインの傭兵部隊がローマから撤退するというのも、そういうふうな同じような一連のマラリアとの関係だったということです。

これカノッサの屈辱ですね。今お話しました、これがハインリッヒ7世ですけれど、居つくことができませんでした。

これはローマの攻略で、いろいろな本にも出ている絵ですからご存知だと思いますが、こういう傭兵部隊がローマに突入して、すでに統制が取れなくなっているものですから、片端からローマを荒らしまわったわけですね。そして、いろいろ略奪や暴虐の限りを尽くしたのですが、夏になると元気がなくなってしまう。5月に入ったのですが、夏はもうだめになって、11月にはもう傭兵の数が激減して戻っていったということがあります。

これも同じローマの攻略の絵です。

ではどういうふうな方が実際そのマラリア、あるいは熱病で死亡したかというふうなことを、この2000年期について、いろいろな本に出たものを拾い上げてみました。約20人います。ここに赤で書いたのは、はっきりとマラリアと書かれた方で、それ以外の方は熱病だとか、マラリアらしいというふうな人を上げました。かなり世界史的に有名な人としては、今言ったグレゴリウス7世ですね。カノッサの屈辱で勝った方です。それからインノケンチウス3世。これは教皇庁が、教皇の権力が一番強い時期で、第4回の十字軍をやって人ですが、我は教皇なり、皇帝なりというふうな、非常に強い言い方をした方なのですが、この方もそのマラリアみたいです。それからアレクサンデル6世。レオ10世なんていう人もいます。これも次にお話します。それから、ローマを非常に、今のローマのようにきれいなローマにしたシクトゥス5世という方がみえるのですが、この方もマラリアだそうです。

非常に短い間に亡くなったローマ教皇というのもかなりいるのです。ウルバノス7世なんていう方は、コンクラーベで当選したその日にマラリアを発症して、12日後に死んでいます。それから1048年のダマサス2世という方も、在23日でマラリアで死亡されているそうです。

これはアレクサンデル6世という人で、チューザレ・ボルジアやルクレチア・ボルジアの父だそうです。非常に教皇庁が乱れて、亡くなったのですが、この方が一応高熱で亡くなったのですが、毒死したのではないかという話もあります。

これはバチカン宮殿のボルジアの間にある聖カテリナの何とかという絵のところにある、今ピントレットという人の描いた絵ですが、これがルクレチア・ボルジアといわれている絵です。いろいろな話、ルクレチア・ボルジアという名前は、僕はアガサ・クリスティの推理小説で実は初めて覚えたのですが、その中でボルジアの毒というのがありまして、ボルジア家が、要するにアレクサンデル6世がこのルクレチアを使って、いろいろカンターラという毒を飲ませて、人をたくさん殺したのだというふうなこと、あるいはそういうふうな言い伝えがあって、そこにこのルクレチアというのが毒薬使いだというふうな話が出ているわけです。もちろん塩野七生さんなんかの本を見ると、そんなことはないというふうな、もっと可憐な人だったと書いてありますから、実像は違うのだと思いますけど。アレクサンドル6世がどういうふうな話で服毒したことになったかという話しですと、ある枢機卿の別荘に、アレクサンドル6世が行って、そこのところで誰かを、同じ枢機卿の誰かに毒葡萄酒を飲ませて、死なそうとしたわけですね。そこにアレクサンデル6世と息子のチェーザレ・ボルジアがいて、そして、ターゲットの枢機卿ともう1人くらいがいて、それで祝宴を始めたのです。ところがどうもつがれるワインの順番が間違えて、アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジアに毒ワインが回ってきて、それを飲んで死んだというふうな言い伝えがありまして、これもスタンダールの本に出ていました。ちなみに塩野七生さんの本によりますと、そんなことはなかっただろうと書いてありますが。真偽のほどはわかりません。そういうふうなうわさも、ずっとささやかれているような不審死だったみたいです。ともかく非常に健康だった人が、突然熱を出して、親子で熱を出して、しかもいわくつきの。それがあっという間に1週間くらいで、親は死んで、片方はもう権力を転げ落ちるというふうなことになったものですから、異様な死に方として記憶されています。

ちなみにここにいる人は、ターバン巻いています。オスマントルコの当時のサルタンの弟で、サルタンと争って、サルタンになりそこなって、ローマに亡命していた人みたいです。身代金をトルコのほうからバチカンに出して、そしてこの人はローマ法王の宮廷で悠々自適で暮らしていたみたいです。

アレクサンデル6世というのは非常にそういう具合で、毒殺も好きですし、それから非常に贅沢で、まさに金を湯水のように使ったわけです。また政治権力を振るうのも好きだった人みたいですから、こういうふうな風刺画が残っているわけです。誰がどう見ても怪物ですね。これはここに絵を踏むパーパと書いてありますけれど、われは教皇なりと書いてあって、アレクサンデル6世の風刺画だといわれています。非常に評判が悪い。いろいろとヨーロッパ各地から巡礼がローマに来て、わーすごいと言って見るのですが、非常に退廃している感じものですから、お坊さんを40年くらいやって教皇になったわけですが、子供が何人も何人もいるわけです。お坊さんが子供を作るというのは、ローマカトリックだと変な感じがするわけですが、そういう具合だったものですから、ローマ教皇に対する評価というのが、ヨーロッパ一円で下がってきて、次の宗教改革へとつながっていくわけです。

ちなみにそのころの教皇ですね。これがユリウス2世です。ユリウス2世というのはミケランジェロのパトロンで、ミケランジェロに「天地創造」を描かせた人です。非常に剣を持った教皇といわれるくらいで、戦争の好きな人だったのですが、この人も熱病で死んでいます。

それからこれはラファエロですね。ラファエロのパトロンはレオ10世で、この人はメディチ家出身の方です。これはフィレンツェにある絵ですけれど、ラファエロが描いたレオ10世の絵です。

このレオ10世も変な死に方だといわれています。暗殺も試みられたことがあります。その暗殺はどういうふうな暗殺かというと、この人は痔だったのですね。その痔に軟膏、今でもそういう治療をするわけですが、軟膏をすりこむのですが、レオ10世のアンチの人が、外科医を抱きこみまして、そしてその治療のときに、おしりに毒をすり込む。それで暗殺しようとしたわけですね。それがばれまして、そのお医者さんはもちろん殺されましたし、陰謀者も、一番ひどいのは殺されまして、残りの連中は身代金に莫大な金を払って、助かったという話です。この方も突然発熱して、体中が青黒く膨れて亡くなったそうです。


ちょっとイギリスに飛んで面白い話があるのですが、イギリスで清教徒革命というのがありましたよね。クロムウェルというのが、カトリックの王様の首を断頭台でちょん切って、政治権力を握ったのですが、そのクロムウェルはマラリアで死んでいるのですね。なぜマラリアで死んだかというと、キナの皮を、クロムウェルの侍医が調合しようとしたら、イエズス会の薬を飲むわけにはいかない。私はアンチカトリックだといって、そしてキナを飲むのをやめたら、本当に死んでしまったというふうな話があります。あまりかたくなになるものではないなと思っています。

ちなみにイタリアとマラリアの最後の話になりますが、第2次大戦中のイタリアというのが、またこのマラリア撲滅の歴史で1つ上がってきます。どういうことがあったかといいますと、1943年の7月に、イギリス軍がシチリアに、ナチスドイツに対する反抗で上陸しました。このときにやはりイギリス軍の中にマラリアが発生したのですが、6361人発生したのだそうですが、亡くなったのは13人だけでした。これが病気の原因として撤退することにはならなかったわけです。これは何かというと、すでに治療法が、もちろんキナもありますし、それから後にクロロキンといって、非常にスタンダードの薬になるのですが、そういうのも開発中であったりして、1つはマラリアに対する治療法というのが確立しつつあったこと。

それからもう1つ、蚊ですね。DDTという薬が、今はもうほとんど使いませんが、私が小学校のころだと、同級生の女の子なんか、しょっちゅう頭に白い粉をかけられて、あれしらみとりですね。そういうふうな害虫を退治するのに、DDTというのはアメリカ軍が主導となって開発しまして、そしてローマ周辺でDDTをたくさん組織的に撒いて、蚊の発生をおさえたわけですね。そしてマラリアをイタリアで最初に蚊を退治することによって、マラリアをコントロールというふうなことを始めたと。ですから、アメリカ軍、あるいはイギリス軍が、イタリアに侵攻していったわけですが、かつてのゲルマン民族だとか、神聖ローマ帝国の皇帝たちの軍隊のように、マラリアで兵隊が病気になってやられて撤退しなければいけないという状況にはならなかったわけです。隠してイタリアは解放される具合になっていったわけです。

さて、話は別の病気の話になります。病気の話ばかりで申し訳ございませんが、ちょっとこういうふうな中休みに、美しい女性の彫刻を見るのは非常にいいと思いますが、ご存知のように、ミケランジェロのピエタです。これは24歳のときの作品だそうですね。非常にびっくりするのですが。これもバチカンにあります。マリア様がキリストに比べて非常に若いというふうなことが問題、論争によくなるのだそうですが、僕、ミケランジェロの伝記をろくに知らないときにこれを見たのですが、そのときに僕はミケランジェロというのは早めに母親を亡くしたのではないかなということを思ったのです。後で見たら、やはりかなり、6歳くらいのときに母親を亡くしているのですが、私も6歳のときに母親を亡くしたのですが、やはりそういうふうなときに母親を亡くすと、いつまでも自分の母親というのは、若くて美しいというふうなイメージが頭の中に僕は固定されるのではないかなという気がします。ですからこれを見ると、24歳でこれを作ったのだったら、やはりミケランジェロが非常に自分の母親、頭の中に、心の中にある母親というのを、マリア様の顔に映したのではないかなという具合に、直感的に思いました。

このピエタというふうなモチーフですね。このマリア様がキリストを抱いて、嘆いている。これは非常に嘆きの絵なのです。このピエタとか、あるいはいろいろ嘆くような絵というのは、絵にしろ、あるいは彫刻にしろ、これが15世紀に非常に流行っているのです。ピエタを描いたのはミケランジェロだけではなくて、ドイツのほうにもありますし、イタリア中、同じモチーフのものはたくさんありますし、ベネチアに行けば、それなりにいろいろなベネチア学派の同じモチーフの絵があります。

これは何かというと、非常にやはり15世紀というのは、皆さんの心が鎮魂のムードだったのですね。非常に亡くなった人に対する、あるいは死に対する恐れだとか、あるいは心を静かに瞑想に浸りたいような感じがあって、そのためにピエタというふうなモチーフが出たのだそうです。

この間、これは今年の夏なのですが、私はベネチアへ行って来たのですが、ベネチアのスーベニアショップを見ていたら、こういうふうないろいろなカーニバルの仮面の中に、こんな仮面があったのです。鳥みたいな顔。ベネチアでバードウォッチングしたわけですけれど、このバードウォッチングがどういうふうなことかといいますと、さらにそこのスーベニアショップに入りまして、絵葉書を見ますと、こういうふうな絵葉書が売っていたわけですね。いろいろなほかのアルクインだとか、たくさんのカーニバルの衣装の中に、こういうふうな絵がありました。これは先ほどのこの仮面をつけた絵なのです。ここ少し下消えてますが、ペストの医者というふうに書いてあります。そういうふうなコスチュームなのですね。これが今日のベネチアのカーニバルで使われることのあるもののようです。

これが実は私の先ほどの本の中にも書いておいたのですが、こういうふうな古文書があるのですね。これは1600年ごろの、ドイツのニュルンベルグの絵なのですが、今のとまったく同じですね。基本的なことに。つまりペストを見る昔の医者というのは、みんなこういう格好がスタンダードだったみたいです。1つにはこういう全身をこういう具合に覆うというのは、これはこれで感染症に対する対策としてはリーズナブルなのですが、ペストというのは肺ペストというのがありまして、咳をして、その咳の中の痰だとか、血痰などが飛んできてうつって、人から人へというふうな感染経路があるものですから、だからこういう感じで徹底的に覆うというのは、これはこれなりに理にかなっています。

それからもう1つはそういう病人から見つめられると病気がうつるという迷信があったみたいで、顔なんか全部覆ってしまったみたいですね。それとここの部分ですね。非常に先ほどから鳥の顔みたいなのは。これは何になっていたかというと、どうもここのところに香草だとかハーブだとかを詰めたみたいです。そういうふうないい匂いのものがばい菌よけになるという話だったみたいです。

それを現在のまともな医学的な解釈をするとどうなるかといいますと、ハーブだとかそういうものの中に、最近だとお茶の中なんかでもカテキンというものがあったりとか言われていますが、そういうふうなものというのは確かに抗菌作用があります。殺菌とまで言うかはわかりませんが、ともかく細菌に対する効果というのはあります。それとこれだけ詰め物が、たぶん乾燥したものでしょうけど、してあれば、これはやはりフィルターになりますね。マスク代わりになるから、それなりに意味のある格好だったのだろうなと思います。これはベネチアやニュルンベルグだけではなくて、同じ格好の絵というのはロンドンにもありますし、それからパリにもあります。いろいろなところ古文書に同じ格好が出ています。ヨーロッパ中かなり広まっていた姿だったみたいです。つまりそれだけ広がったというのは、それなりの、ペストの患者を診なければいけない医者に対して、うつりにくいという格好だったのだなという気はしているのですが。その辺についてきちんとした考察は読んだことがないのでわかりませんが、そういう姿です。

非常にペストというのは、今もその目で見るとヨーロッパ中あちこちの町にいろいろなモニュメントだとか、傷跡を残しています。これは行かれた方もいると思いますが、ウィーンのグラーベにあるペストの塔というやつですね。それから、ハンガリーのブダペストのペストの丘にもペストの塔というのがあります。本当はペシュートにあるペストで、同じではないのですが、あります。それから、ドイツ語圏にはかなりこういうペストの塔というのは多いという話ですし、パリにもペストに関するものがあるみたいです。

これはそういうものの1つで、死の舞踏というふうなモチーフの絵がたくさんヨーロッパ中にあるみたいです。こういう死神が、王様であろうが、教皇であろうが、あるいは庶民であろうが、関係なしに襲ってきて、そして突然死神がきて連れ去っていくと。ですから今栄華の極みにあっても、死を忘れるな。メメントモリというふうな言葉が叫ばれていたわけです。これは神様でしょうけど、死に行く人だとか、どくろだとか、こういうふうな何かの児童書にあった絵なのですが、死を意識した美術品というのはかなり残されています。

これはブリューゲルの「死の勝利」ですね。非常に大きい絵で、みんなこれ骸骨の集団なのですね。骸骨の集団が押しかけてきている。この辺全部骸骨の集団で、これがどんどんどんどんこういう具合に、今楽しくやっている人たちのところにも、ワーッと押し寄せてきて、それに向かって抵抗しようとしても、死の集団というものには、人の抵抗というものもむなしいのだというふうなことをいっている絵のようです。

なぜこんな絵が15世紀に流行ったかといいますと、やはりペストの流行があったわけです。その辺の話をこれからしたいと思います。また時間がありましたら、炭疽病の話もしようかと思いますが、細菌戦ということが非常に、ニューヨークでいろいろなことが起こったりで、今話題になっていますので、かつてどういうふうな細菌戦があったかという話をします。

1330年くらいに、どうも中央アジアである蒙古人が、こういうふうな野鼠みたいなやつの巣に入り込んだみたいです。ペストというのはもちろんこういうふうなばい菌なのですが、こういうふうな、今もアメリカなんかそうですが、ジリスだとかシマリスなんかの盛っている病気なのです。ペスト菌というのは。こういうやつにノミがたかってまして、こういう動物というのは、ペストに対して、あるいはそういうものにたかっているノミ自体も、ペストに対して抵抗性があるものですから、動物たちの間の風土病みたいになっているけれども、動物が全部死ぬほどにはならないわけですね。ですからこういう動物の中には、ペスト菌を持っていても、全然発症しない種類の動物がいるわけです。そこにもうこの兵隊か何かが入り込んで、それが実は最初のペスト大流行でして、中国のほうに1330年代にペストの大流行が起こっております。その辺の話は詳しいことはよく知らないのですが、大流行が起こっています。

それから当時は蒙古がユーラシア大陸を席巻した時代で巣から、今北条時宗というのをやっていますが、ああいう時代ですから、それなりのグローバリゼーションがあったわけですね。グローバリゼーションというのは何かというと、東西の交通というのが非常にしやすくなって、東のものが西のほうに来やすいわけです。これは物流だけではなくて、人も来ますけれど、病気も来るわけです。


1346年、クリミア半島のところにあるカーハという町にまず最初の問題が起こってきました。何が起こったかといいますと、この辺はイタリアのジェノバの植民市だったのですね。当然この周りはキプチャックハン国かイルハン国か忘れましたが、そういうふうな蒙古の国です。仲がよくなくて、しょっちゅう戦争になっています。ところがこの辺は例のグローバリゼーションで、病気がもうこの辺まで来ていたわけですね。このカーハに対して蒙古軍が攻めて、恒常戦をやりました。ところがここで病気が来たわけですね。そして攻めていた蒙古軍は、大量の兵隊がペストで死んでしまいました。ですからもう攻めることができなくて、撤退せざるを得なかったわけです。何をやったかというと、ここに書いてあるみたいに、首切り、おそらく死体そのものもそうだったのでしょうけど、この災難を異教徒にといって、ジハードだというわけですね。この災難を異教徒にやるというビンラディンみたいなことを言いまして、こういう自分たちの軍の中で死んだ兵隊の頭だとか死体なんかを、カタパルトという投石器ですね、城攻めのときに使うばねを使った武器で、カーハの城内に放り込んだわけです。これはペストで死んだ人ですから、ペスト菌がたかっている死体を、カーハの城内に弾の変わりに投げ入れたわけです。何が起こったかというと、今度はカーハの市内で、蒙古軍は引き上げたのですが、中で今度人がペストになって死んでいったわけです。これがヨーロッパ社会に最初にペストが入ってきた、最初にというか、1347年から起こる黒死病の発端です。

そしてそのジェノバの人たちは、そこで何をしたかと言うと、船で本国に逃げるわけです根。そしてシチリアのメッシナに行きます。メッシナに来て、そうすると当然港に入るわけですね。ところがメッシナの人は最初歓迎したわけですが、たくさん荷物のようなものを持ってきて。ところが3日たつと、今度メッシナに病気が起こったわけですね。あれよあれよという間にメッシナの住民の4分の1だとか3分の1だとかという人が死んでしまったと。で、追放される。今度どこへ行ったかというと、ジェノバに行くのですが、ジェノバも受け入れない。マルセイユに行って、ここまでわかっているのですが、ここから先は行方はわかっていないそうです。ともかくカーハからここにきて、マルセイユに行くわけですね。この辺が地続きではなくて、1346年で、小アジアは地続きで来ているのでしょうけど、47年はこういうふうなぽんぽんと飛び地で来ているわけです。これはジェノバの船がこういう具合に逃げていった跡をフロートすることができるわけです。そしてその辺がフォーカスとなって、あっという間に黒死病といわれるペストがヨーロッパ一円に流行していたわけです。

もちろんジネズミとかそういうのは、ペストとそんなにかからないのですが、われわれの文明世界に一緒にいるネズミというのは、クマネズミとドブネズミがいるのですが、当時はクマネズミが主でした。ドブネズミはあまりいませんでした。というかまだ人間世界には入っていなかったと思います。クマネズミというネズミがいまして、このクマネズミにケオプスンネズミノミというふうなノミがたかります。これがペスト菌を持ちます。ところがこのクマネズミというのは、ペスト菌にかかるとこのネズミも死ぬのです。このネズミが死ぬと何が起こるかというと、ネズミにたかっているノミがネズミから逃げます。ネズミから逃げたノミがどうするかというと、そこにいた他の動物にかかります。犬にかかります、猫にかかります、人間にかかります。犬、猫、人間、馬もみんなペストに対して抵抗力がないものですから、病気になって、かなりのパーセントが死んだわけです。で、ネズミも死にます。皆様方の中にはかつてアルベール・カミュの「ペスト」という小説をお読みになった方もいると思いますが、あれの中の最初に、最近ネズミの死体が多いというふうなことが、冒頭に。カミュがモデルとしたアルジェリアのある町の中でペストが流行ったとき、最初に起こった異変は、ネズミの死体だったということですね。そういう具合に、やはり動物と虫とばい菌と人間というふうな関係で、まず最初に人間に入ってきたわけです。

これはボッカチオというやはりフィレンツェ出身の詩人です。彼が「デカメロネ」というふうな物語を書いています。この物自体はいろいろ楽しい本らしいのですが、読んだことありませんが、その中で彼がデカメロネの最初に始まった物語として、なぜこんな本を書くようになったかというあれは、1348年に黒死病がフィレンツェの町に流行ったと。そしていろいろな人がかかった。かかると最初にリンパ腺がはれて、そして黒くなって死ぬ。あるいは別の人は、リンパ腺ははれないのだけど、肺の症状を出して、そして血を吐いて死ぬ。というふうな疫病が、2つのタイプがあるけれど、あっという間に流行ってきて、1日に何百人も死んで、フィレンツェ市民の3分の1だとか4分の1打とかが死んだということを、その「デカメロネ」の最初に書いてあります。非常にたくさんの死体があって、そのためにみんな、金持ちなんかはフィレンツェの町を捨てて郊外に逃げていったのだということを言っています。「デカメロネ」自体は、そういうふうなフィレンツェから逃げていって、どこか引きこもった別荘で、住人の人たちが毎日いろいろな話をしたというふうな、かなりいろいろ色っぽい話が多いみたいですが、そういうふうな仕立てになっています。

ボッカチオのこのときに書いたいろいろな症状というのは、非常に的確にペストの症状を表わしていると言われています。そして的確な病気の分類をしていると。今日の目で見ても、十分読むに耐える内容だと言われています。

そういうのが流行りまして、そうするとヨーロッパ一円にものすごい勢いで死人がどんどんどんどん出てきました。一説によると、ヨーロッパの総人口の3分の1くらいが死んだのではないかと言われています。当時の教皇のクレメンス6世が調べさせたのでは、黒死病が1351年に過ぎ去った後のローマ教会の持っている統計では、4600何万人かが死んだというふうなことを言っています。当時ヨーロッパには1億人くらいしか人がいなかっただろうといわれていますから、相当の数の人が亡くなったと思われます。今日のその辺をやっている学者の話だと、2500万だとか1900万だとかそういうことを言っていますが、どちらにしても大変な数です。そういうものが流行ってきたときに、ある町ではほとんど人口の9割くらいが亡くなったとか、あるいは修道院が最近全然音沙汰がないなと思って、行って誰かが開けてみたら、修道院の中で100人くらいがまとめて死んでいたとか、そういうふうな悲劇があちこちに、記録にもすでに残されないような悲劇があちこちにあったみたいです。

これは十字架なんかも立てている暇がなくなったか、片端から穴を掘って、どんどん死体を投げ入れたわけですね。せめておしるしにということで、鉛の小さい十字架を作って、その亡くなった人の上にどんどん置いていって埋めたと、その名残みたいです。そういうことまでやってもらえたら、まだ御の字だったのかもしれないのですが。もっとひどい話もあったみたいです。

これはペトラルカというやはり同じくフィレンツェ出身の詩人で、当時のアヴィニョンにあったクレメンス6世の教皇宮殿に仕えていた詩人です。彼はわれわれ医者にとっては非常に耳が痛いのですが、医者はペストの大流行に際して、何の役にも立たなかったと。日ごろ医者というのは威張っているだけで、ちっとも役に立たない、こんな連中はとんでもない連中だということを言っています。本当に耳が痛いですけれども、僕はもう少しはまともだと思っていますけれど。なぜそのペトラルカというのがそんなに医者のことを言うかというのは、事実それはそうだったのでしょうけれど、この人の初恋の人でラウラという人がいるのですね。これは実はラウラではなくて、ダンテのベアトリーチェなのですが、多分同じころでラウラというのがいまして、きっと同じようにきれいな人だったと思うのですが、この人が実はペストで死んでいるのですね。ですからペトラルカは頭にきて、ラウラを助けることができなかった医者の悪口をどんどん言っているのだなと解釈しています。ちなみにボッカチオも言っているのですが、どうも若くて美しい女性はペストでよく死んだということを言っていますから、美人薄命というのは昔から言っているのだなと思います。ですけど、若くなくても死んだ人はいるような気はしますが。

では現実にどんな治療法があったかというと、確かにいろいろ残されているのを見ると、あまり効果的なものはありませんね。これは何かというと、こういう薬草みたいなものをペストの患者にシップしているとか、あるいはいろいろな植物のエキスみたいなものを飲ませるとか、そういうふうなことくらいしかなかったみたいです。実際にはれたリンパ腺を切開するとか、そういう外科的なことはそれはそれなりに意味があると思うのですが、やはりいろいろな今日残っている何百というペストのときの処方箋というのはあるみたいですが、あまり効果的なものはありません。

これはガイルショーリヤックという同じ人なのですが、残っている絵によって顔が2通りあるのですが、クレメンス6世の侍医だった人です。この人も当時の医者についての記録を出していますし、この人自身もペストにかかって、ですけど死なずにすんだ人です。ですからペストに対する免疫ができて、その後はペストについていろいろ治療に当たり、ペストについての医学的な記録というのを残しています。やはり医者は役に立たなかったと書いてあります。医者がそう言っているのですから、確かだと思います。

ですけれども彼はいくつかペストに関しての業績というのはあります。まず隔離ということをしなければいけないというふうな。これはもうしょうがないですね。伝染病の患者を隔離しなければいけないということを、組織的にやるように言っていますし、ペストの患者の解剖をして、どれがどうだったとか、そういうふうなことを言っています。

それから1347年から51年にかけて、大流行が今言ったみたいにあるのですが、それが終わって、今度10年後にまた流行が起こっているとか、そういうものの記載もしています。その辺についてはまた後ほど述べます。

当時アヴィニョンのこういうところに、アヴィニョンの教皇宮ですが、教皇はローマではなくてここに住んでいたわけです。

これはフランスなのですが、ランボル兄弟という人が児童書を作っています。ところがこの児童書は未完成なのですね。全部できる前に、1415年で、ちょっとたった後なのですが、ランボル兄弟が3人とも死んでしまった。それでできなくなったのですが、どうも熱病らしいです。この未完成の絵がまた皮肉なことに、ここに坊さんが1人倒れています。ここにも倒れています。こういう坊さんが緋色を着ていますから、ひょっとしたら枢機卿かもしれません。聖職者が行列を作っている中で、倒れていたのですね。ペストが大流行したとき、最初はアヴィニョンでもほかのところでも、やはり皆さん行列を作って、神様にこういうふうな疫病が退散するようにというふうなことを祈ったそうです。しかし祈っている最中に、歩いている人が倒れて死んでいくという具合のすさまじさだったそうです。このランボル兄弟自体も、こういう絵を描いている最中に、未完成のまま3人とも死んでいるというふうな状況でした。

どんどん人が死んでいたわけですが、同時に社会的な不安というのも起こってきます。これもご存知の方はいると思いますが、鞭打ち行者というふうなものが起こってきます。行者ですね。ですから、自分の体を鞭、キリストの像を前に出して、そして自分の体をこういう、ここ見ていただくとわかるのですが、鞭の先にいろいろ針だとかそういうのが着いているのですね。釘だとか。そういうのを体でどんどん打ちながら、体を痛めながら、行列して、悪疫退散を祈ったというふうなことが言われています。ただいろいろ問題が出てきたりして、教皇庁はこれを禁止しました。それでもやまなかったものですから、そういう鞭打ち行者のこういうふうな親玉を捕まえてきて、それを罰するのにまた鞭を打ったというふうな変な話が何かの本に出ていて、へぇと思ったことがあります。

そういうふうな不安がいろいろあって、各種の、これに限らずいろいろわけのわからない、今日の目で見るとまやかしみたいなものがいろいろ流行した、あるいは、カルトみたいなやつも非常にできたかもしれません。僕そこまでよくわかりませんが。これも一種のカルトだったと思います。

それからもう1つはポログラムですね。ユダヤ人に対する迫害というのが起こりました。当然わけのわからない病気が起こったとき、当時は細菌だとかそういうことを知りませんから、やはり誰かが毒を入れた、悪さをしたと思ったわけです。そういうときに何が狙われるかというと、ヨーロッパ社会ではユダヤ人がそういうときにターゲットになりやすい。そして、こういう感じに全部捕まえられて、火をつけて燃やされたというふうな、こういう迫害がかなりひどかったみたいです。ナチスドイツの組織的なユダヤ人のホロコーストがあったのですが、それに次ぐぐらいの、あれが一番ひどいのだそうですが、その次くらいの大迫害だったというふうなことを言っている人もいるみたいです。

ちなみに当時の教皇クレメンス6世は、ユダヤ人迫害をするなというふうな教書を出しているのですが、やはりそれは伝わらなくて、迫害があまり起こらなかったのは、南フランスの一部だけだったというふうなことで、特に北フランスやドイツはひどかったという話です。ストラスブールのあたりなどだいぶひどかったみたいです。ですけれど、ローマ教会としては、クレメンス6世がそのような教書を出していてくれたおかげで、この件に関しては、ユダヤ人に関しては、かなりポジティブにかばったのだというふうなことを今でも言える1つのあれにはなっているようです。

そういう具合で、ペストというのはあっという間にここから始まって、ワーッとヨーロッパ一円に広まって、片端から人口を減らしていったわけです。しかもその後、今度完全に広まって、もうなくなったかと思ったら、なくならずに、ヨーロッパに風土病として残ってしまったわけです。これは亡くなった人の数ではなくて、3年ごとにどういうふうな都市で起こったかという記録のあるやつの、プロットしたものです。絵が来てなくて申し訳ないのですが、ここが黒死病の今私が申した大流行のときです。10年ぐらいたったらまた起こってくるわけです。ほぼ10年くらいの間隔で起こってきて、1630年ころにバンというのが起こってきます。なぜ10年後くらいかというと、たぶん1つには10年くらいたつと、新しく生まれた子供、当然たくさん人が死ねば、その後というのはベビーブームが起こるわけですから、生き残った人は反動的に子供を作るわけです。そうするとまた10歳くらいになると、免疫を持ってない人が増えてくるものですが、そこでまた起こって、ちょっとした大流行が起こって、弱い人が死んでいく。それを10年くらい続けていくわけです。10年ごとくらいに続けていくわけです。

それから、ミラノなんかは、黒死病のときに町をロックアウトして、外から人が入ってこないようにして、黒死病は流行しなかったわけです。ところがそれがなくなったと思った10年後には、今度ミラノに大流行が起こるわけです。というのは、ミラノの人は、黒死病の流行のときにみんなかかっていないものですから、ほかの大人は免疫を持って抵抗力があるわけですけれど、ミラノの人はないものですから、そういうところが今度大流行。そういうことをやはりずっといろいろなレベルで続けながら、1700年代の初めくらいまで大流行を繰り返すという具合になっています。ちなみに、ここのところの1630年、それからここのところの流行というのは、今日我々にはいいようなモニュメントをベネチアに残してくれています。

これはカルロボルメロという人が、やはりローマ教会の枢機卿だったのですが、ピウス4世の甥で、やはりメディチ家の人みたいですが、ペストの大流行で、そこの中に自分が入り込んで、枢機卿にもかかわらず、粉骨砕身して、患者さんの面倒を診たということで、聖人に上げられています。

これはベネチアのサルーテですね。サンタマリアデッラサルーテなのですが、これは1630年の大流行の後に、サルーテという言葉自体が健康という意味ですから、大流行の後に、そういう病気からの救済というふうなことを祈って、作られた寺院です。ここの中にテッチアーノの聖母昇天か何かの非常に有名な絵があります。

それから、もう少しこの辺のところに、ジュテッカ島に、レデントーレという有名な寺院があって、これなんかはサンマルコの波止場から見ると、非常にベネチアの港風景には非常に重要な教会なのですが、そのレデントーレも1575~6年のときの大流行の後に、同じようなことで、寄進があって作られた、ペストからの解放を祈って作られた寺院です。つまりベネチアのサンマルコから見える、水路の向こうに見える寺院の中の、3つくらい大きなのがせまって見えますが、そのうちの2つはペストに関係しているお寺です。

これもベネチアなのですが、サンロックケンシンドウというのがあります。キリスト教は神様は1人しかいないものですから、八百万の神はいないのですが、その代わりいろいろな聖人を作っています。サンロック、ラテン語ではロクウスですが、そのサンロックという聖人のためのお堂ですね。ここにはこういうティントレットの絵があるのですが、非常に可憐な顔をしたマリア様の絵があって、後はものすごく重苦しい絵が会堂いっぱいにあるのですが。この間ベネチアに行ったときに、ぜひ行ってみたいなと思って行ったのです。行ったのは別に僕はティントレットのマリア様に会うためではなくて、実はこのサンロックという人に、何かわかるかなと思って行ったのです。

これがサンロックの絵なのですが、この人は1320何年ごろの人で、黒死病大流行の前にペストにかかった人なのですね。ペストにかかってここに腫れ物ができています。ペストにかかって、そして当然この人はもうだめだろうと思って、どこか森の中に捨てられたのですね。ところが死ななかったわけです。息絶え絶えになっているときに、こういう犬がパンをくわえて、これもどこかの教会にあったお供えのパンをくわえて、このサンロックのところへ行ったのだそうです。サンロックがそのパンを食べて生き返って、そして今度この方は献身的にペストの患者の看護に励んだといわれています。というのは、1回ペストにかかっていますから、今度抗体を持っていますから、免疫があるものですから、本人自身はもうペストにかからずにいられたのだと思います。ところがやはり自分の故郷に帰ってきて、ペストにかかったけれど、生き残ったといったら、ペストにかかって死なないのは変だ、お前は変なスパイではないかというふうな変な嫌疑を受けて、殺されてしまった。そういう伝説の方です。ペストにかかって、生き返っていろいろしたというふうなことで、これは奇跡の人ということで、ペストの聖人として、サンロックが言われているわけです。そのためのお堂として、サンロックケンシンドウというのができたわけです。これがベネチアにあって、どんなものかなと思って行ったのですが、先ほどのティントレットの絵ばかりで、ほとんど肝心要のサンロックについてはほとんど何も、説明書きすらなくて、絵が1枚と、それから彫刻が1つあっただけでした。イタリア語で何か書いてあったのかもしれませんが、私は読めないものですから、どうしようもなかったです。

このように病気というのは、船だとかそういうものに乗って、世界中を回るわけですね。ベネチアもそういう具合で、海洋王国だったものですから、ベネチアだとか、その周辺の都市から、今日で言う検疫の制度ですね。船が入ってきたときに、すぐに乗組員を上げずに、検疫するという制度が、黒死病の直後から打ち立てられました。ですから、治療法としては黒死病というのは、当時の医学というのは何も残してくれてないのですが、制度としての検疫だとか、伝染病の隔離だとかという制度は、このころからの西洋医学の中に根付いてきて、それが現在スタンダードな感染症に対する対応ということで、広まっています。


これはフィレンツェのボーボリ庭園のちょっと向こうにあるラ・スペコラという博物館の絵です。ここは医学科以外の方はちょっとドキッとするような話が多いものですから、詳細な絵は持ってきませんでしたけれど、こういう解剖の模型があるのですね。蝋人形で作った解剖の模型がありまして、実はこれは美しい女性のヌードの蝋人形なのですが、この次にはこのおなかを開けたらどうなっているかとか、いろいろ肺があったり心臓があったり、あるいは腸があったり、そういうものを全部のけていったらどうなるかとか、どういうふうな血管網がそこにあるかとか、あるいはリンパ節がどうなっているかとか、非常に精巧にできている模型がありました。私は医学のプロとして、次から次へと並んでいる解剖の模型を見て、わーすごいな、立派だなと思いました。ほとんどいい加減なことがないように作られて、多分これは18世紀の作品だと思うのですが、そういうふうな博物館があります。フィレンツェへ行くならぜひ行ってこいと医者の友達に言われたものですから、行ってみて感心しました。

そこの中で見た、一番最後に見たところでこういうふうな絵がありました。あまりこれも気持ちよくはないのですが、ペストの死体をどんどん置いた死体置き場の蝋人形なのですね。ここで死体を運び込んでいる筋骨隆々とした人がいるわけですね。ペストはさっき言ったように、人をどんどん殺すといっているのですが、死なない人もいるわけです。体質的にやはりペストで死なないというものもあるみたいですね。現在でもアフリカだとか、この間も10年位前にインドでありましたし、時々ペストの小規模の流行があるわけです。同じ集団の中で、ペストにやはりかからない体質の人があるみたいですね。あるいはかかっても重症化しない。これがなぜあるかということは、詳しくは僕は全部知らないのですが、1つは血液型がどうも関与しているようです。これは日本の切手で、輸血の切手なのですが、ここの部分を拡大してみます。AA,OO,BB,ABと書いてあります。これは大体日本人のABO型の血液型での比率を出しています。A型が4割、O型が3割、B型が2割、AB型が1割というふうな、大体こういう具合に言われています。ヨーロッパはどうかというと、O型がやや多いのですね。国だとか場所、ヨーロッパも広いですから様々ですが、ところによってはO型が半分以上になっているところもあります。これはドイツのラインラントファルツというところのお墓の骨を出すね、血液型の分類を見たものです。14世紀というのは黒死病の時期で、黒死病の前なのですが、このときはA型が53.9%、それからB型16.7%、O型が23.8%で、AB型が5.6%だったそうです。つまり特にO型に注目していただきたいのですが、A型が半分以上で、O型というのは4分の1弱でした。ところが16~17世紀、黒死病から約150年から200年くらいたったところを見ますと、これが増えているわけですね。30.9%。そしてA型は相対的に減っている。今日の20世紀だと同じところで、A型は37.4%で、このときより増えていると。これは何かというと、この間にどういう病気があったかということが問題とされているわけです。どうも1つはこことここまでのいろいろなことがおこっているというのは、このデータだけではなくて、ほかのデータとかそういうのを見ると、黒死病前後でO型が増えているのです。ということは、O型がどうも黒死病に対しては抵抗力があったのはないかといわれています。それから後細かいことをメモしてこなかったからあれですが、ある型では梅毒になりやすいとかなりにくいとか、いろいろあります。

話が新大陸のほうにいきますが、これはコロンブスが新大陸を見たときの絵ですが、ここで1つのグローバリゼーションが起こるわけですね。もちろん南米でのいろいろな原住民がどういう風な運命をたどったとか、そういうことはいろいろ大問題があるわけですが、事実として、現代の中南米の原アメリカ人のほとんどが、血液型はO型なのですね。ほとんど90なん%がO型だそうです。昔の残されているミイラなんかを見ると、詳しい数字は知りませんが、こんなことはなかったと。いろいろなタイプが混ざっていたと。O型ばかりということはない。ところが現在はみんなO型であると。これはどういうふうな理由かというと、多分旧大陸から来た病気で、O型の人だけが生き残っているというふうな具合になっていると。おそらく天然痘だといわれています。天然痘はわりとO型の人というのはわりに抵抗力があるのですが、天然痘がヨーロッパから入ってきて、そして瞬く間に何億人単位の犠牲者を新大陸で作って、そこでO型以外の人はどんどん死んでいく。最終的にO型だけが生き残ったと、そういうふうな人類学的な要素があったのではないかといわれています。

これは皆様方ご存知のように、日本におけるイタリア年のポスターで、このヴィーナスですね。非常にいいデザインだと思いますし、このヴィーナスというのは非常に美人だなと思います。このヴィーナスはシモネッタ・デスプッチという、アメリカを発見したアメリゴ・デスプッチの一族の女性で、絶世の美人だったそうです。彼女は1480年代くらいに亡くなっています。20代で亡くなっています。亡くなったのは何かというと肺結核なのですね。さっきの話ではないですが、ペストで生き残った人の血液型というのは、ひょっとしたらO型が増えているかもしれない。この人が生まれたのはおそらく黒死病の大流行から100年後くらいですから、ひょっとしたらO型であった可能性が強いかもしれない。それと肺結核で特に喀血を起こして死ぬ結核というのは、O型が多いみたいですね。これがどの程度正しいことかどうかというのは、僕もあたってないものですからあれですが、あまり与太話ではないような気がします。オックスフォードユニバーシティから出ている血液型と病気という本の中に書いてあることみたいです。そうするとそのシモネッタ・デスプッチも結核で喀血して死んだのだったら、ひょっとしたらO型かなという感じがしています。

血液型と病気というのは何かあるかなと、そういうことで思わないでもないのですが、10何年前に私がアメリカに留学して、家族4人で行って住んでいた時期があるのですが、風邪みたいなのがワーッと流行ってきて、僕がいた町で流行ったのですが、うちの家族で家内が風邪引いて、それから息子が風邪引いて、娘が風邪引いて、僕だけ引かなかったのですね。僕は毎日3人の食事の世話をして、それから回診して、薬をやってという、1週間くらいずっと大学の研究室にも行かずに看病したことがあるのですが、何かそのときに「何とかは風邪引かない」、あるいは「3本毛が足りないのは風邪引かない」という話で、僕だけ賢くないのかな、残りの3人は賢いのかなと思って、ずっとこの間までひがんでいたのですね。ところがこのことでちょっと勉強をこういう面でしたら、はたと納得がいったわけです。これがAB型の家内です。それからA型の息子ですね。それからB型の娘です。私はO型なのですね。どうもひょっとしたらそのときのビールスというのは、O型は抵抗力があって、残りは全部だめだったのではないかと、今はそれで納得して、やはり僕は馬鹿ではないのだと納得することにしています。やっと少し人生に自信が取り戻せてよかったなと思っているのですが。

ちなみに隣に猫がいますが、猫も血液型があるみたいですね。詳しいことはよく知りませんが。僕は犬や猫に、昔いろいろ実験やったときに、そういう動物の血液型なんて心配しなくていいからといわれて、そんなものかと思っていたのですが、細菌なんか新聞を見ていたら、ペットの血液型でなんだかんだといろいろ書いてありましたから、あるのだなとやはり思っています。たいてい人間にある病気というのは、動物にみんなあるそうですから、あっても不思議ではないと思っています。

イタリアと病気に関してどういうふうなことかというのを、ちょっと勉強したことの一部をしゃべらせていただきました。やや病気の話ばかりですから、暗い話が多かったのではないかなと思うのですが、僕がこういうふうなことに興味を持ったりとか、この前にも書いた本というのは、「20世紀の政治家とそれから病気」というふうなことで、中公新書で出させてもらったことがあるのですが、1人の医者の趣味的な考察として、病気というものが歴史にどういうふうな反映をしたか、誰かがこんな病気だった、あんな病気だったということは僕はどうでもいいと思うのです。偉い医者がこういうところに住んでいたとか、こういうところにお墓があるということを一生懸命やっている人もいるのですが、僕はそんなことは興味ないのですが、どういうふうな病気がそこに起こったことによって、その歴史がどういうふうになったかというのを考えるのは、1つの自分の趣味として、そういうことをやって、これはいいなと思っています。そういうスタンスでこういうものを勉強しました。

話はこれだけなのですが、ちょっと話しはずれますが、炭疽病ですね。アンソラックスというのが非常にマスコミで問題になりました。10月は炭疽病で非常に11月のはじめまでどうのこうのという話がありましたね。おそらく皆さん、炭疽病というのはそのとき初めて耳にされたのではないかと思います。私も昔、学生のときに勉強しましたけど、そんなもの見たこともありません、もちろん。アンソラックスというふうな病気であるということはすぐ、炭疽病と聞いて横文字のほうだけはすぐ出てきたのですが。

これはどういう病気であるかというのは、もうマスコミで出ているので説明しませんが、決して珍しい病気ではないみたいですね。結構中南米では今日でも牧畜業者だとか、あるいは革を扱っている人なんかに、年間数百人から数千人単位で起こっているみたいです。アメリカでも年に何十人か、やはり西部ではあるみたいです。なぜそんなよくありふれた病気、ありふれたといったらちょっと語弊がありますが、そういうふうなわかっている病気が問題になるかというと、これは細菌戦の関係で、特殊に加工されたやつだとか、あるいはそういうふうな胞子が伝染するからというふうなことで問題になっているわけです。

ちょうど3週間前、私の属している国立病院国立療養所総合医学会というふうな学会が仙台でありまして、当然そういう生物テロみたいなのが日本国内で起こったら、医者は対応しなければいけないわけですね。特に国立病院の医者というのは、こういうとき最初にやはり何らかの格好で対面せざるを得ないものですから、どういうふうなものであるか、どういうふうな防護体制をしているかというふうなことのシンポジウムがありました。それを聞いていたのですが、皆さん方、いろいろなものを読むと、胞子何グラムで致死量何人とか、そういうふうなことが出ているでしょう、新聞に。なぜそんなことがわかるかということですね。誰か実験したのかと。実験しなければわからないじゃないかと思うわけです。そういうふうなデータがどこから出てきたか。それもそのときに聞いたり、その後、日本医事新報という我々の業界紙で見たりなんかしてわかったのですが、実は生物兵器用の炭疽菌の大量汚染というのがかつてあったのです。

これは1970年代なのですが、起こったのは現在のスベルドルフスク、エカテリンブルクですね。旧ソ連なのです。旧ソ連のスベルドルフクスに細菌戦用の工場があったのです。そこで炭疽菌の胞子を生産していたのですね。そういう細菌だとか、あるいは無菌操作だとか、そういうふうなことをいろいろやるわけですね。ほかの雑菌が入らないように。非常に管理した区域の中でやりますし、それから空気は、常にフィルターを通して、外にそういうふうな菌が出ないようにして、しかも空気を循環させるということをやります。これはもうスタンダードのやり方なのです。そしてそういうことによって、中の菌が外に出ないようにする。それから外のものが入らないようにしてやるわけですが、どうもそのときに研究者というか、そういうものをやっている者が帰るときに、ドラフトのそういうふうなところのスイッチを切り忘れたみたいですね。そして、空気のファンだけ回っていたのです。中にその菌があったのが、それがファンで飛び散って、スベルドルフスクの町の中に炭疽菌の胞子がばら撒かれたわけです。それをばら撒いて、当然何が起こるかというと、見たこともない奇妙な病気が起こってくるわけです。ちょっと風邪ひいたと思って、そしてあっという間にすごい肺炎になって、あれよあれよという間に、医者が対処しようがない速さで、人がどんどん死んでいったわけです。何千人規模で感染して、百人くらいが死んだという話です。これは炭疽菌にかかっても、軽い人は鼻かぜくらいですんでしまうみたいですね。その場合は死なない。肺に入って、それが肺炎をおこすと、1日くらいで死ぬ。非常に僕も本で見たのですが、冷たいものです。1日で死ぬと書いてあるだけでしたから。治療法、かくかくも考えられているけれども、有効だというふうなことは言われてないとかですね。さびしいことばかり書いてありましたけれど。

そういうふうなことがありまして、そして当時のソビエト政府のKGBがスベルドルフスクに入ってきて、そして情報封鎖したわけですね。医者はこれ変な病気だからといって、しかも調べれば炭疽というのは、それは教科書見ればわかりますから。ところがこれが炭疽というふうなことを出してはいけないと。心筋梗塞で死んだことにしろ、肺炎で死んだことにしろというふうな、さまざまな死亡診断書の病名を割り当てたということが言われています。これはそのとき調べられたロシアのドクターが、WHOに入られて、現在日本で活躍されている方みたいですが、その方がおっしゃっていました。そういうふうなことがあった。

旧ソ連時代はもちろんその話は封印されていたのですが、ソビエトが崩壊して、確か僕の記憶ではそのスベルドルフスクというのは、エリツィンの出たところではないかなと思うのですが。現在のプーチン大統領は、この炭疽の話で、当然我々の間に流れるわけですが、そういうふうな情報を旧ソ連にあったということを流すことに対して、どういうふうな態度をとったかというと、これはこういうことがあって、こういうふうな具合だったと、積極的に流していいというふうなことを言っているという話です。この話はちゃんと炭疽というのはこういうふうなものだということを出さなければいけないということでやっているという話です。

これはつい3週間前に聞いてきた話です。あの事件はどういうふうな具合の決着になるかわかりませんが、その後あまりひどいことになってないようでいいなと思ってますけど。

最後はイタリアから飛んで、はなれた話ですけれども、感染症というものは、いろいろ歴史にも、あるいは現代にも、こういう具合にいろいろ政治問題からするものだというふうに思っています。以上です。



司会  ありがとうございました。質問ありますか。


質問  貴重なお話ありがとうございました。実は私はだいぶ前にローマの友達に感染しまして、布団3枚かけても、どうしてこんな力が出るのかと思うくらい震るえがきまして、キニーネも効かずに、結局はサルバルサンで抑えたというふうな経験を持っているのですが、現実に今はもう、先ほども何かクロロキシンとかそういう新しい薬ができたというふうにお聞きしましたけれども、イタリアのみならず、世界でのマラリアはどういうふうな状態というか、果たして今かかったら危険かどうかということを教えていただければと思います。


小長谷  僕はマラリアの専門家ではないのですが、いろいろな各種の薬ができているようです。世界のマラリアの現状というのは、実はあまりいい状況にないと最近言われています。1つは、熱帯の熱帯熱というふうな中で、これは非常にかかると、時には脳症を起こして死ぬことがあったりする、非常に危険なやつがいます。その熱帯熱の中に、マラリアのクロロキンだとか、そういうものに対する耐性の、要するに薬の効かない株ができてしまったのですね。耐性のマラリア原虫というのが、熱帯熱を中心にして出ているものですから、それが問題になっているようです。それが第1点です。

それから第2点で、これもグローバリゼーションなのですが、日本ではあまり言われてないようですが、ヨーロッパなんかですと、アフリカから旅客機が来るわけです。グローバリゼーションで、旅客機が来て、その旅客機の中には人間も乗ってくるのですが、蚊もくるのですね。蚊も紛れ込んで、旅客機でヨーロッパの空港へ来る。ヨーロッパの空港の周辺にマラリアが時々出るそうです。これをエアポートマラリアと言うそうです。

それともう1つはもっと恐ろしい話で、地球温暖化というふうなことが起こってますね。現実にこれは地球温暖化になっていますし、私の庭で見る蝶々なんかも、かつて自分が子供のころに、台湾の蝶々だといって博物館で見たような蝶々が、うちの庭に、名古屋の庭に飛んでいるわけですね。昔は亜熱帯の蝶々というが、どうも温帯といわれる地域にまで勢力を伸ばしている。蚊も、熱帯の蚊というのも同様に勢力を伸ばしている。ということは何かというと、蚊を媒介するハマダラカのたぐいが、やはり南から北に上がってきている。というふうなことが、グローバルな目でのマラリアに対する危機感としていわれています。マラリアの個々の治療については、僕はあまり感染症の専門ではないものですから、ちょっと詳しいことは申し訳ないのですが。


質問  今のパパがパーキンソン病だとおっしゃっていましたよね。それで何年か前の朝日新聞の夕刊のコラムで、ヒットラーと毛沢東もパーキンソン病ではないかという記事を読んだのですが、それで今の話と考えてみたときに、パーキンソン病になる気質とか、性格とか、あるいはその後におっしゃっていた血液型とか、そういうのはあるのでしょうか。


小長谷  たぶん朝日新聞のほうも僕の本を下敷きにしたのだと思いますが、よく利用されるものですから。毛沢東は一見パーキンソンだったのですが、毛沢東のじいさんの回想録というのが出まして、それを見ると緊縮性ソクサコウカ症で、パーキンソンではないのです。ヒットラーはパーキンソンでした。これはいろいろ残っているニュースフィルムを、ドイツのエレン・ギッベルスという女医さんが解析しまして、時間とともに体の向きが悪くなってくる。それから震えが、特に左手に強い震えがあるとかというふうなことを、時系列を出してやって、これはやはりパーキンソンの進行だろうと言っています。

どういう方がパーキンソンになるかというのは、これはいろいろなことをやられているのですが、僕もよくあれなのですが、性格として几帳面な人がなりやすいと言われています。それから、趣味のない人がなりやすい。それから、偏食する人がなりやすいかな。野菜がどうのこうのとか、たばこはいいのだとか。これもそんなことを僕岩波新書に、ちょっと忘れてしまったのですが、たばこはいいらしいというふうな。やはりデータはあるのです。これはそれなりのアセチルコリンがどうのこうのというふうな話があるのですが、化学的な裏づけが。そうしたら山田風太郎さんが、コラムの中でまた僕の本を取り上げてくれて、たばこの害ばかりいう本が多いのだけど、たばこはパーキンソンにいいというふうなことを書いている珍しい本だというふうな、変なお褒めをいただいて、全然著者の意図するものではなかったのですが。ちなみに私はたばこは十何年間吸っていません。

ですけれど、どういう方がパーキンソンになるかというのは、僕が見ていると、いろいろな方がなっているなというのが正直なところです。やはり何かいろいろなものはあるのでしょうが、確かに気質的には硬い方が多いですね。性格的に。


質問  炭疽菌の特効薬というのはあるのですか。


小長谷  これはあると思います。ただし、炭疽菌というのは、大体4つくらいの大きい症状というか、分類があるみたいです。1つは皮膚炭疽といって、炭疽というのはどういうふうな意味かというと、疽というのは皮膚病の意味らしいですね。炭はスミですね。ですから炭疽菌が皮膚炭疽という言葉もありましたが、皮膚に感染すると黒くなるのです。炭のように黒くなる。それで炭疽というわけです。で、これは死にません。ただしあばたになるみたいです。それから上気道炎と言って、鼻かぜみたいな具合になるみたいです。それですんでいるときは死にません。それから肺に入ると、先ほどいったみたいに、肺炎みたいなのを起こすのですが、同時にシンノウスイシュというのですが、心臓の周りに水がたまったりと蚊、肺に水がわっとなったりとか、いろいろホルモンのあれだとか、いろいろ難しい話が出てくるのですが、ともかく体のそういう風な反応が引きおこされて、肺水腫、それからシンノウスイシュとか起こって、それで死ぬということになります。これが一番ひどいわけです。それから後もう1つは、炭疽菌で汚染された動物の肉を食べたときに、これが腸の中でやはり炭疽を発症しまして、腸炭疽というのを起こして、そしてそれも同じように毒素が体内にわっと出るわけですから、同じように心臓と肺の水腫を起こして、これも死にます。

特効薬というのは、だからそういう水腫だとか何かを起こした段階で、一生懸命今アメリカは開発しているみたいですが、何か少しめどがついてきたような、この間そういう具合になったけど助けたというふうなペーパーが出ていたようですから、何かいろいろやり方がだんだんと固まってくるのではないかと思います。

それから、ともかく感染した当初に、鼻の粘膜だとか、あるいは炭疽にどうも曝露されたらしいというときに、いろいろ薬を飲むとか飲まないとか言っていますけど、これは抗生物質でいいです。通常の、何やら特効薬どうのこうのといろいろ書いてありましたが、多少そういう中で、効きの良いの悪いのというのはありはするだろうけど、そういう抗生物質でかなり炭疽菌に効くものがあります。ですから、本当にその炭疽がきたというときに、アメリカがやっているみたいに、これが効くというふうな薬を片端からその人たちに飲ませればいいのですね。そうすれば発症しませんから。そのくらいのものは、薬の名前は忘れましたけど、それでなければ絶対ならないということは多分ないだろうと思います。ですからそれは仮にそうだとしても、最初の数人の方はご不幸でしょうけど、後の人は何とか日本くらいの国と、それからきちっと行政組織と、それから医療がしっかりしている国だったら、よほどでなければ、大変なことにはならないと思います。もちろん個人個人の人の場合は、病気になって、百人のうち死ぬのは1人だといわれても、その1人にあたったらたまったものではないものですから、大変だとは思いますが。


司会  先生、非常に広い知識で、この本も大変に面白くて、私も読んで非常に面白かったのですが、ぜひとも読まれることをお勧めします。なお、中公新書もう1冊、「ヒットラーの震え、毛沢東のすり足」という本も出されていますので、これもよろしくお願いいたします。