旅するロードレース(講演記録)

第420回 イタリア研究会 2015-6-23

旅するロードレース

報告者:宮澤 崇史 (自転車ロードレーサー) 

橋都:イタリア研究会運営委員長の橋都です.イタリア研究会では、毎月イタリアに関するいろいろなテーマをお話ししていただいているわけで、スポーツに関するテーマも何度かはありましたけれども、実際のチャンピオンに話をしていただくのは今回が初めてではないかと思います。
 今日の講師は、自転車のロードレーサーで、元日本チャンピオン、元アジアチャンピオンの宮澤崇史さんです。それでは、宮澤さんのご経歴をご紹介したいと思います。
 宮澤さんは長野県のご出身で、18歳から36歳までフランス、イタリアを中心にヨーロッパでプロレーサーとして活躍されました。そして、29歳の時にアジアチャンピオンとなり、30歳の時にオリンピックにも出場されております。32歳で全日本チャンピオンとなりまして、34歳以降に世界でもトップレベルのチームで活躍されたというご経験をお持ちです。そして、36歳で引退されて、現在、自転車関係のさまざまな活動をされております。今日のお話とは関係ありませんけれども、実は宮澤さんは肝臓移植のドナーにもなられているという、そういう意味でも大変な経歴をお持ちです。
 宮澤さんは、つい先日ありましたジロ・デ・イタリアというイタリア一周自転車レースの取材から帰ってこられたばかりなのですけれども、今日はそういったお話も含めて、イタリアのロードレース事情、あるいは自分が選手として走ったことについてお話をしていただきます。
 それでは宮澤さん、よろしくお願いします。(拍手)


宮澤:よろしくお願いします。非常に緊張しております。というのも、先ほど入り口の方で皆さんが話をしているのを聞いていて、イタリアの事を多分僕よりもよく知っているのだろうなということを非常に感じました。
 僕にとってイタリアというのは第二の故郷的なところがやはり強いのです。というのも、ほとんど英語の勉強をしなかった私は、中学英語、高校英語は30点ぐらいでして、ほとんどしゃべれなかったのです。でも、逆にイタリアに行って良かったなと思ったのは、英語が通じなかったということです。グラッチェとボンジョルノしか知らないのにイタリアに行って何ができるのかなというのはあったのですけれども。ヨーロッパ17カ国ぐらいを周りながらレースをしていたのですけれども、フランスにも8年ほどいましたが、自分の根を張る場所はやはりイタリアで、9年ほどいました。そういう中で自分がイタリアにすごく思い入れが深かったというところをちょっとずつお話ししていきたいと思います。
 皆さんの中で、自転車競技、ロードレースをご存じの方はいらっしゃいますか。半分ぐらいいますね、良かったです。先ほど、ジロ・デ・イタリアのお話があったのですけれども、その名の通りイタリアを周るレースです。ことしが98回ぐらいだと思ったので、もう100年になりかけています。そのぐらい歴史があるレースです。「ガゼッタ・デロ・スポルト」というピンクの新聞をイタリア人はみんな読んでいますよね。イタリア人はガゼッタしか読まなくて普通の新聞は読まないなと、本当にそんなお国柄なのです。バールに行って人々が笑顔で話している言葉は政治的なことではない、やはりスポーツのことで盛り上がっている、そういう文化的なものにすごくスポーツというものが精通しています。
 その中にカルチョがあって、チクリズモがあって、フォルムラウーノがあっていろいろなものがあるのですけれども、ガゼッタを広げてみると紙面の半分はカルチョなのです。その次に自転車なのです。その次にバスケット、ハンドボールといろいろなものがあるのですけれども、F1が開催されると、カルチョ、フォルムラウーノ、チクリズモの順番なのです。フォルムラウーノとタメを張るという言い方は変なのですけれども、そのぐらい人気のあるスポーツです。
 僕がびっくりしたのは、イタリアは24時間自転車の番組をやっているのです。確か186チャンネルです。これは何がすごいかというと、プロのレースではなくアマチュアのレースなのです。子どものレースから15歳、18歳、23歳、ジュニア、アンダー23のカテゴリーのアマチュアの子たちを中心に24時間の番組をやっているのです。それもいろいろな州のレースをやっていて、そういうところがイタリアはすごいなと思ったのです。ツール・ド・フランスは多分聞いたことがある人も多いと思うのですけれども、フランスはツール・ド・フランス以外の自転車競技の放映はほとんど何もないです。ツール・ド・フランスは世界一で、ものすごく盛り上がるし、ツール・ド・フランスファンも世界中にいます。でも、ツール・ド・フランスが始まる前も終わった後も、自転車レースはほとんどやらないのです。フランスカップとかワールドカップクラスで初めてニュースの端の方にやるぐらいなのです。それに比べてイタリアは、自転車のレースをそうやって24時間やっている番組があったり、その他にも地域の番組、トスカーナのチャンネルだったりロンバルディアのチャンネルだったりで自分たちのレースを放映しているというところが、僕にとってイタリアを好きになった要因のひとつだったのです。
 僕が初めてイタリアに行ったのは、高校を卒業した次の年でした。スイスとの国境のルガーノ湖のちょうどドガーナを渡った所に小さい町がありまして、町の名前を忘れてしまったのですけど、そこに行ったのです。18歳までのクラスの子たちを、これからヨーロッパで戦うに向けて合宿をしてみようということを考えた監督がいました。その監督は実業団チームの監督としてイタリアで走っていて、自分のチームをイタリアに連れていってイタリアで戦っていたのです。だけど、30すぎの選手たちを連れていって戦うのもいいのだけれども、これから世界を目指したいという若者たちの道を何とか開けないかということで、イタリアに行くチャンスを与えたのです。それが5人ほどいたのです。
 初めてイタリアに行って、マルペンサの近くだったので2時間ほどで着いたのですけれども、ホテル暮らしです。3人部屋だったのですけれども、何もかもがやはり初めてだったわけです。イタリアはよく山の上のあんな所に誰が住んでいるんだという所にホテルとかがありますよね。そういう所のホテルで、周りは何もないです。コンビニは実際ないですけど、バールとか何もないです。下の町に下りるとあるのですけど、平均勾配が15パーセントぐらいの坂を2キロほど下るのです。平均勾配15パーセントというと、東京にはなかなかないですね。歩道橋の真ん中にある、ここは自転車では行けないだろうという、あのぐらいの坂道が2キロぐらい続いているのです。その下に町がありまして、まあ行かなかったですね。なので、ホテルで楽しみを探すのですが、食べることしかないのです。
 だってテレビは面白くないし、従業員の人は言葉が通じないし、食べるものしか楽しみがなくて、だけど食べ物を運んできてくれるサーラのお姉さんが、非常にかわいくて、我々にとってすごく憧れの子だったのです。まあ、よくある話です。前菜が来て、みんなできれいに食べて、前菜が来て、またみんなできれいに食べて、前菜が来て、あれ、もうそろそろいいのではないかといった頃にもういいと言うとプリモが来て、いや、もうごちそうさまなのですけれどという。食文化を知らないというところがそういうところに出るわけですよね。きちんと残して、次をお願いしますと。プリモをちょうだい、セコンドをちょうだいというふうになっていくということを全く知らなかったので、毎日毎日おなかいっぱい食べていたのですね。これが幸せで幸せでしょうがないのです。
 そんなイタリア、本当に華々しいスタートをしたのですけれど、その時は1カ月しかいなかったのです。その時に、監督さんが連れて行ったチームの一人の方、全日本チャンピオンの清野慶大さんという方がいました。トレーニングに行った時に僕はたまたま調子があまり良くなくて、途中で、ちょっと今日は駄目だから帰りたいと言ったわけです。だけど道も分からなければマップも持っていなくて、今みたいにスマートフォンがあるわけではないのでどうやって帰るのという話で、分かる人が送っていかなければいけないという状況になった時に、この方に、おまえは何で駄目かもしれないと思っているのにトレーニングに一緒についてきたんのだと言われたのです。やると男が決めたのだったら最後までやれ、やれないのだったら最初から来るな、他人に迷惑をかけるなということをすごく強く言われたのです。それがすごく心の中に響いていて、それは単純に怒られただけではなくて、プロフェッショナルと呼ばれる人間になるためには最低限必要なことだと思ったのです。
 そして、清野さんに、おまえは将来どうなりたいんだと言われた時に、僕はヨーロッパに自転車をやりに来たくて、そもそも自転車を始めたのが、ツール・ド・フランスが日本のNHKでやっていて、自転車というスポーツで自分が食べていけるのだったらこんなに素晴らしいことはないと思ったから、ヨーロッパで戦える選手になりたいと言ったのです。そうしたら、来年必ず来いと。それも、きちんと一年通じてヨーロッパに腰を据えてレースを走りなさいと言われたのです。
 それから日本に帰って親の顔を見た時に、来年イタリアに行きますと言ってしまったのです。悩むというよりは本当に行きたくてしょうがなかったです。どうやって行けばいいのだろうというのがもちろんあったのですけど、とにかく行きたいか行きたくないか、やりたいのかやりたくないのか、ただ単純にそれだけのことだったのです。なので、僕は行きますと、もう行くしかないと思ったのです。親に、本当に申し訳ないのだけどお金を出してくれという話をして、次の年からイタリアに行くことを決意したのです。
 そして、18歳の時に初めて腰を据えてイタリアに渡りました。それはベルガモという、ミラノから60キロほど東に行った小さな町なのですけれども、その当時は連絡手段もあまりなかったので、メッセージか何かだったと思うのですけれども、何月何日の便でイタリアに来なさいと。当時はやはり今みたいな電子チケットがなかったので、家にチケットが送られてきて、この日の飛行機に乗ればいいのだなということでイタリアに渡りました。
 イタリアに渡ったのですけど、今のマルペンサ空港第一ターミナル、ヨーロッパ線ターミナルをご存じですかね。あそこに降り立ったのです。
 荷物をカラカラと引きながら外に出たら、誰もいないのです。監督は来ると言っていたよな、待っててねと言っていたよなと思って、椅子に座って待ったのです。1時間たって、1時間半たって、誰も来ないです。だんだんトイレに行きたくなってきたのです。イタリアは、置き引きだすりだ何だかんだ当時から話があったので、困ったなと。10カ月分の荷物を持っていったので、両手で持って行けるような荷物ではなかったのです。ちょうど階段を10歩ぐらい下りた先にトイレがあって、どうしようかなと思って、周りを見て、人がいない時にダッシュで行ったのです。だあっと走っていってトイレに行って、早く出ろと言いながらおしっこをして、わあっと戻ってきたら荷物がきちんとあって、良かったなと思いました。だってこれを全部盗まれたら10カ月何もないですからね。
 そんなことをしていると、3時間過ぎたぐらいに一人のイタリア人が声を掛けてきたのです。僕に向かって何か言っているわけです。僕は言葉がしゃべれないので、よく分からないのですね。よくよく話を聞いたら、監督が大門宏さんというのですけど、宏が今電話を掛けてきているから代われと言うので代わったのです。もしもしと言ったら、そこのイタリア人についていけばいいから、また明日迎えに行くからと言われて、分かりましたと切って、お願いしますと言って、そのイタリア人に車に乗せてもらって、ちょうどレストランが下にある2階のホテルに入って寝たのです。次の日の朝迎えに来ていただいて、大丈夫だったと言われて、大丈夫ですとしか言いようがないですよね。それでベルガモのチームの拠点に行ったのです。
 ベルガモのチームの拠点は、本当に普通のリビングが20畳ぐらい、寝室は8畳間が2つです。皆さん、寝返りを打つとギシギシという音が鳴るすごく細いパイプベッドをご存じですか。そこに上と下で分かれて寝るのです。もう下の人が気になって気になって眠れないのです。寝返りを打つのも気を使って、夜中にばっと目を覚まして、よいしょといってまた寝るのです。日本人だなとすごく思ったのですけど、イタリア人はそんなの気にしないです。
 そんな生活が始まりまして、まだ冬の2月ぐらいの寒い時期だったのですけれども、毛布が寒いのです。皆さんご経験あると思うのですけど、ヨーロッパのベッドの毛布は薄いですよね。軽くて空気通しが良くて全然温まらない。長いTシャツを着て、トレーナーを着て、まだ寒くて、靴下を履いてとやっている隣に、チームメイトのカザフ人とロシア人が裸でシーツを掛けて寝ているのです。寒くないのかと思うのですけど、これは、ロシア人がヨーロピアンに入るかどうかあれなのですけども、ヨーロピアンは非常に体温が高いのです。アジア人は本当に低いです。下手すれば35度8分という人もいますし、僕は36度1分、2分ぐらいなのですけれども、ヨーロッパ人は36度8分、37度2分、結構います。ここの体温の1度って全然違うのです。これはすごい所に来たなと思って生活がスタートしました。
 ベルガモをご存じの人は知っていると思うのですけど、小高い山の上のチッタアルタに大学があるのです。そこの中の外国人のための語学の教室に通うことになったのです。そこで勉強を取りあえず始めようということで生活がスタートしたのですけれども、この学校が水曜日だったのです。僕ら自転車選手は土曜日と日曜日にレースを走るので月曜日がお休みなのです。火曜日から練習が始まって、水曜日はロングといって長い距離を走るのです。それこそ180キロぐらい、大体6時間ちょっとぐらい走るのです。朝9時に出て夕方3時から3時半ぐらいに帰ってくるのです。それでシャワーを浴びて、4時半か5時ぐらいから学校なのです。もう眠くて眠くて勉強どころではないのです。何しに来ているのかなと思うぐらい勉強ができなかったです。テストも全然駄目で、20点ぐらいが関の山でした。
 だけど、どんどんしゃべれるようになったのです。何でかというと、チームメイトに教えてもらったのです。朝起きると、窓を開けなさい、“Apra finestra”から始まって、電話が鳴ると、電話を取りなさいと。電話を取りなさいといっても何て言ったらいいか分からないのです。だって、“faccia faccia”だったら相手の表情を見て何が言いたいのかなと分かりますよね。だけど電話の向こうの相手はそういうことが全く通じないではないですか。どうしようかなと思って、まず相手に何を伝えるかを考えたのです。Prontoから始まって、“Con chi parlo”、私は誰と話しているのですか、あなたのお名前は?私はイタリア語をしゃべれないのでちょっと待ってくださいというところまで取りあえず覚えたのです。そしてメモを取るわけです。誰か分かると、誰から電話がかかってきたよと言えるわけです。待っている人が来て電話を取って話をすると。要するにただのパシリなのですけど、そういうちょっとしたことの積み重ねがどんどん語学を覚えさせていったのです。寝る前は“Spenga le luci”、電気を消しなさい。それが分からなかったら辞書を持ってきて、調べて、一つずつ一つずつ毎日毎日なのです。そうすると、覚えてくるのです。これは、子どもってすごいなと思ったのです。子どもはよく分からないけど同じことをずっと言っているではないですか。本当にしょうもない、たたくとか投げるとか痛いとか、そういうちょっとした言葉を毎日毎日使うということがすごく自分の中で言語を成長させていったのです。
 ひとつ屈辱的なことがあって、トレーニングに行くと、イタリアは日本と違って2列で道を走るのです。隣の選手と話をしながら練習して、先頭で風を受けている人たちがどんどん変わりながら2列で走るのです。そうすると、この2名はずっと一緒なのです。だから話ももたないといけないのです。ところが僕の横に並ぼうとするやつはいないのです。こんなに屈辱的なことはないですよ。これはどうにかしたいなと思って、小学館の分厚い辞書を背中に入れて走りに行きました。時速40キロで走っているのに、普通に辞書で調べたりしながら、補給食とか食べながら、ドリンクも飲みながらみんなと一緒に練習をしました。
 大事なことって何なんだろうと考えた時に、自分は自転車を乗りに来ているけど、自転車に乗ることはそんなに大事ではないなと思ったのです。
 なぜかというと、自分の自転車に乗る能力を引き上げてくれる人たちは周りに幾らでもいるのだけど、彼らとのコミュニケーション能力を伸ばすのは自分自身の力でしかないと思ったのです。なので、何とかこの言葉というものを自分の武器にできないのかなと思って、僕は初めてイタリアに行った時は語学のみを頑張りました。なのですけれど、自転車選手としても実はすごく強くなりました。自分で正解だったなと思ったのはそこの部分で、自転車をやりに行ったのですけど、自転車を伸ばすものというのは何なんだろうといった時に、やはり彼らとのコミュニケーション。コミュニケーションというのは言葉を覚えることももちろんそうなのですけど、コミュニケートするということがすごく大事なのだなと思った1年目のイタリア生活でした。
 そんなこんなでイタリアは最初2年ほど行っていたのですけども、その後少し離れてしまいまして、チームも変わってしまって、フランスの方にその後8年ぐらい住んだのですけども、ショックが大きかったです。なにしろ食べ物がまずい。
 僕らスポーツ選手は食べる物はすごく質素なものばかりなのです。パスタはビアンカだし、ビアンカもパルミジャーノとオイルを掛けただけです。サラダも千切りのニンジンとレタスみたいなものをかき混ぜただけ。ルッコラがあると、たまにはいいねという感じです。お肉は豚か鶏肉をグリルしただけのもの、塩こしょうのみ、本当にそれだけだったのです。毎日毎日犬のような生活をしていたのですけれども、他においしい物はないのと聞きたいぐらいスポーツに関してはすごく頭の固いイタリアでした。
 これがフランスに行ったら、そこからさらにまずくなったわけです。これはすごいなと思ったのですけど、フランスに行ったことがある方はいらっしゃいますか。結構いますね。デレンデレンのパスタを皆さん食べますよね。あのデレンデレンのパスタは慣れるとデレンデレンでないと駄目らしいですよ。びっくりしたのですけど、フランス在住の日本人の方とお話をしていて、何とかならないのですかと言ったら、いや、私はもうデレンデレンでないと食べられないと。ああ、そうなんだと思ったのです。
 まあお国柄がありますし、僕も少し料理をかじった身でしたので、というのは、イタリアのアマチュア時代にそういった食事をしていて、何かすごく間違っていると思ったのです。それは、おいしいものが食べたいということではなくて、もっと心が豊かになるものが食べたいと思ったのです。なので、自転車選手にとって何が食べて良くて何が食べてはいけないのかをはっきりさせたいと思ったのです。例えばボロネーゼはいいのかとか、カルボナーラはどうなのかとか、いろいろなレシピの名前を本で調べて出して、何が良くて何が駄目かといったら、ほとんど駄目だったのです。これは困ったなと。そうしたら、今度素材に行ったのです。素材の中で、どの素材は良くてどの素材は駄目かといったら、この素材は使っていいというものが結構たくさんあったのです。そうしたら、それを使って豊かな食事を作ろうと思ったのです。だったらオーケーでしょうと。なので、ちょっとそれから勉強し始めまして、日本でもイタリア料理の本を買ってみて、自分たちが食べられるものは何かなとやっていたのです。
 なので、フランスに行ったときに、ここでは無理だなと思って、外に行くと高いし、フランスは60ユーロ、70ユーロを出さないとおいしいものはなかなか出てこないので、家で作ることにしたのです。
 本当に苦学生並みにお金がなかったので、七面鳥がグラムで28セントぐらい、32ぐらいでしょうかね、非常に安かったので、七面鳥を買ってきて毎日作っていると、七面鳥の臭さが鼻についてくるのです。ああ、これはたまには豚とかを食べなければ駄目だなと思って豚とかを食べるのですけど、また七面鳥に戻って、やはり臭みが出てきて、この臭みを取るにはどうしたらいいのかなと考えているうちに、何となく料理がいろいろうまくなってきて、そのうち急にいろいろな選手のご飯を昼、夜、昼、夜と作るようになりました。ヨーロッパで使われる電気調理器の白い八の字みたいな形のを知っていますか。小さいものと大きいものがあって、パスタの30センチぐらいの結構大きめの寸胴を沸かすのに1時間ちょっとぐらいかかるものがあるのです。だから、ご飯を作るのに3時間ぐらいかかってしまうのです。何とかならないかなと思って、そのうちみんながご飯を食べたいと。では、中華食材屋に行ってジャーを買ってこようと、買ってきたのです。そうすると、ジャーのご飯を炊くのが早過ぎて、おかずができていないのです。そのときに、ジャーの方が火力が強いのではないかなと思ったのです。次の日、炊飯のボタンを押してセロハンテープで留めたのです。研ナオコの物まねみたいな感じです。それで置いておいたら下が熱くなってきて、オリーブオイルを落としてやり始めたら、結構料理ができるのです。これは、電子ジャーの方が強いと思って、そういったものも使いながらご飯を作り始めました。
 そんなことをやりながら、今まで自分がイタリアで生活してきたことを思い出しながら、たまにはやはりおいしいものを食べに行っていたので、フランス生活は8年、9年ぐらいしていたのですけど、あまりいい思い出がなかったのです。というのも、スポーツ選手として大成できなかったというのが僕の中にすごくあったのです。
 自転車選手は本当にお給料が安いのです。何で安いのかというと、サッカーとか野球というのはスタジアム競技で、お客さんが入ってくる時に入場券を買ってお金を払いますよね。この収入がものすごく大きいのです。1試合何千万円、下手すれば1億円近く売り上げたりするのです。そういうのとか放映権とかがあって初めて広く成り立っているのです。それプラススポンサーのお金です。なので、日本のプロ野球界というのは、トップだと年間予算が60億円ぐらい、少なくとも40億円ぐらいあるのです。だけど、自転車界は面白くて、トップでも20億円ぐらい、ミニマムで7億円ぐらいなのです。その中で、25~26名の選手と60名のスタッフのお給料プラス年間の活動費、そういったものを全部出すのです。なぜそうなるかというと、お客さんからお金が取れないからなのです。自転車は道路を走っているではないですか。道路に立っている人からお金を取れないですよね。なので、自転車競技というのはお金にならない事で非常に有名な競技ではあるのです。そんなこともあって、家でご飯を食べることが多かったのですけれども、なかなかフランスという国の文化と触れ合うことが少なかったのが、今になるとちょっと後悔しています。
 そんなアマチュア時代を過ごしまして、特にフランスにいた後半は、年間で113レース、2月から11月まで毎週のようにあっちに行きこっちに行き、移動はヨーロッパはほとんど車ですので、長い時では10時間かけて行って、ホテルに泊まって次の日の朝、用意ドンという時もありました。ひどい時は、ツール・ド・ノルマンディーといって、パリから西の方のカーンという所でレースがあって、レースが終わったらそのまま海から船でイギリスに渡って、5時ぐらいに着いて8時にレーススタートとか、そんな状況では、走れるわけないなという。そんな生活が自転車選手は多かったのですけども、たまたまその後イタリアに戻る機会がありました。その時はすごくうれしかったです。イタリアのチームとプロの選手としての契約を結んで、イタリアに戻ることが決まったのです。
 ポントレモリといって、ラ・スペツィアからパルマに抜ける途中に小さな町があるのですけれども、そこに拠点を置いてレースに行くということで、チームのマネジャーがオーガナイズしてくれたのですけれども、それが決まりました。このチームは世界のプロのカテゴリーで言うと2番目のカテゴリーなのです。世界のトップと戦うためのチームだったのです。それがイタリアに行ってみたら、ちょっといろいろありまして、チームが、一応スタートはしていたのですけれども、全然お金がなかったのです。こういう話をして分かるかどうかあれなのですけれども、トップのジロ・デ・イタリアに出ればスポンサーが集まるだろうと踏んだGMが、取りあえずチームをスタートさせようと。ジロ・デ・イタリアのスポンサーをしているアエロナウティカミリターレというイタリアの空軍をスポンサーに迎えたのです。アエロナウティカミリターレ・アミーカチップス・クナウフというチームを作ったのです。アミーカチップスはイタリアにあるポテトチップスです。だけど、このプロフェッショナルのチームは最低でも3億円ぐらいのお金が必要なのですけど、スタートしたときに3000万円ぐらいしかなかったのです。選手登録ができないという話になりまして、僕もレースに出られない。チームに在籍しているけど、お給料も払われなければチームがどうなるかも分からないと言いながらポントレモリにいたのです。このポントレモリという町は山の中で何もなくて、本当に寂しい所だったのです。何か知らないけどこんな所にいては駄目だと思ったのです。その時にチームメートがピアチェンツァに住んでいて、ミラノからパルマに抜ける、パルマの近くの通過する町ですね、ピアチェンツァに行こうと決めたのです。とにかくここを早く脱出すると言って電話をして、家を借りたいと言って、日本人はその時3人一緒にいたのですけれども、もう電車に乗ってピアチェンツァに取りあえず行って、不動産屋を回ってその場で決めて、ポントレモリにいるみんなに電話をして、もう荷物をまとめて来てと言って次の日に来てもらったのです。だから本当に逃げるように行ったのです。そして何となく穏やかな中で生活をスタートすることができたのですけど、結局そのチームはシーズン中に空中分解してしまって、ああイタリアだなと。皆さん分かりますよね。何とかなるだろうで何とかならなかった時の悲壮感たるや。本当にイタリアだなと思ったのです。
 でも、そんな時に自分たちを助けてくれたイタリア人がいて、その彼とはいまだに交友があって、すごく大事な友達として付き合っているのです。僕が全日本チャンピオンを取った時も、チャンピオンになったよとまず最初に電話をしました。そんな人と出会えたということがものすごく自分の中で財産だなと思って、僕はイタリアに9年ぐらいいましたけど、そうやって思える友達というのは1人か2人です。少ないとは思うのですけど、自分のクレジットカードを預けても不安感がない人は多分そんなにいないと思うのです。本当にそのぐらい信用のできるイタリア人の友達ができたなというのはその時すごく感じました。
 そして、結局そのピアチェンツァをシーズン途中に離れて、自分が日本のチームとしてフランスに行っていたチームに戻ったのですけども、その時のイタリアというものは自分にとって、失敗はしたのだけれども、すごく刺激のある年でした。その時にまた、絶対にここに戻ってきたいと思ったのです。
 そして、オリンピックに出て、全日本チャンピオンを取ったのを機に次の話がまた持ち上がったのです。またイタリアのプロチームの話だったのです。
 アブルッツォ州のワイナリーがスポンサーをするファルネーゼヴィニというチームがありまして、トスカーナのレオナルド・ダ・ヴィンチの生家があったヴィンチをご存じですよね。ちょうどヴィンチの北側の小高い丘の上にサン・バロントという小さな町があるのですけれども、そのサン・バロントに住んで、プロフェッショナルとしてまたもう一度ヨーロッパのトップカテゴリーと戦うチャンスを得たのです。ミラノ~サンレモといって、世界のワールドカップの最初のレースが3月にあるのです。ミラノをスタートしてサンレモでゴールするという296キロのレースですけれども、そのレースに出場することが決まっていて、ジロ・デ・イタリアに出ることも決まっていて、非常に強いチームで自分が走るチャンスを得たのです。これは何としてでもチャンスをつかみたいと思って、今度こそは頑張ろうと思ってイタリアに行ったのです。
 そしてサン・バロントは、山の前、標高400メートルぐらいの所に、汚い家なのですけどチームハウスがありまして、そこに最初は1人で入りました。ちょうど1月の終わりぐらいに行ったと思います。朝の気温はマイナス3度か4度ぐらいです。非常に寒くて、暖房をつけてやっていたのですけれども、この暖房が軽油を使った暖房システムだったのです。この暖房システムは、実はその家と、隣に小さいワンルームの家があるのですけれども、そことの共用の暖房だったのです。そこに越してきたチームメイトのオーストリア人の家に行くと、非常に暖かいというか暑いのです。
 30度ぐらいです。Tシャツを着て、窓にびっちり水滴がついて、暑くないかと思って、僕は節約して使っていて、朝と夜の寒い時間につけてとやっていたので、ええっと思っていたら、2週間ぐらいした時に暖房が止まったのです。暖房がつかないよと隣のやつが言ってきたので、おかしいよねと思ってチームのマネジャーの所に行ったら、この間500ユーロ分入れた、おまえは数日間で使い切ってしまったのだ、後は自分でやれと言われたのです。うわあ、まただ、イタリア人だけじゃないなと思ったのですけれども、数日してそのオーストリア人は引っ越していってしまって、僕だけになったのです。いいのですけど、何か悔しいなと思ったのです。これを乗り越えるすべはないかと思ったのです。ないのですけど、ただ単純にお金を払って軽油を入れて暖かいねというのでは違うなと思って、何とかお金を使わなくても乗り越える方法を考えようと思ったのです。
 まずイケアに行きました。小さな卓上用のろうそくを山ほど買ってきました。20ユーロ、30ユーロぐらいだったと思います。そして、夜になった時に部屋の電気をつけないで置いたら、暖かいのです。これだけでは駄目だと思ったのです。スポーツ選手として自分の体をメンテナンスできることがあるといいなと思ってヨガを始めたのです。これが大当たりで、もうどんどん体が温かくなってくるのです。それで寝て朝起きるのですけれども、2月ぐらいになるとまた冷えるのです。その時にどうしても我慢できなくて、寒くて夜中に起きたのです。これは駄目だ、凍死すると思ったのです。そうしたら、今度は何をしたかというと、1.5リットルのペットボトルにお湯を入れて暖かくして湯たんぽにしたのです。これを股と脇に入れると、ちょうど動脈が温まってすごく温かいのです。これはいいと思って、ヨガをやってろうそくをつけて湯たんぽをして寝始めたのです。
 これは単純に悔しかっただけというのももちろん強かったのですけど、スポーツ選手として自分が何か困難と向き合った時に、乗り越える方法はどういうことがあるのかということをやはりチョイスする。自分がそれをやったことが正しいとは思わないですし、それが正しいとも言わないですけど、それはひとつの方法論だなと自分で思って、そしてそれをやってみた結果、正解だったなと思ったのです。多分僕が昭和な人間だからそうなのだろうなと思います。今の子たちはもしかしたらそういったことは考えないかもしれないけれども、そういうことって自分の中で非常にアナログという言い方は変だけど、ひとつ自分が自分の頭で考えて乗り越えた形なのだなということを思いました。
 そして、そのチームは1年しか在籍しなかったのですけれども、7月の時期にたまたま僕の友達に、ツール・ド・フランスを見に行くからおまえも来てみないかと言われたのです。僕は時間があまりなかったのですけど、その日にちょうどベルガモのちょっと東のブレシアでレースがあって、ブレシアでレースを走り終わった日にパリでパーティーがあったのです。なので、レースが終わってすぐにマルペンサへ行って飛行機に乗ってフランスに飛んだのです。なぜか分からないけど、何となく行きたいと思ったのです。その飛行機にぎりぎり乗ってフランスに行ってレンタカーを借りてパリの町に行って、パーティーというよりも小さな、日本人ジャーナリストとか僕のことを応援してくださっているスポンサーの方だったりがいて、ちょっとしたうたげをやったのですけど、それだけだったのです。
 だけど、何か僕は行きたいと思ったのです。それは、わさわさするぐらい、何か行きたいと思ったのです。行って、そこは何もなくて、次の日飛行機に乗ってイタリアに帰ってくる時に、飛行場でチェックインカウンターにみんな並んでいますよね。ライアンエアーのチェックインカウンターだったのですけれども、今チェックインをしている人は昨日レースを終わって帰る途中の選手と監督だったのです。それがビャルヌ・リース監督といって、ツール・ド・フランスで勝ったことのある選手だった方で、チームはサクソバンクといってデンマークのチームだったのですけれども、その方がいて、格好いいなと思ったのです。自分の番を待っていて、だんだん自分の番が来て、自分がチェックインして、隣にいて、格好いいなと思って後にして歩いていったのですけど、何か胸の中がざわざわとしたのです。これは何だと思って。ここでアタックするのはチャンスだなと思ったのです。ちょうどその時iPadというすごく便利なものを持っていたのです。このiPadをどうやって使おうと思ったのです。取りあえず自分が伝えたいことは1つだけ、来年あなたのチームで走らせてくれませんかと聞くことだけなのです。でも、何て言ったらいいのか分からない。相手はイタリア語をしゃべれるかどうか分からないし、多分英語だろうなと思って、英語表記にして、このまま持っていけばいいなと思って、たったったっと行って、すみませんビャルヌさん、私は日本人で、イタリアのファルネーゼというチームで走っている宮澤といいます。ぜひ来年あなたのチームで走らせてもらえませんか。つきましてはプロフィールを送りたいのでメールアドレスを教えてくださいと出したら、ちょっと考えて教えてくれたのです。早速次の日、メールを送りました。聞くのはただですし、送るのもただですし、絶対に返事は来ないなとは思ったのですけど、取りあえず送っておきました。
 そして、3~4週間たった頃に、僕の昔のチームメイトで、その時にサクソバンクで監督をしていたフィリップ・モデュイというフランス人がいたのですけれども、フェイスブックメッセンジャーで、おまえは来年うちのチームで走るのかとメッセージを送ってきたのです。ええっと思って。確かにビャルヌにプロフィールは送ったけれども、何も返ってきていないし、僕は別にそんなこと期待もしていなかったけど、どんな話かと聞いたら、監督が全員集まる会議があって、日本人の宮澤崇史というのを入れようと思っていると。多分8割方決まったぞというメールだったのです。
 でも、僕は痛い目を何回か見ているので、契約書にサインをして、送って、向こうの契約書が来て初めて安心しようと思っていたのです。だからこの話は絶対にうそだと思って、全てうそだと自分の中に言い聞かせながら取りあえずサインして、DHLに行かなければいけないではないですか。だってイタリアの郵便局に出したらいつ着くか分からないですからね。その頃は2011年ぐらいだったので、まあまあでしたけど、絶対にレンタカーを借りてでもDHLに行かなければ駄目だと思ったのです。なので、封筒を抱えてDHLまで事故を起こさないように行って、ちょうどエンポリの辺りのDHLまで行って、これをお願いしますと封筒を出したのです。
 そうしたら35ユーロと言われて、ええっと思いました。だって、封筒1枚送るのに5000円ですよ。ええっと思いましたけれども、契約書の年棒とかを見ていたら、大丈夫だな、50ユーロぐらい全然問題ないですと返事をして送りました。その年の9月に世界選手権がちょうどデンマークでありまして、出たのですけれども、その時に初めてそのチームの本拠地を案内してくれて、向こうからの契約書も渡されて、良かったなと思いました。世界のトップのチームというのはサインしたら契約絶対ですから、途中でなしはないですから、やったと思いながら、自分の中で夢がかなった瞬間でした。
 だらだらと話していてすみません。そんなこんなで、夢というものをつかんだのが、もちろん声を掛けたのはフランスだったのですけれども、自分がイタリアで生活している時でした。世界のトップに行けるなんて全く思っていなかったけれども、34歳という非常に遅咲きの選手として初めてトップに行けたということが自分にとってすごく良かったです。そしてこの時、初めて自分にすごく余裕が生まれて、イタリアというのときちんと向き合えるようになったのです。
 その時、妻と結婚して1年ぐらいしかたっていないかな、もうこれが自分の集大成だと思って、仕事を辞めて一緒にイタリアに来てくれと言ったのです。とにかく自分は自転車に集中したくて、自分の生活にいろいろ気を使うのは嫌だと思ったのです。なので、イタリアに来てくれと言って、トスカーナの西の方、ピサの上のルッカに住み始めました。ルッカの北にモリアーノという地域がありまして、このモリアーノは、大家さんが言っていることがきちんと分かっていればの話なのですけれども、ローマ軍の兵士たちが戦った後、自分たちの死に場所を求めていて、その地域に来た時に、すごくきれいな場所で自分たちの死に場所としてここを選ぼうと、morireの「私たち」、moriamoというところからモリアーノという地域の名前になったのだよという話を聞いて、歴史的な場所なのだなと思ったのです。そこは畑がすごく多いのですけれども、山から降り下りてくる風の影響で霜が積もりにくくて、寒い時期でも農作物が育つという話をしてくれて、夏になっても涼しくてすごくいい所なのだよという話をしていて、そうなんだと。
 このルッカに住み始めて、自分が世界のトップチームに入ったので練習練習になるのだろうなと思いながらも、このイタリアというものをもっと楽しもうと思えたのです。
 なので、ご飯を食べに外に出掛けることも多くなり、いろいろな食べ物と触れ合うようになって、ヴィアレッジョの方に行って、たまたまヨットスクールに入りませんかという、ヨットにただで乗せてくれるというのをやっていて、話を聞いたら乗っていいよと言われて、ヨットで回ってみたり、今まで選手をしていた時はそういう余裕すらなくて、常に切り詰めて切り詰めて、自分にとってベストとは何だろうと、暇さえあればストレッチしようとか、すごくいろいろなことを考えていたのだけど、やはり日本にいる時のようにイタリアで時間を過ごせるということは、すごく自分にとって幸せな時間になるはずなのだよなと、分かっていてもできなかったことを始めたのです。
 そうしたら、一気にイタリアでの生活が豊かになってきて、僕はあまりワインが飲めなかったのですけれども、たまたま遊びに来てくれた日本人の方が、一緒にご飯を食べようよと言ってフィレンツェでご飯を食べた時に、サッシカイアというワインを出してくれて、飲んだ時にこのワインは飲めると思ったのです。このワインだったら飲めるから、家に帰ったら買って飲もうと思ったのです。サッシカイアはどこに売っているのだろうと思って見ていたら、目ん玉が飛び出るくらい高くて、ワインのこととかは知らなかったので、ではサッシカイアは誰がどこで作っていて、どういうワインでというのをちょっとずつ調べ始めたのです。そうしたら、キャンティの下の方で作っていてみたいな、いろいろなことを読んでいたのです。なるほど、では、自分が飲めるワインをその辺で探そうと思って、何となくいろいろなものを見ながら、同じワイナリーの中でもちょっと安いものとか、どういう方向性のものを作っているのかなとか、そういうことを感じると、ワインって少しずつ分かっていくのかもしれないなと思ったのです。そうしたら、何となく少しずつ飲み始めた。
 そして、僕はコーヒーが大好きで、自転車選手は、レースの時はないですけど、トレーニングで走っている途中にバーに寄ってパニーノとコーヒーを頼んでとか、コーヒーだけを飲んでまた行くとかがあるのですけれども、カフェインの効果もありますし、一息置くのにやはりすごくいいなと思っていたのです。
 では、このイタリアのコーヒーって何なんだろうと思って、おいしいコーヒーを飲みたい、ではおいしいコーヒーって何なんだろうと思って、自分で入れてみようと思ったのです。自分で入れるにはどうしたらいいかと考えた時に、パヴォーニというメーカーのレバーマシンが街角にあったのです。これはいいと思ったのです。
 エスプレッソはそもそも何で9気圧で入れなければいけないかも分からないし、何で1人分は7グラムから9グラムで、2人分は14グラムから18グラムなのかよく分からないのです。でもそう言われているのです。僕は料理もそうなのですけど、レシピを見るのは嫌いなのです。なぜかというと、それは誰かがそれが正解だと思っただけであって、自分の中では正解ではないかもしれないではないかと思うのです。洋服とかもそうですけど、どうやって合わせるかはその人次第ではないですか。中に何を着て外に何を着てどんな物をつけてというのはその人次第だと思うので、このファッションと言われるよりは、自分が素敵なもの、自分がかわいいものを身に着けるのがいいでしょうというのと多分一緒だと思ったのです。
 なので、コーヒーも、いろいろなバーに飲みに行って、入れるのは下手だけどここはうまいという所で、おじさんと交渉して、豆を買いたいのだけどと言うのです。そうするとおじさんが、うーん、分かったとごそごそ出してきて、おまえは何グラム欲しいのだと。大体1キロからしか買えないのです。優しいところは500グラムぐらいで売ってくれるのですけど、1キロでもいいからと言って1キロ買ってくるのです。妻は飲まない、1人でしか飲まないので、毎日毎日コーヒーだらけなのです。これが楽しくて楽しくて。
 まず、グラインダーで豆のひき方から、タンピングの仕方から、タンピングって世界的には結構普通なのですけど、イタリアはほとんど知らないですね。バーの人とかはプラスチックのやつで手でぐっと押してやっていますけれど、あまり平らにきちんとタンプできないだろうなと思うのですけど、その通りで、イタリアのほとんどの地域で飲まれているコーヒーってすごく水っぽくておいしくないなということにその時から気付き始めたのです。何とかおいしいコーヒーがないのかと思って探していたら、家の大家さんに、だったらナポリに行けと言われたのです。ナポリにコーヒー、いいなと思って、車で5時間、6時間かけながらナポリに行くことを決めたのです。
 ナポリに着いた時に、それは2年前ですかね、たまたまジロ・デ・イタリアのスタートで来ていた日本人のジャーナリストがいて、辻くんというのですけど、ちょうどいいから同じホテルに泊まろう、おいしいコーヒー屋を巡ろうという話をして、ちょうどそのタイミングで行ったのです。着いて、夜だったのですけど、とにかくコーヒーが飲みたいと。寝る前かもしれないけどコーヒーが飲みたいと思って、散歩しながらバーに寄ってコーヒーを飲んだら、ここはいまいちだねという話になって、これは、ナポリでも結構選ばないといかんなと思ったのです。
 そして、ホテルの近くにバーがあるから、そこだったら結構おいしいかもしれないと言ってもらって、じゃあ一緒に行こうと。そっちも回って散歩の終わりに行こうと言ってバーに行ったのです。そこがおいしかったのです。こんなにおいしいコーヒーがあるのだと思ったのです。バーのお兄ちゃんとちょっと仲良くなって、カッサにいたおばちゃんとも仲良くなって、日本から来て、今イタリアに住んでいるのだけれども、コーヒーが好きで、ナポリはおいしいと聞いてナポリに来て、ここはうまいと。とにかく見せてもらえないかと話をしたら、だったら明日14時に来なさい、教えてあげるからと言ってくれたのです。
 次の日、もう心わくわくですよ。午前中は軽く自転車に乗って、お昼ご飯をどこかで食べて、14時になったらさあ行こうと思ってお店に行ったらおばちゃんがいなくて、そんな話は聞いていないわよって話になって、ああ、ここはイタリアだとまた思ったのです。ですけど、たまたま前日そこにいた黒人のお兄ちゃんが覚えていてくれて、いいよ、中に入ってきなと言って、じゃあコーヒーのいれ方を教えてあげると。レバーのマシンで入れたのですけど、別に何のマシンでもいいし何でもいいのですけど、何で彼はこんなにおいしいコーヒーが出せるのかなとすごく興味があったのです。これはナポリぐらいでしかあまり見ないのですけど、コーヒーが出終わって、止めて、コーヒーのカップを引くときに、ちょっとコーヒーがたれているではないですか。あのコーヒーのたれがコップの縁に付くのは、見た目ですけど美しくないですよね。それを小さいスプーンで押さえてコーヒーのカップを引いているお店がナポリは多いのです。そういうちょっとした気配りが、彼らの中で当たり前なのだけれども、すごくきちんとしているのだなと思ったのです。だから、別に粉の量とかタンピングの強さとは多分どうでもいいのです。
 あとコップが常に湯煎にかかっているのです。コップは絶対に冷やしてはいけない。
 他の地域は大体エスプレッソマシンの上に山のように重ねてあって、熱が出るからそこで温まるでしょうと。だけど、その温度では絶対駄目なのです。コーヒーは入り始めてコップに落ちた時から熱はどんどん逃げていくので、どんどん味が劣化していくのです。それも自分の中ですごく感じて、そういう一つ一つのことが、彼らにとってすごく当たり前なのだけれども、おいしいものを出すのに必要なきちんとしたやり方なのだなということを感じたのです。
 そんなこともあって、ナポリの旅は毎年行っているのです。ことしからは日本に帰ってきてしまったので行けるかどうかわからないのですけども、去年行った時はアマルフィの方、ソレント岬の方に走りに行ったのです。もう暑くて暑くてどうしようもなくて、おいしそうなレモンがあって、口の中に唾液が出て、とにかく食べたいのです。酸っぱいのが食べたいと思って、聞いたら、1個3ユーロだったかな。大きいです、ソフトボール大ぐらいはあるのですけど、1ネットではないのだから3ユーロはないだろと思いましたが、分かった、とにかくくれと。だって、こんなに大きいし、すごくおいしそうだしと思って、レモンを買ったら、お母ちゃんが切ってくれたのです。自分でむしゃぶりつこうと思ったら、白い皮みたいなものが付いていたから、ちょうどここからでいいやと思って、グレープフルーツみたいに食べたのです。そうしたら、サクっと。レモンって、すぐにつぶれて水分が出て、びちゃっとするではないですか。違うのです。一つ一つの房がきちんとしていて、グレープフルーツみたいにサクサク食べられるのです。これはうまい、今まででこんなにおいしいレモンを食べたことはないと思いました。単純に僕の知識不足で、そういうのを知っている人だったら多分それを求めて行くのでしょうけど、全く知らないで行っているものですから、この感動たるやすごかったのです。その時はレモンを山ほど買って家に持って帰りました。
 僕はヨーロッパで18年も生活していたのに、最後の2年、3年ぐらいでようやく、イタリアというものを感じる旅をできるようになり、そういった自転車とはつながりがない文化と触れ合うことによって、自分の世界の広がりが大きくなるのだなとすごく感じたのです。それってやはり経験だと思うのです。どの外国人もよく言いますよね、エクスペリエンスはやはり何ものにも代え難いものなのだなということを思いました。
 そして、ちょっと戻るのですけど、僕が初めてイタリアに行ったベルガモに住んでいる時に、レースで南の方に一回来たことがあるのです。その時に食べたモッツァレッラの味がもう忘れられなくて、こんなにおいしいモッツァレッラってあれから食べていないなとずっと思いながら、モッツァレッラをイタリア中を周りながら食べていたのです。僕は1つだけものすごく間違えていて、ブッファラを食べていたのです。僕が感動した味って普通のフィオルディラッテだったのです。僕はブッファラよりもフィオルディラッテの方が好きです。ブッファラはブッファラの良さがもちろんあるのですけれども、フィオルディラッテのおいしいものは情報がちょっと少なくて、何かもうちょっと情報がないかなと思いながら探してはいるのですけれども、もしもう一度イタリアに行って時間があるとしたら、僕はもう一回そのおいしいフィオルディラッテを食べたいなと思っていますので、もしご存じの方はご一報いただけるとありがたいなと思っています。
 そんなトスカーナ生活を2年ほどしました。そして、その時にワインと出合い、ナポリのコーヒーと出合い、そしてもうひとつ、オリーブオイルと出合いました。本当にトスカーナはオリーブ園が多いですね。いろいろなレストランでいろいろなオリーブオイルがあって、その地域のオリーブがあって、山1つ越えると味が変わって、面白いなと思ったのです。そして、1カ所、すごく普通のレストランにたまたまランチをしに行って、食べたらおいしくなかったのですけど、1つだけ感動したことがあったのです。オリーブオイルがおいしかったです。料理はおいしくないけどこのオリーブオイルはうまいなと思ったのです。すぐに写メを撮って家に帰ってそのオリーブオイルを調べたのです。そうしましたら、うちから300メートル先の丘だったのです。これはびっくりしまして、次の日に直接行きました。直接行って、オーナーの方にオリーブオイルを売ってくれないかと言ったら、ここにはないと。その代わり家をちょっと紹介してあげるといって、オイルを瓶に詰めるところとかいろいろなものを見せてもらいました。ここは結構日本人も来るのだよと言われて、2010年頃に、オリーブを摘みにグループで来たことがあったそうです。Olio Baldaccini Renzo、このオリーブオイルは非常においしくて、一回楽天で売っていたことがあったのですけど、すごく高かったです。6,000円だか8,000円だかしていて、いやそれはないだろうなと思って、イタリアに行くと18ユーロで買えます。それでも結構高いです。でもめちゃくちゃおいしいです。結構強いお料理にもすごく合いますし、逆に繊細な風味の料理にはオイルの方が勝っちゃうのであれなのですけれども、このオリーブオイルは非常においしいので、もしイタリアのどこかに行くことがありましたら使ってみてください。
 イタリア、トスカーナ生活、2年しか続かなかったのですけども、その次の年、去年、ペスカーラといって、ローマからアドリア海を抜けた所に1年住みました。ペスカーラは歴史的なものが何もなくてものすごくつまらなかったのです。せっかくイタリアの文化と触れ合い始めて、楽しみ始めたのに、新しい町、バカンスの町みたいな所に来た時に、初めて、自分が求めているものはこういうものではないなと感じたのです。
 これは、イタリアのアドリア海側は結構多くて、ドライブをしていても、あそこに寄ってみようとか、高速道路とかから見ていて、楽しそうというか、古いお城だったりそういうもので行ってみたいなと思うものがなかなかなかったので、アドリア海側はあまり縁がないなと思ったのです。それはたぶん僕の知識不足だと思っているのですけれども、でも、最後に去年そこで生活をしまして、ことしから日本に帰ってきて、日本での生活をしています。
 今、取りあえずは選手を辞めてヨーロッパに行く理由がなくなってしまって、日本で普通に働いていて、これから、今まで自分が経験してきたことをもっと生かしたことができるといいなとは思っているのですけれども、まだなかなかそういったことは現実的にスタートできていないのが残念です。でも、経験というものとイタリアというものをつなげることができればいいなと思っていて、先ほど話していたレシピの話もそうなのですけれども、やはり自分たちが経験したものと、自分が想像するものと、実際にそこにあるものは、ただテレビとかインターネットから情報で得たこととはちょっと違うのではないかなとは思っているのです。なので、単純にイタリアはこうなのでしょうというものを、インターネットやテレビから吸収して自分が感じることよりも、取りあえず向こうに行って自分が経験することって、もしかしたらこれからの日本人にとってものすごく大事になってくることなのではないかなと思っているのです。皆さん、もちろんイタリアに行ったりしてご存じだと思うのですけれども、やはり行って感じることとこっちで得る知識は大きく違うし、行った経験というものが何かに増幅されること、自分の中でもっともっと想像していくことというのは、もしかしたら誰にでもできることではないし、もしかしたら新しいイタリアというものの見方かもしれなくて、そういうことを自分は自転車という世界でこれからも少しずつできたらいいなと感じています。
 とりとめのない話がずっと続いてしまって申し訳ありませんが、こんなところで僕の講演を終了させていただきます。ありがとうございました。(拍手)

 

橋都:どうもありがとうございました。イタリアに計8年在住のご経験をお話ししていただきましたけど、今日のお話以外で自転車のことを聞きたい方もおられるのではないかと思いますので、ご質問があればお受けしたいと思います。いかがでしょうか。
岩切:今日はありがとうございました。実は僕は今日むちゃくちゃ仕事が詰まっていまして、会社を無理やり出てきたのです。橋都さんに今日行きますと言ってしまった手前どうしようかなと。自転車選手は結構口下手な人が多いので、もしつまらない話だったら嫌だなと思っていたのですけど、個人的な感想で、むちゃくちゃ面白かったです。本当に。特にリース監督との出会いがあんなところであったとは思いもよらなかったです。
 僕も自転車をやるものですから質問なのですけども、子どもたちが今後10年とか20年自転車競技を日本であるいは世界でやっていくといった時に、どういう環境があるといいなと思いますか。
宮澤:なるほど、難しいですね。今、スポーツというのが非常にグローバルになってきて、ヨーロッパマネーではレースをあまりできなくなってきているのです。それも世界の流れです。そして、今かなり注目を浴びているのは実はアジアなのです。これは日本以外の国なのですけれども、アジアというのは、人口はそこそこいるのですけれども、やはり道路の大きさ、まだ国が道路を止める権利が非常に強いのです。そして許可が下りやすい。なのでヨーロッパはすごくアジアンマネーを見ていて、アジアで非常に多くのレースが開催されています。
 ですが、ヨーロッパの選手がアジアに来てやるレースというのは、ヨーロピアンなレースのテイストもありますけれども、完全にヨーロピアンではないですね。多分それはヨーロッパ人だけのレースではないから、アジアのチームも走っているレースだから。そして、日本も一緒なのです。ヨーロッパ人が日本に来てレースをしても、日本だけのレースではないし、ヨーロッパのレースにもなっていないし、単純にレースが行われているというだけになっている。やはり自転車のレースの本場はヨーロッパにあって、これはもう代え難いのです。やはり文化レベルでもそうですし、ヨーロッパで活躍することのステータスの高さ、そして自分たちがヨーロッパで生きているということが根底にありますので、やはりヨーロッパで活躍することが彼らにとってものすごく価値がある。
 それは、例えば日本で横綱になることが相撲界の中ではやはり一番なのです。たとえば僕はメキシコで相撲をやっているのですと言われても、はあ、という話になってしまって、何になりたいのですかと聞いて、僕は横綱になりたいのだよとなると、では取りあえず日本に来た方がいいと思うよとなりますよね。やはりそのものの文化の本場である場所で自分がどれだけ上に行けるかということが非常に大事なことなのです。
 そして、やはり日本には日本の自転車の文化があって、そこで日本でのレースがあるというのは僕は全然否定もしないですしいいとは思うのですけれども、もし世界で自分が何とかしたいと思っているのだったら、ヨーロッパに行かなければ駄目だと思います。それは絶対です。例えばオリンピックもそうですよね。やはり世界のトップの選手たちと走って勝ちたいのだったら、その人たちと同じ土俵で勝たなければ勝てないですよねということだと思うのです。なので、日本のレースは日本のレースでいいとは思うのです。例えば僕は日本で一番になりたいですという選手はヨーロッパに行く必要はないと思うのです。だけど、ヨーロッパで僕は頑張りたいですという人は、ではヨーロッパに行かなければ駄目でしょうという話なのです。だから、例えばの話、メキシコで、僕はこの国で一番になりたいのですと言って相撲をやっている人は、多分そこで相撲をやっていればいいと思うのです。だけど、僕は横綱になりたいのですという人は絶対日本に来なければ駄目なのです。それはすごく思います。
橋都:他にいかがでしょうか。
 では、僕からひとつ質問なのですが、先ほど自転車選手として食べていい食材、悪い食材があるというお話だったのですけど、例えば自転車選手が食べてはいけないとされている食材は何があるのでしょうか。
宮澤:僕らロードレーサーは、肉は食べなければいけないです。これは非常にひとつ大事なことなのです。重力に反して上っていかなければいけないですよね。ということは、パワーウエートレシオといって、自分の体重当たりのパワーが高ければ高いほど速く上れます。これは車も一緒ですよね。エンジンが小さくても車が軽かったら速い。車が重くてもエンジンが大きかったら速い。だけど、車が重くてエンジンが小さかったら遅いですよね。なので、体の作り方も、エンジン、筋肉を、出力を大きく、そして体が軽ければ軽いほど速く上れるということなので、ダイエットしなければいけないのです。
 僕は、シーズン中はいつ測っても体脂肪率は大体5.2パーセントとか4.7パーセントとか、一番低かった時で3.何パーセントぐらい、本当に皮です。そして食事量も減らしていくので、筋肉を削るし、骨もやはりスカスカになっていくし、食べていないので栄養がないので骨粗しょう症とかになるし、そういったことももちろんあります。だけど、どんどん軽くしていく、そしてパワーを出していく。例を挙げますと、180キロとか走ってきて、家に帰ってきてご飯をお茶わんに1杯半ぐらいしか食べないです。それだけでもう十分なのです。
 イタリアの中での駄目というのは、彼らはすごく面白いのです。例えばニョッキは駄目だけどおイモはいいと言うのです。パスタもいいと言うのです。いやいや一緒だろうという話なのですが,彼らにとっておイモは野菜なので、パスタはパスタ、炭水化物なのです。僕からしたら両方炭水化物ですよという話なのですけど、このような矛盾が非常にあるのです。だから、良いも悪いも彼らの中でのイメージなのです。ニョッキは駄目でしょう。あとボロネーゼのソースも重いから駄目とか、ラザーニアも重いから駄目とかあるのです。軽くすればいいではないかと思うのですけど、それでも駄目なのです。もうラザーニアは駄目みたいな、そういう頑固なところがすごくあります。
 イタリアは、感じていらっしゃる人は多いと思うのですけども、お年寄りの方が言っていることは若い子にとっても絶対なのです。これは僕は大間違いだと思っているのですけど、いまだにそうですね。古くからのことを信じて生きている人が多いです。だけど、やはり少しずつ少しずつインターネットが普及してグローバル化が進む中で、イタリア人はすごく変わってきています。最近、若いイタリア人は英語をしゃべれますからね。本当にすごいなと思うのですけど、フランス人も話し始めていますけど、これはすごいなと思っています。
 その中で、そういう食の常識というものもいろいろ入ってきて、最近また少しずつ変わってきているのです。なので、イメージだけでない、今の世界の中でのスタンダードというものは少しずつ変わってきています。
橋都:それともうひとつ、フランスとイタリアの自転車事情の差ということで、フランスではツール以外は非常にマイナーだという話でしたね。イタリアへ行くと、よく日曜日にも、僕ぐらいの年のおじさんたちがよくロードレーサーに乗って出かけていくのを見かけますけれど、フランスではそういうことはあまりないのでしょうか。
宮澤:そういうのはあります。ただ、競技の文化がだいぶ違います。イタリアの方がエリートです。フランスの方がすごく緩いです。どちらかというとフランスは、町内会の運動会みたいな感じでレースが行われています。なので、50歳の人と15歳の子供が一緒にレースを走っているのです。
 すごく速くいペース、50キロぐらいにペースが上がると、空気抵抗がありますのでみんな一列になるのです。そこでもう耐え切れなくなった人がぷちっと切れてしまったりするのです。そうすると間が空くではないですか。この間を詰めるのってすごく大変なのです。なぜかというと、前は50キロで走っているところを後ろが50メートル空いてしまったら、では何キロ出して前に詰めればいいのか、60キロ出さなければいけないでしょう、60キロも出るわけないみたいな感じになってしまうのです。ぷちっと切れた人を、おまえふざけるなよとぱっと見ると、ちょっと白髪の混じったおじさんだったりして、無理しなくていいからどいてくださいみたいな、本当に運動会みたいに、そうやって子どもから大人まで同じカテゴリーの中で走ったりするのです。イタリアは逆に年齢分けがきちんとされていて、ジュニアは15歳から18歳、アンダー23が19歳から22歳、エリートが23歳から25歳、そこまででプロになれなかった選手はもう辞めましょうというのがイタリアの自転車の世界です。
橋都:他にいかがでしょうか。
高橋:ありがとうございました。恐らく自転車でイタリア中を走り回られていると思うので、私は友達が運転の高速道路とかでしか知らないのですが、例えば場所で言うとアオスタ、ここは自転車レースなんかで見たことがあるのですが、アオスタはいっぱい走っていたのは覚えているのです。それからトスカーナのアペニン山脈、それからもうひとつはドロミテ渓谷、それぞれ走られたと思うのですが、どんな感じですか。特にどこがきつくてどこが比較的楽で楽しいとかはありますか.
宮澤:まず、アオスタは、僕はレースでしか走ったことがないのですけれども、もう寒かったことしか覚えていないです。5月のレースだったのですけれど、寒くて寒くて、山が大きいのです。だから、あんな所までは行かないだろう的な感じなのです。結構上りがきつくて、道路ががたがたで、チーズがうまくてみたいな。大きいことは大きいのだけど、頂上まで行かないからあまり山の大きさ、スケール感を感じないのです。
 逆にドロミテは、山肌を走っていくので、自分で山を越えている感があるのです。もともと標高は高いですから、これはすごく良かったです。今は、クラシックをかけながら家の外でのんびり、でっかい山というか岩ですよね、あれを見ながら飲みたいですね。その時は19歳ぐらいだったのでなかなかそんなことはしなかったのですけれども。
 アペニン山脈はどの辺でしたか。
高橋:真ん中の山、フィレンツェとボローニャの間ぐらい。
宮澤:あそこは、僕はアウトレットに行ったことぐらいしかないのです。自転車で一回越えようと思ったことがあるのですけど、なかなか険しくて、途中で断念したのです。というのは、フィレンツェからボローニャか、ラ・スペツィアからパルマかでちょっと迷って、フィレンツェ~ボローニャの方をアタックしてみたのですけど、これはちょっと無理だなと思いました。道が非常にくねくねしていて、もちろんマップを見れば分かるのですけれども、あそこはアップダウンが意外と多いのです。だから大きいのを一個越えたらずっと下りとかではなくて、大きな所を下ったらまた上がってというのが結構多くて、これは大変だなと思って断念しました。だけど、あそこは車で走っていてもすごくきついのが分かりますし、実際あそこは頂上を越えてしまったら全部下りなのでいいのですけど、あの越える所に行くまでが心が折れないかどうかが大事です。
 そして、車で移動する時は、意外とあそこはトラックの事故が多いのです。なので、飛行場とかに移動する時はあまり通らない方がいいですね。だから、もしボローニャにいて明日フィレンツェの航空から帰るというときは、ボローニャに泊まらないでフィレンツェに泊まって帰った方がいいです。そうしないと、あそこは一回事故が起きると通るまで本当に渋滞が起きて駄目なのです。そんな思い出のある場所です。
橋都:他に、はい、どうぞ。
杉浦:ありがとうございました。
 さっき食の話題が出たところで、2つ質問があるのですけれども、例えばロングの練習をしたりレースをしたりしてかなり疲労した時に、個人差があると思うのですが、これを食べると疲労回復したというものがあるか、あともうひとつは、補給食で宮澤さんご自身はどんなものを、レース中に召し上がっていたか教えてください。
宮澤:まず、普段の食事ですよね。どうすれば疲労回復するのか。簡単です。あまり食べない方がいいです。
 いっぱい食べると回復すると思っている方はちょっとだけ間違っています。全部は間違っていないです。なぜかというと、たくさん食べると、その量を消化して吸収するのも、結構大変なのです。内臓にすごく負担がかかるのです。運動していても長い距離とかを走ると内臓にすごく負担がかかるのです。なので、なるべく早く回復しようと思ったら、まずは炭水化物。なぜかというと、まずはエネルギーが身体を回復し始めるのです。そして、筋肉を修復したり治したり発達させるものはタンパク質になってくるのですけど、タンパク質だけ取っても吸収されにくいのです。きちんとエネルギーのあるものがあってタンパク質があっていろいろなものがあって体は回復していくのです。だけど、たくさん食べると体に負担がかかるだけで、大して吸収されないで結構おなかの中に残るのです。腸にたまったものは結構重いのです。よくデトックスといって、食べないでいると2キロぐらいすっと落ちるではないですか。あれはおなかの中にあるものが出たというだけの話なのです。2キロぐらい入っていて、これは結構な量なのです。
 最近、パスタを80グラム、100グラムって、スポーツ選手にはちょうどいいのだなと思いました。もう引退したのであれなのですけど、僕みたいな食べ盛りにしたら少ないのですけど、選手にとっては80グラムぐらいって多分ちょうどいいのです。本当に一口食べればそれでいい。僕は実はイタリアにいた時に奥さんに作ってもらっていたものは、大体和食なのです。そしてなるべく小鉢。皿数を多くしたり、1つのプレートの中に数多くの食材を並べていろいろなものを少しずつ食べるということにしたら、かなり良かったです。バランス良く少量の物をたくさん食べる。和食というのは本当に素晴らしいなと思いました。
 そして、練習中の食べ物ですけど、大体パニーノです。モルタデッラは結構好きなのでサンドイッチとか、家の近くにスキャッチャータのおいしい所があって、そこに行くとパンを選んで中に挟むものをどれにするか選ぶことができて、そんなものを食べながら、本当に普通のものを食べながら走っていました。
橋都:他にございますか。
高崎:自転車ではないのですが、今、食の話が出たのでついでに。おいしいものから心豊かにするものという話がありましたけど、宮澤さんの場合は心豊かにする食べ物は何ですか。私の場合はおいしいものは心豊かになるような相関がありますけど、お願いします。
宮澤:僕が向こうにいた頃はずっと選手だったので、あまりいろいろなものを食べられなかったのですけども、これは年に一度は食べましょう、そして楽しみにいきましょうと思ったのが、ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナです。おいしいですね。ご存じの方は多いと思うのですけど、トスカーナにあるチェッキーニというレストラン、町の名前を忘れました。チェッキーニで調べていただければ出ると思います。
 そこに行って最初に食べた時、すごくおいしかったです。焼き場の前に座らせてもらったのですが、どうやって料理しているのかな、何で骨の部分をあんなに黒くなるまで焼くのかな、ああ、焼くと骨の所が甘くなるのだな、お肉って後塩なのだな、後塩することがおいしいのだなとか、いろいろなことがその場で見られました。
 焼き手の空気感だったり、食材との対話感みたいなものを見ながら、ちょっと途中で話をしたりして、自分は自転車選手をやっているのだよと言うと、うちの息子も自転車をやっていてという話になって、すごく盛り上がりました。そういう、ただ食べ物がどうのこうのだけではなくて、そこで自分をもてなしてくれる方とか、単純にお酒をつぐだけなのにいろいろなパフォーマンスをしてくれたりだとかで、相手の心を楽しませてくれるのです。ただ単純なに僕はおいしいと聞いて来てみただけなのに、そうではない部分がすごく強くて、それが自分にとってすごく心地が良くて、このお店はすごく良かったです。肉の思い出ももちろんあったのだけど、それだけでない思い出も半分ぐらい占めていて、そういったところの、人とのコミュニケーションみたいなものだったり、自分の気持ちが伝わることだったりというものが、実はその物のおいしさを非常に引き立てることなのだなというのは感じました。
橋都:他にございますでしょうか。
矢野:日本ではあまりロードレースはないのですが、競輪はありますよね。競輪の選手とロードレース選手の体の作り方、例えばどこに一番筋肉がついているかとか、そういうのはどうなのでしょうか。
宮澤:競輪選手は皆さん知っていますよね、テレビとかで見たことがありますよね。選手としての大きな違い、まずは短距離走か長距離走かです。例えばどのぐらい違うかというと、体の大きさ的に言うと砲丸投げの選手かマラソン選手かぐらい違います。そのぐらいの差があるのですけれども、そもそもトレーニングの内容が違うので発達しやすい筋肉も違います。ですけれども、体を動かす上で必要な動きは実は一緒なのです。
 短い時間にものすごく凝縮されたドラマがあるのが競輪選手です。30秒とかの中で彼らはものすごく細かい展開の中で自分の力を発揮します。ですが我々ロードレーサーは、6時間という長いレースの時間の中で、相手をどうだまくらかそうというところでレースをするのですけれども、まず戦う人数が違います。競輪選手は1人で戦います。地域とかいろいろあるので、3人・3人・2人とか組んで走るのはあるのですけれども、ロードレースの場合、1レースで190人、200人ぐらい出走します。そして1チーム8名、9名、少ないと5名、6名というレースも結構多いのですけれども、その選手たちが1人のエース、その日に勝てる選手、そのレースで自分たちのチームで勝たなければいけない選手が勝てる状況、環境、レースを作るためにシナリオを作るというのがアシストの役割です。
 このアシストというのは何かというと、例えば野球で言うとバントをする人もいればヒットを打つ人もいればホームランを打つ人もいますよね。エースというのはホームランを打つ人です。では、ホームランを打つ人の手前にどれだけ塁に選手を運べますかというのがアシストの仕事です。アシストは、自分のエースがより戦いやすい、自信の持てる環境下で、自分たちのチームの仲間を使ってそのエースを導いて、そのエースが勝ちにいくというレースの展開がロードレースになります。なので非常にドラマが長いというのが大きな違いです。
 体の違いは、短距離の選手は筋の収縮が強いですので、筋肉は使うと壊れますので、それを修復していく上で筋肉がより太くなっていきます。そして、競技時間が短ければ短いほど筋肉というものは太くなっていきます。なので、競輪選手は例えば足が太かったりお尻が大きかったり上半身がごつかったりという特徴があります。
 しかし、ロードレースの選手は、もちろん足もお尻もそこそこあるのですけれども、短距離の選手よりはかなり細くなります。例えば、僕は164センチで選手の時は59キロぐらいだったのですけど、じつはかなり重い方です。山岳が得意な選手、先ほど、上りを上らなければいけないのでダイエットをしますと言いました。その選手は、例えば僕ぐらいの身長164センチだと50キロぐらいの選手が結構多いです。そして、平たんのステージが得意な選手、ゴールスプリントが得意な選手は瞬発力も必要になってきます。そういう選手は、例えば170センチぐらいあっても62~63キロ、65キロぐらいの選手も結構います。そういった自分が得意な場所によって体の付き方も変わってくるのです。なので、ロードレースの場合は山岳が得意な人は体が細い人が非常に多いです。スプリントが得意な人は体が太い人も結構います。でもみんなが丘を越えなければいけないのは一緒なので、スプリンターの選手はすごくダイエットをする人が多いです。
橋都:いかがでしょうか。もう一方か二方、ご質問があれば受けたいと思います。
 よろしいでしょうか。それでは、もう一度宮澤さんに拍手をお願いしたいと思います。(拍手)
宮澤:どうもありがとうございました。