地獄の底のジャンニ・スキッキ

第362回 イタリア研究会 (2010年7月27日)

演題:「地獄の底のジャンニ・スキッキ」

講師:白崎 容子(慶応大学文学部教授)


【司会】皆さまこんばんは。イタリア研究会の橋都です。本日はイタリア研究会第362回の例会にようこそおいで下さいました。本日の演題は「地獄の底のジャンニ・スキッキ」です。ご存じのように「ジャンニ・スキッキ」はプッチーニ唯一の喜劇のオペラですが、その話の元は,じつはダンテの「神曲」の中のごく小さなエピソードにあります。それをいかにしてプッチーニと台本作家はオペラに仕立て上げたのか、本日はそういったお話を伺えるものと思います。

本日の講師はイタリア研究会の方はよくご存じの慶応大学文学部教授の白崎容子先生です。先生には以前にもこの例会での講師をお願いしておりますし、イタリア語のテキストブックでお世話になった方も多いのではないかと思います。

それでは先生のご略歴を紹介させていただきます。先生は東京のお生まれで、1970年に東京外国語大学イタリア語科を卒業されました。1972年に修士課程を修了後に、ローマのラ・サピエンツァ大学に留学され、2002年からはフィレンツェ大学、ローマ第3大学にも留学されています。そして武蔵野音大講師などを経て、現在の慶応大学文学部教授に就任されました。

それでは白崎先生、よろしくお願いします。



【白崎】 ご紹介いただきました白崎です。オペラのことをずうずうしくお話ししますが、オペラはただ観客として観ているだけの単なるディレッタントです。今日は「地獄の底の私のお父さん」というタイトルで、ダンテと『ジャンニ・スキッキ』についてお話しさせていただきますが、ダンテに関しましても、専門家というわけではありません。私がどんなふうにダンテとお付き合いしてきたかと言いますと、実は読書会に出させていただいていたことがある、というだけなんです。現代文学などの翻訳もたくさんなさった米川良夫先生、4年ほど前に他界されましたが、この米川先生が、毎月一回、少しずつ『神曲』を読んでくださる会があって、それに出させていただいていたという、それだけです。こんなことを言うと、今日はずぶの素人がお話させていただくということなのですけれども、専門の研究者ではない単なるディレッタントとして、気楽な立場からお話をさせていただければと思っています。

 お配りした資料がたくさんあって申し訳ありません。パワーポイントの資料もお配りしてあります。

『ジャンニ・スキッキ』というのはプッチーニのかなり後期のオペラで、今、橋都先生もご紹介くださったとおり唯一の喜劇です。プッチーニのオペラといいますと、大抵、かわいそうな話が多いのですけれども、ひとつだけ喜劇を作ったわけでいます。皆さんはきっとよくご存じではないかと思いますが、『ジャンニ・スキッキ』について、よく知っている、ストーリーもだいたい知っているという方、どれくらいいらっしゃいますか。

さすがイタリア研究会、ご存じの方が多いようですが、なかには初めての方もいらっしゃるかもしれませんから まずはDVDでオペラの内容を少しご紹介したいと思います。でも、初めてという方でも、ひとつ、きっとよくご存じのメロディーが出てきます。「私のお父さん」として知られるアリアが有名です。もっとも、「私のお父さん」というこのタイトル、本当は「ねえ、お父さん!」とか、「お父さん、お願い!」のようにしたほうが、内容にはしっくりするのですが、「私のお父さん」というタイトルですでに親しまれています。

 オペラの背景は、1299年9月1日のフィレンツェ、ちょうどダンテが生きていた時代です。この時代に、どうやら実際にあったらしい出来事を題材にしたオペラです。いろいろな上演がなされていますが、1時間ぐらいの短いオペラです。ディテールがとても面白いので、本当はDVDを最初から最後まで全部見たいところですけれども、そうすると、それだけで時間が終わってしまいますので、飛び飛びにポイントを見ていきたいと思います。

 2004年のイギリスのグラインドボーン音楽祭の映像で、これは時代設定を1918年の9月1日にしています。1918年というのは、つまり、このオペラがニューヨークで初演された年です。衣装などは20世紀初頭の当時に合わせたものになっています。指揮は、ウラディーミル・ユロフスキという、1974年モスクワ生まれの若い指揮者です。

(DVD)

破天荒な楽しいオペラですが、幕が開きますと、というか、この演出では最初から幕が開いているんですけれども、当時、フィレンツェに実在したドナーディ家という貴族のお屋敷に、親族の人たちがこうして集まってきています。

(DVD)

 うしろにベッドが見えています。このベッドに横たわっている人がいますが、この方がブオーゾ・ドナーティさん。たった今、息をひきとったところです。オペラの舞台には、遺体としてのみの出演です。親族の人たちが集まって、彼の死を心から悲しんでいるみたいですが、みんなが集まっている目当てはもちろん遺産。ブオーゾはかなりの資産家なので、遺産目当てにこうしてドナーティ家の人たちが駆けつけてきたのです。左側にいるのがブオーゾのいとこのシモーネ、こちらがツィータで、同じくいとこ。60歳で、ドケチな、欲深いおばさんです。ほかにもこれだけ大勢親族がいて、一応、みんな、とりあえず悲しんでいる風ではあります。ここにリヌッチョという若者が1人います。彼は、ほかの親戚の人たちと、ちょっとちがう雰囲気を醸し出しています。

そのうち、遺産をめぐってよからぬうわさがある、という話になります。親族にとってよくないうわさ。それは、実はブオーゾが遺言状を書いていて、その遺言状には「遺産を全部修道院に寄付する」と書いてある、そういううわさです。「本当にそんなことがあるのだろうか。だとしたらタイヘン!」ということになって。この辺、ちょっと早送りにしますけれども、みんなで必死になって遺言状を探します。そして、遺言状がようやく見つかると、果たしてそこにはうわさ通り「全部、修道院に寄付する」と書いてありました。全員、ものすごく落胆した後「とんでもない話だ。何とかならないだろうか」と次善の策を模索しはじめます。「いい案はないだろうか」と考えるんですけれども、なかなか知恵がうかばない。そこでリヌッチョという若者が「ジャンニ・スキッキに相談しようではないか」と言いだします。ドナーティ家は昔からフィレンツェで権勢を誇ってきた貴族、豪族ですね。プライドもあるし資産もある、そういう由緒ある家系です。一方、ジャンニ・スキッキは、オペラの設定では新興市民。ちょうどこの頃、フィレンツェは経済的に発展を遂げていく時代で、町の外からどんどん新しい人たちが入ってきていました。ジャンニ・スキッキもその1人。頭がよくて、アイディアがものすごく豊富な人なのだと、リヌッチョは言います。

実はリヌッチョは、ジャンニ・スキッキの娘のラウレッタと恋仲で、次の年、1300年の5月1日に彼女と結婚したいと思っています。それもあって、「ぜひ、ジャンニ・スキッキに頼もう」と言うんですけれども、ブオーゾ家の人たちからすると、そんな新興市民に助言を求めるなんて、まずプライドが許さない。それから、リヌッチョはさっきのツィータというおばさんの甥に当たりますが、ツイータも親族の人たちも、身分の違う者同士の結婚には賛成していませんから、とんでもない!とけんもほろろ。ところが、リヌッチョがもう手を回していて、ジャンニ・スキッキがやってきます。娘のラウレッタも連れてきますが、ジャンニ・スキッキのほうも、豪族、貴族に好い感じを持っているわけはありません。

うわさ通りだったことが分かってみんなが落胆するあたりから、ちょっと映像を観てみましょう。

(DVD)

ここで、リヌッチョがアリアを歌います。「フィレンツェは花をつけた樹木のように」

今こそ新しい人たちを外部からどんどん迎え入れるべきときだ、偏見をもって豪族という家の名誉にしがみついている時代ではない、と歌います。

(DVD)

メディチ家ですとかジョットですとか、ムジェッロから出てきたアルノルフォ、といった実在の人物の名前が出てきました。アルノルフォというのはサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会を設計した人ですが、彼らもみんな、田舎からフィレンツェにやって来て活躍している、そのおかげでフィレンツェもこんなに発展しているのだから、新興の人たちをどんどん歓迎しよう、というわけです。そこで……。

(DVD)

ジャンニ・スキッキが娘ラウレッタを連れて登場します。

(DVD)

ジャンニ・スキッキ役は、アレキサンドロ・コルベッリという、なかなか芸達者なバリトンです。《新興市民》対《貴族》の対決といった場面が、コミカルに繰り広げられます。

(DVD)

そして、ここから、みなさんよくご存じのメロディー、ラウレッタのアリア「わたしのお父さん」です。

(DVD)

こんなきれいなメロディーで何を言っているかというと、「遺言をを偽造して。してくれなかったらアルノ川に身投げしちゃうから」と、なかば脅迫しながらお父さんに頼みこんでいる、というわけですね。この場面、いろいろな演出がありますけれども、このラウレッタは、悪企みに加担しているという自覚がありそうな、ちょっとワルの感じがするラウレッタになっています。演出によっては、本当にただただひたむきに、ひたすら「お父さん、お願い。私、リヌッチョと一緒になれなかったら、本当に死んじゃうから」と切々と訴える、清純派ラウレッタの場合もあります。が、最近は、こういう悪達者はラウレッタが多いみたいです。

それでジャンニ・スキッキも娘のこの頼みにほだされて、「それでは、ひと肌脱いでやろうか」という気になります。いろいろ考えたあげくに、ひとつ、名案を思いつきます。そこで、それをこれから披露していくんですが、それに先立って、親族の人たちに、ブオーゾの遺体をベッドから片づけさせます。そして、アイディアの披露が始まります。

(DVD)

ということで、自分がブオーゾ・ドナーティに変装して、彼になりすまして声色を使って偽証する、これが、彼ならではの独創的なアイディアです。亡くなってしまったブオーゾ・ドナーティの遺体は、ベッドからもう片付けてあるので、自分がそこに入って、まだ死んでないブオーゾのふりをして、彼の声を真似して、公証人の前で口頭で偽証する、というのです。書いてしまうほうが簡単ではないかという気もしますが、でも、書いたら筆跡が残ったりするからまずいのでしょうね、きっと。このアイディアに、親戚の人たちの態度はころりと豹変します。ジャンニのことをさっきまでばかにしていたのはどこへやら...「すばらしい!」「スキッキさまさま」といっせいに期待を膨らませます。そして次には、親族それぞれの思惑がお互いにせめぎあうことになり、これを、ジャンニ・スキッキはおなかのなかで笑っています。

ブオーゾ・ドナーティはかなりの資産家で、膨大な財産があります。それを親族のあいだでどうやって分けるか、これが大問題です。現金と、それから田舎に少しずつ分散して土地、これはどうにかうまく分けられそうです。問題は3つある目玉商品。一つはラバ。とても価値のあるトスカーナいちのラバ。それと、近くのシーニャというところにある水車小屋。そして、フィレンツェのこの家屋敷。この3つの目玉商品をだれが手に入れるか、親戚のだれもが自分のものにしたいと思っているから、これはもうタイヘンです。

そこで、このあたりがおかしいんですけれども、ブオーゾ家の人たち、ほんとうに単純というか、ヒトがいいというか、スキッキさんがこんなにいいアイディアを出してくれたのだから、これはスキッキの裁量に任せようということになるんですね。だれもが、スキッキは自分に好いようにしてくれるにちがいない、と思いこんでいるわけです...。

(DVD)

ここにプッチーニ特有の女声のきれいな三重唱が織り込まれています。ジャンニ・スキッキもベッドに入る準備をしていますが、ほっぺたに大きなキスマークがついていますね。親戚女性の1人が、目玉の遺産をもらえるという期待をこめて、どさくさ紛れにブチッとキスをしていました。それで、いよいよ公証人がやって来る、ということになるのですが、その前にスキッキが、ひとつ警告を出します。この警告が、あとですごく大きな意味をもつことになります。

(DVD)

「遺言偽造がバレたら、共犯者も全員、皇帝派の人たちのように手首を切られ、フィレンツェから追放される。二度とフィレンツェはおがめないし、フィレンツェへの別れの挨拶も手首のない手でするしかないのだ」と脅しています。スキッキが歌った同じメロディーをコーラスで繰り返して、みんな、これを胆に銘じます。フィレンツェという都市がいかに愛されていたか、ということもここからわかります。「皇帝派の人のように」という言葉が出てきましたけど、これは当時のイタリアを二分していた皇帝派ギベリン派と教皇派グェルフィ派の、ギベッリーニ を指しています。この頃のフィレンツェは教皇派 (グエルフィ Guelfi)の天下で、皇帝派(ギッベリーニ Ghibellini)の人たちは追放されたばかりでした。ドタバタ喜劇みたいなオペラですが、こうした史実も、こんなふうに織り込まれているのです。フィレンツェという町そのものが、ひとりの登場人物として、主人公といってもよいくらいの役割を果たしているオペラ、ということもできるのではないかと思います。

さて、公証人たちがやってきて、いよいよ遺言が始まります。公証人は証人を2人、靴屋と染物屋を連れてきて、口述される遺言を記述します。ブオーゾの声色を使ったスキッキの遺言、オペラ最大の見せ場です。

(DVD)

まず最初に前の遺言はすべて破棄する、というブオーゾ実はジャンニの口述に親戚一同、ほっと胸をなでおろします。彼らの反応のひとつひとつがけっこうおかしいのですが、続けて「修道会に...」というので、みんな、ドキッとします。が、修道会への寄付はたったの五リラ、さすがに公証人も「ちょっと少なすぎるのでは?」と言いますが、「たくさん寄付すると盗んだ金だったと言われるから」と、ジャンニ。この時点で、親族でのあいだのジャンニの株は最高潮に上がっています。しかし...

(DVD)


ということで、3つの目玉商品は、ジャンニがちゃっかり、全部自分のものにしてしまいました。とちゅうで異議を唱えようとする親族たちに、「バレたらギベリンのように...」というあの警告を思い出させて、まんまと思いどおりの遺言偽証をやってのけたわけです。公証人と証人たちが帰ったあと、このドロボーめ!と親族たちはスキッキに襲いかかろうとして大騒ぎになるんですけれども、ジャンニは「出ていけ!ここはおれの家だ!」。

(DVD)

親族のみんなは退散するしかありませんが、取れるだけのものを掻っ攫っていきました。こうしてお父さんのジャンニ・スキッキが財産を手にいれてくれたので、ラウレッタにも結婚資金ができる、これでリヌッチョとの結婚はできそうですね。リヌッチョとラウレッタは、これで幸せになれる....、ジャンニは、娘の幸せを思う好いお父さんですよね。

(DVD)

フィナーレでジャンニ・スキッキが観客に向かって語りかける場面があるので、そこを見たかったのですけれども。すみません、操作がうまくいかなくて、申し訳ないです。

お配りした資料の方を、ご覧ください。

最後にもういちどジャンニ・スキッキが出てきて、観客に語りかける場面のセリフを載せておきました。「みなさん、どうかおっしゃってください。遺産を配分するのに、これに優る方法があったでしょうか。こんなことをしたおかげで、私は地獄に落とされてしまいました。ま、それも仕方ないでしょう」と。「でも、もしダンテ先生のお許しを得て、今宵、みなさんがお楽しみになったなら、どうか、みなさんは私を許してください」と観客に語りかける。そこが実は一番、見ていただきたいところだったのですけれど...。ビデオもひとつ持ってきていますので、あとでもしも時間があったら、そちらをご覧いただくことにしましょう。

とりあえず、DVDはここまでにします。ともかく、とても楽しいオペラです。



フィレンツェの町もオペラの登場人物、と申しました。この時代のフィレンツェについて、お配りしたパワーポイントの資料で、ちょっと見ていきたいと思います。

リヌッチョのアリアの中にもいろいろな人がよそからやってきて、そのおかげで町が栄えていっている、というセリフがありました。13世紀の終わり、経済的にも大きな発展を遂げていった時代です。特に、毛織物業と銀行業でどんどん経済力も蓄えていきました。そこにローマ教皇庁が目を付けて口出しをしてくる、といったこともあったようです。

皇帝派、皇帝党(ギベリン)という言葉も出てきていましたけれども、経済発展のおかげで教皇庁に目を付けられたフィレンツェは、グエルフィですね、教皇派の都市国家として発展を続けています。字が小さくてご覧になりにくいと思いますけれども、1280年来、ギベリン派の人たちは国外に追放されているといった史実も、オペラの背景にありました。

そして、ここに赤い字で書いてあるのが、ちょうどこの頃、新興市民中心の政治を推進するために設けられた新しい役職です。コンソレとか、プリオーレとか、ゴンファロニエーレとか。プリオーレという役職には、ダンテも就いたことがありますが、貴族に代わって、ジャンニ・スキッキのような新興市民が力を蓄えつつあっていたことの表れです。

青い字で書いてあるのは、貴族や豪族がついた役職です。ポデスタというのがありますが、オペラに登場したブオーゾ一族の中で一番年上のシモーネ、あの人が近くの町シーニャのポデスタ、つまり代官をやったことがある、と言っていました。このポデスタというのは、新興市民の力が強くなって、これまでの天下をうばわれようとしている豪族や貴族が僻まないように、というか、いじけないように、過去の人となりつつある貴族たちのためにつくった役職だったようです。

それから、ギベリンの国外亡命のことが書いてあるのが1280年のところですね。 ドナーティ家の人たちは「ギベリンのようにさまよい歩くことになる」とジャンニ・スキッキに脅かされて、それで、とんでもない偽証の遺言をされても、ジリジリしながら何ひとつ言えなかった、というわけです。


さて、『ジャンニ・スキッキ』というオペラですけれども、先程も申しましたとおり、初演は1918年、三部作のひとつとして作曲されました。三部作の一つは『Tabarro、外套』。プッチーニはヴェリズモ・オペラ、神秘劇、それから喜劇、この三種類のオペラを作りたかったのです。ヴェリズモと言いますと、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』や、レオンカヴァッロの『道化師』が有名ですけれども、それは題材が簡単に見つかった。それから神秘劇についても、台本作者のフォルツァーノが『Suor Angelica修道女アンジェリカ』の台本を書いて、どうにかなりそうです。

一番困ったのが喜劇です。結局、ダンテの『神曲』から喜劇の題材をとることになるのですが、『神曲』の原稿というのは、ダンテ自身が書いたものはどこにも残っていません。写本で伝えられてきているわけですけれども、14世紀から19世紀、20世紀まで、絶え間なく出版されてきたということでもないようで、ものすごくブームになって出版された年もあるし、そうでもない時期もありました。プッチーニが活躍していた20世紀の初め頃は、ちょうど出版が盛んな時期で、そのころ刊行されたものの中に14世紀の人、つまり、ダンテと同時代の人による注のついたものがあった。それにフォルツァーノが目をつけて、プッチーニもものすごく気にいった、という事情があったようです。『神曲』というイタリア文学でも最古典ともいうべき作品の中に、よりによって喜劇の材料を見つけた、というのは不思議な感じがしなくもありませんが、そういういきさつで、このオペラが成立します。

ダンテについても、みなさんのなかにはよくご存じの方も多いと思います。「イタリア語の父」といわれていますね。『神曲』と言いますと古典中の古典で、どこかとっつきにくい感じがするかもしれませんが、実はそうでもないんです。『神曲』に使われている言葉、これは現代のイタリア語の知識があれば、もちろん、そのまますんなりとは言いませんけれども、特徴を押さえればどうにか読むことができるものなのです。当時のイタリア半島の言葉、書き言葉はラテン語ですが、ダンテはラテン語ではなく、話し言葉であるイタリア語、俗ラテン語と呼ばれるイタリア語を使って『神曲』を書いた、それがそのまま現代のイタリア語につらなっているのです。このあたりのことは、前回のこの研究会の、長神先生のお話の中にも、きっとあったのではないかと思いますが。

『薔薇の名前』でおなじみのウンベルト・エーコが、デ・マウロという言語学者が言ったこととして引用しているのですが、現代のイタリア語の会話に最小限必要な語彙2,000語のうち、1,800語が、すでにこのダンテの『神曲』の中にあるということです。つまり、イタリア語というのは14世紀から今に至るまで、途中であまり急激な変化を遂げることがなかったのですね。これは日本語とも違うし、ヨーロッパのほかの言語とも随分ようすが違います。中世からスーッとそのままなだらかに今に至っている、そういう言葉なのです。それも、ダンテが『神曲』を、ラテン語ではなく話し言葉で書いてくれたおかげです。

なぜ話し言葉で『神曲』を書いたのか。これにはいろいろな理由があるはずですが、ひとつには、ダンテが、イタリア半島に固有の詩的言語を確立したかったということが言われます。清新体、ドルチェ・スティル・ノーヴォDolce Stil Novo。これはダンテの先輩にあたるトスカーナの詩人たちの間でも認証されていたひとつの流派ですが、そうした流派の詩を語るのにふさわしい新しい言語を確立したいという願望があったわけです。「清新体」とは何なのか、ということですが、愛をテーマとする詩...。簡単に言ってしまうとそういうことですが、愛と言っても、いわゆる具体的な現世的な恋愛というよりも、女性を高貴な存在とみなしての、抽象的な愛。こんなふうに言っても、話がそれこそ抽象的でわけがわかりませんけれど、ともかく、清新体に関わることとしてよく言われるのが、「高貴な詩心には愛心が宿る」。それから、「愛心が語るがままに、自然な言葉で書き写す」といったことです。自然な言葉であるためには、みんながふだん使っている話し言葉である必要がある。「愛」という言葉が出てきましたけれども、ダンテにとっての永遠の恋人、ベアトリーチェという女性も、そういう文脈の中で登場してくるのです。

 写本の挿絵のスライドはお配りした資料にもコピーしてあるので後からゆっくりご覧いただければと思いますが、これはジョットによるダンテの肖像画です。ジョットとダンテは、ほとんど同世代。ひとつしか歳が違わないんですね。まだ若いころの、結構穏やかな顔をしているダンテですが。こちらは16世紀の木版画。かなり険しい顔つきになってきています。月桂冠を被せてもらっています。ダンテの肖像画は、桂冠詩人として描かるのですけれども、ダンテは、実は桂冠詩人ではありません。でも、それではあんまり気の毒だろうというので、後の人が肖像画を描く時は月桂冠を被せてあげているんですね。ダンテは政治家としての活動もしていました。当時の文人は、大体そうなんですけれども、政治と深い関わりを持っていました。ダンテも、先ほどちょっと触れましたプリオーレという役職に、1300年の6月から8月までついています。6月から8月までのたった2か月で、ずいぶん短いのですが、権力がひとりの人間に集中しないよう、民主的に、ということで在務期間は2か月と決められていました。政治的な活動をするためには、どこかの組合(アルテ)に入る必要があったので、ダンテは服飾・小間物・医師・薬剤師組合に登録しています。

新興市民が台頭して経済発展を遂げていく、当時人口が10万あって、ヨーロッパのほかの都市からも羨望のまなざしを向けられていたフィレンツェですけれども、ダンテはフィレンツェのあまりに急激な発展を、100% 良しとはしてなかったようです。プッチーニのオペラですと、「新興市民、バンザイ」という雰囲気が全体にあふれていますけれど、急激な進展が起こることによって、フィレンツェ内部に内部抗争が生まれたりもするわけです。それまで仲の良かった人たちが仲違いをしていくといった事態がたくさんあって、ダンテはそれをかなり憂いていた、それは『神曲』のなかにも見てとれます。

ギベリンとグェルフィの分裂もありました。ダンテも当然グェルフィ派です。先程DVDのオペラの中で、リヌッチョが「来年の春祭りの日にラウレッタと結婚したい」と言っていました。春祭り、カレンディマッジョCalendimaggioと言うのですが、これは5月1日です。台本通りにいきますと、舞台の繰り広げられている1299年9月1日時点で「来年のカレンディマッジョ」と言っているわけですから、1300年5月1日を指すことになります。皮肉なことに、実はその日に、このグェルフィ派がさらに2つの党派に分裂するきっかけを作る事件が起こります。白派と黒派、ビアンキ Bianchiとネーリ Neriのふたつに分裂することになって、そこでダンテはビアンキ、白派のほうに属することになります。

それから、先程もちょっと触れましたが、教皇庁がフィレンツェにうるさく口出しをしてくる、ということがありまして、そういうからみで、ダンテは1301年に使節としてローマに赴きます。教皇ボニファティウス八世に会いに行ったのですが、そのお使いに行っている間に、派閥抗争が原因でフィレンツェを追放されてしまうのです。「フィレンツェに帰ってきたらは死刑だぞ」と言われて、以後、もう二度とフィレンツェに戻ることはなく、生涯、諸国を放浪することになります。『神曲』という1万4,000行以上の作品も、諸国を放浪しながら書いたわけですから、相当すごい人ですね。

ダンテには家族がいました。ジェンマさんという奥さんと、4人の子どもです。男の子が3人と女の子が1人いましたが、家族とはフィレンツェの外で、何度か会っていたようです。

そして、『神曲』を、ラテン語ではなくイタリア語で書いたことの理由のひとつには、やはり、1人でも多くの人に読んでもらいたかったということもあったでしょう。当時のフィレンツェの様子、ローマ教皇庁との関係、それからなんといっても、自分が教皇ボニファティウス八世のせいでどんなにひどい目にあったか、そういったことを、1人でも多くの人に読んでほしかった、そんな気持ちもきっとあったはずです。

そして、このダンテの『神曲』ですが、今、イタリアでちょっとした話題を呼んでいるようです。みなさんのなかに『ライフ・イズ・ビューティフル』という映画をご覧になった方は多いと思いますが、『ライフ・イズ・ビューティフル』の監督でもあり、主演も務めたロベルト・ベニーニが、《Tutto Dante》と称して、『神曲』を朗誦するイヴェントを行って話題になっています。イタリアから帰っていたらしたばかりの高田先生がきっとよくご存じだと思いますが、高田先生、イタリアでご覧になったりしましたか。

【高田】 直接なまの舞台は観てないですが、テレビでも何度も放映して、DVDもシリーズで何本も出ています。 売れているようです。大変な人気です。

【白崎】 大変な評判だった……。今もやっているんでしょうね。

【高田】 今も時々やっているんじゃないですかね。連続してずっとやるというシリーズは、一応、もう終わっているようですね。そのDVDが出ていて、今、手に入ると思います。それから、ダンテの『神曲』全部を入れているわけではなくて、もしかすると、またしばらくすると、これまでにまだ入っていない何巻か入れてまたやるかもしれない。今のところ、10巻ぐらい出ていますね。

【白崎】 そうなんですね。ありがとうございました。

これをイタリアだけでなく、ヨーロッパのほかの国や南北アメリカの劇場や大学でやっていて、かなりの話題を呼んでいる、ということです。

プッチーニもトスカーナの人、ダンテもフィレンツェですからトスカーナですけれど、ベニーニもトスカーナ生まれで、本当に『神曲』が大好き、ダンテ大好きという、そういう雰囲気がじゅうぶんに伝わってくる朗唱のパフォーマンスを見せてくれるようです。ユーチューブでも見ることができます。

 『神曲』は韻文です。リズムや韻律を考えて作られているものですから、もともと文字で読むのではなく、聞いて楽しむもの、朗誦するもの、であるわけですね。このスライドですが、これはフィレンツェのサンタ・クローチェ広場という、皆さんはご存じと思いますが、かなり大きな広場ですね。ここで、十三夜連続で行われたときの写真です。超満員ですよね。切符がなかなか取れなかった、という話を聞きました。『神曲』というと、たいてい学校で読まされて、暗記なんかさせられて、それで嫌いになっちゃう人が多いらしいですけれども、でも、今回、こういう機会があって、ベニーニがダンテの世界を現代と結びつけて解説するのも大きな魅力だったらしく、「『神曲』ってこういう面白いものだったのか」とあらためて見直した中高年の方も多い、というような話も聞きました。



 では、『神曲』という作品の中身を、ちょっとだけ覗いてみたいと思います。これも皆さんはよくご存じだと思いますが、「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」の3部構成になっていて、それぞれが34、33、33の、合計100の歌でつくられています。ひとつの canto 歌が、大体130ないし140行から150行ぐらいですから、全部合計すると1万4000行を超える量があるわけです。ちょっと照明が暗いかもしれませんが、お配りした資料のなかの、資料1と書いてあるA3の裏表になっているものをご覧ください。「地獄篇」第1歌の冒頭の部分を引用しておきました。詩の形式を見ると、3行ずつでひとつのかたまりになっていますね。テルツァ・リーマterza rimaと呼びますが、3行3行でひとつのまとまりをつくっているのです。それから、ひとつの行が11音節、エンデカシッラボ endecasillabo ですから、1つの塊で33の音節になるわけです。ダンテの3という数へのこだわりは、こうしたところからもわかります。

裏に日本語訳がついていますが、冒頭のイタリア語をみると、どの行も11の音節から成り立っていて、1行のなかでアクセントのある場所も決まっています。そして行の最後がきれいに韻を踏んでいます。1行目から順に、vita、 oscura, smarrita という語尾の単語をもってきて、-ita, -ura, -ita ABA という脚韻を踏んでいます。次の3行をみると、今度は dura, forte, paura という単語で行を結び、-ura, -orte, -ura と、今度はBCBという脚韻になっています。次の3行の1行目と3行目はともに -orte という前の3行の2行目にあった母音をもってきて、CDCという韻になっています。こうやって、ABA、BCB、CDC、DED、EFE というふうに、全部の詩行で、鎖でつないだような韻を踏んでいるわけですね。こうやって1万4000行を超える韻文を書いたのですから、やっぱりすごいです。

そして、ご覧になってお分かりの通り、たった3行についてこれだけ注がたくさんあるわけです。本文は3行だけであとは全部「注」です。これまでなされてきたダンテ研究がこれだけたくさんある、ということですね。特に最初の2頁についてはこれまでに大勢の研究者がいろいろな研究をしています。ダンテ研究をするということになったら、まずはこういう注を全部読む、それに出版されているものも、これはリッツオーリという出版社のものですけど、これだけではなくて、いろいろな出版社から、それぞれ「いろいろな人が注をつけたものがたくさん出ているわけですから、まずはこうしたものを全部読まないとダンテ研究をしていることにならない....それだけでもなかなかタイヘンです。

さて、ジャンニ・スキッキとの係わりで『神曲』のお話をしているわけですが、どういう人物が登場するのか、と言いますと、ダンテの時代までに知られていたさまざまな人たちです。ギリシア・ローマ神話の人物とか、聖書とか歴史上の人物とか、あるいは、ダンテと同時代の人などです。特に「地獄篇」では、噂とか、ゴシップ記事的なもの、ジャンニ・スキッキのエピソードもそのなかに含まれますが、当時のいろいろなエピソードがあって、かなり面白いです。今で言えば、週刊誌とかテレビのワイドショー的な話題、といったところでしょうか。

今、ご覧いただいている資料は、「地獄篇」第1歌の冒頭のところですが、1300年の聖木曜日の夜中、ほとんど翌日の金曜日の明け方に近い時間帯です。それからさらに時間を経てダンテが実際に冥界巡りを始めるのは聖金曜日の夕刻、そして、復活祭の日には天国に入るわけですから、地獄、煉獄、天国と、たった2日間で旅してしまう...相当強行軍だったのではないかと思いますけれども。裏にコピーしてある日本語訳は平川祐弘先生の訳ですが、「人生の道の半ばで正道を踏み外した私が目を覚ました時は暗い森の中にいた」、これが有名な出だしの部分です。この「暗い森」というのは、生活上の迷い、道徳的な迷いを表していて、第1歌は全てアレゴリー、寓意で語られていると言われています。「人生の道の半ば」というのは、旅をするこのときが1300年、ということは1265年生まれのダンテがちょうど35歳の時だった。人生を70年と考えたというのが古典的な解釈ですが、これについてもいろいろ、そういうふうな解釈をするべきではないというようなことをおっしゃる研究者の方もいます。それから、「暗い森」をなにもアレゴリーと取る必要はないという解釈もあります。

そして、間もなくダンテは3頭の動物に出会います。道に迷ってしまって、でも、日差しはあるし、このまま前に進めるかな、と希望をいだいていたところで、日本語訳ですと1枚目の下の段、33行目、34行目ぐらいですけど、「軽快で敏捷な豹が1頭現れた」。豹(ロンツァlonza)。これも、アレゴリーで、肉欲を表すとされています。つまりすべてが比喩で語られているわけですね。それから、もう少し行くと、今度は獅子、ライオン(レオーネ leone)が現れる。これは傲慢のアレゴリーとされています。もう少し行くと、今度は狼(ルーパ lupa)、貪欲のアレゴリー、動物の姿で表されるこれらのよからぬものに行き当たってしまう...という解釈が古典的なのですけれども、これについても、なにもそんなふうにアレゴリーとしてとらえる必要はないとする考え方もあります。普通にダンテが森を歩いていたら豹とライオンとトラに会った、それでもいいんじゃないの、というような意見もあります。

とこかく動物に行く手を阻まれたわけですきから、後ずさりをします。そして、そこで詩人のウェルギリウスに出会います。古代ローマ時代のウェルギリウスですね。この方は、1300年にはもう亡くなっていますけれども、ダンテが迷っているので、冥界から出てきてくれたのです。このウェルギリウスがダンテの道案内をしてくれるのですが、案内人に政治家とか哲学者ではなくて詩人を持ってきたというところに、この作品によって、詩を語るにふさわしい言語を確立しようというダンテの意図が見てとれます。ただ、このウェルギリウスが案内してくれるのは地獄と煉獄まで。天国にはウェルギリウスは行けません。というのは、彼は古代ローマ時代、まだキリストが生まれる前の人ですから、キリスト教徒ではないんですね。そうなると、天国には入れない。天国を案内してくれるのは、ダンテにとっての永遠の女性であるベアトリーチェです。

このスライドは、当時の写本です。彩色写本。全部、手書きで描かれた絵ですけれども、当時の絵というのは、ダンテのところにDという文字が添えてあったり、どこか愛嬌があっておもしろいですね。それぞれの時代に、いろいろな人がいろいろな絵を描いています。この左側の図は写本ですけれども、右側のほう、これはウィリアム・ブレイクという18世紀から19世紀のイギリスの画家であり詩人であった人の挿絵です。『神曲』を英訳して、挿絵も描いた人です。このブレイクの絵には動物がかなりハッキリと描かれていますね。豹とライオンと狼??狼はメス狼ということになりますけれども??に行く手を阻まれている。ダンテが後ずさりしようとすると、ここにヴェルギリウスが姿を現すという、まさにその場面です。

今日に至るまで、いろいろな人が実にいろいろな絵でこの場面を描いています。これは20世紀の画家のアモス・ナッティーニのもの。この方はパレルモ生まれの画家で、もう亡くなっていますけれども、きれいな、ブルーを基調にした絵です。それから、サルバドール・ダリですね。ダリも『神曲』の挿絵を描いています。動物はいないけれど、これから森のほうに行こうとしているダンテの姿、ダリらしくておもしろいですね。

さて、冥界巡りと申しましたが、冥界がどんな構造をしているか、それをちょっと見ておきたいと思います。この当時、地球が丸いということはもう知られています。地球は丸いんですけれども、でも、天動説です。図をご覧いただくと、こちら側が丸い地球の、イタリアのあるほうです。ダンテがウェルギリウスに出会ったのがこちら側です。エルサレムと書いてありますが、エルサレムの脇にイタリアがあって、このあたりが「地獄篇」の始まりとなる場所です。ここから地獄がすり鉢状に地球の真ん中のほうに下りていきます。こちら側は土、つまり陸の半球。反対側は水の半球なのですが、その真ん中にルチーフェロ Lucifero、大悪魔の頭があります。このルチーフェロ、ものすごく身体が大きくて、ここに頭があって、脚がヒューっと伸びて水の半球をつっきっています。ウェルギリウスとダンテはここの地球のまんなか、つまり地獄の底まで来ると、その後は、このルチーフェロの身体をつたって、体毛を梯子代わりにして、こちら側、反対側に出ます。そうすると、ここに煉獄が、今度は山の形になってそびえています。煉獄の山に入って、ここを今度は環状になった道沿いに登っていくわけです。その上にあるのは、天国ですね。天球があります。天動説ですから、地球は止まっていて、天の方がその周りを回っているんですけれども、地球に近いところから、月天、水星天というふうに同心円状にまわっていて、地球があるはずのところでは太陽も惑星としてグルグル回っています。星の並び方は、今、私たちが知っているのとほぼ同じ順番です。そして最後が至高天、神様がいるところです。ここにはベアトリーチェがいて、ここからはベアトリーチェが、ウェルギリウスに代わって案内してくれることになります。

すり鉢状の地獄の部分を上下逆にしたのが隣の図です。ダンテはウェルギリウスの後について、地表のこのあたりから、地獄に入って行くわけですけれども、下に行けば下に行くほど罪の重い人が入れられています。ウェルギリウスは特に罪を犯しているわけではない、ただキリスト教徒ではないというだけなので、一番上の 辺獄,リンボlimboというところにいます。地獄も大きく3つに分けられています。ダンテは、ともかく3という数に非常なこだわりを持っているんですね。上のほうの地獄、真ん中の地獄、下のほうの地獄と3つに分けられていて、そしてここが一番下、悪魔大王ルチーフェロの頭があるところに続いています。

地獄のなかでも一番上にいる人たちはさほど罪が重くないわけですが、それがどんな人たちだったかというと、怠惰な人たち、怠け者なんですね。ダンテのように政治的な党派に属することのなかった日和見、というか、ノンポリみたいな人たちです。罪はそれほど重くないけれど、でも、蜂や虻にたえず追い回されています。そして、その下にウェルギリウスをはじめ、ホメロス、ソクラテスなど、古代ローマの人たちがいるのですが、彼らは蜂に刺されたりすることもなく、木々に囲まれて、平穏に暮らしています。

挿絵を少しご紹介します。ダンテの描写はリアルなので、画家たちのの創作意欲をかきるものがあったようです。

まずはこの「逆立ちの脚」 この巨大な2本の脚...先ほどふれた、地獄の真ん中に頭のある大悪魔 ルチーフェロの足です。これが反対側の地表にまで届いているので、これをつたってヴェルギリウスとダンテは反対側の煉獄のほうに出ることができたわけです。それから、こちら。逆立ちの脚が何本も見えます。これは「地獄篇」の第19歌。聖職売買をした人たちの脚が地面から突き出しているのですが、これについてあとからお話しします。

 地獄の中に入れられたおかげで有名になった人物のなかに、パオロとフランチェスカがいます。パオロとフランチェスカのエピソードは、「地獄篇」第5歌で語られます。位置的には、古代ローマの人たちがいた辺獄のすぐ下ですからかなり上のほうです。ここには不倫とか淫乱の罪を犯した人、恋のために自分の身、または国を滅ぼした人たちがいます。クレオパトラとか、セミラミスとか、ディドとか。ディドというのは、ウェルギリウスの『アエネーイス』に登場するカルタゴの女王ですね。ローマ建国に向かうアエネアスに捨てられてわが身を滅ぼします。同じ『アエネーイス』に出てくるパリスとかアキレウスとか、トロイ戦争で活躍した人たちもここにいます。それから、『トリスタンとイゾルデ』のトリスタン。こういう歴史的にも有名な人たちにまざって、パオロとフランチェスカがいるわけです。ダンテがここで取り上げなければ、おそらく歴史に名前が残ることはなかったであろうカップルですね。

パオロとフランチェスカのエピソードにも、たくさんの挿絵があります。ふたりがここで、どんな罰を受けているかというと、絶え間なく風にピューピュー吹かれているんです。ただ、ふたり一緒に身を寄せ合って吹かれています。地獄に落ちても一緒にいられる、これはダンテからすると、もしかすると、とてもうらやましいことだったのかもしれません。ダンテはこの2人に自分の方から話しかけるんですけれども....、この絵の、ここにいるのがウェルギリウスですね。ここにいるのがダンテ、仰向けに寝ています...。実は寝ているわけではないんですけど、これは、またあとでお話しします。

 パオロとフランチェスカについては、『フランチェスカ・ダ・リミニ』というチャイコフスキーの曲もありますし、それから、イタリアの詩人ダンヌンツィオが戯曲を書いていますし、ザンドナーイというイタリア人の作曲家がオペラにしたりしています。造形芸術だけでなく、音楽家の創作意欲もかきたてたわけですね。

パオロとフランチェスカのエピソードを簡単にご紹介しておきます。フランチェスカは、恐らく、ダンテと同世代の女性です。1285年頃のことですが、フランチェスカというのは、ラヴェンナの領主の娘でした。政略結婚でリミニのジョヴァンニ・マラテスタという人と結婚させられることになるんですけれども、このジョヴァンニというのがものすごい醜男で凶暴な人だった、そこで、結婚の申し込みのお使いには弟のパオロがやって来ます。これ、よくある話ですよね。本人ではなくて代わりに弟が来る、弟のパオロはハンサムだったわけです。フランチェスカさんは、結婚相手は当然パオロさんだと思っていたのに、相手は似ても似つかぬ醜男だった。そこで、夫のジョヴァンニが外出している間に、弟のパオロと浮気してしまうわけです。そこに不意打ちでジョヴァンニが戻ってきて、現場を取り押さえられて、その場で殺されてしまったという、そういうエピソードです。

この挿絵は19世紀の版画家ギュスターヴ・ドレのものですけれども、各時代のいろいろな人が絵にしています。こちらは、先ほどもありましたウィリアム・ブレイクの挿絵です。こちらはブレイクの弟子のフラクスマンという人のものですが、ここでも、ダンテが寝ていますね。どういうことかと言うと、これ、実は、ダンテがフランチェスカの話を聞いて気の毒に思うあまり、卒倒してしまったのです。ここでドバッと仰向けに倒れてしまっているのです。いかめしい顔をしているけれど、ダンテさん、けっこう人間味がありますよね。しかし、まだ冥界の旅は始まったばかりなのに、こんなところで倒れてしまって、この後どうするかと言いますと、ウェルギリウスがダンテを抱いて次の場所に連れていってくれるんです。ヴェルギリウスさん、とても優しいです。

それにしてもダンテはなぜ、ここまでこの2人に同情してしまったのでしょう。まずひとつには、ふたりが懺悔する暇もなく殺されてしまった、ということ。それから、フランチェスカが、こんなことになったいきさつを語る、その語り方が、ダンテには衝撃的だったのです。「ちょうどその時、私どもは『アーサー王伝説』を読んでおりました」。『アーサー王伝説』というのは、円卓の騎士ランスロットと王女ギネヴィアの物語。これも不倫の物語ですね。この2人がガレオットという人物に導かれてあいびきをしていたという、そういう話を読んでいました、と語ります。「私共はランスロットがどうして相手にほだされたか、その物語を読んでおりました。読書の途中、何度か私どもの視線が絡み合い……」といった語りです。「本を書いた人はガレオット、ガレオットというのは恋の仲立ちの代名詞として使われますけれども、ガリオットです。その日、私どもはもう先を読みませんでした」、こういう語りをするわけです。こうやって書物の登場人物に自分たちを重ねるという、これは、非常に優れた表現力ですね。そして、愛をこのように語る、というのは、ちょっと大雑把な言い方をしてしまいますが、ダンテの目指している清新体Dolce Stil Novoの、まさしくひとつの模範的な実例とも言えるものです。そういう、すぐれた言語のひとつの例として、フランチェスカの語りをとりあげているのです。フランチェスカの傍らにパオロがいますが、パオロの方は、フランチェスカが語っているあいだ、ただ、さめざめと泣いているだけなんですね。イニシアティブをとっているのはフランチェスカです。

ダンテはこの話を、フィレンツェを追放されたあと、流浪の生活をしているうちに、恐らくラヴェンナで聞いたのだろうと思われます。そして、話そのものを「気の毒だなあ」と思っていた。そこで、作者としてのダンテがフランチェスカにこのように語らせて、ここまで教養も備えた優れた女性の存在を、世に残そうとしたのですね。ついでに、登場人物としてのダンテが、感動のあまり卒倒までしてしまった、それくらいインパクトのあることで、ここに、ダンテの目指した詩的言語のひとつの例が現れているのです。

それから、先程、脚が穴から出ている絵がありました。これは「地獄篇」第19歌、少し見にくいかもしれませんが、バッチョ・バルディーニという人の15世紀の銅板画です。ここには聖職者でありながら聖職売買をした人たちが入れられています。穴に頭を突っ込んで、脚だけ外に出ていて、この足の先が火でボーボーと炎で燃えているのですね。そのボーボー燃えている脚をバタバタとバタつかせているという場面です。これは地獄のかなり下のほうですけれども、こういう罰を受けている人たちのもとをダンテとヴェルギリウスが訪れています。

その次も同じ場面で、ギュスターヴ・ドレのものです。ドレは、『神曲』の全ての場面に版画を残しているのですけれども、ここで今、ダンテが話しかけているのは、ローマ教皇ニコラウス三世です。1300年のこの時点ではもう亡くなっていますが、在任中、金銭的なものへの執着がものすごく大きかったことを、ダンテは、言葉をきわめて激しく糾弾します。

そして、恨みに思っている教皇ボニファティウス八世に対しては、ダンテはどうするか、ということですけれども....、今、ダンテがこの旅をしているのは1300年です。ボニファティウス八世が亡くなるのは1303年なので、この時はまだ地獄には来ていないんですね。まだ現世にいるんです。けれど「ここにはやがてボニファティウスが入ることになっている」と、このニコラウス三世にそう言わせている、それで恨みを晴らしているのです。ボニファティウス八世は、経済発展を遂げているフィレンツェに干渉して、フィレンツェの自治を脅かしてフランスに接近した。この後ほどなくして、教皇庁がアヴィニョンに移されますけれども、その下地をつくるようなことをやった人物である。本当にけしからん。しかも、自分を追放して放浪の目にあわせたということもあって、恨みのある人は、こうやって地獄に入れてしまったり、まだ生きている人でも、これから入れようとしているわけですね。

さて、逆さの脚にこだわるようですが、いろいろな人が絵にしています。こちらは、先程のウィリアム・ブレイクですけれども、これは、穴のなかの頭の方までかなりよく見えますね。ダリは、こうやってただ脚だけがにょきにょき出た図柄にしています。絵になるのでしょうかね、この場面は。

それから、ダンテがこだわったテーマをもうひとつ、挿絵からご紹介しておきます。親しかった人を仲違いさせた者、これが、やはり地獄のかなり下のほうに入れられています。この図は、マホメット、ムハンマドですね。イスラム教を創唱して教会分裂を起こさせた、という罪です。ダンテはあくまで、キリスト教徒としての立場で世界を見ているわけですから、キリスト教以外のものはすべて悪、ということになります。ひとつにまとまっていたものを分裂させた、これをかなり重い罪としたその裏には、当時分裂抗争に明け暮れていたフィレンツェの実情を憂うるダンテの気持が隠されているのでしょう。

ドレの版画に描かれた、ここにいるこれがマホメットです。上半身、胸のところがパカッとこういうふうに割れて、傷が開いています。親しかったものを仲違いさせた罰として、自分の体がこんなふうにパカッと引き裂かれてしまっています。地獄の人たちは、還道をぐるぐる回りながら歩いているわけですけれども、還道を一周するうちに、この傷、治るんですね。傷口がもとにもどるんですけれど、もういちどグルッとひと回りしてくると、ここに鬼がいて、この鬼にまたシュパーッと胸を切られてしまう。これを永遠に繰り返すという、そういう罰を受けているんです。けっこう痛そうですね。

それから、同じところにこんな人もいます。ベルトラン・ド・ボルン。12世紀のフランスの人ですけれども、イギリス国王ヘンリー二世の王子を「国王に反逆しなさい」と唆した、とされる人物です。親しかった者を仲違いさせた、その罰として、頭がこんなふうに胴体から取れてしまっています。で、その取れた自分の頭を提灯のように掲げて持って歩いている。これはギュスターヴ・ドレの版画です。こちらはダリですね。

そして、地獄の一番下に行きますと、悪魔大王のルチーフェロがいます。口が3つあって、それぞれの口で男の人をかみ砕いています。かみ砕かれているのは裏切り者で、真ん中がユダです。イエス・キリストを裏切ったユダ。それから、あとのふたりはカエサルを裏切ったブルータスとカシウスです。この地獄の底は、氷漬けになっているんですけれども、ここで3人をバリバリ噛み砕いている悪魔の足が、先ほど見ましたとおり、煉獄のほうに突き抜けているわけです。かなりユーモラスな、といっては語弊があるかもしれませんが、笑えちゃうような絵も多いですね。中に入れられている人たちは、それは大変だろうとは思うんですけれども。

これはボッティチェッリによる地獄の断面図です。ボッティチェッリも、ロレンツォ・ディ・ピエトロという、メディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコの甥に当たる人の依頼で、『神曲』の挿絵を描いています。ほとんどが羊皮紙にセピア色のインクで描いたペン画なのですが、この地獄の断面図には、かなりたくさんの色が使われています。ほかの挿絵も、パワーポイントの中に入れたかったのですけれど、色が薄くて、なかなかうまく出ませんでした。これまで見てきた人物が、それぞれどのあたりにいるか、と言いますと、まず、ウェルギリウスなどがいるところはこのあたり、一番上の方です。ここが地上で、ここが辺獄です。そのすぐ下のこのあたりで、先ほどのパオロとフランチェスカといった、、不倫とか恋に狂った人たちが、風にピュービューと吹き飛ばされているわけです。とちゅうのこのあたりには、詐欺師とか強盗ですとかいろいろな人がいて、一番下のここの部分は、悪の濠マレボルジャmalebolgiaと呼ばれるところで、罪の重い人たちが入れられています。聖職売買のローマ教皇はここの上から3番目あたりですね、この辺にいるんです。それから、マホメットはここの9番目の濠、このあたりですね。かなり下のほうにいます。



さて、ジャンニ・スキッキですけれど、皆さん、彼はどの辺にいると思われますか? どのあたりでしょうね....。すごく可愛そうなんですよ、ジャンニ・スキッキがいるのは、こんなところなんです。聖職売買の教皇やマホメットよりも、もっと下...その下には空腹のあまり自分の子どもを食べたことになっているウゴリーノ伯とか、そういう人はいるんですけど、そのすぐ下はもう悪魔大王、という、こんなところなのです。オペラであんなにたのしませてくれた、娘思いの機転のきくお父さん。娘のしあわせな結婚を考えて、鼻もちならない貴族から財産を奪った、というだけなのに、なんでこんな下にいるんでしょう。不思議ではありませんか?ジャンニ・スキッキがいるのは、「地獄篇」の第30歌、マレボルジャ、悪の濠のなかでも、一番下のところになんです。

では、ここの人たちがどういう罰を受けているかというと、みんな病気にかかっています。罪は、贋造によって他人を騙した罪、そういう罪をおかした人たち、ファルサーリfalsariたちが病に苦しんでいるのです 。

まずは贋金をつくった人たち、錬金術師ですね。当時、フィレンツェは経済が発展してきていたということがあって、錬金術師が贋金を作る、ということが随分横行していたらしいです。贋のお金を作る罪を犯した人。それから次に、贋の人間を作る罪をおかした人。ほかの人になり変わった、他人になりすまして人を欺いた、ジャンニ・スキッキの罪はまさにこれにあたるわけで、それで、こんなところに入れられてしまったのです。それからもうひとつ、言葉をつくる罪を犯した人。二枚舌で他人を騙した罪です。これにあたる罪人として、ギリシアのシノンが登場します。トロイア戦争の時に、トロイア人を騙して木馬を城内に入れた、その中にギリシア人の兵士たちが潜んでいたという、「トロイの木馬」のエピソードの、トロイアの人たちを騙したシノンです。

ジャンニ・スキッキと同じ罪を犯した人として、もう一人、ミュラという女性がいて、同じところに入れられています。ミュラというのはキプロスの王女ですけれども、この人はお父さん、つまりキプロスの王様ですが、自分の父親が好きになってしまって、別の女性に化けて寝床に入ったという、そういう人です。ジャンニ・スキッキにしても、ミュラさんにしても、「えー、それだけでなんでここまで深い地獄に?」と思いますよね。そして、みんな病気になっています。アレッツォの贋金づくりグリッフォリーノと、シエナのカポッキオが、疥癬を病んでいます。ジャンニ・スキッキとミュラ、このふたりは頭をおかされている。頭が狂って狂気に侵されているんですね。ギリシアのシノンは熱病におかされているし、もう一人の贋金づくり、ブレッシャのアダモという人が水腫病にかかって、お腹が膨らんでしまう病気になっています。

正気を失ったジャンニ・スキッキとミュラの2人は、頭がおかしくなって何をしているかといいますと、人を見つけると追いかけていってガブっと凶暴にかぶりつくという、なんだかとてもおかしな罰を受けています。この絵もウィリアム・ブレイクですけれども、ここでかぶりついているのがジャンニ・スキッキですね。

お配りしたA4の資料に「地獄篇」第30歌のイタリア語本文と、それから日本語訳も載せておきましたが、ともかく卑しい、そしてぶざまであるということが強調されて描かれています。およそ人間とは思えない姿です。日本語訳を読んでみます。

「たしかにテーバイやトロイアの女も、猛り狂って獣や人間の身体を傷つけたが、ここまで残忍ではなかった。わたしが見た蒼ざめた裸のふたりの亡者ほどには」 テーバイの女というのは、テーバイのアタマスとイノー夫妻の奥さんの方です。オウィディウスの『変身物語』で取り上げられているエピソードですが、復讐の女神の怒りに触れて、旦那のアタマスの方がまず頭がおかしくなって、妻のイノーは子どもを抱えて逃げまどうんですが、最終的にその子どもを岩にぶつけて死なせてしまうという狂気を見せます。それから、トロイアの女というのはヘカベです。自分の息子も娘も両方とも横死してしまったために気がふれます。あの2人も確かに狂っていたけれども、これから私が見るこの2人ほどにはひどい狂い方ではなかった、と言っています。この2人というのが、ジャンニ・スキッキとミュラですが、この2人は「まるで豚小屋から解き放たれた豚のように、噛みつきながら突っ走っていた」この姿を想像すると、およそ品格とは無縁ですね。「ひとりがカポッキオに追いついた」これがジャンニ・スキッキです。「首にかぶりつくなり、そのまま引きずったので、地面の硬い石で腹が削り取られた。難を逃れたアレッツォの男」、これは今ダンテを案内している錬金術師グリッフォリーノです、「震えながら私に言った。『あの狂った悪魔みたいな奴はジャンニ・スキッキだ。あんなふうに人に噛み付きながら凶暴に走り回る』」。アレッツォの男に2行にわたってジャンニ・スキッキの説明をさせています。

そのあと、「『ああ』とわたしは言った」。これがダンテのセリフですけれども、この「ああ」、すごく気のない返答なんです。この部分は、私の知る限り、ロベルト・ベニーニは残念ながら朗誦をしてないと思いますが、ほかのCDなどの朗読を聞きますと、「ははーっ、なるほど」みたいにすごく驚いているわけではないんですね。「あ、そう」、みたいにすごく冷たいんです。「『あ、そう』、とわたしは言った」、ダンテがジャンニ・スキッキに寄せる関心は、それだけなんです。で、「もうひとりがお前の背中に歯を立てないといいがな」と話題を変えています。「もうひとり」というのはミュラのことです。「ああ」と気のない応答をしただけで、ダンテの関心は早くもミュラのほうに向かっています。

ダンテがジャンニ・スキッキのことにほとんど興味を示さないので、グリッフォリーノは、40行目あたりで「ほかの女に化けて父親と罪を犯しにやってきた」とミュラの話をしたあと、41行目では聞かれもしないのに、ふたたびジャンニの話題にもどしています。「あっちへ行ったもうひとりのやつも同じようなものだ。あいつは家畜の女王」、これ、ラバのことです、「家畜の女王を自分のものにしたいばかりに、ブオーゾ・ドナーティになりすまして遺言し、遺言書を法に適うものにしやがった」というふうに3行にわたる説明をしています。ここのセリフは、オペラのなかで、ジャンニが、遺言偽造のアイディアを披露するところにほとんどそのまま使われていました。

それにしても、ジャンニに対する登場人物ダンテの態度は、ものすごく素っ気ないですね。ジャンニ・スキッキのことなど話題にしたくもない、とでも言わんばかり。フランチェスカ・ダ・リミニの前では同情のあまり卒倒までしてしまったのに、雲泥の差ですね。記述はこれだけ、たった5行です。つまり、登場人物としてのダンテも「ああ」の一言だけでとても冷たいですが、作者としてのダンテもジャンニ・スキッキはひどく冷淡に扱っています。このていどの扱いですか?と、ちょっと拍子抜けしてしまいます。

それから、この罰。なんとも滑稽ですよね。頭が狂って、人を見つけると追いかけていってかぶりつく....。正気を失っているわけだから、本人にはそんなに自覚はないのかもしれませんね。聖職売買したばかりに、穴に突っ込まれて、ボーボー燃える脚をバタバタさせている、なんていうのは、かなり苦しそうだし、マホメットも、一周するたびにパカッと胸が切られてしまう、これも相当痛いのではないかと思うんですけど。ジャンニとミュラさんが置かれているこの状況は、どういうものなのか...本人たちはどう感じているのでしょう。この点について、ダンテ学者によっては『神曲』のなかでもきわめてコミカルな部分であると批評している人もいます。

写本の図版も入れておきました。小さくて見にくいですけれども、これがジャンニ・スキッキですね。それで、お腹の膨らんでいる、これは後から出てくるもうひとりの錬金術師のアダモさんです。そしてこれがきっとミュラさんです。こちらはドレの版画、特にかぶりついているというか、押さえつけているんですけれども、この場面もいろいろな人が絵にしています。

ともかくダンテのこのエピソードの扱いは、ご覧のとおり、ものすごく軽いです。このたった5行の記述からあのような楽しいオペラが出来上がった....、なんだか不思議ではありませんか。文学作品をもとにしてオペラを作る場合、ふつうは、膨大な作品を短くしていくものですよね。たとえば、ヴェルディでも、シェークスピアとか、シラーとかユゴーの作品からオペラを作っていますが、大抵おおはばに簡略化しています。それが、『ジャンニ・スキッキ』の場合は逆です。ダンテの、ほんの数行の記述からこのようなオペラをつくる。どこからそんなイマジネーションが、プッチーニに沸き起こったのか、それもちょっと謎です。

その謎を解き明かしてくれるものがあります。三部作を作ろうとして喜劇の内容を探していた時に、プッチーニ、というよりむしろ台本作者のフォルツァーノの目にとまったものがありました。それが、当時印刷出版された『神曲』で、ダンテと同時代の人による注がついた版です。ちょうどその頃初めて印刷された、14世紀の注解つきのものに、プッチーニたちは運よく出会った、というわけです。ジャンニ・スキッキのエピソードにも、複数の人が注をつけています。ひとつ、みなさんにお配りしているのは「アノニモ・フィオレンティーノ、名前を知られていないフィレンツェの人」のものです。この人の注は、単なる注というより、これだけでひとつの独立した物語としてよめるくらい面白いものです。注にこんなことまで書いちゃうの?っていう感じで、ナマの会話が直接話法で入ってまでいるし、生彩のある、とても生き生きとした描写になっています。

このほかにも、さまざまな人が、当時のゴシップネタであったジャンニ・スキッキのエピソードに注をつけていますが、そのなかには、ダンテの息子ヤコポ・ディ・ダンテもいます。リストにあげたのはイタリア語による注釈だけですけれども、他にも、当時の書き言葉はラテン語ですから、ラテン語による注もあるんです。つまり、イタリア語で書かれた『神曲』に、注はラテン語でついているという、そういう現象も起こったわけです。

プッチーニたちが目にしたと思われる版はボローニャで1866年に出版されたもので、サブタイトルとして「注は14世紀のもので、ピエトロ・ファンファーニの監修によって、今ここで、初めて印刷される」と書かれています。アノニモ・フィオレンティーノで見ていくと、必ずこの『ジャンニ・スキッキ』のエピソードに行きあたってしまうのですが、恐らくアノニモ・フィオレンティーノさんは、ほかのエビソードについてもいろいろな注をつけていたはずです。そして、この注については、ダンテ学者のミケーレ・バルビが論文を書いたりもしています。

みなさんにお配りした注の原文は、安直で申し訳ないのですけれど、サイトから取ったものです。「Vetrinetta di antiche novella 昔のノヴェッラ、物語の窓」というのに収められていて、ひとつの独立した物語として扱われています。少し長いですが、日本語にしたもののほうを読んでみます。

「ブオーゾ・ドナーティ氏は病に侵されもはや助かる見込みがないと悟って遺言をしようとした。しかし、どうやら彼には借金も相当ありそうだったので、息子のシモーネは遺言などすべきでないと言い張った」。ここでは息子となっていますが、息子だったら自然に財産は入ってくるはずなので、遺言偽造なんかする必要はないですよね。ただ、もしも、修道院に寄付するなどということなら、息子であっても何か手を打たないといけない、ということになりますけど。「遺言するとかしないとかの口論がこたえてブオーゾは息を引き取った」。これも、なんかおかしいですよね、笑えます。「ブオーゾが死んでしまったので、シモーネは遺骸を隠した」。この場面、オペラの中に再現されていました。「そして、ひょっとして元気だった間に遺言状を作ってしまっているのではないかと心配になった。まわりの人たちも、ブオーゾは遺言状を作っていると言っていたのだ。途方に暮れたシモーネは窮状をジャンニ・スキッキに訴え、助言を求めた」。このように言っていますから、ジャンニとシモーネは前からよく知っていた、こんなことを頼む仲ですから、おそらく友だちだった、ということがうかがえます。「ジャンニは声色やしぐさで、誰のものまねでもうまくこなす人物であったが、とりわけブオーゾ氏のことは生前よく知っていたので、彼のものまねはお手のものだった」。ブオーゾのことも前からよく知っていた、この辺がちょっとオペラと違います。「ジャンニはシモーネに言った。『公証人を呼んでこい。ブオーゾさんが遺言したがっているからって言うんだ。俺はブオーゾさんのベッドに入る。公証人のやつはベッドには近付けないようにするんだぞ。俺は顔をしっかりくるんで、ブオーゾさんのナイトキャップを被ろう。で、あんたのいいように遺言してやるよ』」。ここまでオペラとそのまま同じですね。そのあと一言。「もちろん、俺だって割前はほしいけどさ」と、一言加えています。

「ジャンニはベッドに入って病に苦しんでいる風を装った。そこで使った声色ときたら、まさにブオーゾそのものだ。かくして、彼は遺言の口述を始める。『サンタ・レパラータ教会の事業に」、サンタ・レパラータ、今のサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の前身がサンタ・レパラータ礼拝堂でした。「そこに20ソルド。フランシスコ会士に5リラ。聖教師たちに5リラを遺贈する」神に対する配慮もなされた。それにしてもわずかな額だが」、このあたりもオペラの遺言場面に反映していました。「シモーネには好都合だ。ジャンニはさらに遺言を続ける。『ジャンニ・スキッキに500フィオリーノを残す』。シモーネが“ブオーゾ”に、そんなこと遺言に加えることなんかないよ。ジャンニさんには、僕の裁量でそれなりの額をあげとくから』『シモーネ、わしの思い通りにさせてくれ。お前にはたっぷり残してやるんだ。それで十分満足いくはずだよ』。シモーネは怖くなって口をつぐんだ」。怖くなってというのは、オペラのように「バレたら大変なことになる」ということもありますが、「あまりに声がそっくりだったので怖くなった」という説明もあります。この注解に対する注、ということですね。「ブオーゾ、実はジャンニはさらに続ける。『それから、ジャンニ・スキッキにわしのラバを残す』これはブオーゾさんが所有していたもので、トスカーナで一番のラバだった。『あのさあ』と、シモーネ。「あの人、ラバなんかどうでもいいと思うよ。全然興味なかったもの』。『ジャンニ・スキッキが何をほしがっているかということは、お前よりわしのほうがよく知っているんだ』」。これもオペラに生きていましたね。「シモーネは腹は煮えくりかえるし、おちおちしてはいられない。でも、怖いので黙っていた」。オペラでも、誰も何も言えずにいましたね。「ジャンニ・スキッキはさらに続ける。『それから100フィオリーノをジャンニ・スキッキに残す。あいつに借金をしていたからな。そして、残りの財産を全て、残りはこれは全部シモーネに残してやろう。シモーネはこの相続手続きを15日以内に実行に移すべし。さもないと、遺産はことごとくサンタ・クローチェ教会のフランシスコ会士のものとなろう」。遺言口述が終わります。この場に居合わせた人物は、記述からするとジャンニ・スキッキとシモーネだけ、あとは公証人ひとりだけみたいですけれども、「居合わせた人たちは皆立ち去った」ということで、つまり、親族もその場に居合わせていた、ということですね。「ジャンニ・スキッキはベッドから這い出して、シモーネと一緒にブオーゾさんの遺体を元に戻して、彼は亡くなったと涙ながらに告げて歩いた」ということですから、このあと、シモーネとブオーゾが、オペラみたいに取っ組み合いの喧嘩をしたり、特に仲違いをしたといったことはないわけです。そういった細かい差異はありますけれども、これがオペラの元になった、というのは確かです。

そして、この注、名前も分からないアモニノ・フィオレンティーノによるこの注解は、ジャンニ・スキッキにかなり好意的、ジャンニに華を持たせていますよね。ジャンニのアイディアが光っています。それがそのままプッチーニのオペラにも生かされているわけですけれども、当時の人たちが、うわさとして聞いたことを、それぞれが各人聞いたように注として書いているわけですから、内容がすべて同じというわけではなく、いろいろなヴァリエーションがあります。今見たものですと、遺体を片付けて、ベッドに入って、自ら偽証するというアイディア、これは全てジャンニのものです。彼が全てのイニシアティブを取って、シモーネが最後に一杯食わされたというものですね。完全なジャンニの勝利です。そうかと思うと、ベッドに入って偽証しろ、というのはシモーネの指図だった。ものまねで偽証しろというのもシモーネのアイディアだった。それにとりあえず従っておいて、土壇場でジャンニがラバは自分のものにしてした、というもの。それから、もうひとつ、最初から最後まで全部シモーネの指示で、うまくやったらラバをお前にあげるからという約束まで最初からなされていた、そういうことですでに話がついていたというのもあります。ただ、これでは、ジャンニさんの面目が立たないですよね。ジャンニの才覚が発揮されることもなくて、気の毒です。

さて、このジャンニ・スキッキという人物。実在していたわけですが、どういう人物だったのでしょうか。オペラでは新興市民、どこの馬の骨かも分からない新参者、という設定でした。だからこそ、貴族をだますところが痛快なのですけれど.....。彼についての資料はあまりないのですけれど、どうやらカヴァルカンティ家に属する人だったようです。カヴァルカンティ家といえば、大銀行家の貴族です。仮に傍系であったとしても貴族には違いありません。ドナーティ家とカヴァルカンティ家というのは、わりといつも確執のある関係だったことは確かですけれども、ジャンニ本人はドナーティ家ともおそらく行き来があって、ものまねができるくらいにブオーゾをよく知っていた。当時の注解のなかには、シモーネと最初から友人だったとしているものもあります。今のアノニモ・フィオレンティーノのものでもそうですよね。こういうことですぐにジャンニに忠告を求めるくらいですから、前から親しい仲だったはずです。

もうひとつ分かっていることは、モンタベルティの戦いという1260年の対シエナの戦、これはシエナが勝った戦争ですが、この時の食料供給指揮官として彼の名前が残っているということ。ですから、社会的にもそれなりの地位にあった人、ということになります。それから年齢が、オペラでは50歳ということになっています。適齢期の娘のラウレッタがいるのでそれぐらいでないと辻褄が合わないですけれども、本当は、事件当時、もっと若かったはずです。

それから、脇の人物についてですが、シモーネ・ドナーティ、オペラではブオーゾのいとこで70歳ということになっていますけれども、実際にはジャンニとほぼ同世代だったはずです。このシモーネの息子が、フォレーゼ・ドナーティで、ダンテの友だち、詩の仲間でした。20世紀初めのダンテ学者であるミケーネ・バルビ、ジュゼッペ・ヴァンデッリは、共通して、「シモーネもジャンニも若さゆえのいたずら心なくしては、このような茶目っ気のある遺言偽造の方法は思いつかなかっただろう。そして、いわんやそれを実行に移そうなどとは思わなかったのではないだろうか。このときは2人とも、かなり若かったはずだ」と言っています。

このブオーゾ・ドナーティさんには、後継ぎとなる息子はいなかったようです。地獄篇第25歌にもう一人、泥棒として描かれているブオーゾ・ドナーティという人がいますが、同姓同名だけれど、別人とされています。

最後に、このエピソードからこういう楽しいオペラを創りあげるために、プッチーニとフォルツァーノは何をしたかということを、簡単にまとめておきたいと思います。

まず、登場人物の数を大幅に増やしました。悪企みの提案をしたのも、その結果まんまと一杯食わされたのもひとりのシモーネであったのが、オペラでは大勢の登場人物に分散して舞台を盛り上げました。大勢になったからこそ、親戚同士の間で、あわや遺産の奪い合いになるか、というドタバタ喜劇に欠かせない要素が取り入れられたわけです。

それから、大きく変わったのは、ジャンニ・スキッキの社会的な立場です。本当はカヴァルカンティ家に属するという身分を、格下げしました。貴族ではなくて、田舎から出てきた新参者ということにして、その新興市民が、フィレンツェの由緒ある家系の貴族に一杯食わせる。こういう構図があるからこそ、ドラマとして面白くなるわけです。しかも、ひたすらジャンニ・スキッキのアイディアと才覚に焦点を絞って、彼の頭の回転が、旧弊な貴族たちを完全に凌いでいることを前面に出しています。

さらに、ラウレッタとリヌッチョの恋愛をからませました。これはいかにもプッチーニらしいですね。若い女性が恋をするっていうことがないと、プッチーニのオペラにはなりませんから。 それでジャンニは、ただただ娘の幸せを願った「好いお父さん」ということになります。ですから、オペラで観るとなおのこと、このお父さんが、なぜ地獄のあんなに深いところに入れられてしまったのか、よけい不思議な感じがすます。

それから、ジャンニの懐に入る遺産。もとのエピソードでは、多分、ラバだけだったようです。ダンテはラバのことしか書いていません。アノニモ・フィオレンティーノの注では、そこに現金が加わりました。そして、オペラではさらにフィレンツェの家屋敷とシーニャの水車小屋(粉ひき場)が加わりました。この3つがあってはじめて、「繰り返し」による喜劇ならではの効果も生まれた、というわけです。

このスライド、サルバドール・ダリが描いたジャンニ・スキッキです。こちらがジャンニ・スキッキですね。カポッキョに噛みついています。あんな、ほんの数行、すごく短い記述でジャンニを冷たく扱ったダンテですけれども、彼があの5行を書いてくれていなかったら、ジャンニ・スキッキが歴史に名を残すことはなかったでしょう。こんな楽しいオペラにも、それからダリの描いたこういうジャンニ・スキッキにも、私たちは出会うことはできなかったわけです。ダンテに感謝!です。

これで、ほんとうに最後にしますけれど、もうひとつ、どうして地獄のこんな下の方にいれたの?という疑問は残ります。ダンテの『神曲』では、罪の重さはアリストテレスの倫理観に基づいて決定されています。それによると、とっさに犯してしまった罪というのは、殺人であろうが強盗であろうが、罪はもっともっと軽くなります。それに対して、悪知恵を使って策略をめぐらした結果の悪企み、というのが、ともかく重い罪になるようです。オペラのなかではハイライトとなっているあの、彼の奇抜なアイディアこそが、彼が地獄のこんなに底の方に入れられた元凶、というわけです。

それともう一つ、ダンテは「お金に汚ない」ということが許せなかったようです。ローマ教皇に対してもそういう姿勢でのぞんでいるわけですけれど、なぜ、金銭へのこだわりをそれほど忌避したか。どれくらい関係があるか分からないですけれども、これだけ知人を登場させた『神曲』のなかに、ダンテは、自分のお父さんとおじいさんのことは一言も言及していないんです。どうやら、おじいさんとお父さんは金貸し業をやっていたらしい。それが嫌だった。そして、このジャンニ・スキッキのエピソードも、もろにお金にまつわるものです。 実際の「ブオーゾ家遺言偽証事件」は、1280年よりも前に起こっているはずですけれども、1265年生まれの、当時まだ少年だったダンテは、この話をどこ

【司会】 白崎先生、どうもありがとうございました。神曲の中のわずか数行がこのオペラになるというのは本当に驚きですけれども。いかがでしょうか。どなたかご質問のある方、お受けしたいと。

【質問者1】 こんにちは。今日はどうもありがとうございました。一番、ダンテのことをお聞きしたいと思っていましたが、彼はすごい好き放題に書いてるなというのが私の感想です。詳細な記述がありますけれども、すごく残酷だったり、教皇の名前が出てきたり、実在の人物とかが出てくるじゃないですか。こんなこと書いて大丈夫だったんだろうかとすごく思ったんですけれども、その辺はいかがでしょうか。

【白崎】 当時の人たちがどういうふうに受けとめていたか、ということですね。どうなんでしょうね。地獄に落としてあんまりひどい扱いをしたから、生き残っている親族にダンテが襲われた、とか、教皇庁からクレームがついたっていうような話は、私の知るかぎりでは、ありません。今だったらタイヘンだったかもしれませんね。特にマホメットの扱いなんか。しかし、当時はダンテはもちろん、キリスト教だけが唯一絶対、という世界ですし、わりあい、そのまま受け入れられていたのではないでしょうか。ダンテに関するエピソードもいろいろありますけれど、彼が町を歩くと、「地獄に行ってきたから髭が燃えちゃったあの人が、あそこを歩いているよ」というようなことを、町のふつうの人たちが話題にするくらいに有名になっていたのをダンテ自身は喜んでいた、という話もあります。それにしても本当にもう好き放題に書いていますね。ただ、教皇がらみで言うと、発表されたときには、ボニファティウス八世はもう死んでしまっているし、あまり影響はなかったのかもしれませんね。

 【司会】 ほかにいかがでしょうか。 「私のお父さん」も、『眺めのよい部屋』に使われてすごく有名になりましたよね。あれは男性のほうが成り上がり者という、そういう設定でしたね、あの映画では。ですから、このオペラとは逆ですね。オペラだと、若い女性の恋人のほうが成り上がり者という設定ですけれどもね。

【質問者2】 白崎先生は、今、見せていただいたDVDは、ちょっと悪いことを知りながら歌っている「私のお父さん」だったんですが、私は可憐な可愛い「私のお父さん」しか聴いたことないんですよね。どちらのほうが先生はたくさんご覧になっていますか。

【白崎】 私も、そんなにたくさん観ているわけではないのですけれど、1982年、1983年ぐらいのスカラ座、ホアン・ボンスがジャンニ・スキッキをやって、チェチリア・ガズディアがラウレッタをやった、皆さんにお配りした資料にも写真がありますが、あのラウレッタはもう本当に可憐そのもので、切々とお父さんに訴えるタイプですけれど、最近の演出では、そうですね、私も3つ、4つくらいしか観ていませんが、どれも、どちらかというとワルっぽい感じです。でも、私はやはり、チェチリア・ガズディアのタイプのほうがいいのではないか、少なくともプッチーニが思い描いたラウレッタはそちらの方だと思いますが、恐らくああいう女性は今の世の中にはもういないということでしょうね。「私がうまく言えば、お父さん絶対その気になるから大丈夫よ」という感じで、演技をしながらひたむきに頼むふりをしている、という、このところ観たものは、みんなそうだったような気がします。ちょっと拍子抜けしてしまうんですけれど。私はやはり、本当に思い詰めているラウレッタのほうが、全体の雰囲気とのバランスとしてはいいのではないかなと、内心思っています。

 それから、ジャンニ・スキッキと親戚の人たちが悪企みしている場面には、ラウレッタだけいないんですよね。「ベランダに行って、小鳥にえさでもやっておいで」とか言われて、彼女だけは悪企みの仲間に入って。やはり、彼女だけはずっと清純でなくてはいけないという、それがプッチーニの意図だったろうと思ったりしています。

【司会】 はい、どうもありがとうございました。それでは、もう一度、白崎先生に拍手をお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)