初期近代イタリアの百科全書的庭園(講演記録)

第412回 イタリア研究会 2014-10-15

初期近代イタリアの百科全書的庭園

報告者:大阪大学文学部准教授 桑木野幸司

司会:皆さんこんばんは。イタリア研究会運営委員長の橋都です。今日は第412回のイタリア研究会例会にようこそおいでくださいました。
 きょうは「初期近代イタリアの百科全書的庭園」という題名で、桑木野幸司さんにお話をお願いしています。皆さんイタリアに行かれて、庭園をご覧になった方はたくさんおられると思いますけれども、日本の庭園と違って、非常に幾何学的という印象を持たれたと思います。しかしそれは、決して庭師や建築士が適当に線を引いて、きれいな模様を作ったというものではなくて、それは世界観を反映しているわけです。今日はそういったお話をお願いしてあります。
 それでは桑木野さんのご略歴をご紹介したいと思います。1975年のお生まれで、97年に千葉大学の工学部建築学科をご卒業のあと、東京大学大学院の工学研究科の修士課程を修了されました。それからピサ大学に留学されまして、2004年から2006年、ピサ大学で研究をされ、2007年にピサ大学で博士号を取得されております。2006年から2009年は日本学術振興会の特別研究員、2009年から2011年は、マックス・プランク研究所の、フィレンツェにある美術史研究所の登録研究生として研究を続けられました。そして2011年から現在の大阪大学文学部研究科西洋美術史の准教授をしておられます。
 桑木野さんは昨年こういう、『叡智の建築家-記憶のロクスとしての16-17世紀の庭園、劇場、都市』という大著を出版されたのですけど、これはもともとイタリアで、イタリア語で出版されて、それを日本語訳して、さらに加筆して出版されたという、大変な力作です。大変な研究内容で、これを読むと目からうろこという感じなので、値段は9000円ですけど一家に一冊いかがかと思います。
 それはそれといたしまして、私はある研究会で桑木野さんのお話をお伺いして、非常に面白いお話だったので、ぜひイタリア研究会でお願いしたいということで、今回実現したわけです。大変興味深いお話が聞けるのではないかというふうに楽しみにしております。それではよろしくお願いします。(拍手)


桑木野:ありがとうございます。大阪大学で美術史を研究しております桑木野幸司と申します。よろしくお願い致します。今ご紹介いただきましたように、もともと私は工学部の建築学科で、いわゆるエンジニアリングということで建築学を学んでおりました。現在は何をやっているかと言いますと、16世紀の庭園について、特にイタリアを中心に勉強をしております。工学部で建築を学んでいた時というのは、デザインを志しておりまして、建物の表面的な形に興味があったのですが、やがてその歴史的な背景、つまりその形が生まれてきた知的な背景のほうに興味が移っていきまして、建築史、〓History of architecture〓と呼ばれる分野に徐々に移行していきました。
 特にヨーロッパの歴史的な庭園を見ていきますと、人々が自然に立ち向かって、あるいは自然を征服し、もしくは共存するためのさまざまな精神的な営みというのを、庭園を通じて浮き彫りにすることができるということが徐々に分かってきました。それが庭園史の醍醐味であるわけです。今日はその辺りのお話を、ちょっと抽象的になるかもしれないのですが、お話ししてみたいと思います。よろしくお願い致します。
 画面がもし見づらいようでしたら、ちょっと電気を落としたほうがいいかなと思うのですが。大丈夫です。はい。ではよろしくお願いします。早速本題に入っていきますが。
人類の文明の営みをひも解いていきますと、庭園というのが、単に建物のおまけとして片手間に作られたのではないということが分かってきます。むしろ膨大なエネルギーとお金と才能を注いで作っているのです。
 当時の人々が抱いていた、人間と自然との理想的なあり方、そういったものを上演するための空間として、特にヨーロッパでは庭園が使われてきました。一種の劇場のような空間であったのです。そういったものが調べれば調べるほど分かってきます。これは洋の東西を問わず、ほぼすべての地域の文化に当てはまることです。ですから庭園というのは非常に奥が深いのです。貴族の娯楽というだけではない側面がありました。
 私の専門は西洋庭園史なのですが、繰り返しますと、単なる庭の物理的で表面的な形の変化を、歴史的にたどっていくというのでは面白くないわけで、むしろ今言った視点から、庭という空間に注ぎ込まれていたさまざまな観念や思想、あるいは哲学といったものを明らかにしたいと思いながら研究を進めています。
 つまりこれまで庭園を論じる場合というのは、庭の形、つまりハードウエアのほうにばかり目が行っていたのです。ここではむしろ、庭を一種の情報の器と考えまして、その器の中にたっぷりと盛り込まれました人々の観念や思想、すなわちソフトウエアの部分を探ってみたいと思っています。
 配布資料をお配りしたのですが、A3裏表1枚でして、これからいろいろスライドをお見せしますが、いくつか図版を載せてあります。ただ必ずしもすべての図版を拾ってあるわけではないので、スライドのほうも適宜ご覧ください。
 今回のお話では、初期近代と呼ばれる時代のヨーロッパ、特にイタリアを中心とした庭園芸術について、従来の庭園史とは少し異なった観点から見てみたいと思います。
 まず時代背景ですが、こちらにもちょっと書きましたが、初期近代という時代を取り上げます。ここが非常に今熱いのですね。英語でEarly modern、イタリア語で言いますとPrima età modernaもしくは、Prima modernitaと言うのですが、この時代です。日本語訳を見てお分かりになると思うのですが、要するに近代の最初のほうです。大ざっぱに言いますと、15世紀の末から17世紀の初頭にかけてです。ですからルネッサンスと一般に呼ばれる時代も、ここにすっぽりと入ってしまいます。ただ狭い意味では特に16世紀の半ばごろを指して、初期近代、Prima età modernaということがあります。この時代が、今文化史の領域で非常に熱い注目を集めているのです。なぜ重要であるのかという辺りを整理して、スライドに書いてあるのですが。
 この時代に,われわれが生きている現代社会にまで続く政治や経済、文化や宗教の大きな枠組みが完成したからです。つまりその初期近代の一つ前の時代、中世までの世界観を根底から破壊してしまうような驚くべき出来事が、この15世紀後半から16世紀にかけて、集中して起こっています。この時代を指しまして、革命の時代とか、驚異、ワンダーですね、驚異の時代と呼ぶこともあるぐらいです。
 ちょっと図式的になってしまうのですが、1番から6番まで挙げてあります。まず1番からいきますと、はるか古代に、自分たちよりすぐれた文明があったということを人々が知るのです。これがいわゆる古代復興、ルネッサンス、15世紀から16世紀にかけてになります。
 それから2番ですが、海のかなたに見知らぬ広大な大陸があるということに、人々は気づくのです。これがアメリカ発見、1492年の出来事でした。
 それから3番目に行きますと、これまで絶対的な権威を守ってきましたカトリック教会の教義といったものが、絶対ではなくなるのです。いわゆる宗教改革と呼ばれるもので、今画面に出しております、マルティン・ルターが1517年に宗教改革を始めます。95カ条の意見書というものを出していきます。つまりカトリックが一枚岩ではなくなってくるのです。
 4番に行きますと、あろうことか自分たちの暮らす大地が、なんとぐるぐると回転する不安定きわまりない土の塊でしかないという事実を、目の前に突き付けられることになります。これがいわゆる地動説の提唱で、1543年にコペルニクスが『天球の回転について』という革命的な書物を出しています。すぐにこの地動説が受け入れられたわけではないのですが、徐々に浸透していきます。
 それから5番目、活版印刷術の発明です。グーテンベルクが15世紀の半ばごろに発明したと言われています。情報伝達の革命がここで起こりますし、ジャーナリズムの誕生と呼ばれるような現象も起こってきます。
 さらに6番で挙げておきましたが、発見された新大陸や、中国やアジア地域とのヨーロッパの交易の拡大です。それからルネッサンス芸術の文化が発達して、非常に写実的なアートが作られるようになっていきます。ですからものすごい変化が起こったわけなのです。
 その結果ヨーロッパ社会がどうなってしまったのかを端的に言ってしまうと、情報と物の量が圧倒的に増えました。知識が洪水のようにあふれてくるのです。増えたらどうするかというと、いくつか対処法がありまして、一番単純な対処法は何かと言いますと、集めるのですね。増えたものを集めて集めて、集めまくる。増えた分だけとりあえず集めてしまえば、心の不安は取り除かれるといった感じになります。
 そうしますと、これは有名な図なのですが、スライドのようなぎっしりと物を詰め込んだ部屋ができあがります。これはWunderkammer(ヴンダーカンマー)とドイツ語で言います。イタリア語で言いますとCamera delle meraviglie(カメラ・デッレ・メラヴィリエ)驚異の部屋と呼ばれるものなのですが、こういったコレクションルームが、初期近代のヨーロッパ、これはイタリアだけではないのですが、ドイツ、フランス、スペインに数千という規模で現れたと言われています。図版が残っているものは少ないのですが、これは貴重な図版のうちの1枚です。
 これはご覧になっていただくと分かるのですが、珍しい動物のはく製や、あるいは植物の乾燥標本。それからアジアや新大陸の文明が生み出した工芸品ですね、手作りの作品や、あるいは高い宝石、書物、武器、それから古代ローマの遺跡や、同時代の芸術作品といったものを、とにかくこれでもかというぐらい手当たり次第に、金に物を言わせて集めていくわけです。こうした空間がやがて、近代的なミュージアム、美術館や博物館の起源になったと言われています。これはよく知られたストーリーではあるのですが。
 ここで庭園史を勉強している私はふと疑問に思うのですね。こういった空間を見ていったときに、では同時代の庭園、16世紀の庭園というのもまた実は、こういったコレクション活動の空間だったのではないかと思うわけです。実は庭園こそは、初期近代の情報の爆発に対処するための、理想的な空間であったのではないか、という仮説を立ててみたいわけです。
 ちょっと考えれば分かるのですが、庭園というのは当然植物があるわけですが、植物のコレクションだけではなくて、鳥や四足獣、動物のコレクションが当然可能になってきます。これはお配りした資料にも載せた図なのですが、こういったお庭が当時造られていくのですが、植物や動物だけではなくて、巨大な石、鉱物、ミネラルの展示をしたりですとか、とても家の中に置けないような古代彫刻や建築の断片といった物も、こういったお庭であれば展示可能なわけなのです。さらに壁画、あるいは噴水といったものを通じて、このお庭の中でさまざまなメッセージの伝達が可能であると見ることができます。
 この図面を見てなんとなく分かるのですが、集めた植物や動物をきっと彼らは庭の中できちんと分類していたはずなのです。そのあふれんばかりの物を分類するために適した花壇の形や庭のデザインといったものが、きっとあったはずだという仮定に基づいて話していきたいと思います。つまりここで庭園を、情報を収めるための器と捉えてみたいわけです。
 当時の庭園の形を、このような実際の使われ方という視点で分析できるのではないかと常々私は考えています。あまりこれまでこういう視点でお庭の歴史というのは研究されてこなかったのです。
 では当時のヨーロッパの庭園がどのような姿をしていたのかというのを、ざっと見てみたいと思いますが、まずスライドでお見せしているのが、ローマから東へ30キロあまり行ったティヴォリという地に造られた、ヴィッラ・デステです。これは世界遺産にもなっていて、今でも非常によく形が残っているお庭です。ただティヴォリと言いますと、ヴィッラ・アドリアーナがあるところで有名な場所ですね。
 この庭が造られたのは、16世紀の後半で、ちょっと画面だと分かりにくいのですが、丘の上に立っていまして、ここが一番高い所で、この辺全部斜面なんですね。ここの辺までずっと斜面があって、その斜面を削って平らにしてお庭を造っています。それから軸線を一本、真ん中にびしっと通しています。遠近法の原理によって完璧にコントロールされた空間で、花壇を幾何学状に細かく分割して、ここでは珍しい植物のコレクションが行われていました。それから実はここが鳥小屋だったのですが、鳥小屋で珍しい鳥を飼育したり、あるいは池の中で珍しい魚を飼っていました。
 この庭はできた当初から非常に有名でして、ヨーロッパ中から訪問客がやってきました。ちょっと意外なのですが自由に見学できたのです。お金も取られなかったそうです。この庭園というのは、イタリア式庭園の傑作の一つであるヴィッラ・デステです。
 イタリア以外でも、例えば同時代のイングランドを見てみますと、この右、こっちのほうを注目してほしいのですが、やはりイタリアから影響を受けまして、幾何学式の庭園が流行していました。イングランドの庭と言いますと、皆さんゴルフ場のような風景式庭園というのを思い浮かべる方が多いと思うのですが、実は風景式庭園が生まれるのは18世紀でして、それ以前のイングランドのお庭というと、みなこのような幾何学的な庭園でした。ちょっと拡大しますね。
 この当時というのは、エデンの園もやはり幾何学式庭園のように想像されていました。この16世紀、17世紀の前半というのは、イタリアが文化の最先端でした。これはイングランドの貴族の肖像画なんですが、このように自分の庭園、邸宅に最新のイタリア式庭園を所有することというのは、すなわち一族の誇りと考えられていました。
 ですからこのように、集団肖像画の中にも非常に誇らしげに、わざわざカーテンをめくりあげて、自分はイタリア式庭園を持っているんだということをアピールするのですね。他にもいろいろ面白い例があるのですが、時間の関係でこれ以上お見せできないのですが、とにかく初期近代のヨーロッパの時代というのは、庭と言えば必ず幾何学式庭園というのが当たり前だった、ということを押さえておいていただきたいと思います。
 それからこちらはフレーデマン・デ・フリースというオランダの版画家の作品です。16世紀末の作品ですが、版画家であり建築家であったこの人物が、花壇のデザイン集を出版しているので、そこから取ってきました。これは本当に造った庭というよりは、デザインの参考にしてもらうように、パターンブックとして出版しているのですが、それこそ実際に作らないで図面の中だけで考えたお庭ですので、実物よりもいっそう幾何学性が強いんですね。これでもかというぐらい幾何学です。他にも似たような図面集というのはこの時代のヨーロッパにいっぱい作られました。
 ところがどうしてこのようながちがちの幾何学になってしまったのかというのを、きちんと文章の形で説明してくれる資料というのは、実は少ないのです。この本も図面ばかり載っているのですが、文章の説明はほとんどついていないです。ですから形の意味というのは実はよく分かっていません。どうしてこういう形になったのかというのを読み解いていくためには、庭の図面とひたすらにらめっこしているだけでは駄目なのです。それだと何も分からないので、別のアプローチをとる必要があります。
 先ほどから指摘しておりますように、個人的には当時の庭園というのは、思想や考え、哲学や観念を盛るための、幾何学の器であったのではないかと私はみなしています。つまり人々の頭の中の情報、われわれの頭の中にしまってある情報を、植物や彫刻として、目に見える形で庭園の中に展示していたのではないかという仮説です。
 さらにもうちょっと比喩を進めて考えてみるのであれば、むしろこういった庭の形そのものが、当時の人々の思考パターン、あるいは頭の中の情報整理の仕方を、何らかの形で外部空間に写し取っているのではないかと、そんなところまでできれば探っていきたいと思いながら研究をしています。
 話が大きくなりすぎましたので、もう一度基本に立ち戻りまして、初期近代のイタリア式庭園の歴史について、ざっと振り返ってみたいと思います。ヨーロッパ中の王侯貴族を夢中にした美しい庭のスタイルが、どのようにしてルネッサンス時代のイタリアで生まれて来たのかというのを、駆け足になりますが、前半部分で追いかけてみます。
 今出ているのが、中世のお庭を描いた図版です。中世までのお庭というのは、一般的には建物に付属した屋外の居間、天井がないだけの屋外の部屋として構想されていました。建物にちょこんとくっつくような形です。この図版に見られますように、周囲は高い壁で覆われていまして、その内部にテーブルや芝生のベンチや噴水などが置かれていました。今この図は違うのですが、全体が4分割されることが多いのです。扉が壁についていまして、だいたいその扉には鍵がかけられていました。「閉ざされた庭」と呼ばれる類型です。
 この閉鎖的なお庭というのが、聖母マリアのイメージと重ねられていきます。このスライドの図はまさにその場面なのですが。スライドの右のほうがちょっと見づらいですが、聖書の引用が書いてあります。これは旧約聖書の雅歌、雅なる歌のフレーズでしてちょっと読み上げますと、「私の妹、花嫁は閉ざされた園、封じられた泉」という非常に美しいフレーズなのですが、これが閉鎖的な中世のお庭とだんだん重ねあわされていきます。安全に守られたお庭、あるいは女性の子宮に例えられたりもしてきました。規模は大きくないのですね。
 またこの壁に囲まれたお庭というのは、パラダイス、楽園の象徴ともみなされてきました。お庭イコールパラダイス、楽園なのですね。キリスト教においてはエデンの園、エデンの楽園というのはもともと庭だったわけで、お庭イコール楽園という思想が起こってきました。このように中世のお庭というのは、形は非常にシンプルなのですが、非常に濃密なシンボリズムが発展していました。
 こうした閉ざされた庭の形というのが、中世の間、数世紀にわたって延々と作られていきました。この閉ざされた庭に変わって、全く新しい造園様式を提案したのが、15世紀に財力を蓄えましたメディチ家です。
 彼らメディチ家はフィレンツェの郊外に、庭園付きのヴィッラ、すなわち別荘を建てていきます。スライドを変えます。ヴィッラ、別荘というのは当初は農業経営の拠点施設であったわけなのですが、やがてそういった農業などはもうやめにしまして、ひたすら休暇を楽しく過ごすための娯楽施設へと、徐々に15世紀に変わっていきます。その発展の中で特に重要なのが、今お見せしております、フィレンツェのお隣町のフィエーゾレにある、ヴィッラ・メーディチです。
 これは写真が下まで写っていないのですが、丘の急斜面に造られていまして、丘の斜面を削って、平面のテラスを重ねてそこから非常に広大なパノラマ風景を楽しむという、イタリア式庭園の基本がここで出来上がります。この上の部分からこちらのほうを眺めた写真が右下のものでして、こちらのほうにちょっと分かりづらいのですが、フィレンツェの街並みがばーっと広がっているのが分かります。ここは、人の腰の高さぐらいまでしか壁がなくて,景色が見えるのですね。つまり中世の庭を囲っていた高い壁を、全部取り払ってしまったわけです。庭からこのように周囲の風景を見渡すことができます。これは中世のお庭にはなかったコンセプトです。
それからさらに重要なポイントがありまして、建築と庭園を一体化したものとして計画するようになったのが、このヴィッラ・メーディチです。つまり建物とお庭、これが建物でお庭はこちらに広がっているのですが、建物と庭が同じ一本の軸線、軸によってコントロールされるのです。建物の壁にも大きくこのようにアーチが開いて、庭と建物を一体化させようとするデザインになっています。
 中世までの庭というのは、ほぼ片手間に造っていたのです。庭と建築というのは別の人が作っていたのですが、ここに来まして建築と庭を同じ人物、すなわち建築家が一体化した空間作品としてデザインするようになっていきます。ですからこれは非常に革命的な変化だったわけです。
 このテーマがさらなる発展を見せたのが、16世紀初頭のローマです。ですからフィレンツェからローマに一気に飛びますが。中でも決定的に重要であったのが、教皇ユリウス2世、この人です。彼が作らせたベルヴェデーレの中庭、これは現在も残っています。グーグルマップから写真を取ってきたのですが。
 このユリウス2世という人は、非常に個性的なローマ教皇で、人気があるというと語弊があるかもしれませんが、非常によく知られている人です。彼は古代ローマ帝国の復活を目指していました。戦闘的、バトルですね、戦闘的な教皇と言われていて、自分が鎧を着て、馬にまたがって戦争を指揮して、ローマ教皇庁の国土を拡大していったというすごい人です。それからシスティーナ礼拝堂の天井画をミケランジェロに描かせたのも、この人です。
 ここで注目したいのが、南の端にありますヴァチカン宮殿、この部分ですね。それとそこから300メートル北にあったこれですね、教皇インノケンティウス8世のヴィッラ、小さな別荘です。これを巨大な縦長の中庭によって連結しようというプロジェクトです。
 1504年に建設開始で、建築家はドナート・ブラマンテという人です。1514年に没していまして、これは天才的な建築家なのですが、あまり名前が知られていません。今年が没後500年なのです。何らかの論集をだしたほうがいいのじゃないかと思って、いろいろ企画を考えてるのですが、形になるかどうかまだ分からないのですが。全体像を出します。これはお配りした資料にも載せてあるのですが、16世紀の末の段階での、今お話ししているベルヴェデーレの中庭を見た図版です。左上のほうに、ちょっと見づらいのですが、サンピエトロ大聖堂が、まだドームが作りかけなんです。屋根が開いている状態で見えています。
 ブランマンテが造ったのはここです。インノケンティウス8世のヴィッラというのはこれですね。この敷地はもともと傾斜していました。斜めになっていて、一番低い部分と一番高い部分との高低差が30メートルあったと言われています。建築家ブラマンテはそこを地ならしをしまして、ご覧のように水平のテラスを1枚、2枚、3枚挿入して、それらを大階段で結んでいるのです。結ぶことによって連結して、敷地の高低差を見事に吸収しています。先ほどのフィエーゾレのヴィッラ・メーディチよりも、ここははるかに規模が大きく、かつテラスとテラスを結ぶ階段をうまくデザインに取り込んでいます。非常にモニュメンタルな空間になっています。
 階段をモニュメンタルに使っているというのは、非常に革新的なデザインでして、実はそれ以前の庭というのは建物の中でもそうなんですが、階段というエレメントは非常に扱いづらい、デザイン上むしろ欠点だと考えられていて、階段というのはなるべく、視界から隠すようにデザインしろということを言われていたのですが、ブラマンテはその逆をいきまして、むしろ階段を中央にさらして、デザインの一番の売りにしているのです。
 それから強力な軸線によって、ローマ教皇の宮殿と別荘とを一本に結んでいます。軸線を導入することによって、300メートルある空間が間延びしないようにしています。この作品によりまして、いわゆるイタリア式庭園の造形言語、ボキャブラリーが確立しました。
 もう一回整理しますと、つまりイタリア式庭園とは何かと言うと、斜面に庭園を造るのです。その際水平なテラスを何枚か重ねて、その間を階段で結んでいきます。それから中央軸線、強力な一本の軸線を作ってお庭の空間をまとめ上げる。その軸線の上に、噴水や人工洞窟といったエレメントを置いていくのです。言葉を変えるのであれば、ここにきて庭園という空間が、非常に建築的に造られるようになっていきます。建築的庭園ということもできます。
 今ご覧になっているお庭が造られるのは、16世紀の初頭のことだったのですが、これ以降イタリアに造られる大規模な庭園はほぼ全て、今列挙しました特徴を備えるようになっていきます。つまりみんなブラマンテのまねをするのですね。だからブラマンテというのは本当にすごい建築家なので、もっともっと知るべきだと思っています。
 さてここでもう一回問題の原点に立ち戻りたいと思います。このように非常に幾何学的で建築的な庭園空間というのは、同時代の物と知識の爆発に対応するための、いわゆる情報の器としても機能していたのではないかと考えてみたいわけです。つまりこれからお庭のソフトウエア、中身の部分を見ていきたいと思います。
 先ほど物と情報が爆発的に増えたとき、一体どうすればよいかという問いを立てたのですが、一つの答えとして、とにかく集めればいいのだということを言いましたが、実はそれほど事は単純ではないのですね。集めるだけでは駄目でして、実は集めた情報を整理するためのシステムというか、方法論、分類のほうを整理していかないと、単なるがらくたの山を前にして途方に暮れてしまうことになります。せっかく集めても、集めたものが一体どこにあるのか分からなかったら、意味がないわけです。ですから情報の歴史という観点からこの初期近代のヨーロッパを眺めてみますと、非常に面白い時代であることが分かります。
 当時の知識人、文学者、哲学者たちというのは、情報の洪水を前にして、それらを最も効率よく整理するためのさまざまな方法の開発に、全力で取り組んでいました。現在のシステムエンジニアといいますか、そういう人たちです。当時は当然コンピューターがないわけです。ですからわれわれ人間が持っている脳みそに、コンピューターと同じような情報整理をやらせる必要があるわけです。ここで注目したいのが、記憶術と呼ばれる知的方法論です。記憶術と言いますと、非常に怪しい物を想像してしまう方もいるかもしれませんが、あるいは司法試験対策とか。ただこれは古代ローマの修辞学、ないしは弁論術に起源を持つ由緒正しい技術でした。少しだけ庭園の世界を離れまして、この記憶術について説明を加えていきます。
 記憶術とは何かということですが、古代ローマの時代に、修辞学ないしは弁論術の一分野として、非常に体系化された人工的な記憶強化法です。修辞学というのは、古代世界においては、弁論や演説の技術を包括的に教えてくれる非常に重要な学問でした。われわれが想像できないぐらい重視されていたのです。それはなぜかと言いますと、古代ローマ時代というのは、特に共和制のころは、議会や法廷での弁論、あるいは演説がうまければうまいほど出世できたのです。ですから貴族やいい所の青少年というのは、お金を払って家庭教師を雇ったり、あるいは塾に通ったりして、この弁論術というのをマスターしていきました。
 伝統的な修辞学というのは、今スライドで出しましたように、5つの分野で構成されています。発想、英語で言うinventionです。それから配置、修辞、記憶、発表とありますが、1番から5番それぞれについて、非常に細かい規則や技術がたっぷりと盛り込まれているのですが、ここで注目しておきたいのが、4番目にちゃんと記憶というのが入っているのです。これは弁論をいかに記憶するかというテクニックです。古代ローマ時代というのは、まだ紙の入手が不自由だった時代です。ですから、紙はあることはあったのですが、そんなに使い捨てはできません。
 それからプロの弁論家たるものは、何時間にも及ぶような演説であっても、一切原稿を見ないでよどみなく聴衆のほうを見ながらしゃべり続けるのが、腕の見せ所なのですね。つまり私は原稿を見ているので失格なわけなのですが、当時の古代ローマの演説家というのは、2時間3時間という演説を、こうやって身振りを交えながら、原稿なんか読まないで、ジェスチャーを交えてやるわけです。その際に使われたのが記憶術と呼ばれるものでした。古代ローマ時代の修辞学の教科書が、幸いなことにいくつか残っていますので、キケロやクインティリアヌスですね。そこから古代の人たちが、どのようにして記憶をトレーニングしていたのかというのが分かります。ちょっと解説を加えていきます。
 では記憶術とは何かということです。記憶術をこれからわれわれが実践するための準備をしていくわけなのですが、まず準備の第1段階として、適当な空間を一つ選びます。これを心の中に克明に刻んでいきます。適当な空間と言われても困る、とおっしゃる方もおられると思うのですが、要するによく知っている空間です。自分の住んでいる家、あるいは会社や学校や図書館、広場、駅の建物やデパートでもいいです。この南青山会館でも当然いいわけです。
 それを目を閉じても意識の中で自由に移動できることが理想です。そうなるまではっきりと頭の中に刻んでいくのです。これが非常に大変な準備作業です。その際に柱の数や窓の形や壁の色、部屋の大きさや受付にいる人の顔といったものを正確に覚えていきます。これが赤字で書きましたが記憶のロクス、場所という意味ですが、そう呼ばれるもので、これが後々覚えたい情報の受け皿として機能していきます。面倒なプロセスなのですが、ここをしっかりやっておかないと、あとで記憶術がうまく機能しません。すごく時間がかかるのですね。自分の住んでいる家も、では克明に思い出せるかというとなかなかそうはいかなくて、意識的にやらないと駄目です。人によっては1週間2週間かけるという人もいます。
 ただ建築であれば何を選んでもいいかというと実はそうではなくて、理想的な建築というのは、秩序、オーダーですね、それから多様性を併せ持つ空間がよいとされていきました。続いて今度は第2段階に行きますと、一旦覚えた先ほどの建築空間というのをまず脇へ置いておくのです。今度は覚えようとする演説の内容をどんどんイメージ化していきます。つまり言葉を映像に置き換えていきます。
 例えば非常に長い演説原稿を記憶したいのであったら、一字一句、一単語ずつ映像化していくととんでもないことになるので、通常はパラグラフの中心トピックだけを取り出して、それを映像に映していきます。ちょっと試みに桃太郎の話をどうやって覚えるかというのをやってみますと、昔々おじいさんとおばあさんがいましたという時は、おじいさんとおばあさんの図像を作るのです。こういった場面、川で洗濯をしていたら、桃が流れてきて、割ったら赤ちゃんが出てきてという、この話の流れを押さえるポイントをイメージ化していきます。成長をして子分を従えて、鬼退治に行って戦ってというところまで行きます。
 物語の時系列に沿って、このように一連のイメージ群を作ったら、今度はそれらを最初に脳みそに刻み込んだ、例の建築空間の中に一定の間隔を保って、順番に置いていきます。この時物語の展開に沿って、順序よく建物の中にイメージを順番に置いていくのが大事です。つまり玄関の所に最初のイメージを置いて、玄関を上がった所に2番目のイメージを置いてという感じになっていきます。
 重要なのは、建物のどこに何のイメージを置いたのかというのを、しっかりと覚えないといけないということです。つまり、場所とイメージの情報を、セットで記憶していきます。以上でやっと準備が完了しまして、桃太郎でもいいのですが、こうやって記憶した内容を再生したい時には、この仮想空間、頭の中の仮想建築を目を閉じて、頭の中で想像力の中で巡回、歩いて行って、イメージに出会う度ごとにそこに託してある情報を取り出していって、物語を再生していきます。
 つまり最初にこういう絵が玄関の所に置いてあったら、昔々おじいさんとおばあさんが仲良く暮らしていましたという情報を取り出すのです。レンジで解凍するような形で。一字一句を覚えているわけではないので、中心となるトピックを見て、こういう話だったなというのを徐々に思い出していくわけです。
 それからちょっと補足をしますと、記憶のイメージというのは実は動きがあって、鮮烈な印象を与えるものほど良いとされていました。どういうことかと言うと、すごく美しいとか逆にすごく醜いとか、あるいは動きがコミカルである、グロテスクである。要するにエキセントリックで動きを伴った図像を作れと言っています。そういった動きを持った図像を建築の中に置いていくのです。人々はその中を頭の中で瞑想して、移動していきながら鑑賞をしていきます。
 スライドで今出しているのは、16世紀の本から取ってきました、非常にエキセントリックな記憶イメージで、これは何を記憶していたのかはよく分からないのですけど、非常に鮮烈で一度見たら忘れられないようなイメージ、わざとこういったぎょっとするようなイメージを作るのです。これは医学的に説明ができることでして、感情の動きを伴う記憶ほど、長持ちをするという原理を利用しています。つまり思わずぎくっとするようなショッキングなイメージをわざと作っていくのです。ですから桃太郎の例で言いますと、先ほどちょっと見せたスライドというのは、かわいすぎてあまりよくないのですね。もっとどぎついやつを作って下さい。桃太郎でしたら、ものすごい美少年で、逆に鬼は恐ろしい夢に出てきそうなぐらい怖い姿など、そういった感じで極端なイメージを作っていく必要があります。
 こういった記憶イメージというのは、いらなくなったら建物から消すのです。消しゴムで消すように消してしまえばよくて、その際背景の建築まで消してしまうと大変なことになるので、建物は器として消さないようにしていきます。ですから背景の建物というのは何度でも、別の記憶のために再利用可能なのです。ですから別名このテクニックを建築的記憶術とも言います。
 何度もこの絵を出しているのですが、非常に回りくどいやり方なのですが、以上が記憶術のシステムです。まず記憶の内容とは関係ない建物を覚えなくてはいけない。記憶をイメージにしなくてはいけない、それをどこに置いたのかを覚えないといけないという二度手間三度手間になってしまうのですが、ただ、情報をこのように映像化して、しかも立体的に整理するこの方法というのが、実はわれわれの認識構造、もしくは記憶の生理学に基づいた、非常に有効な手段であるということが、現代の最新の医科学によって、次々と証明されてきています。つまり科学的に効くのですね。
 どういうことかと言うと、ばらばらで脈絡のないデータを覚えるというのは、われわれには非常に大変ですよね。例えば円周率の数列を覚えろと言われても、なかなかできないわけですが、逆に意味のあるデータ、意味のある情報が一定の秩序に従って、次々とつながっていれば、実は案外すんなりと記憶できて、しかもなかなか忘れないのです。先ほどから見せています桃太郎の例というのは、実は例として良くないのです。なぜかと言うと、皆さん話の筋を知っているから良くないのです。つまり、いまいち記憶術がどう効くのかよく分からない例でした。
 ただ桃太郎ではなくて、例えば全く前後に脈絡のない膨大な情報の羅列であるとか、初めて聞く長い物語の内容を覚えようとする場合に、今話しました記憶術のテクニックが大変有効に機能します。初めて接する情報の場合というのは、ある情報の次にどんな情報が来るかというのはわれわれは予想できないのです。分からないわけです。つまり情報相互の連結が弱いわけです。そこで連結が弱い、つまり前後の脈絡の薄い情報の群れに、びしっとした秩序的な結びつきを、秩序を人工的に与えてやろうというのが、この記憶術の基本原理になります。
 その情報の間に人工的な秩序を与えてくれるのが、情報の入れ物としての建築空間.器としての建築空間が、実は情報の連鎖の役割をしてくれるのです。当たり前ですが、建築というのはぐらぐらしません。建築は見るたびに形が変わることもないですよね。だから器としてパーフェクトなわけです。つまり建築というのは、がっしりとした情報の器、フレームとして活用できるわけです。
 われわれは人間の脳みそをばかにしてはいけないのです。一説には一千兆項目のデータを、われわれの一般の脳みそというのは記憶可能であると言われています。一千兆というのは気が遠くなる数字でして、どこかの国の借金みたいなのですが、例えば建築をまずインプットしたり、言葉を映像に変換して情報の容量が非常に増えるわけですが、そんなものは一千兆項目を覚えられる脳みそからしてみたら、全く痛くもかゆくもないのです。微々たるものです。大変だなと思うかもしれませんが、実はちゃんとトレーニングを積んだうえでこの記憶術を実践してみると、記憶がだいぶ改善されると思います。
 もう一度確認しますと、古典的な記憶術というのは、情報相互の意味のつながりと、記憶の背景としての建築が持つ空間の秩序性、この2つを巧みに組み合わせたものです。だから機能して当然なのです。古代ローマ人というのは現代的な医学をもちろん持っていませんが、経験則からこういったものを知っていたのでしょうね。
 以上が記憶術についてのざっとした解説でしたが、じゃあこれが、イタリアルネッサンスのお庭と一体どうつながってくるのか、ということなのですが。実はこの記憶術と呼ばれる古代の情報整理テクニックが、今われわれが注目しています初期近代のヨーロッパで爆発的に流行するという現象が起きます。16世紀当時、情報の洪水にあえいでいた当時の知識人たちは、偉大な古代ローマ人たちの活用していた情報整理のテクニックを、自分たちでも使えるのではないか、使ってみよう、古代人のまねをしようと思ったわけです。
 このようにして、コンピューターがなかった16世紀当時、社会で出世をしたり、学問の世界で活躍したりしようとする人々は、こぞってこの記憶術をマスターしていきました。キケロやクインテリアヌスの本を普通に読んでいくと、こういった方法が解説してあるので、実践できるのです。
 ただし、古代ローマ、キケロの時代と比べますと、初期近代のヨーロッパを襲った情報の洪水というのは、はるかに規模の大きい物でした。ですからルネッサンスの知識人達も、古代の記憶術を採用、まねをするのですが、さまざまに自分たちなりに改良して、応用していくのです。
 先ほど記憶の背景、器として用いる仮想の建築空間というのが、秩序と多様性を兼ね備えるべきであると言いました。すでにお気づきの方もおられると思うのですが、この秩序と多様性を兼ね備えた空間といいますと、ルネッサンス時代に発達した、イタリア式庭園の空間がこの記憶の背景として、実は最適な特徴を備えていました。つまり、先ほど整理したのですが、真ん中を通る軸線によって、完璧にコントロールされた非常に秩序正しい空間であると同時に、空間に多様性を与える、非常に多様なデザインを使っているのです。幾何学の花壇であるとか、噴水や彫刻といった、多様な要素がぎっしりと詰め込まれています。
 ですからここに、記憶術と庭園のつながりというのは当然想定できるわけで、誰か似たような事を考えた人がいないだろうかと、個人的にいろいろ本を探していきましたら、一人いました。怪しいやつが一人いたのですね。この人で、アゴスティーノ・デル・リッチョという人です。
 16世紀後半のフィレンツェで暮らしていました、ドミニコ会の修道士、お坊さんです。お坊さんとは言いながら、知的好奇心爆発の人でして、百科全書的な知識を備えた文筆家です。本をいっぱい書いています。農業論や園芸論やあるいはミネラル、鉱物論。それから注目すべきなのが、実は記憶術の本も書いてくれています。
 このデル・リッチョという人が住んでいた当時の、16世紀末のフィレンツェというのは、メディチ家が支配するトスカーナ大公国、〓Granducato di Toscana〓の首都でした。メディチ家の学芸庇護によって、当時のフィレンツェというのは、ヨーロッパでも有数の科学・芸術文化が発達した都市でした。これから見ていくデル・リッチョというお坊さんの著作の中でも、今回特に重要なのが赤字で示しました2冊の本です。
 1冊はそのものずばり、記憶術の解説本である、タイトルそのままですね、『記憶術』アルテ・デッラ・メモーリア・ロカーレという本なのですが、アルテ・レッラ・メモーリア、記憶術です。
 それからもう一つ注目したい本が、下のほうの赤字なのですが、農業と園芸学の百科全書的な入門著作である、『経験農業論』Agricoltura Sperimentataという本です。この下のほうの本、農業論の本の中で、ある章でデル・リッチョさんは、王様のための理想庭園のプロジェクトを文章で書き記してくれています。この理想のお庭のプロジェクトを今整理したような記憶術や情報整理の観点から、これから3分の1ぐらいの後半で、じっくり見たいと思います。
 2冊見ていくわけなのですが、まず最初に上のほうの、記憶術という本の内容をざっと紹介しますが、こちらは配布資料にも載せた図版です。これはタイトルページですね。100ページ弱の本、手稿と書いてあるので、手書きの本で実はまだ出版されていない、出版される前に著者が亡くなってしまったのですが、現在のフィレンツェのBiblioteca Nazionale Centrale国立中央図書館に保存されています。まだ日本語では残念ながら読めないのですが、100ページぐらいで全7章構成になっています。
 どんなことが書いてあるかというと、実はそれほど面白いことは書いていなくて、先ほど整理しました伝統的な、要するにクラシックな記憶術について、手取り足取り解説してくれています。要するに場所と建築とイメージに基づく記憶強化法です。第1章では、記憶術のテクニックそのものを、絶対権力を備えた国王に例えているのです。だからこれは第1章の表紙というか扉絵の部分なのです。これは王様で、彼自身が実は記憶術のシンボルであるということです。
 つまり何をデル・リッチョは言いたいかというと、記憶術を使って得られる絶大なパワー、つまりものすごい記憶力ですね。知識イコールパワーである、そういったパワーはまさに国を治める絶対君主の力にも匹敵するのだと、高らかに記憶術の効能をうたい上げているのです。記憶術は国王に匹敵するのだということを言っています。おそらくこのデル・リッチョという本人自身も、記憶術を普段から使っていたはずなのです。そうしないとこういう本は書けませんので。
 この本は繰り返しますと、いたって伝統的な解説本なわけなのですが、実はこのデル・リッチョという著者が先ほど挙げました『農業論』という別の著作の中で、まさにこの伝統的な記憶術の、いろんな規則を応用したお庭の空間を提案している点が興味深いのです。そちらのほうを見ていきます。
 先ほどの2冊目のほうの本の内容に移っていきますが。彼が記した『経験農業論』Agricoltura Sperimentataという本なのですが、これは農業や園芸、つまりお庭造りですね、園芸に関するさまざまな話題を収録した百科全書です。ものすごく分厚い本でして、実は未完成のまま著者は亡くなってしまうのですが、その最後の亡くなる寸前に書いた章が、実は〓Giardino di un re〓というタイトルの章で、英訳しますと〓Garden of a King〓「王の庭」というタイトルなのです。
 この王の庭という章の中で、理想的な庭園の造り方を彼は縷々解説しています。これはちょっと注意していただきたいのですが、実在したお庭ではないです。あくまでこのデル・リッチョという人が頭の中で、こういうお庭があったらいいなというのを考えて造ったお庭です。さらに注意していただきたいのが、図版が一切ないのです。ひたすら文章で空間とイメージを記述していきます。ものすごく長い章です。
 ただ,はてなマークを入れたのですが、この王様の庭というのは、彼が別の著作で記憶術を王様に例えていた辺りからすると、ちょっとつながりがあるのではないかと個人的に思っています。同じ著者で王様という比喩を使っていますので、おそらく関係があるのではないかと思っています。
 このデル・リッチョが王様のために造ったお庭というのは、1番から4番まで番号をふりましたが、このように大きく分けると4つのエレメントで庭が構成されています。1は宮殿で建築なのですが、2、3、4とお庭ができています。全部面白いのですが、きょうは時間の関係で4番だけ詳しく見ていきます。
 この模式図だけは配布資料にも載っているのですが、そちらでは8グロッタというのが取れてしまっていますが。王の森の部分を見ていきますと、一辺が1マイル、1653メートルほどの広大な正方形の森です。内部はこれは覚えておいてほしいのですが、樹木を迷路状に植えているのです。迷路を再現できなかったので白抜きになっています。これは全部うねうねとなっている樹木の迷路になっています。全体を4つに分割してそれぞれの区画に8つずつ、等間隔で合計32個のグロッタと呼ばれるエレメントを設置しています。
 グロッタとは何かということなのですが、スライドの右側の写真を見ていただきたいのですが、グロッタと言いますとイタリア語なのですが、もともとは自然の洞窟や鍾乳洞を意味する言葉です。現在でもそういう意味なのですが、ただお庭の中にグロッタを置くといった場合は人工洞窟のことを指しています。
 ルネッサンスの庭園でこのグロッタを作ることが大流行するのです。自然の洞窟をまねて、鍾乳石や石灰岩を壁一面に貼り付けまして、中に噴水や彫刻を置いたり、場合によっては壁画を描いたりしていきます。有名なのはボーボリ庭園のグロッタ・グランデというのがフィレンツェにあります。これも自然に見えるのですが、実は全部人工で造った、こういった石を貼り付けているのですね。お庭の人工洞窟です。
 何ではやったかと言うと、要するに夏場ここに入ると非常に涼しいのですね。ひんやりしまして、イタリアの夏は強烈に熱いのですが、イタリア人の貴族というのは当時真夏にお庭を散策、散歩するのですね。なぜそんなことをしたかというと、熱中症を心配するのですが、実はこういった所に入るとひんやりして涼しくて、冷房がなかった当時、冷房の疑似体験ができる非常に涼しい空間だったのではやりました。
 ヨーロッパ人、アルプスの北のほうの人たちも一生懸命イタリアの庭をまねするのですが、イングランドなどでこういうのを作ると寒いのですね。そこまでまねできなかったみたいなのですが。
 デル・リッチョの話に戻りますと、スライドを変えますが。32個造るのですね。8掛ける4で32個のグロッタを造っていきます。これは全部文章で説明しているのですが、デル・リッチョは非常に細かく文章で書いていて、最大の特徴をまとめますと、32個各グロッタそれぞれについて、一つ装飾テーマが割り当てられています。本来ですとこの32個のテーマを全部リストアップした資料を持って来ればよかったのですが、うっかりしていて忘れてしまったので、赤字で大急ぎで書き加えたものがあります。だから本当はこういったテーマが32個あるのです。
 羊飼いの物語を洞窟の中で表現したりですとか、ドラゴンと騎士が戦う場面を、水の力を使って動く自動機械人形によって再現したり、それから結婚式もそうですね。小さい人形をいっぱい置いておいて、それを水の力で動かして2分か3分ぐらいの上演時間のミニシアター、ミニ結婚式をやらせる。戦争などもそうです。街を取り囲んだミニ兵隊たちがどんぱちやるのです。もちろん火薬は使えないので、水を水鉄砲みたいな感じで戦争をやる。そういった場面を見て楽しむということになります。
 自動機械人形だけではなくて、彫刻や壁画といったものをグロッタの中にびっしりと置きまして、こういったテーマをそれぞれ表現していきます。もともとヨーロッパの文化において、この洞窟、グロッタというのは伝統的に記憶のメタファーだったのです。聖アウグスティヌスというキリスト教の聖人がいますが、彼が『告白』という著作の中で、実は記憶を洞窟に例えています。神に関する知識がぎっしりと詰まった宝石箱のような洞窟、それが記憶であるということを彼は言っているのです。ですから当然修道士であったアゴスティーノ・デル・リッチョという人も知っていたはずです。
 しかもデル・リッチョの王の森の中では、一定間隔でグロッタが並んでいるのです。迷路になっているのですが、どこにどう置いていたのかよく分からないですが、文章だとなんとでも書けるので、彼は一定間隔で8つのグロッタが並んでいたと書いています。つまりインターバルが一定なのですね。その中に百科全書的なエンサイクロペディアのような知識が、ぎっしりと32個分詰め込まれています。ですからここまで状況証拠だけなのですが、32個のグロッタが、記憶の器、情報の入れ物として使われていた可能性は非常に高いと個人的には考えています。もしそうだとすれば、デル・リッチョはこの庭を通じて一体何を記憶して、情報をどうやって人々に伝達しようとしていたのかと、そこまで踏み込んで考えてみるともっと面白くなってきます。
 具体的にグロッタの装飾をいくつか取り上げて見てみます。一つがクピードのグロッタという名前がついたグロッタが、この32個の中の一つにあります。配布資料には模式図だけ載せてありますが、クピードというのは英語のキューピッドです。赤ちゃんに翼が生えた愛の神さまです。弓矢を持っていて非常に危険なやつでして、やたらめったら目隠しをした状態で、恋の弓矢を放つのですね。それに刺さってしまうと恋に落ちるということになります。デル・リッチョはこのクピードにささげられたテーマのグロッタを描写していきます。それによりますと、内部は直径約9メートルの正多角形、8角形の平面で、この丸は何かというと円柱が並んでいる平面図です。
 グロッタの中央部分には、これは配布資料の引用の丸1になるのですが、スライドにも同じ文章を載せましたが、中央にクピードの姿をかたどった噴水があるのだと彼は言っています。このクピードの像というのが、愛の力の象徴なのですね。このように弓矢を持って、人々を狙っている彫刻、噴水があると言っています。実はデル・リッチョはさらに筆を進めてこう言うのです。このクピードの中央の大理石の像というのはなんと、水の力でくるくると、台座の上を回転しまして、ところかまわず水の矢を打ちまくるのだといいます。ですからここからわれわれが入ると、この人はところかまわずランダムに発射するのですね。逃げても多分いつか当たります。ということを表現しています。
 ですからやってきた人はほぼ必ず水びたしになるのですが、当時の貴族というのは、お庭に入った時に水びたしになるというのは、実はもう想定内なのです。濡れてもいい恰好というと語弊がありますが、濡れてもいい感じでお庭を見ていきます。かなり偉い王様クラスの人がお庭に訪問してきた時も、平気で水をかけます。そこで怒ったら駄目なので、そこで笑わないといけないという非常に洗練された文化なのですが、これ皆さん何を表しているか、何となく想像がつくと思うのですが、要するに相手かまわず矢を放って、人々を突如恋に陥らせるクピードの気まぐれさというのを、回転噴水によって表しています。要するに、人は突然恋に落ちてしまうというのを噴水で表しているのです。
 グロッタの正面奥には、一段高くなった部分がありまして、そこにさまざまな愛に関する古今東西の物語が、大理石の浮き彫りによって表現されているとデル・リッチョは書いています。愛をめぐるさまざまな歴史上や神話上の物語が、浮き彫り彫刻でびっしりとここに書かれているのです。デル・リッチョはその浮き彫りの一つを詳しく取り上げて解説しています。
 それを読んでいきますと、非常に豪華な玉座の上に、愛の神クピードが座っているという浮き彫り彫刻であると彼は言っています。そこから先が引用の2番になるのですが。このようにデル・リッチョは書いているのです。玉座に座ったクピードが黄金の鎖を手に握っていて、その先に何本も銀の鎖が枝分かれしています。その銀の鎖の先には、うら若き男女、もしくはお年を召した方々、あるいは金持ちや貧乏人、主人と使用人、賢者や学者、そして愚か者というものが、およそこの世に存在するすべての境遇の人々が、この銀の鎖にくくりつけられていて、最終的には愛の神、クピードが握る黄金の鎖にくっついているといいます。
 さらにデル・リッチョは興味深いことを述べるのです。クピードの神様は笑いながらその黄金の鎖をたぐりよせている、自分のほうにぐっと引っ張るのです。そして彼が持っている黄金の鎖にはラテン語で書かれた標語、モットーですね、標語が掲げられています。何て書いてあるかというと、われは全てを引き寄せる。オムネース・アットラオー、ラテン語なのですが、こういったイメージです。残念ながらデル・リッチョの本には図版がないので、想像力を補うしかないのですが、文章だけからたどっていきますと、これは非常にエキセントリックで突拍子もないイメージなのです。よく考えると裸の子どもが黄金の鎖を持って座っています。その鎖の先には、老若男女あらゆる階級の人々がくくりつけられています。とても変なイメージなのですが、ここにラテン語の標語、「われは全てを引き寄せる」というのを組み合わせますと、途端に意味がはっきりするのです。
 つまり愛の神様であるクピードが表す愛の力というのは、身分や年齢に関わりなく、全ての人々を縛り付ける、隷属させるだけの力があるのだという、愛に関する普遍的なイメージです。つまりお年寄りが非常に恋に燃えてしまうことも当然ありますよね。逆に身分の違いを超えた恋愛だって当然あるわけです。ひとたび愛の神の鎖に捉えられてしまうと、一生従属してしまうという愛のパワーを表したイメージであるということが想像できます。
 このように標語、モットーとそれからイメージの組み合わせによって、ある特殊なメッセージを生み出す文学、これをエンブレム、もしくはインプレーザ文学と言っています。当時のヨーロッパでこのエンブレムやインプレーザというのが非常にはやるのです。デル・リッチョはそれを当然ここで応用しています。
 スライドの左下、右下に挙げた図版というのが、当時のエンブレム文学の中にあらわれた、同じように愛の強さを表している作品です。左下は愛の神様クピードが2頭のライオンを縛り付けて車に乗っています。ライオンは愛の力強さを表しています。ただし、クピードは盲目なのです。目隠しして運転しているので、どこに行くか分からない。愛のきまぐれさというのを表しています。
 それから似たようなイメージとして、『ポリフィーロの夢』というルネッサンスの幻想文学の傑作があるのですが、そちらにも似たようなイメージ、これもぎょっとするイメージなのですが、愛の神様であるクピードがはりせんを持って、縛り付けられた人間を叩いている。車に乗っている。これもやはり愛の力に縛り付けられた人間の姿を表しています。
 ですからデル・リッチョはおそらくこういった当時はやっていた、愛の強さと従属、隷属といったイメージを、おそらく自分のお庭の装飾として採用しています。このようにグロッタ空間の中で文字とイメージを巧みに組み合わせて、複雑なメッセージを伝達しているのです。特に意味を圧縮して伝達しています。これ以外の32個のグロッタもやはり似たような構成です。時間の関係であと1個ぐらいしか見られないのですが、もう一つ別のグロッタの面白いのを見ますと。
 バッコスのグロッタ。いいですね、ワインのグロッタです。バッコスというのはバッカスとも言いますが、ワインの神様です。どういう構成か。これもやはり平面図の模式図を持ってきました。グロッタの中央に大理石で作られた小さなお庭を設置するのだと彼は言います。大理石で庭を造るというのはイメージがわきづらいのですが、白い大理石を使って、お庭のような空間を真ん中にぽんと造ります。ジオラマですね。
 庭の中央に今度は酒樽に乗ったバッコス神の彫刻を置きます。バッコス神はぶどうのつたでできた冠を頭にかぶっているのだと言っています。いろいろなイメージから取ってきています。これはミケランジェロの彫刻です。このバッコス像が樽の上に乗っているのです。彼は両手にグラスを握っていて、その両手のグラスから真上に水が飛び上がります。飛び上がった水を弧を描いて落ちてくるのですが、落ちてくる水をバッコスが大きな口を開けて飲んでいるといいます。
 当然これは水ではなくて、本当はワインを表しているのですね。水なのですがワインとして見てください。それからバッコス神がまたがっているこの大きな酒樽からは、幾筋もの水がぴゅうっと流れ出ています。当然これも水ではなくてワインをイメージして設計者は作っているのですが、そのワインの筋、水の筋に群がる老若男女、人々の姿がやはり彫刻で表現されています。
 先ほどエンブレム文学がはやったと言ったのですが、デル・リッチョの理想のお庭と同時代のエンブレムブックを探してみますと、デル・リッチョが書いているのとそっくりのイメージのエンブレムが結構あるのですね。ですから彼もこれを見た可能性があります。これを見ますと、やはり樽の上にバッコスが乗っていて、樽から漏れたワインを何とかもらおうと、女性や男性が群がっているのです。
 図版の源泉、どれが出展かというのは議論が細かくなるので今回は省略しますが、われわれが今見ているデル・リッチョという人物の、オリジナリティーは一体どこにあるかというと、それはグロッタの装飾を用いて、メインテーマを大幅に拡幅するところです。つまり32個一個一個、メインテーマが決められているのですが、それを拡幅、拡張する仕方が面白いのです。これは全てのグロッタに言えることです。
 どういうことかと言うと、まずグロッタの中央にメインテーマとなる彫刻を置くのです。入ってすぐ一番目に付くところに、メインテーマの彫刻、もしくは機械人形を置きます。そのテーマを百科全書的に拡張するために、グロッタの壁面の部分にさまざまな関連するトピックを描いた浮き彫りや壁画を、ぐるりとめぐらせるということをやります。思い出していただきたいのですが、先ほどの愛の神クピードのグロッタも似たような構成でした。真ん中にメインテーマの神様の彫刻があって、壁にいろいろな愛の物語が描かれていました。
 今見ているバッコスのグロッタも見ていきますと、壁画に一体何を描くかという指示があるのですが、それはぶどうの収穫祭の様子を描いてくださいとデル・リッチョは言っています。細かい指示があるのですね。ぶどうを摘む農民だけではなくて、あらゆる階級や年齢の男女の姿も描いてくださいと言っています。これも先ほどの愛のトピックと同じでして、要するに何を言いたいかと言うと、ワインが持っている魅力には性別や年齢や身分に関わらず、全ての人々が引きつけられるのだというメッセージと読み取れます。
 非常に面白いのが、収穫の模様だけではなくて、さらに壁画に描いてほしいというものは何かと言うと、ワインの作り方、ワインの製造工程やあるいはできたワインを飲みながら楽しい宴会をしている場面を壁画に描いてくれと言っています。こういった場面ですね。この宴会の場面には、酒に酔った宴会特有のコミカルな悪ふざけや、冗談の場面も描きこんで壁画を見る人を楽しませて、笑わせるようにしなさいという指示があります。
 ここで注意していただきたいのが、デル・リッチョが喜びの感情を、つまり心をゆさぶるのですね。喜びの感情を見る者の心に意図的に喚起しているという点が注目されます。つまり真面目にきちんとテーブルに座って、お行儀よく食事をしている絵よりも、このように滑稽で陽気な場面のほうが実は記憶に残りやすいのですね。もちろんこれは参考図なのですが。
 ですからこのバッコスのグロッタに入った人は、まず正面のバッコスの噴水を見ます。樽の上に乗った神様を見て、このグロッタのメインテーマがワインであるということを、まずたちどころに理解します。次いでその周辺のグロッタの壁に描かれた絵を見ることによって、ぶどうの収穫から始まりまして、ワインの作り方、そして出来上がったワインを楽しむための宴会に至るまでの、言ってみればワインの文化史、もしくはワインの博物誌といったものを、視覚的に追いかけることができるしかけになっています。しかも画面は面白おかしくて記憶に残りやすいわけです。
 本当なら他にももっといろいろグロッタを紹介したいのですが、時間の関係でできませんので、まとめに入っていきますと、これまで見たクピードのグロッタ、それからバッコスのグロッタに共通する特徴として挙げられるのが、繰り返しますが、グロッタに割り当てられた中心テーマが、グロッタの中央で彫刻によって表されています。模式図的に書いてみました。ですから中に入った人は直感的にメイントピックについてすぐ分かるのです。このグロッタのテーマは何だろう。羊飼いであるとか、戦争であるというのはすぐ分かります。
 それからグロッタの壁画や彫刻の浮き彫りなどで、そのメインテーマに関連するあらゆるサブトピック、サブテーマ、副次的なテーマがビジュアル的に、絵によって表されています。思い出していただきたいのですが、クピードのグロッタでは、愛に関する古今東西のあらゆる物語や神話を刻み込んだ浮き彫り彫刻が壁一面にありました。たった今見たバッコスのグロッタでは、ワインの文化史が今度は壁画として描かれていました。つまり何をやっているかというと、情報を視覚化、ビジュアル化して、それを特定の場所に配置するということをやっています。そして非常にリアルなイメージや、あるいは人々を笑わせるようなイメージ、場合によっては噴水の水の攻撃によって、人々をどきっとさせるような、そういったイメージによって、非常に膨大な情報をうまく圧縮して、効率よく記憶できる環境を整えているのではないかと考えています。
 当然ながらここには先ほど整理しました、記憶術からの応用を想定する事ができます。もう一回思い出しますと、記憶術というのは頭の中の仮想空間、バーチャルな建築空間を歩いて回って、そこで出会ったイメージからそこにしまってある情報を取り出すというテクニックでした。これは言葉を変えるのならば、頭の中の情報処理、もしくは認識の仕方のプロセスが、物理空間を移動するというメタファーで把握されているということです。
 つまり昔のヨーロッパ人というのは何か情報を探そうとした場合、頭の中を物理的に歩くのです。「えーと、思い出せない」という時に、ちょっと頭の中を歩いてくるという感じで歩くわけです。デル・リッチョはおそらくそのシステムを応用して、実際の庭園の設計に生かしたのではないかと考えています。
 デル・リッチョのこの王の森の中には、等間隔に置かれた32個のグロッタ、すなわち一種のテーマ別情報ボックスと言っていいと思うのですが、テーマ別の32個の情報ボックスが等間隔できちんと並んでいます。その中に映像化した、ビジュアル化した膨大な情報がきちんと、メイントピックとサブトピックの組み合わせで配置されています。これは非常に情報が検索しやすいシステムになっています。

 であると同時に、当時記憶術を活用して、場所とイメージの秩序的な連鎖によって、精神空間の中を作っていた、歩いていた、当時の知識人たちの頭の中の構造が、ぽっかりと現実空間に飛び出してきてしまったものと言えるのではないかと考えています。しつこくこの図を出すのですが、非常に印象的な図でして、当時の人たちというのは、頭の中の構造を物理空間的な広がりとして考えているのです。何か情報を探そうと思ったら、目で歩くと、歩かなくてもいいのですが、目で移動しながら探していくわけです。
 こう考えていきますと、王の森というのは、先ほど迷路でできていると言いました。ぐちゃぐちゃな迷路の中にどういう方法かは知らないけど、32個のグロッタがある。こう考えてくると、実は迷路というのはあまり情報をかき乱すような役割や、マイナスのイメージはなくて、むしろデル・リッチョの脳みそのしわなのではないかと思えてきます。
 一見複雑に見えるのですが、検索方法さえ押さえておけば、情報はわれわれはいつでも手軽に取り出すことができます。ですからデル・リッチョが構想した王様のための理想庭園、特にこの森の中を歩くという行為は想像してみると楽しくてわくわくするのですが、実はこのデル・リッチョという好奇心に満ち満ちた知識人の頭の中をのぞいてみる、バーチャルに歩いてみることに等しいのではないかと。そういうことができます。
 まとめに入りますと、一般論として言いますと、庭園空間、庭園というのは、そのお庭が造られた時代の世界観を反映します。つまりその当時、一体知識の世界がどういう状況にあったのかというのを、最もクリアに映し出してくれる時代の鏡ということができます。ですから中世のお庭は壁に囲まれて、特に変化がなかったというのは、そういった知識が、中世の知識の状態というのが実はあまり変化がなかった、と多少強引ではあるのですが捉えることもできます。
 今回の発表では、知識の大変革が起こっていた初期近代という時代のお庭に着目しまして、その空間の中に同時代の知識の反映を読み取ろうとしました。繰り返しますが、情報処理の空間としての庭園という視点です。動植物のコレクションを通じまして、拡大する一方であった当時の世界のミニチュア模型を、庭として造ろうとしていたのではないかと考えています。
 このような庭におけるコレクションが、同じく空間の秩序を利用して、膨大な情報をコントロールしようとしていた記憶術と結びつくのは、むしろ全然おかしいことではなくて、必然的な成り行きではなかったかと思えてしまうほどです。
 きょうお話ししたのは、いわば理論編とも言うべき内容でして、本来ならばここで美しい写真をいっぱい見せて、実際のお庭を取り上げて、記憶術からの応用の側面を具体的にたどってみるべきなのですが、残念ながら時間がなくて、時間がないだけではなくて、これはやろうとすると難しいのですね。
 デル・リッチョという人は、今分析した理想庭園をゼロから造りあげたのでは決してないのです。彼は言うのです。「自分は同時代の傑作イタリア式庭園をつぶさに観察して、その最良の部分を組み合わせてこのお庭を造ったのだ」と彼はいろいろな所で言っています。あの庭も見たし、この庭も見た。おいしい部分を活用したと彼は言っています。ですからきょう指摘したような、デル・リッチョの理想庭園についていくつか、記憶術からの影響を指摘しましたが、実は間接的にではあるのですが、デル・リッチョが暮らしていた当時に造られていたお庭にも、間接的に適用し、指摘することができるのではないかと考えています。
 この点については今後深く掘り下げていきたいと思っていますが、少しだけ言っておきますと、これまで庭の形にばかり注目が集まって、庭の中にどんな情報や観念や哲学が収められていたのかというところは、ほとんど注目がされてこなかったのです。けれども例えば記憶術という情報ツールに着目することで、きょうお話ししたように、情報の入れ物としての庭園という、これまでにはなかった斬新な視点で、ルネッサンス時代の庭園芸術を分析する事ができます。きょうお話ししたような、理想の庭園モデルの場合というのは、分析がわりと簡単ではあるのです。理論的な分析、きっちりと文章で書いてくれているので、簡単ではあるのですが、実際に物理空間に造られた庭園に、記憶術をはじめとする同時代のさまざまな知的な潮流、哲学的な潮流を読み込んでいくのは大変難しいわけです。ただ、不可能ではないわけです。
 このような新しいお庭の見方、新しいお庭の分析の仕方というのはまだまだ始まったばかりでして、今後の研究が期待されますし、私自身も日々お庭のことを考えながら研究をしています。
 現在では記憶と言うと、何だか詰め込み教育の代名詞のように捉えられていまして、記憶というのは独創性とは対極の存在である、と考えらえれているのではないかと思っています。ただ実際には決してそうではないということを言いたいのですね。記憶を味方につけた脳みそが、爆発的なクリエーション、創造力を発揮するということを昔の人たちは知っていました。文学に限らず、絵画や彫刻や建築、それから音楽などでも、何か新しい物を自分で作ろうとしたら、どこかから、天上からインスピレーションが自然にわいてくるのを、ただただ受け身に待っているのでは駄目なのです。
 そうではなくて、記憶術にあえて頼らなくてもいいのですが、例えば記憶術に頼って、あらかじめ過去の優れた作品のデータを頭の中にしまいこんでおいて、それらの情報の断片、それらを自由自在に組み合わせて、新しい文脈の元に情報をまとめ上げるということを、特に初期近代の人たちはやっていました。
 ラッファエロやミケランジェロやレオナルドもきっとそういった感じで、創造していたはずです。そもそも全くのゼロから何かを生み出すというのは、神様でもない限り、われわれ人間には不可能です。別にそれは悲しいことではなくて、むしろ先代の人々、先輩たちが生み出してきたものを参照しつつ、その組み合わせを少しずらしたり、少し変えることによって、オリジナル性、独創性を発揮するというのは、本来われわれ人間に許されたクリエーションなわけです。どこからかまったく新しくインスピレーションがわいてきたと言い張る、主張する芸術家も中には居るかもしれませんが、それは無意識でどこかから過去の作品からインスピレーションを得ているはずです。
 ですからプロの音楽家というのは音楽をよく聞きますし、プロの建築家というのは現代だけではなくて、過去から現代にいたるまでの傑作の建築空間を世界旅行したりして、かたっぱしから見て体験していくのです。そして無意識的に記憶に放り込んでいくわけです。そういった膨大な作品情報が後々自分が作品を作る際の、情報源、インスピレーションになるわけです。
 つまり創造、クリエーションには記憶がもっとも重要であるという、一見すると逆説的な命題、特に受験戦争に追われる世代にとって、逆説的な命題がここに成立します。要するにクリエーティブ・メモリー、創造的記憶という考え方です。独創的でありたかったら、まず膨大な情報を記憶しないといけないのです。その際大きな力となったのが、当然ながら記憶術と呼ばれる古代のテクニックです。だからこそルネッサンスの時代にあれほどはやったのです。
 現代のようにスマートホンやパソコンやUSBメモリーがなかった時代というのは、人々は記憶を味方につけようと、さまざまなテクニックを開発してきました。そのうちの一つが当然記憶術だったわけです。そういったさまざまな知的な実験、思考実験の中、試行錯誤の中から、実は現代のコンピューター言語に発展するような考え方ですね、ゼロと1のバイナリーシステムや、あるいは書誌学、もしくは動物や植物の分類学、図書館情報学といった近代的な学問が、こういった試みから発展してきたという事実があります。これは事実なのです。
 現代社会では外部記憶装置が非常に発達してしまったために、もはやわれわれは自分の記憶に頼る必要がないです。パソコンにデータを残しておけば、いちいち自分で覚える必要はないのです。悲しいことなのですが、むしろ現代というのはいかに効率よく情報を消化して、いかに効率よく忘れていくかということが求められる時代です。これは個人的には不幸な時代だと思っています。忘却の時代です。
 昔の人というのは、読んだ本を一字一句覚えていたのです。昔といっても随分昔、中世のころなのですが、本の数も少なかったですし、読んだ本と言うのはそしゃくして何度も反すうをして、繰り返して記憶するぐらい読んでいたのです。それが現代だともう一日に2冊、3冊と読まないといけないという、そういったビジネスマンもいるかと思うのですが、僕はこれは非常に不幸な時代だと思っています。
 忘却の時代だからと言って、記憶が持っているパワーや豊かさ、あるいは可能性をあっさり捨て去ってしまうのは非常にもったいないですね。むしろ記憶を味方につけることによって、われわれ人間の脳みその無限の創造力を開放するための、必須の条件を手に入れることができるのではないかと思っています。
 かつて記憶と正面から取り組んで、記憶の助けを借りて爆発的な創造力を得ていた過去の人々、そんな彼らの生み出した文芸、文学や思想や芸術をより深く理解するためには、われわれ現代人もまた、記憶と格闘しないといけないと考えています。ですから本当にルネッサンスの芸術家たちの作品を深く理解しようと思ったら、われわれもまた、記憶をないがしろにしてはいけないのです。戦わないといけないというか、格闘すると言うとちょっと無粋なので、代わりのイメージを出してみたのですが、これはダンシングミューズと呼ばれる美しいイメージです。
 古代ギリシア神話で、記憶をつかさどるとされていた、記憶女神、ムネモシュネーという女神になります。記憶の女神さま。そのムネモシュメー、記憶の女神の9人の娘たちが学問をつかさどる女神、ムーサたちです。ムーサというのは9人の女神たちのことで、そこからミュージアムという言葉が発展してくるのです。学問の神様たちが9人います。そのような学問をつかさどるムーサ、つまり記憶の娘たちと軽やかな知のダンス、知識のダンスを踊るという、そういった知性が今求められているのではないかと考えています。もうそろそろ終わります。
 個人的には、記憶術と庭園が密接に結びついていたのは、何もきょうお話しした初期近代、ルネッサンスに限った事ではないと考えています。現在でも美しく手入れされた広大な庭園や公園の中をわれわれは散策しますと、非常に疲れていたり、ストレスがたまっている時にそういった所を散策しますと、心が洗われると言いますか整理されて、場合によってはいろいろなアイデアが森の中や公園の中を歩いて行くだけで、ぽこぽことわいてくる、そういう体験をした方がおられると思います。
 特に欧米の企業や大学に多く見られるのですが、研究所や実験室など、高度な知的活動を行う施設には、必ずと言っていいほど広大な庭園が付属しています。これはケンブリッジ大学キングズカレッジの所の写真ですが。こういうのを見ますと、われわれ国土の狭い日本人はそんなに面積をお庭に使っていいのかと思ってしまうのですけど、こういった巨大な庭園や緑地空間や森が、欧米の大学や研究所にはつきものなのです。これは中世以来の伝統です。
 もう1枚お見せしますが、これはハーバード大学のヴィッラ・イ・タッティという名前の、ルネッサンス研究所に付属している非常に美しいお庭です。こういった研究所に付属している緑の空間の中を、研究者たちが実験に疲れたり、論文執筆に疲れたりすると気ままに散策をするのです。していい空間なのです。
 同じように本を読むのに疲れた同僚たちと、この辺でばったり会って、おうとかやあとか言って、議論に花が咲くのです。図書館の中で、お前何やっているんだと言って、ちょっとけんか腰になるのですが、美しいお庭の中を歩いて行くと心が晴れてといいますか、心のバリアが下がってくるのです。たとえ師匠であっても、弟子が師匠に対してわりと気軽に話しかけられるし、同僚同士でも心のバリアが崩れていきます。
 こういった所で研究者たちはアイデアの交換を行っているのです。そういった姿を見ますと、庭園空間が秘めている情報整理のポテンシャル、つまり脳みその中の膨大な情報を秩序正しく並び替えて、そこから新しい情報の結びつきを誘発する、誘い出す、そういったクリエイティブな力を、このお庭の中に感じざるをえないのです。
 ちょっと大胆な提案ではあるのですが、現在ノーベル賞の話題がはやっていますが、もし本気でノーベル賞学者を育てたいのであれば、言いたいことは皆さん分かりますね。高額な非常にお金の高い実験器具を備えたハイテク研究施設、もちろんこれは大事です。大事なのですが、ひょっとしたらそれ以上に大事なのは、むしろそういったハイテク施設の中で、実験活動に知的活動に没頭する研究者たちの心の健康状態ですよね。知的活動で疲れた精神を心地よく癒してくれる場所。同時に新しい発想を生み出すための手助けとなってくれる、ぜいたくな庭園空間を設けることこそが、優れた研究活動のためにもっとも有効ではないかと個人的に考えております。
 ちょっと長くなりましたが、ご清聴ありがとうございました。
(拍手)


司会:桑木野さんどうもありがとうございました。大変面白い、庭園に頭脳の中身が投影されるというお話ですけれど。どなたかご質問があればお受けしたいと思います。いかがでしょうか。
 最初に僕から一つ質問したいのですが。メディチ家の庭園がある意味で革命的、中世の庭園とは全く違う、革命的な庭園であったということなのですけれども、それには誰かブレーンと言いますか、そういった人がいたのではないかという気はするのですが、文献的な裏付けがあるかどうかは別として、どういうことが想定されているのか、それをちょっとお聞きしたいと思うのですけれど。
桑木野:はい。ご質問ありがとうございます。メディチ家がどうしてああいうふうな革新的なお庭を作ることができたのかという点なのですが。ブレーンがいたかどうかというのも、はっきりとは言えないのですが、例えば同時代の芸術家の中に、アルベルティという建築家がいまして、そのアルベルティがヴィッラやお庭の造り方についていろいろ書いているのです。やはり見晴らしがいい場所に建てて、周囲の風景を楽しむ所に別荘とお庭を造るべきである。おそらくそれをメディチ家のトップの人たちが読んでいたのではないか。もしくはメディチ家が造園を命じた建築家たちが、アルベルティの本を教科書のように読んでいたという可能性はあります。
 メディチ家のその当時のトップというのが、老コジモと呼ばれるコジモ1世です。彼は非常に哲学が好きな人で、プラトンなどの本を読んでいきますと、プラトンは庭の中や自然の美しい風景の中で哲学対話をする、パイドロスなどがそうなんですが、そういう場面があるので、おそらくそれにも影響を受けて、財力がたくさん余っていましたので、自分で心地良いお庭や心地良い自然を造って、そこに哲学者や文学者たちを集めて、一種のプラトンアカデミーみたいなものを復活させようという意図が、メディチ家のトップの中には当然あったのではないかと考えています。
司会:はい。お名前からお願いします。
山田:山田と申しますが。初期近代の今のお話は大変よく分かったのですが、それが終わった後、その後どのようにしてなくなってしまって、別のものが生まれたのか、あるいは全く消え去って、観念を表すような庭園というものはもうなくなってしまったのか、その点はいかがでしょう。
桑木野:ありがとうございます。非常に興味深いご指摘でして。私は初期近代を専門にしているものですから、非常にこの時代ばかりクローズアップするのですが、それが終わった後どうなったかと言うと、一つ後の時代がバロックのお庭と言って、ヴェルサイユ宮殿に代表されるような、非常にさらに幾何学性が強いお庭が発展していきまして、やはりそこでも頭の中というか思想をお庭によって表現するというのは行われていました。
 ヴェルサイユ庭園の場合は、ルイ14世の絶対的な権力というのを庭の形で表していましたし、さらにバロックの時代が終わると、先ほどちょっと出ましたが、風景式庭園というのが出てくるのです。もう幾何学ではなくなってしまって、ゴルフ場のようなお庭が造られるのですが、ではそこでは観念を、頭の中身を庭に表わすことはなくなったかというと、そうではないと思っています。やはり文学的な記憶を、文学のある場面をお庭のこの画面に表わすということを風景式庭園の中でやっていくのです。それは日本庭園でも見られることでして、例えば六義園などは和歌の世界や、名場面と言いますか、日本の風景、景勝地を、庭の中に造っていくので、そういった文学的な記憶というものを、庭の形にのせて表していくというのは、初期近代以降も連綿と行われています。
 ですからそれぞれの時代にあった庭の形というのがあるはずで、その庭の形というのが、実は間接的にその時代の人々がどのように自然と向き合っていたのか、どのように情報を整理していたのかというのを、直接ではないのですが、間接的に示してくれる資料として庭園を見ることができるのではないかと個人的には考えています。
司会:はい、どうぞ。
鷲崎:鷲崎と申します。実はこういう庭園を私は何カ所か歩いているのですけど、今回の庭園を考えますと、動植物やその他の物を表しているかと思うのですけど、水というものはどういうふうに表わされているのかなと、ちょっと感じての質問なのですけど。
桑木野:水を庭の中で表すということですか。
鷲崎:ええ。どういう形で水を表現しているのかなと。
桑木野:そうですね、水の捉え方によっていろいろな庭の中における表し方があって、すごく即物的に自然界を流れる水の流れというものを、庭の中に表わすということもやります。例えば川の流れを、庭の中に通っている一本の水路によって、実際に自然世界にある川の流れを、そのお庭の中に水路として表すというケースもありますし、もっと哲学的に水を捉えるケースというのもあるのです。
 当時水というのは、生命力の起源と考えられていて、例えばボーボリ庭園の中にはグロッタ・グランデというのは、その典型的な例なのですが、そのグロッタ、人工洞窟の中では、水の中からどうやって生命が生まれてくるのかというのを、噴水や、自然や水の力を表す彫刻を一番奥に置いて、それを水に濡らすことによって、水のパワーを庭の中で表現するという、さまざまなレベルで水を捉えることによって水は表現されています。当然雨を噴水によって表したり、雨と人工的に太陽の角度を計算して虹を作ったりするのです。それから広い池を作って、それを海であると言ってみたり、いろいろな水の表し方があるのではないかと思います。
鷲崎:ありがとうございます。
司会:他にいかがでしょうか。はい。
佐久間:佐久間です。ありがとうございました。最後のほうのお話でハーバードやケンブリッジの庭が出てきましたけれども、ヨーロッパの学者と話していると、歩きながら考えるというのはすごく多くて、何か行き詰ると散歩に行く。日本ではあまりなくて、日本人はじっと座って考える。彼らは非常によく歩きますよね。修道院なんかもそうなのだけど、歩くことと考えることが結びついてそういう庭ができたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
桑木野:まさにおっしゃる通りだと思います。もちろん歩いている研究者、哲学者たちが今自分は脳みそをこうやって整理しているのだと、ストレートに思っているとは僕も思わないですけど、特にヨーロッパの伝統で言うと、古代ギリシアから歩いて哲学をするというのが、つきものになっていて、プラトンのアカデメイアも大きな庭園の中にあったわけですし、アリストテレスも散歩をしながら哲学をする。それからエピクロスの快楽の哲学というのもあるのですが、やはり彼も快楽の哲学、エピクロス派のために大きなお庭の中で哲学を論じていたというのがありますので、歩きながら思考を整理する、自由かったつな議論を仲間同士や師匠が行うというのは、このルネッサンスの時代に限らずにあることだと思います。ご指摘どおりだと思います。
司会:他にいかがでしょうか。記憶術についてちょっとお伺いしたいのですけど。確かに映像といいますか、イメージと記憶を結び付けるというのは、おそらく脳生理学的にも非常に合理性があると思うのです。ですから今日本でやられている記憶術でも、そういったイメージと結びつける、もう一つは物語を作るという、そういう二つがあるような気がするのですけれども。現在でもヨーロッパにこうした記憶術の伝統というのが残っていて、建物と関連させて実際にやるというような、そういった記憶術というのは、現在でも残っているのでしょうか。
桑木野:ありがとうございます。きょうお話ししたようないわゆる古典的記憶術がもろにそのまま残っている、現代も活用されているというケースはちょっと私は見当たらないのですが、ただ先ほどお話ししたのですが、記憶を強化しようとするさまざまな知的な葛藤、試み、格闘の中から、現代に通じるさまざまな学問が生まれてきたと指摘したのですが、例えばちょっと意外なのですが、さし絵がついている教科書というのは、記憶術の分脈から出てきたと言われています。
 つまりテクストだけではなくて、絵を同時に見せて紙面ごと記憶させていく、あるいはイメージが持っている、絵画が持っている情報圧縮力を、教科書のテクストとうまく結び付けてやっていく、ということがおそらく現代にまで残っている記憶術の残滓と言いますか、残りなのではないかと思います。有名な教育学者にコメニウスという人がいるのですが、東欧の主となる教育学者なのですが、そのコメニウスという人もやはり記憶術を実践していたのではないかと指摘されているので、記憶術というのはそういう所にも、現代にも生き延びているのではないかと思います。
司会:はい、どうぞ。
佐藤:佐藤と申します。ありがとうございました。今お話をお伺いしていて、記憶術というよりも、何と言うか、混沌とした世界にいかに構造を作っていくかというような観点から見ることもできるのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか。
桑木野:はい。ありがとうございます。ご指摘の通りだと思います。記憶術の捉え方に実は大きく二つあるのです。一つは本当に即物的な捉え方。それこそ司法試験と同じような感じで、なるべくたくさんの情報をとにかく機械的にしまいこむというのが記憶術の使い方の一つの視点で、実はもう一つ視点があって、それは16世紀の哲学者たちが主に考えていたことなのですが、情報を集めるのはもちろんそうなのですが、今ご指摘があったように、混沌とした情報の中に筋道をつけるために記憶術を作っているのだ、使っているのだという考え方があります。
 例えばそれを提唱した哲学者でわりと有名な方に、ジョルダーノ・ブルーノという人がいるのです。彼は1600年に火刑、火で燃やされて死刑になってしまうのですが、無限宇宙を主張したという人です。やはり彼も記憶術を単なる出世の道具、詰め込みのツールではなくて、世界をより深く理解するために、実は記憶術を使ったほうが有効なのではないかと、そういうことを考えていたようで,他にも同じように考えていた人がかなりいます。
 ただそれはわりとインテレクチュアルというか、知的レベルのかなり高い人たちが、わりと閉じたサークルの中でそういうことをやっていたので、大多数の多分9割5分ぐらいの人たちというのは、むしろ即物的に、情報整理のための簡単なコンピューター替わりとして使っていたのではないかと思うのです。確かに記憶術には哲学的な側面というのはあるのです。
 世界中の情報を全て頭の中に整理しておいていくと、全部が全部埋まるわけではなくて、所々穴が開くのです。この部分は実はまだ情報がないというのが見えてくるのです。そこを突きつめて考えていくと、新しい法則を発見できたりする.つまり何か新しいものを発見するために記憶を使っていたということが、最近分析されて分かってきています。まさにクリエーティブ・メモリーです。記憶を鍛えれば鍛えるほど、まだ何が分かっていないのかというのが明らかになる。そういう記憶術の使い方というのも当然あるわけですし、われわれが現代において記憶の力を復活させようとしたら、むしろそちらのほうを重点におくべきではないかと考えています。
司会:いかがでしょうか。他に。はいどうぞ。
新藤:新藤と申します。先ほど記憶を強化することで創造力が高められるという、まさにその通りだと思いまして、一つ、ミラーニューロンという、模倣する脳細胞が発見されたというのもつながってくるのではないかと思います。
 もう一つは、この前たまたま『錯覚の科学』という本を読んだのですが、脳を活性化するとか記憶力を高めるという時に、最近よく脳のトレーニング、脳トレと言っていますけど、あれが効果があるのじゃないかという説もあるのですけど、実はそれは特定の問題に対してだけ効果があるので、むしろそれよりも歩いたほうが、例えば脳の記憶力の低下を防ぐとか、認知症を防ぐとか、そういうのに実際に効果があるという事が科学的に証明されていて面白いなと思いました。
 一つ私の質問は、細かいことで恐縮なのですが、私の聞き間違いかもしれませんけど、9人の女神という話がこの図であったと思うのですが、何か見ると10人いるようなのですけど、ちょっとそこら辺で教えていただけたらと思います。
桑木野:すみません、失礼致しました。9人の女性の女神と、中央で竪琴を奏でているのは、太陽神アポロンで、アポロンも学芸の神様というか詩の神様として表されているので、だいたいこの9人のミューズ、ムーサ女神たちが輪になって踊る時というのは、アポロンが伴奏をしてくれる、竪琴を奏でる、この場合竪琴を奏でていませんが、アポロンと9人の女神たちが輪になってダンスを踊るというイメージが、特にルネッサンスの頃よく提出されるのです。
 これは美しいイメージだと言ったのですが、見た目が美しいだけではなくて、実は9人のそれぞれの女神たちが、例えば詩や文学や音楽といった、学問を代表しているのです。その学問を代表している彼女たちが、ばらばらになって個別にそっぽをむいているのではなくて、むしろ一体に円を描いて踊っている、これはまさにエンサイクロペディアのイメージなのです。エンサイクロペディアというのは語源をたどっていきますと、円のように連なった知識というイメージがあって、その円環の知識、どれか一つがトップに立つのではなくて、学問相互にレベルが高いとか低いとかそういったヒエラルキーが一切ないのです。平等でみんなが輪になって横のつながりがある、つまり学際的な知識のつながりというのを表現している非常に美しい絵だと僕は思っています。
新藤:ありがとうございます。
司会:それではそろそろ時間となりましたので、もう一度桑木野さんに拍手をお願いしたいと思います。こうした知的構造を持った庭園という研究テーマで、さらに研究を続けていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
桑木野:ありがとうございました。