2017年講演会レポート

55年前のローマ遊学記(概要)

12月例会②(451回) 

・日時:2017年12月20日 (水) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:林寛治氏(建築家) 

 略歴:1936年 東京生まれ 1961年 東京藝術大学建築科卒業 1961年 8月末に出国、

            1961年10月~1962年2月 ROMA'studio prof.arch.G.Positano所属

            1963年4月~1966年4月 在ROMA'studio Rebecchini 所員

            *studio Rebecchiniは;ing.G.Rebecchini+arch.J.Lafente協同事務所.

            1966年6月~1966年10月ドイツ、フランス北西部、北欧4国周遊、

            1966年11月-1967年3月ギリシャ経由トルコ行、アンカラ居住3か月. 1967年4月 帰国

            1967年4月~1974年7月 吉村設計事務所所員

            1974年8月 林寛治設計事務所登録、現在に至る.

・演題:55年前のローマ遊学記

 概要:私は大学を卒業した1961年夏に日本を発って9月はじめにローマに行きました。1960・ロー

            マ・オリンピックの翌年です。55年前の設計事務所での経験を中心に、ローマで感じた都市や建

            築の在りようと仕事と余暇、生活についてお話し致します。

 

12月20日にイタリア研究会第451回例会が開かれました。演題名は「55年前のローマ遊学記」で、講師はイタリア研究会の最古参会員のお一人である建築家の林寛治さんです。

 

林さんは1961年東京藝術大学建築科のご卒業で、当時ローマで建設中だった日本文化会館の設計者吉田教授の助手という名目で卒業後すぐにローマに渡りました。ローマは1960年のオリンピックの直後でしたが、声楽家以外の日本人留学生は非常に少なかったようです。ローマでは日本でいうところの団地が次々と建設されていましたが、日本とは違ってすべてが画一的ではなく、個々にデザインや間取りの違いがあり、見学のし甲斐があったとの事です。

 

林さんは、イタリア人のRebecchini氏とスペイン人のLafuente氏の共同設計事務所に所属して、さまざまなプロジェクトに関わりました。とくにLafuente氏が行ったTodi市近くの聖地に建設された教会と巡礼宿のプロジェクトでは、建築そのものだけではなく、階段から内装・設備に至るまで、スペイン人らしい美意識で統一された仕事ぶりは林さんに大きな感銘を与えました。またオナシスからの注文によるギリシアのスコーピオン島でのボートハウスの設計は残念ながら、計画が中止され未完のまま終わったという事です。ローマでの滞在中に日本人の留学生だけではなく、イタリア人スタッフ、トルコ人留学生など多くの友人を作ったのには、林さんの自由闊達な性格が大いに作用したようです。1966年に設計事務所を退職した林さんは、車を駆ってイタリア全土はもちろん、北ヨーロッパ、ギリシア、トルコまで1年以上をかけて旅行をしたという事です。まだ観光客がほとんど居なかったレッチェ、マテッラ、アルベロベッロを訪問する事ができたのは貴重な体験であったことでしょう。こうしたヨーロッパ、イタリアでの体験が、林さんのその後の建築家としてのお仕事に大きな影響を与えていると考えられ、まさに幸せな遊学であったと言えると思います。林さん、ありがとうございました。

 

変則的に今月2回の例会がありましたので、来月には例会はありません。次回(第452回)の例会は2月19日(月)19時から東京文化会館大会議室で行われます。講師は鈴木正文さん、演題名は「イタリアでかっぽれ」です。イタリア各地で“かっぽれ”を踊って日本文化を紹介してきたという鈴木さんの武勇伝にご期待下さい。(橋都)

 

 

1940年代のナポリ(概要)

12月例会①(450回) 

・日時:2017年12月8日 (金) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:ジュゼッペ・パズィーノ (Giuseppe Pasino)氏 (ナポリ国立図書館所属)

 略歴:ナポリ市生まれ。ナポリ「フェデリコ・セコンド」大学哲学科卒。中学校で哲学の教諭を勤めた              後、現在までナポリ国立図書館勤務。20世紀の世界の文学を収蔵する分館であるブランカッチ                ョ図書館館長を経て、現在はナポリ国立図書館本館において購買部長および貴重図書運搬を担                当。

・講師:林直美氏(日本語・日本文学講師、イタリア文学研究)

 略歴:大阪市生まれ。東京大学大学院イタリア語イタリア文学専攻博士課程修了後、

    同大学院研究助手、在ローマ日本大使館専門調査員等を経て、イタリア各地(カリアリ、ナポ

    リ、カターニア)の大学で日本語を教える。現在はカターニア大学ラグーサ校日本語日本文学非

    常勤講師。ピエモンテ州、ローマ、カリアリを経て、2004年から主にナポリ在住。

・演題:1940年代のナポリ

 概要:第二次世界大戦終結前のナポリは、米英仏独各国軍の交錯する舞台となったが、断固とした民衆

    の蜂起により、ドイツ軍の占領から解放されたヨーロッパで最初の都市となった。

    戦後70年、ナポリ国立図書館では展覧会『Napoli 1943-45』が催され、その後ドキュメンタ

    リー映画『Naples ‘44』も公開された。映画の原案となったのは、瓦礫の町ナポリの生命力あ

    ふれる人々を温かい視線で描いたノーマン・ルイス著『Naples ’44』 (1978)。これらをふま 

    え、当時の記録と現在のナポリの風景等をまじえながら、ナポリの歴史の一端をお話しします。

 

第450回イタリア研究会例会が開かれました。演題名は「1940年代のナポリ」、講師はナポリ国立図書館勤務のジュゼッペ・パズィーノさんと永年イタリアで日本語・日本文学講師を務めているナポリ在住の林直美さんでした。最初にパズィーノさんから概要をお話ししてもらった後に、林さんがスライドを使って講演し、質問に対してはパズィーノさんに答えてもらうという形で進められました。この講演は2015年にナポリ国立図書館で開かれた1940年代のナポリに関する展覧会を元に行われました。講演は4つのパートに分かれ、1。連合軍によるナポリ爆撃、2。イタリアの突然の無条件降伏による混乱とドイツ軍による戒厳令、ナポリ市民の虐殺、3。「ナポリの四日間」と呼ばれるナポリ市民の蜂起、4。ドイツ軍の撤退とナポリの解放です。

 

1940年6月10日のムッソリーニによる英仏に対する宣戦布告以降のイタリアの歴史は、あまりに複雑でここで詳しく述べる訳には行かないのですが、大戦末期のムッソリーニの失脚と復活、南北イタリアの分断などがあり、複雑を極めていました。最大のポイントは1943年9月3日の休戦条約の調印(実質的にはイタリアの無条件降伏)で、これによりそれまで同盟国であったドイツがいきなり敵国になったわけです。ドイツ軍はナポリ市に戒厳令を敷き、男性を強制労働に狩りだし、それに反対する市民を見せしめに銃殺しました。これに反発した市民が自発的に蜂起したのが、「ナポリの四日間」でした。これはイタリア北部でおもに左翼の主導で行われたパルチザンとは趣を異にしており、今もナポリ人の誇りとなっています。アメリカ軍がすぐ近くまで迫っていた事もあり、市民の犠牲を出しながらも、ドイツ軍をナポリから撤退させる事に成功したのです。ナポリはナチから解放された最初のヨーロッパ都市となりました。

 

アメリカ軍の進駐後もナポリでは食糧不足、水不足が続き、その結果として闇市、売春が栄え、この当時の状況が多くの映画、戯曲、カンツォーネの題材になりました。こうした動画も交えながら話が進み、聴衆は自分たちの知らないナポリの歴史に聴き入っていました。こうした状況にありながらも、ナポリの女性たちが誇りと美しさを保っていたという外国人記者の言葉で講演は終わりましたが、その後には質問が続出して、聴衆がこの時代のナポリの歴史に大きな関心を抱いた事が分かりました。パズィーノさん、林さんありがとうございました。(橋都) 

 

切支丹屋敷の初めから映画“沈黙”に至るまでの歴史:小説と史実(概要)

 11月例会(449回) 

・日時:2017年11月18日 (土) 15:00-17:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:ガエタノ・コンプリ神父(サレジオ神学院 チマッティ資料館館長)  

・演題:切支丹屋敷の初めから映画“沈黙”に至るまでの歴史 〜小説と史実〜

 

 イタリア研究会第449回例会が開かれました。

演題は「切支丹屋敷の初めから映画“沈黙”に至るまでの歴史:小説と史実」で、講師はサレジオ神学校・チマッティ資料館館長のガエタノ・コンプリ神父、在日60年というまさに長老と呼ばれるにふさわしい方です。

今年日本でも遠藤周作原作でマーティン・スコセッシ監督によって映画化された「沈黙」が公開されたことにより、江戸時代初期の切支丹弾圧に注目が集まりました。しかしこの「沈黙」はあくまで創作であって、コンプリ神父は史実がどうであったのか、この映画の登場人物達のモデルがじっさいにどのような生涯を送ったのかを、当時の文献資料とその後に発見された墓碑や遺骨などの資料に基づいて話をされました。映画「沈黙」の主人公であるロドリゴのモデルとされるジュセッペ・キアラ神父はイタリアのシチリア生まれのイエズス会士で、1643年に他の3人の宣教師、6人の信者とともに日本に潜入しましたが、すぐに捕らえられ尋問を受け全員が棄教したとされています。この時に尋問の通訳を務めたのが1633年に棄教した元イエズス会管区長代行フェレイラ神父・日本名沢野忠庵だったのです。この時に彼が神の「沈黙」という言葉を使ったとされています。これはその場に居合わせたオランダ人船員によってヨーロッパにもたらされたのです。しかしつい最近までキアラ神父の故郷では、彼が殉教したと信じられていたという事です。彼はその後に「キリシタン宗門の書」を著し1685年切支丹屋敷で亡くなりました。

さらにその後に江戸幕府にキリスト教への弾圧を止めさせようと、同じシチリア出身のシドッティ神父が1708年日本に上陸して捕らえられ江戸へと送られます。この時にシドッティを尋問したのが新井白石で、彼は「キリシタン宗門の書」を手がかりに尋問してその成果が「西洋紀聞」として結実しました。シドッティは幽閉中に彼を世話していた長介・春夫妻をキリスト教へと導き、彼らとほぼ時を同じくして亡くなり、切支丹屋敷内に葬られました。

さて明治になり宣教師達が来日してからこうした先駆者の遺跡探しが行われ、1943年にキアラ神父の墓碑が雑司ヶ谷墓地で発見され、サレジオ神学院に移されました。さらに2014年にキリシタン屋敷跡で3基の墓が発見され、埋葬されていた遺骨のDNA鑑定の結果から、シドッティ、長介、春のものに間違いがないとされました。

最盛期には70万人ものキリスト教信者が日本にいたと考えられていますが、キリシタン弾圧以降、キリシタン文化は途絶えてしまいました。しかしその影響は消え去ることなく残ったと考えられ、東西文化交流のひとつの姿として大変興味があるテーマです。コンプリ神父は活き活きと臨場感あふれるお話しで聴衆を魅了しました。最後にはご自分の一生の研究テーマであるというトリノの聖骸布について複製とネガとを示しながら熱弁を振るいました。コンプリ神父様ありがとうございました。(橋都浩平)

フラ・アンジェリコの絵画−読書・記憶・瞑想 (概要)

10月例会(448回) 

・日時:2017年10月2日 (月) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:水野 千依氏(青山学院大学文学部教授)  

・演題:フラ・アンジェリコの絵画ーー読書・記憶・瞑想

 

イタリア研究会第48回例会が開かれました。講師は青山学院大学教授で美術史がご専門の水野千依先生、演題名は「フラ・アンジェリコの絵画−読書・記憶・瞑想」でした。水野先生は美術史という範疇に収まらない広い視点でのさまざまな研究を行っておられますが、今回のテーマはあまり知られていないフラ・アンジェリコの晩年の作品で、かつてフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂にあったとされる「銀器収納棚装飾パネル」でした。ここには奇跡をもたらすとして当時有名だった受胎告知のフレスコ画があり、祈願者たちが病の治癒を祈願して、あるいは治癒を感謝して献納した銀製のエクス・ヴォート(身体の病んでいる部分をかたどった模型)を収める戸棚の装飾です。

 

この作品は一見したところ、キリストの生涯の場面を経時的に絵画化したそれ程特徴がない作品のように見られますが、最初と最後の場面が他とは違った概念図である点、それぞれの画面の上下に旧約聖書と新約聖書からの言葉が描かれている点が一般のキリストの生涯の連作とは異なっています。これはタイポロジー(予型論的解釈)と呼ばれる、新約聖書における各エピソードが、既に旧約聖書に暗示されているという聖書解釈に則っています。では最初と最後の概念図は何を示しているのか。第1場面には車輪が描かれていますが、これは旧約に現れるエゼキエルの幻視(神秘の車輪)です。車輪は預言者エゼキエルが見た幻視そのものなのですが、同時にタイポロジーに従った聖書解釈を図像化して示してもいます。このような車輪のイメージは、中世から記憶術のひとつの手段としても用いられていました。最後の場面に描かれている分枝した樹のような構造は「愛の法」と呼ばれていますが、同じように中世に起源を持つ生命の樹や7枝の燭台の発展型と考えられ、やはりタイポロジーと記憶術とに関連しています。こうした視覚的なモチーフを記憶の手段として用いて、さらに瞑想へ、そして魂の浄化へと導くというある意味で中世的な方法論をルネッサンス期のフラ・アンジェリコが、最晩年のこの「銀器収納棚装飾パネル」で展開したことは非常に興味深く思われます。

 

研究の現場に近い高度な内容をわかりやすく解説して下さった水野先生ありがとうございました。

(橋都)

 

“カルチョの国”イタリアを知る(概要)

9月例会(447回) 

・日時:2017年9月21日 (木) 19:00-21:00

・場所:国際化文会館 講堂(東京都港区六本木5‐11‐16)

・講師:小川 光生氏(スポーツライター)  

・演題:“カルチョの国”、イタリアを知る

 

第447回イタリア研究会例会が久しぶりの国際文化会館で行われました。演題名は「“カルチョの国”イタリアを知る」、講師はスポーツライターの小川光生さんです。

 

小川さんは大学院ではイタリア史を専攻、シエナのピッコロミニ家出身の教皇ピウス2世を研究していましたが、その後にサッカーを含むスポーツのライター。コーディネーターに転向したという変わり種です。本田、長友を含む多くの選手、監督とのインタビューを重ねた経験を基に、現在いささか低迷しているイタリアサッカー復活の処方箋も含めてお話しになりました。そもそもなぜイタリアでサッカーが「カルチョ」と呼ばれるのか。もともとが英国発祥の外来スポーツですから19世紀末の黎明期には「フットボール」と呼ばれていました。イタリアの帝国主義諸国への遅れての参加とファシズムの台頭の中で、外来語を排除しようという動きが強まり、新しく「カルチョ」という呼び名が使われるようになりました。

 

カルチョの特徴は勝利へのこだわりと戦術の重視です。これによりイタリアは永年世界ランキングの1位を守っていましたが、2000年に2位になって以降、次第に順位を下げて現在は4位です。この位置は予選での組み合わせからW杯出場にも暗雲を投げかけるもので、イタリアサッカー界、ファンも危機感を募らせています。その原因には個性やテクニックよりも戦術を重視しすぎるという指導の問題もありますが、小川さんは最大の問題点はクラブ経営にあると指摘します。なんとイタリアのクラブで自前のスタジアムを持っているのは、わずかに2チーム(!)なのだそうです。そのためスタジアムのアメニティは前近代的で、多くのファンはスタジアムに足を運ばなくなっており、テレビ観戦が増えています。そのため入場料や関連グッズの収入は低迷して、クラブの経営は放映権に過剰に依存したいささか不健全なバランスに陥っているのです。さらに最近インテルとミランという2大クラブが中国資本に買われた事もイタリアサッカー界に衝撃を与えています。

 

小川さんは、現在このバランスの改善を各クラブが目指しており、それが実現すれば底辺の広いイタリアサッカーはかならず復活すると宣言します。イタリア・ファン、カルチョ・ファンとしてはぜひそれを望みたいものです。小川さん、楽しいお話をありがとうございました。(橋都)

 

 

カンツォーネ・ナポレターナの黄金時代(概要)

8月例会(446回)

・日時:2017年8月21日 (月) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:青木 純氏(カンツォーネ歌手)  

・演題:カンツォーネ・ナポレターナの黄金時代

 

イタリア研究会第446回例会が開かれました。講師はカンツォーネ歌手の青木純さんですが、これはアンコール例会とでも呼ぶべきもので、2年前に同じ青木さんに「カンツォーネ・ナポリターナの特徴と歴史」という講演をお願いしました。その時の講演と演奏が素晴らしかったのですが、時間の関係で初期のカンツォーネのお話で終わってしまいました。そこで今回は「カンツォーネ・ナポリターナの黄金時代」という題名で、続編をお願いしたわけです。

 

カンツォーネ・ナポリターナ(以下カンツォーネ)の黄金時代は1880年のかの有名な「フニクリ・フニクラ」から始まります。ご存じのようにこれはヴェスヴィオ山に新設された登山電車(ケーブルカー)のコマーシャルソングでした。このケーブルカーを敷設したのが英国の旅行会社トーマス・クック社であったために、世界中にこの曲の楽譜が広まる結果となり、世界的なヒットとなったのです。この時すでにエジソンによる蓄音機が発明されていましたが、イタリアでレコードが発売されるようになったのは20世紀になってから、ラジオ放送の開始は1924年でした。ですからカンツォーネはこうしたハードの発達を待つ事なく、楽譜という形で世界的ヒットを生み出していたのです。

 

それから1914年の第1次世界大戦までがカンツォーネの黄金時代で、ディ・ジャコモ、ルッソ、デ・クルティス兄といった作詞家、トスティ、コスタ、ディ・カプア、デ・クルティス弟といった作曲家が次々と登場して名曲が生み出されました。この時代はイタリアからアメリカ合衆国やアルゼンチンに大量の移民が移住した時代でもあり、1911年にはアメリカで生まれたカンツォーネ「カタリ・カタリ」がイタリアに逆輸入されて、イタリアで大ヒットした事が注目されます。青木さんは今年の6月にナポリでカンツォーネのリサイタルを行うという快挙を成し遂げましたが、その時のビデオも交えて、昨日演奏された曲は以下のとおりです。「フニクリ・フニクラ」「マレキアーレ」「それは5月」「オーソレミオ」「マリア・マリ」「あなたに口づけを」「帰れソレントへ」「カルメーラ」「夜の声」「カタリ・カタリ」。いかがでしょうか。皆さまご存じの曲もたくさんあるのではないでしょうか。まさに黄金時代です。とは言っても、「帰れソレントへ」が当時のイタリア首相に対する郵便局誘致の陳情ソングであった事をご存じの方はおられないのではないかと思います。青木さんの学識は歌唱力にも負けない素晴らしいものです。

 

 

懇親会でも、青木さんのカンツォーネ愛のお話は続きました。青木さん、ありがとうございました。

(橋都)

 

イタリアでの生活と制作から思ったこと(概要)

7月例会(445回)

・日時:2017年7月14日 (金) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:松山 修平 氏(画家) 

・演題:イタリアでの生活と制作から思ったこと

 

第445回例会が開催されました。講師はミラノ在住の画家・松山修平先生。

演題は「イタリアでの生活と制作から思ったこと」。

松山画伯は1976年21歳で留学のため渡伊、以来今日までイタリア滞在は41年に及びます。今回のお話のキーワードは「時の長さ」。渡伊直後、ペルージャのバールで席に座った時のこと、「(日本に比べて)こんなに時間が長いのか、考えることを持たせてくれる国なのだ」とつくづく実感した。現地での生活と製作を通じてイタリアは、「熟成するのを待ってくれる国」、「長い目で見守ってくれる国」、「包容力を持った国」、「自分の感性で観に来てくれる国」「本当に心に響く絵を描いてくれよと言う国」だと思う。

1979年ペルージャ・ブリオーリ宮での初個展以降、イタリア、日本、アメリカを中心に 個展100回以上、グループ展200回以上を数える。特に重要な展覧会として、ベネツイアビエンナーレとの同時期、1993年、95年、97年、99年、2001年の5回に亘りSHIN-ONを開催した。SHIN-ONとは絵を描き始めて28年経った1989年に浮かんだテーマで、以来全ての作品にこのテーマを付している。

SHIN-ONの”SHIN”は、「自身の中にある心の響き」、”ON”は「自己に同調する周波数、バイブレーションの表現」を意味し、漢字で表すと心音、新音、真音、伸音、慎音、森音、震音、進音、信音、神音、親音、振音、深音、身音、唇音、浸音の16通りだが、松山画伯は一生をかけて「このテーマで何を描けるのか」を追求されている。因みに画伯はホームページで”SHIN-ON”についてイタリア語で以下のように説明されている。

“Sin dall’inizio, quando ho dovuto spiegare il significato di Shin-On, ho sempre detto che è una sorta di grido del cuore, un’espressione in sintonia con il sé”.

SHIN-ONの画法は混合技法によるアートであり、基本的には合板上に「石膏」あるいは「スタッコ」でレリーフ状の画面をつくり、そこに岩彩やアクリルなどを何回か重ねて塗り、描き、その上から何層かの薄い紙をずらして貼り、最後に水彩でしみこませながら、最終的な色を決めて完成させてゆくとのこと。

画伯は、ニューヨーク・ウオールストリートジャーナル紙本社ビルで展示された18mの作品を始め多数の秀作をスライドで紹介されたが、作品など詳細は下記2つのホームページをご参照ください。

http://www.shin-on.info/ (日本のホームページ) www.shuheimatsuyama.com

一方 画伯は、空手道松涛館流6段でイタリア伝統空手道連盟指導員コース教授を務められ現地での指導にあたられておられることから、イタリアの空手事情、東京オリンピックでの正式種目採用に伴う関心の高まりなどについてのお話があった。

 

ご講演後は時間切れになるまで質疑応答が活発に交わされたが、画伯の明るくざっくばらんなお人柄もあって会場は終始愉快な雰囲気に溢れ大いに盛り上がった。松山先生、本当に有難うございました。

(猪瀬)

 

海洋都市アマルフィとそのテリトーリオの空間構造(概要)

6月例会(444回)

・日時:2017年6月19日 (月) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:陣内 秀信 氏 (法政大学デザイン工学部教授) 

・演題:海洋都市アマルフィとそのテリトーリオの空間構造

 

第444回イタリア研究会例会が行われました。

講師は法政大学デザイン工学部教授で、長く南イタリアの都市で現地調査を行っている陣内秀信先生、演題は「海洋都市アマルフィとそのテリトーリオの空間構造」でした。

アマルフィは織田裕二主演の映画「アマルフィ・女神の報酬」によって日本でもすっかり有名になりました。また和歌山の雑賀崎は「日本のアマルフィ」と呼ばれており、ナポリの南のこの地域と瀬戸内海との風景や街の構造の類似点が指摘されています。しかし陣内先生は、アマルフィの街だけを見ていたのでは、この地域の歴史や文化を理解することはできず、周辺に点在する多くの魅力的な街や産業遺構も考慮する必要があることを強調されました。

 

中世以降海洋都市として、当方との交易で栄えたアマルフィは、その後に表舞台からは退場しますが、一途に衰退への道をたどったわけではありません。V字型の渓谷の両側に街が拡がるという特性から、産業革命以前には最大の動力源であった水車の設置に適しており、製紙業、製鉄業、製陶業などの産業が栄える時代が長く続きました。こうした産業によって蓄積された富が街の維持・発展に用いられ、現在の美しい景観の元となっているのです。さらにそこには他のイタリアの街とは違って、アラブの影響を誇りに感じてそれを表に出すという住民の自由な精神がものを言っています。そしてそれが多くの観光客を呼び寄せるこの地域の最大の財産となりました。長い階段を登らなければ自分の家にたどり着くことができず、荷物の運搬も人力や驢馬、騾馬に頼らなければならない街の生活は過酷といえば過酷ですが、住民は地域で助け合いながら高齢になっても元気に生活しています。「片方の足を海に、片方の足を葡萄畑に」着けていると言われるアマルフィの人たちの生き方から、地方創生のやり方をわれわれ日本人も学ぶことができるのではないかというのが、陣内先生の講演の主旨でした。陣内先生、美しいスライドの数々と、楽しく示唆に富むお話をありがとうございました。(橋都)

 

外国人画家たちが育んだローマとナポリ近郊の風景・風俗絵画の世界 (概要)

5月例会(443回) 

・日時:2017年5月19日 (金) 19:00-21:00 

・場所:東京文化会館 4F大会議室 

・講師:河村英和 氏 (東京大学文学部特任准教授)  

・演題:外国人画家たちが育んだローマとナポリ近郊の風景・風俗絵画の世界 

 

5月19日にイタリア研究会第443回例会が行われました。

今回の講師は建築史がご専門で現在東京大学文学部特任准教授を務めておられる河村英和さん、テーマは「外国人画家たちが育んだローマとナポリ近郊の風景・風俗絵画の世界」でした。

 

ルネッサンス以降、イタリアの風景が絵画に登場するようになりますが、それはあくまで背景であり作品の主題ではありませんでした。しかし17世紀になると風景が画面の中心となる作品が登場します。それを主導したのはプッサン、ロランといったフランスの画家たちでした。彼らの描く風景はけっして現実の風景ではなく、理想風景あるいは英雄風景と呼ばれていますが、その中には現実に存在する廃墟も描かれていました。同時期にオランダ人画家たちによるより庶民的な廃墟と風俗を画題としたバンボッチャータと呼ばれる絵画も人気を博していました。その後カメラ・オブスクーラを用いて描かれたと考えられるヴェドゥータと呼ばれるパノラマ的な絵画が登場し、さらに廃墟を空想的に構成したカプリッチョという絵画も登場します。その後にはよりリアルに廃墟を描く動きが現れますが、写生というよりは北ヨーロッパの人々が抱く廃墟のイメージを強調する事に主眼が置かれていたと言えます。その傾向は18世紀になると崇高美を強調する絵画へと繋がって行き、田園風景よりも谷間や渓流、滝、荒れた海が主要なテーマとなりました。そしてその後19世紀にはローマやナポリ近郊の風景を背景にして民族衣装をまとった美女や若者が描かれるようになります。こうした絵画の流れを主導したのはアルプス以北の画家たちであり、カナレットらのイタリア画家が活躍したヴェネツィアとはいささか様子が異なっていたようです。

 

河村さんは、豊富な画像を提示しながら、こうした風景画、風俗画の3世紀にわたる変遷を分かりやすく示してくださいました。ありがとうございました。(橋都)

 

 

ヴェルディのオペラ:ヒロインの魅力 (概要)

4月例会(442回)

・日時:2017年4月21日 (金) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:小畑恒夫 氏 (昭和音楽大学教授) 

・演題:ヴェルディのオペラ:ヒロインの魅力

 

イタリア研究会第442回例会が開かれました。

講師は昭和音楽大学教授・オペラ評論家で、日本ヴェルディ協会理事長の小畑恒夫さん、演題は「ヴェルディのオペラ:ヒロインの魅力」でした。

ヴェルディはロッシーニからベッリーニ、ドニゼッティを経て発展してきたイタリア・オペラに新しい魅力を付与しました。それは歌の魅力だけに頼るのではなく、ドラマ性を加え、より演劇的な方向へとオペラを変化させた事でした。それは彼の初期の作品のプリマ・ドンナ達の性格設定と歌唱とによく表れています。ナブッコのアビガイッレやアッティラのオダベッラがその代表ですが、彼女たちの性格や生き方も非常に力強くドラマティックですが、叫ぶような歌い方は暴力的にさえ感じられます。しかしヴェルディはそこに留まる事なくさらに探求を続け、ヒロインの内面を繊細な音楽で表現するようになります。それが中期の傑作として結実しますが、その代表が「イル・トロヴァトーレ」のレオノーラであり、「ラ・トラヴィアータ」のヴィオレッタなのです。そしてヴェルディは後期の作品群ではさらにオーケストレーションにも工夫を加えて、「ドン・カルロス」のエリザベートのような高みに達する事ができたのです。

小畑さんは、解り易い話とともに、選りすぐりのDVDによってヴェルディのプリマ・ドンナ達の素晴らしい歌唱を示して、ヴェルディのオペラの魅力を参加した会員に印象づけて下さいました。ありがとうございました。(橋都)

 

現代イタリアにおけるポピュリズム:5つ星運動を中心に(概要)

3月例会(441回)

・日時:2017年3月15日 (水) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:伊藤武 氏 (専修大学法学部教授)

・演題:現代イタリアにおけるポピュリズム:5つ星運動を中心に

 

イタリア研究会第441回例会が行われました。

講師は専修大学法学部教授の伊藤武さん、演題は「現代イタリアにおけるポピュリズム:5つ星運動を中心に」でした。現在世界中でポピュリズム政党が力を持つようになり、その動向が注目されていますが、中でもイタリアの5つ星運動(M5S)はその大きな得票率と独特な組織運営で注目されています。いったいM5Sとはどのような政党で他国のポピュリズム政党とはどこが異なるかを中心に講演は進行しました。

 

M5Sは2009年に結成され、地方選でそれなりの成果を出していましたが、誰もが驚いたのは、2013年の国政選挙で下院の得票率が第1位になったことでした。代表のB・グリッロは政治批判を得意としていた元喜劇役者で、国会議員ではなく党大会で選出された党首でもありません。実際の組織運営は2016年に亡くなったG・カザレッジョが行っていたと言われていますが、彼らはテレビと新聞というこれまでの政治活動の主たるメディアを敢えて避け、ネットと政治集会とを中心とした運営を行っています。また組織運営がオープンであるように見えながら、規律が厳格で除名者が多いのもひとつの特徴です。一方で反・既成政党、反・腐敗という立場は明確にしながらも、政策とくに経済政策は明らかではなく、政権を担当する力があるかは不明です。しかしながらこれまでの左右対立とは異なる立場に立っているため、伝統的に左翼が強い中部イタリアにも支持基盤があり、若者だけではなく高齢者の支持も集めています。こうした点から考えて M5Sがこれまでの政党が力を失った現代政治のフィールドに、それなりに合理的に適応していることは確かですが、果たして政権を担当能力があるのか、慎重に見守って行く必要がありそうです。

 

 

伊藤さん、ホットな話題について大変面白いお話をありがとうございました。なお伊藤さんのご著書「イタリア現代史」中公新書は、複雑な戦後イタリア政治史を理解するのに好適な良書です。(橋都)

 

ティツィアーノの生涯と作品 (概要)

2月例会(440回) 

・日時:2017年2月17日 (金) 19:00-21:00 

・場所:東京文化会館 4F大会議室 

・講師:小林 明子 氏 (東京都美術館 学芸員) 

・演題:ティツィアーノの生涯と作品

 

2月17日に第440回イタリア研究会例会が行われました。

講師は東京都美術館学芸員の小林明子さん、演題名は「ティツィアーノの生涯と作品」でした。4月2日までの会期で、現在東京都美術館では「ティツィアーノとヴェネツィア派展」が開かれています。これは日伊修好150周年を記念するイタリア美術展の最後を飾る展覧会です。日本ではイタリアルネサンスというと、どうしてもフィレンツェとローマを中心に考えてしまいますが、この時期のヴェネツィアは政治的にも大きな力を持っていただけではなく、美術の世界においても大きな影響力を持っていました。その中心に位置するのがティツィアーノ・ヴェチェッリオでした。彼は1490年頃に生まれ1576年に亡くなるまでの長い人生のほとんどをヴェネツィアで過ごしましたが、ヨーロッパ各地の宮廷にパトロンを持ち、ラファエロ、ヴェラスケスをはじめ同時代、後世の画家たちに多大な影響を与えました。

彼が多くのパトロンを持ち、大きな影響力を持った第一の原因はもちろん彼の画力にあるわけですが、それだけではなく彼がパトロンたちの要求を理解して、そこに自分の能力と知性をつぎ込み、パトロンたちに満足感を与えるだけの柔軟性を持っていた点にもありました。小林さんは、ティツィアーノが描いた「教皇パウルス3世の肖像画」と「ダナエ」を中心として彼のこうした能力を技法と文献とからわかりやすく解説してくれました。彼こそは歴史上、もっとも大きな影響力を持った画家の一人と言えるのではないかと思います。小林さんありがとうございました。(橋都)

 

イタリア空軍パイロットアルトゥーロ・フェラリンの偉業と「2020年東京-ローマ間帰還飛行」プロジェクト

1月例会(439回)

・日時:2017年1月18日 (水) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:道原 聡 氏

・演題:イタリア空軍パイロットアルトゥーロ・フェラリンの偉業と「2020年東京-ローマ間帰還飛行」プロジェクト

 

第439回イタリア研究会例会が開かれました。講師はフィレンツェ在住の画家道原(どうばら)聡さんですが、講演の内容は絵に関するものではなく、道原さんが現在関わっている日伊をつなぐ壮大なプロジェクトに関するものでした。演題名は「複葉機の夢−アルトゥーロ・フェラリンを待ちながら」です。

アルトゥーロ・フェラリンといっても、その名前をご存じの方はほとんどおられないと思います。イタリアでもその事情はそれほど変わりません。しかし彼は100年近く前に、日本とイタリアとを繋ぐ壮大な冒険を成し遂げた人で、その当時の日本において大きなニュースとなり、日本人を熱狂させたのです。それは1920年に行われたヨーロッパから日本への、初めての飛行機による遠征でした。彼は他の10機とともに2月14日にローマを出発し、途中で多くの脱落者を出しながらも、同僚のマジェッロが操縦する飛行機と共に、5月31日見事に東京に到着したのです。総飛行距離が18,000km、3ヶ月あまりをかけた苦難の旅でした。

このニュースに日本人は熱狂して、フェラリンとマジェッロは原敬首相から勲章を授与され、貞明皇后にも謁見しています。彼らはその後40日間日本各地を訪問し大歓迎を受けた後、イタリアに船で帰国しました。しかしイタリアでは彼らの壮挙を顕彰する動きはありませんでした。それはこの飛行計画がそもそも、あの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオの発案によるものであり、ダンヌンツィオは1919年のフィウメ占領によりイタリア政府からは厄介者と見なされていたからです。その後フェラリンは日本への飛行の記録を出版して、一部のイタリア人からは大きな評価を受けましたが、1941年に飛行機事故で亡くなりました。同じようにマジェッロも飛行機事故で亡くなっています。

さて2020年にこの大冒険から100年を迎えるのを記念して、当時の飛行機を復活させ東京からローマへの帰還飛行を成功させようというプロジェクトが立ち上がっています。これは単なる空想ではなく、フェラリンの存命する2人の息子さんや空軍関係者、飛行機製作者を含む多くの人が加わった財団がすでに発足し、飛行機製作用の格納庫も準備されています。今年の終わりか来年の初めには実際の飛行が行われる予定ということです。わくわくするようなプロジェクトです。ところでフェラリンが貞明皇后に謁見した時に、皇后から日本の小学生の絵画や書道の優秀作品をアルバムにするので、それをイタリアに持ち帰ってイタリア王妃に手渡して欲しいと依頼されました。そのアルバムは王妃の示唆でフェラリンが保持することになり、現在もフェラリンの次男ロベルトさんが保管しています。最後に道原さんが、その一部を披露しましたが、その作品のレベルの高さに聴衆一同ひたする驚嘆するばかりでした。昭和の小学生恐るべしです。これについても展覧会の開催や書物の出版など、いろいろと夢が広がりそうです。道原さん、興味深いお話と資料の数々をありがとうございました。(橋都浩平)