アルゼンチンのイタリア人-マローネとヴィタ=フィンツィ(講演記録)

第424回イタリア研究会例会 2015-10-30
報告者:土肥秀行(立命館大学文学部准教授)
「アルゼンチンのイタリア人-マローネとヴィタ=フィンツィ」

橋都:皆さん、こんばんは。イタリア研究会運営委員会代表の橋都です。
きょうは、第424回のイタリア研究会例会に、ようこそおいでくださいました。
きょうは、「アルゼンチンのイタリア人-マローネとヴィタ=フィンツィ」という題名で、土肥秀行さんにお話をしていただきます。
皆さんがアルゼンチンとイタリアとの関係を最初に意識したのは多分、「母をたずねて三千里」ではないかと思うのです。僕もそうなのです。あれを読んで、マルコはスペイン語をしゃべれたのかなとか、余計なことを考えたのですけれども、当時アルゼンチンには、イタリア移民、特にジェノバ出身のイタリア人が各地にたくさんいたようなのです。恐らくマルコはそれを伝って、お母さんのところまで行ったのではないかと思います。
きょうは、マルコの話ではなくて、マローネとヴィタ=フィンツィという文人というか、文学者についてお話をお願いしてあります。
それでは、土肥さんのご略歴を紹介したいと思います。
土肥さんは、文学博士、Ph.D.,ボローニャ大学でも博士号を取られたという、大変な秀才です。主著にL’esperienza friulana di Pasolini、それから和田忠彦先生監修の共著『イタリア文化 55のキーワード』などがあります。
僕が最初に土肥さんにお会いしたのは、かつてフェレンツェにあった東大の研究所だったのですけれども、日本に戻られてから1度、このイタリア研究会でもお話をお願いしたことがありますので、きょうは第2回目ということになります。
それでは、土肥さん、よろしくお願いします。

土肥:橋都先生、ありがとうございます。
アルゼンチンとイタリアといえば、マルコが主人公のアニメ『母をたずねて三千里』が有名です。原作はデ・アミーチスの『クオーレ』の挿入話です。そのなかで、マルコは、アルゼンチン各地を旅します。中でも、コルドバというアルゼンチン第2の町の居酒屋で、イタリア移民の人たちにかわいがられます。マルコはイタリア人のコミュニティをたどって移動しているのです。彼が探すお母さんも、そうしていたからです。コルドバはブエノスアイレスの北にあり、もっと北にいくと国境地帯のブラジル側にパラナという地方があります。ここではイタリアのコロニーの名残があって、言語的にもイタリアーノがなまった「タリアン」という言葉が話されています。それは、一種の方言というよりも、独立した言語として認知されています。
日系の場合もそうなのですが、都市生活者よりもコロニーの方が、人種・民族的オリジンのアイデンティティが保たれています。僕が見てきたのは都市部であるブエノスアイレスなので、コロニーとはまた別の事情のところです。きょうお聞きいただく中に、ブエノスアイレスの話も入っています。
お手元のハンドアウトに沿ってお話ししていきたいのですけれども、こういう会なので、皆さんに興味を持ってもらえるような、いろいろな小ネタを挟みながら、こちらが面白いと思うことは全部言おう、聞いてもらおうと思っていて、「まとまり」は特に意識していません。僕は、現在は関西で教えていますが、関西では、いろいろな話をして、うまく落とさないと怒られてしまいます。僕は関東の人間として開き直ってやっているので、「先生はオチがない」とよく学生に突っ込まれます。それはもうしようがないのです。まとまりがないのは、関東の人間ゆえ、とさせていただきます。
本日の講演タイトルは「アルゼンチンのイタリア人-マローネとヴィタ=フィンツィ」。マローネ、ヴィタ=フィンツィとは誰か、という話になります。まったく知られてはいませんが、ぜひご紹介したい2人なのです。
「アルゼンチンのイタリア人」という表現で、一応、この2人を言い表したつもりです。日本語で考えている分にはそこまで違和感がなかったのですけれども、イタリア研究会側から特に求められてはいませんが、イタリア語のタイトルはどうなるか考えてみました。「アルゼンチンのイタリア人」を一応、Italiani in Argentinaとしたのですけれども、アルゼンチンにいるイタリア人たちという意味になります。初めにぱっと頭に浮かんだのは、Italo-argentini「イタリア系アルゼンチン人」という言葉でした。しかし、それはイタリア系アルゼンチン人であって、アルゼンチンのイタリア人とちょっと違います。アルゼンチンとイタリア系の場合、何がアルゼンチン人で、何がイタリア人なのか、見極めが結構難しいのです。
というのは、アルゼンチンはイタリア系でできている国だからです。一般的に余りそういうふうに意識はされません。マジョリティであるため、あえてイタリア系と言わないのです。Italiani in Argentinaと言ったところで、当たり前すぎて意味がない。マイノリティのアイデンティティはよく主張されますが、マジョリティのアイデンティティについて語るのは難しいのです。ただでさえ規模が大きいので、マジョリティは主張してはいけないからです。マイノリティは主張すべきだけれども、マジョリティは主張できないのです。アルゼンチンにおけるイタリア系とはまさしく、そういうマジョリティでした。
タイトルの話から、例えばこれが日系だったら困るのですが、Italo-argentiniとItaliani in Argentinaの違いはそんなに困りません。日系はアルゼンチンにもおり、特にブラジルの日系は有名ですけれども、どこに行っても「日本人」と呼ばれてしまいます。ブラジルでは「ジャポネーゼス」と呼ばれます。日本人が、日本からブラジルに行っても「ジャポネーゼス」と呼ばれます。ブラジルの中ではマイノリティだから、わざわざ日系ブラジル人とは呼ばないのです。だから、ブラジルの日系だったらジャポネーゼスで、在り方はさまざまにしても、呼び方に違いはありません。ただ、イタリア系の場合は結構難しく、どこまで行っても解けない問題ではあるのです。この問題についてはまた、話の流れの中で触れていきます。
流れというか、橋都先生にも紹介していただいたのですけれども、少し自分のことを話しつつ、なぜイタリア文学専門なのにアルゼンチンの話をするのかというところも聞いていただこうと思っています。あと、マローネという人を紹介してから、今回、南米に行ってきましたという楽しい話を、写真を交えて紹介したいと思っています。2人目のヴィタ=フィンツィという人について聞いてもらったら、最後にまとめにならないまとめをしようと思っています。
立命館に移って1年半経ちましたが、だんだん面白くなってくるのが2年目です。1年目は多少、様子見なところがありました。さっきの話ではないですけれども、関東の人間ですから、少し構えてはいたのですが、割とすんなり入っていけたというのが意外でした。ただ、そう思い込んでいるだけかもしれません。まだまだ新参者ではあるのですが、今では、ちょっと関西の意識をもちはじめています。
僕同様、きょう聴きに来てくれてた横田さやかさんもボローニヤ大学で博士号を取っています。ときどきそういう人はおり、「日本人が頑張ってるぞ」との評判をとる小コミュニティがあります。
東京大学のフィレンツェ研究教育センターで助手をしていました。1998年から2006年まで続いた組織で、およそ10年間続きました。現文化庁長官でいらっしゃる青柳正規先生がつくられた組織です。センターが閉じられ、日本に戻ってきて、しばらくして浜松に行き、静岡文化芸術大学で専任のポストを得て、鍛えられました。浜松5年ののち、京都に移動し、どんどん西に行っているという状況です。
広く言えば、イタリアの20世紀文学を研究しています。詩人パゾリーニの研究をずっとしていました。博士論文にまとめるまで一筋でやりました。橋都先生にイタリア研究会で話す機会をいただいた前回、パゾリーニを演題にした2006年12月15日の会から9年経ってしまったことにびっくりしています。あれは日本に戻ってすぐだったのです。
パゾリーニは、ことし没40年ということで、日本ではブルーレイが発売される程度でしたが、イタリアではまた大きく話題になっています。僕自身も、この節目に、パゾリーニのことを考えています。
ローマ近郊のラツィオ州の南の方の海岸沿いにサバウディアという町があります。サバウディアという町は人工的な町で、ファシズム時代に、ファシズムの思想と、当時の先端であるモダニズム的な考えでつくられた、コンセプチュアルな町です。より知られた例としてエウルがありますが、それよりはもうちょっと抑え気味に1934年にできた町がサバウディアです。そこで、今度の12月にパゾリーニに関するシンポジウムが開催されるので、縁があって行くことになりました。はじめてサバウディアに行ってきます。私立の大学は厳しいので、本当は学期途中だから、余り授業とかを潰してはいけないというプレッシャーはあったのですけれども、いい機会だから行きます。それに没40年ということもありますし、パゾリーニの知的遺産の継承が問題となり、若い人がパゾリーニを知らないと嘆かれます。シンポジウムは研究者、プロの集まりなのですけれども、一般への普及も目指しています。
パゾリーニ・シンポジウム以外にも、単独ですが、ローマ郊外の高校で話す機会ももらいました。最終学年になった息子が通う高校では、パゾリーニを国語の時間に読んでいるというので、授業をしにいくことになったのです。高校生を前に話すのは、研究者仲間を相手に訳の分からない話でけむに巻くという普段の調子とは違いますから、彼らの好奇心に応えられるよう、悩みながらも、面白く感じてもらおうと工夫する予定です。ともかく息子のためにやろうと思っています。
多分、今日の講演時間90分はあっという間に過ぎるでしょうが、特に研究の話をしたいわけではなく、趣味としての研究といいますか、僕が面白いと思っていることについてお聴きいただければと思います。
ここ数年、ちょうど100年前の詩人たち、ちょうど未来派が活動していたころの詩人たちについてこだわってきました。未来派というと、ミラノやローマといった都市型の文化運動として展開されましたが、一方で、全ヨーロッパ的な広がりも認められ、そしてイタリアの地方にも未来派の流行は波及し、たとえばナポリにおいても盛り上がりました。このことが僕には新しかったですし、余り知られていない点です。
ただ、100年前のナポリは、そこまで地方でもなかったということも、知っておいていただきたい。ナポリの文化シーンはまだまだ活発でした。100年前のナポリには、そのつい半世紀前まで王国の首都であったときの遺産が十分残っていました。スペイン・ブルボン朝に属しはしますけれど、一国の首都でしたから、その力がまだ残っていた時代に新しい芸術に敏感に反応した人たちがいたと押さえるべきなのでしょう。単にローカルな未来派の亜流が生まれたわけではない、むしろもうひとつの未来派ともいうべきもの、全体としての未来派の複数性を示すものを、僕は探っています。
その100年前のナポリで新しい芸術活動を展開していたのが、きょうお話ししたいゲラルド・マローネという人です。文学、特に詩を読む僕自身にとって、新しい芸術活動とは、端的に言って、短詩形がキーとなります。日本の短歌が影響を与えたとされる当時のスタイルについて、あまり知られてはいないですけれども、実は須賀敦子先生の研究が先鞭を付けました。1976年のウルビーノでのウンガレッティ学会で、須賀先生がなさったイタリア語の発表では、日本の短詩形の影響が、デビュー時のウンガレッティの詩にどれだけ認められるか吟味されました。少なくとも短歌とは関係がない、というのが結論でした。そのウンガレッティの詩作に、最も近くから寄り添ったのがゲラルド・マローネでした。このゲラルド・マローネについて語りながら、徐々にアルゼンチンにスライドしていくというのが、これからの話の流れです。僕がたどった道さながらとなります。
ゲラルド・マローネという人は、1891年に生まれて1962年に亡くなりました。だから、2つの大戦をフルに生きた世代に属します。大人として、2大戦と、そして大戦間、つまりファシズムの時代を全身で生きた人たちです。
マローネは、文学者かつ弁護士です。彼の家は、弁護士一家で、名家です。名家に生まれていることもポイントであり、彼自身はブエノスアイレスで生まれています。よってイタリア人なのかアルゼンチン人なのか、判断は難しいです。イタリアから見ている分にはナポリの人であり、アルゼンチンでは完全にアルゼンチン人であり、アルゼンチンにおけるイタリア文化の普及に貢献した人です。イタリアではスペインの古典、カルデロン・デ・バルカや、それこそセルバンテスなどの最重要作品をイタリア語に訳しました。一方、イタリア語からスペイン語へは、彼自身ではないけれども彼の指導で、ダンテ『神曲』やボッカチオ『デカメロン』といった古典が訳しました。スペイン語とイタリア語の狭間で、双方向の翻訳をしました。よって彼はブエノスアイレスで生まれ、ナポリで亡くなっています。
そして友人に下位春吉という人がいました。僕はよく下位春吉という人について書きますが、現在のナポリ東洋大学で、1915年から日本語講師をしていた人です。
下位春吉とゲラルド・マローネは、ナポリの文人サークルの中で友情を育み、一緒に日本の詩人たちを翻訳していました。ナポリで撮った和装の写真を彼に贈っています。その後、段々とマローネと疎遠となり、ファシズムに染まっていきます。当時まだ絶大な人気であったダンヌンツィオを知り、そして一介のジャーナリストに過ぎなかったムッソリーニを知り、後に日本にイタリアのファシズムを紹介した人として大戦間は非常に有名になりました。ここに1918年の復活祭のときに下位がマローネに書いた絵はがきが残っています。普段はナポリにいるのですが、ナポリの南のマローネの実家に仲間で遊びに行って、下位が屋敷をスケッチし、そして一足先にナポリに帰ったマローネに送ったものです。
実家は、モンテ・サン・ジャコモという村で、サレルノのもっと南です。「夢の島のように雲海に浮かぶ村」と、この絵はがきの表に書かれているのですが、これが現在モンテ・サン・ジャコモ村一帯の観光の宣伝文句になっています。「雲海に浮かぶ」galleggia tra le nuvoleと言っています。竹田城しかり、雲海に浮かぶとわれわれみんな好きになってしまいますね。最近は、多くの人が、雲海に浮かぶところに行きたがるのです。下位はその流行の先駆けです。確かに、ここの地域も雲海に浮かびますが、未だ人々に知られていません。その写真はありません。シーズンが限られてしまうので、僕が現地に行った際には、そういう光景は見られませんでした。
 その小さな村に、立派な17世紀のお屋敷が残っています。マローネの実家です。いまでは中がきれいに改装されて、村の図書館になっていますが、運営資金がないので公開されないままという、イタリアの悲しさが漂う空間になっています、でも、改装しただけでもたいしたものです。たまに講演会やお芝居をする場所となっています。近々、職員を雇って恒常的に開ける計画が立ち上がったようです。
ナポリが州都であるカンパーニア州の中でも、モンテ・サン・ジャコモは南の際で、ほぼバジリカータ州です。バジリカータは、古称ルカーニアですが、今でもそう呼ばれることがあります。モンテ・サン・ジャコモは、文化的にはルカーニアですね。一応、サレルノ県に属していますが、イタリアの県のなかで最も大きい県です。広大すぎるぐらいで、同じ県といっても、サレルノまでバイパスがあっても、車で1時間はかかってしまいます。
近くにはエボリの町があります。『キリストはエボリに止りぬ』のエボリです。カルロ・レーヴィ作、清水三郎治訳の小説で、フランチェスコ・ロージによって映画化されています。ジャン・マリア・ヴォロンテ主演で、当時、『エボリ』というタイトルで岩波ホールで公開されました。ヴォロンテはいぶし銀のかなりインパクトのある俳優です。この作品では控えめで慎重な知識人を演じています。『キリストはエボリに止りぬ』は、ファシズム時代の知識人の流刑譚です。反体制知識人が僻地に飛ばされて、発言を封じられるという、1935年ごろの作者の実体験にもとづいています。カルロ・レーヴィはまさしく、ルカーニアに飛ばされるのです。エボリは、よく話題になるアマルフィからサレルノに行って、その先、南にあります。タイトルが意図しているのは、キリストの福音はエボリまでしか届かなかった、その先の南部は見捨てられた土地なんだということです。モンテ・サン・ジャコモに行く際に、エボリで電車を下車するのですが、見捨てられた土地に来たように感じます。エボリは小説で有名になりましたが、行っても特に何もありません。やたらと有名になってしまったから、「ああ、エボリだ」と感慨深くなるのですけれども、エボリ自体は、地域では中ぐらいのまあまあのサイズの町です。でも、その先は見捨てられている、そういう見捨てられた土地に行ったのです。
ディアーノ峠と書きましたけれども、Vallo di Dianoという地域です。Valloを峠としましたが、周囲が山に囲まれたもともと湖だったところで、マラリア対策で斜面にいくつか集落が発達しています。雲海に浮かんで素敵ですよと言いましたが、なかなか辿りつけない地域です。どうやって行ったらいいのかわかりません。バスも電車もありません。車でなければ行けない、グローバル化の時代に置いていかれてしまった地域です。グローバル化は世界を小さくしたかもしれないけれども、一方で多くを切り捨てています。かつてローカル鉄道は、採算が取れなくても、いっぱいありました。今では採算が取れないと全部潰してしまいますから、では、そこにいる人たちはどうすればいいのかという話になります。そうして孤立してしまっている地域です。2回行きましたけれども、こんな風に取り残されているところがあるのかと衝撃的でした。
ゲラルド・マローネは親の移民先のアルゼンチンで生まれましたけれども、モンテ・サン・ジャコモは、多くの村民が渡ったニューヨークとのつながりがいまだにものすごく強いです。さすがにもはや移民はそんなに盛んではないけれども、昔はアメリカに住んでいたという人が結構いて、英語がしゃべれて、親戚がニューヨーク近郊にいるという人たちが多くて、今でも年に1回、ニューヨークの移民祭りに市長と市民有志が行って、村出身の一族と交流を続けています。ですから妙にアメリカとつながっている地域です。
そのような村に実家があるのです。さっと見てもらいますけれども、YouTubeにあがっているゲラルド・マローネのマローネ邸の映像です。誰がアップしたのか不思議です。
今でも、ゲラルド・マローネの75歳の甥ゲラルド・ジュニアがナポリにいて、僕の研究をいろいろと助けてくれます。これを見てみろと、YouTubeに上がっている昔のフィルムを教えてくれました(https://www.youtube.com/watch?v=t33xbEL4OBQ)。戦後まもなく、なぜこういう映像(ゲラルド夫妻の帰還と、マローネ家誰かの洗礼式)が撮影されたのか分かりませんが、ニュースフィルム、プライベートフィルムあります。映っているのは、ゲラルド・マローネのお父さんベネデットと、お母さんのコンチェツィオーネ・チェスターロです。ゲラルドがアルゼンチンから帰るというの電報をみて、わざとらしく喜んでいるシーンがあるなど、プライベートフィルムにしては、やたらと演じています。やがて2人が到着します。これが、ゲラルド・マローネ、奥さんのデリアと一緒です。新婦のお披露目として帰ってきました。一族が集まって、ゲラルドが真ん中で話しているというシーンです。ゲラルド・ジュニアと一緒に動画を見ていると、これは誰、あれは誰と、一人一人教えてくれます。この後、洗礼が続きます。
ゲラルド・マローネは、イタリアではまったく知られていない存在です。1月に辞任した前大統領ジョルジョ・ナポリターノのゴッドファーザー=パドリーノです。名付け親ではないけれども、ナポリターノのお父さんジョヴァンニの親友で、息子は非常に慕っていました。ナポリ出身であるナポリターノの父親は弁護士で、ゲラルド・マローネと共同で働いていました。ファシズムの時代、30年代初めまで、やや反体制的な動きをしていた2人でした。その精神を受け継いだか、ジョルジョ・ナポリターノは戦後をずっと、共産党一筋で生きていきます。共産党出身ではじめて大統領になります。かつて若かりし頃のナポリターノによる、ゲラルド・マローネ宛書簡がいくつか残っています。大戦末期、20歳のジョルジョ・ナポリターノは、ゲラルド・マローネに告白するかたちで、趣味の演劇ではなく、政治で生きていく決意を述べる手紙の現物を、僕も見ました。かなり感動的な内容で、3年前に新聞記事にもなりました。
それまでは演劇が好きだったのです。彼は、演じたりもしていました。GUFと呼ばれるファシスト系の団体でした。当時は誰もがみなファシスト大学青年団GUFに関わっていました。ファシスト系ではない、その他の団体はありませんから、仕方がありません。パゾリーニもそうしたファシスト系の文化サークルにいました。
ゲラルド・ジュニア(甥)に個人的に見せていただいた、ナポリターノがマローネ家に書いた最近の手紙の写しがここにあります。最近出たゲラルドについての研究書を、ジュニアから献本されたナポリターノが、自分の大切なゴッドファーザーに対して敬意を示している書簡です。ナポリターノは知識人でもあるから、おそらく演説も自分で書いていただろうし、こういう手紙もしっかり自分で書いています。たいへん義理堅い人です。
ゲラルド・マローネ自身は子どもがいなかったので、現在、ゲラルド・マローネの遺品と記憶の継承については、弟アルマンドの子であるゲラルド・ジュニアが管理しています。僕みたいな研究者を励ましてくれる存在です。
ゲラルド・マローネの父親ベネデットは化学の先生で、ブエノスアイレス大学で教えていました。1890年に赴任して、翌年に生まれたのがゲラルドでした。19世紀末に移民していた人たちは、それなりの家系でした。もちろん困窮状態から、必要性にかられて移民する人たちもいるけれども、いわゆる下層の人は移民できるような余裕はありません。むしろ一旗あげたいという人が多かったので、それなりの名士の家であって野心あふれる人が南米に行くわけです。
13歳までブエノスアイレスで育ち、ナポリ「帰国」後、高校と大学に通います。マローネ家の伝統として弁護士になるのですけれども、一方、詩を書いたり、文学雑誌を立ち上げて、文学サークルを盛り上げるのに熱心でした。文学的功績は、先ほどの下位春吉とともに1917年に出した本です。戦争下ではありましたが、いろいろな文化運動が活発で、『日本の詩』Poesie giapponesiというアンソロジーが出ています。これが新しいのは、下位が人選にかかわっているので、従来は日本文学・文化といえば伝統にむかっていましたが、そうではなく、当時流行っていた人たち、同時代人を紹介しようとしているところです。ジャポニスムとしてくくられるような文学の需要も、伝統を重視しがちですが、下位は、大きくは異国趣味の動きのなかで、同年代の人たちを訳そうとした点が新しいのです。このアンソロジーはかなりインパクトがあって、書評がたくさん出ました。僕が確認できただけで、イタリアとフランスあわせて24本あります。イタリアでは、書評が全土で出るという、まだまだローカルに展開するだけの各地の雑誌の濫立状態において、めずらしいことが起りました。特に玄人である同業詩人の間ですが、こんなに短い詩があるのかという衝撃を与えています。そして真似する人たちも多くでました。僕の研究では、そうした影響力を吟味しています。
余りの反響ゆえに、「偽書」、これはつくりものじゃないかという反応が出ました。与謝野晶子なんて聞いたことないよ、聞いたことない名前ばかりだけれども本当に存在するのかという、半ばやっかみから疑いが出され、かなりのスキャンダルになりました。1917年の初夏の出版直後、すぐに、ゴッフレード・ベッロンチが、「ジョルナーレ・ディ・ローマ」というローマの新聞に、これはうそではないかと書くのです。この人の奥さんはマリア・ベッロンチという有名な作家で、文学サロンを率いていた人です。イタリアで最も権威のあるストレーガ賞という文学賞がありますけれども、それを立ち上げたのがゴッフレード・ベッロンチです。その彼が、実はマローネが書いた詩なのではというようなことを書いています。そこまで「悪口」でもない調子なのですが、マローネと下位は一生懸命反論し、「存在証明」のために日本大使館までも担ぎ出しています。このような論争が戦時下に起こるとは、当時は文学に対していかに真剣で真摯であったかという証になります。戦争中ですから、必死にこうした主張を交わすのは、文学者の本気度ゆえであり、まだ社会の関心を得られる力があったということなのでしょう。
マローネの友人の詩人ウンガレッティは、ノーベル賞はもらってませんけれども、20世紀のイタリア詩人の中でも一番ではないでしょうか。初期のウンガレッティとマローネは親友でした。マローネが下位と一緒に訳した与謝野晶子の詩を、ウンガレッティも読んでいました。ウンガレッティは同時期に、短い詩でデビューしています。だから、日本の詩の影響だと言われます。イタリアでももっとも影響力のある20世紀最大の詩人が、日本の詩の影響を受けて詩集『埋もれた港』Il porto sepoltoデビューしている。処女詩集は私家版ですけれども、かなり有名になりました。現代文学でほかに、オークションで4万ユーロの値がつく本はないでしょうね。それだけ突出しています。伝説の1冊です。
そんな存在が、マローネを通して日本文学に親しんでいたのではないかと言われていました。彼は有名になってから1930年代以降、否定します。読んでいない、影響を受けていないと、一生懸命に主張します。ただ一度来日した際に、1959年末、少し認めているのです。言質を取ったことになりますが、残念なことに、イタリア語の原文のない、和訳インタビューが、奥野拓哉さんという当時、東京外国語大学で教えられていた方によって残されています。教授であった柏熊達生が亡くなって、下位春吉の義理の弟のイタリア文学者の下位英一が東京外国語大学の先生になって、それと同じころに教えていた奥野拓哉氏のインタビューの最後に、上の発言を得ています。1959年といえば、ちょうどサルヴァトーレ・クワジーモドがノーベル賞を獲った年であり、ウンガレッティはライバル受賞による失意に陥りました。彼が余りに落ち込んでいるので、日本に遊びに行こうと友人のフランス人画家が誘い、遊びに来たのです。弱気になっていた時期ですから、確かに日本の影響はあるかもしれないと言ってしまったのではないでしょうか。
あと重要なのがイデオロギーです。マローネは反ファシストとして、同郷の政治家であるジョヴァンニ・アメンドラに影響を受けていました。いっしょにIl Saggiatoreという雑誌を立ち上げましたが、政権によりすぐにも潰されてしまいます。1924年、1925年のファシズム体制独裁が固まっていく時期です。時代の危機感ゆえ、言論の自由を守るため雑誌は発刊されました。タイトルは、ガリレオの書から取っています。ガリレオがイエズス会の数学者と論争したときの反駁の書です。つまり、自分は負けないぞ、黙らないぞという書です。それを受けたタイトルだったのですけれども、体制は黙っていませんでした。イタリアでもほとんど知られていない無名のマローネは、むしろもっと知られてもいいと思います。ジョヴァンニ・アメンドラは、独裁が固まる26年に体制側に暗殺されます。マローネは、同郷にこういう先輩がいて、影響を受けていました。
今回は触れませんが、ベネデッド・クローチェにもかなり影響を受けています。「反ファシズム知識人宣言」というのは、1945年5月、ベネデッド・クローチェが中心になってまとめられました。ゲラルド・マローネにとっては、アメンドラとクローチェは非常に重要な存在です。ジョヴァンニ・アメンドラは、息子がジョルジュ・アメンドラで、これも共産党の重鎮として戦後に活躍した政治家です。
1920年代に入って、だんだん活動が制限されていく中でマローネは、ブエノスアイレスに行くようになってきます。ファシズム体制のイタリアで活動に行き詰まり、活路を見出すため、それを逃れる意図でアルゼンチンに向かうのです。
マローネとナポリターノが共同で弁護した、痛ましいエピソードが、モンテ・サン・ジャコモでありました。1933年1月6日の顕現祭の日に、反ファシズムといえるほどではありませんが、農民たちが反乱を起こしたのです。アメンドラが輩出し、農民反乱が起こるようなアナーキーな土地柄、それがディアーノ峠です。
そのエピソードとは、ファシズム期にいわゆる竈税が残っていて、重税に対する抗議が農民から起こりました。主の顕現祭のハレの日に、市庁舎から三色旗を奪い、勢い付いていたところ、憲兵の銃撃に遭い3人の犠牲者が出ています(うち2名女性)。法廷ではマローネと友人のジョヴァンニ・ナポリターノが農民を弁護します。村には今でも、英雄贉として残っています。
そのような時代に、マローネは仕事を干されていき、暮らしに困るなか、ブエノスアイレスに「帰還」、移住するという展開になっていきました。13歳でイタリアに渡って以来のブエノスアイレス生活を1930年代前半から徐々にはじめます。残りの人生は、1938年ごろから亡くなる1962年までは、始終イタリアに行くとはいえ、基本的にはブエノスアイレスで過ごした人です。
それで、僕の研究自体もブエノスアイレスへとつながっていきます。この9月に初めて南米に行きました。初南半球でもあります。「対蹠点」について頭の中でずっと考えていました。日本から一番遠い場所としてサンパウロがよく挙げられますが、実はブエノスアイレスが一番遠いところです。アンティーポディ、スペイン語だとアンティポダスから来たと言えば、意外とみなさんわかってくださいます。日本語で対蹠点と言っても、通じないでしょう。
行きはサンパウロまで中東ドーハ経由でした。北米経由という可能性もありました。どうせ地球の裏側ですから同じです。ドア・ツー・ドアで、往路は33時間でした。これは接続がよいパターンでした。帰りは41時間と平均並みでした。行きと帰りにそれぞれ2日ずつかかってしまいます。だから時間に余裕をもって南米を訪問する場合は、大学教員ぐらいしか行けないんじゃないかと思います。
座席の小スクリーンに映った航路を写真に撮ってみました。アフリカを通過、赤道を越えるというのは感慨深いです。
まずブラジルから、サンパウロに入りました。メインはブエノスアイレスだったので、ブラジルはサンパウロしか見ていません。
アルゼンチンとブラジルは全く違います。ブラジルは有色人種や黒人系、アジア系が多いですし、人種的に多様ですが、アルゼンチンは白人の社会です。9割以上が白人と言われ、ブラジルと人種構成が全然違います。
サンパウロは大都市で、ものすごく人が多いです。東京の比ではないと思いました。地下鉄もいっぱいあるし、常に混んでいるし、乗るときは整列して乗るし、東京以上の勢いがありました。ブラジルは失速気味と言いますけれども、大都会サンパウロはものすごいです。パウリスタ大通りは、テレビにもよく出てきます。乱立する高層ビルの通りに寝転がっている人がいる、そういうコントラストがあります。だけど、人はおおらかです。大都会では、人がいっぱいいて混んでいたら普通、ギスギスするのですが、サンパウロはみなおおらかで優しいのです。なぜこんなに心に余裕があるのだろうと思うのですが、アフリカが入っているからだよと言われます。アフリカを通ってきた自分には、そうした解説が納得できると思いました。ギスギスしていない。それは素晴らしいと思いました。あと、外からは治安の悪さを言われるけれども、そういうのも別になかったと思います。大都市だから危険なところはあるかもしれませんけれども、全然気になりませんでした。みなさんもヨーロッパを周られているかと思いますが、ヨーロッパの街の治安も別によくありません。都市に行くと、物騒なときがありますね。そういうのを肌で感じます。僕は@ピリピリ感と呼んでますけれども、サンパウロよりローマの方がピリピリ感は高いと思います。ナポリには、ピリピリ感はほとんどないですけれども、ローマにはあると思います。
果てしなく町が続いていました。どれだけ広いのか見当もつきません。スラム街もかなり残ってます。2日目に行ったサンパウロ州立大学は、ブラジル最大規模かつ最高レベルと言われています。ブラジルの大学も、日本のように、ヒエラルキーがあって、ちゃんと順位が決まっています。ブラジルではみな向学心が高く、国としても勢いがあるので、さらに上にいくための教育を、という欲が強い。町に大学の宣伝があふれています。テレビのCMも盛んでした。少しでもキャリアにプラスになるよう、高い教育を受けることがブラジルでは大切とよくわかりました。
サンパウロ州立大学に1976年に建てられた日本文化研究所は、国際交流基金がまだ潤沢で、ぽんと出された補助金でつくられたところです。
滞在はたった3日間でしたが、ブラジルでは日系の方々に会っていました。“日本人街”リベルダージ地区にも行きました。日系といえばリベルダージですが、もはや華僑が多いようです。日本からの移民はもう3世や4世になってきています。
僕が2014年3月まで5年間住んだ浜松は、日本語とポルトガル語のバイリンガルな町で、日系の人たちがたくさん住んでいます。僕自身は、浜松に行く前からポルトガル語を学んでいました。フィレンツェ大学語学センターでポルトガル語のポルトガル語を学び、浜松ではブラジルのポルトガル語を学びました。イギリス英語を勉強してからアメリカ英語を勉強したようなものです。今回、言語的に大丈夫かなと不安でした。サンパウロに3日間いて、ブエノスアイレスには1週間ですから、ポルトガル語で入って、スペイン語に移行できるか心配でしたが、案の定、ごちゃまぜになりました。イタリア語が必ず入り込んでくるマカロニ言語となりました。メインはスペイン語なので、スペイン語を充実させるつもりでしたが、スペイン語歴よりポルトガル語歴の方が長いので、三つの言葉がごっちゃになりました。
またスペイン語といっても、アルゼンチンのそれは違うのです。日本で勉強しているスペイン語とは違います。スペイン語のできる方はわかると思いますが、アルゼンチンのカスティリャ語(彼らはスペイン語とは呼ばない)は、南米の諸スペイン語のなかでもアクが強いので敬遠されます。アルゼンチンの人たちは誇り高いので、自分たちのスペイン語は別だと思っています。僕からみれば、アルゼンチンのスペイン語はイタリア語の影響と、かなりブラジルのポルトガル語の影響を受けています。でも、そうとは決して認めないのがアルゼンチン人です。二人称単数を「トゥ」と言わなくて「ボス」というのが有名なのですが、「ボス」というのは、ブラジルのポルトガル語の二人称単数「ボセ」じゃないのかと、外国人ならすぐに思いつく指摘があるのですが、アルゼンチン人にそうと言ってはいけません。アルゼンチンにブラジルの影響があるということは認められないのです。また、イタリア語の影響も認めません。プライドが高いのです。このプライドの高さ、高飛車なところは、イタリア人のプライドの高さに似ています。そんな気質がイタリア人のようと思いますが、当のアルゼンチン人は認めないのです。
僕が、アルゼンチン以前、これまで10年以上興味を持っていたのは、むしろブラジルの現代の詩と日系社会でした。2015年は日伯国交樹立120年の節目です。そのため秋篠宮夫妻がサンパウロなどを訪れました。僕がいたのは、秋篠宮来伯にむけて街が準備をしていた時期です。ブラジルの日系社会は、日本に対してものすごく忠誠心が強く、有名な勝ち組・負け組の勝ち組の流れがずっと続いています。訪問場所にも入っていた、サンパウロのリベルダージ地区のブラジル日本移民史料館に行くと、観覧コースの最終地点に天皇夫妻の写真が大きく引き伸ばして掲げてあります。
リベルダージ地区にはラーメン屋さんが何軒かあって、日本と同じように、店先に列ができていました。ブラジルの人も並ぶのかと新鮮な驚きを覚えました。牛丼のチェーン店「すき家」が、サンパウロに支店を2つ出していますが、メインで出しているのはラーメンです。いかにラーメンが流行っているかわかりますね。僕は、「伴」という日本食レストランで刺身定食を食べました。1600円程度なのでそこそこ納得のいくものでした。
それからブエノスアイレスに移動しました。「南米のパリ」と言われるほど、ヨーロッパ風であり、言い添えるならば、懐かしいヨーロッパですね。中心街の代表的な建築は、アールヌーヴォー調で、イタリア人建築家の手によるものです。世紀末、そして20世紀初頭のとてもいい例が状態よく残っています。ヨーロッパでは失われてしまった雰囲気がまだあります。ですからはじめて訪れるヨーロッパ人も懐かしさを覚える町です。例えばパラシオ・バローロというのは、ブエノスアイレスの5月大通りにある、ダンテの『神曲』にインスピレーションを受けたアールヌーヴォーの良例です。建物内の天井に、『神曲』から引用したインスクリプションがちりばめられています。イタリア人建築家マリオ・パランティの1923年の作です。モンテビデオにもまったく同じ建物があり、屋上の光で通信しあっていたそうです。確かに、このウルグアイの首都は、ラプラタ川の河口をはさんで、ブエノスアイレスの対岸にあり、日帰り観光も可能な場所です。日中、晴れているとモンテビデオが見えます。
ブエノスアイレスの市内地下鉄に、昔の日本の国鉄車両が活躍してるというのは有名な話です。新しい車両の方が多いのですが、一部そうしたリサイクルの車両が使われています。
ブエノスアイレスにて、共通の友人を介し、日系3世の翻訳家アマリア・サトウさんと知り合いました。もちろんアルゼンチンにも日系の人たちがいます。ブラジル出身者は、いまや浜松、滋賀県、群馬の太田市あたりでコミュニティをつくっています。一方、アルゼンチンの日系の人たちは、湘南台に集まっているらしいです。数は多くありませんが、デカセギとして来ていまや定住しているのでしょう。アマリア・サトウさんは、白人の血も入っている3世で、スペイン語訳ではボルヘス(晩年の奥さんが日系の方でした)のものが有名な『枕草子』の翻訳にもチャレンジされています。
アマリアさんは、Tokonomaという雑誌を主宰していて、日本文化紹介にとどまらない創作雑誌として、かなり面白い試みをされています。ブエノスアイレスの文化サークルの中心のひとつでしょう。日系をベースとして活動されていますが、日本ではほとんど知られていません。10年以上前から出ているTokonomaにしても僕は今回はじめて知りました。研究者という枠に留まらない方ですから、とらえきれないがゆえに逆に日本に伝わりにくい例なのでしょう。『枕草子』を訳していると言えばとおりがいいのですが、それだけではないアマリアさんです。いわゆる日本らしいこと、コテコテのテーマでないと日本にはなかなかつながってこないのでしょう。3世になると日本に対するいろいろなこだわりが抜けてきますから、日本文化とか日本文学は好きだけれども、日本が好きというわけではないので独自のスタンスとなる、そうすると日本とつながりにくくなる、ということです。そうした応用例の方が興味深いのですが。逆に、サンパウロ大学や、ブラジルの日系人街では、日本寄りの傾向が強い気がしました。ブエノスアイレスの文化的な厚みがアマリアさんには加味されているという事情もあるでしょう。さすがアルゼンチン、経済は破綻していても文化は残っています。エル・アテネオという元劇場の書店やコロン劇場といった観光名所だけでなく、キーパーソンも残っています。ちなみにエル・アテネオは本屋としてもいいです。コロン劇場は外から見ただけです。ご多分に漏れずイタリア人がつくっています。
アルゼンチン、ブエノスアイレスと言えば、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、チェ・ゲバラですが、現地ではそれほど目立ちません。ボルヘス博物館は、まったく大したことのない、悲しいほどの内容です。勲章だとか、死後にアーティストがつくったオマージュ作品だとか、そんなものしかありません。それになんのゆかりもない建物に入っています。チェ・ゲバラにいたっては、何も残っていません。ブエノスアイレスの青春時代の有名な写真があります。アパートのバルコニーで横になっている写真です。『モーターサイクル・ダイアリーズ』にまとめられる南米旅行前に住んでいたところです。いま記念碑もなにもありません。ゲバラはアルゼンチン人と意識されていないのかもしれません。アルゼンチンは革命の国ではないので、革命家は相いれないのでしょう。政治的によくないのだと思います。
あと、エビータやマラドーナも有名ですね。アルゼンチンの人たちは、エビータは最近また人気だと言っていました。ペロニスタ、ペロン主義はずっと続いていて、日本の新聞でも小さく記事になりますが、2015年10月の大統領選挙でも台風の目です。ペロニスタ、ペロン主義の人と反ペロン主義の人が国を2分して闘っています。女性のフェルナンデス前大統領は2期務めていて、8年間ペロン主義が続きました。今回は政権交代で、右派へと変わりました。僕がいたときは選挙戦真っ只中で、フェルナンデス大統領のファーストネーム、Cristinaというドキュメンタリー伝記映画がロードショー公開されているという、あけすけな選挙運動が展開されていました。よくもわるくも政治のプレザンスが強い国です。かつてのイタリアのようです。
僕の調査場所は主にダンテ協会Asociación Dante Alighieriでした。全世界に散らばる団体で、東京と名古屋にもあります。イタリアを中心にして行われている語学検定で、CILSというのが有名ですが、もう一つPLIDAというダンテ協会主宰のものもあります。日本ではいまひとつの存在ですが、ブエノスアイレスのダンテ協会は、世界一の規模で、公的機関であるイタリア文化会館やブエノスアイレス大学のイタリア関係講座よりも幅を利かせていました。イタリア語のコースに通うのは4000人とのことでした。ひとつのカレッジ以上のサイズです。
ダンテ協会は、現地のイタリア系の人たちが仕切っています。上層部にいるのは財界の名士で引退した人たちであり、会長や副会長の職を占めています。僕が研究協力を得たバディン教授は、ブエノスアイレス大学でのイタリア文学講座の教授を定年退職してから、ダンテ協会の図書館長にスライドしています。この方と一緒にいる時間が長く話をたくさん聞いたのですが、イタリア系が協会運営や研究に携わるなか、彼女はまったく異なる「血統」で、イタリア語を完璧に使いこなしますが、イタリアの血は全く入っていない、レバノンからの移民の子です。確かに、地中海人というか、中東の彫りの深さを感じました。お母さんは、多くの移民の出身地であるガリシア地方の人です。とはいえアルゼンチンはイタリア人がつくった国と言ってもよく、イタリア系は全体の4割、スペイン系は3割と言います。一般にイタリア系があふれている社会です。
先ほども言いましたが、裏を返せば、アルゼンチンはイタリア色が濃い。でも、表向きはそういうことにしません。アルゼンチンは「誇り高い」国であり、国のアイデンティティを考えたときに、シモン・ボリバルによる独立達成というのは、周辺国と同じ事情ですが、1810年に革命があり、1816年に独立宣言し、建国は2段階を経ています。革命から一世紀の節目である1910年に、アルゼンチンとは何ぞやという議論がさんざんなされました。そこから導かれたアルゼンチン化の方針は、実は反イタリア化でした。つまり、イタリア性を覆うことでアルゼンチンができあがる、ということです。イタリア起源とは言わない。イタリア系がつくった国だから、イタリアだと言ってしまったらおしまいです。例えば作曲家のピアソラもまたイタリア系の3世で、プーリア地方に多い苗字です。しかし彼の作品はイタリアのものだとは誰も捉えないわけで、アルゼンチンらしさは確実にあります。それでもイタリア系とは言わせないというのが、「反イタリア化」です。イタリア系というのは、マジョリティであるがゆえに、余り主張してはいけないのです。
ダンテ協会はイタリア系の遺産を守ろうとしているけれども、国の方針で言うと、余りイタリア系にこだわってはいません。微妙な立場にいます。今、20世紀に渡ってきた移民の3世、4世の時代になってきていますが、その国の方針の影響で、イタリア系との意識はほとんどありません。血筋については知ってはいるけれども、イタリアに関心があるかというとありません。
僕はダンテ協会に研究協力を求め、資料を参照させてもらうことになっていたので、逆オファーを受け、ダンテ生誕750年を記念した講演会をすることになりました。日本であったらダンテの講演会などおこがましく決してしませんが、恩のある先方からのリクエストなので、「日本におけるダンテ受容」とのタイトルで、ためらいながらも引き受けました。
イタリア語で話すことになっていましたが、直前になって「いったい誰が分かるのだろう、誰にむかって話すのだろう」とふと疑問が頭をもたげました。いまやイタリア系はイタリア語を解さない、では古い世代にむけてなのだろうかと。はたしてそのとおりでした。30人は聴いてくださる方がいましたが、ダンテ協会の会員が中心で、後ろの方には学生が座っていましたが、大半は年輩の方々でした。聞けば、イタリアで生まれたが戦後まもなく幼少期に移住してきただとか、家庭ではイタリア語を話す1世のもとで育った2世であったとか。会の内容よりもイタリア語環境に身を置くことの安心感やら喜びやらをあてにしています。このように戦後移民の1世や2世の方々と話すと、やはりどこか感動的です。イタリア語は「母語」であるけれど、スペイン語の影響を受けてしまっていて、例えば近過去をつくる際、助動詞にessereを使うケースを無視して全てavereで通してしまう。なまじイタリア語はスペイン語に近いので、話者が無意識のうちに影響されてしまう。本人は全然気付いていなくて、自分が話しているのはイタリア語だと思い込んでいます。母語ですから自信をもってイタリア語を話しているつもりでも、かなりスペイン語らしくなっています。
ダンテについてブエノスアイレスで話したのは、やはり生誕750年だから何かしなくてはいけない、という使命感がもとになっていることも否定できません。残念なことに、日本では余り盛り上がっていないことに、危機感を抱いていました。よって、僕がメンバーとして関わる関西イタリア学研究会の月例研究発表会に原基晶さんをお呼びし、『神曲』の翻訳話を聞いたり、11月にフィレンツェの詩人エリーザ・ビアジーニによるオマージュを立命館大学で催したり、と冷ややかな日本の状況に対策を講じていました。
僕が研究テーマとするゲラルド・マローネは、さまざまな活動をした中で、ダンテ協会ではプログラムディレクターをしていました。イタリア語講座の内容や、講演会の企画、年報の立上げと編集を行っていました。ちなみにダンテ協会は、特にダンテに拘るわけではありません。イタリア語と文化の象徴としてダンテを掲げているだけで、ダンテのために存在するのではありません。ドイツ語にとってのゲーテ・インスティテュートと似ています。
ダンテ協会とは別に、ダンテを研究する学会を、マローネはちゃんとつくっています。日本でも1950年に京大にダンテ学会が発足したのとほぼ同じタイミングで、戦後になってからダンテ研究の拠点がつくられました。
アルゼンチン・ダンテ学会は、マローネを中心に運営されていましたが、1962年の没後は、60年代のうちに自然消滅していったという残念な終わりをみました。バディン教授を中心にダンテ学会が復活するようです。外から見て、南米が不思議なのは、イタリア文学研究者は各国にいて、共通してスペイン語を使っているのに、なかなか人と人がつながらないらしいのです。それぞれの国で勝手にやっているというか。傍から見れば、同じ研究をやっていてスペイン語で書いているのだから、研究や翻訳は共有できるはずとみなしていたところ、甘い見通しでした。共有しません、それが不思議なところです。
だから例えば、イタリアの文学作品をスペイン語訳する場合、スペインでも出版する人がいれば、アルゼンチンでも出版する人がいます。同じ言語なら、少し示し合わせてやればいいのにやらないで、別々に活動しています。スペイン語圏、あるいは南米というのは広大な地域なので、まとまりがなくて当然なのかもしれません。でも、イタリア文学研究者はそんなに多くないのだからつながるとよいはずです。バディン先生も、私もそう思うからこれからやるんだ、と言っていました。正直、これからなのかと思いましたが。
ダンテ的な数の一致について申し上げましょう。2014年の9月2日にマローネの故郷訪問にあわせて講演会を行い、ちょうど1年後の同じ日にブエノスアイレスでも講演を行ったというのは不思議な経験でした。マローネゆかりの地を線で結んでいるようです。
今回のブエノスアイレス行では、番外編ともいえる、思いがけない人たちとのつながりも生まれました。日本からの留学生たちです。まだ会ったことのない自分のゼミ生もいました。ブエノスアイレス近郊のラプラタ大学に、立命館から毎年2人交換留学生が行っています。大抵はスペイン語が勉強できると思って行ったら、アルゼンチンはかなりクセの強い国で、しかも日本で習うスペインのスペイン語とはだいぶ異なるスペイン語が話されていることを発見する、というのがよくあるパターンです。どんな留学にも驚きはつきものですが、インパクトの強さからアルゼンチンにハマってしまいます。僕のゼミ生は、日本に帰ったらアルゼンチンのスペイン語を直さなきゃと気にしていましたが、自分が身に付けたスペイン語、アルゼンチンではカステジャーノ(カスティリヤ語)と呼ばれる言葉に自信をもって、日本でもそれで通せばいい、と僕の意見を言いました。イタリアも町ごとになまりがあり、どの街に行ったかは、帰国後に話しているアクセントからわかってしまうように、個性を出していいのです。だいたい日本のスペイン語教育は、「本国」スペイン色が強すぎると思います。教えているネイティブはほとんどがスペイン人です。ときどきメキシコ人で、南米の人はほとんどいません。僕は今、京都外国語大学の生涯講座でスペイン語を勉強していますが、先生はサラゴサ出身です。聴講生もほとんどがスペインにしか関心をむけていない人たちです。自分たちの言語と文化において、日本語=日本と定式化してしまうと、スペイン語=スペインとなってしまうのでしょうか。これだけ広い範囲で永らく話されていて、ヴァリエーションがあるのが、スペイン語の豊かさになっていて、他の言語にはない強みだと思いますが、あまりそうとらえてスペイン語を勉強している人はいません。大学で学生に、スペイン語を選択した理由を聞くと、「英語に次いで多くの人が世界で話しているから」と答える人がよくいますが、要は数ではなくて、ヴァリエーションでしょう。スペイン語といっても、いろんなスペイン語がある、というのがすばらしいのです。ほぼ国と言語が一致しているとみられる日本とイタリアからみると、なおのことこうしたヴァリエーションがまぶしくみえます。逆にイタリア語はさびしいなあとさえ思えてきます。
ブエノスアイレス大学では、ルッツァンテといったポストルネサン演劇を専門とするノーラ・スフォルツァ講師にお会いしました。彼女はイタリア系のアルゼンチン人ですが、イタリア留学が長かったこともあり、きれいなイタリア語を話していました。やはり専門家なのでイタリア語のレベルが、他のイタリア系の「経験的に」話せる人と違います。市内には、イタリアの国の認可を受け、本国から派遣教員を受け入れているイタリア校があり、高度な教育レベルに定評があります。
ゲラルド・マローネの親族とも会いました。甥のフアン・マローネ氏、1940年ブエノスアイレス生まれの2世の方です。この会見は感動的でした。イタリア語で話すことは滅多にないのに、僕とはイタリア語で話してくれました。父親がゲラルドの弟のベネデットです。ブエノスアイレスでは銀行に勤めていました。フアン氏の息子フアン・ジュニアと、僕は事前に連絡を取っていたのですけれども、3世である氏は、イタリア語はわかるけれど話しません。はじめのうちは、僕がイタリア語で書いて、フアン・ジュニア氏がスペイン語で返すというやりとりでしたが、そのうち僕ががんばってスペイン語で書くようになりました。実際にブエノスアイレスに着いてからは、実は共にポルトガル語を解すことがわかり、ブラジル・ポルトガル語で話す、という展開にもなりました。父フアンがいるときはイタリア語と、もちろんスペイン語です。ちなみに英語は、アルゼンチンでは通じません。バディン教授もまったくだめと言っていました。レバノン移民の父親はフランス語で教育を受けていて、自分もフランス語を小さいときに学んだと言っていました。
一方、パオロ・ヴィタ=フィンツィはイタリア人です。ブエノスアイレスに、一時期住んでいたというだけです。この名字フィンツィといえば、『フィンツィ・コンティーニ家の庭』ですね。ジョルジョ・バッサーニの小説があり、晩年のヴィットリオ・デ・シーカが映画化しました。ヘルムト・バーガーとドミニク・サンダ主演、ベルリン映画祭で金熊賞を獲りました。日本語のタイトルは、なぜか『悲しみの青春』です。今もなおDVDが再版されています。フィンツィというのは、ユダヤによくある名字です。『フィンツィ・コンティーニ家の庭』は、二次大戦前、人種法前後のブルジョワ家庭の物語です。パオロ・ヴィタ=フィンツィはトリノの人ですけれども、フェラーラから派生している家です。イタリアでも知られていない人です。僕は、たまたまマローネの書簡を漁っていて見つけた名前です。マローネの資料はナポリの国立図書館に収められていますが、そこに2人の往復書簡もありました。
死後出版となりましたが、存命中にまとめられていた自伝『遠き日々』Giorni lontaniがあります。これがやたらと面白い本なのです。外交官をしながら出したパロディ集『偽書撰』Antologia apocrifaをウンベルト・エーコが評価し、1978年に再刊させています。ウンベルト・エーコは中世文学や探偵小説のパロディを著していますが、その彼の師だというのです。1986年の死を受けての追悼文にそう告白しています。
本業は外交官でした。エリートコースにいた彼は、ユダヤ人であるがゆえに、人種法制定後は職をおわれてしまうのですが、その直前である1938年に、イタリアとドイツの軍事同盟が結ばれる、その契機となるヒトラーのイタリア訪問がありました。その重要な訪問のアテンド役を務めました。5月にナポリ、ローマ、フィレンツェをまわっています。フィレンツェのヴェッキオ橋の上部に走るヴァザーリの回廊には、その際に窓が開けられました。ヒトラーのためだったのです。パオロ・ヴィタ=フィンツィはユダヤ系でしたが、ヒトラーの特別待遇をセッティングし成功をおさめたのです。
しかしイタリアでもユダヤ人迫害が公式にはじまり、かつての赴任地ブエノスアイレスに亡命します。戦後まで過ごして、復職してロンドン領事になっています。
不思議な人です。自伝では、かなり時を経てから振り返っているせいでしょうか、干された時代のことは淡々と書いています。エリート外交官としてのプライドゆえ、知識人としての抑制の効いたトーンゆえ、『自伝』ではまったく感情的に流れることがありません。
亡命先のブエノスアイレスで、ボルヘスとビオイ・カサレス、ロジェ・カイヨワらと親しく交わります。ボルヘスはまだ、アルゼンチンの中でしか活動していなかったけれども、それをイタリア語に翻訳したのが友人のヴィタ=フィンツィであり、ヨーロッパに紹介したカイヨワと同じ役割を果たしました。このようにイデオロギー的な違いをものともしない、ダイナミックな文化の混淆がブエノスアイレスで起こっていました。ゆえに今でも磁場が機能しているように感じてしまうのです。
トリノのユダヤ系であるため、須賀敦子先生の翻訳で知られるナタリア・ギンズブルグ作の小説『ある家族の会話』Lessico famigliareに出てくる一家ともつながっています。「お父さん」ジュゼッペ・レーヴィは生理学者で、彼自身は違いますが、レーヴィ・モンタルチーニら3人の弟子がノーベル賞受賞者となっています。家では堅物ではあるけれど、実に愛すべき存在として描かれています。彼の「語録」lessicoとして印象的なのは、「ニグロ沙汰」という、もはやはっきりと差別語とみなされうる表現です。ジュゼッペ・レーヴィの「ニグロ沙汰」の語源について、ヴィタ=フィンツィの『遠き日々』7章より引用します。

「ニグロみたいなことをするな」とジュゼッペ・レーヴィ教授は、娘のナタリア・ギンズブルグが書いた有名な本の冒頭から叫ぶ。その本で、私にも覚えのあるトリノの地名、光景、街角、特徴に再会した。それに私が若かりし頃に親しんだ口調や言葉、表現もあった。
例えば「ニグロ沙汰」roba da negriだが、私の家族も用いた言葉で、まずい出来、だめな所業、間抜けな仕業をさした。フェッラーラの言い回し、もしくはフェッラーラのヘブライ語表現であろう。おそらくヴェネト地方からもたらされたものである。フランス語の「ついていないやつ」、愚図、間抜けなサラミ野郎といったところか。うちでは開口音のアクセントがついた「ネーロ」(黒んぼ)となった(レーヴィ教授はトリエステ出身だったから「ネグロ」と言っていたのだろう)。

アルゼンチンにおいて、ユダヤ系は、アルゼンチン精神を体現するガウチョのなかにもいたくらい根をおろしています。アルゼンチンというのは、ユダヤ系も多く流入していますが、一方で戦前からドイツ系が多く、戦前戦後の政治と社会風潮は、ナチスとの親和性を示してきました。そこには教会も絡んでいます。もともとイタリア系とスペイン系が中心の完璧な白人社会です。有名なアイヒマンも、ブエノスアイレス近郊で拘束されています。これはイスラエルの秘密警察モサドの手柄として語られることの多いエピソードです。しかし、双子を対象に実験を重ねていたというメンゲレという医師はとうとう捕まりませんでした。ブラジルに逃亡して最後は自然死しています。メンゲレを扱った映画『見知らぬ医師』は日本でもDVDが出ています。監督のルシア・プエンソは、父親もまた、ルイス・プエンソという、アカデミー外国語映画賞受賞作の『オフィシャル・ストーリー』で知られる映画監督です。これもアルゼンチン映画によくある軍政ものです。
2015年に出た本ですが、宇田川彩氏の『アルゼンチンのユダヤ人』にもあるとおり、アルゼンチンにはユダヤ人がいっぱいいます。ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、指揮者のダニエル・バレンボイムもアルゼンチンの人です。ある世代に関しては、芸術的な才をもった人が輩出しました。
まとめということもないのですけれども、僕の調査の目的は、マローネ財団の資料探しでした。実は、重要なもの、例えばアポリネールから届いた書簡といった、100年前のヨーロッパの前衛間のやりとりを示すようなものを探しに行きました。1970年代までは存在が確認されていたものの、いまやずさんな管理ゆえに失われたとされています。僕の滞在も短期間でしたからなにも新たな発見はなく終わりました。ただマローネ未人の最期については情報が少なく、それが得られればマローネの遺品の行方についてもなにかわかるのではないかと、まだまだ可能性を感じています。ブエノスアイレス大学にあったものも散逸していて、それは1970年代末の軍政のせいだと聞きました。
マローネについての研究は、アルゼンチンでも少ないのですが、いまはシエナ外国人大学で教えているアレハンドロ・パタット教授は、アルゼンチンのイタリア系の研究のなかで、マローネが1940年代から1960年代まで、イタリア研究を牛耳っていたことが障壁となって行き詰ったというようなことを書いています。ダンテ協会からも相当批判を浴びそうな見解ですが、「日系はコテコテの日本研究しかしない」というサンパウロ大学で聞いた、そして僕自身得た印象を思い出させます。
パタット教授は、まだお会いしたことはありませんが、本を通して、また直接のアドバイスにより、いろいろお世話になってきました。名字からしてスペイン系で、非イタリア系であるところが、客観性を保証してくれてもいるでしょう。今後について少しお話したところで本日の講演をおしまいにしたいと思います。どうもありがとうございました。


橋都:ありがとうございました。
土肥さんは今日、京都に戻られるということですけれども、まだ少しお時間がありますので、質問があれば、お受けしたいと思います。いかがでしょうか。若林さん、どうぞ。

若林:ありがとうございました。
今、ご紹介いただいた人以外で、確か行方不明になったイタリア人の物理学者で、アルゼンチンに亡命した人がいたと思うのですけれども、その人のこととどうなったのかはご存じですか。
土肥:マヨラナのことですか。
若林:そうです。
土肥:いろいろな説がありますけれども、日本語でも、かつてはレオナルド・シャーシャのマヨラナの件が千種堅さんの翻訳で出ていました。2013年に英語文献(『マヨラナ―消えた天才物理学者を追う』)が訳されていましたが、本当はどうなのでしょうか。どこかに逃れていったとは思いますけれども、余り突き詰めてはいません。すみません。
橋都:ほかにいかがでしょうか。
では、僕から1つ質問です。
僕にとっては、アルゼンチンではイタリア系の方がスペイン系よりも多いというのは少しびっくりなのですけれども、さっきダンテ協会の話が出ましたけれども、アルゼンチンにおけるイタリア語教育はどうなのでしょうか。かなりされているのか、あるいは、むしろされないで消滅の危機にあるのか、その辺りはいかがでしょうか。
土肥:イタリア語の普及に関しては、ダンテ協会というよりは、日本にもありますけれども、政府系のイタリア文化会館がありまして、イタリア人が進めています。例えば、どういう視点からやるかと言うと、高校の中でもイタリア語教育を進める、といったことです。あるいは大学でイタリア語となりますが、イタリアの外務省系のイタリア文化会館がサポートしています。しかしイタリアにお金がなくなってきているので、支援がどんどん目減りしていって、後退気味なのが問題です。
イタリア政府として考えているのは、イタリア系であろうが何だろうが、イタリア語を勉強させたいということです。ダンテ協会はどちらかというとイタリア系の人たちの団体なので、イタリア系の中でイタリア語をキープしていけばいいという視点ですが、もはやかなり難しくなっています。
僕が見ていたのは、イタリア政府派遣講師によるレポートですが、いいことが書いてあるものの、実際に現地では、どんどんポストが減っていっていると聞いたので、やはりうまく行っていないようです。
イタリア語とスペイン語は似ています。だからできてしまうので、あえて学ぶかどうかは難しいところです。分かってしまうのです。僕もスペイン語を勉強するまでは、結構分かると思い込んでいましたが、スペイン語を学んでいる今はそういうことは言いません。やはり勉強しないとだめだと思っています。何ごともそうですけれども、中国語を見れば分かるよねといったことを言うのはだめですね。やはりきちんと勉強しなければ、なんとも言いようがありません。今はひたすら謙虚にスペイン語に対してふるまっています。
橋都:いかがでしょうか。ほかにご質問はございますでしょうか。
それと、僕がもう一つお聞きしたかったのは、話し言葉はスペインのスペイン語とアルゼンチンのスペイン語はかなり違っているということですけれども、これは、書く言葉の方に影響を与えているのかどうかということです。これは、どうなのでしょうか。
土肥:アルゼンチンでも、元々のスペイン語を勉強しているので、分かることは分かります。それにスペインで出されている本はアルゼンチンでも流通しますし、新聞の「エル・パイス」のアルゼンチン版も出ています。ただ、ブラジルのポルトガル語もそうですが、2人称がなくなるといったことが起こります。ポルトガルの状況で言うと、ポルトガル対ブラジルだと、ブラジルの方が国力で勝るので、今のポルトガル語界では、ブラジルの方が優勢です。日本におけるポルトガル語教育もブラジルが中心になっています。正書法の問題も、ポルトガル語界では、ブラジルとポルトガルは争っています。ひるがえって、スペイン語界では、まだまだオフィシャルな面ではスペインが強いのでしょう。
橋都:書き言葉の中には、確かに違いはあるわけですか。
土肥:そうです。スペイン語に関して、国ごとの違いはあります。実は、僕は感覚として分かってはいませんが、情報としては、頭で了解しています。
橋都:いかがでしょうか。よろしいでしょうか。
それでは、土肥さんは、これから京都にお帰りになるということなので、今日の例会はこれで終わりにしたいと思います。
もう一度、皆さん、拍手をお願いします。どうもありがとうございました。