日伊修好通商条約の締結

第316回 イタリア研究会 2006-08-08

日伊修好通商条約の締結

報告者: 岩壁 義光


第316回イタリア研究会(2006年8月8日)

講師:岩壁 義光氏

演題:「日伊修好通商条約の締結」


司会  皆さん、こんばんは。イタリア研究会事務局の橋都です。今日は夏休み中、またちょっと天気があやしいところをご参加くださいまして、どうもありがとうございます。これから8月のイタリア研究会の例会を始めたいと思いますが、今日は「日伊修好通商条約の締結」ということでお話をいただきます。講師の岩壁さんをご紹介申し上げたいと思います。岩壁義光さんは、1950年東京生まれ、法政大学の大学院のご出身です。専門が日本近代史で、1978年から、神奈川県立博物館の学芸部に勤めておられまして、主任学芸員を経て、1990年から、宮内庁書陵部編修課に主任研究官として勤務されております。首席研究官、編修調査官を経て、現在編修課長。編修といいましても、編集ではなく、シュウは「修」という字です。編修課長という役職についておられます。先ほど申し上げましたように、日本の近代史がご専門で、幕末のペリー来航を絵画的な歴史資料から考察した「黒船来航譜」とか、維新の明治天皇が地方巡幸をされた折の基礎研究である「太政官期地方巡幸研究便覧」というような書籍を出版されております。今回はイタリア研究会ということで、日伊修好通商条約についてお話をいただくわけですが、イタリアはご存知のように他のヨーロッパ諸国と違って、統一がかなり遅かったわけですね。そういう意味では、英国、フランス、米国などと、日本の関係というのは違うところがあるのではないかというふうに思います。また、お話にも出てくるかと思いますが、日本とイタリアとの関係は、絹ですね。蚕の卵とか、あるいは絹の生糸の輸出といった点でイタリアと、江戸末期から明治にかけての日本は大変関係が深かったようであります。そういったことも含めて、これからお話をお伺いしたいと思います。それでは、よろしくお願いします。


岩壁  こんばんは。岩壁でございます。本日は「日伊修好通商条約の締結」ということでお話をさせていただきます。私は全くイタリアにつきましては素人でございまして、外交の方は日中関係のほうが専門でございますので、今日は誤ったことをお話しないように気をつけます。あいつ間違っているなと思いましたら、ご指摘いただきたいと思います。

そうは申しましても、今ご紹介いただきましたように、私は神奈川県立博物館に12年おりました。神奈川県立博物館というのは、少し他の博物館とは違っておりまして、完全研究部制なのです。その中で、近代の開港問題について研究せよということで、居留地問題を少し扱いました。そこで、条約未済国の人間の法的な位置、つまり条約を結んでいない国の方が既済国人と同じように開港場の居留地に商業活動する場合の権利だとか、あるいは刑法上の問題などを研究してまいりました。

その対象は、最も数的に多かった在留中国人、清国人の問題だったわけです。それを専門としていたのですが、今日お話させていただきますイタリア人も条約の未済国人として長く横浜で貿易活動を行っておりました。その条約未済国人であったイタリア人が、条約既済国人、つまり条約を結んだ国の人になるわけで、そこに至までにどのような問題があったのかということを若干お話させていただきます。

お話をさせていただく順序は、最初に日本の条約の枠組みと申しますか、幕末における欧米、特に欧州ですが、欧米の条約の枠組みについてお話いたしまして、それから、修好通商条約、特に日米修好通商条約の特徴と、それから、その持った問題点といったところ。

それからよく皆さんがテレビなどでご覧になっているかもしれませんが、安政5年に結ばれます条約、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシアと結んだいわゆる「安政の五カ国条約」ですが、この条約が天皇の勅許のない仮条約だという話がテレビの時代劇やドキュメンタリーでも取り上げられますが、その天皇が認めなかった条約について、なぜ認めなかったのかという話を若干させていただきます。

それと次に、居留地といったものは一体どのような町なのかということで、居留地の特性、特質、そして、そこで行われていました日本独特の居留地貿易の特徴といったものをお話いたします。いわゆる現代の貿易と居留地貿易は少し違います。また当時の中国がおこなっていた貿易ともかなり異なっております。日本型といいますか、特殊タイプとしての特徴から居留地と居留地貿易をお話し致します。

 それから3つ目には、いよいよ今日の主要テーマですが、日伊修好通商条約の締結のお話を致します。この締結につきましては、はっきり申し上げますと、日本側の資料というのはほとんどありません。私はイタリア語がわかりませんし、フランス語もわかりません。英語のみほんの少しわかります程度です。随いまして、本日のイタリア側につきますお話の典拠は、この大久保昭男さんの労作であります「イタリア使節の幕末見聞記」に依るところ少なくありません。戦前にも同書の翻訳はありますが、現代的な用語使いや誤訳の訂正などを考慮して、今回の講演には講談社の学術文庫版を利用しました。

それですと、この大久保さんの労作を読んで終わりなのかと申しますと、それではあまりにも今日お集まりになっていただいた方々に申し訳ございませんので、日本側に残っている外交史料であります「通信全覧」「続通信全覧」を可能な限り利用して、日本側からの視点に注目したいと考えております。この通信全覧というのは、幕府が幕末期に諸外国と条約を結んだり、交渉を行ったりした時の文書を明治になって編纂してものでございます。明治になりまして、幕府はいったいどんな外交をしていたのかを、新政府が外交をやるうえでわからなければ困るということになり、旧幕臣たちを新政府に取り込み、旧幕時代の外交記録、いわゆる外交文書を編纂させたのが、この「通信全覧」です。その中に、このイタリアとの交渉の一件がございます。しかも、特にイタリアの場合には、フランスのメルメ・カションMermet de Cashonが仲介役になりますので、カションとやり取りした書翰が中心となっています。そのカッションの書翰およびカッションがイタリアに渡した文書と、イタリア使節であったヴィットリオ・アルミニヨンFrancesco Vittorio Arminjonの幕末見聞記とを比較しながらお話をさせていただきます。また、その中でお時間がありましたらイタリア使節団との交渉場所についてのお話をさせていただきます。

 こうした内容で1時間半お話をさせていただきますが、私は話もあまりうまくありませんし、発声もよくないので、聞き取りにくい時には分からないとおっしゃっていただければ、改善をさせていただきますのでよろしくお願いします。

 それでは、最初に、実はこのお集まりがどういうお集まりなのかわからなかったものですから、どういったレジュメを作っていいのか大変迷いました。その結果、昨年12月に新しいすてきな建物のイタリア文化会館で、「近代日本とイタリア人のまなざし」という日伊文化交流史研究会のセミナーを開催するから何か話せとのお申し付けにより、困り果てたあげくに「『夷狄』から『外国人』へ-視覚情報の果たした役割について-」と題しまして幕末の絵画的資料を用いて、日本に来航した外国人を日本人がどう見たかという話をしましたので、それと同じく簡単なレジュメを今日も作りました。私の話にご興味をもたれた方は一生懸命メモされませんと、後で分からなくなってしまうということになっておりますので、お気をつけいただきたいと思います。

 それでは最初に、「安政の五カ国条約」の締結と貿易というお話に入らせていただきます。まず、幕府の外交といったものを考えてみる必要があるのです。幕府の外交と申しますのは、ご存じのように、16世紀のはじめに、鎖国を致します。鎖国とはケンペルの使った言葉なのですが、国を閉ざして何もしないかというとそうではございません。当然皆さんご存じのオランダとの交流、中国との交流がございます。

幕府は最初外国との付き合いを、通信の国と通商の国に分けました。通信の国とは朝鮮の国を指し、書契(国書)と礼単(進物)を携えた朝鮮通信使と呼ばれる使節団が将軍の代替わりに江戸を訪れました。この使節団の江戸参府の様子を描いた絵巻が時々東京国立博物館で展示されるので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。通商の国は紅毛、すなわちオランダで、鎖国以降は長崎の出島で商館による交易が行われました。このふたつのパイプを幕府がその手中に収めておくというのが、幕府の外交政策でございました。特にオランダ商館長による毎年の江戸参府時には、1年間にこんなことがヨーロッパでは起こりましたという国際情報を認めた「阿蘭陀風説書」が幕府に提出されました。その中には、たくさんのヨーロッパの政治情報もありますし、それから最も重要な軍事情報もあります。重要な軍事情報というのは、軍事技術情報のほか戦争の情報などが含まれていました。

その後19世紀になりますと、ヨーロッパがだんだんアジアに進出してまいります。特に、アヘン戦争において、日本が大帝国として一目も二目もおいていた中国がイギリスに負けてしまうという事態が起きます。幕府の役人や儒者は、中国がなぜ負けたのかと色々考えますが、それより何よりああいう国が負けるのであれば、もしも日本がヨーロッパにいじめられるようなことがあれば、これは大変なことになる。世界やヨーロッパのおかれている現状をもっと知らなければいけないということで、すでに形骸化していた従来のオランダ風説書から、違った新しい情報を満載した風説書が必要であるということになりました。この風説書は「別段風説書」といもので、いわゆるディスパッチでございまして、非常にヨーロッパの情勢をこと細かに幕府に伝えます。その中で、例えば、嘉永5年には、ペリーが来年当たり日本へ行くらしいというようなペリー来航情報とか、あるいは、イタリアで独立戦争が起こっているよといったような情報も含まれています。それから、スペインの軍隊がどうしたとか、非常に細かい情報が含まれているのですが、今お話しましたように、その中で、ペリーの来航情報というのがあります。嘉永6年、1853年ですけども、ペリーが来まして、翌年に日米和親条約という条約が結ばれます。

この条約の締結が、まさに日本における最初のヨーロッパの法体系と、日本の法体系とぶつかり合う第一歩だったのです。厳密に言えば、例えば他にもいろいろありますが、2つの違った法体制の国家同士がぶつかるというのは、江戸時代には初めてだったわけで、ここで日本は非常に多くのことを学ぶことになります。

そのことが通商条約の締結に深く影響を及ぼしてくるのです。ご存知のように、日米和親条約の第11条には、下田に領事館を置くことができるという条項があります。この内容について日本文と英語訳が違っていまして、大変困った自体に一時陥っています。英語の方では、米国は下田に領事館を置く権利があるというのですが、日本語では、必要ならば置いてもいいよという消極的な内容なのです。そしてこの条文を根拠にアメリカのハリスが開港場である下田に渡来する。渡来すると同時にこの条約文の相違が問題になります。つまり、日本は条約締結の難しさを実感するわけです。一寸余談ですが、ハリスはニューヨークの商人でございます。ハドソンフォールという小さな町で生まれた人で、ニューヨークで貿易商として成功し、政治にも関わりをもち教育長としてニューヨーク市立大学を作るなど、多くの足跡を残しています。その彼が自ら条約交渉を買って出て、日本との修好通商条約の締結を行うわけです。

安政4年(1857)12月に交渉を始めまして、12回の交渉の結果、翌年の1858年に条約として内容が固まりますが、将軍継承問題と、外国との通商条約締結問題とが非常に絡み合いまして、ようやく日米修好通商条約が安政5年6月19日に締結に至ります。

この通商条約について少しかいつまんでご説明しますと、まず第1条に、これはお互いの代表、すなわち公使をそれぞれの首都に置くことができる。和親条約の場合には、一方的にアメリカが下田に領事をおくことが出来たのとは異なります。ですから、双務的な権利だった訳です。つぎに開港場に領事館をおくことができます。公使と領事の違うところは、領事の方は商業上の権利を保護するのが重要な役割です。公使は、国の代表として外交を行うことが第一となります。

それからもっとも大きいのは第3条で、日本に開港場の設定を規定したことです。すでに開港場となっていた箱館と下田のほか開港場として指定されたのは神奈川・長崎、それから新潟と兵庫です。和親条約の時には、アメリカは下田と箱館でしたが、後で来たロシアが長崎を加開港させましたので、アメリカは日米和親条約第9条の最恵国条款の規定に随い長崎も開港として使用する権利を得ます。最恵国待遇とは、どこかの国が新しい条約を結んだ時に、自国の結んだ条約より内容が優位であれば、自動的にその条約と同じ権利を手に入れられるというものです。

それからもう1つ、ここで決められたのは開市場です。開市場とは、条約上の文面から申しますと、商業をするだけの場所です。外国人は、開港場では土地を所有することは出来ませんが家屋を所有できるのに対し、開市場では土地も家屋も所有できません。そこが、開市場と開港場の非常に大きな差があるのです。ですから、居留地のほうでは、永住が可能なわけですね。このことは後に非常に大きな問題になるのですが、今申しました箱館、神奈川、横浜と、それから新潟、兵庫ですね。これが5つの開港場。そして、開市場としては、江戸と大坂とがしていされます。下田は横浜開港後に閉鎖されます。

次に規定されたのは税率です。これも後に大きな問題になるのですが、税率は輸入税で一般のものが20%。後に20%高いよという話が出され、極端に下げられます。それから、輸出税につきましては、これは一部例外を除き一律5%です。また、この関税の決め方は協定関税というもので、関税の決定に日本側の自主権がなく、安政の通商条約がいわゆる不平等条約といわれている理由のひとつがここにあります。

関税の自主権がないということに合わせて、もう1つ問題なのは条約既済の外国人に対する裁判権が日本側にないことです。中学校、小学校で不平等条約の内容のひとつとして治外法権というものを習ったことがおありになると思いますが、これは第6条の領事裁判権の規定のことです。簡単に言うと、和親条約から引き継がれた内容ですが、罪を犯した人はその人が属している国の法律で裁くということで、いわゆる属人主義による考え方です。ですからアメリカ人がもしも貿易取引上で悪さをしたとしても、日本人は、アメリカ人が不正をしたとして訴える時には、米国領事館に対して訴えを起こさなくてはなりません。今であれば、日本の警察へ行って、日本の警察が調査し逮捕することになるのですが、当時は、米国人は米国領事がアメリカの法律で裁くことになっていました。そうすると、日本人が治安上や商業上で不利益を蒙っても、日本人はその外国人を裁くことができない。場合によっては、領事の恣意的な判断が働くなど、大きな問題が生じることになりました。

それから、お金の交換レートの問題があります。基本的には同種同量交換ですが、開港当時に一番問題となったのはこの交換から派生した問題でした。細かくは申し上げませんけれども、メキシコ銀1枚と一分銀が3枚で取替えることになっておりましたが、もともと日本国内では1分銀4枚と小判1枚の交換がなされておりまして、その結果、外国商人はメキシコ銀4枚を12枚の一分銀と取り替え、この一分銀をさらに3枚の小判と交換して上海や香港に持ち出し、そこで銀貨と交換すると12枚のメキシコ銀が手に入りました。これは金の含有率から1枚の小判がメキシコ銀4枚分と換算されたからで、日本国内でのみ通用する一分銀と一両小判の交換の約束が、海外ではまったく異なった価値をもたらしたわけです。開港当初に発生した典型的な投機に関わる事例といえます。ちなみにこれにより外国へ流出した小判は20万両とも30万両ともいわれております。

最後のもう1つは、第12条に、今まで結んだ条約と矛盾しない条項が前の条約の中にあるならば、それはそのまま引き継ぎますよということなのですね。それが和親条約の第9条の最恵国待遇ということで、このことは実は後で非常に問題になります。イタリア研究会の会員の中にもご興味のある方が少なくないと思いますが、明治5年に岩倉使節団がアメリカとヨーロッパに出かけますが、最初にアメリカで条約を改正しようと思ったときに、アメリカのフィッシャーという国務大臣から言われてしまうのですね。なんと言われたかというと、条約改正交渉してもいいけども無駄だよ、だって改正したとしても、第12条に最恵国条項を改めない限り、他の国がいい条約を持っているのだから無駄だよと。だめだよと言われて、初めてこの最恵国待遇の重要性を日本が認識したというふうに言われています。

こんなふうに、非常に修好通商条約というのは、いろいろな問題をはらんで作られた条約だったのです。



この通商条約を結んだ後に、幕府は政治を委任されている朝廷から、言葉を改めれば孝明天皇から、天皇の決裁、つまり勅許をもらわなければならなかったのですがうまくいかない。和親条約のときも、実は前文に「勅諭」を信じてこの和親条約を結ぶという言葉がその前文にあります。事実、安政2年の1月でしたか、天皇に奏上しているのですね。そのときは内容が別に外国人の居留地をもうけるわけではありませんから曲がりなりにも通過したわけです。しかしながら、この通商条約の時には、勅許が得られません。したがって、これを仮条約というのですが、どうして勅許を得られなかったのかと申しますと、非常に重要なことを当時の孝明天皇は考えておられます。

日米修好通商条約が結ばれるのが安政5年6月19日ですが、その2日前、6月17日に孝明天皇が伊勢神宮に公卿、つまり高位のお公家さんを伊勢神宮に派遣しまして、それで、どうぞアメリカが日本と条約を結ばないで帰ってくれるようにということをお祈りさせます。公卿勅使御差遣というのですが、そのときに公卿が読み上げる宣命に天皇自らがお示しになられた勅旨が反映されます。通常は公卿が作成した宣命の案文を天皇に見ていただき宣命を完成するという方法が採られますが、このときは案文が作られる前に、天皇からこうした主旨で案文を作成しなさいという勅旨が出されます。この勅旨に依りますと、近年は異国船の渡来が度重なり憂患の状態になっているが、さらに昨年からは米国使節が通商条約締結の難題を申し出している。彼等は表面上は親睦を唱えながらも、実は日本を軽蔑し、何れ併呑しようとしているのであると、天皇は見ていらっしゃいます。さらに、邪宗を日本へ伝えることにもなり大変に憂慮しており、この国難に対処するため一丸となって良き方策を模索しなければならないとされているのです。実際には、6月17日に公卿勅使が伊勢に行って、この異国退散の祈祷を行い、6月23日には岩清水でも行うのですが、その間の19日に幕府は条約を結んでしまうのです。だから、言い方は悪いですが、天皇としては面目丸つぶれという、そういう状況に陥ってしまっているわけです。この史料は、毎日新聞の『御物』の東山文庫というシリーズに入っておりますので、ご興味のある方はご覧下さい

そうした反対にも関わらず、日本とアメリカを含めたオランダ、イギリス、フランス、ロシアの五カ国と条約が結ばれ、果たしてこの結ばれた条約によって居留地建設と居留地貿易が開始されます。

まず、作られた都市ということで、横浜のお話をいたします。横浜に行かれた方は当然いらっしゃると思います。お住まいの方もいらっしゃるかもしれませんが、港町横浜というのは前々からある町ではありません。時間がないので細かい図はご覧にいれませんが、今の港に突き出ている山下公園に接している海岸の通りが海岸線で、その街のほとんどは砂州の上に作られた急ごしらえの港町だったのです。明治になり南にむけ釣鐘状に町が形成されますが、ここは江戸時代には吉田新田という新田があった場所です。ご覧に入れている「吉田新田開墾図」は吉田勘兵衛家が大正になりまして贈位を受ける時に記念として作成した複製です。今の野球場というのは吉田新田の堤防の外で、先ほど申し上げた港町が作られる砂州との間にあった太田屋新田という未完成新田の沼地に作られます。今横浜の関内と言われる地域は、砂州と沼地を埋め立てて造成された場所で、幕府は約9万4500両のお金をかけて作り出します。その結果、2つの顔を持つ町が誕生します。1つは日本人町。今ご覧になっている図はやや後年の姿ですが、日本人町が港に向かって左側に位置しています。つまり、現在の日本大通から桜木町駅に近いほうが日本人の町です。これとは反対に海に向かって右側の山下が外国人居留地で、後の山手一体が加えられます。ちなみに日本大通は、慶応2年に豚屋鉄五郎という家から出火した「ぶた屋火事」により居留地が大きな被害を受けたことから外国人の間から防火帯を作れという要求が出され、日本人と外国人居留地の間に広い道ができるのですが、それが日本大通です。

居留地と定められた地域に新しい西洋の町が作られていきますが、五カ国条約に続きまして、1860年にはプロシアからオイレンブルグの使節団が日本に来まして、条約の締結を求めます。このときに、オイレンブルグは数々の風景画をその遠征記に残しています。今ご覧に入れているのが万延元年当時の横浜です。白い建物があるでしょう。これお城ではありません。これが英一番館と言われたジャーディンマセソン、イギリスの貿易会社です。その右に見えるの樹木は「たま楠」の木で、現在は開港資料館に中庭に二世の木が健在です。そのたま楠から右側が全部日本人町で、ふたつのはっきりと分けて町が作られたということが分かります。

後に、日本とイタリアが条約を結ぶときに、日本側はイタリア語がわかりませんから、オランダ語でやろうと考えます。すると、イタリア人はオランダ語がわからないから、だめなのです。それでフランス語ということになるのですが、そのフランス語の学校があったのは、図の右端にある木がこんもりしている横浜の弁財天があったところです。

さらに現在の野球場の場所には、太田屋新田の中に作られた港崎町(みよざきちょう)という遊郭がありました。開港当時の横浜は、日本人町と外国人居留地、それに遊郭とから成っています。その3要素を囲い込むように周りを溝がずっと囲っています。つまり横浜の町は、新しい出島とも考えることも出来ます。

余談にはなりますが不思議だなと思うのは、玉覧斎橋本老父の名で五雲亭貞秀が描いた「御開港横浜大絵図二編 外国人住宅図」を見ると、各商店に家畜をそれぞれ飼っているのです。つまり豚とか鳥とか、そういう動物を飼っていて、自分の家で措置して食べているのです。後になってきますと、と殺場ができるのですが、一番不思議なのは、こういうそれぞれの家で動物をと殺したときに、例えば牛ならばたくさんの骨や残骸が出るはずですが、それらをどのように処分したのかなということです。横浜の居留地の中における衛生や清掃の問題というのは、まだまだ議論される余地が残されていると思います。

それで、横浜の町というのはどんな町かと申しますと、同じく五雲亭貞秀の「神奈川横浜新開港図」によく表されていると思います。確かにちょっとデフォルメされているのでしょうが、構図の奥が山手で、そちらに向かいまっすぐ本町通が伸びています。日本人町は、現在の神奈川県立図書館のあるところに神奈川奉行所があったのですが、そっちに近いほうから一丁目、二丁目、三丁目、四丁目、五丁目という区分が出来ています。現在は県庁はかつての五丁目の運上所の所にありますが、その県庁から一丁目、二丁目、三丁目、四丁目、五丁目と開港当時とは逆の行政区画となっています。行政というのはやはりそういうふうに町を区切るようですね。

図は当時の横浜の繁華街で、荷車に積んである白い荷物はだいたい絹というふうに言われています。この茶色いの、これは海産物というふうに言われています。町は非常に賑々しいのですが、図の左の街角には三井の越後屋があります。三井は公金取扱で、大きな力を持ていました。今はもう全然姿が変わってしまいましたが...こんなような形で、横浜の町が作り出されていくのです。

次の図は「横浜開港見聞誌」にある「石川生糸店」ですね。本町五丁目にありましたが、この地は岡倉天心の誕生した場所ともいわれています。外国人と日本人の相対で生糸商いが行われている様子が描かれています。こうした錦絵は土産物の「案内物」として来浜した人々により日本全国に普及していきます。横浜は、外国商人や日本商人には貿易の場所=開港場であるとともに、一般市民にとっては、日本の国内に作られた外国というイメージがやはりあるようです。それで、たくさんの横浜のお土産品として、錦絵とか案内の摺り物がたくさん作られていきます。また外国人自体に対しても興味が高く、貞秀の「生写異国人物」のシリーズには各国の人々の容姿が美しい錦絵で紹介されています。ご覧戴いているのはアコーディオンを弾くアメリカの夫人を描いた錦絵です。

つぎに開港場で行われた貿易についてお話しします。居留地における日本商人と外国商人の大きな相違というのは、日本商人は、外国人を通して外国のものを買うし、外国人を通して日本のものを売る立場、つまり外国人がいないと日本人は貿易ができないというところに居留地貿易の特徴があります。

もうひとつは、その外国人を通して日本のものを売るときに、もともと日本には日本の流通路というのがありますから、そのもともとあった流通路と矛盾させないということが非常に重要なのです。それで、外国と貿易が始まりますと、各地からいろいろ物資が横浜に入り込みます。生糸が売れるとなると生糸を持って地方の商人が横浜に来るのですが、その時従来の流通を無視して直接横浜に生糸をもたらすしたので、国内の需要に対して供給が間に合わなくなってくる。しかも、江戸の商人たちは、自分たちが培ってきた流通形態を無視したこうしたやり方に不満を抱き、結果として幕府は五品廻送令というのを敷きます。このようにして江戸の商人たちを守ろうとするのですが、その中には今お話しした生糸のほかにお茶も入っています。このような日本側の混乱を傍目に、外国商人は米国やヨーロッパで必要とされている貿易品をあれやこれやの手段で求めます。中には強引な方法もあったでしょうが、先ほど申し上げましたように、悪いことをしても日本人に裁かれないという領事裁判権があり、外国商人は大変に優位であったわけです。また資金的にも外国商人には外国の銀行が融資を行いますから有利です。それともう1つは、自分たちがヨーロッパとの窓口ですから、常に条件的には優位に立っている。日本商人は外国商人を通じてしか品物を売れませんし、外国の市場で何がどれほど売れているのかという市況も知りません。日本人は外国人と商売をするときに、その品物をまず外国人の倉庫に入れてしまい、その倉庫に入れたときにお金をもらうのではなくて、外国商人がその倉庫からものを売ったときにはじめてもらえるのです。そういうことでも日本商人と外国商人とは、またぎくしゃくをした関係が起こるのです。

その一方、日本の通商条約体制の中で、非常に優れた点が1つありました。それは、中国とは全く違うところなのですが、日本の通商条約の中では幕府は絶対認めなかったことがひとつあります。それは外国人が自由に日本国内を旅行することを許さず、したがって外国商人は自由に旅行先で買い付けが出来なかったことです。つまり内地旅行権を認めていなかったのです。

幕末における居留地貿易の最大の貿易品は何かと申しますと、それは生糸です。日本の生糸は、文久元年(1861)から文久三年始めころまではほぼ順調に伸びていきますが、62年の終わりころから、日本の国内では、攘夷運動が非常に高揚します。これも一時期で、下関戦争と?英戦争で攘夷を主張する原動力となっていた長州と薩摩の二つの藩が政策を転換すると、大きな攘夷運動は影を潜めていき、生糸貿易は再び順調な伸びを見せます。

ただ日本側の生糸の売れ行きというのは、結局限界があるのです。それは何かと申しますと、日本の生糸は、繭でつみ、座繰りという機械で糸にします。座繰りというのは座ってからからと輪を回して糸を紡ぐのですが、糸が太筋糸、太いのです。1本の糸9000メートルの糸の重さが1グラムであった場合は1デニールというのですが、そのデニールが低いほど細い糸なのです。日本の生糸でヨーロッパ向けは11デニールから13デニールくらいです。そうした細糸筋の糸は機械製糸でないとなかなか出来ない。だから、日本の生糸は明治以降次第にヨーロッパの市場から離れています。あとでお話ししますが、ヨーロッパ市場からの後退の最も大きな理由は日本産蚕種によるヨーロッパの生糸生産の回復ですが、生糸そのものの売れ行きが鈍ったのは、日本産生糸の製糸上の致命的な特性にあったといえます。こうした欠点を補うためにも明治政府はグローバルスタンダードを念頭に置いて、機械製糸を重視し近代化に専念しなければなりませんでした。ただ、14デニールから18デニールでも生糸を買ってくれる国が現れてきます。それは、生糸の輸入制限を緩和したアメリカで、日本にとってはヨーロッパ市場の後退と代わって重要な位置を占めるようになります。

日本における最大の貿易品は、この生糸と並んで重要なのは卵、つまり蚕種であります。蚕種こそが幕末の生糸貿易といえるかも知れませんし、日本とイタリアを結びつける非常に大きな要因となっていました。

もうすでにご存知の方もいらっしゃるとは思うのですが、ヨーロッパでは、生糸生産、特に繭の生産というのは、北イタリア地方が中心です。19世紀中ごろまでのイタリアでは、主に生糸と撚糸に関わった生産農家が、北イタリアを中心に約200万戸に及んだとされています。しかし、フランスが発生元といわれていますが、1840年代から50年代にかけて、生糸の微粒子病という病気がヨーロッパに蔓延していきます。これは原生虫が悪さをするそうですが、蚕の成虫が卵を産んだときに、微粒子病の原生虫がついていると、生まれた後で成長が遅くなり、ついには黒くなって死んでしまうのです。死んでしまうときに、いっぱい黒い斑点がぶつぶつと出るので、微粒子病という名前になったそうです。この微粒子病のために、北イタリアを中心とするヨーロッパの生糸生産は非常に大きな損害を蒙るわけです。

去年12月にいらっしゃいましたクラウディオ・ザニエル氏の研究では、1850年代のイタリアの繭の生産量は、微粒子病のために約60%の減産を見たとされています。60%減産となるということは、フランスはすでにだめですから、ヨーロッパにおける絹の生産が事実上停滞するということを意味しています。それではどうするのか、打開策はあるのか。それには、新しい蚕の卵、蚕種を他地域から必要量持ってこないと絹織物産業自体がたち行かなくなってしまいます。しかしたとえ外国からイタリアに蚕種がもたらされたとしても、1年目は無事なのですが、2年目はもいけませんから、また新しい蚕種を持ってこなければ成りません。常に毎年毎年新しい卵を持ってこない限りは、イタリアの生糸産業というのはだめになってしまうという、非常に最悪の状況にイタリアは追い込まれました。

パスツールが1870年にこの微粒子病というのは原生虫によって起こることを突き止め、ひとつひとつの蚕の卵を産ませるときに隔離して生ませることによって発生させる率を軽減できること、それから、顕微鏡を使えば原生虫は見られることを発見するまでは、どうしようもなかったようです。

そのために、先ほど申し上げましたように、ヨーロッパで不足した蚕を補うためには、どんどん良質の蚕種をどこかから持ってこなければならないという状況でした。イタリア商人は世界各地に散らばり良質の蚕種を求めたようですが、最初に行きついたインドのカシミール地方の蚕種は良質でしたが山岳地帯であり、実質供給不足に陥る可能性が高く、買い付けは敬遠されました。それから中国。こちらは割とよかったようですが、ただ、政情不安で、安定的な供給ができないということと、中国の蚕種がイタリア向きでなかった決定的な理由があります。それは、中国の蚕種は産卵年のうちにかえってしまうのです。中国で買って、イタリアにもって行くまで蚕種としては時間的に持たない。だから、越年、すなわち次の年に卵から孵化するものでなければだめなのです。そうした要求に適合したのが、日本の蚕種であったのです。そのために、日本に対する関心というのが非常に高まりまして、1863年、日本の蚕種の輸出というのは本格化してき、その量は、先ほどのダニエルさんの研究では、年間100万から200万オンスくらいに昇ったであろうと推定されています。そのうちの四分の三というのは、イタリアに輸出されているということで、非常に日本の蚕種というものがイタリアに重視され、またイタリアの生糸産業界にとっては日本の蚕種獲得が死活問題になったことが分かります。

でも、ちょっと待って下い岩壁さん、あなたの言うことはおかしいじゃないか。1863年の時点ではイタリアは日本との条約はなく、自分たちが蚕種を買ってイタリアに送ことはできない筈だし、第一日本へ渡航することも不可能じゃないかと。それはもう本当にごもっともなことで、私の未済国人研究を始めたのはまさにそのことが最初の理由です。


横浜における条約未済国人の数的に最も多いのは中国人ですが、条約を結んでない人が、条約のない国に入ろうとする時にはどうするかというと、例えば私が今イタリア人で日本に入ろうとする時には、私はイギリス人に雇われたイギリス人だと言って入るのです。そして、イギリス人のサーバントだとかコンプラドールとか申告して、横浜に店を構えるのです。一度入ってしまうとどういう扱いになるかと申しますと、条約を結んでいない国の国民だから出て行けということはなかなか言えない。特にヨーロッパ人の場合は、横浜の外国人自治組織や外交団が庇うわけです。極端な言い方をすれば、文明国の人間を非文明国の人間がとやかく言うのかといった調子です。こうした未済国人が日本国に居住する場合は、日本国内法に遵う限り強制退去は勧告されません。日本の法度を遵守すれば、日本での商売を黙認するというふうになるのです。だから、ビットリオ・アルミニヨンがイタリアからの大航海を終えて横浜に着いたときに、非常に多くのイタリア人が小船でアルミニヨンの軍艦マジェンタに寄せ来たのです。『イタリア使節の幕末見聞記』をお読みになった方はすでにご存じの通り、アルミニヨンは小船を見た時に、イタリア人の多さに横浜に住んでいるフランス人よりも、イタリア人のほうが多いのではと言っているほどです。だから逆に言えば、イタリア側からしてみれば、無理に条約を結ばなくとも、商業活動ができないことはないのです。それでも国民の権利を守り、安全に商売を営ませるために条約を結ぶ必要があったのです。

イタリアの遣日使節団の全権はフランチェスコ・ビットリオ・アルミニオンという方です。実は本日お話する上で、アルミニヨンさんの略歴がわからないとまずいなと思って、昨日私の職場である書陵部の図書室へ行きアルミニヨンについて調べましたが、一般的な歴史事典には出ていません。本当にないのですね。仕方がないから、どんな文献があるかなと思って、インターネットで調べたら、日本ではだいたいこの大久保さんの本が出てきます。弱ったなと思って、今度はGoogleから入って調べたら、ようやくひっかかりました。それで、概略がわかったのですが、最初検索できたホームページをアルミニオンはイタリア人だからイタリア語と思い込んでイタリア語辞典で略歴を読もうと試みますがダメです。それは当たり前。落ち着いてよくホームページを見れば、ネットの文章はフランス語だったのです。思いこみが如何に恐ろしいか。アルミニヨンは、イタリア人ではあるけれども、フランス領となっていたChambery(サヴォイア、サヴォア)で1830年10月9日に生まれています。長じてから一時フランス国籍を得て、後にイタリア国籍に戻った、つまり微妙な時期の微妙な地域で生まれた人間なんだなということを改めて知った次第です。彼は12歳のときに王立海軍学校に入っていいますから、根っからの軍人として育っていったということになります。独立戦争に参加した後、先ほども触れましたように一時フランスの国籍を得るのですが、その後、イタリア王立海軍に就き、1861年4月28日にコマンダーになっています。1863年12月、つまり文久3年、ちょうど日本では大変に攘夷運動が盛んなころに、ナポリに創設された海軍砲術士官学校の校長に任命をされている。だから、軍人としてのエリート街道を歩んでいた方であるわけです。

今日のテーマであります日伊修好通商条約の締結のため、1865年9月1日、皇帝のエマニュエル2世から、中国および日本の皇帝と通商に関する条約を結べという全権委任を受けます。彼はナポリから出まして、モンテビデオへ行き、モンテビデオから逆に今度は東に舵を取りインド洋を経て日本に至る。日本とは1865年8月25日に日伊修好通商条約を結び、10月26日に北京へ移ります。その後、海軍少将、大将に任命されて、晩年はジュラーの評議員を務め、最後の20年間は農業と、それから経済と科学の研究に没頭した。非常に理論的にものごとを考えていくというタイプで、確かに「イタリア使節の幕末見聞記」を読んでいると彼の性格が分かります。亡くなりましたのは1897年2月4日です。日本でいうと明治30年に当たります。

この遣日使節には、トリノ市動物標本館長であったフィリッポ・ディ・フィリップが同行しています。この人は、イタリア王国の上院議員であるということで、よく「イタリア使節の幕末見聞記」に登場しますが、アルミニヨンはよく彼に意見を求めています。条約締結の基本的な立場とは如何なるものか、こういう内容の条約でどうかなど非常によく相談している。だから、そういった意味では、フィリップは日本でいうお目付けの役目だったのかもしれません。それからもう1人は、エンリコ・ジリオーリです。彼は博物学者。欧米の遠征では学者が随行することは、決してめずらしくはありません。例えば、言わずもがなのですが、ナポレオンのエジプト遠征にも学者が同行し、ロゼッタストーンを発見しています。 1853年に来たペリーも、ドクター・ジェームズ・モローという学者を連れてきます。このモローさんは植物学者です。ペリー自身はナポレオンのエジプト遠征と同じように日本へ多数の学者を同行させたいと願っていたようです。また、ペリーはアメリカ上院への報告書作成のためドイツ人画家を同行させています。ペーター・ウィルヘルム・ハイネがその人です。かれの作品はアメリカ上院への報告書の第一分冊に豊富に盛り込まれ、のちに単行本として紀行部分が刊行されると世界中の人々が彼の石版画から日本を眺めることになります。かれは後年にオイレンブルグの日本遠征時にも同行し、数々の情景を残しています。それからブラウン・ジュニアというダグレオタイプの写真機を操る人が同行し、日本の写真をたくさん撮ります。

ついでに横浜の写真師として知られた外国人にべアトーがおります。かれはイタリアのヴェネト出身だったと思います。非常に有名な歴史的写真を沢山のこしています。たぶん皆さんは下関の四カ国連合艦隊が長州の砲台を攻撃し、海兵隊員が占領したときの記念写真をご存じであろうと思います。ベアトはあの写真を写したイタリア人写真家です。ベアトは赤羽橋の写真も残しています。写真奥の方に中の橋が見えますが、ここで赤羽橋の外国人応接所でプロシア使節団と日本側との条約交渉で通訳を勤めたアメリカの通訳であるヒュースケンが切られています。

 ちなみに、右手奥に木のこんもりした辺りに大中寺というお寺がありましたが、そこでイタリアの使節団が泊まって外交交渉を行います。最初のイタリア公館といったところでしょうか、ただ外交の実務がどれだけ行われたかは分かりません。

 つぎに日本へ至る経路ですが、1865年11月8日にナポリを出発いたします。この時に使われたのは帆船のレジーナ号です。司令官はリッカルディ・レトロ。そのときの艦長としてアルミニヨンが乗り込むのです。航路はナポリを出まして、それから南下して、サルジニア島のカリヤニ。それからずっと地中海を進みジブラルタルを通って、カナリア諸島のサンタクルス・デ・テネリフェに寄港し、それより大西洋を西に舵を取りリオデジャネイロに行きます。そして、リオデジャネイロからウルグアイのモンテヴィデオに行くわけです。モンテヴィデオで状態を整え直して、いよいよ日本に向けて出発するわけです。

 当時、ヨーロッパからアジアに来るコースというのはふたつあるのです。アメリカ東海岸から大西洋を南下し、パナマ地峡で一回船を降りて汽車で太平洋側に出る。そこで太平洋で船に再度乗り換えて、それで、サンフランシスコやモンテレイに行って、そこから太平洋を横断して、香港、上海に渡るという方法がひとつ。もうひとつは、ペリー艦隊のとった大西洋から喜望峰を廻ってインド洋を抜け、中国から日本へ来るという方法です。イタリア人の場合は、この本による限りアメリカ側を通ることもあったようです。

 ここで、はたと問題になるのは横浜からイタリアへの蚕種の運送をどうしたのかということです。蚕の卵をご覧になった方もご来場の方の中にはいらっしゃるとは思いますが、ごま粒程度の蚕種を赤道直下を通ってイタリアにもち帰る時、普通考えれば気温の高さが原因で蚕種は死んでしまうと思います。太平洋を通っていった方がよかったのかなとも思うけども、早いのはやはりインド洋を選択する方です。

それで、どのように運んだかといいますと、まず蚕種を木の枠で覆いつぶれないようにして、それを金属の箱に入れて蓋をして錫で密閉します。これを気温が高い赤道直下の周辺で海の中にまとめて浸すのです。当然流れないようなして、海中に浮かすのです。そうすれば缶のなかの温度は上がりませんから、卵は死なないということです。確かに錫に対する記載がこの本にも出てきますが、錫はこうした利用法からも非常に重要な産物であったのでしょう。


話を戻して、モンテネグロから、本来であればマゼラン海峡を通るコースを変更したようで、逆転して大西洋を過ぎ、5月15日にシンガポールに到着します。ここで、国王よりの正式な信任状を受け取りました。

この時、プロシアとオーストリアの関係が非常にまずくなって、戦争が勃発しそうであるとの情報が入ります。確かにイタリアを出発する時から戦争の情報はあったのですが、次第に現実を帯びたものとなってきた。プロシアはイタリアと同盟を結んでいますから、戦争が起これば当然オーストリアやフランスとの関係がこじれてきます。

ようやく7月4日に横浜に着きます。横浜に着いたとき、先ほど申し上げましたように在住のイタリア人から大変な歓迎を受けます。しかし、一番頼りにしていたフランスのロッシュは横浜不在で会えません。どこに行っているかというと、大難題の改税約書の調印が解決し伊豆の網代に休暇に出かけておりました。また、アルミニヨンの尊敬するイギリス公使パークスも長崎に出かけておりました。画面出しましたのは幕末の網代の風景で、幕末の老中阿部正弘の手元にあった「近海見分之図」からのご紹介です。このような場所でロッシュは静養していたのです

7月5日、ロッシュと初めて網代で会いましていろいろな話をするのですが、その席上でロッシュに対してアルミニヨンは幕府側と交渉経験がないため誰か適切な通訳の紹介を頼みます。ロッシュもこれを快諾します。その結果、紹介されるのがメルメ・カッションです。日本側の記録では老獪なクリスチャンと言われている人物です。日本の文書には、昭和の和に春という名前・和春として登場します。これ以降、カションがおおむね幕府側との交渉の仲立ちを勤めます。

カッションを仲介としたのは、カッションの交渉術をロッシュ公使から推された上に、アルミニヨン自身が正式な使節団として幕府に認められるまでは、自分が船から降りて、老中などの幕府の高官には会わない決めていたため、信頼の置ける人物を願ったことに理由があります。したがって、最初にお話しました通信全覧に掲載された文書は、アルミニヨンの名が付されているものよりも、カションのほうが多数あります。それともうひとつ。アルミニヨンが頼みにしていた幕府の高官に柴田剛中がいます。しかし、剛中にはなかなか会えないのです、病気だということで。剛中が登場するのは、本当に条約交渉が始まってからになりますが、その心細さもあったのでしょう。

カションとアルミニヨンの話し合いというのは、7月11日、日本暦では慶応2年5月29日です。カションによれば、日本にいる各国公使から情報を収集してみると、フランスはこんな時に条約締結交渉をしても仕方がないじゃないというふうに言ってるし、アメリカは非常に消極的。それから、アルミニヨンが尊敬するパークスは横浜にいないし、結論としてカッションは交渉はなかなかうまくいかないのではないかと言うのです。しかしアルミニヨンははっきり言うのです。つまり自分としては、もうオーストリアと、プロシアとの開戦が起こる可能性があるので、新しい条約の締結に長い時間を費やすことはできない。今一番可能な条約、つまり、幕府が結んだプロシアとの条約の内容と同じ内容で条約を結びたいと。そうしますと、それなら実現するかなとカションも考えたようす。

幕府とプロシアとの間で結ばれた条約とは如何なる内容であったのかと申しますと、簡単に申し上げれば、新潟・兵庫・江戸・大坂の開市開港には触れず、実際に開港場となっていた箱館・横浜・長崎に限りプロシアに対しても貿易を許可するというものでした。この背景には、外国側の要求を簡単には拒否できず、然りとて国内に沸騰する攘夷決行論も無視できない幕府の窮状があり、結果として現状の内容でという妥協の産物が、この万延元年12月14日に締結をみた日普通商条約23箇条および貿易章程であった訳です。事実、新潟・兵庫・江戸・大坂の開市開港に関する箇条を除けば、日英修好通商条約と内容的に同じでありました。

アルミニヨンはなぜそんなに簡単に条約のこと考えたのかといえば、これは先ほど申し上げましたように、一番重要なのは、日本の中にイタリアの商人として生糸を買える港を確保することと考えたからだと思います。なおかつ、居留するイタリア人の権利を自国の法律で保護したいと考えたのでしょう。それから当然のことながら、イタリアと日本が結んだ条約の中でも、最恵国条件がありますから、当然、新潟や兵庫、さらに大坂、江戸が開かれれば、最恵国待遇によりイタリアもその恩恵に与れるわけです。ですから、幕府に強いて反対する必要はないと考えた。何といいますか、論理的に考えた結果であろうというふうに考えています。

交渉の過程で、幕府にイタリアとの条約を結んでも大丈夫だと後押ししたのは、幕府の新任が厚いフランスのロッシュです。ロッシュの言い方は非常に巧みです。まず、イタリアはいろいろなことを望んでないのだと。イタリアはプロシアとの条約内容でいいと言っているんだと。それからもう1つは、あまり幕府が煮え切らない態度でいると、アルミニヨンはパークスを尊敬しているから、場合によってはイギリスに助けを求めるような結果になるかも知れない。そうしたら幕府はお厭でしょう、と説得するんですね。幕府は、本当にイギリスのパークスが大嫌いなのです。厳しいですからね。

それからもう1つは、幕府が困ると言っているのは、条約を結んだ後に、たくさんのイタリア人が開港場に押し寄せ、日本から生糸や蚕種、そのほかのものを外国に持ち出すことでした。この点についてロッシュは、幕府さん安心ください。もうすでにイタリア人たちは、フランス人という名目で開港場で貿易活動を行っています。つまり条約を締結しても、イタリア人の絶対数はあまり増えませんよ、と説明しています。

また、イタリアと外交交渉を行っている外国奉行も、老中に対して面白いことをいっています。それはイタリアの説明のなかにでてきますが、イタリア王というのはもともとはサルジニア王であり、小国の王であったが、現在はイタリアを統一して非常に大きな国となっている。この強国となったイタリアに対して、ナポレオン3世も嫉妬しているくらいであり、イタリアを侮ってはいけない、と。これも大変面白いことだと思いますね。

こういったことから、7月25日、日本における6月14日ですけども、いよいよ締結交渉を本格的に始めるというので、日本側から菊池隆吉、伊予守ですが、マジェンタ号を訪問いたします。アルミニヨンの記録では、このとき伊予守より鳩とびわの寄贈を受けています。アルミニヨンは、贈り物をくれるくらいだから、これうまくいくなと考えたようです。この鳩とびわですが、日本側の資料を見ると、鳩とびわじゃないのですね。鶏と卵とびわなのです。小さな鶏だったから、鳩に見えたのかもしれませんね。そういうところは資料を読んでいると面白いところなのですが。

余談はさておき、このときに菊池の方からアルミニヨンに対して、あなたが持ってきた全権委任状の写しが欲しい、と請求を出します。つまり、これで条約締結の交渉を始めることがはっきりするわけです。そのときに登場するのが、フランス語の堪能な塩田三郎でございます。幕府とイタリアとの交渉は、幕府側はイタリア語が分からず、イタリア側はオランダ語が分からぬという状況の中で、フランス語が大きな役割を果たし、アルミニヨン自身もほっとしたとの印象を述べておりますから、塩田の果たした役割は少なからぬものがあったと考えられます。塩田という人は、本当にいろいろな意味で初期の日本の外交をリードしますが、この人の資料というのは少なく活動がつまびらかにならないのは、大変残念ですね。

8月2日になると、条約の締結に向けて事態は急展開いたします。御用取扱というのが決まります。つまり、老中はOKしたよということですね。その御用取扱は、アルミニヨンが待ちに待っていた柴田剛中です。それから、朝比奈昌広。そしてここに幕末の外交をリードしたもう一人の人物が登場してきます。支配組頭勤方の田辺太一です。田辺は、文久から元治にかけて攘夷論が最高潮に達したときに、横浜を鎖港することで事実上の攘夷を図るために幕府がヨーロッパに派遣した池田長発の横浜鎖港談判使節一員で、ヨーロッパ諸国の国力と文明とをつぶさに実見してきた人物です。こうした実務派の外交畑の幕臣が交渉を担当していたのです。

8月5日になりますと、いよいよ全権を決めます。これは先ほどの柴田と朝比奈が幕府より全権委任を受けた代表となります。それからそれを監督する目付が決まります。目付は牛込忠左衛門です。

このときに、イタリア使節の仮宿泊所が決まりました。その場所は大中寺というお寺の宿寺です。じつは、このお寺の所在地をイタリア研究会の方にご紹介しようと一生懸命に探しました。何しろ日伊関係の出発点となるわけですから。しかし、なかなか見つからなかったのですが、ようやくたどり着きました。先ほど画面でご覧に入れた赤羽橋の写真をもう一度ご覧にいれます。赤羽橋の川上に中の橋がみえますが、その左手奥のこんもりと木の生えている辺りが大中寺です。イタリア全権は札の辻からまっすぐに赤羽橋方向へ向かい、おそらくは伊予松山藩邸と筑後久留米藩邸に挟まれた綱手引坂を上って、現在の三井倶楽部の先を右に折れ、下野富田大中寺にたどり着いたものと思います。現在のイタリア大使館の目と鼻の先です。インターネットで下野富田大中寺を調べると、お化け、幽霊の寺で有名なのだそうですが、家康からも非常に高位の寺として認められています。宿寺はその寺の江戸出張所といったところです。現在、龍原寺脇の天神坂を下りると左手にマンションが見えますが、その付近が大中寺の宿寺であったと思われますが、それを示すものは残念ながら何も残っておりません。大中寺が公使館としての役割を実質的に果たしたか否かは明確には分かりませんが、一時期は代行のようなことをしたのかも知れません。明治になりますと、明治5年以降は虎ノ門に公使館が移ります。露国とイタリア公使館とが並んで公使館を開きます。ちなみにご覧戴いているのが明治初期の虎ノ門付近の写真です。今は文部科学省を建て直しておりますが、その隣の財務省付近がロシア公使館、うしろの金融庁付近がイタリア公使館です。この付近は裏霞が関、または裏霞町とも呼ばれた地域で、イタリア公使館は明治5年から震災後までここにありました。

さて、いよいよ条約締結の日となるわけですが、その前日、全権使節一行の隊列を組むためのイタリアから持ってきた馬などは横浜のフランス波止場に陸揚げされていました。フランス波止場というのは外国人居留地にあった波止場で、横浜の運上所前にあった古い波止場とは異なります。余談ですが、このフランス波止場は関東大震災で横浜が壊滅的なダメージを受けた後、復興時に瓦礫が海岸に投棄され山下公園が造成されたときに、その一部となって姿を消します。話を戻しまして、大中寺に隊列を組んで入るというと気になっても横浜からやってこない。間に合わなかったんですね。アルミニヨン一行はというと、、今の品川駅よりやや西南側のところに御殿山下台場という砲台があったのですが、そこのところに船から小船でやってきて、あとは水兵におんぶして陸に上がったようです。その上、陸には上がってみたものの、馬も来ませんし、隊列を組むことはできず、みんな歩いて先ほどの宿所まで行った。隊列を組むことに拘らず、あるいて宿所まで行ったその背景に、もしかしたらイタリアの国というのは、他の国とは少し違って武力を用いることもせず、居丈高な国ではないんだというようなことを前面に出そうとするアルミニヨンの政策があったかも知れませんが、この点は分かりません。

こうして、8月25日、日本の暦ですと7月16日ですが、日本とイタリアとの間に23箇条からなる修好通商条約と、6箇条からなる貿易章程および11箇条の附属約書が結ばれて、はじめて日本とイタリアの間に正式な国交が開かれました。

慶応3年(1867)5月11日にイタリアから特派全権公使コムト・デ・ラ・ツールが日本に来着し、いよいよ本格的な外交が始まるわけです。

時間を超過し長くなりましたが、これで終わりたいと思います。


司会  どうもありがとうございました。我々の知らないいろいろな情報を語っていただきました。10年位前でしょうか、イタリアの「絹」というちょっと奇妙な小説が日本語に翻訳されたことがありましたけど、やはりイタリアは、日本の絹について、非常に関心を示していたということがよくわかります。何かご質問ございますでしょうか。


質問  今日は大変興味深い話をありがとうございました。私も今から10数年前、この研究会で同じ時代の横浜にいたイタリア商人というタイトルで話をしたことがあります。私にとってものすごく興味深い発見だったのですが、イタリア公使館が今の赤羽橋というか、あのあたりにあって、その後明治5年に虎ノ門に移ったということなのですが、私の個人的な見解では、おそらく横浜の弁天地区にフランス公使館の建物の中に間借りしておったのではないかと思うわけですね。それはなぜかといいますと、1872年の横浜ディレクトリーを見ますと、そこに居留地の外国人の名前があるのですが、その中に、2代目の公使であるステアニ伯爵の名前が居留地の弁天ということでちゃんと載っております。


岩壁  私はそれをちょっと確認しておりませんが、幕末から明治に出来上がります地図の中には、両国の旗がならんであったような記憶もあります。だから、ダイレクトに大中寺から虎ノ門に行ったのではないと思います。それはおっしゃるとおりだと思います。というのは、もうひとつは、大中寺というのは狭いんですよ。この本にも出てまいりますが、非常に狭いですから、公使館として長期に利用するのはちょっと無理かなと思います。


質問  そうすると、横浜に。


岩壁  多分そうだと思いますが。ディレクトリーは横浜で作ったディレクトリーですか。それとも、スワトーですか


質問  おそらくスワトーかその辺だと思いますね。


岩壁  ちょっとわからないですね。


質問  それからもう1つ、日本のイタリア大使館から出されていたイタリア大使館のパンフレットを見ますと、その2回目のステアニ侯爵の2通の手紙が現存されていて、その手紙の中に、最終的に官邸をエドに移すと書いてあるらしいのですよ。ということは、赤羽橋にあって、虎ノ門に移すという事実から、江戸ばらいになってしまうのですよ。おそらく横浜にあったのではないかなというふうに私は思うのです。


岩壁  では、また私も調べてみます。

※追記:当日お話しし忘れましたが、『続通信全覧』に拠りますと、慶応3年9月3日ラ・ツールは大中寺宿寺が狭隘なため、正式な応接所を求め書翰を幕府に送ります。そのなかでイタリアは公使館として芝・泉岳寺の陽寿院か功雲院を公使館に借用したいと要求します。しかし、幕府は三田の大中寺を仮館として利用するように回答し、さらに寺院を探すと回答するにとどめます。しかしラ・ツールは承諾しませんでした。この記載から、一時期大中寺が仮公使館として利用されていたことが確認できます。


質問  これは天皇の裁可は得ているのですか。


岩壁  これより前の慶応元年に安政の5カ国条約は勅許されます。日伊修好通商条約の批准書交換は、慶応3年の9月6日に外国奉行石野則常とラ・ツールとの間に行われ、条約として完全に効力を発行しております。


司会  それではどうもありがとうございました。