切支丹屋敷の初めから映画“沈黙”に至るまでの歴史:小説と史実(概要)

 11月例会(449回) 

・日時:2017年11月18日 (土) 15:00-17:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:ガエタノ・コンプリ神父(サレジオ神学院 チマッティ資料館館長)  

・演題:切支丹屋敷の初めから映画“沈黙”に至るまでの歴史 〜小説と史実〜

 

 イタリア研究会第449回例会が開かれました。

演題は「切支丹屋敷の初めから映画“沈黙”に至るまでの歴史:小説と史実」で、講師はサレジオ神学校・チマッティ資料館館長のガエタノ・コンプリ神父、在日60年というまさに長老と呼ばれるにふさわしい方です。

今年日本でも遠藤周作原作でマーティン・スコセッシ監督によって映画化された「沈黙」が公開されたことにより、江戸時代初期の切支丹弾圧に注目が集まりました。しかしこの「沈黙」はあくまで創作であって、コンプリ神父は史実がどうであったのか、この映画の登場人物達のモデルがじっさいにどのような生涯を送ったのかを、当時の文献資料とその後に発見された墓碑や遺骨などの資料に基づいて話をされました。映画「沈黙」の主人公であるロドリゴのモデルとされるジュセッペ・キアラ神父はイタリアのシチリア生まれのイエズス会士で、1643年に他の3人の宣教師、6人の信者とともに日本に潜入しましたが、すぐに捕らえられ尋問を受け全員が棄教したとされています。この時に尋問の通訳を務めたのが1633年に棄教した元イエズス会管区長代行フェレイラ神父・日本名沢野忠庵だったのです。この時に彼が神の「沈黙」という言葉を使ったとされています。これはその場に居合わせたオランダ人船員によってヨーロッパにもたらされたのです。しかしつい最近までキアラ神父の故郷では、彼が殉教したと信じられていたという事です。彼はその後に「キリシタン宗門の書」を著し1685年切支丹屋敷で亡くなりました。

さらにその後に江戸幕府にキリスト教への弾圧を止めさせようと、同じシチリア出身のシドッティ神父が1708年日本に上陸して捕らえられ江戸へと送られます。この時にシドッティを尋問したのが新井白石で、彼は「キリシタン宗門の書」を手がかりに尋問してその成果が「西洋紀聞」として結実しました。シドッティは幽閉中に彼を世話していた長介・春夫妻をキリスト教へと導き、彼らとほぼ時を同じくして亡くなり、切支丹屋敷内に葬られました。

さて明治になり宣教師達が来日してからこうした先駆者の遺跡探しが行われ、1943年にキアラ神父の墓碑が雑司ヶ谷墓地で発見され、サレジオ神学院に移されました。さらに2014年にキリシタン屋敷跡で3基の墓が発見され、埋葬されていた遺骨のDNA鑑定の結果から、シドッティ、長介、春のものに間違いがないとされました。

最盛期には70万人ものキリスト教信者が日本にいたと考えられていますが、キリシタン弾圧以降、キリシタン文化は途絶えてしまいました。しかしその影響は消え去ることなく残ったと考えられ、東西文化交流のひとつの姿として大変興味があるテーマです。コンプリ神父は活き活きと臨場感あふれるお話しで聴衆を魅了しました。最後にはご自分の一生の研究テーマであるというトリノの聖骸布について複製とネガとを示しながら熱弁を振るいました。コンプリ神父様ありがとうございました。(橋都浩平)