ヴェネツィアの近代化  新たな「水都」の構築 (概要)

 9月例会(435回)

・日時:2016年9月27日 (火) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:樋渡 彩氏(法政大学 小金井事務部学務課デザイン工学部担当 特任教育研究

・演題:ヴェネツィアの近代化  新たな「水都」の構築

 

9月27日(火)イタリア研究会第435回例会が開かれました。

演題名は「ヴェネツィアの近代化:新たな「水都」の構築」で、講師は法政大学の特任研究員で陣内秀信研究室出身の樋渡彩さんでした。ヴェネツィアの建国から共和国時代については、多くの著作がありわれわれもかなりの知識を持っていますが、共和国崩壊後のヴェネツィアの歴史とくに建築や土木、都市計画の分野に関しては、ほとんど聴くチャンスがありません。樋渡さんはこの分野に関して永年研究を続けてきています。

 

ヴェネツィア島が現在の形に整えられたのは16世紀初めでした。それ以降サンマルコがヴェネツィアの海の玄関口になり、大運河には沢山のトラゲット(渡し舟)の路線が通っていました。まさに「水都ヴェネツィア」だったわけです。1797年の共和国崩壊以降は、ここに陸の視点からの都市改造が加えられました。鉄道が敷かれ、道路橋とローマ広場が作られ、新港湾が作られました。そして一部の運河が埋め立てられたり、蓋をかぶせられたりもしました。しかし技術的な問題点もあり、鉄道がサンマルコに延長される事はなく、ヴェネツィア本体は水都であることを守り続けました。そしてリド島の高級リゾート化、サンマルコ周辺のホテルでのテラス造設、海辺のプロムナード建設、美術展会場としてのジャルディーノ地区の整備など、新しい水都としての魅力を求めて都市改造が立て続けに行われました。そして最近では、20世紀初頭に建設され、その後空洞化した工業地帯を集合住宅や美術館に改造する事も行われています。さらに樋渡さんは、歴史的にはヴェネツィアの本島だけではなく、周囲の島々、そしてラグーナ全体がヴェネツィアとして有機的に結びついており、こうした地域を含めての水都としての発展がこれから期待されると強調しました。樋渡さんの永年の研究に基づく講演はたいへん面白く、また説得力があって聴衆は一心に聴き入っていました。渡さん、ありがとうございました。(橋都)

 

ヴェネツィアの近代化  新たな「水都」の構築 (講演記録)

イタリア研究会 例会 2016年9月27日

ヴェネツィアの近代化  新たな「水都」の構築

報告者  樋渡 彩

橋都:皆さん、こんばんは。イタリア研究会運営委員会代表の橋都です。今日は第435回のイタリア研究会例会にようこそおいでくださいました。

 今日はヴェネツィアについてのお話で、講師は樋渡彩さんです。法政大学の特任教育研究員で、法政大学陣内研のご出身です。略歴をご紹介しますと、2006年にイタリア政府奨学金留学生としてヴェネツィア建築大学に留学され、2009年に法政大学大学院の修士課程を修了されました。そして2016年に博士課程を修了して、工学博士号をお持ちです。専門分野はイタリア都市史ですが、主にヴェネツィアについて長年研究をされています。著書には、共著も含めまして、『ヴェネツィアのテリトーリオ 水の都を支える流域の文化』、「ヴェネツィアの水辺に立地したホテルと水上テラスの建設に関する研究」、「水都ヴェネツィア研究史」などがあります。現在は、法政大学小金井事務部学務課デザイン工学部担当特任教育研究員、エコ地域デザイン研究センター兼任研究員ということです。

 ヴェネツィアは昔から水の都だったわけですが、それが近代になっても、どのようにそれを守ってきたのかといった点を中心にお話をしていただくことになっています。大変楽しみにしています。それでは樋渡さん、よろしくお願いします。(拍手)

樋渡:こんばんは。このたびは発表の機会をいただき、ありがとうございます。樋渡と申します。この10年ほど、陣内先生の下で学んでいて、この3月に博士論文を提出しました。本日は、その論文の内容を基に「ヴェネツィアの近代化 新たな『水都』の構築」ということで発表したいと思います。

 先ほど、始まる前に、この研究会の方々としゃべっていたのですが、私よりもどうやらヴェネツィアに詳しい方が多いような気がしました。そういう方でも「こういう場面があったんだ」と少しでも感じていただけたらと思っています。

 ヴェネツィアといえば、皆さんよくご存じのように、華やかなヴェネツィア共和国のイメージが強いと思います。サン・マルコ広場やカナル・グランデ、あとは、水辺に面した貴族の館――パラッツォです――、が建っていて、小さい運河があったり、こういうイメージが強いわけです。研究に関しても、共和国時代がメインで、共和国が崩壊した後から現代に至るまでというのはあまり注目されてこなかったのです。でも実際には、中世から徐々に造られてきたこういう水都を維持しつつ、19世紀、20世紀で近代化の波を受けながらも、世界に誇る水の都市としての魅力をさらに高めていったわけです。そこで本日は「ヴェネツィアの近代化 新たな『水都』の構築」ということで、水都ヴェネツィアがどう近代化をしていくのか、その過程を見ていきたいと思います。

 最初に、ヴェネツィアの本質、構造的なことを押さえておきたいと思うのですが、最初に成り立ちについて簡単に説明します。ヴェネツィアというのは、特有な地形を形成して、独特な町を作り上げたわけです。本土から注ぐ川から流れ込んで砂が堆積して、このように、アドリア海からの波の影響で、自然堤防のような細長い島が造られていったわけです。こうして誕生した地形がラグーナで、干潟を意味します。水深が浅く、水路は迷路のように入り組んでいて、敵からの侵入を防ぐ役割を果たしました。

 

また、こういう高潮や、土砂の堆積など、自然との戦いもあったわけです。このように、独特の環境の中で、固有の文化が形成されていきました。

 こちらは、イタリアで初の女性の建築家であるトリンカナートという方の研究ですが、初めは島がぽこぽこ浮いている状態から、こんなプリミティブな段階でだんだん建物が建てられて、徐々に高密になっていきます。これは15世紀後半です。こちらは1500年の状態ですが、中心部はほとんど今と変わらない状態だったということが、この鳥瞰図(ちょうかんず)から分かります。そして16世紀、18世紀にはかなりできあがっていくわけです。

 こうして形成された共和国時代ですが、ヴェネツィアは東方貿易で栄え、金、銀、鉄、毛織物、あとは香辛料などが各地から集まって、国際的な大商業中継地として発展しました。こちらはもうだいぶ遅い時期、18世紀後半ですが、この18世紀後半のこちらの史料から起こして、こういうさまざまなものが海を通じてヴェネツィアまで運ばれていたということが分かりました。これは、先ほどの史料と同じものを少しプロットしてみたのですが、北は北欧のノルウェーあたりから、大西洋を通じてヴェネツィアに入ってきていたということが、こちらの史料から分かります。つまり、海洋都市ヴェネツィアということを示していて、こういう広域のヴェネツィア海洋都市というのが、今言われるイメージであるかと思います。

 そして、ここで少し簡単に、ヴェネツィアにどのように船が入ってくるのかということを見ていきたいと思います。こちらです。この時代は、特殊な港の港湾構造になっていました。時代と共にルートもいろいろ変わり、機能も変わるので、1つの例を示したいと思います。まず、アドリア海から船が入り、ポヴェリアという島に一回寄港します。そして、ラザレットという、これは検疫の島ですが、その前に、まずこちらに商船が入っていって、乗組員と品物が分けられます。そして、乗組員はラザレットというところに、品物も、もし運べるならラザレットというところに運び、もし運べなければ、船の中に荷物を載せたまま検疫を受けます。ここで40日間――疫病が潜伏する期間と言われていますが――強制的に収容されて、安全が確認されたら、ようやく都市に入ることができました。アドリア海に入ってきた船は、この海の税関というところで、荷揚げというか、荷を積み換えて、次の目的地であるヴェネツィア本島内、もしくはそれよりも先に運ばれるというわけです。

 一方、川のほうから入ってきた船はどうするかというと、1つのルートですが、これはブレンタ川、シーレ川、ピアーヴェ川など、そういうルートです。リアルトの近くに陸の税関があり、そこで扱われていたとされています。木材については、こういう島の端で、ブレンタ川から来た木材や、ピアーヴェ川から来た木材など、こういうふうに荷揚げされていたようです。ここから、港機能が分散していたということが分かるかと思います。

 続いて、都市内における港の機能を見ていくと、税関を通った後、それぞれの商品に定められた岸で荷揚げされるわけですが、商品の検査が行われて、そこで税がかけられていました。こちらは現在の地名を落としてみたのですが、例えば、有名なのが、ここにワインの岸辺という地名があって、ここにもあるのですが、こういう地名が他にも残っています。他には、鉄や炭、オイルなど、そういう地名も今残っていて、そこで荷揚げが行われていたのではないかということが想像できます。穀物と塩については、ものすごく貴重なものだったので、共和国の管理に置かれ、その倉庫で保管されていました。

 余談ですが、小麦はアドリア海から入ってくるわけです。

 

それで、ここで保管されているのですが、その小麦を今度は製粉、粉にしてひくという過程があります。今度は本土、シーレ川というところを上っていくと、トレヴィーゾがあります。そこで粉をひいて、小麦をひいた小麦粉を、今度はまたヴェネツィアに舟で運んでいたようです。それを、本土、テッラフェルマというのですが、そちらとヴェネツィアとの関係を、今皆さんにお配りした本、『ヴェネツィアのテリトーリオ』のほうで書いていますので、良かったらご参照ください。

 その他にも、港機能として重要なのが、運河沿いに立ち並ぶ商館や、忘れてはいけないのが造船所、アルセナーレです。こういうものも置かれていて、海洋都市国家ヴェネツィアを支えていました。このように、共和国時代、サン・マルコ広場側のほうは、海からの玄関口としての機能や都市の性格を持っていて、港機能というのがサン・マルコ水域を中心として、都市全体に広がっていた、分散していたわけです。こういうものがヴェネツィアの都市構造の基本、基盤となっています。ここから近代でどう変わっていくのか、変わらないのかというのが今回の本題ですが、その前にもう少し共和国時代について見ておきたいと思います。

 こちらはトラゲット、1697年に存在した渡し舟を示した図です。こんなにもたくさん、カナル・グランデ、大運河ですが、ここを結んでいたようで、23本もあったことが分かりました。現在は6本程度しかないのですが、この時代はリアルト橋1本しかここに架かっていなかったので、いかにこのトラゲット、渡し舟が重要だったかということが分かります。その離れたこういうところは、今でいうタクシーのような、トラゲット、渡し舟とは日本語で言いにくいのですが、そういうものも存在して、乗客輸送も、港機能と同様に都市全体に広がっていたということが言えそうです。

 この図を作るに当たって、ここも少し余談ですが、こういうもともとの研究を基に、こういうマリア像、小祭壇(カピテッロ)ですね、こういうものがどこに分布しているのかを丹念に調査して、先ほどの地図を作りました。場所によっては、こういうトラゲットという地名が残っているところもあるのですが、そういう現地調査を踏まえて先ほどの地図を作りました。

 もう1つ、こちらは、この緑色の丸のところですが、都市内ではなくて、今度は広域の乗り場を示したものになります。アドリア海側から来た船はこの辺、リアルトの辺は、ヴィチェンツァとか、テッラフェルマという本土側の都市が集中しています。そういうふうに分布していることも分かりました。これをGoogleの地図に落とすと、この船のこのマークですが、こういう町とヴェネツィアは結ばれていたということが分かりました。アドリア海側をこちらのほうまで行っているので、かなり遠くまで行っていたことが分かります。

 次に、カナル・グランデの変遷を見ていきたいと思います。これについては陣内先生がいつも講演されている内容ですので、ここでは本当に簡単に触れたいと思います。12~13世紀のころです。リアルトを中心としたカナル・グランデ沿いでは、水際に正面玄関を設けて、1階から荷揚げができるような開放的なポルティコ、連続アーチがある商館建築が建っていて、商船、商業用の船が行き交っていました。このような時代というのが、交易の幹線路としてカナル・グランデが担っていたということが言えるかと思います。

 次に、16世紀末には、このリアルト橋が木造から――これは跳ね上げ橋ですが――、石造にがちっと変わります。これはつまり、カナル・グランデに、もう大型の商船が入ってこない、通り抜けしないということを示していて、次に、もう古典主義のような、荘厳なパラッツォもカナル・グランデに建てられて、共和国を象徴する格式高い性格を持ってきました。

 さらに、レガッタという手漕ぎ舟の競争ですが、こういうものもあって、カナル・グランデは華やかな祝祭空間を作り上げてきました。

 

このように、共和国時代は、都市全体が港機能を持つ海洋都市であり、カナル・グランデにおいては、祝祭的な空間としても意味を含みながら、舟と建物が密接な関係で成り立つ都市形成をしていました。

 ここまで、ヴェネツィア共和国時代に形成されてきた、世界にも類例のない唯一の都市、チッタ・ウニカ、水の都市ヴェネツィアを見てきました。実は、現代に至るまで、ヴェネツィアは大きな変化を遂げながら、さまざまな意味を加えて、現在見られるような文化都市、芸術都市、創造都市になっていきました。その過程を次に見ていきたいと思います。

 ヴェネツィアの大きな変化は、共和国崩壊後、外国の支配によってもたらされます。ここから、いわゆるヴェネツィアの近代化というものが始まるわけですが、こちらで示したように、フランス、オーストリア、フランス、オーストリア――これはイタリアですが――、というふうに、交互に外国の統治下になります。特にここです。フランス、オーストリア、フランス、この間というのが、陸の視点から都市整備が行われて、それまでのヴェネツィアが大きく変わりました。

 (改行)例えばですが、これは陸化された運河を示しています。ふたをかけているという感じでしょうか。中には、もう完全に埋まっているものもありますが、こんなにも多くの運河が道路に変わっていきました。その理由は、運河の埋め立てのメンテナンスを省くためです。これは共和国時代から実は行われていたのですが、この時代、最も特徴的なのが、移動手段として意図的に幹線路を作り出すために運河を陸化したということが挙げられます。少し先取りで言いますと、このストラーダ・ノーヴァという、今は散歩道でとても人気のある道ですが、これは、もともとは鉄道駅とリアルトを結ぶためにつくられました。この時代というのが、積極的に運河網を歩行空間に変えて、運河を追いやる時代だったということが言えそうです。

 次の図は、1850年から70年代に鉄の橋が架けられたというところですが、この時に鉄道駅の前に架けられたのと、アカデミアが架けられました。カナル・グランデは、これで3本架かったということです。ここに年代があるので、そういうものを見ながら確認することができます。この時代よりも前のヴェネツィアというのは、もちろん橋はたくさん架かっているのですが、手すりがないところが多いのです。そういう手すりがない橋が架かっていて、そこに鉄製の手すりを造るというのも、この時代に行われました。ですから、例えば、これは完全に鉄で、金属製の橋ですが、ここが石造で、手すりだけ鉄というのがヴェネツィアには結構見られます。ですから、注意して見ると、ここは時代が違うのだなということを感じるかと思います。

 そうやって、歩行空間を重視する、陸の視点から都市整備が行われたという例を示したのですが、もう1つ、ヴェネツィアが大きく変わる要因があります。それが技術革新、鉄道、蒸気船の登場です。これで、今まで手漕ぎ舟や帆船だったのが、こういう乗り物に変わっていきます。こうした近代化の波をどのように受け入れたのかということを見ていきたいと思います。まず船、水上交通、舟運に最も影響を与えたのが鉄道です。

 この鉄道は、ミラノ、オーストリア支配下で行われたのですが、ミラノとヴェネツィアを結ぶ計画の一部としてつくられました。どうやって鉄道を渡すかという計画があり、これは文書でしかなかったので図を作ってみました。結果論、2になるのですが、これだけいろいろな案があったようです。

 

2になった理由としては、最短の距離ということと、この終着点、ここが広い敷地を確保できるかということと、もう1つ重要なのが、運河を分断するのがより少ない場所ということで、この2番の、今の場所になったと考えています。この鉄道を建設するずっと前から、実はヴェネツィアは島だけで成っていて、陸路が全然なかったわけですが、いつこういうものを造ろうかとずっと議論はされていました。1763年に、もうそういう議論があったといわれています。ヴェネツィアが経済的に衰退しているから、どう経済効果を生み出そうかという、そういう経済効果のために、この橋を造ったほうがいいのではないかという議論はずっとありました。その当時としては、島で成り立っていたので、その秩序を崩すのではないかということで、ずっと頓挫していたわけですが、オーストリア支配下で陸路、鉄道が完成しました。

 いくつかのプロジェクトがあるのですが、1つ、代表的なものを持ってきました。このプロジェクトは、これは現在の地図なので、この橋がないと想像してください。ヴェネツィアの北に渡すものです。サン・セコンドという島がここにあります。これはもともと修道院の島で、今は鉄道でここを通るときは見えますが、草ぼうぼうの状態が植栽でぐるりと回していて、並木道があって、この続きがここにきます。こう通って、ここに運河がありますが、それを埋め立てて、なんと馬車が通れるような道を造ろうとしていました。こういう陸の視点から計画されている例ということで、これを持ってきたのですが、かなり大胆な例ですよね。こういうものがたくさんあったそうです。そういう、いろいろな計画があった結果、現在の鉄道が建設されるわけです。その結果、どういう影響があったのかというと、鉄道橋が道の端にできたことで、船の荷揚げ場所、寄港地がサン・マルコ水域から次第にジュデッカ運河に移動して、さらには鉄道のほうに引っ張られるようになります。そうなると、この鉄道に経済効果というものを期待して、オーストリア政府は港の問題に関心が向いていきます。

 それをよく示す図、プロジェクトを持ってきたのですが、この1850年、強烈な計画案が提出されました。こちらの図に描かれているものを地図に落としたのですが、ぐるりと鉄道を回すという、こういう計画案です。この時は、海からの玄関口として、サン・マルコ広場、サン・マルコ水域が象徴的だったというのが、まだこの図からは読み取れます。いかに海の税関のところが重要だったかというのが、この図から読み取れます。要するに、この時は、船と鉄道をどうやって接続するか、結ぶのかという問題がありました。この問題は、1866年のイタリア統一後に解決されるのですが、左側がまだない時、右側が、これは地図に書き込まれていますが、実は工事を着手した年なので、想像図というか計画図になります。もう少し概念的に見ていくと、ヴェネツィアの都市全体に分散していた港機能というものが、こちらに徐々に移ることになります。交易の中心が西のほうに移行して、つまり、分散型の港湾構造から集中型の港湾構造に変わります。そうなると、都市と港が一体となっていた、ヴェネツィア共和国の時につくられたそういう都市が、完全に都市と港が切り離されてしまうということになります。

 もう1つ、先ほど見たように、ジュデッカ運河の軸がしっかりとできてきて、都市の玄関口は次第に、こちら側から西側に移ることになります。その結果、都市の玄関口のこちら側の機能、港機能が縮小していきます。

 

港の機能が縮小した東側では、どんな変化が表れたのかということを見ていきたいと思います。

 結論から言うと、サン・マルコ広場というのは観光地として性格を強め、その周辺にホテルがこのように集まります。1847年と1869年を比較すると、こんな感じです。もっと言うと、この運河沿いに集中していきます。あとは、こちらのサン・マルコ水域のほうに集中していきます。これは、18世紀にイギリスで始まった、グランドツアーという長期旅行ですが、19世紀半ばに鉄道もできて、ヨーロッパ各地から、ヴェネツィアにも大勢の人たちが来るようになります。その影響で、ヴェネツィアでは、貴族の邸宅であるパラッツォがホテルに代わっていきます。

 ここで少し、観光の火付け役にもなったグランドツアー、水浴の話をしておきたいと思います。先ほども少し触れたのですが、グランドツアー、18世紀にヨーロッパ全体で流行していた海水浴ブームがイタリア半島にも到来しました。1787年には、ゲーテもナポリとシチリアを訪れて、海の開放された景色に魅せられています。ヴェネツィアでは、フランス政府下の1808年のジャルディーニ計画という計画の中で、水浴施設のプロジェクトが動きだしたというのが、こういう史料から分かりました。右のように、修道院や住宅があったのをクリアランスして、公園というか森に、ジャルディーニという、こういう計画の中に水浴施設のプロジェクトもありました。実現はされなかったです。

 次にヴェネツィアに見られた水浴施設としては、こんなものがあります。これはスタビリメント・デイ・バーニ・ガッレッジャンティ(stabilimento dei bagni galleggianti)といって、フローティング水浴施設ですが、ラグーナ内に浮かべられた水浴施設があったようです。史料をいろいろあさっていたら、どうやら、1822年に、ジュデッカの運河で健康を目的としたプロジェクトが持ち上がっていたことが分かりました。結局、実現したのは1833年のフローティング水浴施設です。これはラグーナの水をそのまま使うのです。どういう構造になっていたのかを少し見てみたいと思います。こちらが平面図で、こちらが断面図です。まず、ここに台船というのがあって、これで浮きます。この間にある、これが水浴というかプールです。木造の格子状になっていて、ここで水がつーつーと通るわけです。でも、下にきちんと木の枠があるので、そこには足が付かないような構造になっています。この施設というのは、ラグーナの水を利用するので、比較的、水循環の良好な場所に置かれていたと書いてありました。それがこういう場所だったらしいのですが、当時のヴェネツィアの、こういう運河の底というのは、ヘドロがたまった状態で、運河の底に足を付けると、決してきれいな状態とは言えなかったという指摘もありました。そうはいっても、この時代というのは、ヴェネツィアの運河の中で泳いでいるので、運河に対する水の衛生的な抵抗というのは、今とは少し違うのかなと思っています。

 この機能を見ていきたいのですが、ここにエントランスがあって、船で直接たどり着いてくるアクセスです。ここが先ほどのここです。大広間があったり、カフェ、食堂があったりして、ベッド付きの浴室です。またここに浴槽があって、これはまた別の、こことは違う、何と訳せばいいのか少し難しいのですが、サウナのようなものもあったような気がします。そういう、いろいろな施設がこの中にはあり、仮設ですが、かなり大規模な施設だったことがうかがえます。

 

この仮設物では、ロッジアという、この青いところを示したところですが、サン・マルコ広場の方面と、あとはもう1つ、こちら側にジュデッカ方面が見えるということで、開放的な造りです。この開放的な造りが、水浴と都市の素晴らしい景観を同時に楽しむことができる施設ということで、1833年と1835年に賞が与えられています。そういうことからも、この施設が盛大に称賛されていたということもうかがえます。この施設は、数回にわたり、ヴェネツィア市から寄付を受けて、修復や増築や拡張が行われてきたわけです。つまり、19世紀の間は、多くの富裕層に好まれて利用されてきたということになります。

 これはかなり余談かもしれませんが、これも面白いので持ってきました。こちらはユニークな例で、水浴を楽しむために船を改造したものです。シレナ(→OKです)といって、ここに船の底をくり抜いて、これは木枠です。ここで女性が水浴を楽しむようです。ここにテントがあるのですが、これは男性の視線を遮るためのテントだったようです。これで安心して水浴が楽しめるという目的で、こういう船が開発されたということが書いてありました。

 次は、ヴェネツィアの一般的なゴンドラです。このゴンドラも、底をくり抜いて、ここに人が入って、これは立つ高さと座る高さらしいです。ゴンドリエーレ――舟漕ぎです――がここで舟を漕いで、都市をぐるぐる回ってくれるという、そういうものも本当にあったようです。これは水流です。水の刺激、水の衝撃で健康にもつながると思っていたようです。それで水流がマッサージに最適だということで、この水浴を好んだフランスの外交官がいて、その外交官の日記か何かでそういう記録が残っていました。

 こちらはもう本当に、私からしたらばかげている例ですが、自分でこの中で泳いで、このスクリューで回します。構造がよく分からないのですが。これは、利用する人がここにいれば、漕いでくれる人がいるので動きますが、これは漕ぐ人はいなくて、自分でここで泳いで進みます。そういう、体を鍛えるための舟もあったようです。このように、ヴェネツィアでは水浴ブームというものがあり、舟を利用した水浴も登場しました。普段から舟を利用しているヴェネツィアならではの特徴だといえます。

 このように、ヴェネツィアのラグーナ内で、富裕層を対象とした水浴ブームというのが起こっていたわけですが、この時代のさらに興味深いプロジェクトを紹介したいと思います。サン・マルコ水域はここです。ここに沿って、こんなプロジェクトがありました。オーストリア支配下の1850年代に起こった巨大複合国際ホテルを建設するものです。このプロジェクトには、プールやダンスホール、あと浴室はもちろんありました。こういう、今見たような、当時の流行を取り入れる巨大なプロジェクトが持ち上がりました。これは、港機能が縮小したヴェネツィアの東側をどう盛り返そうか、どう経済復興しようかと考えたときに、観光化を進めるプロジェクトだったわけです。この立面図や、このパースですね。実際には、埋め立てて、これぐらいの、この場所です。この規模はすごいです。こういうものから当時のイメージを打ち出そうとする意図が読み取れます。この規模を見ますと、長さが600メートル、幅が46メートルで4~5階建てです。今では考えられないような、こんな大規模なものが、本格的に検討されていた時代があったようです。しかし、結局は景観的に、また、この向かい側にサン・ジョルジョ・マッジョーレがあって、そこが軍事施設だったので、そこを見下ろせるということで、軍事的理由から却下されます。

 

この巨大施設のプロジェクトは却下されましたが、その代わりにリドの海水浴場を開発する動きにシフトされ、1857年、海水浴場がリドにできていきます。このリドについては、のちほど詳しく見ていきたいと思います。

 そして、ジャルディーニが美術展、のちのビエンナーレ会場として利用されると、都市の東側が港湾都市から文化都市に移行していくわけです。ここまでが、港機能が縮小した東側の場所がどうよみがえっていくかという過程になります。

 もう1つ重要な視点ですが、この19世紀のヴェネツィアは、技術革新で生まれた蒸気船、水上バスと結び付いて、水上交通と共に観光都市として発展しました。この水上バスは、1881年の国際会議をきっかけに、カナル・グランデを運行して、鉄道駅からカナル・グランデを通ってサン・マルコ広場、そしてジャルディーニまでを結んだわけですが、水の都市というものを壊すことなく近代化を成し遂げた1つの例と言えます。

 右下に、ゴンドリエーレのストライキの様子を持ってきました。これまでは渡し舟が主流だったわけで、手こぎのタクシーのような感じのものもありました。そういう水上の移動を牛耳っていた彼らにとっては、この水上バスという、たくさんの人を遠いところまで一気に運ぶという、この乗り物が許せなかったわけです。そのため、なかなか受け入れられなくて、ストライキをたびたびします。

 余談ですが、そもそもなぜ水上バスができたか、このカナル・グランデのこれがなぜ運航したかというと、当時の乗り物といえば、彼らの手漕ぎ舟です。駅を着いて降りると、彼らが待ち構えているのですが、非常に高額なお金を請求するし、それはそれは乗りづらかったようです。そういう背景があって、よそ者でも安心して乗れる乗り物を、ということで、この水上バスを考案したようです。既にそのころには、もう他の都市で行われていた水上バス、蒸気船というのを検討した――それは確かトリノの人だったと思うのですが――という背景があります。ストライキはたびたび引き起こされていたのですが、1887年の美術展のときに、この水上バスにヴェネツィア市から夜間の営業を委ねられて、その効果を発揮しました。当時のサン・マルコ広場からジャルディーニへ、今あるような岸辺というものがなかったので、裏の路地を迷子になりながら、くねくねとたどり着くしかなかったわけです。ヴェネツィアの外から来た訪問者にとって、水上バスが大変便利だったというのも想像がつきます。

 ついでなので、ヴェネツィア・ビエンナーレの会場についても簡単に触れておきます。ナポレオンの計画で、森だったジャルディーニが1895年にヴェネツィア市国際芸術祭の後、ビエンナーレとなります。その会場として、国際展示場という新たな息吹が与えられて、ここから文化的な戦略が始まります。このように、観光化、文化芸術面の国際化がヴェネツィアに共通する点というのが、19世紀後半に表れます。20世紀には展覧会の国際化が進んで、1930年代にはファシスト政権下でパビリオンが次々と建設されて、戦後には日本館も建設され、現在見られるようなビエンナーレ会場となるわけです。

 観光客が集まる場所がスキアヴォーニの岸辺です。先ほど巨大プロジェクトがあったあたりです。

 

ここはこのようなにぎわいで、この写真自体は1890年ごろですが、カフェテラスも水辺に登場しました。このカフェが水辺に登場した、というのは、今では当たり前の光景ですが、実は、この時代から始まったのではないか、と考えているところです。そして、この岸辺からジャルディーニ方面、リド方面へ船で向かいます。

 リドの開発については後ほど見ますが、簡単に触れておくと、リドの海水浴場を求めて多くの富裕層がここを訪れると、新たにホテルもだんだん建設されて、何もない田舎のようなリドが、国際的な場所へと変化していくわけです。そして、観光業と結び付いた船の乗客輸送も始まって、リドとヴェネツィアが強化されていきます。それで、観光客の流れができて、観光の意味を強めていきます。付け加えると、1881年のころには、イギリスからも船でここに来ていました。あとは、ここを結ぶ周遊船という、マラモッコや、ペッレストリーナ、ムラッツィ、あとはブラーノ、トルチェッロを結ぶような周遊船というのも、この時代にできました。

 ここからは少しチャンネルを切り替えて、都市の西側です。こちらは鉄道駅ができて、新たな港湾施設もできて、今度はジュデッカに工場、倉庫ができて、産業地域へと発展していきます。左の写真は1870年ころですが、こういう、もともと庶民地区で、自然護岸をもつ、のどかな風景が広がる場所だったことが分かります。こういう場所が、19世紀末に、工場や倉庫、大型の機能が設置され、鉄道も導入されて、そこには蒸気船が行き交うような風景になってという、大きいエネルギーを生む近代の最先端の風景に変貌したのです。都市の端では、こういう大規模な変化が起こったわけです。大型の船は都市の外で扱われて、次第に工場は本土へシフトしていきます。これで完全に、港と都市というものが切り離されたということになります。こちらはラグーナ全体の地図になりますが、1895年の路線図です。ヴェネツィアがここですが、リドやキオッジャなど、遠くにまで結んでいます。ここは産業地域ですが、産業地域と観光客に利用されて、新たな大きい人の流れを生み出したということが分かります。

 このように、以上、19世紀というのは陸の論理で都市整備が行われて、本土と接続したことによって激しく変化した時代だったわけですが、工業化、観光化、文化面での国際化に舟運が活躍したということも付け加えておきたいと思います。

 一気に19世紀を見たわけですが、ここからは20世紀前半のヴェネツィアを見ていきたいと思います。20世紀初頭というのは、産業の発展は大規模な工業化を必要として、新たな土地を本土に求めていくのですが、第一次世界大戦がその後の自動車社会の波を大きく受けて、移動時間の短縮を求めるようになります。もう1つは国際的なイベントです。国際文化都市という性格を強めるのもこの時期になります。先ほど見た、本土に移動したという例を少し示したいと思います。ヴェネツィアは、18世紀、共和国崩壊直前のころは衰退していたのですが、その後、19世紀には経済が上がってきて、20世紀初頭には、もう新しい港湾が必要となって、先ほども触れましたが、本土に新たな港を建設します。

 

このマルゲーラという場所に移るのですが、ここでも運河を掘削していますので、舟運とのつながりも重要だったということがここから分かります。しかし、次第に完全にこちらに移るようになって、都市と港は完全に切り離されます。

 マルゲーラに決定するまでの計画というのは、たくさんプロジェクトがあります。いくつか紹介すると、ヴェネツィアの北のほうにあるところや、こちらで言うと、ムラーノと造船所の間に新しい港を置こうなど、いろいろなプロジェクトがありました。いずれも共通しているのは、鉄道と船をどうやって結ぶかというのが、この時代の特徴です。

 その次が第一次世界大戦の後ですが、1920年代後半ぐらいからは、もう自動車社会になります。ヴェネツィアにとって最も影響が大きいのが道路整備です。これについて少し見ていきたいと思います。ヨーロッパ全体で自動車社会になっていったわけですが、ヴェネツィアもこの影響を受けて、1933年に、本土とヴェネツィアを結ぶ道路橋が完成します。このころは、本土側、メストレ、マルゲーラなど、開発が進められていて、そちら側に住民が仕事に行ったり、そもそも引っ越してしまうなど、そういう流れのきっかけがこの時代です。つまり、道路橋が完成したということで、ヴェネツィア本土の住民を本土側に流出させる促進装置になったということを示していると思います。実際には、第二次世界大戦後に人口流出が激しくなるわけですが、そのきっかけになったのがこの時ということになります。

 道路整備によってどういう影響があったのかということについて見ていきたいのですが、こちらは1930年代の水上バスの路線図になります。この時代はもう周辺の島と結んでいるのが分かり、先ほど見たこれが19世紀末、もうこちらのほうとはつながっていないことが分かるかと思います。なぜこういう変化になったかというと、道路がだいぶ整備されて、そういう必要がなくなったのです。必要はあるのでしょうが、結局そちらに切り替えるということで、本土側では船交通から自動車交通へ切り替わりました。その代わり、ヴェネツィアの島々、周辺は、舟運を強化していったということが分かります。

 次に、この自動車社会の波を受けて、本土から橋が架けられると、都市内ではどのような影響があったのかということを見ていきたいと思います。道路が敷かれると、自動車の侵入を制限するために、ローマ広場、ターミナルがつくられます。右に、どういう変化が、住宅をクリアランスして大きい広場をつくったという写真を持ってきました。この周りに、こちらが都市の玄関口として性格を強めるようになって、こちらからアクセスする人が増え、こちら側にオフィスや学校が集まっていきます。これは、先ほどの道路橋と同じ計画者によって計画された図面です。ラグーナを越えて、さらにジュデッカを通って、こういう橋を計画していました。かなり強引な計画というか、これは完成していないのですが、当時は道路整備がいかに重要だったのかというのを示しているかと思います。実現されなかったので、今のようなヴェネツィア・ラグーナの良さがあるのかなと思います。

 ローマ広場ができると、今度はローマ広場とサン・マルコ広場を早く結ぶために、ここに運河が掘削されます。リオ・ノーヴォという運河です。

 

それに合わせた水上バスも考案されて、タクシーも考案されます。この運河に合う水上タクシーが開発されて、先ほど見たように、本土側では船から自動車交通に切り替わったのですが、ヴェネツィア都市内では、船、新運河の掘削と、モーターボート、モーター船によって、移動時間の短縮をしました。つまり、ここでも舟運を強化したということが言えます。

 この新運河の他にも運河の改修案があり、その代表例として、ここの運河を見ていきたいと思います。こちらの図は、先ほどの道路橋とか運河の掘削などをした計画者と同じ、ミオッツィという人の計画です。北の玄関口がここです。ここの運河を、この赤い点々の部分だけ削って、運河の幅を広げようとした計画図がこちらです。具体的にここの建物をここの部分だけ削って、1階をこのように改修したらどうかという図面や、あとは予算など、いろいろな細かい計算もしています。結局これは実現されなかったのですが、こういう計画もあったようです。他にも、先ほど見たのがここの運河ですが、この運河はナポレオンの時代に埋め立てられた運河です。これを開けようという計画もありました。これだけ実現して、この赤いものは実現しなかったのですが、いくつも改修案がありました。この時代というのは、水の都市が運河でいかに車社会のスピードに合わせようとしたのかが分かります。実現はされなかったのですが、運河に注目していた時代ということがよく表れています。このミオッツィによって、下水の整備も計画されていました。この人は舟運など、そういう運河だけではなくて、環境への配慮もあったということが分かります。

 もう1つ、ミオッツィによって計画されたものですが、これはオーストリア時代に架かけられた駅前の橋です。こちらもそうです。橋が老朽化していたということで、ミオッツィによって新しい橋に架け替えるというのも、この時代でした。アッカデミアは、今、確か、架け替えるプロジェクトが出ています。これは木造で仮の橋でしたが、仮の橋がいいじゃないかといって、今は鉄で補強されてそのまま架かっています。オーストリア時代だと、真っすぐなのです。しかし、ミオッツィは弧を描く、ヴェネツィア本来のデザインというか、船から見たデザインであったということがはっきりと表れています。(改行無し)このように、運河へ関心が高まっていた時代というのが、この1930年代になります。

 カナル・グランデの水辺でも変化が表れたのも、この時代になります。先ほど、ホテルが建っていくという話をしましたが、ここのホテル群で変化が出るのも、この1930年代になります。結論を先に言うと、恐らく皆さんも利用したことがあるであろう、このテラス席が初めて出現するのが1930年代になります。今日は、ヴェネツィアの新たな水都の構築ということなので、ここを具体的に見たいと思います。

 これが18世紀、まだ共和国時代のカナル・グランデの様子です。貴族の邸宅として使われていたので、まだここにはテラスが出ていません。同じ建物で言うと、ここのホテルはテラスが出ています。では、このテラスはいつ登場したのかということになるのですが、これも史料をあさって6年ぐらいかけて集めた史料から、ようやく年代を割り出すことはできました。先ほどの建物とは違うのですが、こちらの水上テラスを例に見ていきたいと思います。

 

 ホテル・モナコという、サン・マルコ広場のすぐ脇にあるホテルですが、ここの1903年の図面を見ると、こちらが平面図で、こちらが立面図ですが、アプローチが階段しかなくて、1930年代なのにテラスが出ていないということが分かります。1905年になると、少しテラスのようなものがありますが、これはテラスではなくて、接岸用の桟橋と書いてありました。この桟橋は、なぜこのように少しだけ伸びたのでしょうか。この隣にヴァポレットの停留所ができるのですが、その停留所からこの入口に歩いていくアクセスとしてできたのではないかと考えています。先ほどのものと比較すると、ここは通り道がないのです。完全に分断されているのです。こちらは普通の通りです。ここから建物で、ここの建物の前に階段があります。先ほどのここが通りで、建物があります。これがようやくつながり、こうして入れるようになったのが1905年の図面から読み取れますが、そのときはテラスではないのです。こういう細かい図面をずっと追っていき、結果、1931年にようやくテラスの計画案が提出されています。

 これが憩い空間として展開していくわけですが、こちらはまた違う建物です。これは今、ヴェネト州庁舎なので、ホテルではないのですが、19世紀にはホテルになっていました。隣の建物などと統合されて、大きいホテルでした。その名も大ホテル、グランド・ホテルという名前です。写真を追ってみると、1935年の時は、少しまだ桟橋で船を待っている人たちがいるという程度です。しかし、1936年になると、ボーイさんがテラスの上に立っています。1937年になると、こういう華やかな場所になっているといます。同じ場所です。この変化が分かります。おそらく、この時だろうと考えているのですが、なぜ1930年代なのかというと、この時代はリドで国際映画祭や演劇祭があったように、そういう国際文化、国際都市の性格を強めたので、そういう海外からの影響なども強く受けています。また、その前に、1890年代に、もうカフェテラスが水辺にできたというのを、先ほどこちらのほうで説明しましたが、そのように、テラス席が当たり前になっていたので、恐らくこのホテルでも、そういう空間を楽しもうと思って、限られたスペースに席を置いてみたというところではないかと思っています。

 あと、もう1つ、1階にレストランが入るというのが、また新しい動きなのですが、それがこちらから読み取れました。恐らく1920年代ですが、この年代は夕涼みをする程度で、まだ席は出ていないのが分かります。1936年になると、テラス拡張計画が提出されます。これは実現しないのですが、テラスを拡張して、そもそもテラスと書いてある時点で、かなり時代はきているわけです。普段はテラスではなくて桟橋なので、違う単語ですが、テラス計画ということで、こういう屋外の席を作ろうとしたというのが、この時代、1936年というのが読み取れます。いろいろとごちゃごちゃ細かいことを言いましたが、水辺の変化については、1930年代が大きいキーワードということが言えそうです。

 もう1つ、1930年代の動きを紹介します。こちらはサン・マルコ広場とジャルディーニを結ぶ道の整備、いわゆる水辺のプロムナードという感じでしょうか。私しか言っていないと思いますが。それが完成するのもこの時期に当たります。左下は、ボートレースをしている様子で、このプロムナードが完成した後にボートレースを鑑賞している写真を持ってきたのですが、これは今では絶対にあり得ないです。

 

今は、ラグーナの環境を維持する意味で、ボートのスピード制限をしているので、こういうことは本当にあり得ないのですが、こういう時代だったということです。

 ということで、1930年代というのは、ダイナミックに近代化を推し進めながらも、今日に共通する水都ヴェネツィアの魅力的な、快適な空間を作り出したというのが本日の結論です。現在、といっても2008年の調査なので、だいぶたっていますが、こんなにも水上テラスがありまして――青いところが水上テラスで、ピンクが水辺のテラスです――、水辺のテラスも増えて、水の都市ヴェネツィアらしい空間も広がっているわけです。2016年はもっとピンクの部分が多いです。

 ここで簡単にまとめておくと、水都ヴェネツィアは、近代化の過程において、動力船によって舟運をむしろ強化して、水の都市という機能を強めてきました。また、1930年代というのは、カナル・グランデ沿いの建物の前面にテラスを張り出して、水辺の快適な空間を実現し、今日の水の都の魅力的な風景を作り出してきたということです。つまり、ヴェネツィアの近代化というのが、本土と橋で結ばれるのですが、水の都市の特徴をさらに生かしつつ、近代化を推し進め、個性を高めて、多くの人を引き付ける魅力的な空間都市を形成してきたわけです。

 というまとめですが、さすがに1930年代から現在までずっと変わらないかというと、そうでもないのです。ですから、ヴェネツィアが今、変化しながら水都を作り上げているわけですが、その次に、戦後から現在の動きを簡単に見ていきたいと思います。19世紀から20世紀、ダイナミックに都市開発を推進する時代から、戦後は歴史的な都市を再評価して、むしろ転用や歴史的遺産を活用していく時代にシフトしていきます。カルロ・スカルパは有名ですが、彼はそれを切り開いた建築家です。この時代の技術やデザインを挿入して、写真にもあるように、さらに魅力ある空間をデザインしました。それまでの保存や修復などとは全然違います。今では当たり前かもしれないですが、それを最初にやった人ということです。

 戦後、サン・ジョルジョ・マッジョーレの元修道院を活用して、文化施設として設立したチーニ財団をここに持ってきていますが、チーニ財団は、展示会や会議などを頻繁に開催して、芸術的、社会的、教育文化施設の中心になっています。19世紀に廃止された修道院が軍事施設として利用されてきたケースが多いわけですが、このサン・ジョルジョ・マッジョーレもその1つで、戦後、1950年代だったと思いますが、財団になったわけです。この施設は、早い時期からコンベンション・シティーを代表する施設として、ヴェネツィアに大きな役割を果たしています。これは内部の写真ですが、個人的には図書館として利用することが多いです。確か、美術関係の史料が多いので、日常的に利用するということで、多くの人に親しまれています。

 1960年代にもなると、先ほど見た図ですが、ヴェネツィア本島内にある工場、倉庫というものがさらに拡大して、ここにあったものがこちらに移転していきます。中には廃業した企業もあったり、この辺がこちらに移転したり、ここが移転したり、この辺が空洞化というか、廃業もあります。

 

この図のように、19世紀末に広がっていた工場、倉庫というものが空洞化して、1970年代には、こういう工業遺産、産業遺産をどのように活用するかということが議論されました。議論されて、まずは住宅問題を解決するために、これらの産業遺産が活用されます。例えば、ビール工場を転用した住宅や、跡地を利用したものが登場します。これは時計工場です。かなり格好のいい集合住宅に変わっています。製粉所だったムリーノ・ストゥーキが、長い間議論されていましたが、今はホテルとして活用されています。この屋上は無料で入れるので、夕日を見るスポットとしてお薦めです。19世紀末に整備されたこの港湾空間も、一部一般に開放する計画が進められて、港湾と一般の地域にあった壁が取り払われました。そして、現在は近代遺産を転用して、大学やオフィスになっています。これがヴェネツィア大学です。これもそうですが、通っていたヴェネツィア建築大学の教室もこのような感じで、情報発信基地として新たな機能を添加したわけです。

 ヴェネツィアには、近代の遺産を実にうまく活用している事例がたくさんあるのですが、例えば、その次の段階では、共和国時代のモニュメント的、重要な建造物をダイナミックに転用、活用する動きが見られました。アルセナーレは、皆さん、もうご存じですよね。国営造船所が海軍施設になって、その後、一部が一般に開放されて、今はビエンナーレの会場になっているわけです。こういう大空間が、アートや建築を表現するために生かされて、芸術の発信基地に生まれ変わっています。従来、ビエンナーレは、都市の端のジャルディーニにとどまっていたわけですが、こういう場所も活用されるようになり、しかも海洋都市の最も重要な歴史的空間で展開し始めました。さらに、今はこちらの、先ほどのものがアルセナーレでここですが、この黒い点々は全部ビエンナーレの会場を示しています。このように、都市の中にある教会や修道院やパラッツォ(貴族の邸宅)などを会場にして、ちょっとしたそういうスペース、さらには周辺の島々も展示空間に利用されています。こういう空間の使い方は本当にうまいのです。こういう垂れ幕が掛かっているのを見たことがあるかと思いますが、大体そういうところは会場になっていて、本当に街中にたくさんあります。共和国時代の港の機能として重要な例だと、こういう塩の倉庫が、現代の機能であるミュージアムになっています。これはレンツォ・ピアノという有名な建築家です。あとは、安藤忠雄さんが設計した現代アートのミュージアムです。こういう感じで、文化発信基地として生まれ変わり、都市のポテンシャルを引き上げています。

 このように、ヴェネツィアが文化情報発信基地になっていて、単なる水都、観光都市ではないクリエーティブ・シティー、コンベンション・シティー、世界に誇る、世界に発信する文化芸術都市になっているというのが、このヴェネツィア本島の、今、目指しているところになります。

 こうした動きは、さらにラグーナ、テッラフェルマへと広がるわけです。テッラフェルマについては、こちらの本で紹介していますので、今回はラグーナを簡単に見ていきたいと思います。そういうヴェネツィアとのつながりでこれは描いていて、これはまた後で、もし時間があれば紹介したいと思います。

 

 ここまでは細かい内容が多かったので、後半のラグーナでは少し頭を休めていただきたいと思います。ラグーナというのは干潟を意味していて、アドリア海側には同じような干潟があります。チェルヴィアやコマッキオは全部ラグーナです。これはコマッキオです。湿地帯ということがよく分かるかと思います。これはヴェネツィア、これはブラーノでしょうか。こういう感じで、かなり入り組んでいることが分かります。これは、手前にボートがあって、歩いている人もいて、ここでは水上バスも行き来しています。このように、ラグーナには、深いところや浅いところなど、複雑な地形があります。ここに書きましたが、地元の人にしか分からない微地形というのがこの写真から分かるかなと思い、持ってきました。

 もう1つは生物多様性ということで、ラグーナにはいろいろな動物、植物がいます。左はヘビですが、少しぞっとしましたね、これに遭遇した時は。そして美しい風景です。これは10月の写真ですが、ラグーナの夕焼けを撮るなら、5月と10月がお薦めです。日没直前から直後の変化というのは本当に幻想的な風景を作り出しています。こちらも劇的な風景です。本当に多様な表情を見せてくれます。こちらは開放感もあります。これは地元の人たちが船で浜に乗り付けている写真ですが、ラグーナはこうしたいろんな側面をもっている、非常に懐の深い場所です。

 このラグーナについて、近年の研究では、ヴェネツィアの古代の遺跡がラグーナのあちこちから出てきているというプロット図で、こんなにも古代の遺跡が見つかっていて、これだけ蓄積されています。こちらは概念図ですが、1世紀にはこうあったものが、3世紀には、もう水面が住宅の1階部分にひたひたになっているので盛り土をして、7世紀には盛り土をしたものからさらに地面を高くして家を建てています。現在の水位と1世紀の水位は2.7メートルも違うという、こういう研究があるわけです。従来、ヴェネツィアというのは、6~7世紀に蛮族が侵入して、それを逃れるために避難してきた人たちが住んで形成されたといわれているのですが、実はそれ以前から人が住んでいたということを、この研究は示しています。ラグーナを取り上げるのは、「ヴェネツィアの近代化 新たな『水都』の構築」というテーマですが、そのヴェネツィアを支えてきたラグーナの近代化がどうだったのか、どのような変化や役割があったのかということを次で見ていきたいと思います。

 ラグーナの環境としては、古くからの漁業、農業、狩猟、繊維業などが行われていて、食料供給の面からヴェネツィアの生活を支え続けてきました。また、精神面でも水とつながりが深いことが挙げられます。こういう指摘は、最近、ヴェネツィアでも言われ始めていて、昨年に、ヴェネツィアの水と食をテーマにした展覧会が、ヴェネツィアで行われました。これは、昨年の都市史学会で、ヴェネツィア建築大学のルドヴィカ・ガレアッツォさんが発表されたものです。ヴェネツィアはラグーナであるという考えが出てきているそうで、ヴェネツィアとラグーナを切り離して考えるのではなくて、ヴェネツィア共和国時代に考えられてきたように、一体として考える動きが出てきているそうです。もう少し説明すると、19世紀、20世紀を通じて観光都市として発展してきたヴェネツィアが、今では飽和状態になり、ヴェネツィア史も、専門家も、環境も、新たな可能性として、本来ヴェネツィアと一体だったラグーナに目を向け始めているというわけです。

 

 こういうラグーナへの関心は、多大な被害をもたらした1966年のアックア・アルタがきっかけだったわけです。そのアックア・アルタというのは、ヴェネツィアが沈むと、皆さん聞いたことがあると思います。街が水に漬かる現象です。ヴェネツィアには、ずっとアックア・アルタと付き合ってきた、まさに人間と英知の努力の歴史があるわけです。ラグーナに注いでいた河川の付け替えという大規模な治水事業が行われました。これについては機会があれば、またお話ししたいと思います。また、先ほど紹介した本にもこちらの話は載っていますので、そちらをご参照いただいても構いません。

 近年は、1966年のアックア・アルタをきっかけに、ラグーナの環境に関心が高まり、さまざまな対策が取られてきたわけです。ボートの速度制限などです。この写真は、ラグーナの地形を維持するために、自然環境を回復させるというものです。こうした水のコントロールや自然環境の中に、ヴェネツィアがあるわけです。

 そのヴェネツィアが発展するには、周辺の島々も重要な役割を担ってきました。こちらの図は、ヴェネツィア共和国時代にとって重要な島が強調されて描かれているわけですが、この時代というのは、修道院とか、有力家の別荘、そういうものが建つ一方で、隔離病棟や検疫施設など、そういう厄介な施設を受け入れる役目も島々は果たしました。共和国が崩壊した後というと、ラグーナを防衛するために、こういう要塞(ようさい)や火薬倉庫などが置かれて、軍事施設として利用されて、楽園とは程遠い負のイメージが定着しました。その代表的なもので言うと、ラザレットという、先ほども検疫施設で紹介しましたが、そういうものです。これが、第二次世界大戦後、最近までずっと放置状態が続いていました。ところが、ついこの5年以内に、ようやくネガティブなイメージの島々がレストランやホテル、大学などによみがえって、ポジティブなイメージに見直されつつあるようです。ヴェネツィアの都市の内部は観光客も多いし、開放感もないし、もう完全に飽和状態です。ですから、こういうラグーナの豊かな自然環境というのが、ヴェネツィアの住民にとってもありがたいのです。本来のヴェネツィアの姿というか、こういう島々の活用は、これからヴェネツィアの新しい時代にふさわしい役割を担い始めているといえます。

 先ほど負の遺産がよみがえってきた島々を見てきましたが、実際には負の遺産とはいえない島も、もちろんあります。それは、この赤色で示したムラーノ、ブラーノ、トルチェッロや、リドなど、そういうものがあります。そういうものは19世紀、20世紀も注目され続けた島です。その共通点が、もしかしたら水上バスでつながれていた島なのかなと今思っているところです。ムラーノの場合を簡単に言っておきますと、共和国時代にガラス工場がヴェネツィア本土から移転して、この街で発展したというのはよくご存じだと思いますが、それが実は19世紀にガラス産業として一気に開花していきます。夏に調査したのですが、このガラス工場は、今、ホテルに変わっているという動きも見られました。先ほど見たヴェネツィア本島で、19世紀末から20世紀初頭にかけて建てられた工場、倉庫が、今、ホテルや住宅に変わっています。そういうものに転用されて、現在新たな役割を担っているというのと同じような動きが、ここ、ムラーノでも起こっているようです。これは余談ですが、マリア像もガラスで造られていて、これはなかなかムラーノでしか見られないなと思って持ってきました。

 今回は、ヴェネツィアの近代化を支えてきたラグーナの役割ということで、その重要度の高いリドを少し見ていきたいと思います。リドというのは、先ほども少し触れたので、海水浴場のイメージが強いですね。これは国際映画祭です。宮崎駿さんがいるというので、リドまで出掛けて撮ってきました。

 

その開発というのは、19世紀後半から一気に始まりますが、それ以前のリドは何もないというイメージが強いです。何もないところから海水浴場ができて、どんどん発展していったというイメージが強いのですが、実は、それ以前のものもあったということを少し見ていきたいと思います。

 こちらは1559年のリドの地図ですが、ここにサン・ニコロ教会、修道院というものがあったり、ユダヤ人の墓地がここにあったりしました。ユダヤ人のゲットーについては、今、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿で展覧会が開催されていますので、ヴェネツィアに行くチャンスがある方はぜひ行ってみてください。11月13日までです。かなり面白い展示がなされていました。16世紀にはカジノもあったということが分かりました。また、16世紀から18世紀にかけて、こういう貴族の邸宅ができるというのは、ブレンタ川やシーレ川など本土側で見られた動きと同じですが、そういうヴェネツィアの周辺で見られた動きが、このリドでも見られました。そういう社交の場が、こういうラグーナにもあったということを示しています。

 こちらの図は、ブドウ畑と書いてあるのですが、修道院とか貴族がブドウ畑として所有していたということも、こちらの地図から分かりました。こうやって、文献や地図から、19世紀の開発以前のリドがどういう状態だったかということも把握しているわけですが、こちらの1808年の不動産台帳から、より細かい土地利用が分かります。それに少し色塗りをしてみたのですが、現在の地図に1808年の状態を落としてみました。ここは現在のラインです。ここが1808年ですが、黄色いところが砂浜、砂地です。緑色のところがラグーナの方向に菜園、農園があるということが、この台帳からは分かりました。もう少し言うと、水路も入り込んでいて、こういう水路と農地がセットになっているということも見られました。南のほうでは、農地と水路のセットというのが、これは1559年で、こちらは今の航空写真ですが、こういうものを比較しても、引き継がれているというのが、南側にははっきりと見て取れました。

 先ほどの土地利用図に戻りますが、もう1つ面白いのが、こういう水路で魚を育てていたということも分かりました。また、あとはここに4つの井戸と書きましたが、井戸があったことも分かりました。この井戸というのは、ナポレオンが攻めてくる直前に計画したものです。できたのはその後です。なぜここに井戸を作ったかというと、もともとは、ヴェネツィアは水不足だったので、ポッツォという、広場にありますよね、ああいうところで雨水をためて飲料水などにしていくわけです。でも、それだけでは足りないので、本土のシーレ川やブレンタ川などのほうから水、飲料水を持ってきていたわけです。しかし、そちら側がフランス政府にどんどん支配されていって、そちら側から水を取れなくなってきたときに、ラグーナのリドで水を供給するための、こういう仕組みを作ったということが分かりました。こういう役割もリドは担っていたようです。

 こういう構図の上に海水浴場が開設されていくわけですが、細かい流れは省きまして、海水浴場ができて、船も接岸するようになって、大きい並木道、馬車も駆け抜けるような大通りを造っていくわけです。本当はヴェネツィアでこういう大通りをつくりたかったのでしょうが、そういうものがなかなかつくれなかったということで、リドで実現します。つまり、リドはヴェネツィアの人にとって、少し憧れの場所でもありました。

 

そういうプロジェクトも完成できる場所でもあったということになります。1850年代は、オーストリア政府の下で、ラグーナには、これだけたくさんの要塞が建設されます。これで言うと、赤い丸ぽちのところです。こうやってたくさん要塞が建設されて、その間に海水浴場が造られますが、実際には、これはすぐ壊されます。すぐ壊されて、オーストリア政府が弱くなった1859年にまた造るという感じです。防衛上、こんなに要塞があるのに、こんなところで泳いでいたら危ないですよね。それは分かるのですが、そういう感じですぐ壊されて、また復活します。それが、イタリア王国に統一される以前の海水浴場のお話です。

 こちらが、実際にどんな海水浴場だったのかというものです。アドリア海に張り出した木造の施設ができていたようです。この図面自体は1870年なので、最初のものとは違いますが、恐らくこういう構造だっただろうと言われています。木造でこんな構造はすごいですよね。波の影響もかなりありそうです。こうした海水浴場をきっかけに、徐々にリドのイメージが定着していき、先ほども言ったように、ホテルも建っていきます。このリドの開発は、個人や民間の企業が大きくて、それをヴェネツィア市が支援するという感じでした。一番有名なのは『ヴェニスに死す』でしょうか。あの時代が1913年なので、この後です。この後に建つホテル・デ・バンが舞台になるのですが、リドというのが憧れの舞台になっていくわけです。

 1920年代というのは、チーガ(C.I.G.A.)という組織がありますが、その組織がかなり華やかな空間をつくり出していきます。ホテルで国際イベントもたくさんやりますし、さらには住宅開発も、その組織がやっていきます。そしてリドが出来上がっていきます。こういった、リドにおける、島の環境を最大限に生かした開発というのが、ヴェネツィアの水都を発展させるのに貢献しました。ですから、リドの開発が、ヴェネツィアの近代化にとって非常に重要だったというわけです。

 この辺を細かくやると、また頭がぼーっとしてしまいますので、最後にヴァッレ・ダ・ペスカという不思議な場所を挙げたいと思います。ヴァッレ・ダ・ペスカというのは養魚場です。自然地形が広がる中で、幾何学的な模様がちょこちょこあるのが分かるかと思いますが、これがヴァッレ・ダ・ペスカです。これは飛行機から撮った写真です。こういう幾何学的な模様があります。こういうかなり特徴的な場所ですが、これはヴァッレ・ダ・ペスカという養魚場、魚が育つ場所があります。魚を目掛けて、今度は鳥が飛んできます。鳥が飛んでくると、鳥を捕まえる人たちも来ます。狩猟場として特権階級が来て、こういう狩猟の場でもあったので、政治的にも、ラグーナの中で非常に重要な場所です。

 ヴァッレ・ダ・ペスカは、まだ研究途上の段階なので、なかなか説明が難しいのですが、仕組みだけ簡単に触れておきたいと思います。先ほども言いましたが、アドリア海に面してラグーナが分布していて、春先になると、海流に乗って稚魚がやってきます。この稚魚がラグーナに入っていくわけです。これはヴェネツィアだけではなくて、いろいろなラグーナに入っていきます。その稚魚が入っていくと、ある程度、このラグーナで成長して、成長すると、また海に出るという習性があるようです。その習性を生かして、古くから漁業が行われていました。

 

これが初期の、16世紀のヴァッレ・ダ・ペスカを示した図ですが、ジグザグに木杭が打ち込まれていて、杭に魚が入っていくと網があって、ここに入るともう出られないと、そういう仕組みだったようです。16世紀のときには、この辺がアドリア海で、こちらがラグーナですが、こういうところに分布していたのが、次第に陸地へと移動していくということも分かりました。今は近代化の話ですが、特に19世紀末という時期に開発された新たな構造によって、ヴェネツィアに安定した食料供給を可能にしました。この開発が、ラグーナの近代化の1つともいえます。

 この構造については、またどこかで機会があったらお話ししたいと思うのですが、そのヴァッレ・ダ・ペスカが、先ほど見たこういうものが、この辺に分布していたものが、陸地のほうに、本土側に移動したという話をしましたが、同時に、狩りの場所でもあったわけで、こちらも陸のほうに移っていくということになります。そこには、少し見えにくいですが、カゾーネという、ラグーナに特有な家がありまして、漁業の他にも狩りをする人たちが泊まるための家、カゾーネがあったようです。これが移転していきます。これがカゾーネの写真ですが、ラグーナの真ん中に崩壊したカゾーネが見られます。これは船でなければ絶対に行けないようなところです。特徴的です。こういうものが、だんだんともてなしの空間に変わっていきます。左下のカゾーネなどは、もう船などは関係なく、当時は馬車のような、陸路からしかアクセスすることができなくて、完全に漁業とは関係のない、むしろカモなどを狩るための人たちが出入りする施設として建てられました。ヴァッレ・ダ・ペスカがこうした特権階級の娯楽の場所でもあったことを示しています。現在、こういうヴァッレ・ダ・ペスカは、ヴェネツィア周辺の企業の社長さんが所有しているというところもあって、こういうところはロベルト・バッジョといったVIPが来て狩りを楽しむこともあるようです。こうした人工的な自然環境を維持するためには、そういう経済力を担う資産家の存在も重要であるといえます。

 もう1つの動きとしては、カゾーネをリノベーションした宿泊施設やレストランといった、現在のニーズに合わせた活用方法、そして、これは、ヴァッレ・ダ・ペスカの中を自転車で回ってきた人を次のポイントまで輸送するサービスですが、こういう、自転車で回るという、自然環境そのものを楽しむ空間としても注目されつつあります。これは近年の自然環境を再評価する、ラグーナ全体の動きでもあります。

 以上のように、ラグーナというのは、厄介施設を受け入れる機能もあれば、リフレッシュ機能もありました。さまざまな機能を受け入れるラグーナの懐の深さというのが、水都ヴェネツィアを支えて発展し続けるのを可能にしました。

 近代化による新たな水都の構築ということから、最後は、今もなお、新たにつくり出そうとしている水都の動きを紹介しました。こうしたヴェネツィア、ラグーナの経験が、日本を考える上で示唆を与えてくれるのではないかと思い、研究をしています。以上で発表は終わります。ありがとうございました。(拍手)

 

橋都:樋渡さん、どうもありがとうございました。われわれの知らないヴェネツィアを、いろいろとたくさん教えていただいたと思います。いかがでしょうか。ご質問があれば受けたいと思います。お名前から。では、〓ナカガワ〓さんから。

中川:中川と申します。大変興味深い、知らないことを教えていただきまして、ありがとうございます。

 2つありまして、1つは確認ですが、海水浴場というのが初めのほうに出ましたが、あれは日本の海水浴場のように、泳ぐというよりも海水に漬かるという意味合いだと思ってお聞きしたのですが、それでよろしいですか。

要するに、泳ぐ要素はあまりないということでしょうか。

樋渡:ヴェネツィアの場合は泳ぎます。

中川:ただ、囲んでいますよね。

樋渡:どの段階のものですか。

中川:初めのころ、いろいろ。

樋渡:全部泳ぎます。ヴェネツィアの場合は、泳ぎのコーチを付けるかどうかで値段も違うなど、そういうことも出てきます。

中川:単に泳ぐということだったら、別にそういう囲いを造らないで泳いだら、というようにも思うのです。

樋渡:あとは、泳がないのもあります。ここは泳ぐ専用の、水泳用と書いたのはそういう意味です。水浴と書いたのは、お風呂のようなイメージです。

中川:分かりました。ありがとうございます。

 2つ目は、ラグーナですが、航空写真で見ると、蛇行した水路が多いですよね。なぜ蛇行しているのでしょうか。いわゆる川での〓センリョウチ〓で蛇行したところ、デルタはたくさんありますが、私の想像だと、海水位が昔はずっと低く、大きな川が蛇行して、その水位が上がって、蛇行と島との部分に分かれたのかなと考えました。その蛇行の原因は何かということです。

樋渡:無数の川がたくさん注ぎ込んでいます。ここは少しつながっていたと思いますが、こういう波の影響や。

中川:河川の蛇行が原因だということですね。

樋渡:そうです。

中川:分かりました。ありがとうございました。

樋渡:有明海などのイメージも強いかと思います。

 

橋都:では、山田さん。

山田:山田と申します。たくさんお聞きしたいことがありますが、1つに絞って言うと、下水の処理です。今日もミオッツィの下水道計画や、その前に水浴施設がありましたが、今はとてもリドの外側でないと海水浴などはできないと思います。歴史的に、水浴施設などがあるころは、水はかなりきれいだったのでしょうか。それから、今でも一般家庭は垂れ流しで、ホテルやそういうところは処理施設を導入していると聞いています。例えば、その比率のようなもの、処理施設が整備された比率など、そういう数値はないのでしょうか。それから、水質は歴史的にきれいになってきたとか、汚くなってきたとか、あるいは、運河が流す作用があるのできれいだと聞きますが、本当にそうなのでしょうか。時間的、季節的にそういうものが本当にうまく機能しているのか、どうも疑問です。その辺で、もし何か分かることがありましたら教えていただきたいと思います。

樋渡:とても貴重な意見をありがとうございます。実は、私も次のステップで、そこをまさにやりたいと思っているところです。1850年、60年の時代は、まだ洗剤など、そういうものがないので、そういう意味では、石油系の汚さというのはないはずです。あとは、マルゲーラ工業地帯というものがあって、そこがかなり汚水を流すのですが、それがまだできていなかったので、この時代は、恐らく、日本で河口でも泳いでいたという時代と同じなので、汚いと言われているけれども、泳げたのかなと思います。

東京などでも、1960年代にものすごく臭かった、そこからきれいに変えていくという話があります。それと同じように、ヴェネツィアもやはり、このマルゲーラ工業地帯が、かなり工業用水を垂れ流しているので、そういうものを浄化するというのは、今やられているところです。1966年にアックア・アルタというすごい大被害が起きるのですが、それをきっかけに、環境の面でラグーナの水質などの環境をしっかり見るように切り替わっています。といっても、まだ今も泳ぐのは難しいぐらいです。

 下水道についてですが、先ほどおっしゃったように、まさにホテルなど、そういうところでは、下に浄化槽などを付けて、垂れ流しではない方法で処理をしていると聞いています。数値については分からないので、今から調べようとは思いますが、一般家庭のトイレの汚物はそういう浄化槽で処理していますが、台所用水が完全に垂れ流しで、それは今も歩いていたら多分見られると思います。潮の干満差といっても60センチぐらいしかないので、結構見えます。あまりきれいとは言えないと思うので、その辺は今から、水の都ヴェネツィアが実は水が汚いけれども、みんな来ているということを、これから少し研究しようかなと思って、温めている材料ではあります。また機会があれば発表させてもらえればと思います。ありがとうございます。

 

橋都:ヴェネツィアはたびたびペストが流行していると思いますが、コレラの流行はなかったのでしょうか。

樋渡:最後のコレラは戦前ぐらいでしょうか。

橋都:コレラはやはりあったわけですね。

樋渡:それはまさに『ヴェニスに死す』のテーマで、1910年代はありますね。

橋都:そうですね。あれは、流行していたのはコレラですね。そうすると、やはり水の問題というのは、かなりずっとあったと考えていいわけですね。

樋渡:それで言うと、リドの開発が面白くて、リドで海水浴場ができるのですが、そのころの時代は、ホテルを建てても、その排水口を海に向けるので、結局海が汚いという矛盾がいろんなヨーロッパの都市であったそうです。ホテル・エクセルシオールですが、ここのホテルを建てるときに、それでは嫌だということで、排水をラグーナに向けて、ここの前面の海水浴場はすごくきれいで、世界でも称賛されたという記録が残っています。というぐらい、そのころは垂れ流しです。ですから、ここはものすごくきれいな海水浴場だといって、はやったようです。

 

橋都:猪瀬さん

猪瀬:猪瀬と申します。面白い話をありがとうございました。

 以前、ヴェネツィアが数センチずつ毎年沈下しているということで、それをなんとか防止しなくてはいけないと、確か国連が基金を作って募金活動をやったりしていました。ヴェネツィアの都市全体の沈下は止まったのでしょうか。

樋渡:1960年代にアックア・アルタがあった時が、多分一番問題になったのですが、沈下自体は自然沈下といって、年間何ミリか沈みます。ですが、掘り抜き井戸の影響で、がくんと下がった時からはもう動いていません。少し話を整理します。1966年にすごくひどいアックア・アルタという浸水があり、それをきっかけに環境保全などをいろいろするのですが、そのときの話で言うと、ここには持ってきていないかもしれないですが、23センチ、今までの地盤とは違うということで、相当低い水位でも水没するような事態になったのです。それが1990年代、2000年に入ってからでしょうか、10年間ぐらいをかけて、かさ上げといって、街全体を10センチ、20センチ上げる大工事が行われました。

今はもうそれは完全に終わっているのですが、それがあったので、10センチ、15センチぐらいは公共の道路が上がったので、そういうところでは被害が少なくなっているといわれています。ところが、サン・マルコ広場に関しては、景観を損ねるということで、かさ上げが行われませんでした。ですから、サン・マルコ広場は、もう海抜70センチの水が来たら浸るということで、ほかの場所よりも頻繁に浸かりますが、自然の地盤沈下自体は、確か年間で1ミリぐらいです。

 

橋都:他にいかがでしょうか。新井さん。

新井:新井と申します。

 今のお話の中の水質の問題ですが、20年ぐらい前に行った時、水上レストランのテラスに行ったら、すごく臭かったです。最近、市ヶ谷のお堀に行くと、「ああ、ヴェネツィアに来たのかな」と思うぐらい水質があれですが。それと関係があるのかどうか分かりませんが、いわゆるモーゼ計画は進んでいるのでしょうか。この前、また市長が収賄で逮捕されたという話も聞きましたし、進んでいるのか進んでいないのかということを、今日のお話とは少し関連がないのですが、お話しいただければと思います。

樋渡:これは修士論文の内容を少し持ってきました。モーゼ計画というのは、これはラグーナ全体で、ここにヴェネツィアがあるのですが、アドリア海とラグーナが、海水が入り混じって、3つ切れ目がありますが、3カ所に水門というか、こういうものを設置しようという計画があります。これで、すごく水位が上がってきたら、この3つの門をふさいで、ラグーナの水を安定させようという計画があります。これについては、一応進んではいるようで、ずっと工事が進められています。途中で市長の問題などがいろいろあり、止まったりはしていますが、一応、工事は進んでいます。結構、島と島との間が広いので、その間に島を造って、人工の島と自然の島を結ぶという計画があって、この島は完全に埋め立てられて造られました。これは2008年の話なので、だいぶ古いですが、さらに今はここに船が通れるような道というか、閘門(こうもん)もできつつあります。

今、完成したのが、実はここに記されていない、このときは3つという話でしたが、ここの3つ以外に、実は、キオッジャの都市の中にもベビーモーゼというものがありまして、これが完全に完成して、そちらが稼働しているようです。この大きいものに関しては、まだ工事中で、いつ完成するのかなという感じです。今は追っていないので分かりませんが、空から見えるので、だいぶ埋め立てられた状況が見えます。

新井:ありがとうございます。

樋渡:先ほどの、少し付け加えていいですか。かさ上げの話です。これはサン・マルコ広場ですが、サン・マルコ広場は、一応排水管とかそういうものを掃除したという話と、あと、水色のところはいじっていなくて、そういう排水管を掃除したという話と、黄色いところはかさ上げをしたという話があります。アックア・アルタはこれです。ヴェネツィアの島の中は、実はすごく微地形というか、高低差があって、沈むところと沈まないところがあるのですが、今度は90センチ未満というのが、このサン・マルコ広場のところです。ですから、この辺の地盤に海抜何メートルと決めるものがあるのですが、ここの海抜が70センチとなったときに、ここがひたひたと今は沈むようです。例えば、こういう新しく埋め立てられたところは2メートル以上地盤があるので、もう全然沈みません。アックア・アルタというのは、大体100センチとか120センチ級の水位が上がると、都市全体が沈んでしまうということでニュースに挙げられるのですが、よく見ると、低いところと高いところが結構あるので、そういう低いところは地盤をかさ上げしました。あとは、板を渡して歩けるようにしています。よく見たことがあると思うのですが。上のほうが分かりやすいでしょうか。これはぎりぎりですが、本当は渡し板というものがあります。こういうものが公共の道には置かれていて、こういうものを渡りながら、水上バスを利用しながら、循環できるというように、今、アックア・アルタの対策が取られています。以上です。

橋都:ありがとうございました。他にもいろいろご質問はあるかと思いますが、時間になりましたので、これで終わりにします。この後、お時間がある方は、懇親会でぜひ、さらにお話を伺っていただきたいと思います。それでは皆さま、拍手をお願いします。どうもありがとうございました。(拍手)