イタリア演劇と日伊の演劇交流

第360回 イタリア研究会 2010-06-06

イタリア演劇と日伊の演劇交流

報告者:静岡文化芸術大学教授 高田 和文


【橋都】 皆さん、こんばんは。本日はイタリア研究会第360回の例会にようこそおいでくださいました。私、イタリア研究会の運営委員長の橋都と申します。 

 今日は講師に静岡文化芸術大学教授の高田和文先生をお迎えしております。皆さん、高田先生をご存じの方が多いと思いますけれども、イタリア研究会のお仲間といっても失礼には当たらないのではないかと思います。このたび、イタリアのローマ日本文化会館の館長という大変重要なお仕事を終えられて、日本に戻られましたので、ぜひその経験を踏まえて高田先生にお話をお願いしたいということで、今日の例会となったわけです。

 簡単に高田先生のご略歴をご紹介したいと思います。先生は東京外国語大学をご卒業の後、1977年から1979年にローマ大学に留学され、その後東京外国語大学の大学院を修了されております。ナポリの東洋大学講師、イタリアの日本大使館の専門調査員などを経て、静岡文化芸術大学の教授を務めておられます。そして、2007年から2010年まで、ローマ日本文化会館の館長を務められたということは、先ほど申し上げた通りです。専門はイタリア演劇、イタリア文化史ということで、今日はそれに関係したお話をお願いしております。

 それでは、高田先生よろしくお願いします。


【高田】 こんばんは。高田です。

 イタリア研究会は私ももうずいぶん前から会員として参加しておりまして、実はこの例会での発表も、既に二度やらせていただいています。例会に参加するのはずいぶん久しぶり、3年ぶりくらいでしょうか。大変懐かしい気がしております。

 演題ですけれども、当初は「イタリア演劇の現在の状況と日伊の演劇交流」ということで、お伝えしてありました。今日は日伊の演劇交流についてもお話はしますけれども、3月の末に帰国して、4月からはもう大学で仕事をしておりますが、何度か日伊協会の方からお誘いがあってセミナーなどをしておりまして、その中で日伊の演劇交流についてかなりお話をしております。ダブって参加されている方がいらっしゃるかなと思って、内容はそれぞれ日伊協会の談話会と、それからセミナーと、このイタリア研究会と、私なりに多少分けてしたいと考えております。今日はですから、主にイタリアの演劇について話をさせていただいて、最後に日伊の演劇交流について触れるということにさせていただきます。

 まず、イタリアの演劇ですけれども、これまでにやった報告でもそうですが、なかなか日本ではなじみがありません。例えば、隣接するジャンルといいますか、同じ舞台芸術でもイタリアのオペラに比べますと、ほとんど情報が入ってきていないわけです。これはもちろん、我々、イタリア演劇研究者の側にも大変大きな責任がありまして、頑張っていろいろやっているのですけれども、なかなかフランス演劇やドイツ演劇、それから英米の演劇に比べると、研究者の層も薄いし、しっかりした情報を提供できない状況にあることは否定できません。今後、若い人がイタリア演劇の魅力に気付いて、どんどん研究なりあるいは実践の場で、日伊演劇交流に関わる方が出てくることを期待しております。私の見るところでは、実際に若い人でイタリアの演劇に興味を持つ人が、かなり増えているのではないかと思います。

 イタリア演劇の魅力ですけれども、私は大学生あるいは大学院生のころからとにかくイタリアの演劇に興味を持っておりまして、自分が本当に好きなことというのは、客観的にこうである、ああであるとほかの人に説明するのは結構難しいものです。ともかくイタリアの演劇は大変面白いと思っていたのですけれども、ローマの大使館勤めから帰ってきたころですから1990年代に入ったころでしょうか。あるいはローマに行く前からかもしれませんけれども、いろんなところで話をしても、なかなかイタリア演劇というのは理解していただけないので、ある時期からイタリア人の国民性と演劇というようなとらえ方で、いろんなものを見るようになったのです。

 そうすると、イタリアは「5,500万人の俳優の国」??人口が変化して、ときには5,300万とかになるのかしれませんけれども??そういったような記述がいろんなところに出てきます。それから、都市論、空間論をやっている方は、イタリアの都市の演劇性というようなことをしばしばお話しになります。哲学や思想をやっている方も、イタリア人のものの見方に演劇性があるというようなことを言われます。山口昌男さんなど文化人類学の方から、イタリアの演劇そのものについて、「道化論」というような形で本が出たりしています。いろいろ考えると、イタリアは大変な演劇大国であるということ、これは間違いありません。

 私は、イタリア演劇の話をするときには、大変つまらないこだわりなのかもしれないけれども、いつも言うことがあって、1つは、イタリアの劇作家でノーベル賞を受賞した人が2人いるということです。1人は1934年のルイジ・ピランデッロです。今日の話にも出てきます。それからもう1人が1997年のダリオ・フォーです。私が主に研究対象としている作家です。ほかの国で、ノーベル文学賞を劇作家が2人受賞という例はほとんどありません。ですから、その意味でもイタリアというのは、演劇において大変優れた国であります。

 もう1つ、ヨーロッパ演劇大賞というのがあります。これはEUが主導していて、ヨーロッパの優れた演劇人、劇作家も含まれていますけれども主に演出家に与えられる賞です。これも十数年続いていて、既に十数人の受賞者が出ているんですけれども、ヨーロッパが対象で、イタリアには2人受賞者がいます。1人は演出家のジョルジョ・ストレーレルという人です。1997年にすでに亡くなっています。それからもう1人がルーカ・ロンコーニという人です。2人受賞しています。2人受賞した国はほかにもあって、イギリスはピーター・ブルックという演出家と、ハロルド・ピンターという劇作家です。だから、最高というわけではないけれども、それにしても、イギリスその他の国と並ぶほど、イタリアはこういう大事な賞を受賞しています。

 そういう事実がなかなか日本では知られていなくて、ストレーレルといっても、もっぱらオペラの演出家として紹介されています。ロンコーニも、やはりオペラの舞台でいくつか日本で知られているものがあるので、オペラの演出家だと日本の皆さんは思っていらっしゃるようです。けれども、彼らの本業は台詞劇の演出です。ときにはオペラも演出するという程度です。

 ちなみにイタリアの演出家は、台詞劇の演出をしていても、ある程度実績を作ると、オペラの演出を手掛けるという人が目立ちます.それには理由があって、やはりオペラの演出をしてこそ一流の演出家として評価されるということです。

 オペラのようないわゆる古典は、決められた通りに演出しなければいけません。途中でこの部分を飛ばして別の場面につなげるというようなことは、台詞の劇ではテキストレジーといって、演出家の裁量で許されまが、オペラの場合にはそれは許されません。音楽が途中で切れて別の部分につながってしまうということは、普通はあり得ないわけです。非常に特殊な場合を除いて、決められた通りに演出をして、テキストも音楽もそのままです。ですから、当初、非常に実験的な舞台を作っている演出家が、オペラなんかやるのかなと思うのですが、やはりある年齢に達すると、オペラを演出する人がほとんどです。

 マリオ・マルトーネという大変前衛的な演出家の作品を、私も80年代の初めに見て、非常にびっくりしました。とにかく開幕後10分ほどストロボがずっと連続してたかれて、目がちかちかしてきました。目が痛くなってきたなと思うと今度はにょろにょろとした、ぐるぐる目が回るような光線でまた10分ほどやって、演目はシェークスピアの『オセロ』だったわけですけれども、何を見ているのかよく分かりません。しかし、見た後で、目にちかちかした残像だけは数日残るというような舞台でした。その彼が、やはり何年か後にはオペラの舞台をやりました。

 それから、日本でも公演をしたエリオ・デ・カピターニといった人たちも、みんな70年代後半、80年代あたりは大変な実験劇をやっていたのですけれども、オペラに入っていきます。ロベルト・デ・シモーネやマリオ・スカパッロ、フェデリーコ・ティエッツィといった演出家もある時期からオペラをやり始めました。みんな台詞劇の出身者です。出身者というよりも今でもその活動を中心にしてやっています。

 このようにイタリアの演出家は台詞劇もオペラの演出も両方するわけですが、オペラのほうが世界的に圧倒的に高く評価されているのです。しかし、それは片手間というわけではないにしても、あくまでも彼らにとっては、演出の仕事ではあっても、自分の本来の専門領域外です。本来は台詞劇の演出が専門なのですが、台詞の劇の方はやはりなかなか言葉の壁があって、日本に限らず外国では評価されないようです。

 いずれにしても、イタリア演劇の魅力というのを、そのころからいろいろと考えるようになってきたわけです。1つは国民性と演劇のつながりです。特にナポリで生活をしているときには、周りの人たちが、ほとんど映画や演劇の場面と変わらないような雰囲気で話をしたり、ときにはけんかをしたり、議論をしたりということがあって、そういう面が1つあります。

 それからもう1つは、現代普通に言われる演劇という面では、例えばシェークスピアであるとか、チェーホフであるとか、フランスの劇作家モリエールとかのように、イタリアには決してそれほど有名な作家がいるわけではありません。しかし、もっと歴史を長く捉えて、古代ローマからルネサンス、そして近代、現代と見ていくと、イタリアには古代ローマの時代に大変豊かな喜劇の伝統がありました。当時はイタリアとは呼ばなかったわけですけれども。ルネサンスの時代にそれを復興して、それからコンメディア・デッラルテ(Commedia dell'arte)と呼ばれる仮面劇が生まれ、200年間、ヨーロッパ中で流行します。その後19世紀にもかなりイタリアの劇団が世界中を巡演したりしています。演劇史の見方を少し変えると、イタリアはやはり歴史的にも大変な演劇大国になるのです。

 見方を変えるというのは、つまりフランス流の「書かれた戯曲文学」という考え方ではなく、舞台で上演された「舞台芸術」という見方で歴史をもう一度見直すということです。そうすると、やはりイタリアは大変な演劇大国であると思います。

 古代ローマの場合は、もちろんローマの喜劇があるのですけれども、もう少し分かりやすい例を挙げると、コロッセオでやっていた剣闘士の闘いとか、それから映画の「ベン・ハー」に出てくるような馬車レースがあります。これも当然大きな意味での演劇的な見せ物ですから、そういったことを考えても、イタリアの演劇というのは歴史的に非常に豊かであったということが言えると思います。

 そんなことを、90年代に入ってからはいろんなところで話をして、できるだけ多くの方にイタリアの演劇の魅力を知ってもらいたいと考えてきました。いくつか挙げると、イタリアの演劇はほかのヨーロッパの国の演劇に比べると、大変多様性に富んでいます。その理由はさっきお話ししました、コンメディア・デッラルテという仮面即興劇の伝統が残っているからだと思います。今でも仮面を付けて上演する劇もありますけれども、例えばナポリの喜劇では、決して仮面を付けるわけではありません。表向きは普通の現代劇ですけれども、コンメディア・デッラルテによく使われる喜劇の手法、ギャグであるとか、身体表現、こういったものを使った芝居がたくさんあるわけです。

 ヨーロッパの歴史というのは近代までは比較的直線的に進んでくるところがあって、前の時代のものを克服して新しい様式を作るという形で進んできたわけです。これは演劇に限らないと思います。美術でも、音楽でもそうだと思います。従って、コンメディア・デッラルテや、あるいは道化芸やパフォーマンス系の演劇は、ほかの国では残ってはいるけれども、これは完全なサブカルチャーのレベルです。イタリアの場合には、もちろんサーカスやそういうとものもあるけれども、演劇の主流、メインストリームの中にコンメディア・デッラルテの流れをくむ道化の芸や、パフォーマンス芸のようなものが残っているのです。


 日伊の交流の面でも大変面白いと思っているのは、イタリアには語り芸、講談や落語のような芸が今でも残っています。例えば、映画監督として有名なロベルト・ベニーニは、もともとは語り芸の名人、舞台で延々と語る、そういう芸人だったわけです。映画はむしろ後で始めました。ダリオ・フォーもノーベル賞を受賞したのは、当然彼が書いたいくつもの戯曲が翻訳されて外国で上演されたことによるわけですけれども、イタリア人に「ダリオ・フォーってどんな人? どんな演劇をやっているの?」と聞くと、彼はモノローグ(モノロゴ)、語りの芸人であるというふうに言われます。最近はノーベル賞受賞によって見方が少し変わってきて、普通の芝居も書いているということも知られるようになりましたが、80年代、90年代初めぐらいまでのダリオ・フォーは、もっぱら『ミステーロ・ブッフォ(Mistero buffo)』と呼ばれるモノローグ、一人語りの芝居の演じ手として、イタリア人には認識されていました。

 そういった事情があって、日本の落語も講談も、最近はイタリアで公演がなされたりしていますが、これは大変面白いことだと思うのです。

 そういうものはもちろんほかの国にもあって、スタンド・アップ・プレイといったジャンルがあるのですが、これはキャバレーなど、いわゆるサブカルチャーのレベルで残っているのです。イタリアの場合には、それが近代演劇、現代演劇と並行して、非常に重要な位置を占めているということです。

 しかし、猛烈な勢いでべらべらとまくし立てるわけですから、外国人には分かりにくいです。ベニーニの『ダンテ』というのは、イタリアでDVDがずいぶん売れたようですけれども、見ていてもどこが面白いのか全然分からない。しかし、イタリア人は大喝采(かっさい)を送っています。もちろんダンテの『神曲』を読むのですけれども、読んだ後にいろいろコメントするわけです。それが面白い。

 しかし、当然イタリアの演劇も19世紀の末から20世紀に近代化を遂げていますから、伝統演劇と並行して、近代演劇、現代演劇というのがあります。それから前衛劇や実験劇もかなり盛んです。これは60年代末から70年代、日本でちょうどアングラとか小劇場演劇と呼ばれるものが出てきたのとほぼ同じ時代に流行しました。こういうふうに多様なジャンルが共存している点が、まずイタリア演劇の魅力の1つです。

 それから、イタリアの俳優は、先ほども言ったように、普段の生活で既に相当に身振り手振りが豊かで自己主張も強いので、しゃべり方がうまいというのがあります。それがさらに訓練されているわけですから、俳優の水準は非常に高いです。特に70年代中盤、既存のいわゆる公共劇場、公立劇団で、人事が固定したり、演目もかなりマンネリ化してきました。その時期にいろいろ問題提起がなされて、俳優の養成ということが演劇界の課題の1つとされました。国立の演劇アカデミー、ミラノ・ピッコロ・テアトロという大きな劇団の俳優養成所に加えて、小さなところでも俳優養成に力を入れるようになってきたことで、俳優の水準は非常に高くなりました。もちろん、演技の巧拙をどういう基準でもって測るのかはなかなか難しいのですけれども。

 日本でも、例えば劇団民芸であるとか、文学座、俳優座が、俳優養成をやっていますけれども、新しいいわゆる小劇場系の演劇については、そういう場がありません。才能のある人、自分で演技ができる人は確かに伸びていきます。けれども、メソッドを持ってきちっとやっているというところはなかなかありません。鈴木忠志の「スズキメソッド」は、世界的なメソッドとして評価されているけれども、これはかなり特殊なもので、やはりある種の演劇にしか当てはまらない、普遍的に利用できるものではないと思います。だからといって新劇系のものですべてカバーできるかというと、そうでもありません。これはなかなか難しい問題です。

 イタリアでは、例えばいわゆる新劇系という、普通の近代演劇のリアリズムの台詞回しに加えて、前近代的なコンメディア・デッラルテの技術を習得する、あるいは外国の演技術を取り入れるというような形で、演劇学校ではさまざまなプログラムを組んでやっています。だから、俳優の水準が高く、しかも層が大変厚いです。イタリアでは俳優志望の若者は非常に多いようです。それだけ、逆にいえば若年層の失業率が高くて、いわゆる普通の仕事自体が限られているということも言えます。こういう現象をどう見るかというのは、なかなか難しいところだと思いますけれども、昔の実業というような考え方からすると確かに問題でしょう。しかし、そういうエネルギーを芸術、演劇、そういったものに向けるという意味では、むしろ積極的に評価されていいのではないかと思います。

 それから、イタリアの衣装も含めて舞台美術、照明は大変水準が高く、外国でも評価が高いです。日本に限らずフランスとかドイツで公演する場合でも、演劇については言葉の壁がどうしても付いてまわります。今は字幕の装置がかなり簡便になっていますが、それでも言葉そのものを理解するのはなかなか難しいものです。だからというわけでもないのでしょうが、外国ではイタリアの舞台美術、衣装等々を評価する方が非常に多いようです。ということは、それだけやはり美術や衣装が優れているということでもあります。

 これには歴史的な背景もあります。舞台美術というのは、そもそもルネサンスの時代にイタリアで発祥して、その後オペラの上演等を通じて発展してきたものです。言ってみれば本家本元ですから、優れているというのは当然かと思います。

 先ほど演出家がある時期になるとオペラ演出をすると言いましたが、そのもう1つの理由は予算が潤沢だからです。演劇はやはりある程度予算が限られています。オペラの製作予算というのは大変大きいので、そうすると思い切ってお金をかけて美術や衣装を作ることができます。そうしたことも、理由としてあるのかと思います。

 それから、イタリアには当然ですけれども、歴史的劇場といいますか、オペラハウス(歌劇場)として造られた劇場がたくさんあります。主要都市の十数カ所のオペラ劇場(歌劇場)以外に、本当に小さい町にも、もちろん規模は小さいですけれども、立派な劇場が存在していて、これを台詞劇の劇場として活用しています。1950年代、1960年代にはこういう劇場が、どんどんスクリーンを入れて映画館に改装されたわけです。しかし、80年代ごろから映画産業が斜陽化して、映画館がまた次々に劇場に改装されるというような動きが出てきたわけです。映画館にしたときに建物を壊さなかったのは大変な知恵ですね。もちろん石造りなので建物自体、構造を壊さずに映画館として使っていたので、映画が斜陽化したときには、今度は普通の劇場としてそのまま使えます。びっくりするくらい立派な劇場が地方にもあります。

 それから、演劇そのものの魅力に入るかどうか分かりませんが、料金が手ごろです。普通の演劇公演の料金というのは一番いい席で30ユーロ、プラス多少の税や予約料です。イタリアでは前売りで買うと少し高くなります。日本と逆です。なぜかとよく考えると、前売りというのは自分がその芝居を見る権利をそこで押さえるということですから、高くてもやむを得ないのかなと思います。しかし、たかだか数ユーロ、3ユーロとか4ユーロぐらいですから、35ユーロまではいきません。32~33ユーロです。安い席はもちろんもっとずっと安いです。15ユーロぐらいからあります。オペラの一番いい席ですと150ユーロとか、かなり高額ですけれども、演劇は非常に安いです。実験的なものだと10ユーロくらいで見られます。小劇場のものもそうです。

 それから、チケットは比較的入手しやすいです。日本ですと、やはりいいものは6カ月前くらいから予約しておかないとなかなかチケットが手に入りません。イタリアの劇場、特にローマの劇場では、常に余っている席がそこそこありますし、当日売りもします。これがいいのかどうかはなかなか難しい問題です。マネジメントの点からすると、全席が早めにすべて売り切れてしまうというのが一番いいのですけれども、しかし、演劇の面白さというのは、やはり当日ぱっと新聞か何かで見て、見たいなと思って行ける、しかも行ってチケットがそこそこあるというところにあるのではないか。やはり1つの文化の豊かさだと思います。何カ月も前から予約しておかないと見られないというのは、私自身はかなり窮屈な感じがしてしまいます。逆にだぶついて空席が目立つのも問題ですけれども、マネジメントというのは、必ずしも全席売り上げ、満席でいいということではないと、私は考えています。少しずつ余裕を見ながら、フリの客を入らせて新しい客をつかんでいく、そういう循環運動みたいなものが、やはり演劇を育てていくには必要だと思います。

 それから、もう1つ最後に挙げると、舞台と客席の一体感。近代の演劇の考え方というのは、舞台と客席の間に幕があって、幕は上がりますけれども、その後も見えないカーテンがあって、舞台は舞台で完結した空間になります。客席は客席でお客さんがいて、舞台をのぞくといいますか、カーテンの向こうの世界を見るわけです。ところがイタリアにはもともとコンメディア・デッラルテといって、仮面即興劇の俳優が客に語りかけたり、客と掛け合いをしながら演技をするという演劇の伝統がありますから、今でもいろんな場面で客席と舞台の一体感を象徴するような出来事に出くわします。

 私の今回の滞在中の経験では、エリゼオ劇場で、ユージン・オニールというアメリカの作家のかなり重い芝居をやっていました。『夜への長い旅路』というタイトルですが。どうも主演の女優さんがあまり調子がよくなかったのです。声が少しかすれていました。すると、15分ぐらいしたところで、客席から「声が聞こえないぞ」とやじが飛ぶのです。ちょっと日本では考えられない状況です。後でクレームを出すとかいうことはありますが。その女優さんもしかし、しばし沈黙した後、少し声を無理して出し始めて、一幕が終わった後、幕間で出てきて、実は体調がどうのこうのと説明を始めました。そうするとまた客席からわーっと拍手がわいて、「そうか、体調がすぐれないのに、そんなに頑張っているのか」というので、「頑張れよ」という声援が飛んだりしました。そういったことはたびたびであります。それからもっとシリアスでない、喜劇ですと、もちろん拍手をしたり、歓声を上げたり、それからときどきやじが飛んだり、役者に声が掛かったり、いろいろあります。こういう舞台と客席の一体感というのも、イタリア演劇の大きな魅力だと思います。


 一方、イタリア演劇の最近の問題点もいくつか、今回の滞在を通して感じました。1つは、日本も同じだと思いますが、ある種の演劇については、観客がどんどん高齢化しています。イタリアも日本と同じくらい先進国の中では高齢化が進んでいる国ですから、高齢化しているということと、同じような人が見に来ている、つまり観客が固定化してしまっています。1つはイタリアのチケット販売の制度にアッボナメント(abbonamento)といって、シーズンチケットというのか、シーズン通しで席を押さえるタイプのチケットがあるのです。こういう制度があるために、劇場の側としては、とりあえずそういう形で安くまとめて売ってしまえば、経済的にはそれで興行収入が確保されるということもあって、キャンペーンをして盛んに売るわけですけれども、そうすると、決まった人しかその劇場には来ないということになって、観客の固定化につながる。これが1点です。

 それから、とにかくどんどん新しいメディア、情報ツールが出てきて、若い人たちが演劇離れをしていることは、イタリアでも間違いありません。若い人の関心というのはやはり従来型の伝統的な演劇にはどうしても向きません。劇場へ行くと、私自身もだいぶ高齢といわれる年齢に近づいてきたのですけれども、かなり年配の方が多いです。若い人はあまり目立たない。もちろんそういう状況を打開するために、劇場・劇団は若者向けのいろんなキャンペーンをしたり、教育的なセミナーをしたり、あるいは料金を安くしたり、子どもに見せる日をつくったり、いろいろやっています。そういうことで、ある程度は防げると思いますけれども、しかし、根本的な問題は残ります。

 それから、次に経済不況です。2008年秋のリーマンショック以降、イタリアも大変な経済不況に見舞われて、当然こういう舞台芸術に対する支援も削減される方向に進んでいます。ベースとなる金額が、日本に比べるとまだまだ大きいので、手厚い支援はあるのですが、削減の方向にあることは間違いありません。おそらくまたギリシャの財政危機の問題等々があって、イタリアもそこまではいかないけれども厳しい状況にあるので、今後もあまり公的な助成・支援の拡大は望めないでしょう。むしろ常に削減されるというのが普通の状況になっていくと思われます。

 それから、公的な支援の後退・削減によって予算が当然減るため、低予算の作品の乱造という現象が起きています。こういう言い方は厳し過ぎるかもしれませんが、要するに低予算で手軽に作品を作るということです。単純に言うと、例えば一人芝居や二人芝居といったものが、どんどん増えていく傾向が見られます。本来、イタリアにはそういう語りで聞かせるという伝統があったので、それ自体は悪いことではないけれども、どうも予算の面からそういう演目に傾いていっているようなところがあります。

 一時期、日本の地方のホールで、とにかく落語家さんに来て欲しいと引っ張りだこでした。落語が聞きたい、あるいは聞かせたいというので落語家が呼ばれるのであれば、大変結構なことだと思うのです。しかし、本音のところはギャラが安い、座布団1つで足りてしまうということで、地方で落語家が引っ張りだこの状況になったようで、それではやはり非常に寂しい気がします。

 イタリアの一人芝居の流行も、本来の一人芝居の面白さを見せたいというよりは、そういった事情が感じられます。従って、結果として演目に似たようなものが並んで、しかも陳腐なものになっていく傾向が見られます。

 これは私なりに見たイタリア演劇の問題点ですけれども、しかし、こういう問題を抱えながらも、ローマにはざっと50ぐらい劇場があります。これはすぐに思い付くところを挙げたリストです。これは「イル・スッジェリトーレ」(プロンプター)という、ローマの演劇公演をすべて案内する情報誌のようなものです。1枚に広げられるタイプになっています。これが2009年4月のものです。すべてを網羅しているわけではないのですが、ローマの主要な劇場がここにずらっと並んでいます。これは大変安い作り方で、その劇場の公演チラシの表をただ転写してまとめただけです。縦横数えると、横が8つあって、縦が6段、だから大体50近くあります。ここに出ていないものも入れて、最大限60ぐらい劇場があります。一時稼働していないものもありますが、常時50はあると思います。例えばミラノは20程度ですから、圧倒的にローマの方が多いのです。小さくてもいいものをやっている劇場がたくさんあります。これだけあって、なおかつほとんど席が埋まっています。

 これは無料の情報誌です。外国人が泊まるホテルにはないかもしれませんが、ローマの劇場にはどこにも置いてあります。少なくともここに載っている劇場にはこれがただで置いてありますので、機会があったらぜひご覧いただきたいと思います。こんなにたくさんの公演をやっているのかと、驚かれることと思います。

 主な劇場だけここに挙げましたが、テアトロ・アルジェンティーナ(Teatro Argentina)というのは、アルジェンティーナ劇場です。もともとはオペラ劇場で、ロッシーニの『セビリアの理髪師』がここで初演されたという、大変由緒ある劇場です。今はローマ劇団の拠点劇場になっていて、台詞劇を上演しています。今度、歌舞伎の公演がローマで行われるのですが、その歌舞伎公演がこのアルジェンティーナ劇場で行われます。同時にテアトロ・インディア(Teatro India)、??これは倉庫を改造した実験劇場ですけれども??これも同じ系列といいますか、ローマ市劇団が経営する劇場です。

 2行目にあるテアトロ・エリゼオ(Teatro Eliseo)は、アルジェンティーナよりやや小さい劇場です。かつては商業劇場と言われていたのですが、非常に芸術性の高い演目を上演します。イタリアでは実は公共劇場と商業劇場??劇団組織が中心となって劇場を運営するという形ですから、公共劇団、商業劇団と言った方がいいのかもしれません??この公共劇団と商業劇団の区別はそんなにはっきりしません。完全にコマーシャルベースでやっているというところもありますが、このテアトロ・エリゼオのようなところは、非常に芸術的に水準の高いもの、逆に言うとそんなに簡単にお客さんが入りそうもないようなものをやっていて、国や自治体から相当程度補助を受けています。その比率は当然こういう商業劇団、商業劇場の場合には少なくなりますけれども、それでもおそらく4割近くは得ていると思います。公共の劇団になると5割というのが普通です。4割以下というとイタリアでは大変な自助努力をして頑張っている劇団です。

 このテアトロ・エリゼオのすぐ近くにはピッコロ・エリゼオ(Piccolo Eliseo)という小劇場があります。こういうふうに実験的なものをやる小劇場と大きな劇場を併せ持つというのが、主要劇場のよくあるパターンです。

 3列目はテアトロ・クイリーノ(Teatro Quirino)。これも由緒ある劇場です。イタリア演劇公社という演劇の公社があります。ETI(Ente Teatrale Italiano)、「エティ」というのですが、この同じ系列にテアトロ・ヴァッレ(Teatro Valle)があります。テアトロ・ヴァッレはピランデッロの有名な『作者を捜す六人の登場人物』という前衛的な演劇が、1921年に初演された劇場で、今でもその石碑が残っています。このあたりの劇場ですと、安心して見ていられる非常にレベルの高いものをやっていますので、何を見ても間違いがありません。

 その下がサーラ・ウンベルト(Teatro Salaumberto)。ここの演目は軽い喜劇が多いのですけれども、大変いい劇場です。

 テアトロ・パリオーリ(Teatro Parioli)。もちろんパリオーリ地区にあります。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、テレビのマウリツィオ・コスタンツォ(Maurizio Costanzo)ショーという大変有名なトーク番組があって、そのロケをここでするようになってから、逆に劇場の方も活性化して、客が入るようになったところです。

 テアトロ・システィーナ(Teatro Sistina)。ここはミュージカルの専門劇場です。それからテアトロ・オリンピコ(Teatro Olimpico)。ここもかなり大規模な劇場で、台詞の劇よりは、ダンス等の公演が多いです。それからテアトロ・マンゾーニ(Teatro Manzoni)。ここは肩の凝らない喜劇をやっています。

 小劇場、実験劇場はたくさんあります。テアトロ・アゴラ(Teatro Agor_)、テアトロ・ベッリ(Teatro Belli)、それからテアトロ・デランジェロ(Teatro Dell'Angelo)、テアトロ・デッラ・コメータ(Teatro Della Cometa)。小さな劇場を挙げていくと、きりがないくらいです。テアトロ・ギオーネ(Teatro Ghione)、テアトロ・ヴァシェッロ(Teatro Vascello)、テアトロ・デッロロロージオ(Teatro dell'Orologio)など。このあたりの劇場になると席数は100~200、場合によってはもっと小さい70、80のところもありますが、こういうところでも結構面白いものもやっています。しかも、値段が安いです。大体15ユーロぐらいまでです。こんな劇場があります。

 「イル・スッジェリトーレ」というこの情報誌、情報パンフレットですけれども、こんなふうにびっしりと、かなり小さいですけれども、公演の案内が載っています。

 それで、どんなものをやっているかということですけれども、大きなくくりで分類をしました。もし実際に芝居をご覧になるのであれば、これを参考にしていただきたいと思います。1つはイタリアの古典作家、古典作品です。カルロ・ゴルドーニであるとかピランデッロ、それからエドゥアルド・デ・フィリッポです。この写真は公演パンフレット、あるいは公演案内から取ったものですけれども。テアトロ・クイリーノという、さっき挙げた劇場で上演されたピランデッロの作品です。そういったものがあります。それからイタリアの現代作品、新しい作品があります。それから外国の作家の翻訳上演があります。シェークスピアや、チェーホフ、そういったものがあります。それからもっと新しい現代作家の翻訳作品もあります。それから実験劇。大きくそういうジャンルに分けて、どんなものをやっているかというのを見ていきます。

 これはピランデッロの作品です。イタリア語のタイトルがCos* *(se vi pare)といって、se vi pareというのがかっこに入っている、大変ややこしい作品名です。Cos* 盾ニいうのは「そうですよ」という普段もよく使うイタリア語です。あるいは* cos唐ナも同じですよね。cos唐ニいうのは、「そのように」とか「そのような」。それから盾ヘbe動詞です。se vi pareは「もしあなたにとってそう見えるなら」。viというのはピランデッロの時代の古い言い方ですけれども、あなた方と解釈してもいいのですが、当時は「あなた方」のvoiというのを「あなた」の意味で使うことがあったので、そちらととった方がいいです。「あなたがそう思うのだったら、そうなのですよ」という意味です。

 ピランデッロの劇は、タイトルだけでも訳すときに四苦八苦して考え込んでしまうことがあります。Trovarsi、『自分を見つける』とか、Vestire gli ignudi、『裸に着物を着せる』とか、それから有名な『作者を探す六人の登場人物』Sei personaggi in cerca d'autore という作品があります。「作者を探す登場人物」とは一体何なのか、という疑問がすぐにわいてきますが、これなんかも意味がとりにくい題名です。

 話としては、イタリアの地方都市に素性のよく分からない3人の家族がやってくる。3人の家族というのは夫婦と奥さんの方の母親です。夫の方ではなくて、妻の母親という設定です。夫の方は市役所に勤めている。ところが街の人は、一体あの3人はどういう関係なのだろうかと、いろいろ詮索をする。というのは、3人は一種奇妙な生活をしているのです。奥さんの方は全然表に出てこない。家の中でずっと生活していて、ときどき姑がその家に行って、しかも直接家を訪問するのではなくて、かごに手紙を入れて上に引っ張り上げてコミュニケーションをしているらしい。一方、夫の方は割とまじめな実直な市役所の職員だという噂です。

 大変不思議なのであれこれ調べ始めるのですが、夫の方の話によると、実はあの若い妻というのは、実際には母親とされる姑の娘ではないと。彼はいったん姑の娘と離婚してしまって、今のは再婚した二度目の妻なので、直接親子の関係はないというようなことを言う。しかし、姑の話によるとそうではない。実はいったんは確かに離婚したように見せたのだけれども、前の奥さんとまた再婚しているので、やっぱり私の実の娘なのだと言う。両方の言い分を聞いていると一体どっちだか分からなくなってしまう。そこから、「あなたがそう思うのだったら、その通りですよ」というタイトルが出てくるのです。

 街の人たちは、じゃあ戸籍を調べようとか、いろいろやるのですが、戸籍はどうも地震で焼失してしまって見つからない。つまりどちらの言い分が正しいのか分からないのです。じゃあ、いっそのこと2人を引っ張り出して直接話をさせようとするけれども、それでも分からない。最後はポンザ夫人という奥さん当人を呼び出して、「一体あなたはどちらなのですか。再婚した2番目の妻なのか、それとも最初の妻であって、フローラと呼ばれる姑さんの娘なのか」、こう言うのですが、ポンザ夫人は、「私は最初の妻でフローラ夫人の娘であって、同時に2番目の妻でもある。私は皆さんがお考えになる、そういう人物なのです」というような台詞を言う。これはイタリア語で読むと大変な名台詞です。関係代名詞があったりして構文は少しややこしいところはありますが。人は他の人がその人を見るその見方によって、いろんな人物になり得るという、ピランデッロ流の哲学を大変うまく表した台詞です。タイトルは、こちらの写真の方が字が大きいからよく分かるかもしれません。

 この舞台はマッシモ・カストリという人が演出したのですけれども、つけ鼻を付けたりしています。これは、彼女たちの素性を確かめようとしてあれこれと詮索する街の人々です。わりとブルジョア階級の裕福な人々で、そこには夫のポンザという男の上司もいたりします。マッシモ・カストリという人は、この素性を詮索する人々を大変俗物的な価値観の持ち主として表そうとして、道化の格好をさせています。設定としては、ちょうどカーニバルの仮装パーティーの日にこの事件が起こったということなので、自然な状況に収まっているのですけれども、普通の演技ではなくて少し奇妙な演技をします。この人たちがむしろ異様な世界にいるわけです。ピランデッロの原作を読むと、むしろこの人たちが常識人で、ポンザをはじめ3人の人物が非常に奇妙な関係を結んでいるというふうに見えるのだけれども、カストリの演出ではこれを逆転しているわけです。

 これは、フローラ夫人という右側の姑と、それからポンザという娘の婿の2人がやり合うところです。ここで2人が話をしても結局真相は分からないということになります。これはやはり街の有力者の人で、仮装をしています。

 これがもう1つ、ピランデッロの作品で、こちらはIl Piacere dell'onest_という作品です。これもパンフレットからとったものですが、ピランデッロはかなり上演されます。年間10本は新しい演出でやっていると思いますし、再演も含めると20本ぐらい、ローマにいるだけでも見られます。Il Piacere dell'onest_、これはどんな芝居なのか。『誠実の喜び』と訳されています。

 ピランデッロの芝居には、やはり設定がかなり奇抜なものが多いです。ただ、ピランデッロの時代、1900年代初めにはいわゆる市民劇というのが確立していて、そこではどんなテーマが扱われたかというと、主に家族、夫婦の問題です。それが中心になります。ピランデッロも結構保守的な面があって、そういう枠組みは継承しているのです。ピランデッロの芝居というのは、家族の中の関係、特に夫婦、あるいは夫婦を巡る三角関係といいますか不倫関係、これがほとんどです。シェークスピアのように異国の地でいろんな出来事が起こるなどという話は全然ありません。それから魔法の世界が出てきたり、妖精が出てきたりというのは全くありません。ほとんどがいってみれば不倫劇で。当時は姦通(かんつう)劇と呼ばれていました。

 ピランデッロの前の世代の作家で、マルコ・プラーガという劇作家がいます。今はあまり上演される機会がないですけれども、不倫のパターンを順列・組み合わせのように徹底的に追求して、芝居を書いた人です。浮気をする側が男、女でまず2通りになる。そういうふうに分けていって、相手が年上、年下とか、いろんなパターンを作り出して書いています。ピランデッロもそういう影響を受けているところがあるのでしょう。

 この芝居ではやはり愛人をつくった男性がいて、その愛人が妊娠してしまったというので、さあ、どうしようと考える。当然今の妻と別れるつもりは全くないので、誰か適当な男を見つけてきて、形式的に愛人の夫にして、2人に形式的な結婚生活をさせよう、しかし、実質的には自分の愛人のまま置いておこうと、こんなことを考えます。

 その形式的に夫になる男が選ばれて来るわけですが、彼は既に人生の敗北者です。生活も保障してくれるし、じゃあそういう役割を引き受けようということになるのですが、しかし、そうはいっても同じ家に女性と住んでいるわけで、だんだん惹かれ合うようになる。しかし、これは契約ですから、もちろん一切関係も持たないし、愛情すら抱いてはいけないということになっている。元の愛人として付き合っていた男の方が時々来るわけですけれども、何とか女性と2人きりになっていろいろ話をしたりする。しかし、そういうところをこの形式上の夫が見とがめたりして、なかなか愛人関係は維持できなくなってしまう。しかも女性の方も、だんだん形式上の夫ということで雇われたこの男に惹かれていってしまうのです。最後は、形式上の関係でありながら、しかしこれからも互いに誠実にそういう生活を続けていこうというところで終わります。

 この写真しかないですが、舞台はその事件が起こる家です。ピランデッロの戯曲を読む限りではブルジョアというか、かなり裕福な家庭の普通の応接間です。そこにバルドリーノという形式上の夫を引き受けた男が入ってきて、それでいろいろと話が展開していくのですが、この演出では森の中に設定したガラス張りの家にしたのです。もちろんリアルに考えればガラス張りの家ということはあり得ない。最近はいろいろとピランデッロの劇の演出も手の込んだものが多くて、ガラス張りの家によって何を表そうとしたのか。最後にそのガラスが、砕けるわけではないけれども、全部開いて消えてしまうという演出です。そういう形式上の夫婦関係ですから、大変もろい関係ですね。そんなようなものをこのガラス張りの家でおそらく象徴させようとしたのだと思いますが、劇のテーマに大変うまく結びついた演出で、ガラスの家が美術として非常に効果的でした。

 これはPensaci, Giacomino!というピランデッロのもう1つの作品です。これもピランデッロの作品としてあまり知られていないですけれども、年金生活に入る大学の教授が主人公という設定です。その先生が、自分の年金で貧しい男性を助けてやろうとして、若い女性に??2人は愛し合っているのだけれども??支援をしようと申し出る。これも、本当はこの老教授の方が若い女性に気があるのだけれども、やはりお金でそういうふうに男をあてがうという設定になっています。これもピランデッロです。主なものだけでもずいぶんピランデッロは上演されています。

 L'esclusaというのは、「排除された女」、「追われた女」というのでしょうか。女性を扱った芝居がわりと多いのですけれども、これは結局自分を主張して、周りの人たちからやがて排除され、疎外されていくという女性の話です。あまり上演されることはありません。しかももともと小説として書かれたものですけれども、こんなものも最近は舞台に登場します。


 これはデ・フィリッポの作品です。ドイツの作家の『クラウス・パイマン』という作品と、下の方に書いてあるSik-sik, l'artefice magico、『魔術師シックシック』という作品の2本立てで上演されました。『シックシック』がデ・フィリッポの作で、彼のごく初期の作品です。この魔術師が非常に貧乏なのですけれども、奥さんを??左側です??アシスタントに使っていろいろと魔術を見せようとする。しかし全然うまくいかないのです。鳥を消そうとしても消えない。奥さんは日本ふうの衣装を着けています。これはちゃんとト書きにも書いてあるので、そういう演出でした。ジャポニズムというのが当時あったのでしょう。そもそもデ・フィリッポが4歳のときに演じた役というのが、日本人の男の子という設定になっているので、確かにそういう傾向があったのだと思います。魔術を使っても全然うまくいかず失敗してしまい、最後は妻にまで愛想を尽かされるという、1幕の非常に短い喜劇です。

 デ・フィリッポはほかにもたくさん上演されていて、Filumena Marturanoという『ああ結婚』というタイトルで映画にもなった作品があります。マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演しています。娼婦(しょうふ)上がりの女性とその愛人の男のエゴの対立を描いた作品です。それからあとは、演劇賞を受賞した『サニタ地区の王様』という、ナポリの暴力団カモッラの関係を描いた作品など、いろいろ上演されます。デ・フィリッポも大変上演回数が多いです。

 これはあまり見栄えのしないパンフレットというかチラシなのですが、非常に珍しい作品なので取り上げました。Come le foglieというのは、『木の葉のように』と訳されています。台本は訳されてないですが、題名はときどき演劇史の本に出てきます。ジュゼッペ・ジャコーザという人が書いた作品で、あまり演劇史上も出てこないかもしれませんが、時代を考えると、まあまあよくできた芝居です。実業家の父親が事業に失敗してしまう。あとは二度目の再婚した妻、それから娘と息子がいるのですが、それによってそれぞれ大変なショックを受ける。没落していく家族を描いたものです。そのうち母親の方はアーティスト気取りで、売れないのですけれども、絵を描いている。息子の方は全く家計を考えずに遊び歩いている。娘は大変しっかりしていて、父親も何とかその状況で頑張ろうというような、そういう家族関係を描いたものです。

 ジャコーザというのは、オペラの台本をずいぶん書いています。プッチーニと一緒に仕事をしています。『トスカ』や『ラ・ボエーム』などもジャコーザです。ルイジ・イッリカという台本作家と組んで仕事をすることが多かったのですが、ジャコーザは劇作家でもあって、これ以外にも『チェスの試合』など、割と面白い作品を書いています。よくチェーホフの作品と似ていると言われ、この舞台もチェーホフの『桜の園』を意識して、桜ではなくて、fogliaですから落ち葉ということで、木の葉を天井に敷き詰めたような舞台装置でした。

 ただ、やはりチェーホフがあまりにも世界的に有名ですから、ジャコーザの方は同じようなテーマを扱いながら、少しかすんでしまったような気がします。人物像などもチェーホフの方が深みがあって、ぼやーっととらえどころがないところがある。ジャコーザに出てくるこの4人の人物は、割とはっきりし過ぎているところがあるので、そういうところで評価が低いのかなと思います。しかし、よくできた作品だと思います。

 それからゴルドーニです。これはSior Todero brontolonです。Siorというのはシニョールということですけれども、Toderoは名前です。brontolonというのは不平を言う人、愚痴っぽい人、「愚痴っぽいトデーロ氏」ということです。この写真にあるのがトデーロ氏です。ゴルドーニの中ではそんなに有名な作品ではないかもしれませんが、イタリア人であれば、演劇好きな人は知っている作品です。

 例によって、このトデーロという人は、大変頑固な、この場合にはおじいさんということになります。いつも愚痴、不平ばかり言っている。日本の愚痴というよりは、もっと攻撃的かもしれないです。人の欠点をぶつぶついつもあげつらって、文句を言う。そういうのがbrontolon、brontoloneです。しかも、大変なけちです。

 孫娘を結婚させるのに、昔から持参金を持たせて結婚するというのが普通なのですが、それを出したくないので、自分の使用人と一緒にさせようとする。しかし、娘の方はやはりもっときちっとしたいいところの男性と結婚したいし、実はそういう相手も既にいる。このトデーロ氏の息子はちょっとだらしがないので、いつも父親に言われると「しょうがない」と従うのですが、その奥さんが大変したたかで、うまくトデーロをだまして最後は娘の希望の男性と結婚させるという話です。とにかくこのトデーロ氏を演じているジュリオ・ボゼッティという人は、ゴルドーニを何十年も演じている人で、相当高齢だと思いますが、存在感がすごいです。決してヒーローというような人物ではありません。モリエールのL'Avare( ou L'ツole du mensonge)、『守銭奴』なんかもそうですが、むしろ悪役ですが、大変な迫力です。

 こちらもゴルドーニです。これはルーカ・ロンコーニの演出です。Ventaglioというのは「扇子」です。貴族の青年が自分の恋人に扇子を渡そうとするのですが、それを「恋人の女性に渡してくれ」と庶民の娘に託します。そこから問題が生じます。劇の主役というのはいろいろあると思いますが、この場合には小道具の扇子が主役になっているとも言えます。渡した扇子を巡って、実はあの青年は恋人の方ではなくて、扇子を直接渡した娘の方に気があるのではないかという噂がまず立って、そうすると相手の女性はそれでむくれてしまう。そこでなかなかごちゃごちゃとした問題が生じて、扇子が人から人へどんどん渡っていって、最後はもちろん誤解が解けてめでたしということになります。

 ロンコーニの舞台ですから、非常に衣装も素晴らしいし、役者も大変優秀な人を使っています。ロンコーニは、今、ミラノ・ピッコロ・テアトロの芸術監督です。このゴルドーニの作品には、たくさん登場人物が出てきます。ゴルドーニは集団劇の1つとされます。

 それからこれもゴルドーニで、こちらはVedova scaltra、『抜け目ない未亡人』と訳されています。ゴルドーニはいくつか翻訳がありますが、これは平川祐弘という先生が岩波から訳を出していると思います。scaltraというのは「抜け目ない」という言葉がぴったりするのだと思います。vedovaですから、「未亡人」です。これは女性の監督でリナ・ウェルトミューラーという、映画を何本か撮って映画監督としてもかなり有名な人です。しかし、最近は演劇もずいぶん上演しています。

 このVedova scaltraには、ロザーウラという女性が出てきて、大変な才色兼備で頭もいい、美しい。しかし若くして未亡人になってしまいます。そこで、いろいろな人から求愛をされます。フランス人とイギリス人とスペイン人とイタリア人、最後は当然ながらイタリア人の男性と一緒になるわけです。

 本を読む限りは、大変聡明で機転が利き、最後はやはり自分の国の人が一番信頼ができるというので、いろんな人から求愛をされながらもそこに落ち着くという設定ですが、このウェルトミューラーの演出は非常にびっくりしました。舞台の真ん中に大きなベッドがあって、当然お客さんによく見えるように傾斜していて、ロザーウラはほとんど寝間着姿でその上をごろごろとしていて、求愛をする男性たちはいきなり寝室にどかどかと入ってきます。台詞は確かにゴルドーニそのものだけれども、おそらくゴルドーニの時代には考えられなかった演出です。

 デ・フィリッポの芝居なども、ベッドを真ん中に置いて寝室の中ですべてやるというのもあるのですが、そういうかなり意表を突いた演出です。とても聡明な才色兼備の女性には見えません。とにかく欲求不満の塊のような女性です。男たちも寝室までずかずかと入ってきていきなりベッドの上に乗って、そこで求愛を、プロポーズをするという演出です。そういうものもあります。

 こちらはニッコロ・マキアベリの『マンドラゴラ』という作品です。これは大変有名だと思います。マンドラゴラというのは一種の媚薬(びやく)で、これを飲むと性欲がわいてくる。いくつか写真がありますけれども、衣装や俳優の演技も大変しっかりした舞台です。子どもができない年老いた老人が出てきますが、妻は大変若い。ニーチャという老人を何とかだまして、一晩だけでもそのルクレツィアという若い妻とともに過ごそうと企む若い男の話です。そこで、子どもができないことを悩んでいる老人を説得して、妻にその媚薬を飲ませて、そして夜妻の寝室に忍び込んで・・・といったような芝居です。これは上演回数も非常に多いですけれども、この舞台は大変よくできていました。ジェノヴァの劇団ですけれども、イタリアでは劇団は主要都市を巡回しますので、ジェノバの芝居がローマで上演されるというのはよくあります。各地の有力な劇団の芝居をそれぞれ全国巡回させるという巡回システムがあります。マルコ・シャッカルーガという人の演出です。

 順序が前後しますが、これはさっきのIl Piacere dell'onest_の写真です。ピランデッロの作品です。

 それからもう1つのジャンルとしては、西洋演劇の翻訳劇があります。大変よく上演されるのがシェークスピアです。それからイプセンもよく上演されます。それからチェーホフ、もちろんほかにもいろいろあります。

 これはイプセンです。Casa di bambolaと書いてありますが、『人形の家』です。ただし、副題がL'altra Noraといって『もう一人のノラ』。ノラというのは『人形の家』に出てくる主人公の女性です。これは過去の話ですが、夫の病気を治すために内緒で借金をして、そして何とかその苦境を乗り切った。夫はそれを知らずにずっと来たわけです。そのときに書面を偽造したりという確かに違法行為をしているので、あるとき過去の秘密を知る男に脅されて、それで夫に取り入って、何とか仕事のポストを紹介してもらうという話になります。

 ヘルマーという夫の方は、過去にそういうことを勝手にしたということで、ノラを非常に責めるわけです。しかし、借金等々の話はそこで助けてくれる人がいて一件落着します。落着すると今度主人のヘルマーはこれでもう何もかも終わったということで、「よかった、よかった。また元の妻に戻ってくれ」と言うのですが、ノラの方は結局その一件で、自分を夫は単なる飾り、それこそ人形としてしか見ていないということが分かったので、家を出る決心をするという話です。それが『人形の家』というタイトルになっているのです。

 この演出は、演出と言うより、翻案と言った方が近いのかもしれないです。ノラは非常に現代的な設定にしてあって、とにかくカードを使ってどんどん物を買う、いわゆるショッピング中毒という状態にあって、夫の病気の治療のために借金をしたというのではどうもなさそうなのです。一方的に自分の居場所がなくなってしまう。夫はもちろん仕事一筋、そこでショッピング中毒になってしまったというような設定のようなのです。これがノラです。これもその場面です。

 一応ストーリーは原作を追っているのですが、最後はノラが多分自殺をすることになるのだろうと思いますが、バルコニーの手すりの上を歩いて行く。飛び込むところまではいかないのがなかなかうまい演出だと思います。ふらふらと歩いて行って、そこで幕という、確かそういうふうになっていたと思います。そこの場面だけを取るとなかなかうまいです。舞台の演出というのは、ここで飛び込んでしまうとつまらないですね。飛び込んだのかどうなのかよく分からないけれども、しかしふらふらと夢遊病者のように出ていって、だからおそらく最後は死んでしまうのだと思うのです。

 イプセンの原作の、これからは自立した女性として家庭を捨てて、家を出て、自分の道を切り開いていこうというような積極的なノラ、そういう結末とは全く違います。だから、その辺はいいのかなと、要するに同じ作品とは言えないと思います。翻案に近いです。

 ただ、現代の状況ではやはりそういう結末が大変多いのです。実社会ではまだ女性が自立してうんぬんと言っているけれども、もう既に精神面ではそういう世界観というのは完全に崩れてしまっていますから。むしろそれ以上にうっ屈して行き場のない女性、そういう女性像を描いています。

 日本でも公演したトーマス・オスターマイヤーという、大変有名なドイツの演出家の『人形の家』も話題になりました。それも確かノラという名前を使って翻案にしていたと思います。イプセンのオリジナルでは大変有名なシーンですけれども、最後に扉をバタンと閉める音がかなり大きく響きます。つまりそれがノラの、つくられた家庭、夫がつくった見せかけの家庭、まさしく人形の家、それに決別することを象徴する効果音になっているわけです。オスターマイヤーの演出では、何とノラがいきなりピストルを出して夫を撃ち殺してしまいます。これも非常に不条理な話で、いくら自分の存在が無視されて、単なる飾り物でしかなかったとしても、そこまでやるのかなという気がします。

 そういう演出がどうも多いようです。近代の価値観に対する現代のとらえ方というのか、イプセン自体がもう古くなっているということかもしれません。これはそこまで過激ではないけれども、しかし、やはり原作とはだいぶ違う結末にはなっています。

 こちらはチェーホフの『桜の園』です。これはご存じかと思いますが、やはり没落する貴族??自分たちを取り巻く状況はどんどん変わっていて、経済的にもどんどん財産を食いつぶしているのだけれども、全くそれに気付かない人たち??と、成り上がり者の新興階級、その落差を描いたもので、最後は桜の園が自分の使用人によって買収されてしまうという設定です。

 これも舞台としては非常によくできた作品です。いくつか写真がありますが、このソファーなども非常に丁寧に作ってあります。全体にイタリアの舞台というのは大変お金をかけていますから、非常に細かく作り込んでいます。特に大きな主要劇場で上演するものは大変よく作っています。衣装も非常にお金をかけて作っています。これはオペラをご覧になるから分かると思いますが、オペラに劣らず台詞劇も、衣装などそういったものは非常にきちんと作っています。

 これは『三人姉妹』のパロディーです。これは小さな劇場で上演されたものですが、Tre sorelle treです。Tre sorelleというのは元の題で、チェーホフの『三人姉妹』です。『三人姉妹3』というのか、そんなだじゃれを入れた作品です。これは『三人姉妹』が一応下敷きにはなっているのですが、3人が出てきて自分の役について、「私はこんな女性として描かれているけれども、実はそんなことはなくて、こうこう」という、舞台裏の話を延々としていく。しかしそこに音楽をはさんだりして、楽しく笑いながら見ているうちに終わりという芝居です。これは完全に翻案劇というふうに考えられるでしょう。原則をそのまま上演したものではありません。


 これはデ・フィリッポの作品です。ドイツの作家の『クラウス・パイマン』という作品と、下の方に書いてあるSik-sik, l'artefice magico、『魔術師シックシック』という作品の2本立てで上演されました。『シックシック』がデ・フィリッポの作で、彼のごく初期の作品です。この魔術師が非常に貧乏なのですけれども、奥さんを??左側です??アシスタントに使っていろいろと魔術を見せようとする。しかし全然うまくいかないのです。鳥を消そうとしても消えない。奥さんは日本ふうの衣装を着けています。これはちゃんとト書きにも書いてあるので、そういう演出でした。ジャポニズムというのが当時あったのでしょう。そもそもデ・フィリッポが4歳のときに演じた役というのが、日本人の男の子という設定になっているので、確かにそういう傾向があったのだと思います。魔術を使っても全然うまくいかず失敗してしまい、最後は妻にまで愛想を尽かされるという、1幕の非常に短い喜劇です。

 デ・フィリッポはほかにもたくさん上演されていて、Filumena Marturanoという『ああ結婚』というタイトルで映画にもなった作品があります。マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演しています。娼婦(しょうふ)上がりの女性とその愛人の男のエゴの対立を描いた作品です。それからあとは、演劇賞を受賞した『サニタ地区の王様』という、ナポリの暴力団カモッラの関係を描いた作品など、いろいろ上演されます。デ・フィリッポも大変上演回数が多いです。

 これはあまり見栄えのしないパンフレットというかチラシなのですが、非常に珍しい作品なので取り上げました。Come le foglieというのは、『木の葉のように』と訳されています。台本は訳されてないですが、題名はときどき演劇史の本に出てきます。ジュゼッペ・ジャコーザという人が書いた作品で、あまり演劇史上も出てこないかもしれませんが、時代を考えると、まあまあよくできた芝居です。実業家の父親が事業に失敗してしまう。あとは二度目の再婚した妻、それから娘と息子がいるのですが、それによってそれぞれ大変なショックを受ける。没落していく家族を描いたものです。そのうち母親の方はアーティスト気取りで、売れないのですけれども、絵を描いている。息子の方は全く家計を考えずに遊び歩いている。娘は大変しっかりしていて、父親も何とかその状況で頑張ろうというような、そういう家族関係を描いたものです。

 ジャコーザというのは、オペラの台本をずいぶん書いています。プッチーニと一緒に仕事をしています。『トスカ』や『ラ・ボエーム』などもジャコーザです。ルイジ・イッリカという台本作家と組んで仕事をすることが多かったのですが、ジャコーザは劇作家でもあって、これ以外にも『チェスの試合』など、割と面白い作品を書いています。よくチェーホフの作品と似ていると言われ、この舞台もチェーホフの『桜の園』を意識して、桜ではなくて、fogliaですから落ち葉ということで、木の葉を天井に敷き詰めたような舞台装置でした。

 ただ、やはりチェーホフがあまりにも世界的に有名ですから、ジャコーザの方は同じようなテーマを扱いながら、少しかすんでしまったような気がします。人物像などもチェーホフの方が深みがあって、ぼやーっととらえどころがないところがある。ジャコーザに出てくるこの4人の人物は、割とはっきりし過ぎているところがあるので、そういうところで評価が低いのかなと思います。しかし、よくできた作品だと思います。

 それからゴルドーニです。これはSior Todero brontolonです。Siorというのはシニョールということですけれども、Toderoは名前です。brontolonというのは不平を言う人、愚痴っぽい人、「愚痴っぽいトデーロ氏」ということです。この写真にあるのがトデーロ氏です。ゴルドーニの中ではそんなに有名な作品ではないかもしれませんが、イタリア人であれば、演劇好きな人は知っている作品です。

 例によって、このトデーロという人は、大変頑固な、この場合にはおじいさんということになります。いつも愚痴、不平ばかり言っている。日本の愚痴というよりは、もっと攻撃的かもしれないです。人の欠点をぶつぶついつもあげつらって、文句を言う。そういうのがbrontolon、brontoloneです。しかも、大変なけちです。

 孫娘を結婚させるのに、昔から持参金を持たせて結婚するというのが普通なのですが、それを出したくないので、自分の使用人と一緒にさせようとする。しかし、娘の方はやはりもっときちっとしたいいところの男性と結婚したいし、実はそういう相手も既にいる。このトデーロ氏の息子はちょっとだらしがないので、いつも父親に言われると「しょうがない」と従うのですが、その奥さんが大変したたかで、うまくトデーロをだまして最後は娘の希望の男性と結婚させるという話です。とにかくこのトデーロ氏を演じているジュリオ・ボゼッティという人は、ゴルドーニを何十年も演じている人で、相当高齢だと思いますが、存在感がすごいです。決してヒーローというような人物ではありません。モリエールのL'Avare( ou L'ツole du mensonge)、『守銭奴』なんかもそうですが、むしろ悪役ですが、大変な迫力です。

 こちらもゴルドーニです。これはルーカ・ロンコーニの演出です。Ventaglioというのは「扇子」です。貴族の青年が自分の恋人に扇子を渡そうとするのですが、それを「恋人の女性に渡してくれ」と庶民の娘に託します。そこから問題が生じます。劇の主役というのはいろいろあると思いますが、この場合には小道具の扇子が主役になっているとも言えます。渡した扇子を巡って、実はあの青年は恋人の方ではなくて、扇子を直接渡した娘の方に気があるのではないかという噂がまず立って、そうすると相手の女性はそれでむくれてしまう。そこでなかなかごちゃごちゃとした問題が生じて、扇子が人から人へどんどん渡っていって、最後はもちろん誤解が解けてめでたしということになります。

 ロンコーニの舞台ですから、非常に衣装も素晴らしいし、役者も大変優秀な人を使っています。ロンコーニは、今、ミラノ・ピッコロ・テアトロの芸術監督です。このゴルドーニの作品には、たくさん登場人物が出てきます。ゴルドーニは集団劇の1つとされます。

 それからこれもゴルドーニで、こちらはVedova scaltra、『抜け目ない未亡人』と訳されています。ゴルドーニはいくつか翻訳がありますが、これは平川祐弘という先生が岩波から訳を出していると思います。scaltraというのは「抜け目ない」という言葉がぴったりするのだと思います。vedovaですから、「未亡人」です。これは女性の監督でリナ・ウェルトミューラーという、映画を何本か撮って映画監督としてもかなり有名な人です。しかし、最近は演劇もずいぶん上演しています。

 このVedova scaltraには、ロザーウラという女性が出てきて、大変な才色兼備で頭もいい、美しい。しかし若くして未亡人になってしまいます。そこで、いろいろな人から求愛をされます。フランス人とイギリス人とスペイン人とイタリア人、最後は当然ながらイタリア人の男性と一緒になるわけです。

 本を読む限りは、大変聡明で機転が利き、最後はやはり自分の国の人が一番信頼ができるというので、いろんな人から求愛をされながらもそこに落ち着くという設定ですが、このウェルトミューラーの演出は非常にびっくりしました。舞台の真ん中に大きなベッドがあって、当然お客さんによく見えるように傾斜していて、ロザーウラはほとんど寝間着姿でその上をごろごろとしていて、求愛をする男性たちはいきなり寝室にどかどかと入ってきます。台詞は確かにゴルドーニそのものだけれども、おそらくゴルドーニの時代には考えられなかった演出です。

 デ・フィリッポの芝居なども、ベッドを真ん中に置いて寝室の中ですべてやるというのもあるのですが、そういうかなり意表を突いた演出です。とても聡明な才色兼備の女性には見えません。とにかく欲求不満の塊のような女性です。男たちも寝室までずかずかと入ってきていきなりベッドの上に乗って、そこで求愛を、プロポーズをするという演出です。そういうものもあります。

 こちらはニッコロ・マキアベリの『マンドラゴラ』という作品です。これは大変有名だと思います。マンドラゴラというのは一種の媚薬(びやく)で、これを飲むと性欲がわいてくる。いくつか写真がありますけれども、衣装や俳優の演技も大変しっかりした舞台です。子どもができない年老いた老人が出てきますが、妻は大変若い。ニーチャという老人を何とかだまして、一晩だけでもそのルクレツィアという若い妻とともに過ごそうと企む若い男の話です。そこで、子どもができないことを悩んでいる老人を説得して、妻にその媚薬を飲ませて、そして夜妻の寝室に忍び込んで・・・といったような芝居です。これは上演回数も非常に多いですけれども、この舞台は大変よくできていました。ジェノヴァの劇団ですけれども、イタリアでは劇団は主要都市を巡回しますので、ジェノバの芝居がローマで上演されるというのはよくあります。各地の有力な劇団の芝居をそれぞれ全国巡回させるという巡回システムがあります。マルコ・シャッカルーガという人の演出です。

 順序が前後しますが、これはさっきのIl Piacere dell'onest_の写真です。ピランデッロの作品です。

 それからもう1つのジャンルとしては、西洋演劇の翻訳劇があります。大変よく上演されるのがシェークスピアです。それからイプセンもよく上演されます。それからチェーホフ、もちろんほかにもいろいろあります。

 これはイプセンです。Casa di bambolaと書いてありますが、『人形の家』です。ただし、副題がL'altra Noraといって『もう一人のノラ』。ノラというのは『人形の家』に出てくる主人公の女性です。これは過去の話ですが、夫の病気を治すために内緒で借金をして、そして何とかその苦境を乗り切った。夫はそれを知らずにずっと来たわけです。そのときに書面を偽造したりという確かに違法行為をしているので、あるとき過去の秘密を知る男に脅されて、それで夫に取り入って、何とか仕事のポストを紹介してもらうという話になります。

 ヘルマーという夫の方は、過去にそういうことを勝手にしたということで、ノラを非常に責めるわけです。しかし、借金等々の話はそこで助けてくれる人がいて一件落着します。落着すると今度主人のヘルマーはこれでもう何もかも終わったということで、「よかった、よかった。また元の妻に戻ってくれ」と言うのですが、ノラの方は結局その一件で、自分を夫は単なる飾り、それこそ人形としてしか見ていないということが分かったので、家を出る決心をするという話です。それが『人形の家』というタイトルになっているのです。

 この演出は、演出と言うより、翻案と言った方が近いのかもしれないです。ノラは非常に現代的な設定にしてあって、とにかくカードを使ってどんどん物を買う、いわゆるショッピング中毒という状態にあって、夫の病気の治療のために借金をしたというのではどうもなさそうなのです。一方的に自分の居場所がなくなってしまう。夫はもちろん仕事一筋、そこでショッピング中毒になってしまったというような設定のようなのです。これがノラです。これもその場面です。

 一応ストーリーは原作を追っているのですが、最後はノラが多分自殺をすることになるのだろうと思いますが、バルコニーの手すりの上を歩いて行く。飛び込むところまではいかないのがなかなかうまい演出だと思います。ふらふらと歩いて行って、そこで幕という、確かそういうふうになっていたと思います。そこの場面だけを取るとなかなかうまいです。舞台の演出というのは、ここで飛び込んでしまうとつまらないですね。飛び込んだのかどうなのかよく分からないけれども、しかしふらふらと夢遊病者のように出ていって、だからおそらく最後は死んでしまうのだと思うのです。

 イプセンの原作の、これからは自立した女性として家庭を捨てて、家を出て、自分の道を切り開いていこうというような積極的なノラ、そういう結末とは全く違います。だから、その辺はいいのかなと、要するに同じ作品とは言えないと思います。翻案に近いです。

 ただ、現代の状況ではやはりそういう結末が大変多いのです。実社会ではまだ女性が自立してうんぬんと言っているけれども、もう既に精神面ではそういう世界観というのは完全に崩れてしまっていますから。むしろそれ以上にうっ屈して行き場のない女性、そういう女性像を描いています。

 日本でも公演したトーマス・オスターマイヤーという、大変有名なドイツの演出家の『人形の家』も話題になりました。それも確かノラという名前を使って翻案にしていたと思います。イプセンのオリジナルでは大変有名なシーンですけれども、最後に扉をバタンと閉める音がかなり大きく響きます。つまりそれがノラの、つくられた家庭、夫がつくった見せかけの家庭、まさしく人形の家、それに決別することを象徴する効果音になっているわけです。オスターマイヤーの演出では、何とノラがいきなりピストルを出して夫を撃ち殺してしまいます。これも非常に不条理な話で、いくら自分の存在が無視されて、単なる飾り物でしかなかったとしても、そこまでやるのかなという気がします。

 そういう演出がどうも多いようです。近代の価値観に対する現代のとらえ方というのか、イプセン自体がもう古くなっているということかもしれません。これはそこまで過激ではないけれども、しかし、やはり原作とはだいぶ違う結末にはなっています。

 こちらはチェーホフの『桜の園』です。これはご存じかと思いますが、やはり没落する貴族??自分たちを取り巻く状況はどんどん変わっていて、経済的にもどんどん財産を食いつぶしているのだけれども、全くそれに気付かない人たち??と、成り上がり者の新興階級、その落差を描いたもので、最後は桜の園が自分の使用人によって買収されてしまうという設定です。

 これも舞台としては非常によくできた作品です。いくつか写真がありますが、このソファーなども非常に丁寧に作ってあります。全体にイタリアの舞台というのは大変お金をかけていますから、非常に細かく作り込んでいます。特に大きな主要劇場で上演するものは大変よく作っています。衣装も非常にお金をかけて作っています。これはオペラをご覧になるから分かると思いますが、オペラに劣らず台詞劇も、衣装などそういったものは非常にきちんと作っています。

 これは『三人姉妹』のパロディーです。これは小さな劇場で上演されたものですが、Tre sorelle treです。Tre sorelleというのは元の題で、チェーホフの『三人姉妹』です。『三人姉妹3』というのか、そんなだじゃれを入れた作品です。これは『三人姉妹』が一応下敷きにはなっているのですが、3人が出てきて自分の役について、「私はこんな女性として描かれているけれども、実はそんなことはなくて、こうこう」という、舞台裏の話を延々としていく。しかしそこに音楽をはさんだりして、楽しく笑いながら見ているうちに終わりという芝居です。これは完全に翻案劇というふうに考えられるでしょう。原則をそのまま上演したものではありません。