2016年 講演会レポート

ヴァチカン図書館の概要と日本との交流の歴史について(概要)

12月例会(438回)

・日時:2016年12月2日 (金) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:Silvio VITA氏 (京都外国語大学教授)

・演題:Vatican図書館の概要と日本との交流の歴史について

 

12月2日(金)に第438回イタリア研究会例会が行われました。講師は京都外国語大学教授のシルヴィオ・ヴィータさん、演題名は「ヴァチカン図書館の概要と日本との交流の歴史について」でした。ヴァチカン図書館は美術館とは違って一般の人が立ち入る事ができず、限られた数の研究者だけが立ち入る事の出来る場所です。ヴィータさんは資料の調査・整理の目的でヴァチカン図書館に出入りを許されるようになりました。とくに20世紀の日本における布教と、それに関連して得られた古文書の調査を行っています。

 

ヴァチカンに図書館と呼べる施設ができたのは15世紀教皇ニコラウス5世の時代で、そこには500冊の写本があったと記録されています。さらにシクストゥス4世がコレクションを充実させ、シクストゥス5世が1590年頃に「新図書館」を建設して現在の姿に近くなりました。この頃にはほぼ現在に近い「世界」という認識がヨーロッパ人の間にも拡がり、ヴァチカン図書館でも世界中のあらゆる地域から書籍を収集するというミッションが自覚されるようになったという事です。それを象徴するのが新図書館の壁画で、世界中の文字とその発明者、歴史上の有名な図書館が描かれています。

 

ヴィータさんがとくに注目している日本関係の資料がマレガ・コレクションで、宣教師のマリオ・マレガが20世紀初めに、主に大分で収集した古文書でキリシタン関連の文書として貴重な物だという事です。また多くの日本人がその発見を期待している、天正少年使節団がヴァチカンにもたらしたとされる「安土城屏風」については、ヴィータさんはヴァチカン図書館で今後発見される可能性は低いという見解でした。日本人もかなわないほどの滑らかで美しい日本語で、博学ぶりを披露してくれたヴィータさん、ありがとうございました。(橋都)

 

 

西欧ルネッサンス再考(概要)

11月例会(437回)

・日時:2016年11月21日 (月) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:西本 晃二氏(東京大学文学部名誉教授

・演題:西欧ルネッサンス再考

 

イタリア研究会第437回の例会が開かれました。講師は元東京大学イタリア文学科教授でローマの日本文化会館館長も務められた西本晃二先生です。先生は2015年に大部の「ルネッサンス史」を上梓され、これまでの伝統的なルネッサンス観に一石を投じられました。そこで今回は「西欧ルネッサンス再考」という題で講演をお願いしました。

 

これまでのルネッサンス研究はミシュレやブルクハルトなどアルプス以北の学者によって主導されてきました。彼らは美術作品に注目し、ルネッサンスを優れて美術を生み出した運動として捉えてきました。西本先生はそこに偏りがあると主張します。確かに美術作品は物として残るために目につきやすいし研究もしやすいわけですが、それを生み出す経済活動や政治の動きは物としては残りませんので、研究をやりにくいという難点があります。しかしそうしたいわゆる下部構造こそが重要であり、ルネッサンスそのものではないかというのが先生の基本的な考えです。

 

新しい文化が生まれるためには富の蓄積が必要であり、その富はまずジェノバ、ヴェネツィア、アマルフィなどの海洋交易国家の商業活動によって生まれ、次いでフィレンツェの毛織物業、そして両替・銀行業によってもたらされました。こうした都市国家の存在は中部・北部イタリアに特徴的であり、ナポリ以南のイタリアには封建制が残ったために、ルネッサンスの発展にはほとんど寄与する事がありませんでした。しかし15世紀後半からフランス、イングランド、スペインに統一国家が成立するとその規模が物をいうようになり、イタリアはこれらの大国に翻弄され、イタリアのルネッサンスは終焉を迎えます。一方フランス、スペイン、イングランドではむしろその後にルネッサンスの最盛期を迎える事になります。このようにそれぞれの国においてルネッサンスの始まりと終わりの時期は異なっており、最も早いと考えられるイタリアでは1266年から1530年までと考えるのが妥当だろうという事でした。

 

ともかく博識で次から次へとエピソードが頻出する西本先生のお話は面白く、あっという間の90分間でした。今回とはまた別の切り口でのルネッサンス論を聞いてみたい気もします。西本先生、ありがとうございました。(橋都)

 

女王クリスティーナとローマ (概要 )

10月例会(436回)  イタリア研究会創立40周年記念講演

・日時:2016年10月16日 (日) 14:00-16:00

・場所:東京大学医学部教育研究棟14階 鉄門記念講堂(東京都文京区本郷7−3−1)

・講師:樺山 紘一氏(印刷博物館長、東京大学文学部名誉教授)

・演題:女王クリスティーナとローマ

 

イタリア研究会第436回の例会が開かれました。この例会は通常の例会とは異なる特別な例会で、イタリア研究会創立40周年の記念例会として開催されました。そのため日曜日の午後に、いつもよりも大きな会場を使って行われました。講師は印刷博物館館長の樺山紘一さん、演題名は「女王クリスティーナとローマ」でした。

クリスティーナは17世紀当時、北ヨーロッパの大国スウェーデンの女王でしたが28歳の若さで退位し、しかも国教である新教から旧教に改宗してローマに隠棲してしまいましたので、スウェーデンの国民からはいささか冷たい目で見られています。また当時は教皇庁の宣伝戦略もあり、ローマで熱烈な歓迎を受けたものの、ヨーロッパ政治の表舞台に再登場することはなく、膨大な美術コレクションも散逸されてしまったために、その後亡くなるまでの40年近くをローマで過ごしたにもかかわらず、イタリアでもその名前を覚えている人は多くありません。

樺山さんは、わざわざ亡命先のオランダからデカルトを呼び寄せて抗議を受けるほどの、当時としては啓明的であったクリスティーナがなぜ若くして退位、改宗に至ったかを、当時のヨーロッパの政治環境と彼女の資質、生育環境から解き明かしました。もちろん彼女自身の著述が残っているわけではありませんので、その心境は推し量るほかはないのですが、ヨーロッパ大戦と呼んでも良い30年戦争に翻弄された10代から20代の女王としての生活、新教を国教とするスウェーデンの宮廷の窮屈さが影響しているのではないかということです。クリスティーナはローマにサロンを作り、そこには多くの芸術家が集いましたが、とくに作曲家のコレッリと彫刻家のベルニーニは彼女のお気に入りでした。また当時から彼女には愛人がいるのではないかと噂があったのですが、教皇庁の切れ者として有名だった枢機卿アゾリーノ宛ての暗号で書かれた彼女の手紙が20世紀になって解読され、それが事実であることが証明されたということです。

地位と財産に恵まれていたとはいえ、この時代に自分の意思を貫いて生きた女性が存在したという事自体が貴重であり、バロック都市ローマの形成にクリスティーナが関わった事も事実であり、イタリア人にも日本人にも、もっとクリスティーナのことを知ってもらいたいというのが、樺山さんからの強いメッセージでした。これからローマを訪ねられる方、女王クリスティーナの足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。

樺山さん、イタリア研究会40周年にふさわしい面白いお話をありがとうございました。(橋都)

 

 

ヴェネツィアの近代化  新たな「水都」の構築 (概要)

 9月例会(435回)

・日時:2016年9月27日 (火) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:樋渡 彩氏(法政大学 小金井事務部学務課デザイン工学部担当 特任教育研究

・演題:ヴェネツィアの近代化  新たな「水都」の構築

 

9月27日(火)イタリア研究会第435回例会が開かれました。

演題名は「ヴェネツィアの近代化:新たな「水都」の構築」で、講師は法政大学の特任研究員で陣内秀信研究室出身の樋渡彩さんでした。ヴェネツィアの建国から共和国時代については、多くの著作がありわれわれもかなりの知識を持っていますが、共和国崩壊後のヴェネツィアの歴史とくに建築や土木、都市計画の分野に関しては、ほとんど聴くチャンスがありません。樋渡さんはこの分野に関して永年研究を続けてきています。

 

ヴェネツィア島が現在の形に整えられたのは16世紀初めでした。それ以降サンマルコがヴェネツィアの海の玄関口になり、大運河には沢山のトラゲット(渡し舟)の路線が通っていました。まさに「水都ヴェネツィア」だったわけです。1797年の共和国崩壊以降は、ここに陸の視点からの都市改造が加えられました。鉄道が敷かれ、道路橋とローマ広場が作られ、新港湾が作られました。そして一部の運河が埋め立てられたり、蓋をかぶせられたりもしました。しかし技術的な問題点もあり、鉄道がサンマルコに延長される事はなく、ヴェネツィア本体は水都であることを守り続けました。そしてリド島の高級リゾート化、サンマルコ周辺のホテルでのテラス造設、海辺のプロムナード建設、美術展会場としてのジャルディーノ地区の整備など、新しい水都としての魅力を求めて都市改造が立て続けに行われました。そして最近では、20世紀初頭に建設され、その後空洞化した工業地帯を集合住宅や美術館に改造する事も行われています。さらに樋渡さんは、歴史的にはヴェネツィアの本島だけではなく、周囲の島々、そしてラグーナ全体がヴェネツィアとして有機的に結びついており、こうした地域を含めての水都としての発展がこれから期待されると強調しました。樋渡さんの永年の研究に基づく講演はたいへん面白く、また説得力があって聴衆は一心に聴き入っていました。渡さん、ありがとうございました。(橋都)

 

続きを読む

ウンベルト・エーコとは何者だったのか(概要)

8月例会(434回)

・日時:2016年8月19日 (金) 19:00-21:00

・場所:国際文化会館講堂 (東京都港区六本木5‐11‐16)

・講師:和田 忠彦氏(東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授)

・演題:ウンベルト・エーコとは何者だったのか

 

ウンベルト・エーコが2月19日に亡くなり、ちょうど半年後、第434回イタリア研究会例会がエーコをテーマに行われました。講師はエーコの多数の著作を翻訳し、本人とも親交のあった東京外国語大学大学院教授の和田忠彦先生、演題名は「ウンベルト・エーコとは何ものだったのか」でした。

和田先生は1982年に最初にエーコに出会ってから、他の翻訳者たちとともに世界中を旅しながらさまざまなことを彼から学んだと語り始めました。そして彼がみずからの読書体験を明らかにした著書を手がかりに、彼が大衆小説に若い頃から関心を抱いており、実際に若書きの小説を書いた経験もあること、記号学者としての評価と地位が定まった後にようやく小説を書き始め、次第にそれに自信を深めていったと考えられることを指摘しました。エーコは基本的に“物書き”であり、それを楽しんでいたと考えられるということです。

エーコはクオリティ・ベストセラーという考えを提唱しており、戦後文学のひとつの潮流であったアバンギャルド、アンチロマンは決して文学の主流にはなりえず、テクストからテクストへと生き延びるような古典的なプロットを持った本来の小説の復活を狙っていたと考えられます。彼にしたがえば、ダンテもシェークスピアもクオリティ・ベストセラーを書いたのであり、それこそが古典として現在まで伝わっている作品群であるというのです。しかし彼の最後の著作が中世史の大著であることを忘れてはならず、そうした多面性もエーコの重要な側面であることを忘れてはならないと思います。

和田先生の広範な学識と、実際の翻訳という作業とに裏打ちされた講演は知的興奮を呼び起こすもので、講演後には様々な立場からの質問が続出しました。和田先生、ありがとうございました。(橋都)

 

 

建築家としての私とイタリア(概要)

7月例会(433回)

・日時:2016年7月8日 (金)19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:岡田 哲史氏(建築家)

・演題:建築家としての私とイタリア

 

7月8日(金)イタリア研究会第433会例会が開かれました。講師は世界的に活躍する建築家岡田哲史さん、演題名は「建築家としての私とイタリア」でした。

岡田さんはコロンビア大学大学院、早稲田大学大学院博士課程を修了した工学博士で、もともとは建築史を研究し、その後に実際の建築家としての仕事を始められた異色の建築家です。岡田さんは建築にとって何よりも重要なのは空間であり、空間の用い方をブルネレスキ、ミケランジェロ、ボッロミーニ、パッラーディオ、ピラネージなどのイタリアの建築家の建築の中に身を置くことによって学んだと言います。そしてそこでもっとも重要なのは、技術的、科学的な解決方法ではなくて、それを越えたところにある本能的な「美」の感覚だと言うのです。

ピラネージを中心にイタリアの建築史を研究した岡田さんの話には説得力があり、ご自分が設計された個人住宅、画廊、ヴィラなどの映像と、イタリアの歴史的建造物の写真とを示しながらの講演は、じつに楽しく刺激的でした。岡田さん、ありがとうございました。(橋都)

 

自動車業界のイタリア女性のStory(概要)

6月例会(432回)

・日時:2016年6月21日 (火)19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:ティツィアナ・アランプレセ氏(FCAジャパン株式会社マーケティング本部長)

・演題:自動車業界のイタリア女性のStory

 

イタリア研究会第432回例会が行われました。講師はFCA(フィアット・クライスラー・オートモビルズ)ジャパン株式会社でマーケティング本部長を務めるティツィアナ・アランプレセさん。アクティブで素敵なイタリア人女性です。
ティツィアナさんは学部学生として九州大学に留学し、経済学部を卒業しましたが、この時に学問とともに剣道、茶道など日本文化を学びました。卒業後はイタリアで日本の自動車メーカーの現地法人に就職、その後フィアットグループに入社し、2005年から日本法人で活躍しています。彼女はこれまでとは異なるアプローチによるマーケティングで成功を収めていますが、そのキーワードは「LOVE」だと言います。“Love Yourself” “Share the Love” “Love What You Do”という3つをテーマに沢山のNGOとも活動を共にしています。特筆すべきは、日本で問題となる以前からLGBT(性的少数者)を理解し支援する活動を行っていることです。彼女はこうした活動は決してチャリティーではなく、ビジネスとも結びついているのだと強調しています。その言葉通り、彼女のこうしたアプローチによってFCAの日本での売り上げは2倍近くに成長しました。
最後にティツィアナさんは「All you need is to be “Different”」という言葉で講演を締めくくりましたが、自分の個性を十分に発揮しながら、周囲をハッピーにしてそれをビジネスにも活かすティツィアナさんの生き方は聴衆に大きな感動を与えました。この後開かれた懇親会には、プーリアから里帰り中のジョヴァンナ・美奈子ご夫妻を含めこれまでなかったほどの参加者が集まり、いつまでも談笑が続きました。ティツィアナさんありがとうございました。(橋都)

イタリア舞踊史―19世紀から21世紀における“イタリアの”バレエとは?(概要)

5月例会(431回)

・日時:2016年5月27日 (金)19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:横田さやか氏(専修大学非常勤講師)

・演題:イタリア舞踊史―19世紀から21世紀における“イタリアの”バレエとは?

 

イタリアの舞台芸術といえばまずオペラ、バレエが語られることはあまりありません。しかし、バレエの起源が実はルネサンス期イタリア、フェッラーラ、ウルビーノなどの宮廷舞踊にあったこと、ジャンボローニャの彫刻『メルクリウス』の爪先立ちの姿勢がトウシューズの発想へとつながったことなど、美しい身体表現を目指すバレエと、調和を求めるルネサンス精神が軌を一にしていたということが、まず、眼から鱗でした。しかしその後の「イタリアの舞踊史」にはどのような経緯があったのか、特徴をいくつかあげながら話をすすめていただきました。
 
まずは、オペラ隆盛の時代のバッロ・グランデ作品『エクセルシオール』に代表される特徴です。 これは、電池や電球の発明、スエズ運河開通など当時の革新的な出来事を題材に、進歩主義の反啓蒙主義への勝利といった抽象的なテーマをアレゴリーとして語る(当時隆盛であったオペラの題材とは対極的)、ルイジ・マンゾッティ振付による絢爛豪華な舞踏作品でした。1881年の初演を皮切りに1年間で100回以上再演されたこの作品が、もしも50年ほど後のものであればファシズムのかっこうの道具となっていた可能性も十分ありえます。が、リソルジメント後とはいえやはり地域性が根強いイタリアのこと。上演はミラノにとどまり、イタリア全土に広がることはありませんでした。
 
次に、1910年のマリネッティによる「未来派宣言」に端を発する前衛芸術運動フトゥリズモとの結びつきがあげられます。身体芸術の可能性を察知していた未来派芸術家たちは、機械と心身が融合することで新しい身体表現を編み出せると確信していました。その確信は、ジャンニーナ・チェンスィによるダンス「飛行機のアクロバット飛行」となって実を結びます。衣装や道具に頼らないダンサー(=飛行機そのもの)の動き、音楽もなく、代わりにマリネッティによる「ビューン」「シュルシュル」などの擬声にあわせて身体ひとつで飛行機のアクロバット飛行を表現するチェンスィの映像は、マリネッティの肉声を聞けたこととあわせて、実に興味深いものでした。
 
そして、1980年代以降今日までのイタリアにおけるコンテンポラリー・ダンスには、日本のポストモダニズムとのかかわりという特筆すべき現象があげられます。大野一雄と土方巽に端を発する日本の前衛舞踊がヨーロッパに紹介されて以来、イタリアのダンサーたちは、日本独自の身体観に基づく「舞踏」を自分たちの作品制作に積極的に取り入れており、今では日本の「舞踏」とコンテンポラリー・ダンスの〈DNA〉についても言及されているそうです。
 
イタリアの舞踊研究の本格的な始まりは1980年代とのこと。ボローニャ留学時代の横田さんは「未来派」しかも「ダンス」といった「珍しいものに関心を持つ日本人留学生」と言われたそうです。資料はあるけれどきちんとした研究がなされていない未踏の分野における横田さんの今後に研究には、大いに期待が持てます。
横田さん、貴重なお話と映像をありがとうございました。フレンドリーで明解な話術にも好感が持てました。(白崎)

ルネサンスを超えた男カラヴァッジョ――生涯、作品とその影響 (概要)

4月例会(430回)

・日時:2016年4月6日 (水)19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:川瀬佑介氏(国立西洋美術館研究員)

・演題:ルネサンスを超えた男カラヴァッジョ――生涯、作品とその影響 

 

イタリア研究会第430回例会が開かれました。現在、国立西洋美術館では「カラヴァッジョ展」が開かれていますので、この展覧会の共同監修者である同美術館研究員・川瀬祐介さんに「ルネサンスを超えた男カラヴァッジョ—生涯、作品とその影響」という講演をお願いしました。
カラヴァッジョは殺人を犯して逃亡生活を送りながら絵を描いた無頼の輩として有名ですが、同時に絵画史上大きな影響を与えた革新者でもありました。1571年にミラノで生まれたカラヴァッジョは1595年頃にローマに移り、デル・モンテ枢機卿の庇護を受け、次々に名作を生み出しました。しかし1606年に決闘で相手を殺害したために、ローマを離れナポリ、シチリア、マルタを転々として、ローマに戻る途中にポルト・エルコレで亡くなりました。これが1610年の事ですので、残された作品の制作期間は15年ほどです。しかし常にモデルを用いた彼の自然な人物描写の的確性と明暗を強調した画面構成は画期的であり、カラヴァッジェスキと呼ばれる多くの追随者を産み出しました。
今回の展覧会には、60点余りと考えられている彼の真作の中で11点が集められており、画期的な展示と言えます。川瀬さんは、彼の絵画の革新性と後世の画家たちに与えた影響とを、今回の出品作を中心に話をしてくれました。とくに今回の展覧会が世界初めての公開となった彼の真作と考えられている「法悦のマグダラのマリア」について、その由来や特徴、新作と判断された根拠を詳しく語り、聴衆に感銘を与えました。まだ展覧会をご覧になっていない方はもちろん、すでにご覧になった方も、もういちど確認したくなったのではないかと思います。川瀬さん、ありがとうございました。(橋都)

ボッティチェリの生涯と作品(概要)

3月例会(429回)

・日時:2016年3月11日 (金)19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:小林明子氏(東京都美術館学芸員)

・演題:ボッティチェリの生涯と作品

 

イタリア研究会第429回例会が開かれました。今年は日伊修好150周年の記念の年のため、イタリア関連の美術展が目白押しですが、その嚆矢として東京都美術館で「ボッティチェリ展」が開かれています。そこでイタリア研究会3月例会として、同美術館の学芸員である小林明子さんをお迎えして「ボッティチェリの生涯と作品」という講演をお願いしました。

最初にびっくりしたのですが、これまでボッティチェリの作品は日本で何度も展示されていますが、「ボッティチェリ展」として開催されるのは、じつは初めてだと言うことです。彼の生涯については、同時代の他の画家と較べても資料が少なく不明な点が多いのだそうです。小林さんはまず、その中で今回の展覧会の展示作品中でも屈指の名作である「ラーマ家の東方三博士の礼拝」を手がかりに、フィレンツェの街にとっての東方三博士の礼拝の持つ意味、それとメディチとの関係、そしてこの絵を注文したラーマ家とメディチ家との関連について話を進めました。当時のフィレンツェにおいて大きな力を持っていた俗信徒の宗教団体「東方三博士同信会」とメディチ家、ボッティチェリとの関係はきわめて興味深いものです。

また今回の展覧会のもうひとつの目玉ともなっている「アペレスの誹謗」が、イタリアらしく最後の最後になって貸し出しが許可され、カタログ制作が大変だったこと、そして前期、最盛期とはかなり異なる後期のボッティチェリの作品群の中でこの作品が持つ意味について解説してくれました。彼がおそらくはサヴォナローラの影響を強く受け、そのためにそれまでとは異なるある種の表現主義的な画風へと変化して行ったのが良く理解できました。小林さん、面白いお話をありがとうございました。(橋都)

“カテリーナ・デ・メディチがフランス料理をつくった”は本当か (概要)

  2月例会(428回)

・日時:2016年2月29日 (月)19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:中村浩子氏(イタリア語翻訳家・文筆家)

・演題:“カテリーナ・デ・メディチがフランス料理をつくった”は本当か

 

イタリア研究会第428回例会が開かれました。講師はイタリア語翻訳・文筆家である中村浩子さん。演題名は「“カテリーナ・デ・メディチがフランス料理を作った”は本当か?」というもので、これについてイタリア人は、その通りだと言い、フランス人は、いやそんな事はない、と主張して、長年にわたる論争の種となっている命題です。
中村さんはカテリーナを主人公とした小説を執筆中だそうで、そのために収集した資料や当時の料理書から、この命題について考察を進めました。カテリーナはフィレンツェの中心にあるメディチ・リッカルド宮で生まれましたが、幼くして両親が亡くなったために、多感な時期をポッジオ・ア・カイアーノにあるメディチ家別荘で過ごしました。中村さんはこれがカテリーナの味覚や料理の好みの形成に大きな役割を果たしたのではないかと指摘しています。当時のフランスとイタリアの宮廷料理を比較してみると、フランスの方が肉料理が多く、煮込み料理が多く、スパイス類が多く使われていたのが特徴でした。また歴史的に明らかにカテリーナがフランスにもたらしたと考えられる料理や食器類もあり、その中には鴨のロースト・オレンジ風味、オニオングラタンスープ、ベシャメルソース、ホイップクリーム、シャーベット、フォーク、焼きもの(陶器)の食器などがあります。以上から考えれば、この命題はいささか言い過ぎであり、当時すでにフランスには多種のソースを用いたフランス料理が成立していたことは確かです。しかしカテリーナの影響でそこに洗練が加えられ、現在のフランス料理へと続く道が整えられたと考えられるべきでしょう。
中村さん、大変面白い話をありがとうございました。小説の完成を会員一同期待してお待ちしております。(橋都)

日伊交流の暁(1866-1880)(概要)

1月例会(427回)

・日時:2016年1月26日(火)19:00-21:00

・場所:東京文化会館4F大会議室

・講師:ジュリオ・ベルテッリ氏(大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻准教授)

・演題:日伊交流の暁(1866-1880)~幕末・明治初期の日本におけるイタリアの立場と役割~

 

 今年2016年は日伊修好150周年の記念の年です。そのため美術展を初めとして、さまざまな行事が企画されています。イタリア研究会でも今年最初の例会のテーマとしてこのテーマを選び、大阪大学准教授(イタリア語専攻)であるジュリオ・アントニオ・ベルテッリさんに「日伊交流の暁(1866−1880)〜幕末・明治初期の日本におけるイタリアの立場と役割〜」と題した講演をお願いしました。
ベルテッリさんはこの時代の日伊交流をテーマに研究を続けて、日本で博士号を取得されています。これまでに知られていなかったとくにイタリア国内に残る私文書を調査することによって、当時の日伊関係をあきらかにできるだけではなく、日本と他の欧米諸国との関係も見直すことができるということです。ご存じの方も多いと思いますが、19世紀半ばにヨーロッパで蚕の伝染病・微粒子病が大流行して、養蚕業が大打撃を受けました。それを受けて、日本に最初にやって来たイタリア人は健康な蚕の卵を求める蚕種商人たちでした。しかし日伊修好通商条約がなかったために、彼らの取引は不利な状況におかれていました。それを改善するために全権大使アルミニョンが来日し、1866年に短期間での条約締結に成功しました。そして初代駐日イタリア公使が情勢を的確に判断して、信任状を将軍ではなく天皇に提出したことによって、明治政府から好感を得ることができ、それがその後の良好な日伊関係の礎となったということです。その後、蚕種外交は衰え、イタリアは美術学校の設立など美術外交に切り替えますが、当時の良好な日伊関係がその後20世紀の日伊関係にも影響したと考えられるということです。
新しい資料に基づくベルテッリさんのお話は、活き活きとして興味深く、聴衆は思わず引き込まれて、講演終了後にも沢山の質問が出ていました。ベルテッリさんありがとうございました。(橋都)