ファシズムと「不完全な全体主義」

第406回 イタリア研究会 2014-04-21

ファシズムと「不完全な全体主義」

報告者:神奈川大学 小山 吉亮


・日時:2014年4月21日(月)19:00-21:00

・場所:南青山会館2F大会議室

・講師: 小山 吉亮 神奈川大学

・演題:ファシズムと不完全な全体主義


【橋都】皆さん、こんばんは。イタリア研究会運営委員長の橋都です。今日は第406回のイタリア研究会例会にようこそおいでくださいました。少し天候が悪いのですが、たくさんの方がお集まりくださいましてありがとうございます。今日はファシズムについてのご講演です。これまでファシズムに関しては何度かイタリア研究会で講演をしていただいていますが、今日は「ファシズムと不完全な全体主義」という題で、新しい観点からご講演をいただくことになっています。

 まず講師のご紹介をしたいと思います。講師は小山吉亮さんです。1976年のお生まれで、東京大学大学院法学政治学研究科の博士課程単位取得満期退学、日本学術振興会特別研究員を経て、現在は神奈川大学、放送大学の非常勤講師を務められています。専門はファシズム期イタリアの政治史で、『近代イタリアの歴史』ミネルヴァ書房、2012年も共著で書かれています。その他雑誌に「ファシズム期イタリアにおける頂上政治の変容」という題で論文を書かれています。まさに若手のイタリア・ファシズムの研究のホープでいらっしゃいます。今日は面白いお話を聞かせていただけるのではないかと思います。それでは小山さん、よろしくお願いします。(拍手)



【小山】ただいまご紹介に与かりました小山と申します。よろしくお願いします。面白いお話をということですが、皆さんはファシズムというのは当然お聞きになったことがあるでしょうし、全体主義という言葉もどこかではお聞きになったと思うのですが、この2つがどのような関係なのかということをお聞きになる機会は恐らくなかったのではないかと思います。面白い話というよりは少し細かい話が多くなりますが、思想めいた話や研究史、学説史のようなところに触れながら、ファシストは何を考えていたのかということについて説明したいと思います。ファシストは何を考えていたのかということですが、前半は少し細かい学説や学者の名前が出てくる話です。後半はファシストの言葉に即して、彼らは何を考えていたのだろうかということを説明したいと思います。

 お配りしたレジュメは6枚あります。一番後ろに登場人物の写真などが載っていますが、基本的には順番に沿っていきたいと思います。

 「1.はじめに」というところです。イタリア・ファシズムは中学校の教科書にも載っています。しかし影が薄いのです。ファシズムといわれると、まずヒトラー(Adolf Hitler)です。ムッソリーニ(Benito Mussolini)というのはぱっと出てきません。研究の世界でもイタリア・ファシズムとムッソリーニの独裁というのは非常に影が薄いのです。例えば独裁の研究や民主化の研究というと、アジア、アフリカ、中南米が今ははやっています。最近は旧ソ連です。そのようなところを考えるときには、イタリアというのはあまり参考になりません。アジア、アフリカ、いわゆる発展途上国の独裁という議論をすることは多いのですがイタリアは少し違うわけです。

 いっぽう独裁といえばナチス――ヒトラーのドイツ――やスターリン(Joseph Stalin)のソ連もありますが、ここでもイタリアは参考になりません。あれほど「華々しく」ないのです。「華々しい」というと何ですが、死者の数が桁違いで過激なものと比べたときに、イタリアというのはどうも「中途半端」なのです。別にそれは悪いことではありませんが「中途半端」なので、研究者の間ではイタリア・ファシズムというのは忘れられがちです。「中途半端」で注目されないのですが、なぜ注目されないのかという、専門でやっている人間の愚痴めいたところから言いますと、実は「中途半端さ」がイタリア・ファシズムらしさですので、そこを説明していきたいと思います。

 ただ最初に注意点というか一言申し上げなければいけないのは、イタリア・ファシズムが「中途半端」だというと、要するに「[イタリアは]ドイツやソ連ほど過激ではない、生ぬるかった、何となく暮らしやすかった」というような議論になりやすいのです。ここに書きましたが、「合意」や「同意」(consenso; consensus)といって、「ファシストの支配は特に1930年代前半には人々の合意を得ていた、みんな何となくそれでいいかと思っていた」という議論があります。

 たしかにスターリンのソ連やポル・ポト(Pol Pot)のカンボジアなどに比べれば、それは生ぬるいです。ただ、みんな幸せに暮らすことができたかというと、やはりひとたび「敵」と見なされ「非国民」扱いされた人々への暴行・弾圧は生やさしいものではなかったわけです。独裁では「今の状況でいいよね」という「合意」があるといっても選択の自由がありません。政府を批判できる自由がないところで「合意」せざるをえないということがあります。日本のような国で政府を支持するかしないかということと、支持しなければ何をされるか分からない国で政府を支持するというのは同列には論じられません。ですから当時のイタリアは独裁であり、人々の権利は保障されていなかったということを大前提にした上で、イタリアはドイツ、ソ連ほど過激ではなかった、ではいったいどこが違うのだろうというところ、イタリアの特徴は何なのでしょうかということをお話ししていきます。

 予備知識に差があると思いますので、最初に基本的なところだけを簡単に説明します。「2.ファシズム期イタリア史の基礎」です。ムッソリーニ政権は1922年、「ローマ進軍」というものを経て成立しますが、最初の3年弱は連立政権でした。どのようにしてこの政権ができたかといいますと、ファシストが活躍する前に政党政治・議会政治が行き詰まって、国王が比較的首相を選びやすい、議会が主導権を失いつつあるという状況になっていました。そのときにファシストがポー川北部、ポー川流域を中心に各地で暴力行為を行い、敵をたたきつぶして勢力圏を広げていったのです。コムーネ(comune)ごとに1個ずつ自分の陣地にしていきました。その暴力行為を、社会主義者を嫌いな県知事や警察が黙認していたわけです。ただ、政府の方針が変わって、取り締まるようにという通達が上から来れば、ファシストは一気に取り締まられます。だから政府の方針が変わらないうちに、既成事実を積み上げて政権を獲得、少なくとも連立政権に参加したいということで、大規模なデモをして連立政権の参加交渉をした結果、うまく首相の座が転がり込んできたというのが「ローマ進軍」です。

 このときのファシストの議席数は535分のおよそ35です。ファシストの議席は議席数からいうとたいしたことはないわけですが、さまざまな力学でムッソリーニが首相になりました。ただ当然そういう状況ですから主導権は握れません。中央では主導権は握れませんが、地方では暴力的に支配権を持っているという、その事実でもって影響力を拡大していったわけです。

 ただ連立政権では内紛が続きました。ファシストの間の内紛、それから他の政党との対立。そのような中で転機が訪れるのが1924年の総選挙です。前の年に選挙法を改正して1位の候補者名簿が何パーセントでも25パーセント以上を取れば、3分の2の議席を取れます。得票3割でも議席が3分の2という選挙法で選挙をして、かなり強引なこともして3分の2の議席を取ったのです。当然これに対して野党から追及されます。野党議員のマッテオッティ(Giacomo Matteotti)が遺体で発見された結果、反対派が勢いづき、連立内部からもファシストへの批判が高まります。ファシストのほうでは、この際反対派を弾圧して独裁でいこうという勢力が勢いづいたわけです。

 ムッソリーニにはどちらも抑えられなくなったので仕方がないから、25年1月に「一切の責任は自分にある」と開き直って、反ファシストとファシストの強硬派、突き上げてくるほうの両方を一気に取り締まります。一切の責任は自分にあるから自分に従うようにということで独裁を築いていきます。その後26年にかけて、反対派を取り締まるための法律が次々とできて、国民ファシスト党といいますがファシストの政党の一党独裁になったわけです。26年以降は政府首長といいますが、政府の長、首相であるムッソリーニへの権限集中も生じました。

 この時期はアルベルト憲章といいますが、ファシズム以前、統一以前からの憲法が有効でした。ムッソリーニは国王に任命されているだけで、国王が自由に首相を任命できる、そういう立場だったわけです。あくまでも国のトップは国王で、当時の切手には国王の顔が載っています。そういう状況でしたので、ファシストは国王の権限を制限するということを考えていくわけです。

 2ページの上のほうに図があります。これは新しく29年ごろにできた仕組みです。政府首長(Capo del governo)であるムッソリーニがファシズム大評議会(Gran Consiglio del Fascismo)の会議のメンバーを任命したり首にしたりと、人事を押さえます。国王は政府首長のムッソリーニの任命権を持っているけれども、その人事にはこの大評議会が介入できます。[政府首長・大評議会・国王の]三すくみの状態をつくっておくわけです。三すくみにした上で、ムッソリーニ=政府首長と大評議会、これはファシストで「ぐる」ですから、3つのうち2つを押さえていれば優位に立てます。少しややこしいのですが、このような形で国王を押さえ込んでいきます。

 ファシストの中でもムッソリーニに反対する勢力、異論を唱えそうな勢力の力を奪っていって、ムッソリーニの優位が築かれていきます。教皇庁(ヴァティカン)とイタリア王国は対立していましたが、1929年、ラテラーノ協定を結んでここで「和解」します。ヴァティカン市国というものが成立するという形で一応の妥協が成り立ちます。ムッソリーニは長年の懸案を解決したということで、その威信は頂点に達するわけです。これがファシスト独裁の前半です。

 後半です。32年以降、ちょうど世界大恐慌が来て、産業・企業救済のためのIRIという組織をつくったり、経済的な動きもあるのですが、ムッソリーニへの権力集中も生じます。スタラーチェ(Achille Starace)という人物がいたのですが、彼の下でファシスト党はどんどん党員を増やして、国民を大衆組織に加入させていきます。ムッソリーニ崇拝という形で、全国民はムッソリーニを崇拝するようにというキャンペーンがファシスト党を通じて打たれるという時代です。

 30年代後半になりますとエチオピア戦争、それからフランコ(Francisco Franco)のスペイン内戦への介入。やがてアルバニアに攻め込みます。いわゆる対外戦争が相次ぐ時期です。外交的にもいろいろありますけれども、ヒトラーのドイツに接近していきます。国内では「全面的ファシスト化」(Fascistizzazione totale)という言葉が使われますが、文化活動や日常生活のファシスト化、干渉が強まるわけです。例えば握手は衛生的ではないからこのようなローマ式敬礼をするようにとか、西暦ではなくてファシスト暦(ローマ進軍を起点とする暦)をなるべく使うようにとか、代名詞「Lei」[あなた]は女性の代名詞で男らしくないので「voi」[貴殿、貴君]を使いなさいという感じの非常にうるさい干渉が、些末なことも含めて強まっていくわけです。あとはドイツに倣うわけですが、反ユダヤ的な立法も行われます。

 そして39年に起きた第二次世界大戦でイタリアは戦争を賛美しておきながら大戦には当分参加しませんと言っていたわけですが、ついに40年6月、フランスが負けそうなので、勝ち馬に乗るべくドイツ側に付いて参戦します。戦争が短期間で終わると思いきや苦戦を強いられることになりました。苦戦続きのまま結局負け戦になり、負ける直前にムッソリーニはクーデターで排除されます。国王周辺とファシスト幹部の一部が裏切ることでムッソリーニは解任され、逮捕されたわけです。

 ただ43年の降伏直後にドイツ軍が攻め込んで来てムッソリーニを解放し、北イタリア、ロンバルディアのガルダ湖畔にムッソリーニを中心とする政府をつくります。南部には、ドイツ軍が攻めて来たので逃げ出した国王などの政府(南部王国)と米英の連合軍がいます。北部ではドイツ軍&サロ共和国(ムッソリーニの政府)といわゆるレジスタンスと呼ばれる勢力が対立して、内戦状況になっていきます。最終的に45年4月、レジスタンス勢力が北部で総蜂起をしてサロ共和国が崩壊し、ムッソリーニが広場につるされて終わるというのが大きな流れです。ざっといきましたが詳しくは後で説明します。これがファシズム期イタリアの歴史の流れです。

 それでは3ページ2枚目「3.全体主義とは何か」にいきます。先ほど「不完全な全体主義」とタイトルを掲げましたが、全体主義という言葉はいったい何を指すのかというところを説明していきます。全体主義についてはさまざまなことが言われています。哲学の人から経済学、政治学、文学から美術系の人までいろいろな議論がありますのでまとめるのは難しいのですが、あえて最大公約数的にまとめると、全体主義に関する議論の出発点は次のようなものです。

 世の中には多様な人がいます。いろいろな人が好き勝手な主張をしていると共存できません。例えば1台しかテレビがないときにはチャンネル争いというのが、最近は起きませんが昔は起きたわけです。殴り合いをしたくない場合にはどうにかしてみんなで折り合いをつけていきます。多様な人が共存して1台のテレビで争いなく平和に暮らしていくにはどうすればいいかという問題が出てくるわけです。

 大きく分けると解決策は3つあります。1つ目は表の左側です。正式にはリベラル・デモクラシーといいますが、いわゆる民主主義の解決策――多様性の調整――です。人々は自由である。思想の自由や信仰の自由など、したいことをしていい自由があるから人々が多様なのは当然である。NHKを見たい人がいてもテレビ東京を見たい人がいてもいいのだ。ただそれを放っておくと争いはなくならないので、何らかのルールをつくって争いを予防する。1日に何時間というような形でルールをつくって争いが起きないように調整をしていく。それが政治だというわけです。

 具体的に言うとこうなります。自由な選挙、何党に投票してもいいという選挙を定期的に、何年かに1回は必ず行う。人々の考えを定期的に確認して、その意見を政治に反映させていく。そういう形で民意を確認して、それを政治に反映させて、紛争が起きないように調整していこうというのが民主主義の考え方です。

 しかし世の中には独裁というものがあり、それには2つのタイプのものがあります。まず表の2つ目です。権威主義体制。アジア、アフリカ、中南米にある独裁の大半はこの発想で運営されていました。多様性を制限すれば紛争は解決する。どういうことかといいますと、チャンネル争いの例でいえば、NHK以外のテレビ局を廃止すればチャンネル争いは起きないという考え方です。選択肢をなくせば紛争はなくなる。秩序を維持するためには、多様な選択肢がむしろ邪魔だということです。ですから選択肢を減らす。多様性を減らすことで今の社会の秩序を維持し、紛争を予防しましょう。ただある程度多様であってもいい。「本当はNHKを見たくないのだが」というのでも構いませんし、テレビを見たくない人は寝ていてもいい。積極的な動員や思想改造は行わない。秩序の維持に協力して、特に反対しないというのであれば一定の範囲で自由は認めましょう。ただし勝手にテレビ局をつくるような、秩序を乱すような勢力は弾圧します。大体協力してくれるならば、多くのことは見逃しますというタイプの独裁が存在します。これが権威主義体制です。

 しかしもう一つ、3つ目の体制があります。ナチス・ドイツやスターリンの時代に代表される全体主義と呼ばれるやり方です。多様性が消滅すれば紛争はなくなる。全国民がNHKを見たいと心から思うようになれば、みんなが1つのテレビを囲んで幸せに暮らせるユートピアがやってくるという考え方です。つまり、人々の考えを一つにする、同質化してしまうのが紛争をなくすのには一番いい。人々の考え方を変える、今の社会や文化を変えて新しい社会をつくれば、世の中は平和でユートピアがやってくる。大事なのは教育によって人々の考え方を変えることです。

 今、独裁を2つ紹介しましたが、発想が違います。権威主義、よくあるタイプの独裁は考え方までは変えなくてもいい。協力してくれなくても別にいい。抵抗しない、反対しないでくれればそれでいいのです。現状維持、今の社会を変えない、秩序を維持したいという独裁です。しかし表の右側の全体主義――ナチス・ドイツやスターリンのようなタイプ――は違います。今の社会を変えて人々の発想を変えていけば、みんな団結してNHKで幸せに暮らせる。むしろ現状の維持ではなくて、現状の変革を目指す独裁、[リベラル・デモクラシーを含めると]そういう3つのやり方があるわけです。

 では。ムッソリーニの独裁、イタリア・ファシズムはどのようなものだったのでしょうか。ここで少し面倒な話になりますがいわゆる研究史、過去にどんなことがいわれてきたかということを簡単にご紹介します[4.ファシズム期イタリア研究における「不完全な全体主義」]。一般的にいわれてきたのは「イタリアの独裁はムッソリーニの個人独裁だった」ということです。「ファシズムとはムッソリーニである。ファシズムとはムッソリーニ主義であり、ムッソリーニが分かればファシズムが分かる」、そのようなことを言う人が何人もいたわけです。そういう見方を代表するというか、そういう見方を定着させたのが3ページの下のほうで紹介している、アクアローネ(Alberto Aquarone)という人の本です[A. Aquarone[1965] L'organizzazione dello Stato totalitario.]。彼によれば、イタリアのムッソリーニの独裁は不完全な全体主義であり、結局は個人独裁(dittatura personale)になったわけです。

 全体主義国家というのは何かというと、社会を残らず国家、国の中に統合してしまう、国の下に収めようという考えです。でも失敗して、その結果ムッソリーニの個人独裁になったのです。では、なぜ失敗したのか。まず①[君主制とカトリック教会に立ち向かう能力の欠如]ですが、イタリア社会に原因があります。君主制、先ほど説明しましたが憲法がそのまま残っていて、国王がずっと権限を握っていました。昔からの国の仕組みや体制がおおむね維持され、君主制も続いていて、それを打ち崩すことができなかった。それからラテラーノ協定です。ヴァティカン、ローマ教皇(ローマ法王)と和解するときにヴァティカンの独立国としての地位を認め、カトリック団体にも特権を認め、さらに学校でカトリックの教育、宗教教育を行うことも認めた。ファシストの考え方を子どもたちに教え込んでいこうというときに、カトリックの教えも学校でやることになってしまい、その結果、子どもたちが100パーセントのファシストにならなかった。カトリックと妥協したのでその辺がうまくいかなかった。そういう説明が①です。

 ②[「団結した同質的な固有の政治階級」の形成に失敗]。ファシスト独自のまとまったエリート層というものができなかった。後で説明しますが、ファシズムのイデオロギーはまとまりがない。みんながこれこそがファシズムだと納得するようなものがなかった。あと、積極的な動員をしなかった。国民を「ファシズムのために」と、ファシズムを徹底的に教え込んで、積極的にファシズムの目標のために駆り立てていくということをしなかった。むしろ国民を政治から遠ざけておけば世の中は安定する、とそれで満足してしまったわけです。しかし国民が政治に関心を持たないで、いわゆる私生活、プライベートな生活に満足するということになってしまうと、社会は安定しますが人々がファシズムにも関心を持ってくれません。だからファシズムの教えは人々には届かなくなるのです。

 そもそもムッソリーニ自体が、イタリア社会を変えようと真面目に考えていなかったのではないかとも言われます。結局、彼は自分の力が中心になる個人体制(regime personale)、自分の体制をつくろうとしたのであって、そのためにファシスト党やファシズムの理論というものを軽視してしまったのだ、と。結果的にイタリアをくまなく全体主義的に、国家の中に収めるということが行われずに、ムッソリーニの個人独裁になってしまったのだという言い方がされるわけです。

 4ページにいきます。これは何を言っているかといいますと、①非政治化による安定。結局ムッソリーニが前面に出てしまった。ということは「ムッソリーニ万歳」と言っていれば、それで許されてしまう体制ができてしまったわけです。ムッソリーニは素晴らしい、Mussolini ha sempre ragione. [ムッソリーニは常に正しい]というモットーを掲げて、それに表向きは同意していれば何も文句は言われない。だから誰もファシズムというものを真面目に受け入れなかった。人々を政治から遠ざけたら政治に関心を持たなくなった。その結果、安定した社会はできたけれども、誰もファシズムを真面目に取り上げてくれなくなった。そのような結果になったのだというのが①です。

 それから②[「不完全な全体主義」とムッソリーニの人格的要因との結合]です。一般的にはこのような説明がされてしまいます。ファシズムとはムッソリーニのことである。ファシズムとはムッソリーニ主義である。そして「ムッソリーニというのは基本的に駄目な人間である」というイメージがあるわけです。機会主義者、一貫性がなく何かに飛び付く、権力追求者、権力に弱いといいますか、自分が力を持とうということに頑張って日和見的であり、大言壮語を好んだりする。チャップリンの「独裁者」にムッソリーニのような人が出てきますが、あの映画は典型的なわけです。非常に滑稽な人として描かれます。ファシズムとはムッソリーニだ。ムッソリーニがあんな人間だからイタリア・ファシズムは不完全だ、と。なるほどと思ってしまうわけです。

 さらに「ドイツはすごいではないですか、でもイタリアは…。ドイツとイタリアですから」という、そういうイメージにもなってしまうわけです。非常に分かりやすい構図なので、よくよく考えると説得力のないところもあるのですが、今でも大きな影響力を持っているわけです。ムッソリーニがあのような人間で、イタリア人があのような人々だから、イタリア・ファシズムはこうなったのだと。それがこれまでお話ししてきたイメージを流布してしまう結果にもなったわけです。

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 dittatura personale(個人独裁)と言われると、例えば金正日の個人独裁という言葉を聞くと、金正日が全部決めているのだろうなと、そのようなイメージをこの言葉からは受けます。ところが「ムッソリーニは個人独裁でした」と言っている人々は、ムッソリーニはほとんど何も決められていないとも言うわけです。個人独裁という言葉を使っているにもかかわらず、ムッソリーニは思い通りに決定できていないのだということも言っているわけです。この引用文は4ページの真ん中辺りにあります。ムッソリーニ自身が身近な人に雑談で語った言葉だというのですが、このような話です。そのままの訳は少し堅いのですが。並立し、敵対する勢力同士の衝突が起きないような、まずまずの均衡を求めて私がしてきた努力を想像できるかね。彼らは互いに妬み合い、不信感を抱いていた。政府、党、君主制、ヴァティカン、軍、義勇軍、知事、[党の]県連書記、大臣、[労組の]総連盟のラスたち、巨大な独占利益などなど。よく分かるだろう、全体主義の消化不良(le indigestioni del totalitarismo)だよ。私が[19]22年に留保なしで受け取らなければいけなかった遺産が全体主義に溶け込むことはなかった。「敵対する勢力同士が衝突しないような、まずまずの均衡というのを求めて、私が努力してきたのが分かるかね」というのです。彼らは互いにねたみ合い、不信感を抱いていた。政府の連中等、国王周辺、教会、軍隊、それから義勇軍という軍のようなもの、各地の県知事、党の県連書記、大臣、労働組合のボスたち、それからその他経済関係やいろいろな独占集団。これはムッソリーニの言葉ですが、結局全体主義の消化不良だ。私は22年――政権ができたとき――に、いろいろなものを全部ひっくるめで受け取らなければいけなかったが、結局それが1つに溶け込まなかった。その対立がずっと続いて、自分はそれに苦しめられてきた、と。個人独裁だと言っておきながら、ムッソリーニ自身がこのようなことを言っているわけです。イタリア・ファシズムというと、ムッソリーニの印象が非常に強いわけです。というよりもムッソリーニ以外に何があるのかほとんど知られていません。とにかくムッソリーニが前面に出ています。ナチズムといわれればヒトラー以外にも何かいろいろ、あんなもの、こんなものとイメージがわくのですが、イタリアはムッソリーニ以外のイメージが出てきません。だからムッソリーニ主義、個人独裁といわれるのですが、それは彼が全部決めていたという意味ではなくて、彼はあまり決められていないことが多いのだけれども彼のイメージが強い、ただそれだけのことです。

 ということは、個人独裁と言いながら全部決められていないので、個人独裁としても「中途半端」なのです。全体主義としても「中途半端」、個人独裁としても「中途半端」です。「中途半端」だという一貫性のない議論が何十年間も研究者の間で行われ、これこそがイタリア・ファシズムだというイメージとして定着してきました。ですから、よその国の研究者は当然それを参考にします。独裁の比較研究で有名なリンス(Juan Linz)という人がいます。スペインの研究者ですが、この人は独裁を分類しました。先ほど説明したNHKを例にした3つです。彼は『全体主義体制と権威主義体制』という本を書いて独裁を分類しました。ドイツ、ソ連のような全体主義体制は、国民をマルクス主義や反ユダヤなど特定のイデオロギーに基づいて積極的に動員する、ある方向に動かそうとします。でもアジア、アフリカ、中南米の権威主義体制というのはそうではない。国民を動員しない、消極的です。むしろ国民を政治から遠ざけて、安定した社会をつくろうとする。

 イタリアはどちらでしょうか。リンスはこう言いました。動員型権威主義体制です、と。動員しないのが権威主義体制ですと言った直後に、イタリアは動員型権威主義体制だとリンスは言ったのです。明らかに何だかよく分からないことが起きているわけです。それは結局リンスが悪いのではなくて、彼が参考にしたイタリア研究者がこれをうまく説明できなかったのです。イタリア研究者の責任という面がありまして、イタリア研究者がうまくムッソリーニのことを説明できなかったので、他の地域の人が混乱した状況になってしまい、それが長く続いています。つまりムッソリーニは個人独裁だというイメージはあるのですが、実はその意味はよく分かっていないわけです。

 4の2[「不完全な全体主義」から「全体主義は不完全」へ]に入ります。そのいっぽうでイタリア・ファシズムは全体主義であるということを言う人もいました。そもそも全体主義という言葉はイタリア生まれです。1923年5月、ジョヴァンニ・アメンドラ(Giovanni Amendola)という人がファシストを批判するために「連中は全体主義的(totalitario)だ」という言葉を使ったのが、この言葉の初出だとされています。その後ファシスト自身が、その言葉を自分たちの特徴を示す言葉として借用するというか、使うようになったということです。これはイタリア生まれ、イタリア・ファシズムを指す言葉だったわけですが、その後「全体主義といえば」というのは、お株はドイツやソ連に奪われて、イタリアは全体主義ではないという人が増えていきました。そうは言っても、ファシストは失敗したが何らかの形で全体主義を目指していただろうということを、何となく思っている人は多かったわけです。先ほどご紹介したアクアローネという人の本も『L'organizzazione dello Stato totalitario』(全体主義国家の建設)ですから、全体主義国家をつくろうとしたのだということだけは分かるわけです。

 やがてそこをもっと強調しようという人が出てきます。ただ、それはある意味涙ぐましい努力でもあります。最初にこの方面に手をつけたのは、4ページの下のほうのジェルミーノ(Dante L. Germino)という人です。これを説明するのは少しややこしいのですが、彼は全体主義という言葉自体を見直します。全体主義というと、われわれはヒトラーやスターリンなど、あのようなすごい、かっちりと全部そろっているものを念頭に置きます。でも、そもそも100パーセントの全体主義などありえない。やりたいことが100パーセントできることなどありえません。だから少し定義を変えましょう。ある政権が全体主義を目指し続けて、それに向かって邁進して政策を遂行しているならば、それは全体主義体制と呼んでいいのではないか。目指しているものが全体主義だ。完成していなくても、それを目指していればいいのではないかというのです。

 というと皆さんはだまされた気になるかもしれませんけれども、例えば民主主義もそうなのです。100パーセントの民主主義はなくて、常に民主化が必要だから、「民意が」とか「住民投票が」という話が出てくるわけです。100パーセントの民主主義はないけれども、今の日本は民主主義ではないかといわれると、まあ民主主義だと多くの人は思います。100パーセントではなくても、それを目指してある程度何パーセントか達成されていれば、それは民主主義と呼んでいいと普通は考えるわけです。

 ジェルミーノが言っていることも、要するにある程度全体主義っぽくて、全体主義を目指し続けていれば、それは全体主義と呼びましょう。苦肉の策ではありますが、そういうことを言い出した人がいたわけです。ただ彼はしばらく孤立していたのですが、やがて研究の流れが変わってきます。どう変わったかというと非常に簡単な話です。みんなが1920年代研究をしていたのが、それが一段落して、次に30年代の研究を始めたわけです。30年代には先ほどご紹介した代名詞「Lei」を「voi」にするとか、握手は不衛生だから敬礼をすべきであるという話が出てくるわけです。そこで「やはりこれは全体主義なのではないか」という議論が出てくるわけです。

 長い『ムッソリーニ伝』という伝記を書き続けたデ・フェリーチェ(Renzo De Felice)という学者がいます。この人が1930年代後半のことを本に書いたとき、1982年の本[R. De Felice[1982] Mussolini il duce II: Lo stato totalitario, 1936-1940.]ですが、こういうことを言いました。30年代後半に全体主義的な転回(svolta)が起きた。それまでは「持ちこたえる」(durare)――政権が存続する――ことを最優先にしていたのが、「打って出る」(osare)――社会を変える、変革する――というほうに転換したのだ、30年代後半に全体主義色が強まったのだ、転換が起きたのだ、ということを言い出したわけです。

 5ページにいきます。彼の弟子で、今イタリア・ファシズム研究の第一人者であるエミリオ・ジェンティーレ(Emilio Gentile)という人がいます。この人はさらに違うタイプの議論を展開します。95年の本は『全体主義へのイタリアの道』[E. Gentile[1995] La via italiana al totalitarismo.]という、どこかで聞いたようなタイトルの本なのですが、この本ではこういうことを言います。「ファシズムとは全体主義に至るイタリアの道である。1930年代後半に起きたのは全体主義の加速である」と。加速と転回はどう違うか。転回というのは、要するにこうなったものが[断層状に]こうなったという話なのです。加速というのは、ずっと全体主義を目指していて、[直線状のままで]ある日突然ぐっと勢いが強まったという話です。連続性を強調しているのです。昔から全体主義だったが、それがさらに急激に全体主義っぽくなったという議論になっているわけです。エミリオ・ジェンティーレは、イタリア・ファシズムは最初から全体主義でしたという議論なのです。

 その全体主義とは何か。彼によれば、私(privato)を解消することを目指す、要するに個というものをなくしてしまう、そうしようとする政治的な実験である。一言でいうと被治者・国民を従属し統合し、そして同質化する。先ほどの議論でいうと「みんながNHKを見たいと思えばいい。同質化、同じような考えをする人間にしよう」ということです。「新しいタイプの人間を創出するための人類の革命を行うための実験室」である。社会を変えるというか、文化を変えるというよりも人間を変えてしまおう。新しい人間をつくるのだ。ファシストはそういうことを言っているのだ、と彼は言います。

 ただそれは、ずっとそれを目指してやり続ける。多分完成することはないわけです。100パーセントこれが実現することはない。だからそれが分かっていても常にそれを目指し続ける、絶え間なく実験をし続けるプロセスである。全体主義というのはいつまでたっても、その目標は達成されない。ずっと見果てぬ夢を追い続けるものであるから、定義上不完全なのだというわけです。彼の開き直っているとも思えるような議論が、実は今イタリア・ファシズム研究の世界では主流になっています。つまり全体主義というのは完成しない。そこを目指していくプロセスである。見果てぬ夢を見続け、追い続けているのであれば、イタリアのようなところでも全体主義といえるのではないかというわけです。

 これは何が起きたかというと、「イタリアは不完全な全体主義である」といわれていたのを「あらゆる全体主義は不完全なのだから問題ない」と、開き直ったような議論ではあるのですが、そのように組み替えて「やはりイタリアは全体主義なのだ」というように議論を組み替えたわけです。要するにこれは結果で見るのではない。何パーセントそれが実現したかというので見るのではなくて、ファシストは何を目指していたか、そこに注目しましょう。彼らが全体主義――みんなを同質化し、新しい人間にしよう――を目指していたのなら、失敗したとしても全体主義というように判断しましょう。その点でドイツやソ連と同じなのだ、という議論なのですが問題は残ります。「あらゆる全体主義は不完全である。ドイツもソ連もイタリアも不完全だ」と開き直ったところで、不完全の度合いは違うわけです。ドイツやソ連が7割ぐらいなら、イタリアは2割とか3割とか、そういうレベルで差があるわけです。不完全だとしても違いは残るわけで、なんで違うの、どこが違うのでしょうかということを説明しなければいけないわけです。

 長々と説明してきましたが、要するに結局イタリアのファシストは何を考え、何を目指していたのかというところを見なければここは分からないので、次の5[「選択的全体主義」]というところから、ファシストの考えを見ていきます。5の1[ファシストの多様性]――ファシストの考えを見ていくというのですが、実はこれが簡単ではありません。研究者は恐らくこう言います。ファシストの考えには体系性がない。100人いれば100通りのファシズムというものが存在する、と。その通りなのです。なぜそうなるのか。思想の体系性のなさ――よく言えば多様性ですが――、それは結局ファシストというものが多様だから、ファシストが多様だからファシズムの思想がそれを反映し、多様になっているのだということです。なぜかといえばファシズムというのには多様な勢力、多様な思想が流れ込み、そのままそれが渾然一体となり残っています。それら全体をひっくるめてファシストとかファシズムと呼んでいるから、結局ファシストの考えというのは一言では言えないわけです。

 何が流れ込んでいるのか。5ページの下のほうです。①[合理主義に対する反発]、これは19世紀の末ぐらいから合理主義に対する反発――、これはイタリアに限った話ではありませんで、いわゆるアヴァンギャルドやフロイト(Sigumund Freud)などそういう話です。いわゆる理性や合理的なもので説明のつかないものがあるはずだ。もっとどろどろしたものや、意志の力や暴力など、そういうものを見なければ人間のことは分からない。社会のことも分からないだろう、とそういう議論、考え方が出てくるわけです。合理主義に対する反発、これがファシズムに流れ込みました。つまり前衛的な芸術家や文学者の人々が初期のファシズムには参加していたわけです。

 それからもう少し政治的な話になりますと、②「イタリアの既存の政治勢力に対する反発」です。こちらの研究会でも多分お話が出ていると思います。リベラーリ(liberali)といいますが、自由派と訳される統一以来の支配勢力です。自由派というのはどのような人々であったかというと、これもまとまりがないわけです。いわゆる今の先進国の政党というもののようにかっちりとしていて、一つの綱領や政策にのっとってというのではなく、その都度政府に賛成する、反対するということで政府はそれを取り込んでいく。当然そこでは利益分配、金とコネに基づいた政治が行われていた。そういうことに対する反発というのがあったわけです。ただ、その反発には当然マルクス主義・社会主義者の反発というものがあります。社会の仕組みを全面的にひっくり返す、革命を起こすというやり方もあるわけですがそれとは違う形で、社会主義的ではない形で今の政治を変えようという人々がいた。それが②です。彼らもファシズムにやってきます。

 ③「ナショナリズム」です。イタリア北東部、ハプスブルグ帝国の領内の人もイタリア語を話しました。いわゆるイレデンティズム(Irredentism)ですが、イタリア・イレデンタ(Italia irredenta)――イタリア領になっていないイタリア――そこを回復しようという運動です。それもファシズムに流れ込んできます。この①②③、この辺りが中心になって第一次大戦への参戦、ドイツ、オーストリアと戦うべしという運動が起きていきます。オーストリアと戦って、イタリア語の話者の住んでいるところ、当時の文脈で言えば、例えばトリエステの辺りですとか、今のアルト・アディジェ(南ティロル)など、あの辺を取り返し民族問題を解決しようというのと、戦争が起きれば社会が変わる。それで現状を打破する、政治も変わるという期待で、ドイツ、オーストリアに宣戦しようという運動が起きてきました。

 そして政府がそれに乗る形でイタリアは参戦しました。しかしそこから④[第1次大戦からの帰還兵の不満]が出てきます。戦争が終わった後で、またファシストに、ファシズムにやってくる人が出てきます。④はこういうものです。第一次世界大戦から帰ってきた帰還兵の不満。これはどの戦争でも起きますが、国のために戦ったのに待遇が悪いし、社会復帰、例えば再就職などが難しい、こういう人が不満を持つわけです。1919年、ムッソリーニがfascio di combattimento(戦士のファッショ;戦闘ファッシ)と呼ばれるものをつくったときには、この①から④の人々が主たる勢力でした。芸術家、文学者、あるいはかつて社会主義者だった人々などかつての改革勢力――ムッソリーニ自身も社会党の機関紙で編集長をやっていた社会党崩れではあるわけですが――であったり、帰還兵など。ただ、こういう勢力ですからあまり広がりはないのです。ファシスト運動が成長していくのは20年以降で、ムッソリーニの運動と少し違う文脈で――ムッソリーニの運動はミラノでしたが――ポー川のほうです。北東部からポー川のほうで別の文脈でファシズムに流れ込んでくる人が出てきます。それが⑤です。

 ⑤「中間層の不満」です。中間層というのは自営業者と自作農(自分の土地を耕している人)、あとは大規模な小作農などです。土地を借りているのだが、大規模に土地を借りて人を使って耕している、そういうタイプの人々のことを念頭に置いてください。実は中間層というのは一般的に言って、まず富裕層や経営者に不満を持っています。つまりスーパーに対して商店や自営業者が反発するという構図です。大企業や大地主と中間層というのは折り合いが悪いわけです。一方で中間層――自営業者、あるいは人を雇っている借地農――、これは当然人を雇っているから労働組合や労働運動との関係も悪いわけです。上から小突かれ、下から突き上げられという状況です。その不満が爆発したという考え方です。ファシズムとは中間層の階級闘争である、と。階級闘争というと労働組合のことばかりを考えますが、中間層が上と下に対して戦いを挑んで、そういう人々がファシズムにやってきたのだということです。

 なぜ中間層が階級闘争を起こさなければいけなかったかというと⑥[社会主義勢力への恐怖・反感]です。社会主義勢力への恐怖や反感が背景にあったのです。1919年から20年ごろはロシア革命の影響で、イタリア各地で労働運動や農民運動が荒れ狂いました。そして幅広い人々が社会主義勢力や労働運動に反感を持つようになりました。経営者や地主は当然財産を没収されそうになるわけで、そういう反発や不安を抱きます。一般市民も反発する場合があったわけです。例えばストライキを頻繁にされるというのは不便であり迷惑であるという反感、あるいは一般市民の中には経済的自由、経済活動の自由というものを重んじる人がいます。ストライキなどの形で力ずくで経済活動をゆがめるというのは経済的な自由を侵すもので、それはよろしくないという理屈っぽい反発もあったわけです。

 それから第一次大戦から帰ってきた兵士が社会主義に反感を持ちます。なぜ反感を持ったのか。自分たちは戦場に送られて過酷な体験をして、帰ってきてもろくなことがない。一方、労働組合の人々というのは、工場で軍需生産をしなければいけなかったので、戦場に行かずに済んだ場合が多いのです。国のために戦場に行った自分たちはあまりいい目を見ていないのに、戦場に行かないで工場で働いていた連中が賃上げを要求してストライキをやっている。あんな愛国的でない連中はけしからんということになったわけです。

.①から⑥までいろいろな人がいたわけですが、これが全部ファシズムに入ってくるわけです。しかもそれが渾然一体というか、少しも整理されずにそのまま流れ込んできます。しかも厄介なことに、ファシスト運動というのはできたときはどうなっていたかというと、ミラノにムッソリーニの本部があるのですが、それと関係なく、この運動にインスピレーションを受けたといいますか――ファッショというのは団体、何とか団という言葉ですから、そういう意味で勝手につくってファッショと名乗ってもいいわけです――、ムッソリーニと関係のないファッショというものも結構ありました。つまり各地でムッソリーニと関係があるのかないのか分からないファッショが雨後の筍のようにできていったわけです。

 ミラノはこれらの運動と何となく関係を持ってはいるのだが強引な指導はできない。どちらかというと対等です。ムッソリーニが率いるというより、ムッソリーニにインスピレーションを受けていろいろな運動が盛り上がっていったのです。「勝手連」と書きましたが、そのような形だったわけです。だから共通のプログラム、政策、綱領もないのです。地域ごとに状況が違うわけです。例えばカトリックはどちらに付いたか。ヴェネトやロンバルディアのようなところではカトリックの農民運動が地主を突き上げているところが多かったわけです。その場合は、ファシストが地主と組んでカトリック勢力をたたきつぶしに行くというところもあったわけです。

 一方でエミリアやトスカーナ辺りではどうなるか。社会党系の労働運動や農民運動が地主を突き上げていたわけです。カトリック勢力には「社会主義勢力はけしからん」ということで、むしろファシストと組む人もいたわけです。ファシストとカトリックが組んで社会党をたたきつぶしに行く。各地の情勢に応じていろいろな人が入ってきていますから、全体として何だかよく分からないことになるわけです。

 ある地域では共和党の出身者がファッショの中心にいます。ある地域では共和党とファシストが激しく戦い合っています。全体として一つの綱領やプログラムにまとめようがないということになったわけです。強いて最大公約数的に言うと、愛国主義的な反社会主義勢力の大同団結なのですが、「反」(アンチ)の連合という言い方があります。反社会主義で――何かをしたいから一緒に協力しようというのではなくて――「連中はけしからん」と思う人々が一緒に集まっているわけですから何の共通点もありません。先ほどので言えば、①の合理主義に反発している前衛芸術家と、⑥の秩序を乱すのはけしからんと思っている地主などが手を組めるかというと多分何の共通点もないわけです。そういう人たちが一つの運動になったのがファシズムです。

 もちろんこのような芸術家たちは、やがてファシズムから離れていったりもしたのですが、いろいろな勢力が流れ込んだという特徴はそのまま残ります。現状維持、復古を目指す人々と、現状を打破し改革し若者中心の社会をつくろうなどという人々が両方いて、それがせめぎ合うということが、ファシズムが生まれてから崩壊するまでの二十数年間ずっと続いたわけです。

 エミリオ・ジェンティーレは権威主義的ファシズムと全体主義的ファシズムという言い方をしています。「秩序を維持するために独裁をつくって、それで終わり」と思う権威主義的ファシズムと、「独裁ができてそれを足がかりにしてイタリア社会を変えていこう、現状を打破して新たな世界をつくろうという」人々[全体主義的ファシズム]と、この両方が一緒にファシズムというところでやっていました。この2つが争っていたというわけです。しかしせめぎ合っているといっても、実際に行われる政策というのは何らかの形で決まっていくわけです。それはどのようにして決まったのか。やはりムッソリーニがあまり物事を決められなかった、思い通りにならなかったといっても、ムッソリーニ抜きでは話ができませんので、ムッソリーニが何を考えていたかということを見ていきたいというのが6ページのところです。選択的全体主義[5.2.「選択的全体主義」とその論理]です。

 ファシストの考えがよく分からないということにプラスして、ムッソリーニの考えというのもよく分かりません。実はドイツやソ連と少し違うところがあるのです。例えばソ連はマルクスやエンゲルス、レーニンの著作など、言ってみればお経や聖書に当たる正典――これがうちの国の基本理念の本ですというもの――があるわけです。ドイツにもヒトラーの『我が闘争』というものがあったわけです。それがどう位置づけられているかなど難しい問題はありますが、しかしそのような本があります。ムッソリーニはどうか。本は結構出版されました。でも体系的かとか、理論として一貫しているかというと少し違います。

 先ほどの話ですが、「ファシズムというのはムッソリーニのことで、ファシズムに体系性がないのはムッソリーニがそういう人間だったからで、それが一つの表れだ」と言われるわけです。ムッソリーニの著作というものにも一貫性がない。だからファシズムというのも全体としてよく分からなくなる。ただムッソリーニが悪いのかというとそうでもない。ムッソリーニの人格的な問題だけでは片付けられないわけです。

 そもそもファシズムというものには最初から理論を重んじない、行動を重視するという傾向がありました。合理主義、理性や合理的なものへの反感から始まっています。戦場で戦った人々というのも、そういう意味では行動というものを重視する人々です。従って理論の一貫性ということはあまり重んじない。体系化を必要と思わない人々が多かったということがいえるかもしれません。

 しかしもう一つ、「これこそがファシズムの理論です」ということをはっきり決めて、それに縛られるというのは得策ではなかった、ムッソリーニがそれを嫌ったのではないかというところもあるわけです。そのことを考えるときに参考になるので、一つ演説を見ていただきたいと思います。本当はもっと長いのですが抜粋してあります。27年5月の「昇天祭」演説といわれるものです。正式には内務省の予算に関する、首相兼内務大臣ムッソリーニの演説なので、本当はいろいろ予算絡みのこともあるのですが、そこを全部端折るとこのような演説です。


イタリアのあらゆる反対派がつぶされ、散り散りにされ、終わりを迎えた。粉々だ。カトリック活動団のような重要な集団は体制に同調の動きを示すに至った。[中略]健全な政治体制の作動に反対派など必要ない。ファシスト体制のような全体主義体制では、反対派は馬鹿げた存在であり、余計なものである


反ファシズムは終わった。27年に反対派は全部非合法化された。イタリアのあらゆる反対派がつぶされ、散り散りにされ終わりを迎えた。粉々である。カトリック活動団、カトリック系の団体、このような重要な集団は体制に同調の動きを示すに至った。健全な政治体制の作動に反対派など必要ない。ファシスト体制のような全体主義体制で、反対派などばかげた存在であり余計なものであると、彼は議会でこのようなことを述べているわけです。反ファシズムはもういい、役に立たない、と。各県の知事と党の関係という、伝統的には有名な論点もあるのですがそれは省略します。

 次は体制の諸力(le forze)というところの話です。


「体制は全体主義的である。だが歴史上、最も広汎な合意を得た体制である」

「この体制は、100万の個人を擁する党、100万の青年、そして完成・洗練に向かい、組織化されつつある何百万ものイタリア人に立脚した体制なのである。」


基盤として各種組織を持っており、それは重要なことで、この体制は全体主義的である。歴史上最も広範な合意を得た、幅広い基盤がある、そういう体制である。その基盤とは何か。この体制は100万の個人を擁する党――ファシスト党です――、100万の青年――その他に青年団体がある――、そして完成・洗練に向かい組織化されつつあり、何百万人のイタリア人に立脚した体制なのである。このような人々を組織に抱え込んで、それを基盤にしているのだと誇るわけです。

 具体的に言うと、まず①政府があり、それから②ファシスト党である。ファシスト党というところでこの議論が出てきます。


「では、どうやって党に精気を与えればよいのか?それは青年によってである。」

「党は10年で刷新される。こうして、いつの日か、閣議に28歳から30歳の議長[首相]が登場するようになるだろう。」


青年を重視しなければいけない。――青年が大事なのです。当時ファシスト党への入党はいったん止められていました。[ファシストが政権を握ったので]そういう意味で日和見的な人が入ってきます。だからいったん日和見的な人間の入党を止めるために、大人は入れないという時期があったわけです。但し若者は入れる、例外だというのです。――それはファシスト党を活性化するためである。党に精気を与えるには青年が必要であり、青年を毎年入党させていけば党は10年で刷新され、いつの日か20代から30代ぐらいの首相というものが登場するようになるであろう、と。ちなみにこの時点でムッソリーニ自身も40代半ばですから総じて若いのですが、もっと若返ると言っているわけです。

 それから③は国防義勇軍です。軍・警察の補完的な役割を果たす、ファシストの準武装組織というように思ってください。ここでも若者が強調されます。


下から、このようにして戦士の世代がつくられているのである。命じられたから従うだけの兵士ではなく、それが自らの望みだから戦うという兵士の世代である(場内、喝采)。


軍事教練をやった結果、下からこのようにして戦士の世代がつくられている。命じられたから従うというそれだけの兵士ではなくて、自らの望みだから戦うという兵士の世代が現れてきている。それは彼らの情熱であり理念なのだ。歴史上勝利を収めた軍隊というのは大体その理念を報じていた軍隊で、われわれは今理念を奉じる軍隊をつくっているのであるという議論です。そして青年がそれを担っているのだ、と。

政府と義勇軍、そして④労使の組合――労働組合と経営者団体――です。日経連のような経営者団体を組合というのは少し違和感があるかもしれませんが、当時の言葉使いでは両方組合です。当時のイタリアでは労働組合、使用者側の組合の両方で各業種について1個ずつ政府が公認しています。それが例えば賃金協定や、地域ごと、県ごとの経済政策などで話し合って政策を進めていくというやり方でしたので、労使の組合というのは統治の一翼を担っていた重要な存在だったわけです。ただ工業労働者はあまり参加していません。社会党やカトリック系の人もいましたが、これらの他の労働組合に入っていた人を取り込むことができていません。でもムッソリーニはこの演説ですごい楽観論を述べています。


明らかなのは、我々が生命の宿命的な法則によっても助けられるはずだということである。戦争を理解せず、ファシズムを理解しなかった頑固者の世代は、時が来れば自然の法則によって除去される。青年が育ってくる。我々がバリッラやアヴァングアルディーア[ファシストの青年組織]に集めている労働者や農民が育ってくる。


明らかなのは、われわれが生命の宿命的な法則によっても助けられるはずだということである。戦争を理解せずファシズムを理解しなかった頑固者の世代は、時が来れば自然の法則によって除去され、いなくなる。何十年かたてば上の世代はいなくなって青年が育ってくる。われわれが青年組織に集めている、労働者や農民が育ってくるのだ、と。青年にものすごく期待している、楽観的な議論なのです。

 そのいっぽうで、年長者の世代を彼は「頑固者の世代」と呼んで、年長者の世代に対してはすごく悲観的です。彼が言っていることはこういうことです。ファシズムは上の世代に一切アピールしませんということを、ムッソリーニは率直に議会で言っているわけです。ある意味これはまずいのですが、彼はそれでも何とかなる、将来的には若者がやってくればいいので、何十年かたてば青年がファシストとして育ってきて、全国民がファシストになるという期待を述べているわけです。

 青年に対する期待、そして上の世代に対する悲観的な見方というのが非常に色濃く出ているわけです。ムッソリーニはここからどのような結論を導くのか。持ちこたえること(durare)が重要である。先ほどデ・フェリーチェのところで、政権存続(durare)を優先するのではなくて打って出る(osare)、社会を変えるということに、30年代後半に転換が起きたのだということをご紹介しました。durareというのはムッソリーニがよく口にする言葉なのです。彼はこう言っています。


指導階級は現れ始めている。実際、9千のポデスタ(podestà)[任命制の自治体首長]、2千の義勇軍将校、さらには幾千ものファシスト組織家がおり、将来、指揮の職務を担うことができる。5年後には自分の仕事の大部分が達成されているだろうと思ったこともあった。だが、諸君、そうではないと自分は気づいたのだ。ここにあるのが1冊の本であるということを認めるように、自分はこのことを認めるつもりである。このことに対しては共感することも反感を抱くこともない。自分はこう確信している。指導階級は形成されつつあり、よりいっそう自覚的になった人民には規律が見られるにも拘らず、あと10年から15年は自分がイタリア国民を統治する任務を担わなければならないのである。そうしなければならないのだ。まだ自分の後継者は生まれていないのだから(拍手喝采、鳴りやまず)。


ムッソリーニが言っていることはこういうことです。問題は時が解決してくれるので、上の世代がいなくなって青年が育ってくるのを待たなければならないが、それさえ待てば全国民がファシストになるのだ。しかしそれまで時間を稼がなければいけない。「これまで同様にdurareが今後の標語である」。彼がdurareということを何度も口にするのはこういう理由です。ファシストの政権が10年でも20年でもいいのですが長期間存続し続けることによって、上の世代がいなくなり、全国民がファシストになるので、それまで頑張らなければいけないというのが彼の構想だったわけです。

 つまりムッソリーニの戦略はこういうことになります。政権の存続を最優先する。そして青年にファシズムを教え込みながら、彼らが年を取り、育ってくるのを待つ。するとやがて全国民がファシストになる。われわれは全体主義というと、ドイツやソ連のように強引に反対勢力をたたきつぶすとか、抵抗するものはシベリアに送り込むとか命を奪うとか、そういうことを考えるのですが、これ[ムッソリーニの構想]はかなり気の遠くなるような全体主義です。何十年か待っていれば全国民がファシストになる。全国民は同質化する。今すぐにやらなくても将来的に全国民は一つになるのだ。それを待とう、と。なかなか難しいですが、これは何なのかと聞かれると、全国民が一つになるユートピアがやってくれば――全国民がNHKを見るようになれば、見たいと思えばユートピアになる――という考え方です。ですから、これはどう考えても全体主義なのです。

 しかし、そのためには何十年か政権を維持しなければいけません。特定の理論に縛られて身動きが取れなくなるよりも、政権存続のために臨機応変に方針を変えられるほうがいいわけです。だからムッソリーニの下では特定の方針というものが打ち出されることがなく、臨機応変に方針を変え、いろいろなことが曖昧に済まされたわけです。これが先ほど説明した、ムッソリーニがいいかげんな人間であって一貫性がないという――もちろんそういう面もありますが――、それが実質的に意味を持ったのはこういう理由なのです。一貫性がないほうが得策である。政権が長持ちし、若者を育てる上で一貫性がないほうが得策なのだということもあったわけです。

 さて問題は――若者にファシズムを教え込んで待っているとして――、「頑固者の世代」と彼が呼んだ年長の世代はどうするのか。ムッソリーニは先ほど言いましたように、ファシズムは彼らにアピールしないとはっきり言ってしまっています。ですからそこはあきらめています。彼らは単に統治に協力してもらえればいい、抵抗しなければいいのです。思想改造なども積極的な動員もない。要するに仕事をして、特に抵抗しない。生産や労働に従事して、国民として普通の仕事をやってくれればいいのだ。それ以上強引なことをすれば、彼らは反発してくるかもしれない。そうすると政権の存続が危ぶまれ、durareができなくなります。

 若者が育つのを待つためにはしこりを残さないようにといいますか、もめ事を起こさないのが一番いい、無難にいこうというわけです。反体制的な活動は取り締まるが、それ以外の人々は放置していたほうがいい。つまり青年に対しては全体主義的に教育、動員を行い、ファシズムの考え方を教え込んで一つにしていこうとします。上の世代については権威主義的で、先ほどのNHK以外は映さない、見たくなかったら寝ていてくださったほうがいいと、そういうタイプです。寝ていてください、と。仕事はしてもらいたいのですが、それ以外は放置しておきます。もめ事を起こさない、衝突を回避するというやり方になります。つまり世代によって対応が分かれるわけです。若者はファシスト化、年長者は放っておくということです。

 これは実はデ・グラツィア(Victoria De Grazia)という人が言った選択的全体主義という考え方と非常によく似ています。デ・グラツィアの選択的全体主義とはこのようなものです。彼女によれば、イタリアのファシストは自分たちの支配に脅威を与えないような集団は規制しなかった。要するに自分たちに対して貢献してくれる見込みのないような市民生活にはコントロールを拡大しなかった。例えば危険な政治的なサークルであるとか労働運動などについては厳しく取り締まったり組み込んだりしていくけれども、合唱サークルまで取り込む必要はないということです。危険性がない、貢献してくれる見込みのないものは放っておく。つまり介入していくところと、介入しないところを分けていた。介入するところは徹底的に介入する、放っておくところは放っておく、そういうやり方だったのだとデ・グラツィアという人は言ったわけです。先ほどご紹介した話はこれに似ているわけです。若者には徹底的に介入し、年長者は危険でなければ放置するというわけです。

 「不完全な全体主義」としてずっとご紹介してきた話というのは、要するに国民の一部、若者や意味のあるところだけに徹底的にファシズムを注ぎ込み、たたき込んで、あとは放っておくということです。一見おかしいのです。普通に考えれば、全国民をファシストにしたければ全国民にファシズムを教え込まなければいけません。でも、イタリアではなぜか一部の人間だけをファシスト化すれば、そのうち全員がファシストになるということに気が付いた人間がいたのです。非常に分かりにくいのです。やっていることは短期的には国民を放っておいて全体主義的ではないのですが、長期的には全体主義になると思っている、そういうタイプのものだったわけです。

 しかしここで疑問が出てきます。「頑固者の世代」(年長者)を放っておかないで、そこと対決してもよかったのではないでしょうか。例えばソ連の人々は青年を重視しました。青年を育てて、将来共産主義のユートピアをつくるというようなことを言っていましたが、旧世代を放っておいてはいません。思想教育を行ったり、少しでも怪しい人は逮捕したりと、かなり強引ではなかったか、と。ソ連では多くの犠牲が出ています。旧世代を放置しないで、ソ連のようにやってもよかったのではないでしょうか。いいかどうかはともかくとして、そのようなやり方もあったのではないか。なぜイタリア人はそこを放置したのでしょうか。

結論から言うと意外な話になります。ファシズムは敵をつくりたがらない、ファシストは敵をつくるのを嫌うのです。一般的にファシズムやファシストについては好戦的なイメージ、けんか腰であるというイメージを持っている場合が多いわけです。敵との対決が大好きなイメージです。ところが、実はファシズムというのは国内には敵をつくりたがらない傾向があります。敵の設定の仕方が、社会主義――ソ連のようなところ――と、ファシズム――ドイツ・ナチズムもですが――はやり方が違うのです。ソ連などの社会主義、共産主義、マルクス主義の考え方では、各国民がいて労働者と資本家は対立しますが、労働者同士は国際的に連帯できるというのです。敵は国内にいて、[労働者同士で]国際的な連帯をしようという、これが社会主義で、インターナショナルの考え方です。

 しかしファシズムは違います。国民はみんな団結して一部の「非国民」だけをたたきつぶそうとするのです。みんなで団結して非国民をたたきつぶそうという考え方なのです。ドイツもそうです。ゲルマン民族で団結してユダヤ人をたたきぶつそうというわけです。独伊は組んでいますけれども理論上は同じではありません。イタリア人はゲルマン民族ではないですから、ここ[ドイツとイタリアの間]は切れているのです。つまり社会主義の場合は、敵は同じ国民の中にいる資本家である。そして万国の労働者が団結するという考え方です。ファシズムやナチズムは同じ国民の中で極力敵はつくらないで、一部の「非国民」だけを敵と見なします。要するに民族ごとのまとまりになりますから、国境を越えた連帯というのは基本的には起きないわけです。

 これはイメージとは違うかもしれませんが、よくよく考えてみるとこうです。先ほどご紹介した通り、ファシズムというのは愛国主義的な反社会主義勢力、大同団結なのです。彼らは何を言ったか。社会主義者のような労使の階級闘争というのは国民の団結をぶち壊す、国民を分断するのでよくない。労働者も資本家も手を取り合って協力して――労使協調――国力の増大に努め、生産力の向上に努めるべきである、と。要するに決められたパイを労使で取り合うのではなくて、労使で手を組んでパイを増やして、両方とも豊かになろうではないかという考え方です。

 つまり国民同士で敵対しないで協力すればみんな豊かになれる――専門的に言うとパレート最適を目指すという言い方になるのですが――、そういう考え方です。つまり国内になるべく敵をつくらないでみんなで団結しようという考え方なのです。「一部の非国民、マルクス主義の連中は階級対立、労使は敵対すべきだみたいなことを言って国民を分断しようとしている。あいつらはモスクワの手先だ。けしからん」という話になりますので、社会主義者は「非国民」呼ばわりをされてつぶされますが、その他はみんなで団結しようではないか、協力しようではないかというのが、ファシズムなりナチズムなりの基本的な発想です。

 幅広い人がみんなで団結しようとなりますから、国内に勝ち組と負け組の格差が生まれるのを――団結できなくなりますから――非常に嫌うわけです。つまり多様な勢力が流れ込んだファシストは負け組がその中に出ないようにしたわけです。だから一部の勢力だけが極端に不利益を被る、一部の人だけが損な政策というのはなかなか取りにくかったのです。ファシズムというと、すぐに好戦的で敵をつくりやすいとか、断固として何かをするというイメージがあるかもしれませんが、一般的なイメージに反して敵をつくろうとしないし、実際の政策は現状維持とか無難な落としどころに落ち着くことが多かったわけです。

 「頑固者の世代」の話ですが敵をつくらない。だから旧世代を強引に組み込んでいくというのは、敵をつくる、増やすだけですから、それは避ける。協力してくれるならそれに越したことはないから、おとなしくしていてくださいという形で無難な落としどころに至った。それが選択的全体主義だったり、旧世代の放置という話になるわけです。

 次は7ページの下のほうの「5.3.ファシズムと「自由」」というところに入ります。ムッソリーニは年長の世代、「頑固者の世代」はファシズムなど受け入れない、ファシズムは彼らに全くアピールしないという悲観論でした。その結果、年長者を放置したわけです。ところがファシストの中には全く逆の楽観論から、年長者には活動の余地を認めるべきだという議論になった人がいました。ある程度人々に自由を与えなければいけない。ファシストが「自由」というものに――カギカッコ付きですが――積極的な意義を見いだした場合があるわけです。2人ご紹介します。顔写真は最後の12ページにありますから後ほどご覧いただきます。

 1人目は、写真は真ん中だったと思いますがボッターイ(Giuseppe Bottai)という人です。この人は労働関係や教育関係、文化関係のほうの仕事を歴任していました。青年の文化活動、雑誌や各種コンクールを主催して青年の活動の支援者として有名でした。もちろん彼も青年は大事だ、青年をファシストにすることが大事だと言っているわけです。そこはムッソリーニと同じです。ただ彼は、暴力はよくないという考え方です。もちろん敵がいるときは彼も暴れ回りました。でも敵はいなくなったのだから暴力はやめましょう。破壊よりも建設が大事であり、言論活動が重要で、新しい文化をつくりましょう。彼はファシスト革命が「知の革命」であると言います。人々の意識を変えなければいけない。つまり先ほどの例で言えば、NHKを見たくなるようにという、人々の考え方を変えていくことでいい社会をつくろう。ただそのときに、考えを一方的に押しつけるのではなくて、自由な議論を奨励しなければいけないと、彼はこう言うわけです。強制はむしろ逆効果ではないか。何かを教え込むと反発されるので、自由な議論をすることによってファシズムは正しいのだということ、ファシズムの正しさを納得してもらうべきである。彼の議論にはたびたび自由という言葉が出てきます。例えば権威と自由は両方必要だというのです。自由なだけでは世の中は成り立たない。権威、上下関係も大事です。


「権威の概念が人民の中に徐々に移ってゆき、その意識の中で自由の概念と釣り合いをとることが必要である。」

「自由を廃絶してはならないし、権威自体を否定する危険を冒してもならない。」


権威の概念が人民、人々の中に徐々に移っていく――「徐々に」ですから強引に無理やりというわけではないのです。納得してもらいながら移っていく。その中で自由の概念と釣り合いを取る。上下関係だけでは駄目で、人々には一定の自由が必要である。そうでなければ社会や文化は発展しませんというのです。自由を廃絶してはなりません。権威を否定してもなりません。両方大事です、と。彼はフランス革命の人権宣言の歴史的価値を否定するのは間違いだと、そこまで言っています。自由、博愛、平等は大事なのだということまで言うわけです。

 彼は何を言っているのか。自由な議論をすればファシズムは勝てると考えているのです。変な話ですが、ムッソリーニはどんなに言っても彼らは分かってくれないだろうと、ファシズムの正しさというものに確信を持っていないのです。ボッターイはむしろファシズムは正しいのだから、絶対勝てると思っているから、自由な議論を認めていいというのです。自由を認めたほうがいいというと、一見この人はファシズムや独裁というものに否定的なのかと思うかもしれませんが逆なのです。志操堅固なファシストだからこそ、自由な議論をしてもいいのだというのです。むしろ一定の自由を認めて、ファシストの間でいろいろ活発に議論をしていくことがファシズムの活性化につながるのである。強制はよろしくないと、ボッタイはこういう考え方を一貫して主張します。

 8ページでもう1人ご紹介します。先ほどの写真では一番左だったと思います。アルピナーティ(Leandro Arpinati)という人物です。この人はボローニャのファシズムの指導者で内務次官を務め、サッカー連盟やオリンピック委員会などスポーツ関係の役職を歴任した人物です。彼はボローニャの市長(ポデスタ)としていろいろな政策に取り組んだわけですが、このようなことを言っています。ファシスト党員以外にもファシズムを積極的に宣伝していかなければいけないし、彼らとの連携も行おう。古参ファシストが特権集団化しつつある――権力を取って独裁になったら、どこの国でも共産党員やナチスの党員というのは特権集団になっていくわけです。イタリアでもそれが起きました――が、それはよくない。古参ファシストだけでやっていくのではなくて、きちんとファシズムを理解して協力してくれるシンパを育成しなければいけないし、そのような人の中から新たな党員を募るべきである。古参党員でも堕落した人間は追放して、きちんとファシズムを理解してくれる新しい党員を入れたほうがいいのだ、と。

 8ページの引用の4~5行目です。


ボローニャには大勢の党員がいるわけではない。自分は党員証を本当にささやかにしか付与してこなかった。我々の組織体を過度に大きくしたくなかったのである。我々は1922年には3千人だった。そして、1928年、我々は3千人である。ボローニャ・ファシズムは党員証を持つファシストよりも、ファシズムの友、ファシズムの信者、ファシズムの賛美者をつくろうとしたのだ。


ファシズムの闘争は何よりも人々をこのような[社会主義勢力への]隷属から解放するためのものだった。では、もう闘いに勝ったのだから、ファシズムは同じ過ちを繰り返してもよいということになるのだろうか?とんでもない!


ボローニャ・ファシズムは党員証を持つファシストよりも、ファシズムの友、ファシズムの信者、ファシズムの賛美者をつくろうとしたのだ。幅広い人にファシズムを宣伝して、ファシズムのよさを分かってもらう必要があるのです。過度の抑圧などはいけません、と。独裁になるとどうしても反対派を押さえ込んだり、経済に介入したりということが起きますが、アルピナーティはそれに反対します。われわれは社会主義者がそういうことをやったから、それと戦ったのでしょう。社会主義者がいろいろと労働組合をつくって経済・産業を支配しようとしたから、それをたたきつぶそうとして立ち上がったのではないですか。それなのに、われわれが同じことをやって人々を抑え付けたり、経済活動に介入したりしたら意味がないではないか。われわれは同じ過ちを繰り返してはいけないのだ。われわれはある程度の自由のために戦ったのだから、その自由というのは尊重しなければいけないと、彼はそういうことまで言うわけです。

 そして市内各地に建物を建てて、そこにファシストのサークルというか拠点をつくります。ファシストに対して「大衆の中に浸透していってボランティア活動や、いろいろな文化活動などをしてファシストの正しさを分かってもらおう。一般市民の模範となる活動で人々にファシズムの正しさを分かってもらうように努力してください」と。さらに大学がありますから、そこの知識人を活用してファシスト大学という文化講座を行ったり、新聞を買収したりしてそれを通じて宣伝を行うわけです。ただし露骨なプロパガンダ、ファシズムの正しさだけを訴えかけるということは避けました。

 12ページの最後に新聞の写真があります。これはファシストの新聞の、ボローニャ・ファッショの機関誌の下のほうです。正月の一面に載っていたのだと思いますが、このようなことが書いてあります。「ファシスト諸君、友人諸君、敵の諸君、この新聞[L’Assalto紙]を定期購読しましょう」(Fascisti, amici, avversari abbonatevi a L’ASSALTO)。「敵の諸君」に購読を呼びかけるファシズムは考えにくいですが、実際にこのようなことをやっているわけです。つまり敵であっても金を払って購読してくださいと言っているのです。敵であってもきちんと読んでもらえれば分かるはずだという考え方なのです。読んでファシズムの正しさが分かればシンパになって、改宗して入党してくれるだろうと、そういうことを彼は期待しているのです。これもすごい楽観論です。一定の自由を認めれば、そして宣伝していけばみんなきっとファシズムになびいてくる、改宗してくるはずである、と。すごい楽観論です。

 ボッターイとアルピナーティは確固たる信念を持って、志操堅固なファシストであるが故に、自由を認めればみんな分かってくれると思っていました。少しおかしな人ではないかと思うかもしれませんが、実はこれは決して特殊な考え方ではありません。われわれはこういう人をよく知っています。日本人ではありませんがソ連のゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)です。彼はペレストロイカやグラスノスチと呼ばれる一連の改革で、経済や言論に関する規制を緩和していろいろな自由を認めた人です。彼は何のためにそれをやったか。実は彼は共産党とソ連の立て直しを目指していたのです。一定の自由を認めたほうがみんな共産党の正しさを分かってくれるだろうという議論だったわけです。

 当時ソ連は経済的に行き詰まっていました。経済改革のために自由を認めなければいけないというのもありました。この工場で何か改革しなければいけないのでどうすればいいか改革案を出してくださいと言っても、言論が規制されていると改革案を出した人は捕まるかもしれないわけです。ここを変えたほうがいいと言った瞬間に、上司を批判したと見なされて捕まってしまうかもしれません。そんなところで改革案は出てきません。経済改革のためには言いたいことが言える、改革案が出せるようにしなければいけないというのがまず一つあったわけです。そしてもう一つ、共産党は特権集団化して国民の支持を失った。だから共産党本来の労働者の模範となる集団に戻さなければいけない。綱紀粛正を行った上で党を活性化しよう。そのためにある程度自由な議論を行っていく必要がある。そうすれば共産党員は模範的な人になって、一定程度の自由が認められれば国民も共産主義の正しさが分かってくれてみんな支持してくれるだろう、と。ゴルバチョフはこの2人と全く同じなのです。自分の正しさに確信を持っているから「自由な議論をしても負けない。自由な議論をしてもらえれば、われわれの正しさが分かってもらえる」という感覚だったわけです。

 もちろんゴルバチョフの自由化にも限界がありましたし、ボッターイやアルピナーティのいう「自由」というのは、われわれの考える自由と同じではありません。独裁ですから、ある一線を踏み越えれば捕まるかもしれないし、どこまでがOKでどこからが駄目かというのはこちらには分かりません。当然「反体制」と見なされた人々の自由は一切認められません。そういう意味では自由といってもカギカッコを付けなければいけません。ただ、いったん政権を獲得して、反対派が力を失った状況では自由な議論を認めたほうがいいのだという考えは、それほどおかしなものではなかったのです。

結果として、旧世代、上の世代はファシズムのことなど分かってくれないから、ムッソリーニは旧世代を放置しましょうと考えた。ボッターイとアルピナーティは、分かってくれるはずだから彼らにも自由を与えましょうと考えた。理屈は違うのですが、結果的に一定の活動の余地は残そうという方針になっていったわけです。こうして、一枚岩にがんじがらめにすることに対しては否定的な、そのようなことはやらないほうがいいという結論になっていくわけです。

 ボッターイという人物が文化活動とともに力を注いだのが国制改革、議会の改革でした。その話を5の4[国制改革への反対論]のところで若干ご紹介しておきます。ファシズムは、従来の政治はおかしい、変えようというところから出発しています。国制改革というのは重要な課題だったわけです。共和制にすべきで、王家を廃止すべきではないかという議論もありましたが、これは異論の多い政策は先送りにするという基本方針に則り棚上げされました。そのいっぽうで議会の改革はある程度進みました。当時イタリアの上院は国王が議員を任命するという、日本の昔の貴族院のようなものでした。こちらは手をつけませんでした。こちらに手を付けるといろいろもめますから。そうではなくて一般国民から選挙で選ぶ下院、そちらを改革の対象にすることになったわけです。もめ事の少ないほうを変えたわけです。どう変えるか。

 当時の議論では協同体主義という言い方をしますが、コルポラティヴィズモ(corporativismo)、英語で言うとコーポラティズム(corporatism)です。中世史などでも出てくる言葉ですが当時の文脈では職能代表制――つまり労働組合や経営者団体などいろいろな団体から議員を選んで、国民の選挙ではなくて団体の代表で議会を構成します――、このことを協同体主義という言葉で表現していました。これの推進者は、商法学者で当時司法大臣を務めていたロッコ(Alfredo Rocco)という人と先ほどのボッターイです。2人の言っていることはこうです。近代法というのは民法中心である。ところが資本主義の社会が発展した結果、社会問題、労働問題、福祉などいろいろなものが出てきた。民法中心の体系、私法中心の体系ではこれに対応できないから、社会法、公法、憲法や行政法などを充実させなければいけない。経済問題に取り組むためには、取りあえず労働組合や経営者の団体など、そのようなものを国家の下にきちんと取り込んでいかなければいけない。そういうものが民法上の団体であるというのはおかしいのであり、公法上の団体、国の機関の一部にしていかければいけないのだという話でした。それを最終的に突き詰めれば、何とか業種の労働組合、経営者団体、あちらこちらの団体など、いろいろなところから代表を出して議会を構成するという職能代表制がいいという話になるわけです。

 ロッコとボッターイは最終的には職能代表にしたいという考えだったわけです。ただ当然反対が出てきます。今まで通りがいいのだという保守派、国王周辺の人たちは当然これに反対します。今まで通りでいくべきである、と。ところがファシストの中からも反対論が出てきます。しかも強硬派、他のことではいろいろ変えるべきだと言っている人が、議会には手をつけてはいけないというのです。選挙制議会がいい、と。それを言った人は、先ほどの写真でいうと一番右、バルボ(Italo Balbo)という人です。切手を集めている方は、大西洋横断飛行のバルボ切手というのが有名ですから顔をご覧になったことがあるかもしれません。「ローマ進軍四天王」の一人です。空軍大臣やリビア総督を歴任する一方で、自分で飛行機を操縦して大西洋横断編隊飛行などをしたような人物です。彼は議会を職能代表にしてはいけない、議会は国民の選挙で選ぶべきだと言い張ります。こういう議論です。


改革[職能代表制導入]がファシズムにとって有益であるかどうかは疑わしいが、この改革が不必要だというのは間違いない。国家がすべての人の便益に照らして個人の活動を統制・規律できるようになると言う者がいる。そんなのは幻想だ!市民という政治的基準を階級という経済的基準に置き換えれば、おそらくは現在よりも大きく激烈な闘争が荒れ狂うことになるだろう。


なぜ職能代表制で階級を復活させなければいけないのか。市民という政治的基準を階級という経済的基準に置き換えれば、恐らく現在でも大きく激烈な闘争が荒れ狂うことになるだろう、と。

 何を言っているのか。マルクス主義者、社会主義者は、国民の中に資本家と労働者がいる、敵と味方がいるのだと言ってけんかをあおったのだ。それをなくして全国民が団結できるように頑張ったのはファシストだというのです。それなのに職能代表制で労働者の団体と経営者の団体を分けて議員を選ぶことになったら、また階級というものが復活するではないか。せっかく階級というものをやめて全国民が団結しようという議論をしたのに、なぜ、また国民を階級に分けなければいけないのか、と。これは先ほどのアルピナーティと同じです。われわれが目指して戦ったものはそういうものではないはずだという議論です。われわれは階級闘争というもの、経済的自由を侵害する社会主義勢力を倒すために頑張ったのだ。それなのに、なぜ階級をよみがえらせなければいけないのか。また議会が階級間の闘争の場になってしまうではないかというのが、反対の一つの根拠です。

 もう一つこんなことも言っています。政府が国王に対抗するには、国民が選挙した議会というものが不可欠なのだ、と。文章が長いので後半だけを読みます。


国王に対する政府構成員(governanti)の自由は議会の支え、あるいは――純粋に仮定の話だが――軍事力以外からは生じない。だが、軍が国王の命令に従い、なおかつ議会が存在しないのであれば、政府構成員は実効的な権力を行使する力を奪われる。それだけではない。もう人民に信頼されていないと国王が反駁不能な基準を振りかざして判断した場合には、彼らは何の落ち度がなくても交替させられてしまうのである。[中略]君主制体制の国を永続的に統治したい者は議会をしっかりと支配しなければならないのであって、それを廃止などしてはいけない。それは、議会が均衡と支柱の役割を受け持つ憲法上の力だからである。委員会、技術評議会、協同体議会などというのは、あらゆる権力を国王に結びつけ、政府構成員の自由を粉砕してしまう制度的な策略である。


君主制体制の国を永続的に統治したい者は議会をしっかりと支配しなければならないのであって、それを廃止などしてはいけない。議会は均衡と支柱――つまり国王に対抗する上での役割――を受け持つ憲法上の勢力だからである。国民に選挙されない各種の委員会というか協同体議会などというものは、あらゆる権力を国王に結び付け、政府のメンバーの自由を粉砕してしまう――国王の言いなりにしてしまう陰謀なのだ――、と。

 バルボはファシストの中核的な幹部で、政権を築くときに大きな役割を果たした人です。彼が言っているのはこういうことです。今の政府というものは国王から一応任命はされているけれども、基本的には国民から選挙された議会というものに立脚しています。ファシストが多数派を占めているわけです。このような基盤があるから国王と対等に渡り合えるのです。選挙がなくなってしまったらどうなるか。基盤を失ってしまって国王に負けるではないかというわけです。しかしこれは非常におかしな話です。このモデルは恐らくイギリスです。貴族院(上院)や国王に対抗するために、下院(庶民院)から選ばれた政府をつくって、という議院内閣制ができるときの話なのです。古典的な話をバルボは使っているのです。独裁をつくるのに寄与した人が、国王に対抗するには国民が選挙した議会が必要なのだということを言っているわけです。ファシストがこのような主張をするのは何か裏があるのではないか。当然裏があります。

 職能代表制ではバルボは困るのです。[国民が]選挙する議会というのはどういうものか。彼はフェッラーラのボスですからフェッラーラの選挙区から出て、そこで当選します。ボローニャから出るアルピナーティはボローニャで当選する。地方のボスは自分の地元の選挙区から当選するのが一番簡単です。職能代表になったらどうか。まずバルボは何の組合の人かよく分からないわけで、どこからどうやって議員になればいいか分からないという問題が起きるわけです。

職能代表や、あるいは比例代表名簿のようなものをつくってというやり方で、その名簿に登載された順番に当選するようなやり方では、中央のコントロールが利いてしまいます。 要するに候補者の公認権というものを握られてしまうと動きが取れないのです。[執行部の]意に反して自分で出馬して当選できる見込みのない人は、言いなりにならざるをえないのです。

 地域ごとに議員を選ぶやり方では、上の言うことを聞かなくても地元で当選できます。職能代表などにされたら上の意向でこれが決まるので、自分が議員になれるかどうか分からないのです。「国王に対抗するには」と言っていますが、要するに自分がムッソリーニの意のままにならないためにはどうすればいいかという話なのです。地方のファシスト指導者は、地域から代表を送る小選挙区制のほうが都合がよかったのです。自分の地元で自力で当選できる、こちらのほうが都合がいいという議論だったわけです。だから、言っていることは今の政治家とあまり変わりません。自分の都合にそれがいいのだという議論なのです。

 結果的に何が起きているか。結局、昔の制度でいいですと言っているわけです。強硬派でいろいろな社会の根本的変革を目指して暴れていた人々が、議会改革については国王の言っていることと同じです。保守派の言っているやり方、昔ながらのやり方がいいですと、現状維持にくみしているわけです。

 このようにいろいろお話ししてきましたが結局何が起きているのか。最後に「6.終わりに」というところにいきたいと思います。イタリア社会の変革を目指し、みんなが一つの考えにまとまればユートピアがやってくると言っていた、そういう考えのファシストの幹部たちですが、実際に彼らは現状の維持やせいぜい微修正でいいという考え方、結果になったことが多いわけです。ムッソリーニは青年の政党に期待して、それまで政権が存続することが大事で、durareのためには妥協もやむをえないという考えでした。

 ボッターイとアルピナーティは、自由な議論を認めることがファシズムの活性化やファシスト化につながる。結果的には強引なことはしないということになるわけです。そしてバルボのように、国王やムッソリーニに対抗するには昔ながらの議会のほうがいいのだという人々。ファシストの多くは、結局こういう形で現状維持なり微修正なりにくみしたわけです。短期間で強引に根本的な変革を行うことになりませんでした。だからますます不完全に見えるわけです。不完全な全体主義といいますが、まさにそう見えてしまうわけです。

 彼らは長期的にはイタリア社会や人々の考えを変えようとしているのですが、短期的には何も変えるようには見えません。よく言えば共産党のグラムシ(Antonio Gramsci)がやっていた「陣地戦」のようなもので、地道に変えていったほうがいいということなのですが、一見これは全体主義には見えません。強引に物事を進めるドイツやソ連のようなものが全体主義だろうという見方からすると、これは全然違うものに見えます。でも時間がたてば何とかなる、時が解決してくれるというタイプの全体主義なのです。青年に期待するというのはそれが[独ソと]共通しているわけです。

 しかし問題はその青年です。彼らが期待していた青年が30年代後半、エチオピア戦争の後、活性化してくるのですが、そうするとどうなるか。なぜ彼らは活性化してきたのか。実は世代間対立です。青年層が成長してくると何が起きてくるか。上のポストは、ボッターイやアルピナーティの世代が占めているわけです。青年に期待していると言っている人たちがそのポストにいる以上、自分たちは出世できないわけです。そういう意味で青年はポストがないので、世代間対立が起きます。上の世代に不満を持つようになります。そして戦争です。ファシズムは戦争から生まれました。第一次大戦から生まれたので戦争を賛美しています。でも青年はその経験がなかったわけです。戦争に行きたいと思っても、その機会が与えられませんでした。でも30年代半ば、エチオピアやスペインで戦争が起こって、ようやく活躍の場が与えられたので勢いづきました。そしてヒトラーのドイツが台頭してきました。あちらではすごい根本的な変革をしているように見えるので、イタリアもあのようにしようではないかと、ドイツ流の急進的な改革をしようと考える人々が出てきたわけです。

 こうして波風を立てずに時が解決してくれるというのから話が変わってきます。旧世代もファシスト化しよう、放置しないで考え方を変えさせていこう。君主制や議会、そこにも手をつけ、根本的な改革を求めようという動きが出てきます。待つのでは�

【橋都】どうもありがとうございました。私たちのこれまで全く知らなかったようなお話が出て大変面白かったのですが、ご質問のある方もおられると思いますが、いかがでしょうか。お受けしたいと思います。どうぞ。お名前からお願いします。

【タカサキ高崎】タカサキ高崎と申します。ファシズムというと非常に弾圧的でよくないものという形で高校のときから習っていました。しかし今日の話で、イタリアのファッショというのは少し違うということが分かったといいますかびっくりして聞いたのですが。イタリアでは、なぜムッソリーニは軍や警察あるいはマスコミを掌握して、自分の権力を維持するということをしなかったのでしょうか。スペインはそのために50年間フランコが政権を維持できました。しかしイタリア・ファシストはなぜ力を強めなかったのでしょうか。

【小山】スペインとイタリアの違いを端的に申し上げます。スペインのフランコは軍人です。スペインの場合は、軍がクーデターを起こしてそのときの指導者が飛行機事故で死んだのでフランコが繰り上がってそのまま長生きしたので、という形です。スペインの場合には軍を掌握できるというより、軍が母体です。イタリアの場合はどうなっているか。イタリアの場合は軍は国王直属です。日本の統帥権のようなものではないのですが、基本的に特に陸軍は国王に忠誠を誓うという傾向が非常に強いわけで、王党派の牙城ということになっています。

問題はファシスト側では陸軍と戦って勝てるかということです。勝てないのです。実際にローマ進軍のときに、ムッソリーニは軍が発砲してきたらスイスに逃げる予定でした。国王が最終的に発砲させなかった、戒厳令に署名しなかったのでムッソリーニは首相になれたわけです。戒厳令に署名していたらムッソリーニはそのまま国外逃亡という運命でした。

警察は一応掌握できています。どういうことかと言いますと、警察は昔の日本と同じで内務省です。昔の日本と同じで知事(prefetti)は中央から派遣される役人です。ムッソリーニはここには非常に気を配っています。ほとんどの時期に自ら内務大臣を兼任しているのです。ですから警察、公安に対してはにらみが効くように、情報が入ってくるように注意しています。

 それから陸・海・空軍の3省[の大臣]も多くの時期にムッソリーニは兼任しています。但し実際にはここはあまり意味がなくて、軍は独立機関なのです。特に陸・海はほぼ国王直属になっているわけです。「紅の豚」という映画がありますが、空軍はファシズム期にバルボを中心につくったので若干ファシスト色が強いのですが、基本的に軍人は国王に忠誠を誓います。軍を押さえられている以上、どうにもならないということがあります。警察とファシストの武力だけでは対抗できないですし、軍が動けば警察もそちら側に付くかもしれないので、そういう意味で軍と警察が当てにならないのです。

 マスコミについてはかなり気を遣って、強引にコントロールするというより買収するとか、人事で編集長を入れ替えるとか、そういうことでコントロールしていくのですが、肝心なところでヴァティカンと妥協したので、L’Osservatore Romanoというカトリック系の新聞が一応国内に流通するのです。そうするとファシストの押さえの利かない新聞、大所が1個あるという状況です。先ほど最初のほうで申し上げた、君主制に対抗できなかった、教会に対抗できなかったというのが命取りだったというのはそういうことです。軍隊とマスコミという重要なところを完全に掌握できていなかったということです。それでよろしいでしょうか。

【橋都】他にいかがでしょうか。それでは私から一つです。ファシズムで一番分かりにくいのが国王との関係です。ムッソリーニは最終的に国家元首のようになりたかったのか、国王を廃位するとか、そういうことまで視野に入れていたのか、そうではなくて単に政治の実行というか、そういう部分だけを自分は手中に収めればそれで満足だったのか。その辺が少し分かりにくいような気がするのですが、いかがでしょうか。

【小山】まず一つの問題として、ファシストの中に王党派が結構いるということがあります。例えば「ローマ進軍四天王」といわれますけれども、ローマ進軍のときの責任者は4人いるのですが、4人中2人は陸軍の軍人ですので君主寄りです。それからムッソリーニの娘婿の父親になる、コスタンツォ・チャーノ(Costanzo Ciano)という者がいます。これは海軍の提督ですから、周りにかなり王党派に近い人がいるというのが大前提で、そういう意味で軋轢を起こすのが難しかったということがあります。

 廃位を視野に入れていたかどうかということですが、これは時期によると思います。廃位は現実問題としてできないというのがあるわけです。恐らく30年代の半ばまでは廃位は考えていないだろうと思います。ただし初期には彼も共和主義になびきますから、君主制に対する反発というのはあるのですが、廃位という具体的なことは考えていないでしょう。ただ30年代中頃から問題になってくるのはヒトラーとの関係です。ヒトラーは国家元首です。ヒトラーが来て、それを応接するのは国王です。ムッソリーニは首相だから一歩下がります。これが問題になるわけです。記念切手を出すときもヒトラーと国王が並びます。ドイツ側ではそうしないで、ヒトラーとムッソリーニが並ぶ実質的な切手を出すのですけれども。実際にイタリア側だけの切手を見ると、通常のイタリア国内切手はほとんど国王です。ムッソリーニの肖像が入るものはほとんどないのです。植民地切手だけ何とかムッソリーニの顔が載っているものが出せるという状況です。ですから、そこは目の上のたんこぶという状況が、ヒトラーとの関係というもので出てきたと思います。若者が出てくるときは、君主制を廃止するとまではいかなくても、その権限を抑えていくべきだということは言われています。ただ実際のところは廃位を視野に入れていくと――40年代に入るとその問題が出てくるわけですが、やはり実行には移せないということです。

しかし、国王側は常に廃位を恐れているわけです。結局、国王側が最終的に常にムッソリーニの意向をのんで何かに署名していくというのには2つ理由があります。

 一つは廃位という最終手段を取るために[ファシストが]実力行使に出る可能性があるということです。もう一つはファシストと決裂してファシストを追放した場合に、今度は社会主義勢力がまた大きく盛り上がってきて、本当に革命が起きるかもしれないということがあるので、国王側は廃位される危険性を視野に入れつつ、なおかつ左翼が怖いので何とか仲良くしていく。そういう形で緊張関係があるので、恐らくムッソリーニ側も駆け引き上、廃位を全く考えていないという態度は取っていないはずなのです。それでも実際にはそこまでできないでしょうし、廃位を視野を入れるのは難しかったのではないかと思われます。

【橋都】他にいかがでしょうか。どうぞ。

【イマキ】イマキと申します。先ほども少しお話が出てきましたが、1922年のローマ進軍の際に、私は不勉強なのですが、結果的にファシストのが脅しというか暴力を使うったということで、先ほどのお話の通り、当時少数党の党首にすぎなかったムッソリーニを国王が首相に任命したというのが、皆さんはも恐らくそう思っておられますが、イタリアのその後の戦争による過酷な運命を呼んだ重大な一事件だったと思うのです。そこで国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio EmanueleⅢ)のそのときの判断ですが、私が思うのは能力不足というか、判断がとかく優柔不断であったというところが過分にあったのではないかと推測するわけです。その点はいかがでしょうか。

【小山】確かにヴィットリオ・エマヌエーレ3世については能力不足と優柔不断ということがよくいわれています。それを否定するつもりは全くありません。ただムッソリーニの駆け引きがかなりうまかったということも事実です。少数党の党首を任命するということですが、実はヨーロッパでは意外と珍しくないのです。日本とは違いますが、小党分立の場合でなおかつ政治が混乱しているような状況ですと、過半数を取る組み合わせがない……。1921年の総選挙は厄介な選挙でして、今の秩序打倒を唱える社会党と、ヴァティカン――当時はまだ「和解」の前で、ラテラーノ協定の前なので[イタリア王国と]対立している――と密接なカトリック系の政党で人民党(カトリック系政党)。この2つが第一党、第二党になってしまったのです。

 今のイタリア国家の正統性を認めない政党が第一党、第二党になってしまったわけです。カトリックと社会主義は不倶戴天の敵ですから、ここは手を組まないわけです。だから[連立の]選択肢はほとんどありません。いくつか連立を組んでどれもうまくいかなかった結果、最終的にそれなりの力を持っている、なおかつ30万人の党員で大規模なデモをやれるという、それなりの組織力を持っているし、各地で暴れ回っていろいろな地方、地域を押さえているファシストに協力してもらうしかないという――ある程度現実的な最後の手段だったわけです。ドイツの場合はヒトラーがもう少し議席を持って第一党の党首でしたが、そこでも同じことが起きたわけです。つまり議席の数の状況から見て、どうしても政権に入ってくれない、あるいは入れたくない政党というのがあって、それを除いたときの計算で[連立の]選択肢はほとんどありません。

ムッソリーニは最後の最後にいろいろな案がついえたときに、首相以外では入閣を受けないと言いました。ファシストを入閣させる以外に選択肢がないと国王周辺が思ったときに「首相以外は受けません」と。ファシストは真っ先に各地の郵便局・電信を全部押さえたので、どこで何が起きているか、ローマの人間が分からない状況の中で「首相しか受けません」と言ったので、ムッソリーニやファシストは情報戦がうまかったという面があるわけです。

 たしかに国王は能力不足で優柔不断です。弁護する必要もないのですが彼を若干擁護するなら、かなりうまい心理戦を仕掛けられたということと、イタリアの社会主義運動はミラノなどで工場を占拠したりして長年戦ったわけですから、当時の情勢からすると北イタリアで革命が起きてもおかしくないという恐怖感はかなりあったわけです。そうすると、この選択肢に飛びつかざるをえなかったのだろうと思います。

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 ただしそこで問題なのは、国王だけを責めても気の毒なのは、当時はこの連立に入った人間も、そしてファシストの中のかなりの人間も、ファシスト党が独裁になるなどとは思っていませんでした。ひょっとしたらムッソリーニ本人でさえ独裁になるなどと思っていなかった可能性もあります。誰も独裁になると思わないで、ようやく暴れていた連中が政権に入るという形でおとなしくなってくれてよかったとみんな思っていたわけです。国王もその「one of them」であった。国王だけがばかだったというのではなくて、そういう意味ではみんな判断ミスをしたのだというように考えたほうがよろしいかもしれません。

【橋都】いかがでしょうか。よろしいでしょうか。最後にイノセ猪瀬さん。

【イノセ猪瀬】イノセ猪瀬と申します。ムッソリーニはあのようなことで解任されて、最後は処刑されます。その解任されるプロセスというのはいろいろご説明をお聞きしましたが、どうして解任、そのような動きになってしまったのか。ある本を昔読んだのですが、外務省のある幹部が密かに動き出して議会の多数派工作をして、国王にも働きかけたということでてずっと動いたらしいのですが。やはりイタリアが敗色濃厚になって、日本とドイツと組んでいたのではずるずる敗戦になるということで、まず戦争をやめようではないかということが最大の動機になったのではないかと思うのですが、いかがですか。

【小山】敗色濃厚であるというのは一番大きいのですが、先ほどから何度も申し上げている社会主義勢力の恐怖というものが常にあるわけです。43年の3月に――ストライキは非合法化されていたのですが――北部でかなり大規模なストライキが発生しました。非合法化されている中で大都市部、それも過去に社会主義的な運動が盛り上がった地域で、またそういう運動が出てきたということはかなりの衝撃でした。このままいくと負ける前に革命が起きるか、あるいは負けた後で革命が起きるかどちらかになる。とするならば最後のところまでずるずるいくのはまずい。そのような社会主義勢力が出て大きくなる前に戦争を終わらせて、何とか現状を維持できるようにしようという判断がまず働いたということがあります。

 なぜここまで来たかという点です。結局これは難しいところなのですが、最終的に日本の軍隊も同じかもしれませんが、判断の中枢がなくなっていたという問題があるわけです。どういうことかといいますと、ムッソリーニが内務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、空軍大臣などいろいろな大臣をやっています。ムッソリーニのところにはいろいろな情報が挙がってくるのですが彼は全部処理できません。誰が決定権を持って責任ある判断を行っているのか分からないし、こちらは勝手に動いているしという状況です。なおかつ全軍参謀総長のバドリオ(Pietro Badoglio)は実はあまり権限がないとか、スタッフもほとんどおらず、陸軍、空軍、海軍が勝手に動くという状況で、どこが戦争を指揮しているのか分からないという状況でかなりの混乱が起きていました。

 主導権を持って何かができるのが国王以外にはいなくなっていたのです。実際に憲法上の権限を持っているのは国王だけですから、最終的には国王に頼らざるをえないということになったわけです。ただ国王も少し怖いわけで、下手をすれば革命が起きるかもしれないし、あるいはファシストが反撃してくるかもしれない。ですから先ほどの優柔不断の話になるのですが、そこでは国王の優柔不断というのが効いていまして、それが決断を遅らせる原因だったというところはあります。

【橋都】よろしいでしょうか。今日は大変面白い、ファシズムの中にもいろいろな勢力があったということ、われわれが頭の中で考えているファシズムというものとは随分違うということが分かって大変勉強になったと思います。皆さんも恐らくそうだったのではないかと思います。小山先生にもう一度拍手をお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)