パラーディオのヴィラをめぐる旅

第303回 イタリア研究会 2005-07-27

パラーディオのヴィラをめぐる旅

報告者:東京造形大学教授 渡辺 真弓


第303回イタリア研究会 (2005年7月27日)

「パラーディオのヴィラをめぐる旅」

講師:渡辺 真弓(東京造形大学教授)


司会  皆さん、こんばんは。イタリア研究会事務局担当の橋都と申します。本日はイタリア研究会の第303回の例会にお集まりくださいましてありがとうございます。今日は「パラーディオのヴィラをめぐる旅」という題でお話をいただきます。皆さんご存知かと思いますが、パラーディオはイタリア・ルネサンス期の大建築家で、歴史上最大の建築家は誰かというのはいろいろ議論があると思いますが、歴史上最も影響の大きな建築家といいますと、ほとんどの人がパラーディオの名前をあげると思います。それくらい大きな影響を与えた建築家です。彼はヴェネト州を中心にたくさんの建物を残しておりまして、特にヴィチェンツァに立派な建物をたくさん残しているのですが、そのほかにヴェネトの田園地帯にヴィラという貴族の館をたくさん残しております。これが非常に美しい建物が多いので、今日は渡辺真弓先生にそのヴィラをめぐる旅ということでお話をいただきたいと思います。

 渡辺先生は、現在東京造形大学の教授をしておられますが、東京大学の建築学科をご卒業され、建築史をご専門としている先生です。後ろにおいてありますけれども、ごく最近にヴィトルト・リプチンスキという方の書いた『完璧な家 パラーディオのヴィラをめぐる旅』という本を翻訳されております。これを機会にといいますか、渡辺先生に今日のご講演をお願いした次第です。メールにも送りましたが、東京の暑さを忘れて、ヴェネトの美しい田園地帯にあるヴィラをめぐる旅に、今日は皆さんと一緒に出かけたいということでお話をお願いしたいと思います。

 それでは渡辺先生、よろしくお願いいたします。


渡辺  丁寧なご紹介をありがとうございました。渡辺でございます。今日は暑いところを大勢お集まりいただきましてありがとうございます。

 私がイタリア研究会に1番最初に伺ったのは、まだ六本木の国際文化会館でやっていた頃で、武谷なおみさんがシミオナートの話をなさったときでした。今日は武谷さんも大阪から来てくださって、すごく感激しております。あと、知っている顔もいくつかありますし、イタリアがお好きな方たちということで、たぶんどこかで、映画とか、いろいろなイタリア関係の催しとかでお会いしているのではないかというふうに思います。イタリアを知ってらっしゃる方たちということで、やりやすいようなやりにくいようなという感じでおります。

 今日のことについてちょっと触れますと、前の事務局長の高橋さんに2年位前からパラーディオの話をと言われていたのですが、ちょうど翻訳している本があるから、これが完成したらやりますということで先延ばしにしておりました。その本『完璧な家:パラーディオのヴィラをめぐる旅』が先月ようやく出版にこぎつけましたので、よい機会だと思いましてお話させていただくことにいたしました。


 パラーディオの作品はものすごくたくさんありまして、どういう切り口で話したらよいかちょっと難しいのですが、今日はこの著者のリプチンスキに助けてもらって、彼が選んだ10個のヴィラ、これを中心にお話いたします。この本の副題「パラーディオのヴィラをめぐる旅」をそのまま今日の演題にしたのは、そういう経緯からです。

 今日お配りしたプリントの1枚目には、先ほども橋都先生がお話くださいましたが、パラーディオのプロフィールを一応簡単に載せてあります。それから「映画の中のパラーディオ」というインフォメーションの部分は、2年前に出たガイドブックに私が書いた「パラーディオの建築を訪ねる」という10ページくらいの文章があるのですが、そこからとりました。その原稿を渡したのが2002年の9月だったのですが、1ヶ月後の10月に白水社からこの本の翻訳の話をいただきました。編集担当の芝山さんが今日、後ろに来てくださっていますが、2年半でだいたい出来上がった計算になります。

 今日話す10個のヴィラがどこら辺にあるかをプロットした地図もこの本の後ろからとったものです。

 リプチンスキの本の中では1章ごとに1つのヴィラが、だいたい作られた年代順にとりあげられています。ヴィラ・ゴーディは処女作で当然最初に来るのですが、2番目がヴィラ・ピザーニ。ところがその次に来るはずのヴィラ・サラチェーノはちょっと特別で、リプチンスキは最後の章にもっていっています。これは現在貸し別荘になっていて、そこに滞在した記録というか体験を彼は最後の締めくくりとして第10章で語ることにしたからです。けれども私はやはり建築史をやっているものですから、年代順に行かないと気持ちが悪いのです。それでこれは3番目に話すことにして、レジメにもその順番に載せました。

それから今回レジメを作っていて気がついたのですが、リプチンスキはヴィラの設計年を1540年代、1550年代というように大雑把に分類していて、その中の順番はむしろ話の流れとしてうまく行くように変えています。私は一応定説とされている設計年を入れておきましたが、ヴィラの建設の話がもちあがってすぐに設計したものもあれば、だいぶたってから設計したものもありますでしょうし、特に1、2年の違いに意味があるというふうには考えません。ですが一応数字を入れた手前、私はこの年代順に話をしようと思います。

プリントにはそれぞれのヴィラの写真と、『建築四書』からとったパラーディオの図面を載せておきました。あとで思い出すヒントにしていただきたいのと、デザインの変化というものが読み取れますので、そういうところに注目して見ていただきたいと思います。

 それでは早速スライドに入りたいのですが、155枚用意してきました(*サイト上では10枚しか掲載できません。申し訳ありません)。あるものはゆっくり話しますし、ただお見せするだけというのもあると思います。そこら辺お許しください。


[スライド] これはヴィチェンツァにあるパラーディオの彫像ですが、19世紀の中ごろ、1859年に作られたものです。イタリアのあちこちの町にいろいろな像がありますが、19世紀の中ごろに作られた像というのはかなり多いように思います。イタリア統一の運動が盛んだった頃ですね。この頃たぶんナショナリズムというかイタリア人意識が強まって、優れたイタリア人を顕彰するという動きがあちこちでさかんに現れたためではないかと思うのですが、これも統一直前の1859年にヴィンチェンツォ・ガラッシという人が作った像です。パラーディオの出世作、バジリカ・パラディアーナの脇に立っています。

要するに、この人はヴィチェンツァの誇る建築家なのですね。ヴィチェンツァは今でもチッタ・デル・パラーディオということを売り物にしているというか、宣伝文句にしております。ですけど、彼は実は1508年にパドヴァに生まれています。

次に、建築家パラーディオが誕生するまでになくてはならなかった人物として知られているのが、このジャン・ジョルジョ・トリッシノです。ヴィチェンツァの著名な人文主義者で、彼のこの肖像画は今パリのルーヴル美術館にあります。ルーヴルのイタリア絵画の部屋にわりと無造作にかけてありますが、彼は当時、人文主義者として有名でした。パラーディオはトリッシノと1537年ごろに知りあって、パラーディオという苗字がわりの名前を彼につけてもらうことになります。アンドレア・パラーディオはもともとアンドレア・ディ・ピエトロ・ダッラ・ゴンドラといいました。「ディ・ピエトロ」というのは「ピエトロの息子」という意味です。パドヴァの粉引きピエトロの息子、「ダッラ・ゴンドラ」というのはゴンドラを使って粉にした小麦の袋かなんかを運んでいたからそういうふうにあだ名がついたと言われていますが、彼はそんなふうに自分の名に父親の名をつけて呼ばれる、正式な苗字はもたない庶民階級の出身でした。そして13歳で石工の徒弟奉公に出るのですが、16歳になる年にお父さんと二人で、お母さんは先に亡くなったようですが、ヴィチェンツァに来まして、そこで石工の工房に入って、ずっと石工として仕事をしていたのです。そして20代の終わり、1537年にトリッシノがヴィラを建てていた現場のクリコリという場所で知り合って、そして彼に大変引き立てられ、教育されることになります。トリッシノは1538年からしばらくヴィチェンツァを離れてパドヴァに長期滞在するのですが、家族的な折り合いが悪くて、息子と壮絶なけんかをしていたり、いろいろ問題があった人のようですが、しばらくパドヴァに避難していました。その時にパラーディオも一緒に伴って、パドヴァというのは大学都市で知的な街として知られているのですが、そこでいろいろな人文主義者や後に施主となるような貴族階級の人たちにパラーディオを紹介したりしました。パラーディオの最初の作品、ヴィラ・ゴーディが建てられるのもちょうどこの時期ですが、そういう意味でこのジャン・ジョルジョ・トリッシノという人はキーパーソンになります。

これはヴェネト地方の今の地図です。もちろんよくご存知だと思いますが、ヴェネツィアがここにあります。大事なことは、北の方がアルプスにつながる山岳地帯、そして、南のこの辺にポー川が流れていて、北から南に向かって低くなっている土地だということです。ヴェネツィアは共和国で、海の都として知られていますが、そのヴェネツィアが15世紀に入る頃からテッラ・フェルマという本土側に非常に関心を持ちまして、まずヴィチェンツァを1404年に支配下に入れます。それからパドヴァとヴェローナの2つの都市も1405年に支配下に入って、この一帯全部がヴェネツィア共和国の領土になります。

そして16世紀を迎えるわけですが、1508年にパドヴァで生まれたパラーディオが1524年にヴィチェンツァに移ります。そして、トリッシノからパラーディオという名前をもらって、1540年頃から本格的に設計を始めるわけです。


.処女作ヴィラ・ゴーディはヴィチェンツァの北、アルプスの麓のあたりにあります。ヴィラ・ゴーディの前に、その北隣の敷地に建っているヴィラ・ピオヴェーネの写真をお見せします。これもパラーディオの作品と言われていて、いかにもパラーディオ風なのですが、実はこのポルティコとバルケッサ(納屋)と呼ばれるこの部分は後から付けられたもので、パラーディオが関与したのは飾り気のない本体部分だけだったようです。ヴィラ・ゴーディを作っていた1540年前後にちょっとだけ関わったというふうに言われていて、あまりよくわかってないのですが、一応作品リストにはあがっています。

ヴィラ・ピオヴェーネの庭から南側に大階段がずっと降りて行きまして、その先にヴィラ・ゴーディが建っています。その向こうにアスティコ川というのが流れていて峡谷になっています。これは1977年の写真でだいぶ古いのですが、リプチンスキの記述を読みますと、平地の辺に今は工場がいっぱい建っていて、農業と工業が入り混じった地帯になっているが、でもなお素晴らしい眺めだというふうに書いてあります。そういう地域の高台の一部にヴィラ・ゴーディは建っています。


      

        1. ヴィラ・ゴーディ Villa Godi, Lonedo di Lugo, 1537-42 


これはヴィラ・ゴーディの外観ですが、何の変哲もない建物のような感じに見えます。初めての仕事で、失敗ができないということで、わりと伝統的な形を踏襲して、あまり冒険をしなかったというふうに言われています。ですから、すごく手堅くていい作品だという紹介のしかたもできますが、兵舎のようだとリプチンスキは表現しています。こんな形で西を向いて建っています。

パラーディオのヴィラはほとんどそうなのですが、三層構成です。一層目はピアン・テレーノ(地階)、台所とかサーヴィス関係の部屋が入っています。2層目はピアノ・ノビレ(主要階)ですが、ここには外階段で上っていきます。階段の幅はこれくらいしかなくて、その両側は手押し車やなんかで地階にそのまま入っていける開口部になっていて、真ん中だけを階段で使うというふうになっています。そして、階段を登ったところのロッジアには三連アーチがかかっています。その上の広い壁には紋章をつけただけという、別に何の変哲もないデザインなのですね。三層目はアッティコ(屋階)といいまして、これはあとで使い方を説明します。

これは『建築四書』に載っている図面なのですが、パラーディオは1570年に『建築四書』という本を出版します。その第2章に住宅作品をたくさん載せているのですが、ヴィラ・ゴーディの場合は設計してから約30年たってからの刊行です。それで彼は図面では直したいところを直しています。たとえば三連アーチはそのままなのですが、階段の幅は真ん中だけではなくて両側まで拡げています。そして、窓の配置も均等に変えてしまっています。けれども建物の印象はほぼこの通りです。ここは玄関廊にあたるロッジア、そして主要階の中央には広間(サーラ)があって、両側に同じ大きさの部屋が4つずつ田の字に並んでいます。ただ室内階段を設けたところだけ他よりちょっと狭くなっています。平面はほぼこのままです。

外観をもう一度見ますと、建物の真ん中が少しだけ奥に後退していて、そこに三連アーチのロッジアを設けるという作り方で、アーチの上はただ壁になっているのですが、出版した図面ではここに中央の印みたいにペディメント(三角破風)をつけています。そして、実際には窓は均等に並んではいません。部屋の中では窓側の壁の真ん中に暖炉を設けて、その両側に窓がくるという配置で、そのため隣あう部屋の窓どうしがこういうふうに吹き寄せになっています。近寄った2つの窓の間に部屋どうしを仕切る壁があるわけです。そういう現実によくある窓の配置なのですが、パラーディオは均等にしたかったらしくて、図面の方では均等に変えています。

これは地階、日本式にいえば1階、の台所ですが、上の階を支えるために非常に堅固に作る必要があるのでヴォールト天井になっています。壁も天井も真っ白に塗ってあって、モノクロームのモダンなセンスの、現代人にもすごくアピールしそうな素敵な空間です。

主要階のほうはとても壮麗なのですが、こういう絵が描いてあるところは、現代人の感覚からすると「ない方がいい」なんて思うかもしれません。でも、もちろんこっちの方がお金もかかっていて立派だと思われていたわけですが、今までこういうフレスコ画の内装に関しては、パラーディオはあまり関与しなかったのではないかというふうに言われていました。ところが、これはゼロッティという画家が描いているのですが、だまし絵で、トロンプ・ルイユといいますが、ペディメントとか柱とかそういう建築的な要素も克明に描かれています。

この構成について実はこういう図面が最近発見されました。これはいわゆるインテリア・エレベーションという室内の立面の展開図ですが、パラーディオが書いたものです。この図面に対する支払いは1550年になされていて、家ができてからあとに内装が行われたことがわかります。これは中央広間の西側の面ですが、こういうふうに壁面を構成して、この四角いところには人物とかそういうものを描きなさいということが言葉で記されています。パラーディオの書いたこうした図面の存在によって彼が壁画の構成にも関係していたということが証明されました。

これは「夏の嵐」という映画、ごらんになった方も多いと思うのですが、ヴィスコンティの大変有名な映画ですが、ヴェネツィアを舞台にしていて、1866年、もうナポリの方ではイタリア王国の統一が宣言されていて、だけどまだヴェネツィアなんかはオーストリアの支配下にあったという、そういう時代のお話です。そして、ヴェネツィア貴族の伯爵夫人がオーストリアの将校と恋仲になってしまうことから始まる悲劇です。これは今のヴィラ・ゴーディのフレスコ画の前にアリダ・ヴァリ扮する女主人公がいるところです。

これは先ほどの入口のところです。このヴィラに女主人が滞在しているときに、フランツ・マーラーという中尉がこっそりやってきて、お金をせびるのですが、その彼を階段の上で迎えたところ、そして部屋の中に招き入れたところです。

これはちょっと面白いのですが、だまし絵で描かれたこういう人物たちがあちこちに棲息していまして、ここでは従者みたいな若者が、たぶんこれは雑巾を手に持っているのだと思いますが、後ろから別の男に呼びかけられて誘われているのだと思いますが、でもまだ仕事がとか言って、ちょっと断っているような感じがあります。こういう絵がこの家のあちこちに描かれています。

こちらは中尉が一晩かくまってもらうところですが、この家の屋根裏部屋、アッティコと呼ばれる屋階の中です。穀物が収納されていて、ざっとまいてあるところに中尉が横たわっているという場面です。こういう使い方、グラナーイオといいますが、穀物倉庫として一番上の階は使うことが多かったようです。



2.

ここから2番目のヴィラ・ピザーニに移ります。ヴィラ・ピザーニはヴィチェンツァの南の方にあるのですが、これは実はヴィチェンツァの貴族ではなくて、ヴェネツィア貴族のピザーニ家のヴィラとして建てられました。これはグア川という川のほとりに建っていまして、ヴェネツィアから運河とか川とか船でさかのぼってここまで来られたのだそうです。これは19世紀の中ごろ、1847年のリトグラフですが、川からアプローチするようすが描かれています。川に面した東側が正面です。ペディメントとそれから付け柱や三連アーチなんかで構成されて、いかにも正面という感じです。


      2. ヴィラ・ピザーニ  Villa Pisani, Bagnolo di Lonigo, c.1542


この正面の前には、現在では護岸が作られてしまって、残念ながら川は見えません。この川が時々洪水を起こすというので、ここにレンガで塀を作ってしまったわけです。グア川の対岸にも堤防があって、平行して道路が走っているのですが、この橋を渡ったところに今入り口の門があります。ここは1976年に大々的に修復されるのですが、それ以前に撮られた航空写真を見ると、三連アーチの開口部が壁と窓でふさがれていたのがわかります。これは19世紀になされた改造で、内側を居室に使うためでした。

1976年の修復によって、この三連アーチの中の壁と窓が取り除かれます。それから航空写真では反対側の西側の庭はいかにも農場の庭という感じですが、今では余分なものは取り除かれて、きれいな芝生の庭になっています。この庭の三方を囲んでいたポルティコは第二次世界大戦時に破壊されたということですが、今は北側の長辺に沿って長い納屋風の建物が建っています。

ここでお見せするのは2003年9月に行ったときの写真なのですが、実はこのヴィラ・ピザーニは、私がこの本の翻訳にかかった時点で見ていなかった唯一のヴィラでした。パラーディオの設計したヴィラで現存するものはだいたい見ているのですが、これだけ最後まで見残していました。それはなぜかというと、特徴がわかりにくくて、あまり魅力的だとは写真で見るかぎりは思わなかったからです。以前に、『ルネサンスの黄昏』という本を88年に出版したのですが、前年の87年にヴィラめぐりをしたときに、この近くまで来たのに、時間の都合でこれはちょっと飛ばして近くの別のヴィラ(30年後に同じピザーニ家の同じ当主がパラーディオではなくスカモッツィに依頼したもう一つのヴィラ)を見てしまって、その後ほかを回って帰ったという記憶があります。要するにわかりにくくて、それほど魅力的だと思わなかったヴィラなのですが、今回気になって行きましたら、すごく素敵なヴィラでした。ここは内部も写真を撮らせてもらえたので、ゆっくりご覧に入れようと思います。

これが西側のファサードで、やはり三層構成です。ピアン・テレーノ(地階)、ピアノ・ノビレ(主要階)、そしてアッティコ(屋階)ですね。そしてここに特徴的な半円形の窓、浴場窓といいますが、古代ローマの浴場によく使われていたもので、ディオクレテアヌス窓ともいうのですが、パラーディオが非常に好んで使う窓です。内側にあるのは二層分の吹き抜けのある広間で、浴場窓はその広間の高窓にあたります。広間の両側は主要階と屋階に分かれて2層になっています。あとピアン・テレーノの部分はこの真ん中だけは地面のままなのです。そして両側に部屋があります。今は少し埋まってしまって半地下になっているのですが、最初にここから、現在の所有者の夫人に案内してもらいました。ここを入ると、今は中がアート・ギャラリーになっています。反対側はアーティストでもある夫人のアトリエになっています。

こちら側が北側のギャラリー、夫人はカンティーナという言葉を使っていましたが、今この庭側から数段降りる形で入ってきて、ちょっと右を見たところです。こちら側は北側なので暗くて写真を撮れなかったのですが、ここだけは西側の窓から入る光できれいです。ヴォールト天井ですごくがっしり作って上の階を支えています。レンガ造なのですが、白く塗ってあります。ここで彫刻家たちのドローイング展というのをやっていました。床はもう全くひどい状態だったのを、使われていた石が近くではもう産出していないというので、レッチェという南イタリアの方から同じようなベージュの石を取り寄せて修復したということでした。

反対側はレンガむき出しのままなのですが、案内してくれた女主人マヌエラ・ベデスキ・ボネッティさんはヴェローナの美術学校を出たアーティストで、いろいろな作品を作っているのですが、こういうかわらしい剣とか十字架とかそういうのが彼女の得意なモチーフで、また廃品を利用して、もらったプレゼントの箱とかそういうものを利用していろいろ作っているみたいで、ここをアトリエにしているということでした。ここもずっと奥まで、長い部屋なのですが、南側なので写真を撮ることができました。

入り口を入って横のコーナーには要らなくなったいすを石膏で固めて模様をつけた作品が置いてありました。

これは主要階の平面図ですが、この下の地階の中央のあたりは部屋にはなってなくて、地面のままです。地階の北側のギャラリーと、南側のアトリエを見たあと、また外に出て、川側に回ってから主要階に入りました。ファサードの中心はロッジアとかポルティコと呼ばれる開放的な空間になっていますが、この三連アーチのあいだに先ほど話したように19世紀に窓がはめられて、内側をいくつかの部屋に仕切って使っていたようです。それを1970年代後半に大修復をして、元に戻したというわけです。それは前の所有者のコンテッサ(伯爵夫人)の時だったのですが、その方が亡くなったあと、1999年から現在の所有者ボネッティさんの代になって、さらにもう1回きれいに修復したということです。

ここから広間に入ります。二層分吹き抜けの大きな広間(サーラ)です。今はアトリオとも言っているみたいで、いわゆるアトリウムのようなすごく広大な空間です。浴場窓から入る光の具合が素晴らしい大空間です。壁際にベンチが置いてありますが、それ以外には家具はなくて、右側は台所、左側は居間に入る入り口ですが、まるで外のドア周りのように立派に作ってあります。ここは半分戸外のような空間で、村人たちがやってきたり、何かいろいろ催しをしたりするのに使う特別の空間で、要するにここが領主の館であるということの証みたいなそういう空間として作られているわけです。広間はよく見ると十字形なのですが、その各腕の部分にトンネル・ヴォールトが架かっていて、中央だけ交差ヴォールトになっています。このヴォールト天井が壁とぶつかるところに半円形の窓ができますが、これが古代ローマの浴場でよく使われたことから浴場窓と呼んでいるものです。

これは北側の浴場窓ですが、これは外に面してなくて、屋根裏部屋の明かり取りになっています。中2階もあって、その上は、あそこは寝室だからといって見せてくれなかったのですが、私的な空間に使われているようです。

広間から入った大きな部屋は台所になっていて、窓と窓のあいだにある大きな暖炉で煮炊きをしていたのだと思います。台所は以前は地階にあったのですが、川が氾濫して土砂がたまってしまったらしく、18世紀から主要階の北西のこの部屋に台所が移りました。ですが現在は実際にはこの部屋と内階段の間に小さな現代式の台所が作られています。そこでメイドさんがお料理をしていたので写真を撮ろうとしたら、衝立ての陰に隠れてしまって残念でした。北側中央の部屋は現在サーラ・ダ・プランツォ(食事室)と呼ばれています。けれどパラーディオの本によれば、1つ1つの部屋に決まった用途はなくて、中央の広間はサーラですが、その両側にならんでいるのはただスタンツァ(脇部屋)と書かれています。大中小のスタンツァを並べただけで用途は別に指定されていません。現在は北側の大中小3つの脇部屋が、クチノーネ(大台所)、食事室、北の塔と呼ばれ、南側のほうは、居間、地図の部屋、音楽室(南の塔)と呼ばれています。

ここにいるのがボネッティさん。金髪で、黒いドレスを着ていて、室内でもサングラスをしているのですが、この方がずっと案内してくれました。

北側の塔は暗くて写真が撮れませんでしたが、こちらの南側の塔に当たる部屋は今音楽室と呼ばれていてピアノが置いてあります。壁が厚いので、窓のところに作り付けの腰掛があります。こういう作りは典型的です。

次の部屋はサーラ・デッレ・マッペという地図のある部屋なのですが、天井がすごく高いのがお分かりだと思います。そして、次の現在居間に使っている部屋がこっちにあります。

ここはさっきの台所とちょうど左右対称の部屋ですので、やはり2つの窓のあいだに暖炉があって、窓のところには作り付けの腰掛があります。そして暖炉の上にはマヌエラさんの平面作品があるのですが、スパーダ(剣)を描いたもの、でもクローチェ(十字架)みたいにも見えるので、窓の十字形の枠とよくあっています。

家の中の説明はこれで終わりですが、次に平面図で設計変更のあとをたどってみます。実は最終案に至るまでにパラーディオはいろいろ試行錯誤をしています。リプチンスキの本ではオリジナル図面を3枚用意して、ずっと変化をたどって説明しているのですが、ちょっと時間が長くなりますので、最後にきちんとインキングされた図面、だからこの通りに作るつもりだったと思われる図面と実際に作られた現状図とを比べてお話します。大中小の脇部屋の位置関係はほとんど同じですが、広間の大きさと形が変化しています。それはなぜかという東側の玄関にあたる部分が大きく変わったからです。ここに上から見ると同心円状に見えて外側に半分突き出た形の階段を作り、まず外側から真ん中まで登って行き、そこから反転して上に行くほど広がる円弧状の階段を登っていくようにしました。その周りに半円状に柱を並べて、ちょっとドラマチックなこういう空間を考えたのですね。ところがパラーディオは最後の土壇場になってこの案をやめて、今ある普通のロッジアに変えてしまいました。だから、ここはもう半円形にしないで、そのために奥行きが小さくなったので、T字形だった広間の長さが伸びて十字形になったというわけです。

これはブラマンテがローマのヴァチカン宮のベルヴェデーレの中庭の長軸の突き当たりに作った階段で、それはよく知られていました。これはセルリオの建築書の第3書に出てくる図面なのですが、こういうふうに上から見ると同心円で、外側から登っていくと中心に円形の小さな踊り場があって、さらに反対側に登っていくというこういう階段。パラーディオはローマでこれを見ているはずです。実はパラーディオは先ほどのトリッシノに連れられて、1541年に最初のローマ旅行をしています。そのときにもちろん古代ローマの遺跡を見て感激したはずなのですが、同時にいろいろ有名な同時代の作品も見ていて、ブラマンテが作ったベルヴェデーレの階段もその1つでした。これは1555年くらいに取り壊されてしまって、今は違う形の階段がありますけれど、でもこれはセルリオの本に載って有名になりました。これは今見ても非常に面白くて、使いたくなるという気持ちはわかるのですが、パラーディオも最初はこれを使うつもりでヴィラ・ピザーニを設計したわけです。

これは現在のボンの美術館の中央階段です。私は実際に見てないのですが、絵葉書をもらって、あっこれはブラマンテの階段を現在の建築家が現代風に実現したのだと思いました。アクセル・シュルテスという建築家の作品で、いつかボンに行くことがあったら見たいと思いますが、こういう形の階段をやはり作りたくなる気持ちはよくわかります。何か面白いもの見つけると使ってみたくなる。それは特に学生たちの図面なんかを見ると、そういうものにあふれているように思います。

パラーディオはでも最後に思いとどまりました。屋内に半円形の空間を作ることはやめたのです。半円形が使われているということでは、もう1つヴィラ・マダーマというのがありまして、ラファエロがローマの郊外に作った宏壮なヴィラですが、パラーディオはこれも見ていて、そこからもヒントをもらったというふうに言われています。

結局パラーディオはこれ以後、終生にわたって半円形の部分を屋内に取り入れるということはやりませんでした。でも1回はちゃんと図面を書いてみて、やはりこれくらいの規模のヴィラだったら、そんな大げさなことをするのはおかしいということに気がついて、やめたということです。彼はバランス感覚のあった人だということがわかります。

結局、外観としては中央に三角形のペディメントを載せて、その中に家紋をつけています。三連アーチの間の壁柱と重ね合わせた4本の付け柱は、ブニャートという団子状の石積みと粗面仕上げで目立たないようにされていますが、扁平にした神殿正面の形というのが透けて見えます。

神殿正面の形はこんなに早く出てきたのかという感じがするのですが、パラーディオがこの1年前に設計したヴィラ・ヴァルマラーラというマイナーな作品では、ペディメントの三角形の形が正面に暗示だけされています。図面では下端の両端を残す形にしていましたが、施工段階で理解されなかったらしく実現されていません。

もう1つこれはヴィラ・ガゾーティという、同じ1542年ごろのヴィラで、ヴィチェンツァのすぐ北のほうにありますが、施主は貴族ではなく投機で儲けた商人で、ちょっと派手な建物を欲しいと思ったらしくて、ここでは珍しくコンポジット式というイオニア式とコリント式を組み合わせた柱頭を使っています。でも柱は付け柱で、神殿のファサードをヘンペイにした形を貼付けています。そして三連アーチ。こういうことを同じ頃にやっていたということがわかります。

またヴィラ・ピザーニに戻って、西側のファサードの写真です(『完璧な家』の表紙に使いました)。先ほどの東側のファサードと全く違う表情で、同じ建物の表と裏とは思えないくらいです。実物を見る前にはヴィラ・ピザーニがどういう建物なのかイメージしにくかったのですが、その理由の1つは、この二面性にありました。こちらはコルティーレと呼ぶ中庭に面した側にあって元々は背面だったファサードですが、今は入り口の門を入ると最初に目に入るのがこちら側です。すっきりしていてなかなかいいのですが、最後にこの場所に戻って来た時に、案内のボネッティ夫人からどっちのファサードが好きかと聞かれました。どっちにしようかなと考えているうちに、「建築家は大体こっちの方がアルド・ロッジみたいでいいと言うのよ」というふうに答えてくれたのですが、こちら側には古典主義のモチーフというのはほとんどなくて、この浴場窓だけ。あとは窓が均等に並んでいて、非常にすっきりと規則正しくて、そういうよさで成り立っていて、確かに現代建築と言ってもおかしくないような、現代人にもアピールするような感じがあります。ところがこの建物ができてから二十数年後に『建築四書』(1570年刊)の図版を用意する時になってパラーディオは、まだこの時点(1542年)では考えついていなかったモチーフで、この後10年位して考え出す神殿風のポルティコの立体形、これを西側の正面に貼り付けています。パラーディオ自身は現代人ではないので、予算だとか何かの理由で無装飾になってしまったファサードよりは、やはり神殿風のモチーフがついていたほうがよかったと思っていたらしいということがわかります。18世紀のオッタヴィオ・ベルトッティ・スカモッツィがパラーディオの建築と図面の作品集を出していますが、そこではパラーディオが意図したものを考慮して、現実にある建物のプロポーションにあわせて神殿風ポルティコを貼り付け、また両側には柱廊付きの納屋バルケッサも付け加えて図面にしています。

これがコルティーレと呼ばれていた空間で、もともと三方にポルティコがずっとめぐっていたのですが、第2次大戦で破壊されてしまいました。ここは今芝生になっています。芝刈りしていたおにいさんが話してくれたのですが、北側に長く伸びた納屋のような建物、あの奥のほうに工房があって、リプチンスキがずっと入り込んで目撃したピアノ制作の現場があるようです。

そこで作られているのはこの絵はがきの写真のようにすごくきれいなピアノで、ボルガートさんという、ルイジさんとパオラさんという夫婦が作っています。注文に応じて、年に本当に数台しか作らないという、芸術作品のようなピアノです。


3. 

ヴィラ・ピザーニを見たあと、やはりヴィチェンツァの南にあるヴィラ・サラチェーノを見に行きました。順番としてもヴィラ・ピザーニの次くらいに作る建物です。これもコンパクトな建物なのですが、前庭を囲んで塀があり、門は西にもありますが、南側のほうが表門です。塀と門は17世紀のものです。


    

    3. ヴィラ・サラチェーノ  Villa Saraceno, Finale di Agugliaro, 1545


ヴィラ・サラチェーノは本当に農村の中心という感じで建っているのですが、ここは今ランドマーク・トラストというイギリスのトラストの所有になっていて、その団体が荒れ果てていたヴィラをきれいに修復して、94年から貸し別荘にしています。ここに滞在した経験を第10章でリプチンスキが披露しているので中を見たかったのですが、ベルを押しても、誰かいる気配はあるのですが全然出てきてくれなくて、携帯から電話をしてみても全然出てくれなくて、タクシーの運転手さんはちょっとひどいなとか言ってくれたのですが、まあいいやと思って、私は表門の柵越しに写真を撮ってきました。主屋の片側に作られたポルティコのある納屋(バルケッサ)はずっとあとになって、パラーディオのデザインを元に19世紀に付加したものです。今は全体に非常にきれいに修復されて貸し別荘になっているのですが、もちろん主屋の部分だけでは足りなくて、こちらのバルケッサの上の階も居室に使っているようです。

これは同じ建物ですが、87年のちょうど同じ頃、9月のはじめに撮った写真です。そのときに行ったときはぼろぼろで、門はもちろん閉まっていたのですが、横の方に金網の破れ目があって、そこから入ることができて、ちょっと入って撮ったものです。ひどい状態で、屋根の上に今はもうない天窓が突き出ていて、屋根裏も居室に使っていた形跡がありました。実は第2次大戦後の住宅難の頃にたくさんの人がここに住んでいて、何世帯も、多いときには30人くらいが暮らしていたという話が披露されていますが、それで35年くらいそのように使われて、そのあと80年代にはすっかり放棄された状態で、荒れ果ててしまったようです。私が行ったのは87年ですから、ちょうどそういう状態のところをのぞいたのですが、中に入って、何となく恐る恐る撮った写真です。

ロッジアの中は比較的ちゃんとしていて、見上げたところヴォールト天井にこういうフレスコ画が残っていました。ここだけ見るとちゃんとしているのですが・・・。

中に入ったらぼろぼろでした。窓も開けっぱなしだったし。この写真では手前が広間(サーラ)で、向こう側が脇部屋(スタンツァ)。これはもともとあった入り口みたいですが、もう1つのほうはあとからあけちゃったのだと思います。ほかにもあちこち加工している形跡があり、こんな風に荒れ果てていたのをどういうふうに修復したのか、2度目に行ったときに本当はそれをちょっと見たかったのですが。

上の階に行く階段の途中の窓から見たバルケッサの部分ですが、本当に荒れ果てていたことがよくわかると思います。

これはもう本当に怖くてそそくさと逃げてしまったくらいなのですが、一番上の屋階です。鳥の死骸があったのですが、窓も開けっぱなしで、屋根裏の小屋組みなんかよく見えます。元々はなかった天窓も開けてあったのが見えます。

外観に戻って、これは87年の写真。雑草だらけです。

それが今はこういうふうにきちんと整備された前庭になりました。屋根裏の天窓も取り除かれたし、壁も塗り直されてこんなにきれいになりました。きれいになったことを確かめたので満足して帰りました。


4. 

ここからヴィラ・ポイアーナですが、前2つのヴィラからさほど遠くないところ、ヴィチェンツァの南の田園地帯にあります。コンパクトでかわいらしく見える建物で、ここはこのアーチに非常に特徴があります。アーチの周りに5つの穴が開いていて、そのかわいらしさで有名なのですが、実をいえばこれはパラーディオの独創ではなくて、ブラマンテがよく他のところで使っていて、そこから応用したものです。真ん中にアーチがあって、両側に低いこういう四角い開口部がある。こういう構成をヴェネツィアン・ウィンドウというふうに言っていますが、ここではそのまわりをオクルスという5つの穴で飾っているわけです。

     

      4. ヴィラ・ポイアーナ Villa Poiana, Poiana Maggiore, c.1549


ペディメントは三角形の下端をはしょった形で、後のバロック時代にはブロークン・ペディメントというのが窓の上などによく使われるのですが、それのはしりみたいな感じのこういう形でペディメントを表しています。そして彫像をいっぱい置いて、かわいらしく構成している、そういう建物です。

裏側にも入り口周りに穴が5つあけてあります。正面の方は実はメクラなのですが、ここはちゃんと穴になっていて、光をとりこみます。中央に半円形の外階段がありますが、図面では四角くなっています。建物の背後は全く畑なのですが、内側から見ると丸い穴が5つ並ぶアーチで縁取られてなかなか面白い光景です。ここの広間には今はほとんど装飾がないのですが、他の部屋はかなりきれいなものが残っています。

ここはグロテスク装飾のとてもよいのがあって、たまたま行ったとき、監視の人もいなくて、自由に写真が撮れたものですから、そういう意味で非常に気に入ったヴィラになりました。この小部屋は小さな脇部屋、スタンツァですが、壁と天井にとてもかわいらしいグロテスク装飾が施されています。グロテスク装飾というのは16世紀の初めにラファエッロと弟子たちが当時発掘されたばかりのネロの黄金宮で見たローマ時代の装飾壁画から触発されて考案したといわれています。ネロの黄金宮ドムス・アウレアが発掘されたときに、土の中から現れた部屋はまるで洞窟グロッタみたいだった。そのグロッタみたいな部屋の壁面にすごくかわいらしいこういう装飾があって、それをグロッテスカと呼んだのですね。英語ではグロテスク。それがグロテスク装飾のもとになっています。全国的に流行して、16世紀のヴィラにはよく描かれています。

これは大きな脇部屋ですが、ここには柱や梁などもだまし絵で描かれていて、ニッチがあって、そこに彫像が置いてあるような感じに人物像が描かれています。フレスコ画も等級があるみたいで、腕のいい画家を雇って、いいお金を出して描かせる場合は人物を中心とした絵。次は風景画で、それから一番経済的に安くつくのがグロテスク装飾。これは手本があって職人仕事でできますので。そういうことを同時代の人が書いています。

これは屋階アッティコです。一番上の階ですが、外壁の内側に暖炉があります。ですから、ここは居室にも使ったかもしれないのですが、窓が床すれすれまで開けてあって、この床自体はかなり高いところにありますが、恐らくハシゴをかけてここに直接穀物や何かを運んだかもしれないということです。もう4~5世紀ってますので、その間にいろいろな使い方をしたはずで、居室に使われた時代、穀物倉庫に使われた時代、いろいろあったと思います。

建物の脇のこの入り口を入るとちょっと半地下になった地階です。その上が先ほど見た主要階、そしてその上は、こちら側とあちら側に別れていますが、今の屋階アッティコです。このようにパラーディオのヴィラは基本的に三層構成で、平面的にも中央に広間、左右に脇部屋という三列構成がとられています。

 このヴィラ・ポイアーナは1549年に設計されるのですが、この年はパラーディオにとって重要な年でした。ヴィチェンツァの中心部にあるパラッツォ・デッラ・ラジオーネと呼ばれた市庁舎の、周りのロッジアの部分が壊れかけていて、それを作り変える話がだいぶ前からあったのですが、結局パラーディオの案が受け入れられことになって、正式にヴィチェンツァの建築家としてお手当てをもらうようになるのが1549年、ヴィラ・ポイアーナを設計中のことでした。それで同じようにこのヴェネツィアン・ウィンドウと呼ばれるパターンが使われているのですが、ここではアーチの両側にオクルスをあけて、さらに全体をオーダーの柱で囲んで、こういうモチーフに仕立てています。これが成功するのですが、実はこのモチーフはセルリオの建築書に紹介されていたものをパラーディオが応用して使ったもので、イタリアではセルリアーナというふうに呼ばれています。ところが英語圏の人たちはパラーディオびいきで、これをパラディアン・モチーフと呼んでいるわけです。リプチンスキはヴィラ・ポイアーナと一緒にこのバシリカを紹介していますが、その章は「アーチの意匠」というタイトルになっています。

今バシリカの2階にもともとはパラーディオの名前がついた国際建築研究センターというのがあったのですが、1997年からここより少し北の、歩いて2~3分のところですが、パラッツォ・バルバラン・ダ・ポルトという建物に移っています。展覧会場と、それから事務局があります。

ここでちょっと地図を見ておさらいをしますと、1845年頃にミラノとヴェネツィアを結んだ鉄道が敷かれて、ヴィチェンツァでは町の南側に駅ができました。処女作のヴィラ・ゴーディは北に数十キロのこのあたり、そのすぐ北にヴィラ・ピオヴェーネがあります。ヴィラ・ヴァルマナーラとか、ガゾーティはもっとヴィチェンツァに近づいてこの辺にあります。それからさっきのヴィラ・ピザーニ、ヴィラ・サラチェーノ、ヴィラ・ポイアーナの3つはヴィチェンツァの南に広がる丘陵地帯をとりまく麓のあたりに点在しています。このように初期のヴィラはすべてヴィチェンツァの周辺に建てられました。その中でヴィラ・ピザーニだけはヴェネツィア貴族が内陸に取得した所領地のためのヴィラで例外的、他はすべてヴィチェンツァ人のためのヴィラでしたが、これ以後は事情が変わっていくことになります。


5. 

次のヴィラ・コルナーロは、ヴィチェンツァから離れて、パドヴァの北の方にあります。ヴェネツィアの名門貴族コルナーロ家のヴィラです。ピオンビーノ・デーゼという集落がありまして、今は町になっていますが、その中心のヴィア・ローマという通りに面して、前庭を介して建っています。

     

      5. ヴィラ・コルナーロ  Villa Cornaro, Piombino Dese, 1551-53


外観の特徴は、ダブルデッカーとかダブル・ポルティコと呼ばれる2階建てのポルティコがあることです。1階はイオニア式、2階はコリント式の柱廊からなる2つのポルティコが上下に重なる形です。

1613年の敷地の図には南北に細長い敷地が2つ横に並んでいて、父親が死んだときに兄弟でわけたのですが、ジョルジョ・コルナーロという弟が東側の敷地をもらいました。西側の敷地にはすでに有名な建築家サンミケーリが建てたヴィラがありました。こっちはお兄さんがもらって、弟はその隣にパラーディオに頼んで設計してもらうのですが、そのときジョルジョという人は21歳でした。彼はその少し前にパドヴァの大学生だった頃にパラーディオに会って、その縁で設計を頼んだと考えられています。この敷地は、日本人の感覚だと大きいけれど、約1エーカー(4047平米)、4千平米ほどの敷地で、アメリカの郊外住宅の大きいのが大体そのくらい、1エーカーくらいなんだそうです。4千平米くらいで、細長い。ここにコルナーロ家にふさわしい立派な家を作るというのは非常に難しかったに違いないのですが、平面的には大きくすることができない。だからパラーディオは縦に大きくしたのでした。

こういうふうにポルティコが2つ重なっていて、1個がもう9メートルくらいの高さですが、すごく大きい。この部分は建物本体から飛び出しています。

裏手の庭園側もやはりダブルデッカーなのですが、こちらは建物の中に埋まった形です。このヴィラの現在の所有者は二代続けてアメリカ人なのですが、実はこれは非常にアメリカ人には好まれる形のようです。アメリカにはイギリス経由でパラディアン・スタイルが入るのですが、特にこのダブルデッカー形式はアメリカのプランテーション・ハウスなんかによく取り入れられていると言われています。

これはその代表格で、サウスカロライナ州チャールストンというところにあるドレイトン・ホールという建物です。これは人から借りた写真なのですが、全然雰囲気は違うけれど、こういうかわいらしいポルティコのダブルデッカーになっています。

元にもどって、『建築四書』に載ったヴィラ・コルナーロの図面ですが、入り口を入ると通路の奥に広間があります。この広間の中には4本柱があって、「四本柱の間」という形。そして両側には大中小の脇部屋が左右対称に並んでいます。庭園側のポルティコは建物の内側にはまり込んでいて、その両側に楕円形の螺旋階段があります。四角い本体から両側に飛び出した翼部のうち西側のここに、現在のお台所が作られています。

これは最初に見学したときに私が撮った写真ですが、今見るとちゃんとわかってないで撮ったというのがわかります。なぜかというと、この部屋は白い壁で柱があって、現代人にもアピールする空間だなと思いながら撮ったのですが、壁にはニッチがあるのにそこをちゃんと撮ってないのですね。実はこれが大事なのですが。

こちらは市販のスライドなのですが、これだとわかります。こことこことここ。そして、反対側にも3つありますので、6個のニッチが作ってあります。そしてここにはパラーディオが死んだあとの話ですが、コルナーロ家の先祖で有名な6人を選んで、「キプロスの女王」と呼ばれたカテリーナ・コルナーロも含まれていますが、その人たちの彫像を置いています。このように立派な広間ですが、彫像も白くて、全体にモノトーンで現代的な感じもするなかなかいい部屋でした。

これは『パラーディアン・デイズ』という本の出版予告のパンフレットです。白水社の芝山さんがこの間送ってくださったものです。

ここに写っているのが今の所有者のゲーブルさん夫妻、サリーさんとご主人のカールさんです。奥さんがご主人の協力を得て書いた『パラーディアン・デイズ(パラーディオ的な日々)』という本が2005年の6月21日に出るよという宣伝パンフレットです。そして、ゲラ刷りを綴じた本を送ってくださって、そのあとアマゾンで実物が出たのを手に入れましたが、この間読み終わってすごく面白かったです。私が見学会で行った77年のときにはラッシュさんというアメリカ人の夫婦が所有者でした。その奥さんの姿は見ているのですが、その方たちが87年にこれを売りに出しまして、そのときにこのご夫妻、ジョージア州アトランタに住んでいるゲーブル夫妻が別荘を持ちたいというふうに考えていて、なぜかその広告を目にしてしまって、ちょっと見に行って、そして2年かかってここを手に入れるという話が書いてあります。そのあとここに来たら驚くことばかりですということをエッセイにしている本で、すごく面白かったのですが、秋に滞在したらすごく寒くて、電気ストーブをつけたら、各部屋いっせいに使ったのでヒューズが飛んでしまって、ちょうどそのときお風呂に入っていてどうしようと困った話とか、鎧戸を毎日開けるのが大変で、全部1人で空けると1時間くらいかかる。熟練すると30分とか40分とかでできるらしいのですが、それを手伝いに来てくれる人がいるようです。それから、89年から今まで十数年間の苦労話や楽しい話がいろいろあるのですが、屋根の葺き替えをしたり、南側のポルティコの上の階の床を支える梁が腐ってしまって、それを修理した話とか、メンテナンスが大変だったことがよくわかります。でもここで音楽会を開いたり、見学にいろいろな人が来て、あるときひときわ目立つ赤いコートを着た婦人がいて、その人がシラク夫人だったという話。その当時はパリ市長だったけれど、そのあと大統領になったシラクの奥さんがグループで来た人たちの中にいたということです。あと、このヴィラの紹介番組が作られたり、ここで映画を撮ったりとか、いろいろエピソードが満載で大変面白い本でした。ここは昔1950年代60年代には幼稚園になっていたらしいのですね。そこに通っていた人たちが中年になって今も近所にいるのですが、彼らもなつかしがって何かにつけてやってくる。コミュニティのセンターになっているということで、本当に気のいい、そしてお金持ちで、教養のあるアメリカ人という感じで、周囲に溶け込んでいるというのがよくわかります。最後に2001年の9.11のときに、翌日みんながなぐさめにきてくれたとかそういう話で終わってますが、でもこのヴィラは、自分たちを鍛えてくれる存在だと、そういうことも書いてあります。

あとがきを読んでいたら、建築的なことについてはブランコ・ミトロヴィチ氏に見てもらいましたというふうに書いてありました。それでわかったのですが、同じときにアマゾンで手に入れた本、去年出たばかりの『ラーニング・フロム・パラーディオ』という本ですが、この本の表紙にヴィラ・コルナーロが使ってあって、なぜだろうと思ったのですが、やはり著者は知り合いでした。サリー・ゲーブルさんによれば、パラーディオのヴィラとしては3つが有名で、ロトンダとフォスカリとバルバロなのですが、ベスト5だと、このコルナーロとエーモが入るだろうということです。ヴィラ・コルナーロはこれからたぶんもっと有名になるだろうなという感じがします。このミトロヴィチさんという人は、ユーゴスラビアの出身で、今ニュージーランドで教えているようです。


6.

ちょうど半分終わりました。6つ目のヴィラ・バドエールは低湿地にあります。ロヴィーゴという町から車で少し行ったところなのですが、スコルティコ川に面していて、昔はここに船着場があって、やはりヴェネツィアの貴族が船でやって来た、そういう場所でした。今は川向こうの集落が結構にぎわっています。

これは橋の反対側から撮った写真で、土手しか見えないけれど、ここに川が流れています。そして、前庭の奥にでんと建っているのですが、リプチンスキがここを訪ねたときには門にかんぬきがかかっていて、工事中だったという話が披露されています。私が行ったときはちゃんと見ることができました。ロヴィーゴからタクシーで行って、3時に開くというのを待っていたらちゃんと開きました。他には誰もいませんでしたが。


      

       6. ヴィラ・バドエール  Villa Badoer, Fratta Polesine, 1556


この建物の正面は本当に堂々としてすごく立派です。ポルティコの上にはこういうふうに三角形のペディメントがあって、独立柱で支えられています。ヴィラ.ピザーニなどでは独立柱ではなく、付け柱という壁に張り付いた形の柱でした。それが付け柱ではなく独立柱の並ぶポルティコに到達するまでに、パラーディオは10年くらいかかっているのですが、この神殿正面の形を玄関に使うことにしてから、いろいろなヴァリエーションが出てきます。順列組み合わせみたいに色々なことが可能で、まず本数がこれは6本ですけど、4本もあるし、4本のうちの両端を付け柱にするというのもあります。8本というのは住宅にはちょっと多すぎるようですが。それからイオニア式か、ドリス式か、コリント式か、そういうヴァリエーションがあります。あと、ポルティコが建物本体に埋まっているか、さっきみたいに出っ張っているか。それでもヴァリエーションができます。そういうことでいろいろできるのですが、ここのポルティコは一見して大変立派です。パラーディオはこの三角形のところは紋章を入れるのに都合がいいと書いていますが、その通りにしています。正面はこういうふうに階段が広くドラマチックで、ちょうど私が行ったとき舞台が作ってありました。夏になると野外のいろいろなイヴェントがあって、バレエとか、コンサートとかファッションショーなどの催しに使われているようです。

正面はすごく立派なのですが、それにひきかえ側面に回ると、えっと思うくらい奥行きがないのがわかります。ちょっと見せかけが派手で、バロック的といえます。本当はあまり大きくないのに、すごく大きそうに見える、そういう演出がされています。側面の壁についている縦の出っ張りは煙道です。下の階にある暖炉の煙道が見える形で付されています。普通は壁の中に埋まっているのに、これはちょっとめずらしい形です。

これは台所に使われていた地階の高窓です。ここもやはりヴォールト天井でがっしり作ってあって、上の階をささえています。

次は主要階で、フレスコ画が描かれていますが、ちょっとみすぼらしい状態です。もともとグロテスク装飾が中心で、いくらか他の絵もありますが、あまり上等ではなくて、そんなにお金はかけてない感じがあります。

これは『建築四書』に載っている図面です。パラーディオは建物を人体とのアナロジーでよく論じていているのですが、人間になぞらえると頭にあたる部分が主屋にあたります。その正面は顔ですから、ファサードは一番美しく作ります。そして、腕を広げたように人を迎えるため、両側にロッジアを設けています。そして大事だけど、あまり見せて美しくないものは、人体でも隠れるところにあるように、お台所とかサーヴィス部分は下の階に隠しておきます。そういうような感じで家は構成するということを言っています。このヴィラはそれをまさに絵に描いたようなものです。両側のカーブしたロッジアがこのヴィラの見せ所になっています。図面では後ろ正面にも階段が見えますが、これは作られませんでした。このあたりはポー川に近い低湿地で、干拓や潅漑がさかんに行われた場所です。16世紀頃に特に干拓がよく行われるのですが、やはりもともと低湿地だったところで、水が氾濫する危険もあったため、建物全体がこのように基壇の上に載った形になっています。

これはロッジアですが、本に載った図面では柱の数が11本でしたが、実際には6本に減っています。でもこれでも十分効果的です。

ロッジアの中に椅子を置いて座っていたこの管理人のおじさんが、ここでバレエをやるのだとか、バレリーナの誰それが来たとか、教えてくれたのです。

これは反対側ですが、ちょっとカーブしたロッジアというのはなかなか優雅な眺めを作り出します。

このヴィラ・バドエールは本当に驚くほど壮麗な雰囲気を持っているというふうに言われるのですが、「驚くほど」というのは、ちょっと奥行きが足りないとか、中の装飾は他のところと比べると見劣りするとか、そういうことがあるからです。施主のバドエールさんというのは割りと平凡な家系の出身で、奥さんの方が裕福な出身らしいのですね。ですから、奥さんがたぶん立派にしてくれと言ったのだろうというふうにリプチンスキは推測しています。ちぐはぐな要素が一緒にあるのはそのためだろうと。こうやってカーブするロッジアとか、正面をやたらに派手に作るというやり方は、後のバロックになると当たり前になるもので、ローマのサン・ピエトロ広場の壮麗なロッジアもそうですが、そういう手法の早い例をパラーディオが示したということがわかります。

これはポルティコの見上げですが、木造の格天井です。かつてローマ時代には石でこういう天井を作ったのですが、パラーディオはたいてい木造でやっています。絵が描いてありますが、薄れてしまって見えません。柱はイオニア式です。

ここは階段の作りがなかなかロマンチックなのですが、その途中に仮設の舞台が作ってあって、イヴェントができるようになっています。このポルティコから川向こうのフラッタ・ポレージネという集落の町並みが見えるのですが、ここに立ったら何か向こうから見られているような感じがしたという話が最後の方に出てきます。

カーブしたロッジアもアメリカ人がすごく好きなモチーフのようです。これは首都ワシントンの近くにある、初代大統領ワシントンの住んだ家マウント・ヴァーノンです。何年か前に見に行ったときの写真なのですが、建物は石造りみたいに見えますが、木造です。主屋と付属屋を結んでこういうカーブした渡り廊下があります。



ここからヴィラ・バルバロに移ります。ヴィラ・バルバロは「恋人たちの場所」という映画に出てくるのですが、これは私が学生時代に、その頃はよく二本立てで映画をやっていて、見る気もなくて見た映画でした。フェイ・ダナウェイが車で降り立って、その背後に横長の黄色いヴィラの姿が見える。まだパラーディオのことも全然知らないときに見た映画だったのですが、あとからあれはヴィラ・バルバロだったに違いないと思って、ずっと後にテレビでやったときに確かめて、やはりそうだとわかりました。マストロヤンニとフェイ・ダナウェイが出てきて、恋人たちの場所ということで、ここで知り合って、そして、いろいろローマとかコルティナ・ダンペッツォとかイタリア中を回る観光映画で、死にそうな病気にかかっているはずのフェイ・ダナウェイが本当にモデルさんみたいなすごいファッションをとっかえひっかえで、なんてひどい映画だろうと思っていました。監督はヴィットリオ・デ・シーカなのですが、最近『マストロヤンニ自伝』というのを読んだら、彼も台本を読んで、こんなひどい映画、ばかげた映画には出られないというふうに言いにいったら、でも良心的な映画だけでは撮影所はやっていけない、お金もうけのためだと言われて、しかたなく引き受けたという話で、なるほどと納得することができました。というわけで、このヴィラはこの映画に出てきます。内部も出てきますので、ご覧になると面白いかもしれません。

ヴィラの正面に向かって一直線に並木道がありますが、元々はこの道がアプローチでした。今は門の前に建物と平行に自動車道路があります。並木道が切れる所が円形になっていて、ネプチューンの像があって、噴水が湧き出ていて、馬に水をやって、そしてここでしばらく建物をしげしげと眺めてから近寄っていく、そういう構成になっています。

建物の正面に近づくと狛犬みたいに両側にいるのは、ライオンの像です。建物の前庭は演劇スペースみたいに作られています。


      

        7. ヴィラ・バルバロ  Villa Barbaro, Maser, 1557


とても華やかな建物ですが、両側にバルケッサと呼ばれる納屋の棟がのびています。アーチがずっと連続して、そして両端はパヴィリオンのように作られています。裏を見ると小さな窓がいくつも開いていますが、これは鳩小屋で、食用の鳩をここで飼っていました。そして表側はパヴィリオンのようにここだけで独立したような感じで、一階は三連アーチ、上部はペディメントを載せ、日時計のある二階の壁の両側はスクロールという曲線状の板で飾っています。

反対側も同じ構成ですが、ちょうどフィレンツェのサンタマリア・ノヴェッラみたいな教会のファサードのようにも見えます。見学者用の入り口は東側にあります。

東側のバルケッサの中に切符売り場があって、ポルティコの中をずっと進むと階段がああり、そこから主要階に上るようになっています。バルケッサの上の階は主屋の主要階とつながって居室になっています。

ここはパオロ・ヴェロネーゼがフレスコ画を描いているのですが、まるでヴェロネーゼの美術館のような感じがあります。そのことで有名で、パラーディオのヴィラの中では一番見に来る人が多い、そういうヴィラです。だまし絵がたくさんあって、人物がドアを開けているような所を描いていたりするのですが、壁のニッチとか柱などもトロンプ・ルイユ(だまし絵)で本物のように描かれ、ニッチの中には楽器を持った女性の姿があります。

かわいい女の子がドアを開けようとしている場面が描かれています。ここでは梁など実際に立体的に作られている部分と、だまし絵の部分とが共存しているのですが、写真に撮るとほとんど見分けがつかなくなります。

これは正面の窓からアプローチの方、並木道のほうを見たところです。木がかたまって見えますが、並木道です。窓にバルコニーがありますが、そのバルコニーのテスリコと同じものが両側の壁に描かれていて、風景も描かれています。外と連続しているように見えておもしろい眺めです。

これはサーラ・ディ・バッコ、バッカスの間と呼ばれている部屋です。ここにヴィラの光景、このヴィラではないけれど、典型的なヴィラの光景が描かれています。天井にこういうパーゴラ(藤棚)を描くのも16世紀頃の流行です。

これは十字形の部屋です。ここには実はもともとカステッロという建物が建っていて、その壁を利用してこのヴィラを作ったと言われています。だからちょっと幅がせまいのですが、それでもうまく利用して作っています。

中央奥には二層分吹き抜けのオリンポスの間があります。ここでも柱は描かれたもので、影までつけられています。梁にあたる部分は立体的に作られていますが、その上の2階レベルでめぐるバルコニーは描かれたもの、ねじり柱も描かれたものです。ヴィラ・バルバロはダニエレ・バルバロと、マルカントニオ・バルバロという2人の兄弟が施主なのですが、西側の翼はマルカントニオの家族が使っていたので、入り口の上のバルコニーにマルカントニオの奥さんと彼女の乳母だった老婆、そして子供とペットのオウムが描かれていて、ずっと400年間ここで人を見下ろし続けてきたわけです。

マルカントニオという人は、アマチュアの彫刻家でもありました。こんな風にちょっと素人っぽくてプロポーションはよくないのですが、彫刻することが好きだったようで、この辺の彫刻は彼の作品です。これは今のオリンポスの間の北側にあるグロッタ、ニンフェウムと言っていますが、岩屋の奥から水が湧き出て池になって、その水が下の方をくぐって前庭のほうまで流れていくように作られています。そのグロッタを飾る彫刻の何体かをマルカントニオが自分でやったということです。

そして正面のペディメントの彫刻もそうなのですが、私は建物を見に行っても、あまりこういうところに目がいかないのですが、よく見るとすごく変な彫像で、これについてリプチンスキは詳しく述べています。この裸の男2人は兄弟を暗示しているのだろうと。だけど両側に女の人がいて、彼らがこの2人の胸をさわっています。ダニエレ・バルバロというのは高位聖職者だったので、これはちょっと問題があるのではないだろうかと。また非常に異教的なモチーフというかローマ的なモチーフもいろいろあります。こういう面白い彫刻もマルカントニオ自身がやっているのです。

この肖像画に描かれているのはお兄さんのほう、高位聖職者で非常に高名な人文主義者であったダニエレ・バルバロです。彼はウィトルウィウスを翻訳して注釈書を出していますが、その図版をパラーディオに書かせています。その本が開いた形でここに描かれています。

ここは今ヴォルピさんという人が持っている本当に個人の邸宅で、もちろん公開はしているのですが、翼部につながる入口のところはガラス張りになっていて、見えるけれど入れないようになっています。1階のほうに実際使っている居間があるみたいです。

ヴィラの前に作られた道路を東に進むとすぐにテンピエットという私設の礼拝堂があるのですが、これもパラーディオの最晩年の作品の一つです。

今はこの集落の教会になっていますが、円形の建物にポルティコがついた形で、正面には6本ですがコリント式の柱が並んでいて、パンテオンをちょっと縦長にしたような感じの建物です。パラーディオはこれを建設中にマゼル、ここの地名ですが、マゼルで死んだということになっていますが、お墓はどこにあるかわからないのです。謎になっています。


ここからヴィラ・フォスカリに移ります。リプチンスキの本ではこのヴィラは第4章で扱われていて、そういえば翻訳しているとき、あれ、ヴィラ・フォスカリがこんなに早く出てきていいのかなとチラッと思った記憶はあるのですが、それでも不自然には思わなかったのですが、早めに話したい理由があったのだと思います。ヴィラの楽しみとか、いろいろそういった話題を語るために早めに登場させたようです。これはブレンタ運河に面しているのですが、パドヴァとヴェネツィアを繋いでいる運河の、ヴェネツィアに近い出口の辺りにあります。ヴェネツィアから船でやって来ると、このあたりから水辺の奥に姿を現して、期待が高まるという、そういう演出なのですね。


     

      8. ヴィラ・フォスカリ  Villa Foscari, Malcontenta, 1559-60


柱はレンガでできていて、レンガをむき出しにそのまま見せています。非常に丈の高いレンガの柱で、イオニア式の石の柱頭が載っていて、堂々たるポルティコなのですが、このヴィラで初めて立体的に神殿のモチーフが姿を現しました。

ダブルデッカーとしてはすでに現れていましたが、こういう非常に高い基壇の上に載ったモニュメンタルな形で、立体的に突き出たポルティコは初めて作られました。ここはちょっと不思議な階段で、手すりが全然ないのですが、両側から直角に曲がって登っていくように作られています。

柱の載る台は腰掛けるのにちょうどいい高さで、ヴィラにいる人はここから見ていて、船が到着するのを眺めては手を振ったりしたのだと思います。

これは内部、十字形の広間ですが、天井はとても高く、交差ヴォールトがかかっていて、壁とぶちあたるところに浴場窓が開けられています。これは「写真撮ってはだめ」と係の女性が手で合図している場面です。だから中の写真はこれしかありません。

裏手の庭から見ると、今の浴場窓がこう見えます。2003年に亡くなられた建築家、芦原義信先生の奥様に伺ったのですが、80年代のある年に建築家の会議がヴェネツィアであった時にここに招待されたということでした。このヴィラは今、元のフォスカリ家の末裔の所有に戻っています。一時期はひどい状態で、19世紀にはオーストリア軍に接収されて、野戦病院かなにかになっていたり、中で蚕を飼っていた時期もあったり、いろいろとひどい状態だったらしいのですが、今はきれいに修復して、フォスカリさんが使っているということです。ここでパーティをしてくれたというのですが、宴会はこの地階でやって、上の主要階は見学しただけだったという話でした。庭園側のファサードは向こう側の北側正面と全然違って、表情がなんかごちゃごちゃしていて面白いのですが、私はなんとなくお風呂屋さんの建物のような感じを思い浮かべます。煙突が目立つせいかもしれませんが、ヴェネツィア式に上に大きく広がる煙突です。でもここでは、帯状のコーニスが二カ所で建物全体をぐるっと囲んでいて、どの面でも同じ高さに水平の区切りができ、向こう側とこっち側とでちゃんと統一感が取れています。

このヴィラ・フォスカリのポルティコに到達する前に、パラーディオは実は別のヴィラ・キエリカーティという建物で、独立した円柱、そして建物から飛び出したポルティコというのを設計していたのですが、施主のキエリカーティが死んでしまって、しばらくずっと20年間くらい放置されたままになります。後になって実現しているのですが、パラーディオは『建築四書』には載せていません。これがちょっと中断した段階で、フォスカリのほうに話を持っていって、あのポルティコを実現したのだろうというふうにリプチンスキは推測しています。

ヴィラ・キエリカーティはパドヴァとヴィチェンツァを結ぶ古い街道から見えるところに建っています。私はパドヴァに1年だけ住んでいたことがあって、ヴィチェンツァに時々通っていたのですが、そのときにバスの中から、あっ見えたといつも思っていました。で、あるとき、友人の車で通りかかったときに、ここで降りて、初めて中を見せてもらいました。広間にあたる部屋には瓦礫が散らばってぼろぼろでした。入り口の脇の部屋を台所に使っていましたが、居室は東側に増築した部分にあるようでした。これは77年の話ですが、今はどうなっているか確かめていません。このヴィラのポルティコは、堂々たる神殿のファサードのように設計された最初の例ですが、実現はヴィラ・フォスカリよりは後になったのでした。

このように神殿のファサードを建物の入口に使うことを始めたのは、パラーディオが本当に最初かというと厳密にはそうではありません。ジュリアーノ・ダ・サンガッロという建築家が1492年に竣工したフィレンツェ郊外のヴィラ・メディチで一応やっていることが知られています。でもそれは本当に装飾として貼り付けてあるだけのような形で、全く精神が違う別ものです。ですから、神殿のファサードの形をポルティコとして住宅に使うということは、パラーディオの創始と言ってもかまわないのではないかと私は思っています。


ここからヴィラ・エーモになります。ヴィラ・エーモは、先ほどのヴィラ・バルバロよりも10キロくらい南の田園地帯にあります。この建物の正面玄関では内側にドリス式の円柱が2本立っていて、両側は付け柱です。ポルティコは本体に埋まっている形です。そして両側のバルケッサがまっすぐ長く伸びているのが特徴です。簡素でこじんまりとしていて、ちょっと兵舎のようだとリプチンスキは言っています。


      

       9. ヴィラ・エーモ  Villa Emo, Fanzolo, c.1564


やはり鳩小屋が両端にありますが、それがちょっとアクセントになっていて、実用も兼ねています。簡素で落ち着いていて、穏やかで、とすごく褒めているので、リプチンスキはこういう建物が好きなようです。円熟期のパラーディオが力まずにさらっと作った、そういう作品だと言っています。

これはポルティコの内側に描かれたゼロッティのフレスコ画です。描かれた柱が本物の柱に対応しているのがわかります。上は木造の格天井です。

ここも内部の写真撮影は禁止されていて、これはこっそり撮った写真なのですごく構図が悪いのですが、広間の格天井も木造です。壁には柱が描かれて、その間にいろいろな場面がフレスコ画で描かれています。先ほどのヴィラ・バルバロのヴェロネーゼとは全然雰囲気が違いますが、同じヴェローナ出身のゼロッティという画家によるものです。床はテラッツォ・ヴェネツィアーノといって、屑大理石をモルタルで固めて研ぎだして作る人造大理石で、テラゾーの元になっているものです。パラーディオの頃からよく使われたものですが、ヴィラ・エーモの広間の床はオリジナルではなくやり直したものだということを、先ほどご紹介した『パラーディアン・デイズ』という本で知りました。ヴィラ・コルナーロの四本柱の間のほうはタイルの床だけどオリジナルだから貴重だという感じで書いてありました。見ただけではわかりませんが。

これはバルケッサのポルティコの内側です。これと同じアングルで撮った写真が「The Perfect House」のペーパーバック版の表紙に使われていました。この建物は私もすごく気に入ったのですが、特にこのバルケッサは好きな場所です。これだけアーチが高いと、天井も高くて、内部の部屋は2階建てにできます。下はいろいろ農事用の部屋になっても、上は居室に使えて窓がポルティコに開いています。こういう形式すごくいいなと思います。


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ここでいよいよ最後のラ・ロトンダです。とても有名で説明するまでもないのですが、立方体の建物の四面に神殿風のポルティコがついていて、中央にドームがかかっているというヴィラです。ヴィチェンツァのすぐ南にモンテベリコという丘があるのですが、その丘の裏側に位置しています。丘の上にマドンナ・デル・モンテベリコという教会があって、その脇道の方からリプチンスキは歩いて来たようですが、車だと反対側から近づくことになります。今は敷地の北西側に門がありますが、もともとのアプローチは北東側にあったようです。東側にはバッキリオーネ川がヴィチェンツァの方から流れて来て、パドヴァの方へ行きます。周りはブドウ畑です。東から南にかけての斜面が開けていて広々とした感じですが、斜面の上のほうに擁壁があって、実際の敷地は割と狭いのですが、その敷地の隅っこに建っています。これはスカモッツィが建てた別棟で、門からの道沿いに長く伸びていますが、今はこの中にミュージアムショップができています。


      

      10. ラ・ロトンダ  La Rotonda, Vicenza, 1566-67


これは87年の9月頃の写真です。写真はとても難しくて、今日はプロの写真家の方もいらっしゃるので、恥ずかしいのですが・・。現在このヴィラの所有者は、ヴェネツィアの貴族だったヴァルマラーナ家なのですが、1987年にここを訪れたとき、そのヴァルマラーナ家の一員だという若い方が案内をしていました。その人がいいアングルを教えてあげる、敷地の一番北の端に行って望遠で撮るといい写真が撮れるよというふうに教えてくれて、毎回その通り試しているのですが、そのときに撮った写真、これが一番よく撮れた感じがしています。これは実は本の表紙に使ったのですが、たまたま若い女の子が走っている姿が小さく写っていて、なにか楽しげな感じでよかったということもあるのですが、なかなか同じようには撮れないということを痛感しています。ロトンダの姿も修復後のきれいな状態ですが、80年代半ばに5年間くらいかけたという修復が終わったばかりのときでした。

そのあとも何回か行っているのですが、これはひどくて、2001年の3月の写真です。同じようなアングルで撮ったつもりなのですが、天気が悪かったこともあって表情が全然違って見え、壁はカビで黒ずんでいて痛々しいような感じでした。

そして、これは2003年9月の写真ですが、やはり修復が始まっていました。美しい姿を維持するのは大変だろうなといつも思っているのですが。

そのとき空も一緒に撮ったのですが、すごい雲。このあと雨が降りました。ここは東の角ですが、修復中の囲いが見えないように撮った写真です。

この建物は対角線が方位と一致しています。通路の幅の広い方が北西側のアプローチからの入口です。東の角をはさんだ2つの部屋がこのときは公開されていました。真ん中の円形の広間(サーラ・ロトンダ)とどこか1つの続き部屋を見せています。平面はすごくおもしろくて、ニ軸対称ですが、入り口ごとに通路の両側に部屋があって、広い通路の両側は小さい部屋、狭い通路の両側には大きい部屋があるというふうに見るとそう見えるのですが、そうじゃなくて、四隅にそれぞれスイートルーム、続き部屋ですね、大きな部屋と小さな部屋でできているスイートが4つあるという構成です。真ん中の円形の広間は共用に使って、あとは独立して使えるので、お客さんが多い時に便利です。施主のアルメリコという人は独身貴族だったようですが、着工してから割と早く一応住めるような状態になって、20年住んで死んで、次にカプラという人が買って、また少し手を入れたようです。

円形の広間の四隅の三角形に近い空間の中は階段になっています。上の階はどうなっていたかというと、そこは全然仕切りがなくて、歩き回るだけの空間だったようです。そういうふうにパラーディオが『建築四書』に書いています。雨の日でもそこでぐるぐる歩き回って運動ができると。イギリスのカントリーハウスの中によく作られるロングギャラリーという部屋が、天気の悪い日に行ったり来たりできるような部屋として作られたということをどこかで読んだことがありますが、ここはぐるぐる回れる部屋だったらしいのです。それが18世紀頃に幾つもの部屋に小分けされたみたいです。上は見せてくれないので、見たことはないのですが。

ここも写真は撮ってはいけないのですが、監視員がいないときに撮った写真です。大きな方の部屋ですね。すごく立派です。天井が少し折れあがった形になっていて、ずっと装飾でこういうふうに仕上げられています。

この部屋ともう1つ小さい部屋、こちらは上に中二階があるので天井が少し低くなっていますが、その二部屋をついにして使える、そういう構成です。もちろん間のドアを閉めて鍵をかければ、二組の客用にも使えるでしょう。

これは市販のスライドですが、中央の円形の広間です。ここに出てきたら、87年に会ったヴァルマラーナさんによく似た男性がいました。もう中年というか、スーツを着た実業家然とした人がいたのですが、似ていると思って声をかけたら、やはりそうでした。向こうも覚えてくれていて、話をしました。前はジーパンの20代の若者だったのですが、今はもう立派になって。でもやはり1週間にいっぺんは必ず来ると言っていました。そして、これだけのものを維持するのは大変ですねと言ったら、父親の代までは確かにそうだったけど、今はビジネスとしてやっているからというふうに答えていたのが印象的でした。

円形広間にかかっているドーム、イタリア語ではクーポラですが、クーポラの中心にはオクルスがあいています。ヴィラ・ポイアーナのアーチの周りにあった5つの穴もオクルスと呼ばれていましたが、オクルスはラテン語で目という意味です。ローマのパンテオンと同じように丸い穴を開けて、雨は入ってきてもよかったようですが、鳥が入ってくるのに困ってネットを張ったりしているうちに、結局上に明かり取りのランタンを取り付けて、覆ってしまったということです。この部屋の装飾はパラーディオが死んだ後のものです。

床の中央にある牧神の顔は、目や口の部分が穴になっていて、雨水をおとす仕掛けです。

その下はこういうふうになっています。これも市販のスライドですが、地下はヴォールト天井で上部をがっちり支えています。

この一角に現代のキッチンが作られていて、たぶんレセプションなどの時に使うのだと思います。1978年に「ドン・ジョヴァンニ」の映画がここで撮られたときには、昔風の大きな台所のようすが再現されて、なかなか面白い光景でした。

「ドン・ジョヴァンニ」の映画の中では、ラ・ロトンダが主人公の館として使われました。この写真はキリテ・カナワ扮するドンナ・エルヴィラがドン・ジョヴァンニを追いかけてきたら、従者のレポレッロがカタログをばっと広げて、今までドン・ジョヴァンニがモノにした女の名前がずらっと書いてあるのを見せる、その有名な『カタログの歌』の場面です。ロトンダの外階段の1つが効果的に使われていました。

次は最後の方で、ドン・ジョヴァンニが誤って殺してしまった騎士長の石像を晩餐に招待して、その亡霊が現れるのを待っているところです。この場面は中央の円形の広間で撮られました。ドン・ジョヴァンニ役はルッジェーロ・ライモンディです。

最後に、これは89年の写真ですから、まだ壁にしみはあまりない、ちょっとだけここらへんにできているかな、という状態です。このようにポルティコと出っ張った外階段を横から眺めるとスフィンクスみたいな姿だとリプチンスキは言っています。四面にポルティコをつけたのもちょっとやりすぎの感じがするというふうに書いています。

本の中ではラ・ロトンダを扱った第9章は「最後のヴィラ」というタイトルになっているのですが、厳密に言うと、同じ頃ですが、ヴィラ・サレーゴというのがヴェローナの近くに作られています。これはおかしくて、笑っちゃうような柱が主役のヴィラなのですが、芋虫みたいとか、タイヤを積み上げたようなとか、ドーナツを積み上げたようなとかいろいろ言われますが、優美なイオニア式の柱の柱身をこんなふうな風に団子状にしてしまっています。実はこれは四角い中庭を囲む予定だったのが、半分しか実現されず、コの字型になったものです。これは見学会のときの写真ですので人が大勢います。

このヴィラ・サレーゴはパラーディオのヴィラの中では一番西に位置するものです。今までお見せした中で、どのヴィラも非常に個性的で、ヴァリエーションにとんでいたということがわかると思うのですが、パラーディオはそれだけ想像力がすごく発達していたということだと思います。それから施主にふさわしいヴィラを作るということを念頭においていたみたいで、だから、施主の身分とか、経済状態とか、教養とか、そういうものを考えてデザインしたというふうに考えられます。あと地形とか土地柄とか色々なことももちろん考慮されています。1570年にヴェネツィアで出版された『建築四書』の第2章に住宅建築をたくさん載せていて、そこに紹介しています。これはそのオリジナル本の写真です。ヴィチェンツァのパラーディオ・センターで出してもらって撮った写真です。ファクシミリ版のものは家に持っていますが、これは本当のオリジナル版です。


時間が迫ってきましたが、ちょっとだけヴェネツィアの話をさせていただきます。これは1500年の有名なヤコボ・デ・バルバリの地図です。パラーディオが生まれる少し前のヴェネツィアが描かれていて、サン・マルコ広場はここに見えます。ヴェネツィアはとにかく繁栄した都市だったのですが、共和国の首都でもあり、パラーディオはやはりここに進出したがっていて、1554年くらいからいろいろ働きかけています。リアルト橋のコンペがあったときも、橋の設計をしてコンペに応募しているのですが、これはそのとき誰も勝利しなくて、ずっと放っておかれました。16世紀の終わり頃にようやくアントニオ・ダ・ポンテという建築家の案が実現されて、今のリアルト橋になっています。

パラーディオは他にも一生懸命に働きかけるのですが、結局ヴェネツィアでは宗教建築しか作らせてもらえなかったということになります。でもサン・ジョルジョ・マッジョーレという教会がサン・マルコ広場から沖合いに見える目立つ場所に作られました。。それからイル・レデントーレというのがここにあります。そして1845年くらいにヴェネツィアまで鉄道が敷かれるのですが、1860年代に駅周辺の整備が行われたとき、そこにあったサンタ・ルチアという教会が壊されます。実はそれもパラーディオの作品でした。パラーディオの教会を壊して、駅ができたので、今も駅名はヴェネツィア・サンタ・ルチアとなっています。あとサン・ピエトロ・カステッロという教会の基本計画に関わっています。それからこの辺にサンファチェスコ・デッラ・ヴィーニャというのがあります。また現在アッカデーミア美術館になっているカリタ修道院は中庭に面した一部だけですがパラーディオの作品として残っています。このように宗教建築はかなり建てているのですが、カナル・グランデにそったパラッツォとか世俗の公共建築などは作らせてもらえなかった。パラーディオより10年先に死ぬサンソヴィーノは同時代人ですが、彼がこの町の主任建築家だったときにサン・マルコ広場が現在の形に整備されます。サンソヴィーノはサン・マルコの近くに幾つも、図書館と塔の下のロジェッタと、あとラ・ゼッカという造幣局の建物を作らせてもらっているし、個人邸宅のパラッツォも何軒か作っています。他にリアルト市場の公共の建物とか病院の中の教会なんかもあります。もう一人の同時代人サンミケーレは軍事建築家としての仕事の他にカナル・グランデに大きなパラッツォも作っています。パラーディオも教会建築だけでなくパラッツォなども設計できたら嬉しかっただろうと思いますが、彼は結局ヴェネツィアの周縁部に水平線のパノラマを作ることしか許されなかったとマンフレード・タフーリが言っています。実は1980年にパラーディオのシンポジウムが日本であったのですが、最初東京で講演したときに、タフーリは他の話を用意してきたのですが、宗教改革に関連した私たちにはあまりぴんと来ない話で、ちょっと受けが悪かったとみて、すぐ2~3日後にもう1回京都でやったときに、もう1人のプッピという人は同じ話をしたのですが、タフーリは全然違う話に変えてしまいました。スライドも用意してこなかったのだけど、白板だけ用意してくれればいいと言って、それに自分で書きながらヴェネツィアの話をしたのですが、パラーディオは水平線のパノラマを作ったという話で、とてもおもしろかったのです。そのあとそれを原稿にして送ってきて、須賀敦子さんが翻訳して、AUの81年の7月号に載りました。

もう古い話で24~5年前の話、この間みたいに感じますが。タフーリが水平線のパノラマという言葉を使ったので、その光景をモーターボート、ヴェネツィアのタクシーですが、に乗ってたまたまここを通ったときに、あっ撮れると思って撮った写真がこれです。左から、サン・ジョルジョ・マッジョーレ、レ・ツィテッレ、イル・レデントーレです。

サン・マルコ広場の塔の上から撮るとサン・ジョルジョとレ・ツィテッレは並びますが、その先は切れてしまいました。

これは市販のスライドですが、ペストの鎮静を祈願して作られたイル・レデントーレでは7月の第3日曜日に、ジュデッカ運河に船を並べて、仮設の橋を作って、その上を渡って教会にお参りするお祭りがずっと400年以上続いています。

リアルト橋は実現しなかったのですが、これは図面から、カナレットが18世紀にカプリッチョ・パラディアーノと題して何枚かこういう架空のヴェネツィア風景を描いています。、他に違うヴァージョンで、バシリカがあるものを私は自分の本の扉に使いました。

18世紀のイギリスではパラディアン・ブリッジと称して庭園の中にこういう橋をよく作っています。もちろん簡略化した縮小版ですが、パラーディオのリアルト橋のデザインを思わせるものをパラディアン・ブリッジと呼んでいます。

最後にテアトロオリンピコ、これが彼の最後の作品になりますが、これを1580年に設計して、ほとんど基礎工事が終わったくらいのところで、パラーディオは8月19日に死んでしまいます。パラーディオは舞台の後ろの面を建物のようにデザインしたのですが、アーチの開口部の中にはただ透視図法で背景を描いた幕かなにかをたらすくらいに考えていたらしいのですが、あとを引き継いだスカモッツィは舞台の奥を深くして、そこに立体的な書き割りを作ってしまいました。これは最初の演目「オイディプス王」で?落としをするために作った舞台装置で、恒久的に残すことは考えてなかったらしいのですが、あまりに面白いので、そのまま現在まで400年以上残ってしまったということです。

パラーディオの肖像です。1576年と書いてあります。1508年生まれですから、68歳になる年の肖像で、マガンツァというローマに一緒に行ったりしている非常に仲のいい画家が描いたものですが、これは世界を正確にあるがままに見ている男の相貌だというふうにリプチンスキは評しています。

『完璧な家』という言葉についてちょっと説明します。ローマ時代のウィトルウィウスの言っていることをパラーディオは繰り返しているのですが、建物に必要な3つの要素というのがあって、有用性と堅固さと、それから美がそれにあたるということです。ラテン語のウティリタスは機能といってもよいのですが、ユーティリティに当たる言葉です。フィルミタスはファームネス、堅固さです。そしてヴェヌスタスはビーナスに通じる言葉で、美しさですね。サン・マルコのライオンを囲む円の周りにこの3つの言がラテン語でかかれています。これはヴェネツィア建築大学の封筒なのですが、シンボルマークに2000年も前のウィトルウィウスの言葉が使われているのです。パラーディオもその3つを強調していたのですが、3つのうちどの1つでも欠けたなら、その建物は完璧とはいえないと書いています。逆に「完璧な家」なら、3つがそろっているということになります。

これは初版本なのですが、ハードカバーで、こっちがペーパーバック版。初版では著者の手書きの図とパラーディオの図面しか載っていなくて、写真はありませんでした。ペーパーバック版には著者が撮ったらしい写真が各章に数枚ずつ載っています。訳書にするときは、それでも足りないと思った部分を私が補って、それでこのように分厚い本になってしまいました。

予定時間をかなり超過してしまいました。どうも長い時間ご清聴ありがとうございました。


司会  渡辺先生、どうもありがとうございました。みなさん、「パラーディオのヴィラをめぐる旅」いかがだったでしょうか