サリエリとモーツァルト

第312回 イタリア研究会 2006-04-21

サリエリとモーツァルト

報告者: 水谷 彰良


第312回イタリア研究会(2006年4月21日)

講師:水谷彰良

演題:「サリエリとモーツァルト」


司会  イタリア研究会事務局の橋都です。今日はイタリア研究会例会にお越しくださいましてどうもありがとうございます。皆さんご存知のように、今年はモーツァルト生誕250年ということで、各地で記念行事が行われているわけなのですが、イタリア研究会でもモーツァルトに関連したテ-マでお話をいただこうということで、今日は音楽評論家の水谷彰良さんにお願いしました。最初、新潮社でご自分も音楽評論をしておられる鈴木さんにご相談したところ、それは水谷さんが1番適任であろうということで、お願いすることになったわけです。

簡単に水谷さんのご略歴をご紹介申し上げます。1957年の東京生まれで、イタリア・オペラと声楽に関する研究をずっと行ってきておられます。現在国立音楽大学の非常勤講師を勤めておられます。それからフェリス女学院大学オープンカレッジの講師、日本ロッシーニ協会事務局長と副会長をしておられます。

後ろにパンフレットが置いてありましたが、『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』という本を書かれまして、大変評判になっていることは皆さんよくご存知だと思いますけれども、そのほかに『プリマ・ドンナの歴史』『ロッシーニと料理』『消えたオペラ譜』、あるいは、今年7月に『イタリア・オペラ史』という本を音楽之友社から出版される予定になっているということです。

今日は、「モーツァルトとサリエリ」ということでお話をいただきたいと思います。アマデウスという舞台、映画で非常に有名になったこの2人ですが、今日はどういうお話をしていただけるか非常に楽しみです。それでは、水谷さんよろしくお願いします。


水谷  みなさん、こんにちは。今日のテーマは「サリエリとモーツァルト」とさせていただきます。今年はモーツァルトの記念節ではありますが、ここはイタリア研究会ということで、イタリア人の作曲家サリエリに関する話を中心にさせていただきます。映画『アマデウス』の中のサリエリ像は、基本的にはモーツァルトのライヴァルというよりも「才能を欠いた宮廷楽長」、あるいは「敵対者」という扱いがされています。サリエリはほぼ50年間ウィーンに住んでおりました。正確に言うと60年なのですが、途中イタリアやフランスにも行っており、50数年間となりますが、オーストリアのウィーンに定住し、亡くなる前年まで宮廷楽長を務めています。そして彼が亡くなった後、首席宮廷楽長はドイツ人になります。つまり、サリエリが最後のイタリア人のウィーン宮廷楽長ということになるわけです。

 『アマデウス』の中のイメージについては、今日の話の中でサリエリの生涯と作品について触れていくなかで、間違ったイメージが払拭されていくものと私は考えています。ですから、「『アマデウス』のサリエリは何だったのか?」ということは、今日の最後に皆様がお考えいただければよろしいかと思います。

 そこで今日は、サリエリの生涯と作品について年代順にお話していきます。私が重要だと思うのは、『アマデウス』の中で凡庸な作曲家にされている、ということです。本当に凡庸なのかどうかは、サリエリの代表作、とりわけ彼はオペラ作曲家として活躍しましたから、そうした作品が復活上演され、それが客観的評価の対象になってはじめて、1人の作曲家としての価値、真価が理解できるはずです。『アマデウス』の原作劇の初演されたのが1979年です。ほぼ四半世紀前と言ってよいでしょう。その段階ではサリエリの作品はほとんど、とくにオペラについては再上演されていませんでした。ですから、1人のイタリア人オペラ作曲家としてサリエリについてきちんと評価できる段階にはなかった、といってよいと思います。

 現在はどうでしょうか。サリエリは生涯に38のオペラ作品を初演しています。生前未上演も含めると、彼が作曲したオペラは──未完等があって、正確な数は申し上げにくいのですが──約40にのぼります。そのうち、今日までに復活上演されたのは11作です。サリエリの生前最も人気を博したオペラ(《やきもち焼きの学校》)がありますけれども、それはまだ復活上演されていないのですね。ですから、サリエリの生前最も人気を博した作品を、私たちは観ることも聴くこともできない状況にあるわけです。こういった意味では、現在もなお、サリエリは復興途上にあると言ってよいと思います。

 さて、お手元のテキストに則して話をしていきます。最初の1頁に枠でくくったものは、これは「モーツァルトの記念年だから、だからこそサリエリを見直したい」という私の考えも含めて、雑誌に書いた文章を転載しておきました。内容については読んでいただければ判ることなので、2頁から話を始めます。基本的にはサリエリの生涯を年代順に、年表形式に書いてありますが、その要点を詳しく説明し、そして、音、あるいは映像も含め、サリエリの作品の一部に触れていこうというのが本日の最初のテーマです。

 サリエリは1750年──1750年といいますのは、ご存知のように大バッハの亡くなった年です──の8月18日に、北イタリアのレニャーゴという町で生まれました。音楽関係の本ですと「レニャーノ」と間違って書いてある本がたくさんありますが、レニャーノではなくレニャーゴです。現在レニャーゴには、テアトロ・サリエリというオペラハウスがあります。その前に、ちゃんとサリエリの銅像が建っています。ですから、レニャーゴの人たちにとってサリエリは、「おらが村の、おらが町の名士」であるわけですが、現実には、サリエリがレニャーゴに住んでいたのは16歳まで。その後一度もおそらくレニャーゴに帰郷していませんので、生まれ育った土地ではありますがそれ以上のものはない、と言ってもよいかもしれません。けれども、レニャーゴには「サリエリ財団」という財団が立ち上げられ、5年前にはサリエリの生誕250年を記念して「第1回サリエリ・フェスティヴァル」が開かれています。そして、4年後の2004年には、「第2回サリエリ・フェスティヴァル」がレニャーゴで開催されています。

 さて、レニャーゴに生まれたサリエリですけれども、父親は富裕な商人でした。彼の兄弟はたくさん生まれるのですが、当時ですから生まれてすぐ亡くなる子供もおりまして、正確に何人兄弟という言い方は非常に難しいのです。しかも、サリエリの父親は再婚もして、サリエリは二人目の奥さんの子供にあたります。

 当初、父親の商売は順調にいっていたのですが、サリエリが10歳頃から商売が傾き始めます。そして、サリエリが13歳のとき母アンナ・マリーアが亡くなっています。そして翌年には、父アントーニオも亡くなっています。その結果、兄弟たちはほとんど路頭に迷う状態になったと言われています。そのあたりの事情は、今日の研究でも十分解明されているとはいえない所があります。ですから、少年時代については深く触れることができません。

けれども彼が音楽教育を受けていたということは、10歳のころ、レニャーゴの大聖堂のオルガン弾きに音楽を学び始めたこと、加えてサリエリの異母の兄に当たる前妻の長男がヴァイオリニストで、ボローニャでマルティーニ神父に師事している事実がありますので、音楽に親しむ環境にあったのは間違いありません。

けれども、彼が作曲の才能を少年時代に現したという話は1つも伝わっていません。その点が、他のいわゆる大作曲家の少年時代とは異なっている、といってよいと思います。

両親が亡くなり路頭に迷ったサリエリ兄弟ですけれども、そんな折、サリエリが16歳のとき、ヴェネツィアのモチェニーゴ──これはヴェネツィアの名家でありまして、ヴェネツィアで5本の指、あるいは6本の指に入るのではないでしょうか。ヴェネツィアにある大きなパラッツォが現在もモチェニーゴ家のものと言われています──そのモッチェニーゴ家の1人が、サリエリの父親と知り合いでありまして、レニャーゴに来てみたら、サリエリの父が亡くなり、息子たちが非常に不幸な境遇にあるのを見つけました。そしてモチェニーゴは、兄弟の中で音楽の覚えのあるサリエリを連れてヴェネツィアへ戻ります。そして、ヴェネツィアで周到な音楽教育をさせるわけです。

それ以前にサリエリはオペラをいくつ観たかということは判っていませんが、1つ2つしか見ていないかもしれません。といいますのは、レニャーゴにもテアトロはありますが、今日残されている出版台本などから判断するかぎり、数年に1度しかオペラは上演されていません。それに対しヴェネツィアでは、当時少なくとも6つ、あるいはそれ以上の商業劇場が開場していました。そしてヴェネツィアの商業劇場の桟敷席(ボックス席)は基本的に貴族の所有になっており、モチェニーゴ家の所有するボックスも当然あったわけです。

サリエリは、音楽の都、しかもオペラのメッカであるヴェネツィアに16歳で連れて行かれ、そこで音楽の正規教育を受けることになります。そこで、また興味深い出来事が起きるのです。サリエリがヴェネツィアに行って1年もたたないうちに、ウィーン宮廷作曲家フローリアン・レーオポルド・ガスマンが、ヴェネツィアに自作オペラの初演にやってきます。そして、サリエリ少年と知り合うわけです。彼はサリエリが孤児──孤児という言い方は変ですが──ご両親がない子供であると知ると、ガスマンは──ガスマン自身も周りの援助によって作曲家として大成した人ですから──同情しまして、サリエリ少年をウィーンに連れて帰る許可をモチェニーゴからもらいました。

ですから、16歳でヴェネツィアへ来て、それから1年もしないうちに──半年もしないうちだと思いますが──サリエリはガスマンに連れられてウィーンへ行くわけです。当時ウィーンは、言うまでもなくヨーロッパにおける音楽の中心都市の1つでした。そこには例えばオペラの著名な台本作者ピエトロ・メタスタージオがおり、ウィーンの宮廷ではグルックの作品が上演され、グルックもウィーンに住んでいました。

そうした当時としては最も音楽の最前線にあるウィーンに、サリエリは16歳で来ることになります。そしてガスマンは、サリエリに周到な音楽教育をほどこします。明らかに自分の後継者としてサリエリを育てようとした形跡があるわけです。

年表を見ますと、17歳のときの1767年に、グルックの《アルチェステ》初演と書いてあります。《アルチェステ》という作品を皆さまご存知と思いますが、グルックは当時のオペラ・セリアのスタイルに反発して、オペラ改革を始めた人です。そうしたオペラ改革の出発点にあたるのが《アルチェステ》という作品です。サリエリはガスマンの助手として、このオペラのウィーン初演で、おそらくフォルテピアノを弾きながら、稽古などを務めていたと思います。ですからグルックの開始したオペラ改革の最初の重要作品の総譜を、サリエリは研究する機会を得たということになります。

ほどなく、サリエリは最初のオペラを発表します。それが20歳のときに初演された《女文士たち》という作品です。そのすぐ後に、《無垢の恋》というオペラが初演されます。サリエリの第2作です。この《無垢の恋》というオペラは2年前にテアトロ・サリエリ、先ほど申しましたレニャーゴの劇場で復活上演されています。

ここで、サリエリが20歳のときに書いた作品、主要作品といってよいと思いますが、それを2つ聴いてみたいと思います。最初は《ヴァイオリン、オーボエ、チェロと管弦楽のための協奏曲》、いわゆるトリプル・コンチェルトと言われるものです。これから聴きますのは冒頭部分の約2分程度ですけれども、独奏ヴァイオリンから音楽が始まり、続いて独奏オーボエが入り、独奏チェロが入り、合奏が入ります。そんな、通常の協奏曲とは少し手法の違う開始の仕方をする、ということが判ります。その音楽は、20歳のサリエリが十分にウィーン古典派の管弦楽法を身につけていたことの証となるような音楽と言えます。では、まずこの協奏曲の第一楽章の冒頭部分です。

(曲) ヴァイオリン、オーボエ、チェロと管弦楽のための協奏曲より


途中ですが止めます。なぜかスピーカーがこちらを向いて置いてあるという不可思議な状況で、音が大きいのか小さいのか、でもこれ以上大きくすると音が割れてしまうと思いますので、どうかご了承ください。

サリエリは協奏曲を幾つか書いています。このようにヴァイオリンなどを独奏楽器に用いた協奏曲もありますが、それ以外にもオルガン協奏曲が1曲、ピアノ協奏曲が2曲、等々あります。けれども、その多くがサリエリの20代の作品です。彼はオペラ作曲家として世に出て評価をされ、そしてオペラ作曲家として人生を歩んでいくわけですから、必ずしも器楽作品は彼の音楽的な高さを測る基準にはならないかな、とも思います。

初期のオペラの中では、先ほど申しました《無垢の恋》という作品が復活上演されていますが、録音はありません。そこで、この《無垢の恋》の中の1曲をこれから聴いてみたいと思います。現実には、後年サリエリが別なオペラ《花文字》というタイトルのオペラのために書いた楽曲でありますが、基本的には《無垢の恋》のアリアとほとんど音楽的に変わるところがありません。移調などの変更はありますが、それ以外はテキストも含めて《無垢の恋》のアリアといえます。

これはオペラ・ブッファ、喜歌劇でありますから、なかなか楽しい音楽が聴かれます。これから聴くアリア〈もう演奏してほしくないわ〉は、女性の登場人物がこれから結婚するのだけど、結婚式では町の楽師のへたっぴいな演奏ではなくて、町中の楽器を総動員して華やかに私の結婚を祝って欲しいわ、と歌うアリアなのです。その中で、例えば「トランペットとティンパニがあれば」と言うとオーケストラがジャンジャカジャンと鳴ってトランペットとティンパニが活躍します。あるいは「ファゴットとコントラバスがあれば」と言うと、サリエリはオーケストラのファゴットとコントラバスのパートを浮き立たせます。そうしたテキストに書かれた言葉や楽器と一緒に音楽を作る点に、サリエリの喜劇的才能──まだ20歳の作品ですが──若きサリエリの才気というものが感じられるのです。

これをチェチーリア・バルトリの演奏でお聴きいただきます。バルトリは皆様ご存知のように大変すばらしいメッゾソプラノでありまして、『サリエリ・アルバム』と題したCD を出しています。ぜひ皆さん買っていただきたいアルバムです。では、聴いてみましょう。

(曲) 歌劇《無垢の恋》より〈もう演奏して欲しくないわ〉(《花文字》用の改作版)


 お聴きのようになかなか楽しい曲ですね。サリエリの先生でありますガスマンは、基本的にはオペラ・ブッファの作曲家として人気を得た人です。ガスマンの代表作に《オペラ・セリア》というタイトルのオペラ・ブッファがあります、これは非常に面白い作品で、時間があったら今日その一部をご覧いただきたかったのですが、残念ながら割愛せざるを得ません。と言いましても、市販されているCDや映像はありませんので皆さんご覧になりたいと思っても無理なのですが、いつか機会がありましたらガスマンについても紹介したいと思います。

 ガスマンはオペラ・ブッファの大家ですが、ウィーンでサリエリが師事したもう1人の作曲家がグルックです。グルックは先程言いましたように、従来のオペラ・セリアを改革しようとした人です。そしてもう1人重要なのが、先程言いました台本作者メスタスタージオです。メタスタージオは、言うまでもなくオペラ・セリアの台本作者として当代随一の存在でした。グルックは基本的にはメタスタージオの様式化したオペラ・セリアのスタイルを改革しようとしたわけで、そうした批判する者とされる者が同時期にウィーンにいてサリエリとかかわりをもったというのは、興味深い事実ではないかと思います。

 メタスタージオは少年サリエリに詩の朗読法を教育し、グルックはサリエリのデビューを手助けします。

 この時代は、若い作曲家はオペラ・ブッファでデビューし、その後にオペラ・セリアのジャンルを評価されて一人前と認められました。というわけで、サリエリも次にオペラ・セリアに挑戦するわけです。それが《アルミーダ》という作品です。

 この《アルミーダ》を作曲するにあたって、当然のことながらサリエリはグルックのオペラを下敷きに──というかお手本に──しました。グルックの改革理念の1つにオペラの序曲というものがあり、序曲は単に音楽で開幕をつげるベルではなくドラマの内容を先取りして描写的に表すものである、という考え方をもっていました。ですから《アルミーダ》の序曲においてサリエリは、グルックの教えを守ってドラマの内容を先取りする音楽を書いています。

 サリエリ自身は、これから聴きます序曲についてこう述べています──「この序曲では、演じられるドラマの内容を直接的に音楽で表そうと試みた。すなわち、主人公ウバルドの深く神秘的な霧に包まれたアルミーダの島への到着である。そして、島を守る怪物たちが彼に襲いかかろうとし、彼を怖がらせるためにすさまじい叫びを上げる。けれどもウバルドの持つ魔法の盾を見るや怪物たちはうろたえ、ウバルドから一目散に逃げ去る。ウバルドが山の断崖を苦労してよじ登り、頂点に着くと、周囲はこの上ない静けさと晴れやかさに包まれる」。

 ですから、このサリエリのコンセプトに沿って、序曲が演奏されている間もある種のパントマイムが見せられたのではないか、と私は考えますが、それを証明するものはありません。けれども《アルミーダ》の序曲を聴けば、今お話ししたように、ウバルドが登場して怪物に襲われ、怪物が逃げた後に山を登ると空が晴れやかに見渡せるという情景が描写されているということがお解かりいただけると思います。

 では、《アルミーダ》の序曲を聴いてみましょう。

(曲) 歌劇《アルミーダ》(1771年ヴィーン)より序曲

(聴きながらの注釈) ここで霧に包まれたアルミーダの島に着きます──やがて怪物が現れます──ここは、魔法の盾を見た怪物たちがうろたえているところでしょうか──やがて怪物が逃げ去ると、ウバルドは山の断崖をよじ登り──頂点に立つと、周囲は静けさと晴れやかさに包まれていきます


 この時代としては優れているかどうか、何とも言いがたいところですね。すでにグルックによって疾風怒濤の──シュトルム・ウント・ドランクの──音楽が書かれていた時代ですから、それに比べると少し微温かなとも思います。けれどもこれがサリエリ21歳の作品であるということを、やはり考える必要があるかと思います。先程も言いましたように、彼は少年時代に十分な英才教育を受けたわけではないのですね。おそらくウィーンに出てから本格的に作曲の勉強をしたわけです。むしろ、これほどの音楽を書くことができたという点を評価すべきではないか、と思います。

 その後サリエリが24歳のとき、重要な出来事が起こります。師ガスマンが亡くなってしまうわけです。ガスマンは宮廷作曲家とウィーンのイタリア・オペラ指揮者を務めていました。そのポストが空き、それが24歳のサリエリに与えられることになるわけです。ガスマンは若死にしましたが、サリエリが毒をもって殺したわけではありません。馬車の事故が原因で寿命を縮めた、ということが判っています。

 こうしてサリエリは、ヨーゼフ2世の覚えめでたく、宮廷作曲家としてオペラを連作していくのですが、この皇帝ヨーゼフ2世は多少気まぐれなところがあって、突然イタリア歌劇場を解散してドイツ語のオペラの劇場を立ち上げてしまいます。

 では、サリエリはオペラを頼まれないときに何を書いたかというと、オラトリオです。それがこのジャンルでの代表作となる《我らが主イエス・キリストの受難》という作品です。これはサリエリの宗教音楽、オラトリオの名作といってよい作品です。

 興味深いのは、グルックが、オペラのアリアというものは歌手の技巧のひけらかしではなく、もっと平明で、内容のあるものにすべきだ、と考えた点です。ところが、このオラトリオにおいてサリエリは、宗教音楽であるにもかかわらずアリアにコロラトゥーラを採り入れ、ときに大変艶かしい官能的な音楽を書いています。理由の1つにこの時期サリエリがオペラの作曲を認められなかったということがあって、オラトリオにオペラ的な音楽を盛り込んだのではないか、と私は考えています。

例証として、マグダラのマリアのアリアの後半部を聴いてみましょう。サリエリが技巧的な歌手に与えたコロラトゥーラがどういうものであったのか、その辺が聴き取れると思います。

(曲) オラトリオ《我らが主イエス・キリストの受難》より



 オペラというのは基本的に、作曲家が自分の書きたい音楽を書けるわけではありません。この時代には、初演歌手がどういう歌手なのか、1人1人の技術水準はもちろんその音域、声域を理解してそれぞれのテクニックに則して音楽を書く、というのが基本だったわけです。ですからサリエリがこうした技巧的なアリアを書いたのは、そうしたテクニックを持つ歌手がいたからで、確かこの曲はカタリーナ・カヴァリエーリが初演したのではないかと記憶しています。カヴァリエーリはサリエリの弟子で、愛人とも噂されていますが、その辺のところはよく判りません。けれどもサリエリが10代の彼女に周到な声楽教育を施し、16歳くらいでデビューをさせ、ウィーン随一のプリマ・ドンナに育てたのです。

 サリエリは──今聴いた曲は27歳の作ですが──その頃には非常に優れた作曲家であると知られていました。そして翌28歳のときにミラノのスカラ座が誕生すると、こけら落としの作品がサリエリに依頼されます。

常識的に考えると、ウィーンの宮廷作曲家とはいえ、国際的にほとんど名前を知られていない作曲家に北イタリアを代表するミラノのスカラ座がこけら落としの作品を委嘱するというのは、意外なことではないでしょうか。けれどもご承知のように、当時、北イタリアはオーストリア、ハプスブルグ家の支配下にあったわけです。ですから、当初スカラ座が開場作品を依頼したグルックが、多忙を理由にこれを断り、サリエリに回したと言われています。

 それが《見出されたエウローパ》というオペラです。私は《見知られたエウローパ》の訳題で本に載せましたが、現在は《見出されたエウローパ》が一般的となっています。

 これは3年前でしたか、ミラノのスカラ座が3年間の改修を終えてリニューアル・オープンした際に、リッカルド・ムーティがオープンニングで復活上演した作品です。これは1778年のミラノ初演から1度も再演されたことがなく、二百数十年ぶりにムーティがスカラ座リニューアルを記念して復活させた作品です。その映像がありますので、フィナーレの部分、数分間だけでも観ておきたいと思います。興味深いのは、誕生したばかりのスカラ座が、その時代のミラノの最高の歌手たちを招いて初演したことです。ご存知のように、モーツァルトの《魔笛》で夜の女王の歌うfが一番高いと言われているのですが、このオペラにはそれより半音高いfisを歌う歌手が二人も必要なのです。スカラ座の復活上演でも2人の歌手がfisの音を歌っています。ご覧いただくのはフィナーレの部分なので、そこまで高い音は出てきませんが、それでもこの時代の卓越した歌手たちの──うち1人はカストラートではありましたが──技巧というものが聴き取れると思います。では、電気をお消しください。

(映像) 歌劇《見出されたエウローパ》よりフィナーレ


 これは記念すべきミラノ・スカラ座における復活上演の映像です。この辺りからサリエリは国際的な名声を得るようになります。と言いますのも、スカラ座の開場オペラを委嘱された作曲家には、当然イタリア各地の劇場から作品の委嘱があるからです。これに続いてサリエリはしばらくイタリアに滞在し、さらに4つのオペラを作曲しています。その1つに《やきもちやきの学校》という作品があり、これがサリエリの生前最もイタリアで数多く再演されたオペラになります。けれども最初に言いましたように、一番人気のあったこのサリエリ作品が、まだ復活をしていないのです。

 さて、話を進めます。ページで言いますと、3頁に入っています。この後サリエリは、フランスのパリ・オペラ座から作品を求められます。サリエリの38作のうち3作がフランス語のオペラで、オペラ座で上演するフランス語のトラジェディ・リリックに当たります。その最初のものが《ダナオスの娘たち》という作品で、大変ドラマティックなオペラです。粗筋などは私の本に書いてあるのでここでは省略しますが、49人のダナオスの娘たちが結婚相手である49人の花婿を結婚式の場で殺害する、という作品でありまして、夫を殺害した娘たちが地獄に落ち、地獄の責め苦にあって阿鼻叫喚の叫びをあげる、というのがこのオペラのフィナーレです。とても短いフィナーレですが、非常にドラマティックで音楽的にもすばらしいと思いますので、これから聴いてみたいと思います。これは音だけです。《ダナオスの娘たち》から、今言いましたように、地獄の責め苦を受ける娘たちの叫びで幕が下りるところをお聴きいただきます。

(曲) 歌劇《ダナオスの娘たち》より第5幕フィナーレ


大変ダイナミックな音楽ですね。この辺からサリエリが円熟期に入ってきたな、と感じます。サリエリにとって最初のフランス・オペラがこれですが、実は彼は、フランス語がまったく判らずに作曲したようです。どうしたかというと、パリのオペラ座から台本を送ってもい、グルックの指導を受けながらこれを作曲したのです。当然フランス・オペラの慣習というものも判りませんので、すべてグルックの指導の下にこの作品を書いたのです。

その後サリエリは、2作のフランス・オペラを作曲します。その1つが《タラール》という作品で、これは大変すばらしいオペラなのですが、今日は時間がないのでご覧いただきません。幸い字幕入りのDVDが発売されています。大変美しい舞台の映像ですから、是非ご覧ください。これはパリで大変人気を博した作品で、台本を書いたのがボーマルシェなのですね。ボーマルシェは言うまでもなく、『フィガロの結婚』や『セビリアの理髪師』の芝居の台本を書いた人です。ボーマルシェが生涯に書いた唯一のオペラ台本が、この《タラール》なのです。その説明をすると長くなるので省略しますが、これは『フィガロの結婚』や『セビリアの理髪師』と同様に、王政批判、貴族批判といった要素を盛り込んだ作品で、神々が2人の人間を作った──1人は皇帝となるべく選ばれた者、もう1人は平民となるべく生まれた者──この2人の行く末を描いたのがこのオペラでありまして、ドラマの最後に平民であるタラールが妻を誘拐した暴君を打ち倒し、民衆の離反を悟った暴君が自殺するという結末を持っています。そして民衆は、新しい皇帝として平民であるタラールを求めます。彼はこれを辞退しますが、最終的には受け入れて国王になるわけです。その末尾ではこういう教訓が述べられます──すべての人間は、国王であろうが何人であろうが、重要なのはその人間の高潔さであって、それこそが人間の価値なのだ、と。そこで言われたことは、フランス革命の理念の先取りといってもよいでしょう。

さて、まるでモーツァルトの話をしないと怒られてしまうので、この辺でしておきましょう。

モーツァルトは1756年に生まれました。サリエリより6歳年下です。ご存じのように子供のころに才能を現し、父親に連れられてヨーロッパをくまなく旅行しました。幼くして才能を現した点がサリエリとまったく違うのですが、こうした部分からもサリエリとモーツァルトの関係が垣間見えてきます。 と言いますのも、ザルツブルグの宮廷作曲家だったモーツァルトは大司教から侮辱され、ウィーンで1人立ちして生きて行こうと決心するのです。そのときウィーンで宮廷作曲家をしていたのがサリエリであれば、モーツァルトとサリエリはおのずとライヴァル的関係になっていくわけです。現実には、サリエリの方がはるかに高い地位にありました。そして多忙をきわめ、フランスにもオペラを作曲しに行っているわけですから、モーツァルトの出世の邪魔をするような暇はなく、何一つしていないのですが、モーツァルトはサリエリに対して敵愾心を持ち、自分が出世できないのはサリエリのせいだ、ということを書簡に記しています。

ここで興味深い作品を聴き比べてみたいと思います。モーツァルトには《歌え、喜べ、幸いなる魂よ》という曲があり、その最後に「アレルヤ、アレルヤ」と歌われます。誰でも知っているでしょう。この〈アレルヤ〉と、サリエリの書いたモテットの中の〈アレルヤ〉を聴き比べてみたいと思います。どちらもイタリアで、カストラートのために作曲されました。モーツァルトの曲は有名なので聴く必要はないとも思うのですが、聴き比べならやはり連続して聴かねばならないと思います。それには同じ歌手が歌わないと意味がない。歌手の声のタイプが違っては印象が異なります。で、この曲はカストラートが初演したものですから、同じ男性ソプラノの演奏により、モーツァルトの〈アレルヤ〉とサリエリの〈アレルヤ〉を続けて聴いてみましょう。どちらも2分ちょっとの曲です。

(曲) モーツァルト《エクスルターテ・ユビラーテ》K165より終曲〈アレルヤ〉

サリエーリ《圧制者はおののき》より終曲〈アレルヤ〉


作曲された年代が違いますし、年齢も違いますけれども、これは同じタイプのモテット、しかもイタリアでイタリア人のカストラートのために書かれたという点では比べる価値のある作品だと思います。ならばどちらがどう、ということはここでは言いません。


時間の関係でどんどん話を進めます。サリエリがどういう人だったのか、という点についての証言はそれほど多くは残されておりませんが、その中の1つを3頁の括弧内に引用しておきました。それを読んでいただければ判るのですが、現代の音楽書などではサリエリが憂鬱症であったとか、怒りっぽい性格だった、あるいは「暗い」とか、水しか飲まないとか、そういうことが言われているのですが、現実にはサリエリの友人の伝記作家の書いた文章の、どちらかというとマイナスの部分を要約したものが現代の音楽書に述べられているということがお解かりいただけると思います。全文ではありませんが、サリエリに関して最も詳しく書かれているものをそこに訳しておきました。それともう1つ、ライヒャルトが書いたサリエリの家を訪問したときの様子についても引用しておきました。読んでいただければ、判っていただけると思います。

そしてサリエリとモーツァルトの関係ですが、モーツァルト自身は書簡の中で何度もサリエリの悪口を言っています。自分のオペラの上演の邪魔をしている、ということを書くわけですね。現実には、モーツァルトが書簡に書いている陰謀、あるいは邪魔立てに関して証明できる材料は全くありません。ですから現代のモーツァルト研究者はみな、サリエリがモーツァルトの妨害をしていたということすら否定しています。それだけではなく、逆に、モーツァルトには父親譲りの猜疑心でありますとか、イタリア人に対する敵愾心、敵対心があり、そうしたものが書簡に反映されている、という解釈になっています。ですから、私がサリエリを好きだから擁護するわけではなく、現在ではモーツァルト研究者もそのように考えていて、原因がモーツァルトの側にあったと言われているのです。

後にモーツァルトの毒殺疑惑が出ますけれども、現代の研究者の一人は「モーツァルトがサリエリを毒殺するなら話はわかる」と言っています。なぜならサリエリは宮廷楽長の地位にあり、ヨーロッパ中で──イタリアでも、フランスでも──評価され、オペラ作曲家としても頂点にあった人物です。これに対しモーツァルトは、イタリアでオペラを作曲しても初演だけで忘れられ、ウィーンに来て書きたくても全然仕事がないのですね。冷や飯を食べ、しかもモーツァルトは「ザルツブルグ出の田舎者」という見られ方を皇室の人間にされていたのです。そもそも当時は、モーツァルトのようなドイツ・オーストリア系の人間には宮廷楽長になるチャンスがなかったのです。モーツァルトの父親はずっと副楽長のままでした。なぜなら楽長は常にイタリア人だったからです。そうした環境にあって、父親の不遇な姿を見ていたモーツァルトは、自分も出世の目がないのですから、宮廷楽長のサリエリが自分の足を引っ張っていると解釈するしかなかったといってよいと思います。

 けれどもモーツァルトの亡くなる年に、2人は和解します。ただし、2人が和解をしたというのは私が本に書いたことであって、和解をしたと証明する材料そのものは直接的にはありません。では、私は何を根拠に2人が和解したと書いたのか。その一部をここに挙げておきました。

要するに、サリエリとモーツァルトの理解者だった皇帝ヨーゼフ2世が死んでしまうのですね。死んだ後、新しい皇帝が即位します。この新しい皇帝レーオポルト2世は、サリエリのことが嫌いだった。モーツァルトのことも評価した様子がない。2人とも、新しい皇帝が即位したとたんにオペラ劇場での仕事を失っていくわけです。そして新しい皇帝の即位式がプラハで行われます。そのときサリエリはどうしたか。サリエリは宮廷楽長になっていましたから、新しい皇帝のために戴冠式を祝う曲を書いて演奏しなければいけないはずなのに、それをせず、モーツァルトの音楽を持って行きます。モーツァルトの曲を幾つも戴冠式へ持って行き、モーツァルトの曲で新しい皇帝の戴冠を祝ってしまうのです。なぜサリエリがそうしたのか、ということは判りません。ですが、その頃にはサリエリがモーツァルトの音楽をきちんと評価していた、という解釈も可能です。あるいは、新しい皇帝が自分のことを嫌いということをサリエリも判っているわけですから、「だったらいいよ、自分は新しい曲を書かないからね」、そういう意趣返しのようにも思えます。

いずれにしろ、そのあたりでモーツァルトとサリエリが急接近したのは確かです。なぜなら、モーツァルトの宗教曲を演奏しようと思っても楽譜が出版されていないわけですから、「貸して」とか言わないとなかなか難しいわけで、2人の間になんらかの交流がこの段階でできていたのは間違いないと思います。

そして、モーツァルト最後のオペラ《魔笛》の上演に、モーツァルトはサリエリを招待します。サリエリとその愛人といわれたカタリーナ・カヴァリエーリを招待するのです。その有名な手紙を、4頁の真ん中に引用しておきました。そこにモーツァルトは、「サリエリが僕のオペラを観てくれて、すばらしいと褒めてくれた、こんなすばらしいもの見たことがない、と言ってくれた」ということをうれしそうに書いているのですね。そのときモーツァルトの妻は、モーツァルトの弟子ジュスマイアーと一緒に温泉か何かに行って遊んでいたのですが、その妻に宛ててそう書いているのです。そしてこの、サリエリと一緒に《魔笛》を観て、サリエリがこんなに褒めてくれたと書いた手紙が、モーツァルトの現存する最後の手紙なのです。

ですから私はこの手紙を根拠にしたというよりも、手紙に表れているモーツァルトのすこやかな様子が決して作り事ではなく、明らかにそこで2人の心の交流というべきものができていた、というふうに解釈しているわけです。

さて、話を進めましょう。枠内の部分は後で読んでいただければ幸いです。これは本からとった部分です。

この後サリエリは、さらに高い地位へと向かいます。ただし、先ほど言いましたように、ヨーゼフ2世の死後、急に不遇になってしまうわけですね。でも、なんとか地位を取り留める。なぜなら、新しい皇帝レーオポルト2世は即位からわずか2年で死んでしまうのです。彼はヨーゼフ2世の弟で、トスカーナ大公だったのですが、女性好きで、いろいろなおめかけさんと夜の生活でくたびれすぎて早く死んでしまった、という説を言う人もいるのですが、実際はそうではないと思いますね。

レーオポルト2世は、ヨーゼフ2世の残したさまざまな政治的問題を解決しなければいけなかった。トルコとの戦争もその1つです。それから、ヨーゼフ2世がハンガリーなど、ハプスブルグ家領内の属国の立場を認めないで、ドイツ語政策を行います──例えばハンガリー語を使ってはいけない、といって。そうした極端な民族政策の失敗が、すべてレーオポルト2世にのしかかってきた。2年間で、レーオポルト2世はある程度それに解決をつけ、亡くなってしまったわけです。そして、新たな皇帝が即位します。フランツ2世です。サリエリが42歳のときに、フランツ2世が皇帝になるわけです。この皇帝はあまり音楽に関心を示さなかったのでサリエリから宮廷楽長の地位を奪わなかったのですが、その代わりに音楽に関心がないからサリエリに新しい仕事を特に与えず、宮廷礼拝堂の合唱団の指導でありますとか、そうした宮廷内の仕事をするよう命じました。そして、「新しいオペラはもう書かなくていいよ」というようなことを言ったともいわれています。ですからサリエリはオペラ作曲家として頂点を極めながら、ヨーゼフ2世の死後は数作のオペラしか書いていないのです。

その中で、オペラ作曲家としての晩年の作品で名作とされるのが《ファルスタッフ》というオペラです。これもDVDが、日本語字幕付きで出ています。その一部を観る時間があるのか、ないのか──たぶん見る余裕があると思いますが、まだ大事な話がありますので時間が残ったらご覧いただくことにします。

この《ファルスタッフ》が、サリエリのオペラ作曲家としての晩年の名作にあたります。この作品は日本でも何度か上演されています。3年くらい前でしょうか、東京室内歌劇場が若杉弘さんの指揮で上演しましたので、ご覧になった方もおられると思います。

問題は、モーツァルトが亡くなった後──モーツァルトの死は1791年ですね。ヨーゼフ2世の亡くなった翌年にあたります──、サリエリにオペラ作曲の仕事が減ったことです。先ほど言いましたように、彼は音楽界のさまざまな仕事をするようになり、宮廷楽長のまま生涯を終えるわけですから、その後数十年もの間、ウィーンでそうした活動を続けるわけです。中でも重要な仕事、それが音楽家協会という協会の慈善演奏会を指揮することでした。これはサリエリの先生ガスマンの立ち上げた協会で、別名「孤児と寡婦の会」ですが、要するに音楽家の遺児や路頭に迷った未亡人を救うための組織を作ったわけです。そして、そうした音楽家の未亡人たちに年金を与えるため、慈善演奏会を毎年開きます。その曲目の選定、オーケストラの訓練、演奏の指揮をサリエリが行っていたわけです。それを毎年毎年行っている。ある時期からは、ハイドンの《天地創造》や《四季》といったオラトリオが、毎年サリエリの指揮で演奏されています。

それから、ウィーン学友協会の設立、あるいは音楽学校の設立ということもサリエリが行っています。現在のウィーン国立音楽院の前身にあたる音楽学校の立ち上げに協力したのがサリエリであり、その初代声楽教授がサリエリだったのです。

こうした活動によって、オペラは書かなくはなったけれども、ウィーン音楽界の頂点に立つ、影響力のある人物として、彼は尊敬を集めました。そして多数の弟子たちを育てています。サリエリの弟子には、作曲の弟子、歌の弟子がいましたが、例えばモーツァルトの遺児の音楽教育をサリエリはしています。それから、有名どころではシューベルト、ベートーヴェン、少年フランツ・リストにも音楽を教えています。つまり、彼はウィーン古典派の最も重要な作曲家たちの先生だったわけです。

ただし、ベートーヴェンに何を教えたかというと、基本的にはイタリア語のテキストに歌を作曲する方法です。というのは、ウィーンにいる著名なイタリア人作曲家はサリエリが唯一であって、サリエリはメタスタージオから詩の朗読も習ったこの道の最高権威でしたから、多くの作曲家──ドイツ、オーストリー圏の作曲家──がサリエリの門を叩いて、イタリア語のテキストにどう作曲したらいいか、イタリア・オペラを書くにはどうしたらいいか、ということを学んだわけです。ですから、ベートーヴェンがサリエリに習っている頃に書いた歌曲などが幾つも残っています。それらは練習帳の形です。つまり、サリエリがテキストを与え、ベートーヴェンが作曲する。それをサリエリが添削する──ここはちょっとおかしいのではないか。こうした言葉に対してはこういう音楽の使い方をするのだ、ということを教えるわけです。シューベルトに対してもそうした教育を行っています。シューベルトに関しては、もう本当に少年時代から面倒をみております。シューベルトもサリエリのことを尊敬していました。

1816年、サリエリ66歳のときに、サリエリのウィーン生活50周年がやってきます。彼は16歳からウィーンに来ているわけですから、50年間ウィーンで暮らしている。それを祝う会が開かれ、彼は勲章をもらっています。そのとき、これを祝う会のために弟子シューベルトの作曲した曲があります。それが《サリエリ氏の50年祝賀によせて》という作品です。合唱曲、アンサンブル曲といった方がよいでしょうね。そこにテキストの翻訳を載せておきました。これをみると、シューベルトが先生のことをいかに尊敬していたかということがよくわかる、そうしたテキストだと思います。この詩はシューベルト自身が書いたものです。この曲を聴いてみましょう。

(曲) シューベルト《サリエリ氏の50年祝賀に寄せて》D407



シューベルトの愛情が感じられますね。これはシューベルトが18歳のときに書いた曲です。シューベルトは9歳か10歳のときからずっとサリエリに師事しているわけですから、18歳になってもまだサリエリ先生の下で勉強していたことになります。そしてご存知のように、シューベルトは歌曲作曲家として、特にドイツ・リートの作曲家として成功を収めていくわけですが、サリエリはシューベルト少年になんと言ったかというと、「ドイツ語のような野蛮な言語に歌を書いてはいけないよ」と言っています。ドイツ語は歌に不向きだ、というわけです。モーツァルトもフランス語に対して「悪魔の言語」と言ったほどでありまして、イタリア語が一番歌に向いている、というのがこの時代の常識でした。

シューベルトが歌曲──ドイツ・リート──を書いていくのは1810年台半ばのことですが、それ以前にサリエリはこのジャンルにもさまざまな曲を書いています。サリエリにはイタリア語の歌曲、フランス語の歌曲──いわゆるメロディといわれるもの──、そしてドイツ・リートの作品があります。サリエリのドイツ・リートを聴くと、シューベルトがリートを書く前にサリエリもそれらしきものをちゃんと書いていた、ということが判ります。作曲年代ははっきりしませんが、おそらく19世紀の初め頃に書かれたと思われるサリエリのドイツ歌曲を、さわりだけ1分くらい聴いてみたいと思います。ちゃんと独立したピアノの前奏があり、その前奏の音楽にのせて旋律が歌われるのですが、サリエリはフランス歌曲を書くときとイタリア歌曲を書くときでは、全然違った音楽の作り方をしています。それらを聴き比べる時間がないので、今日はサリエリのドイツ・リートのさわりだけを聴き、シューベルト以前にこういうものが書かれていたという証明をしたいと思います。

(曲) サリエリ作曲のドイツ・リート〈私の未来の恋人に〉


途中で止めるのは忍びないので、大変延びてしまいました。ドイツ・リートらしく、テキストに対し通作的に、繰り返し部分を持たず、テキストの中の言葉とドラマに則した音楽を作るというスタイルを、ここでサリエリはやっています。サリエリのフランス語の歌曲は、当時のフランス歌曲のスタイルにあった反復を持つスタイルで書かれています。そしてイタリア語の歌曲を書くときは、きちんとイタリア語それぞれの言葉の抑揚に沿った音楽の付け方をしています。

サリエリの作品はまだまだ復活途上にあって、皆さんがレコード屋さんに行って買おうと思っても、ほとんど手に入らない状況ですけれども、さまざまなジャンルを聴いていけば、それなりに優れた資質をもつ大家であったということが判るのです。

しかしながら、その後サリエリは最晩年に思わぬ事態を迎えることになります。それがモーツァルト毒殺疑惑です。サリエリ75年の生涯のうち、最後の3年間は完全にウィーンの中で孤立し、モーツァルトを毒殺した人だということがマスコミ──当時の新聞など──に書かれています。そのことが彼の最後の3年間をどれほど悲惨なことにしたのかということは、私のこの本を読んでいただければご理解いただけると思います。最後の章は大変読み応えがあると自分で言うのもなんですが、批評で褒められた部分でありまして、なぜサリエリがモーツァルト毒殺の犯人にされてしまったのかが判ります。

それは一種の冤罪でありまして、その冤罪を晴らすために今度はカルパーニという彼の友人──しかもウィーン刑事局の人物──が、一種の裁判の弁論のような形でサリエリ擁護の論文を新聞に発表します。さらに、それをめぐってさまざまな事態が起きるのですが、とりわけ最後の2年間はサリエリが病気でウィーンの総合病院に入院するのですね。そして入院した後、亡くなるまでの1年半のことは何も判っていないのです。にもかかわらず、その間のベートーヴェンの書簡集、そこに何が書かれているのかというのを6頁に挙げておきました。サリエリは無理やり病院に連れて行かれ、そしてサリエリは病院で発狂し、自分がモーツァルトを殺したのだと告白し、自分で喉をナイフで裂いた、ということが言われています。

でも、それらはすべてその時代のウィーンの噂に過ぎません。疑惑のある人物が隔離されて人の前からいなくなる。そして、その人物に対してあることないこと言われるというのは、現代のさまざまな事件でも起こることで、珍しいことではないのですね。ただしサリエリは妻に先立たれ、独り病院で──ボケてはいなかったと思いますが──老衰に近くなっていくわけですから、反論できないのです。世間では、そのサリエリについてまことしやかなことが言われ、毒殺犯に仕立て上げられた、というのが事の真相であるわけです。

そのモーツァルト毒殺疑惑を題材にしたドラマが、サリエリの亡くなった数年後に書かれました。有名なロシアの文豪プーシキンの書いた『モーツァルトとサリエリ』という劇詩です。そして、その劇詩を基にして1人の作曲家が19世紀末にオペラを書きました。それがリムスキー・コルサコフの作曲した《モーツァルトとサリエリ》という作品です。これは残念ながら、きちんと市販されている上演映像がないのですが、ご覧いただきたいと思って今日は持って来ました。時間の関係で、途中で止めさせていただきますが、英語による上演です。このオペラは2人芝居で、モーツァルトとサリエリが出てきます。最後にサリエリがモーツァルトを家に招待し、一緒に食事をするときにモーツァルトの飲むグラスに毒を入れるのですね。そして、モーツァルトがそれを飲もうとするのを見たサリエリは、「あっ、飲んではいけない!」と言うのですが、もう手遅れでモーツァルトは飲んでしまう。そしてモーツァルトは、「なんだか調子が悪くなった、眠くなった。失礼するよ」と言って出て行く。そして、その後のサリエリのモノローグで終わります。そこでサリエリが何を言うかというと、「天才というものは、かつてすばらしい芸術のために殺人を犯さなかっただろうか。ミケランジェロは、すばらしい絵を描くために人を殺さなかっただろうか?」ということを言います。

このオペラのフィナーレ部分で流れるのがモーツァルトの《レクイエム》なのですね。モーツァルトはサリエリに《レクイエム》の楽譜を見せます──自分はこういう曲を書いている、と。サリエリはその《レクイエム》の楽譜を見る。すると音楽がわっと鳴ってくるのですが、楽譜を見ながらサリエリがショックを受けて泣くシーンがあります。そしてその後に、モーツァルトがその場を立ち去っていきます。

では、このオペラの最後の部分、毒を盛るところからご覧いただきます。ただし、最後の独白部分は時間の関係で割愛させていただきます。

(映像) リムスキー=コルサコフの歌劇《モーツァルトとサリエーリ》より


ごめんなさい。ここで止めます。この後モーツァルトは眠くなったと言って去るのですが、彼が毒の入ったグラスをあおいだ後に、サリエリはモーツァルトの《レクイエム》の楽譜を見てショックを受けるわけです。モーツァルトは純真ですから、「僕の曲、気に入った?」なんてことを言います。今日お渡ししたテキストの最後に《モーツァルトとサリエリ》の台本をつけてあるのでご覧ください。サリエリはモーツァルトを殺してない──これは確実な事実であります。けれども最後の3年間、彼はそうした噂に苦しめられ、老衰のため亡くなり、75年の生涯を閉じたわけです。

普通ですとここで話は終わり、サリエリの生涯はおしまいということになるわけですが、私はちょっとへそ曲がりなので、あと1つだけ付け加えさせてください。これは私の本にも書かなかったことで、サリエリの《レクイエム》に関することなのですね。サリエリはモーツァルトの毒殺疑惑が出る前に、自分自身のための《レクイエム》を作曲し、自分が死んだらそれを演奏してくれるよう、友人の伯爵に自筆の楽譜を託しています。実際サリエリが亡くなった後、弟子たちが彼の《レクイエム》を演奏しています。

これから聴くのはそのサリエリの《レクイエム》──自分自身のために書いた《レクイエム》──の「ラクリモーザ」の部分です。前半部の終わりですね。「ラクリモーザ」というのは、モーツァルトの《レクイエム》では、モーツァルト自身が「ラクリモーザ」──「涙の日」──の8小節目まで作曲して亡くなり、未完のまま残されました。それが「涙の日」です。私はサリエリの《レクイエム》を聴いていて飛び上がってしまいました。モーツァルトと同じ音楽が出てくるのです。実に不思議なことです。楽譜を載せておきました。7頁目です。それがモーツァルトの書いた〈おお聖なる絆よ〉という歌曲で、テキストの内容からモーツァルトがフリーメイソンのために書いた最初の音楽とされています。そのフリーメイソンのために書いたモーツァルトの歌の最初の4小節が、そっくりそのままサリエリの《レクイエム》の「涙の日」の中に出てくるのです。それが偶然なのか、なんとも言いがたいですね。聴いてみましょう。モーツァルトの歌曲はたったの1分です。サリエリの方は3分くらいですので、すみませんが質疑応答の時間を短くしても、この不思議な一致、「いったいこの絆とは何なのだろう」ということを考えていただきたいと思います。

(曲) モーツァルトの歌曲〈おお聖なる絆よ〉 


次はサリエリのレクイエムで、今から2分後くらいに合唱でこのメロディが出てきます。

(曲) サリエリ《レクイエム》より「レコルダーレ」~「ラクリモーザ」


お聴きのように、この4小節は音楽的に全く同じです。一体この一致に何があるのでしょうかということは──僕はロマンチストですから──、謎は謎のまま残しておきたいと思います。でも、サリエリの《レクイエム》の「ラクリモーザ」の最後に、モーツァルトの書いた歌曲と同じメロディが出てくるというのは驚きではないかと思います。このことは今日ここに来て私の話を聞いた人しかまだ知りません。そのことを自慢してください。

というわけで、時間を押してしまいましたが、話はこれで終わりです。ご質問のある方は、超特急でお答えしますのでどうぞ。ないようですね。


司会  それでは、懇親会の方でそれについてはしていただきましょうか。水谷さん、本当にどうもありがとうございました。本当に今まで我々が知らなかったことを、リムスキー=コルサコフのあの曲は僕全く知らなくて、今日初めて見たので、非常に面白く思いました。その他にもいろいろな新しい事実を教えていただいて、本当にどうもありがとうございました。もう一度改めて拍手をお願いします。