古代ローマ時代のガラス

第372回 イタリア研究会 2011-05-30

古代ローマ時代のガラス

報告者:ガラス研究家 藤井 慈子


【橋都】

 みなさま今晩は。イタリア研究会運営委員長の橋都です.本日は第372回イタリア研究会例会にようこそおいで下さいました。本日は「古代ローマ時代のガラス」という演題名で藤井慈子さんにお話をお願いしてあります。皆さん正倉院にローマから伝わったといわれるガラスがあるというのは、よくご存じかと思いますけれども、ローマ時代にガラス器がどのように作られて、どのように流通してきたか、あるいは、それがどのような意味を持っていたかということについては、実はほんどと知識がないわけで、今日はそういう意味で大変楽しみにしております。

それでは、まず藤井慈子さんのご略歴をご紹介したいと思います。

 藤井さんは1971年のお生まれで、上智大学で史学の博士号を取得されております。その後、日本学術振興会の特別研究員、教皇庁初期キリスト教考古学研究所、イタリア政府奨学生ローマ第三大学に留学されました。現在はイタリアに在住で、ローマ時代のガラスの研究をしておられます。日本ガラス工芸会、国際ガラス史学会イタリア支部に所属しておらまして、『ガラスのなかの古代ローマ―三、四世紀工芸品の図像を読み解く』という著書がございます。これは2009年に春風社から出版されております。

 今日は古代ローマ時代のガラスということで、お話をお願いしたいと思います。それでは、藤井さんよろしくお願いします。



【藤井】

 皆様こんばんは、ただいまご紹介にあずかりました藤井慈子と申します。本日は、お足元の悪い中お越しいただきまして、誠にありがとうございます。また、このような歴史あるイタリア研究会にて、ローマ時代のガラスのお話をさせていただく機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。

 本日は、古代ローマ時代のガラスについてお話させていただきます。

私がローマ・ガラスを研究対象とし、勉強を始めるきっかけになりましたのは、ヴァチカン博物館の人気のない薄暗い小部屋に、一つだけポツンと置かれた机の中を覗いたことにあります。、そこには直径10センチほどの円盤型のガラスが20点ほど並び、よくみると当時のローマ人らしき夫婦の肖像や、剣闘士の姿、キリスト教の聖書の諸場面、二大使徒ペトロとパウロとおぼしき聖人の姿が金箔で描かれています。「これは一体何なんだろう」と思いましたものの、イタリアらしく、当時は何の解説もなく、これらの「金箔ガラス」の謎を解くべく古代ローマ史を専攻しながらローマ・ガラスを勉強してまいりました。

 ガラスにつきましては、日本では日本ガラス工芸学会、世界各地のローマ・ガラス研究者とは3年に1度開かれる国際ガラス史学会を通して研究を続けております。


 さて、本日の古代ローマ時代のお話に戻りましょう。


 古代ローマは、水道や道路、公共娯楽施設など社会インフラの面で革命を起こしましたけれども、ガラスの分野でも一大革新をもたらしました。ガラスの容器は古く紀元前16世紀のメソポタミア、続く紀元前15世紀のエジプトにさかのぼりますが、これらのガラス容器は、宝石に順ずる貴石、ラピスラズリやトルコ石といった貴石の肌合いを真似た不透明なガラスで、化粧瓶などの用途に限られたものが主で、非常に高価なものでした。

 紀元前8世紀以降になりますと、新アッシリアやアケメネス朝ペルシャなどで透明なガラス容器もできましたが、やはり型を使用して作っていた物なので、大変手間のかかるものでいずれも特権階級だけが手にすることができる高価なものでした。

 このように、ローマ時代以前に作られたガラスというのは高価でした。それと言いますのも、現在私たちがガラス工房などに行きますと目にします、吹き竿の先に溶けたガラスを巻き取って息で吹いてふくらますという、吹き技法がまだ開発されていなかったからです。その吹き技法が紀元前1世紀半ば頃シリアで開発されまして、そのシリアを含む当時のヘレニズム時代のガラス製造の二大中心地であります、シリアーパレスチナ地域とエジプトが、紀元前1世紀末に相次いでローマ帝国の支配下に入ったために、ガラスのこの新しい吹き技法というものと、ローマ帝国という広大な市場が合わさりしまして、現在われわれがガラスに対して持っております「透明で、自由自在な形が作られ、さまざまな用途があって、しかもお手軽な値段で手に入る」といったイメージにいたるガラス製品が、ローマ帝政時代に誕生し、普及し定着したのです。




I. ガラスは東から:ローマ帝政以前のガラス


 まず、ローマ時代のガラスについてみる前に、今申し上げたような、紀元前16世紀から紀元前1世紀半ば頃までのガラスの事例をみてみましょう。紀元前16世紀のメソポタミア――現在のイラク――のほうで製造されましたガラス容器はこちらです。上の写真は、粉々になっていますけれども、テル・アル・リマー出土のモザイク・ガラスで、元は筒型の容器をしていました。下の写真はウル王墓出土のコア・ガラスです。コア・ガラスについては後で説明しますけれども、芯を用いて作ったガラス容器になります。続いてエジプトで登場した容器はこちら、トトメス三世の王銘が付いた紀元前15世紀頃の杯や、テル・エル・アマルナ出土の大博物館にある紀元前14世紀頃の魚型の容器です。ここで皆さんにぜひご注目いただきたいことは、ガラス容器が誕生したときには、ガラスは透明ではなかったということです。つまり、貴石の肌合いをまねた不透明な、しかも多色のガラスであったことです。

 続きまして、紀元前8世紀末になりますと、やはりメソポタミア、同じイラクの地域ですけれども、こちらの写真のようにニムルド出土のサルゴン二世の王銘付壷など、透明なガラスも登場します。また、紀元前5世紀頃のアケメネス朝ペルシアでも、この写真のようなパテラ杯といわれる、今までの口がすぼまった容器とは違って、口が大きく開いた平たい杯などが出てきます。

 それと並行して伝統的なコア技法の、しかし器形はギリシア陶器を真似た口のすぼまった化粧用品としての容器類も紀元前5世紀頃のロードス島で製造されておりますし、紀元前3世紀末頃には、エジプトのアレクサンドリアで製造されたといわれるゴールド・サンドイッチ碗がイタリアのカノーサなどから出土しています。こちらの碗は、薄くて見えにくいと思うのですが、ガラスとガラスの容器の間に細かな気の遠くなるような金箔装飾――アーカンサス模様や波の模様――がはさみこまれております。シリア―パレスチナ地域では、こちらのようなモザイク・ガラス碗が紀元前2世紀頃に製造されたといわれております。現在ではヴェネツィアチアのミッレフィオーリ・ガラスなどが有名ですけれども、その起源といえるものです。金太郎あめを思い浮かべてください。金太郎あめを切片にして、それを型に並べて溶かした容器とお考えください。例えば、こちらの写真のモザイク・ガラスは渦巻き型のガラスの切片を並べ、その合間にこの青や緑などの不透明なガラスを入れた物です。

 ここで、ローマ時代以前のガラス容器の成型方法をご紹介しておきましょう。主に、三つの成型方法がありました。

 一つ目はコア(芯)技法です。メソポタミアやエジプトに共通する技法ですけれども、容器の芯となる物をまず作らなければいけません。その芯の周りに溶けたガラスを巻きつけて、さらに他の色のついた溶けたガラスを紐状に巻きつけて、ケーキの装飾にもありますが、表面を上下に先の尖ったものでひっかいて、羽状紋などの模様を出し、把手や口の処理をして徐冷後、コア、つまり芯をかき出します。

 二つ目は型を使う鋳造やモザイク技法です。あらかじめ器の形を粘土で作っておきまして、それを内型、外型で型を取った後、間にガラスの粉やガラス片を入れて温めて溶かします。

 三つ目は熱垂下技法です。ヘレニズム時代の紀元前4世紀から紀元前1世紀の間に開発されたものです。円盤型のガラスとなるよう、このように様々な色ガラスの棒を切り並べてあらかじめ炉で熱しておきまして、お椀をひっくり返したような型の上にそれを乗せますと、重力と熱の作用で下に垂れて型を覆います。こちらも徐冷後型をかき出します。

 このように、ローマ時代以前のガラス容器の製造方法は、いずれも芯や型を必要としました。したがって、あらかじめガラス器の形やサイズを考えておかなければできませんでしたし、成型作業後も、型を取ったり磨いたりという作業が必要で、非常に時間と手間のかかるものでした。



II. ローマ時代のガラス製造


 それでは、ローマ時代のガラス製造はどうだったかと言いますと、まず吹き技法の開発の話にまいります前に、ローマ時代のガラスの原料はどういう物であったのかということで、ローマ・ガラスというと必ず引用されます、大プリニウスという1世紀の博物学者による「ガラスの発見譚」をみてみましょう。

 「こういう話がある。天然ソーダを商う何人かの商人たちの船がその浜に入ってきた。そして食事の用意をするために彼らは岸に沿って散らばった。しかし彼らの大鍋を支えるのに適当な石がすぐには見つからなかったので、彼らは積荷の中から取り出したソーダの塊の上にそれをのせた。このソーダの塊が熱せられ、その浜の砂と十分に混ざった時、ある見たことのない半透明な液が何本もの筋をなして流れ出た。そしてこれがガラスの起源だという(博物誌XXXVI.65.191)」 

 ここで重要なポイントは、この天然ソーダの塊と砂浜の砂という、この2点です。それが熱によって溶け、ガラスとなったというものです。先ほど見ていただきましたようにガラス容器の起源は紀元前16世紀のメソポタミアに遡りますので、フェニキア商人を指すと思われるこの話は、発見譚としては正確ではないと思うのですけれども、ローマ時代のガラス製造の材料――天然ソーダの塊と砂浜の砂――を的確に示しています。まず、砂浜の砂はガラスの主原料(珪砂/シリカ)で、現在でも1,710度以上であれば、それだけで溶けてガラス化するといわれています。しかし、古代ローマ時代の窯は、800度から1,000度辺りが限度だったので、その砂の融点を下げる材料が必要となり、アルカリ成分が加えられました。このアルカリ成分が、7世紀頃までの古代ガラスではソーダ、あるいはナトロンと呼ばれる天然鉱物(炭酸ソーダ)でした。ナトロンとソーダとは同義語です。なお、この砂の融点を下げるアルカリ成分、ナトロンを入れますと、水にもろくなるという特性があるために、ガラスを強化するために石灰(炭酸カルシウム)を入れなければいけないのですが、海岸の砂ですと、貝殻の中に石灰が含まれているので、結果的には先ほど大プリニウスが言ったように、海岸の砂と、ナトロン(ソーダ)と熱があれば、できるということになります。

 ここで、古代ローマ時代のガラス製造についてみてみましょう。一口にガラス製造といっても、実は二段階に分かれておりました。

 一段階目は、先程述べました砂とナトロンなどの原料を調合、精製、溶融、徐冷した後、細かく割って原料塊(カレット)を造る工程、すなわちガラスを原料化させる工程です。二段階目は原料塊を再度坩堝(るつぼ)などで溶かしてガラスの製品を作る工程です。一段階目の原料塊を作るためには、大規模な窯でより多くの熱量が必要でした。そして、原料の採取近くである人里離れた場所に工房、一次工房が設置されたと考えられています。一方で、製品を作るためには、すでにガラス化された原料塊を再度溶かす小型の窯があれば事足り、むしろ人々のニーズに応えられるような居住地近くに工房、二次工房がございました。なお、近年のガラス研究では考古化学によるガラスの成分分析が盛んですが、フランス各地に広がる二次工房址で採取された原料塊や製品の成分をフランスの考古化学研究チームが分析したところ、紀元前1世紀末から4世紀にかけて、驚くほどの均質性が認められたということです。

 この均質性については、古代ローマ時代に原料を調合して原料化させる一定のレシピが帝国中に広まっていったのか、あるいは、原料塊を作る工房というのが、一地域に限られたのかということが議論されていまして、現在のところフランス側の仮説である、エジプトのワディー・ナトゥルーンで採取されるナトロン(天然ソーダ)を持ち込んで、シリアーパレスチナ地域、おそらくシドン辺りの砂を使いながらガラスの原料が大規模に製造されたのではないかという説が支持されています。

 たとえば、こちらはシリアのベト・エリエゼルで発見された、17基のガラス原料溶融用の窯址です。正確な年代特定は難しいとのことですが、ローマ時代の原料製造の工程を復元する手がかりとされています。

 こちらがその遺跡写真ですが、四角いものが地表に並んでいるのがわかっていただけると思います。これらがガラス原料を入れて溶かした際に、窯の底の部分に残ったガラスの跡とお考えください。窯の復元図は、こちらになります。先ほど見ていただいた四角い部分が溶融室、砂とナトロンを入れるところですけれども、プールのように一段掘り下げてあります。大きさは4メートル×2メートルです。こちらは炊き出し口というのでしょうか、燃料を入れたところです。また、陶器の窯のように、――今は残っていませんが――おそらく熱を分散させないために、窯はヴォールト(屋根)で覆われていたと考えられています。17基全てが同じ南西の方向を向いているのですけれども、季節風などを利用して、何日間にもかけて燃料を燃やしてガラス原料を熱したと考えられています。

 原料を溶かし終わった後、1週間から10日位かけたのではないかと言われていますが、そのヴォールト部分を壊し、つるはしで、おそらく水をはったプールのように固まったガラスの原料塊を砕きました。実際にこの遺跡からこちらの写真のように砕かれたガラス片が見つかっています。また、このように砕かれた原料塊が実際に海を越えて旅した証拠が、難破船の積荷からも見つかっています。こちらの写真は私も実際目にした物ですけれども、クロアチアの沖合の難破船から引き上げられたガラス原料塊です。

 ガラスの原料魂というのは、船の底にバラスト――船を安定させる底荷――として積まれていたようです。写真の原料塊はほんの一部ですけれども、A4用紙の縦幅いっぱいの大きさで重さもかなりずっしりとしていました。ベト・エリエゼルの原料塊のかけらにしても、こちらのクロアチアの難破船からみつかった原料塊にしても、まるで海のような青い色をしておりますが、砂の中の含まれる不純物の鉄の発色によるものです。ローマ時代にはこういう青い色を消すために、アンチモンやマンガンなどが加えられることもありました。そこで、こうした青や青緑色を呈したものを、ローマ・ガラスでは自然発色のガラスといいます。ただし、成型されたガラス製品では、青や青緑色は極めて淡くほとんど透明に近くなります。膨らませる前の色のついた風船をご想像ください。息を吹き込む前の風船の色は濃いですが、膨らませば膨らませるほど風船の色は薄くなります。そういうかたちで、原料ではこのように濃い青ですが、製品の自然発色はほんのり青みを帯びた程度の透明となります。

 こちらはフランスのリヨンで見つかった1世紀後半頃の二次工房址です。この写真では2つの窯址が確認できますが、最初に使われていた窯の上に、少しずらして新しく窯が造られています。新しい方の窯址では、直径60センチ位の円形の燃焼室と、そのすぐ上にある方形の溶融室の痕跡が残っています。

 このような二次工房址というのは、イギリス、フランス、ドイツ、スペインなど14カ国で50カ所以上見つかっております。確認されているだけでもこれだけの数にのぼりますので、二次工房が帝国中にいかに広まったということが、ご想像いただけると思います。



III. イタリア半島へ:ガラス製造の伝播


 こちらをご覧ください。吹き技法による最古の小瓶の事例です。ただし、こちらは工房跡から出てきたものではございません。エルサレムの旧市街、ユダヤ地区の儀礼用浴槽に捨てられていたガラス屑です。この儀礼用浴槽に放棄されたガラス屑の年代が、大体紀元前50年といわれることで、吹き技法の最古の事例と考えられています。この小瓶は高さ8センチぐらいでして、これらは「共竿(ともざお)」とよばれるガラス製の管です。ガラスの管の先を溶かしまして、息をフッと吹きこんだものの、おそらく膨らませ方が悪かったために、この屑の中に入ったと思います。

 そこで、最初の吹き技法というのは、(現在のような金属製の竿に溶けたガラスを巻きつけるのではなく)共竿、ガラスの管の先を溶かして膨らませてつくられていたのです。日本では、もうすぐ夏ですが、(江戸)風鈴が今でも共竿で作られております。最古の吹き技法によるこの小瓶は、このような色に風化していますが、本来は琥珀色の素地に不透明白の(ガラス)紐装飾の二色だったと考えられています。この段階では小型の小さな物ばかりですけれども、この吹き技法がローマ帝国と出会って多いなる発展を遂げるわけです。

 先程、二次工房のお話で一気にフランスまで行ってしまいましたが、最初にヘレニズム時代のガラスの製造の中心地であったシリアーパレスチナ地域と、エジプトからガラス製造が伝わったのは、やはりイタリアでした。シリアのシドン系の職人は北イタリアのアクイレイア方面に、エジプトのアレクサンドリア系の職人は南イタリアのカンパーニア地方、プテオリ方面に伝わったというローマ・ガラス大家、故ドナルド・ハーデン氏の仮説が現在も受け入れらております。アクイレイアとプテオリは、今でこそどちらものどかなイタリアの一都市にすぎませんが、ローマ帝政初期は栄華を極めたイタリア有数の港でした。プテオリはティレニア海、アクィレイアはアドリア海に面しています。

 こちらの地図をご覧ください。こちらがプテオリで、この港を通してヴェスビオ山周辺の皆様よくご存じのポンペイやヘルクラネイムなどの諸都市に系のガラス職人や製品が伝わったと考えられています。現在はポンペイの方が有名ですが、当時のローマ人にとっては、このプテオリの方がはるかに有名で重要な港でした。たとえば、アレクサンドリアからは、ローマ人にとってパンの糧となる穀物輸送船が着き、東方の貿易の窓口として大きく発展しまして、初代の皇帝たちが別荘なども構えておりました。またこちら、プテオリの対岸にバイアエという地名がみられますが、後ほどご紹介する帝政後期のガラスに関連してくるのですけれど、温泉保養地としてにぎわった都市です。

 一方、シリア系のガラス職人や製品が流入したアクイレイアは、アドリア海に面した港とバルト海方面やガリア方面、オリエント方面に伸びる主要な道路とを結ぶ交通の要所にあたりました。このアクイレイアでは7カ所ほど、――古い発掘の記録なのでなかなか正確とはいかないのですが――スライドにございますように、ガラスの原料魂やるつぼに付着していたと思われるガラスの痕跡などが見つかっています。そして、アクイレイアには「センティア・セクンディア」という女性のガラス職人がいたことも、彼女が造ったガラスの瓶の底に浮彫されたラテン語の銘からわかっております。

 こちらの1世紀頃のテラコッタ製のランプをご覧ください。先ほど最古の吹きガラス成形による小瓶を見ていただいきましたが、この吹きガラス技法や吹きガラス職人が――私たちにとってはすっかり見慣れたものになっておりますが――当時のローマ人にとっていかに新奇で興味深いものであったかということを示すように、吹きガラス職人の姿が浮彫されています。こちらのランプですが、同型のものがアドリア海を挟みまして、北イタリアのフェラーラと北クロアチアのアッセリアの両方から出ております。

この図の何を持って吹きガラス職人とみなすかですが、向かって右側の人物をご覧ください。座って、長い竿状の物を手で持ち上げています。そして、その先は膨らんでおります。この長い竿が吹き竿、その先で膨らむものがガラスと考えられているわけです。この人物の反対側にも、何かを掲げ持ってしゃがんでいる人物がおりまして、この2人については親方と弟子であるとか、親方と作品をチェックする人だとか、いろいろな説があります。なお、この2人の間にありますのが窯です。2段構造が見られまして、燃料を入れる燃焼室と、るつぼの中にガラスの原料塊を入れて溶かした溶解室があって、その手前にマーバー台という、吹いたガラスを転がして形を整えるような台があります。

 ガラス製造に必要な徐冷室がどこにあったかはわかりません。ガラスというのは、いくら製品が上手にできましても、外側の温度と中側の温度が急激に変化してしまいますと、要するに外に放っておくと、急激に冷やしたような状況になってしまって、割れてしまうために、ある一定の温度に保たれた徐冷室というところに置いて、徐々に両方を冷やさないといけません。この図ではその徐冷室がないのですけれども、おそらくこういう裏側のどこか、温かい場所にあったのではないかと言われています。上には、アテニオンとトレッルスという職人の名前と思われるものも書いてあります。おそらく腕の立つ職人だったのでしょう。

 吹きガラス職人については、文献でも1世紀の有名なストア学者のセネカが驚きをもって語っています。「ポシドニウスにあるガラス職人を見せてやりたいと思いました。自分の息でガラスを吹いて、手ではいくら入念にしてもほとんど作れないような種々さまざまな形を作り出す職人です(『道徳書簡週』90.31)」。これが吹き技法のメリットでもあります。ローマ時代以前は型や芯など、職人があらかじめ全部きっちりと考えてから製造に入らなければ製品ができませんでしたけれども、例えば、「もう少し大きいのを作って」とお客さんが言ったら、もっと大きくしたり、「把手を付けて」と言われたらそれらを付け足すなど、お客さんのニーズにより応えられる、自由な形がすぐに作られたというメットです。

吹き技法のメリットにはもう一つ、型がいらないということがあります。このため、大量生産が可能となり値段が下がったのです。ストラボンという1世紀の地理学者の『地理誌』には、エジプトのアレクサンドリアで数々の色ガラスをガラス職人が駆使できたことを述べた後に、「そしてローマにおいてもまた、(ガラスの)色作りと製造の効率化双方において多くの発見がなされた」と述べられています。そして「たとえばガラス容器の場合、ガラスのビーカーや杯は、青銅貨1枚で買えるそうだ」と言っております(『地理誌』16.2.25)。

 ここで、今度は「型吹きガラス」についてみていきたいと存じます。これまで見ていただきました吹きガラスは、ガラス用語で宙吹き、あるいはフリーブローなどと言われる「型」を使用しない技法でした。この「宙吹き」技法が開発されて半世紀もたたないうちに、今度は型を使う「型吹きガラス」というものが開発されます。途中まで同じですけれども、このような割型を作って、吹き竿の先に巻きつけた溶けたガラスを割型の中に吹き込み製品を作ります。

 この型吹き技法のメリットというものは、宙吹きよりも非常に正確で複雑な模様の付いた容器の大量生産が可能であるということです。残念ながら、この型吹きで使われた型の遺物は見つかっていないので、その型が一体どういう材料であったのか、陶器であったのか、金属系の物だったのか、わからないですけれども、複雑な模様の大量生産が可能となりました。

 例えばこちらなど、1世紀の蓋付きの小箱(ピクシス)ですけれども、レリーフ模様がとても細かく美しく出ていますし、こちらなどはナツメやブドウなどをかたどった1世紀の香油瓶ですし、こちらはより大型な把手付きの瓶です。

 こちらをご覧ください。「エンニオン・カップ」と呼ばれる型吹きによる杯です。普通に吹いて膨らませた宙吹きのガラス容器に比べ、複雑で洗練された模様のついた、まるで金属器のようなシャープさを備えた容器です。右の写真はこの杯を普通に机に置いた状態、左の写真はカップをひっくり返したものです。こちらは蓋ではなくて、底の写真になります。

この「エンニオン・カップ」は、三つの割り型から作られています。底全体の円形の型、容器のこの正面半分と裏面半分の半筒状の型の三つです。私はこの底部分のリレーフ模様が美しくて、眺めてしまいます。こちらの把手部分は後で付けるわけです。通常ローマ時代の把手は、下から上に付けるのですけれども、こちらは上から下に付けています。

 この「エンニオン・カップ」は、型吹きガラスの最初期の事例で、1世紀半ばのものです。エンニオンとは、シリアのシドンに工房を構えていたユダヤ人かフェニキア人のガラス職人の名前と考えられています。北イタリアで彼の製品が多く発見されることから、先程あげましたアクイレイアにその後移住して製造したという説もあるのですが、エンニオンの他にもシドン系の職人たちが知られておりまして、それというのも彼らが自分の名前を製造したガラス器に銘文として入れているからなのですが、それらの銘文を見ますと彼らの中で祖国を離れた人は、「シドンの誰それ~」というように、自分の出身地を入れる傾向がみられるのに対し、エンニオンは何も書いていないため、シドンの工房にいたのではないかということです。

 こちら、両側に耳のように三角形が付けられた長方形の枠に入った銘文をご覧ください。この形は、当時のプラカードの形なのですが、同じ器の表と裏の二箇所にみられ、その中にギリシア語の銘文が刻まれています。表には、「ΕΝΝΙωΝΝ ΕΠΟΙΗCΕΝ (エンニオンが<これを>製造した)」とあり、裏には「ΜΝΗ<C>ΘΗ Ο ΑΓΟΡΑΖΝω (買った方が気に入りますように」」とあります。後者の銘は直訳しますと、「買った方が記憶しますように」となりますが、「気に入りますように」と意訳しました。先程のセンティア・セクンディアの銘が底部分という、普段は隠れる場所に刻まれていたのに対し、エンニオンの銘は一番人目につく場所に、まるでブランドのように誇らしげに掲げられています。このようにブランドのように自分の名前を容器の表にあたる部分に書く人はその後少なくなります。

 先ほど型吹きガラスについては、何も発祥などの証拠がないと申しましたけれども、ペトロニウスの『サテュリコン』などが伝える「割れないガラスの逸話」は、型吹きガラスの登場と何か関連があるようにも思われます。その話とはこうです。「その割ないガラスの大杯を作る職人がかつていた。彼は皇帝の謁見を許され、大杯を献上しようとしたとき床に落としてしまった。ところが、青銅品のように凹んだだけなので、職人は懐から金づちを取り出して凹みを直してしまった(『サテュリコン』50-51)」。まるでローマ時代にペット・ボトルかプラスチックがあったのではないかと思うような描写です。

 私の勝手な想像ですけれども、型吹きガラスの形を見ていますと、金属器を思わせるような形であるため、このような逸話が生まれたのではないでしょうか。現在では強化ガラスなど、銃弾で撃っても割れないガラスがありますけれども、本当にガラスが凹んだのかどうか、(この職人は、このようなガラスがあっては金もガラクタ同然になってしまうと考えた皇帝により首をはねられてしまうため)わかりません。

 なお、この『サテュリコン』の主人公は、ネロ帝を揶揄した被解放奴隷(トリマルキオ)で、その被解放奴隷は、「もしもガラスがそれほど壊れやすい物でなかったら、金よりも好ましい。ガラスはそのもろさゆえに安価である」ということも述べています。

 先ほどガラスは大量生産できるようになったから安いと申しましたけれども、確かにわれわれも物を買うとき、「壊れやすいかな」と思うと高い値段で買いたいと思いませんね。この主人公によれば、ガラスの安さはもろさゆえ、ということになります。



IV.「王宮から住居へ:日用品化したガラス」


 吹き技法の開発に伴う大量生産によって、そしてそのもろさゆえに安価であったガラス製品は、人々の生活に広く行きわたることになりました。そこで、若干大げさではありますが、「王宮から住居へ」と題しました。ここでは、その一例として、プテオリを通してガラス職人や製造が流入したと考えられるポンペイやヘルクラネウム(現エルコラーノ)など、ヴェスヴィオ山周辺諸都市から出てきたガラスについて見ていきたいと思います。

 ポンペイは皆様ご存じのとおり、79年ヴェスヴィオ山の噴火によって埋没した都市で、1万2,000ほどの人が住んでいたと言われております。ポンペイは「考古学の母」と言われ、考古学が学問的に発達するきっかけとなった遺跡でもあります。しかし、裏を返しますと、当初の発掘はまだ学術的ではなかったことになります。つまり1世紀当時のローマ時代の日常生活を知る1つの貴重な住居址であるにもかかわらず、ガラスが何点出たという正確な総数は不明でして、ヘルクラネウムなどの周辺諸都市の出土ガラスともあわさって、3,000点とも4,000点とも言われ、このような様々な器形が確認されております。たとえばこちらは、皿や瓶、把手付杯、壺などの卓上容器類がご覧いただけると思います。学術的なことを申し上げますと、それぞれの器形の下に書いてある番号は、年代特定が可能なローマ時代の遺跡から出土したガラスを体系的に器形分類したイシングス(Isings)による器形分類の番号です。

 2000年にフィレンツェで開催された「 Vitrum(ヴィトルム:ラテン語でガラスの意)」という展覧会がありました。その展覧会は近年のポンペイの発掘成果を踏まえた非常に素晴らしい展覧会だったのですが、その中の一つの説明によりますと、このポンペイの中でも第1区というのが保存状態の良い地区として注目されておりました。こちらが第1区になります。したがって、ガラスが当時の人々の生活にどれだけ普及していたのかを探るために適した地区となります。

 いろいろな家の事例がありますけれども、今回は、中でもガラスが多く出土した、「レスビアヌスの家」をとりあげてみました。この「レスビアヌスの家」の壁には、商品を積んだ船が描いてあることから、商人の家だったと考えられますけれども、この家から出土した器を素材別に見ますと、ガラス器は41点、青銅器は23点、磁器は9点、陶器は8点と、ガラスが出土した器の半数以上を占めていることがわかります。「レスビアヌスの家」は、銀器が1点も出土していないように、中流階級の家とおもわれますが、ガラス製品が半数以上を占めいている点は、ガラス製品が安価となり、人々の生活に広まったことを示す1例になるかと思います。

 それでは、これから人々の生活で用いられたガラスの香油瓶や食器、窓ガラスなど、用途別にポンペイ出土のガラス器を中心にご紹介をしていきたいと思います。

 まずは、香油瓶です。香油瓶というのは、紀元前16世紀のメソポタミアで最初にガラス器が製造された時から、その用途としてあったものです。ガラスは(金属とは異なり)「無臭」で(土器や陶器とは異なり)「外気を遮断する」であるため、香油瓶に適していました。

 こちらは「メナンドロスの家」から見つかった木箱で、中にはこのような瓶が4つ入っておりました。大きな箱のほうには9つの瓶が入っていたそうです。こちらのしずく形の小瓶は、まさに共竿の先を溶かして息をぷっと吹きこんだような形をしています。一方こちらは、計量用ではないかと言われている方形の片把手付瓶です。これらの瓶がこの木箱の中に入れられているのは、それらの素地が自然発色の淡青透明であるために、香りが光によって変質するのを防ぐためではないかと思います。

 こちらはナポリの博物館にあるといわれる壁画です。と申し上げながら、展示ではまだ見たことがありませんが、このしゃがんでいる女性にご注目ください。床に置いた木箱の蓋を開けて何かを選んでいます。もしかしたら先程みていただいたような香油瓶を取ろうとしていたのかもしれません。

 こちらは「ウェッティの家」のトリクリニウムの壁画にある、香油作りの一場面です。かわいい翼の生えたアモリーニたちが、香油作りからその販売にいたるまでの作業工程を行っているのですが、(メナンドロスの家から出土したような)ガラスの小瓶類が、秤を用いて香りをアモリーニが調合している手の中、机の上や開かれた棚の中にみられます。

 こちらは小瓶以外の特徴的な香油瓶の一例です。例えばこのような吊り金具の付いたアリュバロス型香油瓶は、公衆浴場に行く際に、男性が垢すり用のS字型のヘラと一緒に腰からぶら下げて持ち歩きました。また、これはハト型の美しい瓶で、製造途中に粉状や液状の香料が中に入れられて封じられたものです。ギリシアのロードス島で製造されたといわれ、中身を用いる際はくちばしや尾などの先をポキッと折って使ったようです。

続きまして卓上容器です。ガラスの卓上容器は、ローマ時代になって初めて登場したもので、最初期は陶器や金属器製など、先行する卓上容器の器形や装飾の模倣からスタートしました。こちらは水差しやコップ、こちらは「モドゥルス」ともよばれる、計量用だったともいわれるコップです。こちらは、両把手付きのアンフォラ型の壺、碗、お皿などです。これらはいずれも金属器や土器などを模造した物です。

 これらの卓上容器がどのように使われていたのかは、同じポンペイをはじめとするヴェスヴィオ山周辺諸都市で見つかった壁画や文献にみることができます。たとえばこちらはボスコレアーレ出土の壁画で、現在はメトロポリタン美術館に展示されています。先ほど見ていただいたようなガラス製の碗に果実が山盛りにされています。このように果実がいっぱいに盛られたガラス器描写は他にもあり、たとえば「ユリア・フェリックスの家」の壁画ではこのような杯も見られます。ただし、こうした脚付ゴブレットで、これだけ果実が入るような大型の物が見つかっていないために、ドイツ人研究者などには、これらの壁画にどこまで写実性があるか、疑問を呈する人もいます。、しかし一方で、1世紀の哲学者セネカが光の屈折に関して述べた箇所で、「果実はガラス器を通して見るとずっと大きく見える。あるいはずっと美しく見える」と果実の盛られたガラス器を例にあげておりまして、日ごろ彼がこうした場面を見慣れていたので例にあげたのだと思われます。

 ところでこのセネカは、ストア派の学者らしくローマ人の退廃ぶりを嘆く箇所でもガラスの食器を引用しています。「かつてのローマ人は海で泳ぐボラを見て美しいと思った。けれども、現在のローマ人たちは、ガラスの器の中で、青くなったり、赤くなったり死んでいく魚を見て楽しまないと、その魚が新鮮でないと思ってしまう」。

 こちらの壁画には赤い葡萄酒の入った水差し、またこちらの壁画には両手把手付スキュフォスが描かれています。器を半分満たす葡萄酒の美しい赤い色が、透明なガラスを通してみえます。

 こちらはリュトンと言われる宴会用の飲料杯で、この先の部分に穴が開いているのですけれども、飲まないときは親指で押さえて、飲むときは親指を放しつつ高く掲げて飛び出す液体を口で受けます。私のレバノン人の友人は、ペット・ボトルに口をつけないで、この絵のようにペット・ボトルをつき放しながら飲むので、私はそのレバノン人を見るたびにリュトンのことを思い出してしまいます。これは意外に難しいので、気が向かれた方は試してみてください。

 こちらは、ヘルクラネウムの「サムニウム人の家」の壁画です。杯の中でも四側面に凹みの付いたタイプで、実際に出土品にも同様な事例がございます。

 こちらは、「ユリウス・ポリビュウスの家」出土の瓶や壷類です。先ほどは型吹きガラスの中でも非常に精巧な模様が付いた物を見ていただきましたが、より簡素な、4枚の木の板で囲った空間に溶けたガラスを吹き込んだと思われる、このような簡素なタイプもあります。これらのタイプは計量器や貯蔵容器と考えられています。

 こちらはヘルクラネウムの「鹿の家」出土の壁画です。透明な水が透明な壺に入った光の反射の美しい絵です。こちらは私の大好きな絵で、本日のパワーポイントの表紙にも使いました。ちなみにずっと気になっていたのがこちらの実です。何だと思われますか。緑色ですね。これは桃なのだそうです。この桃ですけれども、紀元前1世紀にイタリアに入ってきたそうです。今でもイタリア語で桃の木のことをペスコ(pesco)と言いますけれども、それは古代ギリシア・ローマ人が本当は中国原産である桃をペルシア原産と考え、「ペルシアの」という形容詞と同じ、Persicusと称していたのがなまったのだそうです。したがってガラスと桃が組み合わされたこの絵は、どちらも「東方」から入ってきたものを描いた当時のローマ人にとっては異国情緒あふれるオリエンタルな絵とも考えられます。ちなみに桃がまだ熟していない緑色なのは何故かと思いましたら、古代ローマの1世紀の美食家、アピキウスのレシピに行き当たりました。そのレシピによりますと、まだ熟れていない桃を炒めて、オリーブ油をかけて食べるというのです。今では誰もそのようにして桃を食べませんが、それで緑色なのだと思います。この桃の木は、ポンペイの家々でちょうど手ごろな庭木になって、さらに実もたくさん付けるので、ポンペイで好まれて一気に広まったそうです。

 続きましては窓ガラスです。窓ガラスもローマ時代になって初めて登場しました。こちらポンペイの出土品で、大きさは51センチ×45.5センチです。こちらはヘルクラネウムの女性用浴場の天窓部分に残る円形の窓ガラスです。また、ヘルクラネウム郊外の浴場の窓ガラスについては、こちらのような復元図もみられます。51センチ×45.5センチのガラス板をこのように木枠にはめて、ちょうど障子のようなイメージですが、より大きな窓ガラスにしていたというものです。

 ここでまた、哲学者セネカを引用したいと思います。セネカは、この窓ガラスの登場がローマ人のメンタリティまでも変えたこと伝えてくれる貴重な人物です。「古代ローマ人は浴室が暗くなければ温かいと感じなかった。しかし今のローマ人は――1世紀ごろのローマ人は――陽光がさんさんと降り注ぐ窓の大きい浴室でなければ、それは人間用ではなくて、油虫用だと考えるようになった」というのです。

 お風呂好きの我々日本人としては、広々と外の景色を眺めながら、特に男性の方は何も気にすることなく、明るい日を浴びながらリラックスしてお湯につかられると思いますが、古代ローマ人もそうだったのかと想像が膨らんでしまいます。

 この窓ガラスについては、時代はずっと下って4世紀になってしまいますが、その価格表が残っています。ディオクレティアヌス帝の「最高価格勅令」というものがございまして、インフレを抑えるために同皇帝が301年世に発布した物価の最高価格表です。こちらのガラスの価格表をご覧ください。ユダヤ製とアレクサンドリア製のそれぞれのガラスの原料価格、窓ガラスの価格、そして容器の価格が示されています。ただしユダヤ製というのは、4世紀にはユダヤという国は存在していませんので、おそらくガラスの品質を示す言葉だろうと考えられています。アレクサンドリア製は高級な品質の良いガラスを、ユダヤ製は先ほど述べました自然発色の青みがかった、あるいは緑がかった安価なガラスを指すものと思われます。実際こちらの原料価格には、ユダヤ製には「緑がかった」という文言が加えられています。

 窓ガラスについては、最上級の窓ガラスは1リブラ(重さの単位で327.45g)8デナリウス、中級の窓ガラスは1リブラ6デナリウスとあります。この勅令の一覧で同じ8デナリウスの物価のものを例えば肉類を見ますと、牛肉や羊の肉と同じ程度の値段でした。

また、スライドには載せておりませんが、ローマ出土の4世紀ごろの墓碑には、窓ガラス職人の墓碑がございます。墓碑には、格子状の窓ガラスの図が添えてあります。

 今みていただいたような光を通す透明な窓ガラスとは対象的に、こちらのような美しい色とりどりのモザイクも発展しました。こちらはテッセラとよばれる立方体の色ガラスを壁に1つ1つ埋め込んでいったもので、こちらが「金の腕輪の家のニンフェウム(泉水堂)」を飾っていたモザイクです。水に触れる場所、壁面のごく限られた場所に美しい色ガラスが用いられています。水に濡れてキラキラと光ってさらに色鮮やかになっていたと思います。このような小規模なモザイクが後に、皆様もご存じだと思いますが、ラヴェンナのモザイクなど6世紀頃の美しい教会のアプシスを飾るモザイクへとさらに発展していきます。1世紀初頭にはまだ貝殻や小石など、いろいろな物と混ぜて使われておりましたが、ラヴェンナのモザイクでは金箔をはさんだテッセラも含め、ガラス製のモザイクとなっています。

 これまで人々の生活にかかわるガラスを見てまいりましたが、ガラスは葬礼でも使用されました。こちらは骨壷です。高さ30センチくらいの大きなものです。仏様でもないのに骨が透けて見える透明なガラスに入れるのはどうしたものかと思っていましたが、インターネットで調べていたら、「ガラス製のプチ骨壷あります」というページにいきつき、びっくりいたしました。日本人はガラスを骨壷に選ばないと思っていましたが、自分のメンタリティが普通ではないのかもしれません。これらの骨壷は、大きさの割には、――何個も抱えて運んで調査したことがありますが――割と軽いものです。中に骨と一緒にひしゃげた香油瓶などが入っていることもありまして、いい香りがするように香油瓶と一緒に遺体を焼いたものと思われます。

 今まで見ていただきましたのは、ポンペイなどで見つかったガラス製品の中でも人々の生活に広まった日用品でしたけれども、ここで、ガラスの伝統ともいえる、貴石の石肌を真似た高級ななガラスも出土しておりますので、そちらもご紹介したい存じます。

 こちらは通称「Vaso Blu(ヴァーゾ・ブルー:青い壺の意)」と言われるもので、高さ31.7センチの壷です。濃紺のガラスの素地の上に、不透明な白いガラスを巻きつけまして、その後白い部分だけを削って浮彫装飾にしています。ヘレニズム時代やローマ時代には縞めのう製のカメオが好まれまして、そうしたカメオを模した「カメオ・ガラス」です。ここにブドウの蔓などものびていますが、バッカス的な、あるいはディオニュソス的な、お酒の神様のかかわる図像が施されています。

 また、色にこだわるイタリア人の起源と申しますか、ヴェネツィアのレース・ガラスの起源ともなったガラス容器が「リボン・ガラス」ともいわれるこちらです。この表面だけ見てみますと、青と黄色と白のガラス棒を用いたように見えますが、この青い層の下に不透明な白い層があって、さらにその下に青い層があります。透明な青い色ガラスの層に不透明な白ガラスの層を挟み込むことによって、青さが際立たせているのです。このような三層ガラス以外に、透明なガラス棒に不透明な白ガラス紐を溶着し捻った、レース・ガラスの起源となる、無色透明と不透明な色ガラスの捻り棒なども組み合わされています。

 こちらはゴールド・バンド・ガラスといいまして、やはり三層構造を持つガラスですけれども、ゴールド・バンドと呼ばれますのは、このように透明と透明のガラスの間に金箔を挟んだ層があるからです。岡山に松島巌先生というコア技法や、古代の技法を駆使される作家さんがいらっしゃいますが、その方にうかがったところ、このように金箔が動かないで(散らばらないで)金箔を貼ったような効果を出すのは難しいそうです。ですから、なかなか古代の技法まで到達することは難しいということです。こうした技法で作られた物は、瓶や細長い壺、蓋付きの小箱などがあります。この写真のゴールド・バンド杯は風化もなく、あまりに保存状態が良い美しいものでしたので、ヘルクラネウム出土のものをご紹介しました。

 なお、ポンペイでは見つかっていませんが、エナメル彩色が施された容器も1世紀からイタリア半島でみられます。こちらはイタリアから遠いアフガニスタン、カブールから出土した1世紀末から2世紀の179点のローマ・ガラスの1つです。「ベグラム秘宝」と呼ばれているものです。この写真はエナメル彩色杯(三角錐形のゴブレット)の断片、しかも一部のアップですけれども、より図像をはっきり見ていただくために、こちらを選んびました。防具をつけた剣闘士の姿が描かれています。こちらは古い写真しか残っていませんが、古代世界の七不思議の一つのアレクサンドリアの灯台が高浮彫された杯です。

 こちらがアレクサンドリアの灯台です。頂上に彫像が立っていて、四隅に配されていたトリトンのかわりか、イルカらしき彫像もその足元にみられます。この杯の裏側には、こちらのように海を行き交う船が高浮き彫りされています。こちらはおそらくエジプトのアレクサンドリア製と考えられていますけれども、こちらのガラスは、おそらくマンガンやアンチモンなどで不純物による発色が消された、水晶のような無色透明に近いガラスだと思われます。



V. 帝国各地で花咲くガラス:3~4世紀の展開


 これまで帝政初期のガラスについて見ていただいきました。帝政初期の1~2世紀というのは、パクス・ロマーナという平和な時代でしたが、帝政後期の3~4世紀は皇帝が乱立した軍人皇帝時代を経て帝国が四分統治され、またキリスト教が台頭してその弾圧から承認にいたる、政治・宗教共に落ち着かない、波乱にみちた時代でした。しかし、こちらで「帝国各地で花咲くガラス」と題しましたように、、ガラスを見ますとそうでもありません。こちらにローマ帝国の版図と、その各地で花開いたガラス工芸の事例を載せました。

 ガラス製造の長い伝統を有するシリア―パレスチナ地域、あるいはエジプトでは、こうした三角錐型の容器――ここには青い斑点状の模様が付けられていますけれども――が出土し、杯あるいはランプとして使われたといわれています。ランプとして使われた場合には、シャンデリアのように天井から吊るされた金属製の輪の中に、このように円筒形の穴が複数開いておりまして、そこにアイスクリームのコーンを入れるようなかたちでランプを挿入しました。これらが後に教会やモスクを照らすランプやモスク・ランプへと発展していくことになります。ガラス製のランプもまた、ローマ時代に初めて登場しますが、最初はこのような三角錐の形をしていました。

 こちらは二連瓶、あるいは四連瓶といわれるものでして、試験管のようなガラス管が折り曲げられて2つないし4つに連結されています。これらの中には「クフル」という、クレオパトラのアイラインを思い浮かべていただきたいと存じますが、黒いアイライン用の顔料が入っていました。シリア―パレスティナ地域では、紐状のガラスをを巻きつけたり、大量の把手をつけるのが好まれていまして、東地中海沿岸地方出土のガラスにはこのような紐状のガラス装飾が多くみられます。また、これらの瓶は写真では立っているようにみえますが、大体は支えがないと立たちません。おそらく吊るして使っていたのだと思われます。

 エジプトのカラニス遺跡は、ミイラのファイユーム肖像画でも有名なファイユーム地方にあり、ポンペイが1世紀のローマ・ガラスの器形分類にとっても大事な住居址であるように、カラニスは2世紀から5世紀にかけてのローマ・ガラスを体系的に分類するのに非常に重要な住居址です。今回は時間の都合上詳細は省きますが、カラニスからもこうしたランプ類が出ておりまして、そのためこのランプ類の年代も4世紀と特定できます。

一方で、こうした伝統的な東方のガラス製造地以外に、大きく西方に飛びまして、ドイツのケルン、ボンなどのラインラント地方、こちらで帝政後期に一気にガラスが花咲きます。こちらの写真などは多少切れておりますが、後ほどこちらについては全部スライドで見ていきます。

 ケルンも、こちらおそらくマルセーユを経由してアレクサンドリア系の職人が入ったと言われますが、1世紀後半にクラディウス帝の妻アグリッピナが、自分の出生地であったこのケルンを植民地に格上げしてほしいということで、コロニア・アグリッピナとなり、そのコロニアの名前の部分が残って、現在ケルンという名前になっています。

 ケルンは、先ほどのアクイレイアやプテオリと同じように交通の要所で、軍事的にローマ帝国を守る重要な拠点であったために発展しました。そのケルン周辺で、このような「蛇状文」付き水差しや貼付装飾付きの碗、透かし彫りの驚くほど精巧なケージ・カップや旋盤研磨でカットした杯、あるいは金箔ガラス、――ヘレニズムの金箔ガラスとは違うのですけれども――同様に金箔の装飾がサンドイッチされた事例が見つかっています。このような金箔ガラスはローマで主に見つかっております。

 そして、イタリアのプテオリ(現ポッツオーリ)に関しましては、ここを訪れた人たちのお土産物と思われるカット装飾付き瓶がございます。

こちらの西方世界に展開した帝政後期のガラスについて、最後の30分間でその美しさを堪能していただきたいと思います。こちらは「蛇状紋付水差し」と言われるものです。溶けたガラスを紐状に器にうねうねと貼り付け、さらに上からコテのようなもので押さえつけて凸凹の模様をつけます。これが蛇のような模様だということで、この名前がついております。シリア―パレスチナ地域でも同様な装飾が施されたガラス器がみられまして、どちらが本家かというのが議論されています。ケルンの物には、器本体と装飾紐の色が違うタイプ、ウルトラマンのようなヘルメット型やサンダル型をした瓶など、非常に遊び心に富んだタイプも見つかっております。

 一方こちらは、ケージ・カップと呼ばれる杯で、のぞきこんでしまいたくなるような精巧な透かし彫りが施されています。こちら上部には銘文がギリシア語でめぐっておりまして、「ΠΙΕ ΖΗΣΑΙΣ ΚΑΛΩΣ ΑΕΙ(飲みなさい。どうかあなたが永遠に幸福に生きながらえますように!)」とあります。この「ピエ・ゼーゼス(飲みなさい、どうかあなたが生きながらえますように!)」という最初の2語は、本来はギリシア語ですが、ラテン語表記でもみられ、3~4世紀を通じてよくガラス器に用いられるモットー(標語)となりました。

 この杯の製造方法については、研究当初は、この本体の部分と透かし彫りの部分を別々に作って、後で溶接したのではないかと考えられたのですが、そうではなくて、丸彫りがされていることが判明しました。例えばこちらの事例は、無色透明な素地に緑と黄色と赤色のガラスを巻いた物をあらかじめ用意して、それをひたすら削って作ったということになります。この杯の用途については「飲みなさい」という銘文があることから、飲料用のカップだとする人や、輪に嵌めて、吊るしてランプにしたとか、いろいろな説があります。

 ちなみにこの事例は、石棺に納められた男の人の墓から、頭の傍にサイコロと一緒に置かれた状態見つかっております。まさか博打のようにサイコロを入れて「半か丁か」と裏返したとは思えないですけれども、、、ついサイコロとこういう形の物を見て、すみません、、。

 こちらは、ガラスであらかじめ造られた魚貝類のパーツが貼り付けられた碗です。底の部分には貝、胴部には魚が付いております。私のような素人が見ますと、どうしても粘土細工の感覚で考えてしまいますが、実際にはガラスというのは、温度差の違う物はくっつかないで割れてしまいますので、ここに貼り付けられている全てのパーツをある程度温めながら、この容器がまだ温かいうちに容器を回転させながらバンバン貼り付けていかなければいけないということで、複数の職人で一気に、しかし非常に、――しかもこれは(二連瓶などと異なり)ちゃんと立ちます――入念に作られた物だと思います。

 この魚という物を単なる海のモチーフと考えることもできますが、この時代が4世紀ということを鑑みますと、キリスト教的な香りもしてきます。と申しますのも、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」の頭文字をとって並べますと、「イクトゥス(ΙΧΘΥς)」というギリシア語で魚の隠し文字になることから、キリスト教徒にとって魚はシンボル的な物になっていました。また(キリスト教が公認される以前、迫害を受けていた時には)官憲に「おまえはキリスト教徒なのか」と言われたら、「いや、これは単なる魚の模様です」という言い逃れもできたということで、この4世紀辺りになりますと、魚という図像はいろいろと解釈できると思います。

 こちらのカット装飾付杯は、はっきりとキリスト教的になってまいります。かなり目をこらさないとカットは薄くて見えません。そこで、こちらの描き起こし図をご覧ください、聖書場面がカットされていることがわかります。一番わかりやすいものが、こちらです。これは木です。木の周りにヘビが巻きついています。裸の男性と裸の女性も見られます。そしてこちらには右手をあげて祝福するキリストと思しき人物が立っています。つまり、アダムとエバの図になります。続いてこちらは三角形に盛り上がった岩山物から水が流れ落ちております。この傍らにいるのがモーゼで岩を打っています。砂漠でイスラエルの民の渇きを癒した図です。ただしこの図はそのままの構図でモーゼがキリストに置き換えられる場合もあるので、この人物はキリストの可能性もあります。最後、こちらにはラザロの復活の場面です。

 これらのケルンのガラスの数々は、ケルン大聖堂のすぐ横にある、ローマ・ゲルマン博物館に展示されています。ローマ・ガラス好きには卒倒しそうな博物館で、3日間通って3日間ともガードマンに張り付かれた思い出がございます。世界最大級のローマ・ガラスの所蔵を誇る博物館なのですが、イタリアに慣れた後にドイツに行きますと、ドイツ人のピッシリとした展示方法、まるで図鑑のようにローマ・ガラスを堪能できる展示に圧倒されます。まず博物館に入りますと(有名なディオニュソスのモザイク舗床もありますが)ローマ・ガラスの並んだ低い展示ケースがあります。そこでまず私はキャアキャアと写真をとるわけです。しかし、写真を撮り終えて次の展示室を見上げた瞬間、壁一面、床から天井まで2~4世紀のガラスがビッシリと、倉庫にある物をそのまま全部貼り付けたような、虫の標本などを思い浮かべていただければいいのですけれども、ローマ・ガラスの標本のような壁面があるのです。写真を撮りたくても上のほうは絶対届かないという壁面です。これだけでも卒倒しそうですが、それだけでは済みませんで、さらに進みますと、先ほどのケージ・カップや蛇状文装飾など、3~4世紀のローマ・ガラスの逸品が所狭しと高さ3段の4~5つ並ぶ展示ケースに収められています。しかしこれらの展示ケースは、中庭に面したところにございまして、写真を撮られる方はおわかりになると思いますが、ガラス張りの中庭の横に、さらにガラス張りのケースの中にガラスが入っているので大変です。ここからは私だけの世界になってしまいますが、朝から晩まで博物館にいて、反射をしない、光の合う時間を探してうろうろとしないといけないのです。さらに、本当はいけないのかもしれませんが、ショー・ウィンドーにカメラをくっ付けて撮るとガラスはブレないで撮れるもので、ショー・ウィンドーにかなり張り付た状態でうろつくわけです。ですから、ガードマンにはこの人は頭がおかしいと思われたのですが、本当に素晴らしい展示ですので、ケルンに行かれた際には、大聖堂をご覧になったら、すぐ横にありますので行ってみてください。

 こちらのカット・ガラス瓶をご覧ください。エジプトのアレクサンドリアのガラス職人が1世紀頃、最初に流入したという港湾都市プテオリの都市景観をカット装飾した4世紀頃の瓶ですが、、、これをご覧になっても皆さん何もおわかりになりませんね。ローマ・ガラスのカット装飾とは、こういう見落としがちなものです。しかもこれは学芸員がうっかり落としてしまって、粉々に割れてしまったために、所蔵先のプラハの国立博物館からドイツのマインツの博物館に移され、修復され、さらに精巧に――後ほどお見せしますが――カット装飾が描きおこされました。まず、こちらが現在のプテオリ(現ポッツォリ)を上から俯瞰的に写した写真です。こちらはローマ時代、大埠頭のあった場所ですが、現在ではローマ時代の橋桁の遺構ごとコンクリートに埋めこまれてしまっています。この埠頭には、かつてアレクサンドリアからの穀物輸送船が着いて、セネカが当時の人々が船を出迎えるためにこの埠頭に並んだことを書いています。

 また、この辺りにイタリアで3番目に大きい4万人ほど収容するという円形闘技場が残っていまして、地下構造もよく残っています。非常に情緒あふれる素敵な場所で、夏に行きますと地下はヒンヤリしていて気持ちがいいです。また、プテオリには、浴場址があったり、市場址(通称セラピス神殿)があったりと、公共施設の遺跡が残っています。初代皇帝アウグストゥス帝が都市設計をしたという都市です。そうした都市の4世紀の景観がこの瓶の外側に、このようにビッシリと刻まれているわけです。こちらが先程のマインツ博物館による描きおこし図です。私も何度も描き直してみたことがあるのですけれども死にそうになるほどビッシリと図と銘文が刻まれています。こちらの向かって右半分が海に面した景観です、これは中々ピカソ的な絵でして、様々な角度からみた建物が同じ画面に組み込まれています。たとえば、ここの部分は大埠頭を描いたもので、先ほどの写真でみました海に突き出した埠頭です。これが桟橋部分で、それは真横から見た図となっています。その桟橋の上には記念建造物が建ち並んでいまして、海のトリトンたちがラッパを吹いている彫像が乗った凱旋門や、海神ネプテゥヌスが四頭立ての海馬を御している彫像をいただく凱旋門もございます。この二本の柱の間にありますPILAE(ピラエ)というラテン語銘文は、「柱」という意味です。こちらのPELAGV(ペラグ)というのは、ラテン語表記されておりますがギリシア語で「海」のことです。そして、ここに肝心のPVTIOLI(プテオリ)と、都市名が書いてあります。そのためにこれはプテオリを描いた図だと特定されています。

 そもそもプテオリというのは、1~2世紀に港湾都市として繁栄しましたが、(2世紀初頭にトラヤヌス帝によるオスティア港の建設により)4世紀には港としては廃れていたのではないか、と言われていたのですけれども、こうした瓶、プテオリを刻んだタイプ、その対岸にある温泉保養地のバイアを刻んだタイプがあわせて12点ほど、スペインやポルトガル、イギリス、イタリア、北アフリカなど、イタリアより西を中心に見つかっていることから、お土産物として使われたのではないか、と言われています。

 一方、こちらの左半分は陸上部分にあたります。一際大きく描かれているこちらは神殿図ですが、神殿に限ってその建物を特定する銘文がなく、あるいはあまりに謎めいた銘文で、神性は特定できておりません。冥界や豊穣の神、セラピス神とみなす研究者もいますが、セラピス神特有の事物がみられないことから、私はそれはどうかということを、太陽神ではないかということを、入口に置いてございます拙本などで、頭を抱えながら論じています。こちらは円形闘技場です。AMPITHEATと銘文があるため、明確です。先ほどプテオリにはイタリアで3番目に大きいと申しました円形闘技場です。またその向かって左にあるこちらは、今では一部しか残っていませんが、競技場STADIVです。ローマのナボーナ広場にかつて位置したドミティアヌスの競技場と同じぐらい大きな競技場でありました。こちらの劇場THEATRVは、遺跡は特定されてはいません。これらの建物と建物の間には列柱廊が連なっています。

 プテオリに行かれるとおわかりになりますが、扇状地帯になっているので、この風景はおそらく海から入ってきた人が目にする、海辺から山の上まで幾重にも連なる建物の様子を描いたものと思われます。

 一方、プテオリの対岸、バイアエの温泉保養地の景観が刻まれたタイプもございます。、こちらは現在のバイア港です。この地域はカンピ・フレグレイ(灼熱の平野)という火山地帯にあたり、世界でも唯一隆起と沈下を周期的に繰り返す地域です。そのためにローマ時代の沿岸地域はこの辺りに埋まっていまして、しかもここにこういう工場を建ててしまったので破壊されていますが、この後背地には三つの浴場跡などが残っています。

たとえば、こちらのドーム型の屋根を持つ浴場(通称メリクリウス神殿)などは何の変哲もないように思われるかもしれませんが、ローマのパンテオンよりも古い、イタリアで最古のドーム型の天井を持つ建物、浴場です。

 こちらはカキの養殖で有名なルクリヌス湖で、保養に来たローマ人たちは、美しい風景を見ながらおいしいカキで舌鼓を打ました。こちらのアウェルヌス湖は、ルクリヌス湖の後ろにありますが、ギリシア時代にはこのアウェルヌス湖の上空を鳥が飛ぶと毒ガスで死んで墜落したということで、冥界の入口とも考えられていました。非常に神話的な地でもあります。この湖も、この地域は火山地帯でクレーターが多いのですが、クレーターから湖になったところです。

 こちらの瓶をご覧ください。こちらには、「バイアエ」の都市名の銘文はありませんが、同様な図像が付いた瓶に「バイアエBAIA」と示されていることから、バイアエの景観を描いたグループとしております。ここにはカキの養殖場が刻まれています。木の柵が組んであって、カキが紐で吊るされています。OSTRIARIAという銘は、まさに「カキの養殖場」という意味です。このSTAGNVという銘文は、「スタグヌム」に水を貯めた場所という意味があるため様々な解釈が可能ですが、セネカがこのスタグヌムという言葉を温泉として使っていることから、この銘文が貼られた建物も温泉と解釈し、温泉保養地として有名な当時のバイアエの風景を描いたものと考えています。ちなみにこの瓶の中身ですが、プテオリの4世紀の碑文の中に、香油職人とガラス職人が一緒に住んでいたという坂の地区名がみられることから、香油が入っていたとも考えられます。しかし、「ANIMA FELIX VIVAS (幸いなる霊魂よ、生きよ!)」という銘文が図の上部に刻まれておりますように、病気の家族のために持ち帰った「効能のある水」だったのかもしれません。1世紀の大プリニウスがプテオリとバイアエの水は非常に「効能のある水」だと書いていますけれども、火山地帯の鉱泉水を持って帰った可能性もあるかもしれません。

 最後に、私が冒頭で述べました金箔ガラス――あと15分ほど頑張っていただきたいのですけれども――についてお話したいと思います。

 こちらケルン出土の物です。こちらは聖書場面がいくつかに要素に分割されて描かれているタイプです。こちらは飲み込まれるヨナ、吐き出されるヨナ、横たわるヨナ、イサクの犠牲、あるいは燃え盛る炉の中の3人の若者など、キリスト教的な聖書の場面が描いてあります。こちらのタイプは、金箔ガラスの中でも小型の円盤型が大きな碗にちりばめられた珍しいケースで、バックのガラスが濃青や濃緑というのは、ケルン製の特徴ではないかとも考えられています。

 こちらはローマの出土品です。直径7.7、8センチぐらいですか、ローマの(パンフィロの)カタコンベから見つかった物で、現在も発見場所にそのまま保存されています。聖女アグネスという、12~13歳で、ディオクレティアヌス帝の最後の大迫害でおそらく殉教したであろう少女の図です。ここにアグネスAGNNESとラテン語の銘文がふられてあります。頭の後ろには光背もありますし、まるで皇女のような、そういう高貴な方のような宝石類を付けて、オランスという東方起源の祈りの姿勢(両手を広げ、手のひらを天に向けた姿勢)をしながら立っています。頭の両側に置かれたこちらは巻物です。こちらの巻物は聖書を意味するといわれています。この向かい合ったハトが殉教者をたたえる王冠をくわえている場合もあります。

 この金箔ガラスが見つかったローマのカタコンベというのは、ローマ市内の城壁外を放射状に延べる街道沿いに沿って建てられておりました。現在ユダヤ教のカタコンベ5つを含む50余りのカタコンベが確認されています。いったんは忘れられていたカタコンベですが、16世紀になって再発見され、現在にいたります。古代ローマでは、十二表法など古いきまりで、城壁外にしか埋葬できませんでした。

 3~4世紀になりますと、――先ほどポンペイ出土の骨壷を見ていただきましたけれども――火葬から土葬に変わります。そのためにより多くの土地が必要になりましたけれども、土地は現在と同じように高いので、地下はどうかということで、地下にこのようにアリの巣のように張り巡らされたカタコンベが造られるようになりました。それが可能であったのは、ローマの地質はトゥッフォという凝灰岩質で、掘るときには柔らかく、空気に触れると固くなるという性質があったからだそうです。このようなカタコンベは、拡張する際には下へ下へ掘り下げていったので、地上の建物とは反対に上の階ほど古く、下の階ほど新しい階になりました。その墓は3種類あり、通路の両側に人一人横たわれるくらいの穴が棚状に穿たれた墓「ロクルス」、ロクルスの上にさらにアーチ型の凹みを付けて、1人だけではなくて、2~3人の墓ともなるような「アルコソリウム」、そして廊下から一歩入った部屋の4面まるごと自分の家族や親族のために、将来的にも使えるような墓室「クビクルム」がありました。先ほどの金箔ガラスは、これら3つの中でも一番簡素なタイプのロクルス墓の、こういう漆喰の端に貼り付けられてみつかっています。

 こういったと言ってもおわかりにならないと思うので、当時の埋葬の様子をみてみましょう。まず遺体は亜麻布に包まれて、この棚状に穿たれた穴の1つに安置されます。その開口部を瓦けや――大理石は高価で中々使えませんでした――石板などで蓋をして、その周りを漆喰で埋めます(中には蓋がなく漆喰だけで塞がれた墓口もあります)。その漆喰部分が乾かないうちに、先ほどのような金箔ガラスや、あるいは貝、金属類、女性はくし、子どもは象牙製の人形などが張り付けられました。

 こちらの絵で見るとカタコンベの中は明るいですけれども、観光用に照明が設置された通路以外は本当にランプを持っていても真っ暗です。教皇庁立初期キリスト教考古学研究所におりましたときに、授業の一環でカタコンベに入りますが、ちょっと先頭から外れると、本当に迷子になりそうな恐ろしい経験をするのですけれども、そこでランプを向けたときに、光るものがあります。それらがガラスであったり、白い貝や象牙製品だったり、漆喰に貼り付けられた小物です。このような経験は、無数の墓が棚状に連なるカタコンベの中で、自分の両親なり、愛する人が眠る場所はどこか探すときの目印として、あるいは暗い中で悪い霊につかれないような護符として、金箔ガラスを含むこれらの小物類が漆喰に張り付けられたという説に説得力をあたえるものでした。

 それでは、最後にこれらの金箔ガラスについて、スライドでざっと見ていただきたいと存じます。こちらは金箔ガラスの中でも大型の船大工の図です。中央の人物の周囲で船造りの六工程の作業が行われています。こちらは三叉の鉾と刀を持った剣闘士の図です。こちらは大博物館にありまして、裏地が青であるので、ケルン製かもしれないと思っている物です。カタコンベは初期キリスト教徒の物だとお考えの方もいらっしゃると思いますけれども、ユダヤ・キリスト教的なものというか、なかなかそこら辺になると難しいところですけれども、キリスト教徒だけではなく、異教徒やユダヤ教徒も一緒に埋葬されていたことがわかってきております。たとえば、こちらなどはユダヤ教の図像です。二段に分かれた画面の上段には、扉の開いた聖壇とその中に入った巻物がみえます。巻物の渦巻きの断面が正面を向いているわけですが、6つみえます。また聖檀の両側には、それを守るように獅子がはべっています。こちらの下段にはメノーラという七枝の燭台が2本飾られています。そして、ショーファーと言われる子羊の角やエトログと言われる柑橘類、棕櫚の葉など、当時のユダヤ教徒の祝祭時に用いられた物が描かれております。

 こちらは、旧約聖書の「イサクの犠牲」図です。子どもがなかなか授からなかったアブラハムが神に祈ったところ、子どもを授かりました。しかし、その喜びもつかの間、神様から自分の愛するやっと願って得たわが子を犠牲にせよ、という命が下り、妻にも内緒で神に従ってわが子をほふろうとした瞬間に、神様に呼びとめられて、振り下ろす刀を止めるという劇的瞬間の、そういう場面が描かれています。

 こちらは、「ラザロの復活」です。キリストがラザロに「起きなさい」と言うと、起き上ったという奇跡の場面です。初期キリスト教では、キリストによる奇跡の場面が好まれました。最後に、先ほど見ていただいたオランス姿勢のアグネスもそうですけれども、ペテロとパウロなど、初期のキリスト教の聖人たちの図が見られます。ただ、このペテロとパウロ、ここにPAVLVS、PETRVSと名札がなければ、どちらがどちらであるのかわからないほど、そっくりです。というよりも同じ顔です。最初期の聖人画というのは、ペトロは鍵を持っているとか、パウロは少し頭がはげあがっているとか、そういう区別はございませんで、年老いた哲学者的な老人か、あるいは永遠の若さを象徴するような若者として描かれていまして、徐々に描き分けが始まるのですが、描き分けが間違ってなされている事例もございます。

 私はこの聖人たちについて調べましたけれども、160点近くあるうちの70点近くはペテロとパウロのペアで、20点近くは先ほど見ていただいた聖女アグネスで、そして15点ほどはシクスティス2世という、ローマ司教(教皇)であり殉教者で、また謎めいた聖人ティモテウスとペアで頻出する4名が当時特に崇敬を集めた聖人であることがわかりました。

 こうした金箔ガラスは、ヴァチカン博物館で、今は小部屋にひっそりと飾られているのではなくて、堂々と詳しい解説付きで並んでいます。ただし、ちょうど皆さんがシスティーナ礼拝堂を見終わって、素晴らしい物を見て、ヴァチカン博物館は広いし疲れたと、帰り道の出口に向かって一斉に歩みを速める、あの廊下の最後の最後のほうにありますので、しかも、陽光がさんさんと差し込んでガラス・ケースの反射でよく目立たないところに入っていますので――金箔はバックを黒地にすると際立ちますが、白っぽい地の上に置かれているので――目立ちません。

 ですから、ヴァチカン博物館の出口近くになったら、藤井さんがかわいそうなぐらいとりつかれている金箔ガラスはどこだろうと、探していただければ、今20点どころではなくて、100点近くが並んでいますので、見ていただけたらと存じます。さすがの金箔ガラス好きの私もカメラの充電池を2回、3回替えても途切れるぐらいで、自分自身ヘトヘトになってしまうところです。ヴァチカンは出口側から入れないので、広大なヴァチカン博物館を見終わってクタクタになりながら見て回るのですけれども、皆さまは全てでなくて結構ですから何点か、「ああ、これか」とで見ていただけたらと幸いに存じます。

 すいません、いろいろと脱線しながらですが、以上、駆け足ではございましたが、紀元前1世紀末から4世紀にかけて、広大なローマ帝国で製造流通したガラスについて、その材料、工房、職人、技法、用法、製品について見てまいりましたが、おわかりいただきましたでしょうか。

 冒頭で申し上げました現在のガラスのイメージである、「透明で、自由自在な形になり、さまざまな用途があり、安価である」というものは、紀元前50年ごろに、おそらくシリアで開発されたであろう吹き技法と、ローマ帝国という広大な市場が出会い、ガラスの持つさまざまな特質が引き出されたことによって生まれました。吹き技法とローマ帝国の出逢いによって、貴石の代用品として誕生したガラスが、ガラス本来の特性である光を通す「透過性」、金属とは異なる「無臭性」、空気を通さない「密閉性」などを生かした日用品として食器や飲料容器、貯蔵容器、そして、窓ガラス、ランプなどへと発展し、今日にいたるまでほとんど変わらぬ姿で存在しています。

 ローマ・ガラスの世界は広く、研究を始めたことを後悔するほど広く奥深いのですけれども、本講演ではその一部しかご紹介できませんでしたが、この機会にローマ・ガラスに少しでも興味を持っていただければ幸いでございます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)


 最後に、私が冒頭で述べました金箔ガラス――あと15分ほど頑張っていただきたいのですけれども――についてお話したいと思います。

 こちらケルン出土の物です。こちらは聖書場面がいくつかに分けられて描かれているタイプです。こちらは飲み込まれるヨナ、吐き出されるヨナ、横たわるヨナ、イサクの犠牲、あるいは3人のヘブライ人の若者など、キリスト教的な聖書の場面が描いてありますが、こうした事例はケルンでは2点と、1点ともう一つ断片と見つかっています。今のタイプは非常に金箔ガラスの中でも小型の珍しいケースで、後ろが青白というのは、ケルン製ではないかと考えられている小さな小型のタイプです。

 ローマからは直径7センチ、7.7、8センチぐらいですか、しかしこれは埋まった状態で、ローマのカタコンベから見つかった物ですけれども、12~13歳で亡くなったディオクレティアヌス帝という最後の迫害をした皇帝の下でおそらく殉教したであろう聖女アグネスの図で、ここにアグネスと書いてありまして、頭の後ろには光背もありますし、まるで皇女のような、お妃様とか、そういう高貴な方のような宝石で彩られた宝石類などを付けて、オランスという祈りの東方起源の祈りの姿勢をしながら立っています。

 こちらは巻物ですけれども、こちらの巻物は聖書を意味しますし、この向かい合ったハトが殉教者をたたえる王冠をくわえている場合もありますが、こうしたガラスもローマで見つかっております。

 ローマのカタコンベというのは、ローマ市内の城壁外を放射状に延べる街道沿いに沿って建てられたわけで、現在ユダヤ教のカタコンベ五つを含む50余りが確認されています。いったんは忘れられていた物が、16世紀になって新たに発見された物です。城壁内には当時は疫病などを防ぐためもありまして、十二表法など古いきまりで、城壁外にしか埋葬できませんでした。

 3~4世紀になりますと、――先ほどはポンペイで骨壷を見ていただきましたけれども――火葬をすることから土葬に変わります。そのためにより多くの土地が必要になりまけれども、土地は現在と同じように高いので、地下はどうかということで、地下にこのようにアリの巣のように張り巡らされたカタコンベが造られるわけです。

 それと言いますのも、ローマの地質はトゥーフォーという凝灰岩質で、掘るときには柔らかく、空気に触れると固くなるということから造られたそうです。掘り進めていきます上の階ほど古い階になりまして、下の階ほど新しい階になるという逆転です。単に通路の両側に人1人が入る分ぐらいの棚状の本棚のような穴が開いたものをロクルスと言いまして、それ以外にロクルスの上にさらにアーチ型の凹みが付いて、1人だけではなくて、2~3人の墓になるようなアルコソリウムと廊下から1歩入った部屋丸ごと4面自分の家族や親族のために、将来的にも使えるような墓室がありました。先ほどの金箔ガラスは、こうした一番中でも簡素なタイプの墓のこういうしっくいのところから出てきました。

 こういったと言ってもおわかりにならないと思うので、当時の埋葬週間としては、こうした遺体が麻布に包まれて、この穴の中に安置されます。これをかわらけや、大理石はなかなか使えないので、かわらけです。かわらけや石板などでふたをして、その周りをしっくいで固めます。しっくいだけの物などもありますけれども、そのしっくいの部分が乾かないうちに、先ほどのような金箔ガラスや、あるいは貝、金属類、女性はくし、子どもは象牙製の人形などが張り付けられていました。

 おそらく今絵で見ると明るいですけれども、教皇庁立のキリスト教考古学研究所にいたときに、演習事業で一つのカタコンベに入りますが、本当にランプを持っていてもすぐに真っ暗です。ちょっと先頭から外れると、本当に迷子になりそうな恐ろしい経験をするのですけれども、そこでランプを向けたときに、光るものがあります。

 あるようなたくさん棚のように遺体がある中で、自分の両親なり、愛する人が眠る場所はどこか探すときの目印として、あるいは暗い中で悪い霊につかれないような護符として張り付けられたのではないかと言われています。そういうものは私が最初に見た金箔ガラスの発見されたときの状態です。

 では、私がその当時見られた図像ということで、このような船大工の――今はざっと見ていただくだけで――図や、あるいは剣闘士の図です。こちらは大博物館にありまして、両方とも透明ではなくて、裏地が青であるので、ケルン製かもしれないと思っている物です。

 また、カタコンベは初期キリスト教徒の物だとお考えの方もいらっしゃると思いますけれども、ユダヤ・キリスト教的なものというか、なかなかそこら辺になると難しいところですけれども、キリスト教徒だけではなく、異教徒やユダヤ教徒も一緒に埋葬されていたことが徐々にわかってきております。

 こちらなどはユダヤ教の図像です。こちらは扉の開いた聖なる壇から巻物が入っております。巻物が押し込められているので、渦巻きのようなものがこの正面を向いているわけですが、それを守るように獅子がはべっていまして、こちらの下にはメノーラという7枝の燭台が飾られています。そして、ショーファーと言われる角やエトログと言われるレモンや、当時の彼らの祝祭時に用いられた物が描かれております。

 こちらは、旧約聖書のイサクの犠牲で、子どもがなかなか授からなかったアブラハムが神になったところ、子どもを授かった。しかし、その喜びもつかの間、神様から自分の愛するやっと願って得たわが子を犠牲にせよ、ということで、妻にも内緒で従って自分のわが子をほふろうとした瞬間に、神様に呼びとめられて、振り下ろす刀を止めるという、本当に感動の場面で、そういう場面が描かれています。

 こちらは、ラザロの復活です。キリストがラザロに「起きなさい」と言うと、起き上ったというキリストの場面です。最後に先ほど見ていただいたオランス姿勢のアグネスもそうですけれども、ペテロとパウロなど、初期のキリスト教の聖人たちの図が見られます。

 ただ、このペテロとパウロ、ここにパウルス、ペトルスと名札がなければ、どちらがどちらかわからないほど、そっくりです。当時、最初期の聖人画というのは、ペトロは鍵を持っているとか、パウロは少し頭がはげあがっているとか、そういう区別はなくて、年老いた哲学者的な老人か、あるいは永遠の若さを象徴するような若者として描かれていまして、ここから徐々に描き分けが始まり、描き分けが間違っていたりします。

 また、私はこの聖人たちについて調べましたけれども、160点あるうちの70点近くはペテロとパウロで、そして、20点近くは、先ほど見ていただいた聖女アグネスです。そして、15点ほどはシクスティス2世とティモテウスという、ちょっと謎めいた聖人とともになっていることがわかりました。

 こうした金箔ガラスというのは、皆さんヴァチカン博物館に行かれた際、今は小部屋にひっそりと飾られているのではなくて、堂々と詳しい解説付きで並んでいます。ちょうど皆さんはシスティーナ礼拝堂を見終わって、素晴らしい物を見て、ヴァチカン博物館は広いし疲れたと、帰り道の出口に向かって一斉に歩みを速める、あの廊下の最後の最後のほうにありますので、しかも、陽光がさんさんと差し込む、ガラスの中にガラスを置かないでという世界で、しかく金箔なので、黒地にすると目立ちますが、しかし、このようすると、――これは写真で撮っているので光っていますけれども――本当に白っぽくて、わかりません。

 ですから、出口付近になったら、皆さんちょっと藤井さんがかわいそうなぐらいとりつかれている金箔ガラスはどこだろうと、探していただければ、今20点どころではなくて、200点近くが並んでいます。さすがの私もカメラの充電池を2回、3回替えても途切れるぐらいで、自分自身ヘトヘトになってしまうところです。ヴァチカンは反対側から入れないのです。ですから、全部見終わってやはり自分もクタクタになりながら200枚は撮れないところですけれども、皆さまは写真は撮らなくてもいいですか。何点か、「ああ、これか」ということで見ていただけたらと思います。

 すいません、いろいろと脱線しながらですが、以上、駆け足ではございましたが、紀元前1世紀末から4世紀にかけて、広大なローマ帝国で製造流通したガラスについて、その材料、工房、職人、技法、用法、製品について見てまいりましたが、おわかりいただきましたでしょうか。

 冒頭で申し上げました現在のガラスのイメージである、透過性、自由自在な形、さまざまな用途、安さが、紀元前50年ごろに、おそらくシリアで開発されたであろう吹き技法と、ローマ帝国という広大な市場が出会い、ガラスの持つさまざまな特質が引き出されたことです。それが貴石の代用品として誕生したガラスを、ガラスの本来の特性である光を通す透過性、金属のようなにおいをしない無臭性、空気を通さない密閉性など、日用品として食器や飲料容器、貯蔵容器、そして、窓ガラス、ランプなどへと発展し、今日ほとんど変わらぬ姿で存在しています。

 ローマガラスの世界は広く、後悔するほど広く奥深いのですけれども、本講演ではその一部しかご紹介できませんでしたが、この機会にローマガラスに少しでも興味を持っていただければ幸いでございます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)



【橋都】 藤井さんどうもありがとうございました。日用品からカタコンベに使われた金箔ガラスまで、大変幅広く面白いお話をしていただきました。どなたかご質問ある方はいらっしゃいますか。はい、どうぞ。


【質問者1】 日用品とか、窓ガラスに使われたということで、すごく興味深く拝見いたしました。そのほかに使われたという記録はないでしょうか。例えば装飾品とか。


【藤井】 装飾品ですね。わかりました、ありがとうございます。やはりローマ時代には(ガラスが日用品化したためか)ガラスの装飾品は減ります。私が探した限り、(金の鎖に)青いガラスが(宝石のようについた首飾りがあった程度でしょうか……、装飾品に関しては、やはり金や本当の貴石、あるいは宝石が好まれていたようです。その前のフェニキア時代には、人頭珠といって、当時生きていた人の顔をそのまま見えるような、非常に個性的なターバンを巻いた頭部の珠などがあります。そういう珠は男性がおそらく装飾品として首につけていたのでしょう。ローマ時代以降になりますと、ケルンなどで、ガラスと申しますか七宝の宝飾品(フィブラなど)がみられたりします。ローマ時代には、やはりこれだけガラスが日用品として普及したせいか、「それダイヤではないの、ガラス製(のまがい物)なの」という現在の感覚と近いものがあったのか、少ないのです。

(ご質問いただいた際失念しておりましたが、4~5世紀には、シリアーパレスティナ地域封蝋のように溶けたガラスの雫に型を押し付けたような円盤型の護符的ペンダント・ヘッドや、クロアチアなどで見つかっている子供用と思われるガラス製の指輪類がございます)


【質問者1】 わかりました。


【橋都】 はい、中川先生。


【質問者2】 大変面白い話、本もいただきました。


【藤井】 どうもありがとうございます。


【質問者2】 それで、私はプテオリが大好きで、3回ぐらい行っていますけれども。タコがおいしいものですから、タコを食べてください。


【藤井】 タコですか。


【質問者2】 実はあそこは長いトンネルが三つありますね。ですから、道路調査ということで実際は行っているのですけれども。


【藤井】 そうですか。アグリッパが通した、先ほどアヴェルヌス湖というところで見ていただいて、私も入口まで行ったのですけれども、中は通れないですよね。


【質問者2】今は通れないですね。


【藤井】 昔は通れたのですね。


【質問者2】 ええ。


【藤井】 素晴らしい。通られたのですか。


【質問者2】 こちら側の〓セイアルス〓トンネルというのがありますね。要は、プテオリから西のほうですけれども。合計三つ、ちょっと話が違ってしまうのですけれども。700メーターか1,000メーターの道路トンネルが三つありますよね。


【藤井】 神話の世界のような、信じられないような世界ですね。


【質問者2】 18世紀まで使われているのです。その話ではなくて、聞きたいのは、ローマ人は酒飲みですよね。ポンペイの遺跡から発掘のガラスをご紹介いただいたのですが、ポンペイで100軒か200軒の居酒屋がありますということですが、彼らが飲んでいる酒のさかずきというか、グラスはガラス製が結構あったのでしょうか。


【藤井】 そのように思われます。先ほど壁画になってしまいますけれども、この赤いブドウ酒が見えるスキュフォスや、水差しの中に赤いブドウ酒が入っておりますから、、。オスティアの居酒屋ではこの三角錐形のガラス杯らしき物を持って飲んでいる絵もあるということですし、おそらくポンペイでもそうだと思います。

 先ほど申し上げましたように、やはり考古学の母と言われるだけあって、その系統的な発掘ができていないところが、整理がまだされていないというか、私の不勉強かもしれないのかもしれないですけれども、居酒屋があって、その居酒屋からどれだけのガラスが出てきてという、そういう情報はまだ整理ができていません。おそらくそうだったと思います。(お答えになっていなくて)すみません。


【質問者2】 ありがとうございます。


【橋都】 今の質問と関連するのですけれども、われわれガラスというとワインのボトルとすぐ頭が行くのですけれども、当時はワインの入れ物はどちらかというと陶器だったのでしょうか。


【藤井】 先ほどペトロニウスの『サテュリコン』のところで割れないガラスの話ですけれども、ご紹介した場面の他に、「私はコリント製の青銅製の杯よりも、ガラス製のコップの方が好ましい。なぜなら匂わないから」というのがあります。ただ、やはりコップを見ていますと、陶器製もたくさんあります。

 ただ、私は考古学者というよりも、結局先ほど申しましたように、金箔ガラスに導かれて、ローマ史の本当は文献を主にしなければいけない立場にありながら、ローマ・ガラスの方に手を広げたという者です。ですから、考古学的な陶器がどれぐらいというのが、まだちょっとわからないのですけれども、おそらく陶器もたくさんあったと思います。王侯貴族たちの間では青銅製の物が好まれていました。しかし、におわないということと、あとは色がやはり薄く透けて見えるということから、おそらくガラスが徐々に(酒器として浸透したのだと思います)。

 私が尊敬するイスラーム・ガラス研究者の真道洋子先生がおっしゃるには、「ローマ時代にガラスのいろいろな機能が模索され、いろいろな物が作られて、何だかわからないおもちゃのような物まで作られているけれども、それがイスラーム時代には酒器と香水瓶と照明器具に集約された」そうです。ですから、酒器に関しては、ローマ時代からはじまりイスラーム時代に、もちろん素晴らしい陶器がたくさんありますけれども、酒器としてガラスが定着していったと思います。

 今回お見せしなかった壁画の中にも、3~4世紀になりますと、たとえばシチリアのほうのピアッツァ・アルメリーナのモザイクの中に狩猟場面がありますけれども、その狩猟場面で、屋外まで――壊れやすいにもかかわらずーー、ワインを飲むときにはガラス(ガラスのボトルと杯の双方)を(籐籠の中に入れて)持って行ったことを示す絵が残っていますので、やはり徐々に「匂わない(香りを損なわない)」ということと、美しい色を楽しむ「透過性」からガラス製の酒器が普及・定着したのではないでしょうか。

 ローマ時代の葡萄酒は赤一色ではなかったらしいです。黒っぽい色もあったり、いろいろな種類の物があって、しかも水で割ってハチミツを入れたり、いろいろするので、その割合をみるときにもガラスの方が透明だから見ながらできる(ので便利だった)のかな、などとも思います。すいません、お答えになっていたかどうかわかりません。


【橋都】 ほかにいかがでしょうか。はい、山田さん。


【質問者3】 質問はギリシャとか、それからエトルスキという文化はあまりガラスの歴史に貢献していないのかということが一つと。それから、先ほどケルンのガラスを見せていただいたのですけれども、非常に美しいのですが、ただ、ローマ帝国でいうと北のほうの辺境なわけで、あれだけの物があるというのは、よほど優れた職人さんが行ったとか、そういうことなのでしょうか。


【藤井】 ありがとうございます。一つ目については、おっしゃるとおり、ギリシアやエトルスキのガラスのかかわりですけれども、やはりギリシアは陶器をこよなく愛しためか、ガラスは少ないです。ヘレニズム時代の紀元前4世紀から紀元前1世紀辺りは、優れた逸品は出てきます。カノーサから出土したゴールド・サンドイッチ・ガラスや、それ以外にも素晴らしい逸品が出ていますけれども、(数は少なくても)出土しているものは優れた技術で現在の職人をもってしても――先ほど人間国宝の切金細工の方も苦労されて、最初に少しお見せした(ヘレニズム時代の)金箔ガラス碗を復元されたおっしゃったように――現在の世界中の作家をもってしても、復元できないほど高度な(技術の)物は出ますけれども、非常に少ないです。

 それは私もなぜかと思ったのですけれども、おそらく陶器を愛することが大きかったことではないか、と想像しています。やはり日本もどちらかと言いますと、ガラスは夏の風物詩的な感じで、ガラスと陶器が並べますと、お茶道具もそうですけれども、やはり土のほうに魂というか、温かみを感じる文化なのかと思ったりします。そういう私の勝手な想像だけでお答えになったかわかりなせんけれども。ギリシアではーーロードス島ではガラス製造が見られますけれどもーーやはり陶器の文化だったのかと思っております。

 二つ目のご質問ですけれども。


【橋都】 辺境ですね。


【藤井】 ケルンのほうですね。やはり私もケルンについておっしゃられたように、今まで金箔ガラスとプテオリのことばっかりやっていまして、これからはケルンも勉強しようと思っているところです。

 おっしゃるとおりゲルマンとか、あちらの蛮族的なイメージはありますけれども、結局ローマ帝国を守るために帝政後期になりますと辺境地域に大事な軍隊を置いたり、皇帝が駐屯したり、辺境地域にやはり力が注がれるわけです。そのためにおそらく重要な軍資金もそういうところに行って、逆にイタリア本土には皇帝が一度も戻ってこなかったり、そういう状況が出ますので、そうしたことが一つにあったかもしれないと思います。

あとは、交通の要所であったということと、おっしゃるとおり優れた職人さんが行った可能性があります。たとえばエジプトのアレクサンドリアの高級なガラスを作る職人が、ケルンにマルセーユから北上して入って、そこでいろいろな素晴らしいガラスを作ったのではないかという見解もあります。

 ただ、先ほどエンニオンのような、私がこれを作ったぞ、というのような資料は4世紀には残っていません。

 しかも、ケルンは残念なことに、ローマ時代の工房址は10カ所ぐらいは見つかっているようですが、世界大戦中に大きな空爆に逢いまして、戦前の簡単な資料だけしか残っていません。やはり大聖堂もかなり破壊されたように、ローマ時代のガラスの資料が極めて少なく、せっかく残っていたにもかかわらず破壊されたということで、なかなか謎を知りたくても、そこの辺がジレンマな場所です。よろしいでしょうか。


【橋都】 ほかに、猪瀬さん。


【質問者4】 すいません。ローマングラスの日本やアジアへの伝播の話をちょっと聞いたものですから、お伺いしたいのですが。何かの本で、例えば正倉院の装身具やガラス器、それから韓国の新羅にもガラス器、装身具などもあって、これは特に新羅の物は、あそこにイタリア人が住んでいて、直接向こうから招来したと。新羅で作ったかどうか私はどう書いてあったのか忘れてしまいましたが、そういうことが書いてあったと思うのですが、実際そういうことはあったのでしょうか。


【藤井】 まず答えられるところから申しますと、ローマ時代の1世紀半ばには『エリュトゥラー海案内記』というのがありまして、ギリシア人の水先案内人が南海貿易について記したものですけれども。そこに原料魂や製品についても輸出したとあります。アフガニスタンのベグラム秘宝のように、実際ローマ・ガラスが大量に見つかっているところもありました。ですが、中国になりますと、1世紀のモザイク技法で作ったリブ碗の一部が、見つかっているにとどまります(江蘇省羹邗江)。

 日本については、新沢千塚(126号墓)の遺跡からカット付き碗と、セットで出てきた青色の金箔装飾がされたお皿がローマ・ガラスではないかと言われていました。

 ただ、結局ガラスというのは、実際に見て見ないと、――写真ほどおそろしいものはないと本当にわかりますけれども――写真や図だけだと、それらしく見えても、実際に目にすると、ガラスの素材感や作り方が、写真に写らない底部などを見ると作り方が違ったり、いろいろあります。(カット付きの碗は、年代は3世紀の可能性があるが、現在では成分分析から新沢千塚126号墓出土のガラス器は、アルカリ分がナトロンではなく砂漠の植物灰を用いたため、カリウムとマグネシウムの値が3~5%と高いサーサーン・ガラスと判明しているそうです。)

 新羅は由水先生がお書きになった本だと思います。私も一生懸命読みましたけれども、、、。例の玉ですね。王冠をかぶった人の顔やハトが飛んでいるような玉というのは、実際に5~6世紀になりますとほかにも同じような種類の物がいくつか北欧のほうで見つかっていますので、それが新羅に至った可能性はあると思うのですけれども。いろいろと載っているガラス容器を見ていて、ローマ・ガラスと言われるのにはちょっと?マークですが、、。私は自分で実際に見ていないので、結局自分の目で見ないことには何ともということです。


【質問者4】 正倉院で瑠璃のおわんがありますね。あれはペルシャなのですか。


【藤井】 そうですね、(白瑠璃碗は)サーサーンかな、ローマよりもっと後だと思います。

(岡山在住のカット・ガラスの石田彩氏が復元されているのですが、印象的だったのは、六角形の切子装飾が、写真でよく使われる面は全てきっちり六角形をしてつながっているのに対し、裏面では若干はなれて切子が崩れている箇所もあること、出土品は全て表面が風化しているので、どのレベルまで磨いたか――半透明な状態を好んだのか、無色透明な状態まで磨いたのか――が疑問だとおっしゃていたことなどです)

 私はまだまだ勉強中の身でして、まずは西方を攻めている最中でして、、、東方は由水先生やオリエント博物館の館長の谷一先生などいらっしゃいますので。


【橋都】 ほかにございますか。それでは、私から一つだけ、カットグラスの起源はどこにあるのですか。これはローマですか。


【藤井】 カット・ガラスの起源ですね。カットといいますと、結局鋳造しますときれいにする意味で磨いたりしますけれども、要するに装飾としてのカットの起源ですね。やはりローマ時代で、一般的な通説としては、エジプトのアレクサンドリアです。例えば先ほどのベグラム秘宝で見ていただいた高浮彫杯などです。カットにつきましては水晶製品も絡むと思います。ポンペイでもこのベグラム秘宝で見たようなカットの入ったスュキフォスがございましたが、それはクリスタル製でした。イスラーム・ガラスにはクリスタルのカット職人がガラスも削ったのではないかと思うような物もあります。カット・ガラスは出てきては消え、出てきては消えするのですけれども、どうも水晶への装飾をカットでするところには、ガラスのカット装飾も出ているようなイメージもあります。ヘレニズム時代のガラスでも、ガラスの器の半球状の碗の中側や外側に、刻線カットがされたものもあります。それをカット言われればそうですけれども、いわゆる意匠としてのカットはローマ時代と言っていいと思います。


【橋都】 よろしいでしょうか。大変面白いお話をしていただきまして、皆さんも随分目が開かれたことがあるのではないかと思います。ケルン、ヴァチカンに行かれたらぜひガラスの前で足を止めるように、われわれも気をつけたいと思います。それでは藤井さん、どうもありがとうございました。(拍手)