ローマ水道が世界帝国を作った。そして江戸は?

第359回 イタリア研究会 2010-04-23

ローマ水道が世界帝国を作った。そして江戸は?

報告者:東洋大学理工学部教授 中川 良隆


【橋都】みなさんこんばんは。イタリア研究会運営委員長の橋都です。イタリア研究会第359回例会にようこそおいで下さいました。本日は東洋大学理工学部教授の中川良隆先生に「水道が語る古代ローマ繁栄史」副題として「ローマ水道が世界帝国を作った。そして江戸は?」ということでお話をお願いしてあります。それではまず中川先生のご略歴を紹介したいと思います。中川先生は、1947年東京のお生まれで、慶応大学の工学部機械工学科を卒業されまして、東京大学の大学院の土木工学の修士課程を修了されております。それからずっと、大成建設にお勤めで、明石海峡大橋などの大きなプロジェクトに携わってこられたわけです。2003年から東洋大学の理工学部の教授となって現在に至っています。

 実は、先生はこのような『水道が語る古代ローマ繁栄史』という本を書かれておられます。私はこの本を読みまして非常に面白かったので、ぜひ中川先生にお話を、この会でお願いしたいと思いまして、お手紙を書いてお願いして、今日この講師を引き受けていただいたという経緯です。それでは、中川先生、よろしくお願いします。(拍手)


【中川】 皆さま今晩は。『水道が語る古代ローマ繁栄史』を、江戸との対比ということで話をさせていただきます。なぜ私がこういうことをやり出したかということをざっくばらんに言いますと、歴史やイタリアなどは素人です。私とイタリアということで、先ほど橋都先生のほうからご紹介がありましたけれども、明石海峡大橋の建設に携わっていました。そして、15年ぐらい前にシチリア島と本土の間のメッシーナ海峡に吊橋を造るという計画があるので、ざっくばらんに言うと遊びに行きました。

 ご紹介いたしますと、これはメッシーナ海峡大橋で、センタースパンで3,300メートルです。明石海峡大橋は今、世界一で1,991mです。全然話にならないのです。すごいなと思います。もともとは1,990メートルです。私は淡路島の主塔基礎を建設していて、遠い方が鹿島さんなのでキ。「1,990mなんて面白くない。やっぱり2,000mじゃないの。お互い5メートル間違えよう」という話をしていたのですが。地震で1m移動して、このように1991mなっています。それの1.6倍です。イタリア人は何を考えているのかというか、まったく凄いというか。これが古代ローマにもつながるのですが、それで15年ぐらい前にイタリアに行きました。

 シチリア島に行きますと、マフィアということで、危ないところもあるので、あまり印象は良くなかったのです。シチリア島ではないのですが、ミラノに行きまして、非常に不愉快な思いをしました。というのは、よくありますが、ちょっとお兄ちゃんが来まして道を聞きました。そのあとに自称警察が来まして、「財布を見せてくれ。彼は麻薬の売人だ」と警察手帳を出すわけです。私はおかしいと思っていましたが、財布を出したのです。こうやって一生懸命見ていまして、「Don't scare」と言われていましたが、まんまと手品のような技で、3万円ぐらい盗まれました。ですから当時は、イタリアは大嫌いだったのです。(笑)

 それで、10年ぐらい前にもう一度、今度はローマのパンテオン行きました。ご承知のように、これは約2000年前に造られた世界最大の無筋コンクリート製ドームで、高さ直径ともに43メートルもあります。最近よく言われるように、コンクリートは、永久構造物ではなくて30年、50年間しか持たない。それで補修等、何とかしなければいけないのですが。パンテオンは大方2000年もっているのです。これは凄いと思います。ご承知のように、ここにルネッサンスの巨匠ラファエロの柩があります。2000年前に2000年間も持つ様なものをなぜ作れたのだろうと思いました。

 これは3年前のポン・デュ・ガールの写真です。これも大方2000年前です。このガルドン川では2000年の間に最上段近くまでの洪水があったのです。よくまあ、こんな石造りの橋が2000年間も持っているのだろうか、と思いました。もう一度言いますが、ローマ人はどういう頭の構造をしているのかな、ということで色々勉強していました。そしてただ今、橋都先生のほうからご紹介があった、水道について特に勉強した次第です。

 内容として、「繁栄と水道」とはどういうことかということです。やはりわれわれは日本人ですから、「日本の江戸水道」と比べることが分かり易いということです。そういうことで、江戸と市内給水、幹線水道。水はやはり飲み水ということもありますけれども、浴場や噴水などはどうなっているのか、と言うことです。

 例えば、これはカラカラ浴場ですが、やはり水を持ってくるのに技術がいるわけです。ローマで一番長い水道は90kmも引っ張ってきています。これはセゴビアの水道です。これはスペインですけれども、高さは約30mあります。共に大方2000年もっています。その建設技術はどうだったかといいますと、ローマの人の技術者というのは実は、昔はどこもそうですが、ミリタリーエンジニアです。したがってカエサルやアグリッパなど、そういう人たちがどのように貢献したかということをお話ししたいと思います。

 ご承知のように、古代ローマはどのぐらい広いかというと、これがEU、これが古代ローマの最盛期の地図です。そうすると、EUが人口5億人分ご承知と思いますが、3つの政治の支配の体制がありました。王政・共和政・帝政です。

 水道で繁栄したということについて、和辻哲郎さんは『古寺巡礼』や『風土』を書かれていまして??美智子妃の教育係をされました??その和辻先生が言われているのは、「アテネでもヒメトスやペンテリコンの水を引いている。・・・しかしギリシャ人は水の制限を覆すほど大きい水道を作ろうとはしなかった。むしろ逆に、ポリスの大きさを限定されたものとして考えているのである。ポリスは大都市になるべきものではない」と考えていました。

 ところが、ローマ人は、その制限された大きさのポリスではなくて、規模を大きくしました。したがって、ローマ水道が必要だったのです。水の量でいうと、1日当たり100万m3の水を運びました。要するにローマ水道は、ポリスの制限の否定、従ってポリスの並存の否認、言いかヲれば絶対的統一の要求を象徴する、ということを和辻哲郎さんが言われたのです。これはその通りだと思います。では、どういう考えでやったのか、どうやって造ったのかということのお話を後でさせていただきます。

 これは、また有名なギボンの「世界史上一番幸せなのは96年ぐらいから約100年間」──いわゆる五賢帝(ごけんてい)のころです──このような時期でして、それには水道も大変貢献しました。水道を造りますと、ローマ風呂にしょっちゅう入れる。彼らは非常に風呂も好きです。Vぶことについてのお話をさせていただきます。ともかく水道がなければ風呂に入れないし、ローマ風呂はありません。あとでの話になりますが、「パンとサーカス」。サーカスというと、剣闘士闘技や戦車競走など色々あるわけですが、観客は大汗をかくわけです。大汗をかいて入る利Cがなければ、これはなかなか辛い話になりますので、そういうことの話もさせていただきます。

 「ローマ水道がすごい」といっても、今の日本の上下水道と比べるとどうなるのか。それから、江戸の時と比べるとどうなのか。このことを比較対象にすると分かりやすいと思います。私は大学が川越ですから、川越の水道システム、江戸のシステム、古代ローマと3つを比較するとどうなるかということです。川越の水道は、荒川のところに大久保浄水場というものがあり、それを引っ張ってきて、浄水、給水しています。

 具体的にいうと、川の水を取って、いわゆる沈殿・ろ過します。ポンプで送り、沈殿させてきれいにします。それでは沈殿したヘドロをどうするのかというと、ここに濃縮槽というものがあり、へドロを脱水してコンパクトにして、トラックで運び出します。これと似たことを古代ローマでもやっているのです。当然こういう不純物、砂などそういうものを沈めて、それを排除することをやっています。ですから、丸々これと同じことをやっています。今の時代は電気があり、ポンプがありますが、その時代は電気もポンプも当然ないわけですから、どのようにやったのかということです。

 それで、江戸時代は今から400年前か300年前です。その時はどうだったかというと、江戸上水は特に玉川上水を取り上げます。羽村で分水し、このような開水路です。玉川上水の場合は四谷大木戸で石樋を使って地下に入ります。神田上水ですが、こういう石樋がお茶の水にあります。地下に入ってさらに木樋(もくひ)という木の管で分配して、井戸で、釣瓶で汲んでいました。ここには書いてありませんが、江戸っ子は風呂が大好きで、毎日風呂に入っていたようです。風呂は水を沢山使います。釣瓶で汲んで風呂桶に入れるのは大変な作業です。やっているのは間違いないのですが、それだけ大量の水を汲む仕事は大変で、「ぎっくり腰」にもなってしまいます。

 古代ローマはどうだったかと言うと、泉、あるいはこのようなダムを造るのです。そこに取水塔を立てます。 これはスペインのメリダというところです。高さが18mぐらいのダムですが、それで下から水を取水して??これはポン・デュ・ガールですが??こういう水道橋や、あるいはトンネルを通ります。これは沈殿槽です。このように水が流入して、水が下降することによって、下降流と不純物の沈殿とをうまく組み合わせているのです。

 これは、フランスのリヨンのサイフォンですが、大きな谷があったらサイフォンで越えます。町のそばに来たら分水槽があります、これはフランスのニームの13カ所への分水槽ですが、こういう穴が空いていて分配します。鉛のパイプで、一番太いのは20数cmあります。バルブもあります。ただし、基本的には流しっぱなしです。バルブは修理等止水するためであって、水を止めるという発想は元々ないのです。そうして、このような分岐弁もあります。

 これは、ポンペイの水槽ですが、道路のところに水槽があって、このような蛇口から水が出ています。ここからトイをもってくれば、さっきの風呂の話ですが、江戸では汲んで持っていかなければなりません。古代ローマの場合は、ここからトイでもパイプでもいいのですが、風呂に一気に持っていけるわけです。そうすると、どっちのほうが風呂に入りやすいのかは自明です。ですから、江戸っ子が風呂大好きというのは、大変なことだと思います。

 下水について言いますと、よく言われていますように、水洗トイレがありました。そして、これはドイツのケルンの下水です。これは地上に復元したものです。後で話をしますが、小便はアンモニアですから、クリーニングに使っています。ローマ人はトガという巻きつけた服を着ています。トガはウールです。ウールは酸性の石けんで洗うと縮んでしまいますが、アルカリだと縮みません。それをクリーニング業者が集めて使っていました。その集めた小便に税金をかけたのが、コロッセオを造ったウェスパシアヌス皇帝です。

 そして、このようなクロアカ・マキシマという大きな下水道を地下化したのがBC2世紀ぐらいです。ジャン・ヴァルジャンがパリの下水を逃げ回ったのは15世紀ぐらいですから、それよりはるか前にあったという話もさせていただきます。

 クロアカ(下水道)について話をします。皆さまはフォロ・ロマーノも行かれたこともあると思いますが、フォロ・ロマーノは谷間になっています。元々そこはいわゆる低湿地でした。多分、池などもあったのでしょうが、そこを排水します。このような排水の溝を作って埋め立てをしたということです。BC5世紀、6世紀に干拓事業を行って、地下化したのがBC2世紀ぐらいです。それがこのフォロ・ロマーノや、大戦車競走場があるチルコ・マッシモなどの谷間です。そういうところにクロアカ・マクシマ(大下水道)を造りました。ですから、今から二千何百年前からそういうものを、どんどん作っていました。

 先ほど言ったウェスパシアヌス帝は小便に税金をかけました。その息子のティトゥスが「はしたない」と、諌めたところ、税金の金貨から数枚をすくい上げて、「息子よ、かいでみるがよい。臭いがするかどうか」。要は「悪いことをやってもうけたって、お金の出所をわかりはしないのではないか」というジョークです。私はあまりアルファベットが得意ではないのですが、イタリア語でやはり、ウェスパシアヌスというのですか、vespasianoです。フランス語でvespasienneです。この人の名前になっています。この人は非常に素晴らしい政治をしているのです。ッれども、こういうあまり格好良くない名前になってしまっているのです。ですから、ちょっと気を付けないといけないのです。

 要はこういうことをやって税金をたくさん取れるということは、これが商売になるということです。では本当に、クリーニングがローマ時代に盛んに行われたのかどうかということです。日本の発想では、江戸やその前には、洗い張りなどはあったのかもしれませんが、少なくともクリーニング屋などはなかったのではないかと思います。

 ローマ市よりもポンペイにいろいろな資料が残っています。ポンペイについていいますと、ローマ時代にはいろいろな職業組合がありました。そのなかで最大の組合は、洗い張りや洗濯の組合らしいのです。それはなぜかというと、「こういう白いトガをローマ市民は着なさい」「ローマ市民は外出時に正装しろ」と、初代の皇帝アウグストゥスがうるさかったのです。それと「パンとサーカス」というように、剣闘士闘技や戦車競走が非常に盛んでした。

 あとは、劇場法というものがありました。ローマ市民と、例えば奴隷や、あるいは元老院の人たちは、見ることはいいけれども座席がみんな違います。一番手前が元老院議員席、次が騎士階級席、一般ローマ市民席、自由民席、そして一番上が奴隷席と女性席というように分かれていました。元老院議員や一般市民の人たちは、騎士階級もそうですが「トガを着なさい」とのお達しがありました。そうすると、その時にみんな純白のものを着ます。多分、薄汚れたものを着るわけにはいかないのではないかと思います。そうして、ここで当然みんな熱狂しますから大汗をかきます。当然こういうところは、賭けを行います。そうすると、多分大汗をかきます??これはポンペイの資料ですけれども??ローマでもこの洗い張りや洗濯組合というものは非常にはやっていたと思います。ですから、税金を取っても商売になると考えていたみたいなのです。ただし、これを考えたのは元々??ウェスパシアヌスは確か9代目皇帝ですが実は、5代目の皇帝ネロなのです。

 ネロ帝はずいぶん悪いこともやっています。その時に小便税を考えてやったけれども、評判が悪いからやめてしまったのです。ところが、このウェスパシアヌス帝は意志が強かったのです。悪評も気にしないのです。死ぬときに「皇帝は立ったまま死ななければいけない」と言ったぐらいの人ですから??ネロは散財しすぎましたから??ウエスパニアヌス帝は、徹底的に財政再建ということで、小便税もやったのです。

 これはポンペイの洗濯の方法を示した壁画です。ここで足を使って洗っています。軽くすいたり、アイロンをかけたり、しています。機械化ということを除いたら今とあまり変わらないのではないでしようか。ですから、これもあくまでも水があっての話ですけれども。こういうこともやっているのです。

 ここまでが最初のお話で、水をどんなふうに使ったのかということです。続きまして、これはローマ文明博物館の、4世紀のコンスタンティヌス帝のころの模型です。ローマ市の中は家だらけです。これが大戦車競走場チルコ・マッシモ、そしてコロッセオです。ここら辺がマルケルス劇場や、パンテオンです。このように家だらけという状態になっています。


では次に本題のローマ水道の水道幹線の話です。水道幹線を泉やダムからローマの町の入口までどうやってもってきたのかということです。それに対して、江戸の上水の幹線は、例えば玉川上水。羽村から分水して四谷大木戸までどうだったのか、そこを比較して、第3章で町の中の配水の話をします。

 なぜ長大な水道を造ったのか。トンネルや水道橋で対応したのか。これの発想はのちほど詳しくご説明いたしますが、一番長いのは90km引いています。日本の場合、例えば玉川上水が40kmぐらいです。今は、そこら辺の江戸川やいろいろなところから引っ張ってきていますから、数キロのオーダーで済んでいます。

 一方、今でも、例えばパリやローマもそうですし、ウィーンにしても、100km、場合によっては200kmも引っ張ってきています。そういうヨーロッパの水道の思想は、「極力、河川の表層水は利用しないで、遠くとも湧き水を使いましょう」。これは日本とは全然発想が違います。そのためにこういう水道橋も造ったという話をさせていただきます。

 ローマの一番初めの水道がBC312年、これはアッピア水道です。いわゆる水道よりもローマ街道がはるかに有名です。「すべての道はローマに通づ」。最初のローマ水道を造ったのはアッピウスです。そのアッピウス・クラウディウスが両方、水道も道路も同じ312年に造っています。一番後は、大体500年の間がありますが、226年のカラカラ帝のころです。この500年の間に11本造っています。総延長が500km、そのうち地下が400km、橋が60km。地上はたかだか14kmしかありません。これでいうとほとんどないに等しいのです。一番長いのは、マルキア水道で91kmもあります。

 水を運んでいる量は1日当たり100万m3です。この時代のローマの町の人口は100万人ぐらいといわれています。そうすると、勘定でいくと1日1人当たり1m3になるわけです。今、東京あるいは日本で1人1日どのぐらい使っていると思いますか。これより多い?1日1m3より少ないです。どのぐらい少ないと思いますか。

【橋都】 リットルで言うと何リットルになりますか。

【中川】 リットルで1,000です。

【橋都】 1,000リットルですね。1,000リットルは使わないでしょうね。

【中川】 通常、0.3m3か、300リットルとか3倍も使っています。それは基本的に、流しっぱなしで止めていない、ということは当然あると思うのです。そして、風呂もどんどん使っていますので、多分かけ流しだと思うのです。すごい量を使っています。使うのはいいけれども、そのためのダムなど色々なものがいるわけですから大変なことです。

 のちほど申し上げますが、ここに、今井さんという方が訳された本で『古代のローマ水道─フロンティヌスの水道書とその世界』というものがあるのですが、紀元100年ぐらいに、17代目の水道長官のフロンティヌスという人が書いた本です。100年ごろですから、こちらのカラカラ帝の作ったアントニアーナ水道などはまだ出来ていません。9つの水道について給水量や、どこからどこまでか、その水道の断面積、どこに配っているか、そういうものをおおかた2000年前に調べています。

 あとでの話になりますが、江戸上水も上水記という本はあるのですが。こういうことをやっているかというと、例えば送水量はあくまでも水路の断面積でしか測っていませんけれども??流速自体はその時代は測れなかったのです??ですから、「いろいろ測ってみたらずいぶんおかしい」と、このフロンティヌスという人は正直に言っているのです。ともかく、この断面積にしろ、それを把握しています。そして、どこの高さがどうかとか、勾配がどうだとか、当然のことですが、その水路が地下か橋梁ということが全部書かれています。これは回覧しますが、ここのところにアウグストゥスを批判したことや、フロンティヌスの、皆さまのお手持ちの資料で一番後のページに、フロンティヌスの水道長官としての心構えというものがあります。要は、行政官として素晴らしい心構えというものを書かれています。率先して色々なものを調べたということです。その調べたものの結果が、これなのです。

 これは幹線水路です。ローマ市内で、噴水や個人の家や風呂などに、どのぐらい使ったということまで全部書かれています。ここにアウグストゥス帝の悪口を書いたものも、2カ所ちょっと付箋を付けていますが、これについてはのちほど、また説明させていただきます。こういうのを2000年前にやっています。

 この人は、3回執政官になっています。ですから、それこそ戦争が得意な人です。『水道書』を書いて、戦略書や測量書など、書いているスーパーマンです。先ほどの心得というのは、後でご説明しますが、それこそ今の行政官や政治家に、爪の垢でもせんじて飲ませたほうがいいような内容です。

 市内についていいますと、これはローマの城壁です。これがテヴェレ川になります。この赤で書いてありますのは、大浴場、公共浴場です。ですから、例えば、ディオクレティアヌス浴場や、カラカラ浴場、トラヤヌス浴場です。ディオクレティアヌス浴場というのは、テルミニ駅の発祥の名前です。要は、テルマエです。こういうところは1日6,000人ぐらい入浴したということです。何年か前に『フラガール』というのがはやりました。昔の常磐ハワイアンセンターですが、それと大きさが同じです。

 これですと、ここが長さ500mですから、皆さまは行かれてご存じだと思いますが、ローマの町は1時間ぐらいで歩ける範囲です。そこに、こういう大浴場が11カ所あります。1カ所6,000人か7,000人入れます。例えば、大浴場でも大きさいろいろありますけれども、5,000人入ったとして11カ所ですと5万人入れるわけです。あとは小さいのが900カ所もあります。のちほどご説明しますが、江戸の風呂はこの手のものが600カ所しかないわけです。水をどんどん使えるわけではないですから、当然小さいのです。その風呂も、例えばトラヤヌス帝やハドリアヌス帝は奴隷と一緒に風呂に入っていました。

 このディオクレティアヌス帝というのは紀元の284-305年在位で、ローマ帝国を建て直した皇帝です。表現が悪いのですが、父親は奴隷で、自分は皇帝ということです。先ほども言いましたように、風呂も奴隷と皇帝が一緒に入っています。信じられないような時代でした。

 先ほど申しましたように紀元前312年。いわゆるアッピア街道です。これはローマからナポリやカプアなどを通って行っています。これはもともとサムニウム族との戦いの軍用道路いでした。ご承知のように、ローマ街道というのは基本的に軍用道路です。ですから、造ったのは軍人ナした。このころローマはまだ長さが250km、幅20kmか50kmぐらいの小さな国でした。アッピア水道は全長17kmで、泉のところを15mも掘り下げて、ほとんどトンネルです。地上に出ているのは100mぐらいです。ともかく、外から立ち入れさせない。例えば、軍事的という要素烽 るのかもしれませんが、毒を入れようと思っても大変だという発想です。それを造ったアッピウス・クラウディウスという人は、そのときに28歳です。そういう人に、この2箇所、道路と水道をやらせました。ですから、今はこの道路のほうがはるかに有名です??アッピア街道はu街道の女王」と言われています??素晴らしい道路です。

 では、水道のほうは誰が造ったかというと、軍人ではなくて退役軍人が請負いで、民間で造っているというのがほとんどみたいです。今日は水道ですけれども、道路の話を若干させていただきますと、全長が8万kmあります。日本の高速道路が今、1万2,000kmぐらいですから、サれの5倍~6倍の延長があって、イギリスからアフリカまであります。

 ローマ街道は非常にしっかり造られていて、道路の基礎、表層から路盤まで大体1.5mぐらい改良してあります。今の道路はアスファルトなどいろいろありますが、それでいいますと、大体やはり1.5mや1.2mなどですから、ほとんど変わらないのです。今は、機械などいくらでもあ閧ワすが、こちらは人海戦術です。それでこれだけやったという状況です。それは、軍人が軍用のためですから、これを作ること自体が軍の訓練なので急速施工でやりました。そういう要素もあったにしても、これだけのものを造ったからすごいと思います。

 ここに書いてありますように、ローマ水道は退役軍人が請負人としてやっています。税金の徴収なども請負でした。ですから、古代ローマ帝国の役人は非常に少なかったので税金は安かったと言われています。ローマ水道では、こういう水道橋が沢山あります。そうすると、どういう状況だったかというということです。これは、ローマの城壁です。そしてこの東側のところに、ポルタ・マジョーレという、マジョーレ門というものがありますが、そこには5つの水道が集まってきています。

 これは絵ですが、現在はこのような格好です。ここは、ユリア、テプラ、マルキアという3つの水道が重ねて乗せられています。なぜこんなことをしたかというと、それは自明ですが、この時代ポンプがありません。ローマはいわゆる「7つの丘」と呼ばれています。そうすると、丘の頂に水道が来なければ、丘の周辺に水を供給できません。そうすれば、高いところに水を持って行かなければいけません。ですから、高いところに持って行くために、このような水道橋が沢山できました。

 では、具体的に水を配るということを、どのようにしたのかということを後でお話しします。このようにポルタ・マジョーレのあたりは、5つの水道が上下になって設置されています。

 ヴィルゴ水道というのは、アウグストゥスの刎頚(ふんけい)の友・アグリッパが造りました。そしてトレヴィの泉に運んでいます。現在のトレヴィの泉自体は確か18世紀ぐらいに造られたと思います。ローマ人は水道の末端のところに、こういう装飾用の大きな泉を造るという思想がありました。それを受け継いでこのようなものを造っているということで、ヴィルゴ水道はアグリッパ浴場への給水の目的です。アグリッパが最初の公共浴場を造りました。これは技術的な話になりますが、ここに運ぶのに1,000mで19cmというような非常にゆるい勾配で運んでいワす。ですから、高さを決めるというのはすごい技術だったということです。

 全部をご説明するにはちょっと時間がかかるので11個のうちのいくつかをお話します。クラウディア水道は全長が約70kmです。これはローマの駅からナポリへ行くときに、鉄道で見える水道橋です。橋梁延長が14kmあります。この70kmを、たかだか4年間で造っています。このクラウディウス帝という人は、この水道を造ったり、ローマの外港であるオスティアの港を造ったりした人です。

 それから、新アニオ水道というものがこちらのほうにありますが、全長約90kmです。ここで面白いのは、ここら辺に暴君といわれたネロが、この川をせき止めてダムを造りました。これは、キリスト教のベネディクト派の開祖の聖ベネディクトが、このダムの頂で釣りをしている、そういう絵が作られているわけです。このようにこのネロのダムを水源として使っています。これは紀元60年かそのぐらいに作られ、ダムの高さは40mです。それよりも高いダムが造られたのは16世紀末です。このときに高さ40mぐらいのダムを造る技術があったということです。ですから、高さ40mの水圧に耐えられるようなものができたということです。これは想像でしょうけれども、聖ベネディクトがここで釣りをやっているよ、という絵まで作られているわけです。

 これは最後の水道になりますが、いわゆるカラカラ帝がカラカラ浴場に運ぶための水道を造りました。これは、のちほどご説明しますが、この11の水道のうちの5つぐらいが今でも使われています。16世紀にいくつかが再建されています。

 ローマ人は長大な水道橋を造っています。では、それは具体的にどういう理由か。当然先ほど言いましたように、高いところに持っていかなければいけません。それが数字として示すとどうなるかということです。

 この図は横軸が年代、最初のアッピア水道から始まって、こちらの縦軸が人口と給水量です。このピンクが人口です。人口が増えるに従って水道をどんどん造っています。これは当たり前の話ですけれども。後追いか計画的かこれはよくわかりませんが、このような感じになっています。

 先ほど言い忘れた水道橋の話です。この横軸は水道の延長、縦軸が水道の、右側が水源地の標高、左側がローマに到達したときの標高です。こちらは水源によるわけですから、それは置いておいて、こっちの標高が高いものは、ここにありますように、例えばこのテプラ水道でしたら9.2kmの橋梁があります。ユリア水道もこれは高いですから、9.6kmです。新アニオ水道は11kmです。そうすると、ローマ市内に到達する高さが低いところは、例えばヴィルゴ水道でしたらここら辺です。そうすると1kmしかありません。アンシエティーナ水道というのはこれですから、500mしかありません。新アニオ水道は、ここですけれども0です。

 ですから、当たり前の話ですが、ローマの到達するところが低ければ、水道橋はほとんどないのです。高ければ、丘の上に到達させようと思うと、水道橋を造らなければいけないことになるのです。ですから、ここに来るか、ここに来るかです。ここに来るためには何らかの橋がいるということです。ここに来る場合は、別に橋はいらないのです。

 今、幹線水道の話をしていますが、共和政ローマ、帝政ローマでは、あちこちに植民都市、軍団都市を作りました。これはクサンテンというライン川沿いの、トラヤヌス帝が作った町です。こういう円形闘技場などがあります。

 これは、クサンテンの下水道です。植民都市であっても、この円形闘技場や劇場や戦車競走場や、水道、下水は当たり前です。では、具体的にそういう事例でいうとどんなものがあるのかというと、これはフランスのニームです。ちょっとわかりづらいですが、アルルのすぐそばですけれども、ガルドン川を渡るためにこういう素晴らしい橋を造っています。1個が6tぐらいの石を積み上げて、高さが約50m、この長さが400mです。これはどうやって造ったのかというと、これは難しいのです。必死になって考えて、5年間ぐらいあればできるのかな、と計算をしワした。

 先ほども言いましたけれども、大洪水があっても、2000年もっているというのはすごいと思います。この高さごとに、アーチのスパンが変わっています。これは、洪水があるから遮蔽面積が小さいほうがいいということで、下が大きくて、だんだん小さくなるという原理になっているのです。当たり前といえば当たり前ですが、ともかく2000年ももっているというのは、すごいとしか言いようがないのです。

 ポエニ戦争で滅ぼされたカルタゴです。ここはサハラの砂漠です。そのために、ハドリアヌス帝は、130kmの水道を引っ張っています。その水道橋が今も残っている。こういうことをしています。


 スペインのメリダです。これは模型ですけれども、円形闘技場、劇場、戦車競走場、何でもあります。のちほど申し上げますけれども、水道はダムから引っ張ってきています。ここに大きな川がありま。こういうローマ橋というものもあります。ともかく、遊ぶものは何でもあって、水もどんどん持ってきています。

 メリダの水道の話をします。今先ほどのメリダの町はここですが、これがプロセルピナダムです。こういうダムです。これは去年行って写真を撮ってきたのですが、このように、前面がコンクリートで、後ろのほうは土を盛っています。この中に取水塔があります。

 こちらはコルナルボダムです。ここに取水塔があります。これらは、高さ18mや12mです。ともかく、おおかた2000年前に、ダムを造って、わざわざ運んでいます。すごいとしか言いようがないのです。

 ヨーロッパの水の思想というのは、ローマ水道が基本になっています。ローマ帝国のころは11本ありました。ルネサンス期には3本になって、19世紀以降、現在は新たに新マルキア水道が約60km、それから135kmの新しい水道も造っています。極力、河川の表層水を使用しないと「うことです。

 同じ考え方がウィーンにもあります。のちほど図をお示ししますが、90kmや200kmの水道を引っ張っています。ミュンヘンは全部湧水ですが、パリについていうと、130kmや160km、120kmと引っ張ってきています。現在のヴィルド・パリについても、約60%はこれらの6本の水道、湧水から引っ張っているものを使っています。セーヌ川の水を使っているのは40%です。

 では、東京はどうかというと、「残念ながら」になってしまうのです。例えば、絵が小さいのですが、ウィーンは、こちらの第2湧水水道が90km、1870年です。約100年前に200kmの水道を引っ張っています。パリについていいますと、130kmや160kmや120kmなど、こういうモうに引っ張っています。ですから、基本的にヨーロッパ(EU)は古代ローマの受け継ぎですから、そういう思想が現代もあります。

 今までの話はローマの城壁のところまでです。城壁の中はどうなのかということです。江戸との対比ということで、江戸もローマも、丘があって起伏に富んでいて、どうして違うのかという話になります。

 ローマはこの城壁の中を、アウグストゥスが14の区画に区切っています。これはフロンティヌスが書いているわけですが、11本のうちの9本がどこを分担しているかということです。そうすると、例えば旧アニオ水道というものは10区画ぐらいです。ここで見づらいのですが、この標高の低いところにしか行っていないもの、アッピア水道は14区画のうちの7区画を分担しています。高いところに給水している、クラウディア水道や新アニオ水道は48mぐらいの高さで、市内に到達します。そうすると、この14区画全部をカバーしています。

 ということはどういうことかというと、当然のことで、例えば、何かトラブルがあって、アンシエティーナ水道やテプラ水道などが駄目になってしまうと、例えばこの第6区画は、6個の水道が来ています。1つや2つ駄目になっても断水はないわけです。ともかく、複線というか、竭ホかどうかはわかりませんが、「水道は止めない」という思想を持っています。

 次に市内給水のシステムはどうなっているかということです。先ほどのフロンティヌスが計測していますが、配分は個人用44%、皇帝用24%、公共水道32%ということです。基本的には給水塔があって分配しています。その分配の仕方ものちほどご説明します。

 これはわかりづらくて申し訳ないのですが、フロンティヌスが計測した水道の名前です。どこの区域に配っているか。それから、例えばローマ市内は皇帝用にいくら、個人用にいくら、公共用にいくら、兵舎にいくら、公共建物、噴水、水飲み場にどれだけ配っているかということです。これはクイナリアという流量の単位です。それは給水管のパイプの口径で決めています。流速は測れないから仕方がないのですけれども、基本的に水道管のバルブの口径を統一しています。バラバラではありません。

 ですから、このクイナリアという数字で、いくら配水しているかがわかります。これで総計、個人用ですと27%。皇帝用が12%という数字が出せます。この計測を何カ所かやりました。水道幹線の入り口でやり、それからこちらの出口で測っています。フロンティヌスは入口と出口を測っているのですが、当然のことですが合わないです。合わないと、「盗水をしているのではないのか」ということです。ここで言いますと、お金を取っているのは、個人住宅に引っ張っている、それしか料金は取っていません。水飲み場などそういうところは無料です。

 不純物の除去ということで、これはユリア水道で、先ほど言いましたが、こちらから水が入ります。そうすると、こう水流が下がっていきます。すると、不純物と一緒に、流速があって不純物も下降して、ここに溜まります。ここからきれいな水が出ます。トンネルや水道橋などは、全部蓋をしていますから、基本的にはごみは入らないのですけれども、こういう沈殿槽を設けているのです。ここにたまったヘドロはどうするのかということです。

 この形式とは違うのですが、これはドイツのケルンの沈殿槽です。これは上から見たところです。こちらの水源から水が入ってきて、ここのところは大きくなっていますから、そこで不純物は沈殿します。広くなっていれば流速が落ちますから、沈殿するわけです。

 では、その沈殿したヘドロをどうするのかというと、普通の発想だと水を空にして、人力でヘドロを汲み上げるのですが、そうではなくて、ここのところにゲートを設けて、ここは元々ゲートがあるのですが、ここのゲートを、こっちを止めて、ここのゲートを開けて、ここのところは非常に狭いですから噴流で出ます。この溜まった下のところに小さな穴があって、そこを開けるとジェットで出て行きます。どの程度の効果があるか分かりませんけれども、そういうことをやっています。

 ですから、全部が全部きれいにできるとは思えませんけれども、ともかく楽をしようということです。要は、水を空にしてかき上げようという発想がないのですから、すごいと思います。

 あとは、分水するということです。今は、多分岐バルブなど色々なものがありますけれど、この時代は当然ないわけです。これはフランスのニーム、ポン・デュ・ガールで水を運んだところです。このような円形、こちらから水が入ってきて、こちらの穴から水を出します。流出口は13個あります。この一番低いところが公共用、上のほうが、民間用ということです。必要なものは、取り口を一番低くして取る考えです。

今度は、例えば家庭用には色々なバルブがあります。鉛管もあります。それらを規格化しています。例えば、小口径は内径32mmから93mmまで8規格、中口径は93mmから228mmまで18規格です。このような給水槽があって、そこから個人住宅や浴場などに行きます。水槽の出口でノズルの口径を決めています。この場合8プラス18の26規格です。それでどのぐらいの使用量かがわかります。例えば民間でしたら、「この口径ですから、あなたのところはいくらです」ということをやっています。ですから使用量で決めています。では江戸はどうだったのという話になります。

 このやり方ですと、当然流速はよくわかりません。大体、1.1m/秒ぐらいの流速で考えていますけれども、これは若干いい加減なところがありますが、ともかく測ろうとしています。現代と変わらないのです。その料金というのはどのぐらいになっているかというと、1m3当たり2円ぐらいです。100円や200円ということではないのです。江戸のほうは後で話します。

 先ほど本を回覧した17代の水道長官のフロンティヌスですが、初代はアグリッパということで、管理する技術者集団がいました。そして、先ほどお話ししましたそういう『水道書』という維持管理マニュアルがありました。罰則も決まっていました。盗水(水を盗む)というと、10万セステルティウス、大体今の勘定でいうと4000万円ぐらいです。軍団兵の給料としたら80年分ぐらいの罰則があります。水飲み場を汚したりすると、1万セステルティウスですから400万円ぐらいです。実際に行われたかどうかはよくわかりませんが、そういう罰則が決められていましス。ともかく、管理体制が非常にしっかりしていました。


 それでは、江戸はどうだったのかという話になるわけです。フロンティヌスは、先ほども言いましたけれども、三度執政官になっています。そして、戦術書、戦略書、測量書、水道書などを書いています。水道書の内容は、水道の歴史と導水管の概要、市内の導水管の経路、給水量の単位と給水管の規格、水道の総水量の測定、市内外の給水の内容、トラヤヌスの給水の改良、水道関係の法規。例えば、罰則なんかもそうです。こういうことを記録として残す。今から2000年前にやっています。

 そして、先ほどお話ししましたフロンティヌスの心構えということで、最後にあります。若干読ませていただきますと、「水道の職務は都市の便益のみならず、その衛生から、さらには安全にまで関係するもので、従来、わが帝国の最も高位の人物がその総括に当るのが常であったので、私は任務につく前に、その仕事に通暁することが、最初になすべき最も肝要なことと考えた。これは私が他の任務についた場合にも、いつも原則的にとってきた方策であった。

 私はどの仕事の場合でも、この方策以上に確実なものは無く、これが無くては何を行い、何を廃止すべきかも決定できないと考える。また同時に、ひとかどの男子たるものが、自分にゆだねられた任務を技術顧問に教えられて遂行するほど不名誉なことはないと思う。

 しかし、ある人が直面する問題に未経験で、実際的な知識を部下にたよらざるをえない場合には、このような事態も避けられない。こうして、部下に重要な任務の遂行を助けられることになるが、本来、彼らは統括する長の手足であり、道具であるはずのものなのである。こういうわけで、私は今まで色々の任務についた場合、その執務の手順を観察しながら、各所に散在する情報を集めて、共通の課題に整理し、自分の監督の指針のために、このような体系的な小冊子をまとめあげてきた」ということです。素晴らしいとしか言いようがないです。こういう人が水道長官でやっていますから、いい管理ができたということです。

 一方、江戸の上水です。先ほどいった玉川上水は43kmで、この完成は1654年です。それから、神田上水が1590年ということです。神田上水は25kmです。両方合わせて1日当たり16万~17万m3です。江戸もローマも同じ100万都市です。ですから、ローマに対して17万m3というと、17%ぐらいです。非常に少ない量です。あとは、ここに6つの水道あったのですが、残りの4つの水道は1722年に廃止してしまっています。それは、江戸で大火事があって、そのときに、室鳩巣という儒学者が「水道が火事の起きる原因だ」ということを言っていました。原因というのは、要は、「水脈を枯らしている」などということで、この言説が採用され、廃止されてしまいました。ですから、最盛期は6本あったのですが、これ以降は2本になっています。

 そうすると、先ほど言いました、このような石樋(せきひ)あるいは木樋(もくひ)、これは材質や寸法の規格は何もありません。ですから、流量の測定などは思いもつきません。どうやって料金を取ったのかという話になります。江戸の管理は上水奉行や町奉行など、そういう人たちがやっています。奉行というのは、大老や中老などいろいろいますが、かなり下の地位です。片やローマの場合は、水道長官は執政官、いわゆる元首相の人がやっています。例えば四谷大木戸や白山下(はくさんした)までは、このような開水路ですから、要は何を放り込んでも??それこそ、玉川上水で入水したのは太宰治です??死体が浮いても、立ち小便してもいいわけです。

 江戸上水の使用料金というのは、使用量の計測ができないから、それぞれの家の表間口の距離で決めています。表間口1間について11文などそういう数字でして、罰則は、要は高札を立てて、まじめにやれというのがあります。しかし「100万円だ」あるいは「10両だ」というものはスもないのです。一応、マニュアルとして『上水記』というものはありますけれども、絵地図やそのようなもので、管理のものにはなっていないということです。残念ながら、江戸時代はローマにかなわなかったのです。

 ここまでが、江戸とローマの水道についてです。水道はやはり使うためであって、飲み水だけではなくて、浴場、いわゆるローマ風呂です。先ほども言いましたけれども、図に示す、こういうところが浴場です。いわゆる大浴場です。これを見ていただいて、これは11カ所ありますが、ここには示していないのですが、そのほかに900カ所小さな浴場があります。そうすると浴場だらけです。黄色が戦車競走場、赤が剣闘士闘技場です。ここにはないのですが、ここら辺はマルケルス劇場があります。そうすると、ローマ人は風呂に入ったり遊んだりで、遊び大好きと「うことです。

 例えば、風呂ということでいいますと、これはカラカラ浴場ですが、敷地が360m×330m、浴場規模が200m×110m、利用客は1時に1,600人、1日で6,000人ぐらい入れます。先ほども言いましたように、常磐ハワイアンセンターに匹敵します。総合レジャーセンターということで、「ろいろなスポーツ施設も美術館もありますし、飲み食いもできます。

 これは現状を空中から見た状況です。ここにあるように高温浴室や冷水浴室や微温浴室など、ここに図書館やスタジアムやジムやプールなど、色々あります。具体的に、図書館やホールはどうだったのか。これが有名な「ファルネーゼのヘラクレス」「ファルネーゼの牡牛」です。これはナポリの国立考古学博物館にあります。

 これはバチカンにある噴水です。ファルネーゼの彫刻は大きいものです。5mぐらいあるのではないでしょうか。これだけではなくて、それがカラカラ浴場にあるわけです。ですから、博物館というか美術館というか、そういうたぐいのものです。これに匹敵するのは、ディオクレティアヌス浴場やトラヤヌス浴場など、沢山ありました。そして誰でも入れます。風呂の入場料金が大体25円ぐらいです。皇帝も奴隷も一緒に入れます。これはその絵で、トラヤヌス浴場はこのようだったようです。天井画や壁画がある総合レジャーセンターです。

 建設技術でいいますと、水道は高いところから低いところに、ある勾配でもっていかなければいけません。そうすると、水準器ということで、こういう長さが6mぐらいの水準器を作っています。それを使って、コーロバテースというのですが、こういうふうに水準測量をしました。今の水準器、これは30cmぐらいですが、こちらは6mです。これはセットするだけで大変です。方向を見るのには、グローマという重りを4つ下げて方向を見るということをやっています。この時代の人たちは目が非常に良かったから、こういうことできちんとしたものができたのだと思います。

 ローマの「水道がすごい」「道路がすごい」「パンテオンがすごい」など色々言われていますが、その大本は??当然、技術というものがありますが??材料がなければ出来ません。ローマ人はギリシャ人ほど頭が良くないと言われています。しかし、それの最大の発明・発見はコンクリートだと言われています。

 もう1つ、ウィトルウィウスの建築書にセメントのことが出ています。建築書の本を回します。例えば、ギリシャのパルテノン神殿は石積です。ローマのパンテオンはコンクリート製です。これはポンペイの石柱ですが、外側がレンガで、中にコンクリートを入れています。そうすると、どういうメリットがあるかというと、例えばパルテノン神殿の場合、石の端面をきれいに成型して、それをどんどん積み上げていこうとすると、非常に技術がいるわけです。それと、大きな重いものを積みますから、大きなクレーンがいります。

 一方、コンクリート製の場合はどうなのかというと、これはパンテオンです。下は重いコンクリートで、上は軽いコンクリートで、このような格子構造で軽くする技術があります。

 現在のコンクリートの作り方は、例えば、コンクリートの壁を作るというと、鉄やベニヤの型枠で、セパレーターという、鉄の開き防止棒を付けていまして、この中にコンクリートを入れます。

 一方、ローマ人はどうだったかというと、レンガを積んで、セパレーターはありませんから、こうコンクリートを打って、また継ぎ目のところで、コンクリートを継ぎ足します。ご承知のように、今でも発展途上国にレンガ造りの家というのは非常に多いのです。レンガ技術というのは、レベルが高い低いということではなくて、どこでも簡単にあるわけです。そうするとこれを作る技術は簡単なのです。この中を埋めるコンクリートがあれば、家でもビルでも何でもできてしまいます。

 ところが、例えば、パルテノン神殿を造ります。この柱をきれいに成型して順番に積み上げます。そのクレーンも大変で、こちらも成型するには非常な技術がいります。どちらがたくさん造れるか、というのは自明だと思います。

 今、回覧していますウィトルウィウスの建築書です。「自然のままで驚くべき効果を生ずる一種の粉末がある」。これはバーイエ地方に産する。ここにヴェスヴィオ山がありますが、「ヴェスヴィオ山に産出する。これは、石灰および、いわゆる石との混合物は他の建築工事にも強さを持たすだけでなく、突堤を水中に築く場合にも、水中で固まる。水中でコンクリートができる」と、書いています。

 今は、水中コンクリートは当然できますが、昔は出来ませんでした。昔のギリシャ・ローマには漆喰(しっくい)というのがあります。漆喰というのは水の中では固まりません。それで、フォーブスという方が言っているのですが、「ローマ人は心情で最後まで農民であった。彼らの科学は、大部分はギリシャのものであるか、あるいはギリシャの魂を吹き込まれたものであった。ただし、コンクリートの発明とその建築技術への応用は、ローマ人に帰せられる唯一の大発見である」と言っています。

 水道を造ろうがコロッセオを造ろうが、その技術も当然そうですが、材料がなければできません。例えば、パルテノン神殿みたいに石を積み上げていたら。ここまでは出来なかったのではないかと思います。

 クレーン技術ということで、これも先ほど言いましたライン川のところのクサンテンに、原寸の模型ですが、ちょっと見づらいですが、動滑車、定滑車があります。2000年前に今のクレーンと変わらないのです。ここのところに、今は原動機がありますが、それを人が動かしたり、このような人間が引っ張ったりするということで、機構は全然変わらないのです。

 日本はどうだったかというと、いろいろ調べますと、例えば奈良時代に東大寺など大きなものを造っています。あったのは、いわゆる「ろくろ」というウインチみたいなもので、残念ながら、定滑車、動滑車というものが江戸時代まで、どうもなかったみたいなのです。この定滑車、動滑車といいますと、中学ぐらいの物理や理科で習っていますけれども、そういうことが出来ているのです。

 ローマ水道は非常にトンネルが多いのです。その中で、例えば新アニオ水道の建設が3年、マルキア水道の建設は4年ぐらいで造っていました。なぜそんなに早く、60kmも80kmもと思います。トンネルは元々真っ暗ですから、24時間作業が出来ます。橋の建設は大体昼間しかやりません。中東のほうにカナートというものが今もあるのですが、このように立坑(たてこう)を沢山造ると、ここから両方向に攻められますし、夜でもできます。

 例えば、10kmのトンネルで、36m間隔で立坑(たてこう)を造ります??これは、ウィトルウィウスが「36mごとがいい」ということを書いているのです??そうすると、この切羽(きりは)という穴を掘るところが554箇所出来ます。554チームいれば、この間は18mですから、18mだけをどんどん掘れば1カ月あるいは3カ月でもいいですが、そういうオーダーが出来てしまうのです。ですから、非常に早く、3年や4年で出来てしまいます。

 最後になりますが、技術者としてのカエサルです。彼はライン川に400mの橋を高々10日で造りました。これは、ローマ文明博物館にある模型ですけれ。これも計算すると、こういうクレーン船を20隻ぐらい造れば建設できるという勘定をしました。ともかくすごいのです。彼は、初゚て大規模な剣闘士闘技もやっていますし、戦車競走場を改造して、石造りのマルケルス劇場を着手し、それから初めてナウマキアという模擬海戦もやっています。ともかく遊びの天才なのです。

 そして、「パンとサーカス」。これは今、非常に興味を持って、本を書いているのですが、「パンとサーカス」を実質始めたのはカエサルです。人心掌握術に非常に優れていると思っています。

 ローマ人の素晴らしさというのは、フランスのモンテスキューが言っている言葉では「自分より優れたものがあれば、すぐ自分たちの習慣を捨ててでも良いものを取り入れる」。先ほど回覧しています、フロンティヌスは『水道書』で「聡明を極めたアウグストゥス帝がアンシエティーナ水道を引いた理由がよくわからない。アンシエティーナ水道は良い点がまったくない。実際、水は衛生的とは言いがたく、従って公共用にはまったく供されていない」と酷評しています。

 ですから、フロンティヌスは100年前のいわゆる、神君アウグストゥスを文章で非難しています。そういうことが江戸時代に、例えば、大岡越前守が「徳川家康、あれは駄目だよ」と言えたかということです。

 カエサルは遊び好きで凱旋式ということをやるわけですが、これはローマ文明博物館に展示している凱旋式の様子です。これで示すと、ここがカエサルで、軍団兵がいて、ここら辺は奴隷や人質です。このときに意気揚々とカエサルが行進して周りに群衆がいます。この軍団兵が何を言ったかというのがプルタルコス『英雄伝』などに出ています。

紀元前45年の凱旋式でカエサルは白馬の戦車に乗って甲冑を着て威風堂々と行った。そうするとこのときに、参加した部下が市民たちに『女房を隠せ。女たらしのお出ましだ』とシュプレヒコールをした。そうすると、カエサルは『おい、やめろ』と言ったけど誰もやめず、『仕方がネいな』」ということです。

 ですから、オープンさがあったということです。それは、いつもオープンとは限りませんが、諌言してバッサリと殺されたこともあるでしょうが。こういうオープンさ、それと先ほどの遊び大好きというのがローマの繁栄の原因の1つかと思っています。

 ちょっと時間が7~8分過ぎましたが、大体こんなところで私の話を終了させていただきます。時間がオーバーしても申し訳ございません。(拍手)


【橋都】 中川先生、どうもありがとうございました。みなさん改めて、ローマ人のすごさというものを感じたと思いますけれども。いかがでしょうか、ご質問のある方はお受けしたいと思います。

【質問者1】 水道は結局、さっきのコンクリートの上を流すのですね。

【中川】 はい。

【質問者1】 コンクリートは劣化したりひび割れしたりして漏水が起こるというのはしょっちゅうあったのですか。

【中川】 あったようです。

【質問者1】 それは、常に補修をするということでしょうか。

【中川】 ええ。ですから、アグリッパが作った技術者集団は確か240人ぐらいですが、クラウディウス帝の時代にはさらに600人、そういう技術者集団が直していました。それはもともと占領したところの奴隷技術者だったのです。アグリッパが亡くなったときに、その技術者集団をアウグストゥスに寄贈して、彼ら奴隷を一気に市民階級ではなくて騎士階級まで位を上げたという話があります。

【橋都】 ほかにいかがでしょうか。

【質問者2】 大変面白いお話をありがとうございます。今の続きですが、退役軍人のグループやそのトップということはわかるのですが、その技術者のギルドや組合などはあったのでしょうか。これだけのたくさんの長いものを造ると、その人数ではちょっと無理と思うのですが。

【中川】 基本的に何でも民間です。ですから、民間で退役軍人が、例えば足場を作る人たちやコンクリートを作る人たちなど、そういうグループがあったようです。それがやはり、ギルドというか組合というか。その組合がそれこそ売春婦の組合やそういうものもあって、売春婦組合が税金を取られたとか、いろいろなギルドというものがあったようです。ただ、具体的に建設者集団のどういう組合があったかというのは、まだ私は調べていませんが、例えば船乗りですと、船乗りの中でもたくさん分かれているということはあったようです。

【質問者3】 本当に大変面白いお話、ありがとうございます。すみません、水道は必ず泉というか、そちらから取ってこられて、かなりの長距離を極めて緩やかな勾配で流してくるわけですね。そうすると最後は、噴水はもちろんあるのでしょうけれども、水くみ場みたいなところが、各町の拠点のようなところにあるのでしょうか。

【中川】 要はそういう公共用の水飲み場というところです。例えばカラカラ浴場みたいなところや、個人の金持ちの家に行きます。金持ちの家の場合はお金を取ります。先ほど言いました1m32円ぐらいです。公共の水飲み場はただです。

 日本の場合は、間口1間あたり11文です。長屋があると、長屋の大家が金を払っています。ですから、決してただではないわけです。時代劇なんかを見ますと、道路のところに釣瓶があって、皆が水汲みをやっています。それはちょうどローマの時の水飲み場と同じなわけですが、それはトータル無料ではなくて、有料です。

【質問者3】 先ほどおっしゃったかもしれないですけれども、日本の場合は大体、玉川上水でも水道を川から取ってきますよね。それを、必ず湧き水を使ったのは、やはり、衛生上や水質の問題ですか。

【中川】 多分、そういう衛生上の問題だと思います。基本的に、上水と下水というものは分けています。日本の場合はそこら辺がちょっといい加減というか、確かに糞尿の有効利用という考え方は素晴らしい考え方ですけれども、ただ逆に言うと、肥桶を運んで街中をうろうろして、臭いということはあるわけです。ローマの場合は確かに、全部水洗便所でテヴェレ川に放り込んでしまって、テヴェレ川が汚れていることはあります。

 一方で見ると、450kmぐらいトンネルを造っているのです。そうすると、例えばローマ市の下水が流れている範囲は、ローマのテヴェレ川の範囲でも5kmか10kmです。そうすると、そこにしか下水が行きません。そのもう少し上流から水を取ってローマに持っていってもいいわッです。

 なぜそれをしなかったというと、やはり河川水ではなくて、ローマよりちょっと上だったら多分きれいだと思うのです。そうではなくて泉です。外気にさらされていないものを使おうではないかという発想があったのではないかと思います。ですから、それが今のウィーンやパリは、その思想がずっと残っています。それは多分、泉信仰だと思います。ですから、技術としては絶対可能なわけですから、そちらのほうがずっと安くて早いのですが

【質問者4】 お尋ねします。質問というか感想というか、先生に判断をしていただきたいのですけれども、この前、京都の琵琶湖疏水に取材に行ったのですけれども、それを記事に書いたのですけれども、イタリア人の上司が「こんなものは2000年も遅れている。こんなものは何にもならない」と言って記事にしてくれなかったのですけれども、それは正しかったのでしょうか。(笑)

【中川】 技術的には正しいと思います。ただ言えるのは、あれを建設されたのは田辺朔郎さんという方で、東大を出て22歳ですぐ所長になっているわけです。

【質問者4】 そうです。京都府の方々は、「もうすごく大変だった」とか、その技術者の方を「素晴らしかった」とずっと話はされていましたけれども。

【中川】 アッピウス・クラウディウスは28歳です。

【質問者4】 2000年あとだったのですね。そういうことですね。

【中川】 確かに技術的に言ったら、やはり負けてしまうでしょう。あと、もう1つ違うのは、トンネル技術がすごいといっても、それは高い山があって無理やり硬いところを短距離で結ぶということはやっていないのです。ですから要は立坑(たてこう)がたくさん造れます。まさか立坑(たてこう)が深さ100m、200mではやらないで、5m、10m位です。ですから、直線で結んでいませんから延長距離は長いわけです。

 ところが、琵琶湖疏水の場合は、最短距離でやっていますから、非常に硬いところを掘っています。そういうところはありますけれども、片や電動ポンプもある、ダイナマイトもある。やはり、残念ながらかなわないかなと思います。(笑)

【橋都】 それに関係しますけれども、トンネルと水道橋では、やはりトンネルのほうがコストは安いのでしょうか。

【中川】 多分、昔でしたらそうでしょうね。

【橋都】 そうしますと、最初のうちは比較的トンネルだったのでコストは安くできたけれども、後年はやはり水道橋を造るような水道が増えてくると、やはりコストも建設費用も高くなったということでしょうか。

【中川】 それはそうでしょうね。やはり、先ほども言いましたように、トンネルの場合は、掘るところがあちこちできます。ですから、短い時間でできます。ところが、橋は下から積み上げていかなければいけないわけです。橋の場合は、水路という見方から見ますと、例えばここに水路があります。橋の場合は、例えばここに橋を造ると、水道部分というのはこれだけです。そうすると、工事量として橋の場合は、この橋脚や桁なんかを造らなければなりません。ですから、トンネルは純粋に水を送るためだけの部分に対して、橋の場合非常に工事数量が多いのです。したがってトンネルの方が効率がいいわけです。

【橋都】 たくさん質問があるようですけれども、では先に。

【質問者5】 非常に下世話な質問なのですけれども、ローマの素晴らしさというのは想像以上で、本当にすごいなと思って聞いていたのですけれども、イタリアということになると、今ははるかに日本人のほうがお風呂や水道に対する気持ちというのは、熱いのではないかと思うのですけれども、それはどのあたりで変わってきたのかなというのが質問です。すみません、くだらない質問で。

【中川】 いやいや、私はそれも書いているのですけれども、結局、キリスト教です。ローマ人は「飲めや歌え」です。片やキリスト教というのは、「清く貧しく美しく」です。風呂に入って酒を飲んででは、キリスト教にならないです。(笑)ここにキリスト教徒の方がおられると申し訳ないのですが。

【橋都】 では、遠藤さん。

【遠藤】 どうも、面白い話をありがとうございました。ローマはそうなのですが、例えばイタリアの地方の土地に行きますと、小高い丘にポコポコいっぱい中小都市があって、ローマ時代からも、エトルリア時代からも続いています。例えば、オルビエートなんかは、井戸を掘るしかなかったので、今でも井戸がいっぱい残っているのですが、フランスのニームやプロヴァンスやスペインに行くと、ローマの水道橋や水道施設がまだ残っているのですが、イタリアの、例えばシエーナや、もっと小さい丘の都市は一杯あったと思うのですが、そこら辺は、水はやはり井戸に頼っていたかどうかということがひとつ。それからセメントについてですが「ヴェスヴィオ山の周辺から出る」ということでしたが、ローマの遺跡を見ると、もう本当に庶民の家から遺跡から、莫大(ばくだい)な量のセメントを使っているような形跡がうかがえるのですけれども、セメントはどのように大量生産して使っていたか、おわかりであれば教えていただきたいのです。

【中川】 今のご質問は2つあると思うのですが、例えばシエーナや、そういうところの井戸などで現実にやっています。それとセメントは、ヴェスヴィオ山はわかるけれども、そのほかはどうなのかということですね。ローマに限らずヨーロッパは城郭都市です。ですから、囲われた、山の上に城郭があるというものが多いです。そういうところは井戸というのはどうしてもあります。

 ですから、水道があったというところは、やはりそういう大きな都市です。植民都市やなんかは、逆にいうとあとから作ったものですから、初めから武装ということも考えているから、水道を引っ張ってもということです。小さな都市はやはり、井戸というのは多かったのではないかと思います。

 あともう1つ、セメントということについていいますと、少なくともイタリア半島は火山半島で、ローマのそばにも火山がありますから、火山灰は確保できました。けれども、先ほどのクサンテンやケルンですと、火山があるのかというとどうもなさそうで、ところがセメントを使っています。セメントというのは、もともと石灰と粘土を焼いてできるわけです。それの原型に近いようなことをやっています。ですから、日干しレンガではなくて、焼いたレンガというものはもう大昔からあります。そうすると、レンガを焼いた時に、それをつぶすと??ものによるのですけれども??石灰分が多いものですと、品質の悪いセメントが出来るのです。それと石など色々なものを混ぜ合わせて、質の悪いセメントができると思います。

 ただし、ローマセメントというものが5世紀ぐらいまであったわけですが、そのあとはほとんどなくなってしまっているわけです。なくなってしまっているというのは、例えばヨーロッパの大聖堂は大体、石積みです。ですから、そのセメント・コンクリートという技術がローマ時代以降はかなりなくなってしまいました。お風呂もなくなったのと同じように思っています。

【橋都】 もう一方、はい。

【質問者6】 今のセメントの事はわかったのですが、それ以外に、水道橋や円形劇場は属州で一杯ありますよね。これは多分何百年もかかって順番に造られていったのかとも思うのですが、ある程度の技術集団みたいなものがローマから派遣されて行ったのか、あるいはそのところで育成したのか。その辺はいかがでしょうか。

【中川】 まず、技術集団がいたかどうかということです。少なくとも、植民地は退役軍人が行ったということです。ですから、ケルンはアグリッパが軍団兵を連れて行きます。メリダはアウグストゥスが連れて行くという格好です。軍団兵は基本的に技術者集団でした。例えば、敵の城を攻めるときはトンネルを掘ったりしているわけです。道路も造っています。建設技術は十分ありました。ですから、そういう人たちが退役軍人として植民地へ行ったから、そういう技術があります。ですけど、円形劇場やコロッセオみたいな闘技場は同じようなものをたくさん造っています。そうすると、いくら技術があるといっても設計などがないのに、同じようなものがなぜできたか。みんな勝手なものを造ってしまうのではないかということですが、回していただいた、ウィトルウィウスの『建築書』やフロンティヌスの『水道書』、そのような本がマニュアルとして行き渡っていたのではないかと思います。

 ですから、先ほど「パンとサーカスがローマの繁栄を作った」という本を書いている、と言いましたけれども、結局、「パンをただであげるよ」、それが要は「パンとサーカス」のパンです。ローマ市民だけですけれども、ローマにもらえる人間が貧民も含めてたくさん集まってしまうのです。そんなに来られたら小麦も配給できませんので「出て行け」となります。それが、メリダやクサンテンやケルンなど植民都市です。そのときに、技術者集団ですから能力のある人間が行っているわけです。それにマニュアルを与えて、そこで楽しくできるように。楽しくなければまたこっちに戻って来てしまいます。

【橋都】 ローマ並みの生活水準を与えるということですね。

【中川】 ええ。ですから今、例えば、日本はよく「地方へ、地方へ」と言ってまた戻って来てしまいます。日本もローマを学んだらそういうのもできるのかと思っているのです。

【橋都】 まだ、質問があるかと思いますけれども、時間になりましたので、今日はこれで終わりにしたいと思います。もう一度、皆さま拍手をお願いいたします。どうもありがとうございました。(拍手)