2019年講演会レポート

タイトル:レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年 最新の研究と試み(概要)

11月例会(473回) 

・日時:2019年11月14日 (木) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:池上 英洋氏(東京造形大学教授、美術史家)

   略歴:

1967年広島生まれ。東京藝術大学卒業、同大学院修士課程修了。専門はイタリアを中心とした西洋美術史・文化史。2007年の「レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の実像」展(≪受胎告知≫展)などの監修者。日本文藝家協会会員。

著書に『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(小学館)、『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』(編著、東京堂出版)、『ルネサンス 三巨匠の物語』(光文社)、『西洋美術史入門』『死と復活』『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(いずれも筑摩書房)など多数。

・演題:レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年 最新の研究と試み

 概要:

今年はレオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年にあたります。彼は世界で最もその名を知られた画家ですが、現存する絵画作品は(数え方にも諸説ありますが)16点ほどしかありません。しかも、そのうち着彩まで彼が完成させ、現在までほぼ完全な姿で残っている絵画はわずか4点にすぎません。他はすべて傷んでいるか、未完成か、切断されたものばかりです。また彼は彫刻家や建築家としても当時知られた存在でしたが、それらの現存作品はひとつもありません。 

 

つまり彼はいまだに多くの謎に包まれた人物なのです。しかし近年、その姿が徐々に明らかになってきました。とくに講演者自身が携わった最近のレオナルド研究の実際と最新の試みをみていただくことで、これまで知られていない「万能の人」の実像に迫ります。 (池上 英洋)

 

11月14日、イタリア研究会第473回例会が行われました。今回は多くの会員待望の例会だったと思います。今年はレオナルド・ダ・ビンチ没後500年の記念の年であり、世界中で多くの企画が行われています。今回の講師は美術史家でレオナルドの世界的な権威、東京造形大学教授の池上英洋先生、演題名は「レオナルド・ダ・ビンチ没後500年:最新の研究と試み」でした。

レオナルドに関する最近の話題は、何と言っても彼の作品とされる「サルバトール・ムンディ」が日本円で510億円というとてつもない価格で落札され、買い主がサウジアラビアのムハンマド・サルマン皇太子とされていることでしょう。しかしじつはこの「サルバトール・ムンディ」と言う作品は世界中に40点ほどあります。その中でこの作品がこれほどの値段で落札されたのは、すべての「サルバトール・ムンディ」の中で、この作品がレオナルド自身の関与がいちばん多いと考えられているからなのです。当時の絵画は画家個人が最初から最後まで手掛けるのではなく、工房で弟子たちの手も借りて制作されていました。レオナルドの作品の中でも、すべてを彼が手掛けたと考えられているのは「モナリザ」を含めて数少ないのです。「サルバトール・ムンディ」や「糸巻きの聖母」のように世界に多数存在する作品には、レオナルド自身が最後まで関与した作品から、弟子たちがレオナルドによる下絵を使って制作した作品、まったくの贋作もしくは模作まで多くの序列・系譜があります。現在では赤外線撮影による下絵の分析や、顔料の化学分析などの科学的な研究方法により、その系譜が明らかになってきています。池上先生はこうした研究に深く関わっておられるのです。その成果は今年出版された「レオナルド・ダ・ビンチ:生涯と芸術のすべて」筑摩書房刊で明らかにされています。

もう一つの「試み」は、2020年1月5日から26日まで代官山ヒルサイドフォーラムで開かれる「ダ・ヴィンチ没後500年:夢の実現」展です。この展覧会は東京造形大学が総力を挙げた企画で、VRを用いてレオナルドが制作した直後の作品を再現したり、彼が手稿の中で空想した建築や武器を模型や画像やアニメで再現するというものです。これだけの規模で行われるのは、世界初と考えられるという事で大いに期待されます。入場は無料です。皆さまどうぞ多数ご参加ください。

池上先生、たいへんレベルの高いお話を分かりやすく楽しくお話下さり、ありがとうございました。例会に続く懇親会でもレオナルドに関する話は尽きることがありませんでした。(橋都浩平)

 

フィレンツェのアヴァンギャルド 〜ムッソリーニとプレッツォリーニ〜(概要)

10月例会(472回) 

・日時:2019年10月28日 (月) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:小林勝氏(早稲田大学イタリア研究所招聘研究員)

 略歴:1949年、東京都に生まれる。1977年、早稲田大学大学院文学研究科西洋史学専攻修士課程修了

    後イタリアに渡り、1980年までフィレンツェに滞在。帰国後は東京音楽大学、早稲田大学、学

    習院大学などでイタリア語を教えるかたわら、ジュゼッペ・プレッツォリーニと雑誌『ラ・ヴォ

    ーチェ』について研究。本年3月、教職を退き、年金生活に入る。

・演題:フィレンツェのアヴァンギャルド 〜ムッソリーニとプレッツォリーニ〜

 概要:

ジュゼッペ・プレッツォリーニは1882年にペルージャに生まれ、1899年にフィレンツェで生涯の友ジョヴァンニ・パピーニを知った。

1903年に彼と共に雑誌『レオナルド』を創刊、続いて1908年に『ラ・ヴォーチェ』を創刊し、この雑誌を拠点に革新的な文化運動を指導、フィレンツェをイタリアの前衛文化の中心にした。そうした彼の姿は、ロマン・ローランの小説『ジャン・クリストフ』の中にも若きイタリアの指導者として描かれている。第一次大戦に従軍後、出版社をローマに立ち上げるなど文化のオーガナイザーとして活躍した。だが、1922年にファシズム体制が成立すると、活動に限界を感じ、1925年にユネスコの前身の幹部職員としてパリに赴任、1930年にはアメリカのコロンビア大学の教授兼同大学に付属するイタリア会館の館⾧に就任、アメリカにおけるイタリア文化の紹介と普及に努めた。1962年にイタリアに帰国するが、間もなく居をスイスのルガーノに移し、1982年に百歳の高齢でもって同地に没した。亡くなる直前まで健筆を振るい、多くの著作を残した。 

しかし、プレッツォリーニを理解するためには、彼の著作を繙くだけでは十分ではない。『ラ・ヴォーチェ』の時代、若き無名の社会主義者ムッソリーニに執筆を勧めることで彼を広く世に知らしめたことでもわかるように、プレッツォリーニの知識人としての本領は、彼が自己の周囲に張り巡らした知のネットワークにあった。そういうプレッツォリーニの全体像を本日は紹介するつもりである。(小林勝)

 

 10月28日(月)、イタリア研究会第472回例会が開かれました。

講師は、大学での教職を今年3月に退かれ、現在は早稲田大学イタリア研究所招聘研究員としてご活躍の小林勝さん。ご専門は20世紀イタリア史で、演題は「フィレンツェのアヴァンギャルド ー ムッソリーニとプレツォリーニ」でした。 

Mussolini, Prezzolini と名前がみごとに脚韻を踏むこのふたりは生前緊密な関係にありましたが、知名度においては雲泥の差があります。六十冊を超える著書を遺したジュゼッペ・プレッツォリーニ(1882ペルージャ生?1982ルガーノ没)は、ロマン・ロランが『ジャン・クリストフ』に「イタリアの若者たちの指導者」として登場させるほどの論客でありながら、小説家でも哲学者でもなく、あくまで評論家であったために国や時代を超えて広く名を知られるにはいたりませんでした。

しかし、イタリア内外の新聞や雑誌に健筆をふるい、晩年はテレビ出演でも注目を集めた文人で、塩野七生著『サイレント・マイノリティ』に「欧米では知る人ぞ知る自由な思考人」として紹介されています。

「フィレンツェのアヴァンギャルド」とは、20世紀前半のフィレンツェがイタリアの有力雑誌出版の拠点であったことにちなむ演題ですが、その雑誌文化のなかでひときわ輝いたのが1908年にプレッツォリーニが創刊した『ラ・ヴォーチェ』でした。この雑誌に、まだ無名の若き社会主義者ムッソリーニが定期購読を申し込んだことが、ふたりの親交のきっかけとなります。ファシズム体制が成立した後も、プレッツォリー二はムッソリーニの類まれな政治能力を評価しつつ、またそうであるからこそ長期化しそうなファシズムの暴力的な体制を危惧します。しかしムッソリーニとともに第1次世界大戦参戦を支持したことで、図らずもファシズムの成立に手を貸してしまったことへの苦い思いがある一方、ファシズム打倒を掲げる人々の楽観主義にも組することのできないプレッツォリー二は、イタリアを離れ、パリを経てアメリカに居を移します。が、やがてコロンビア大学の教授兼イタリア館館長としてファシズム政権との接点を持つことになります。

ファシズムの粗野な暴力性はつねに否定しながらも「首相就任以来のムッソリーニの真の敵は共産主義でも社会主義でもなくファシズムであり、彼はファシズムに対して戦っている」と述べるなど、ムッソリーニという人物に対するプレッツォリー二の肯定的な評価は終生変わることがありませんでした(これが講師小林さんも〈今後解決したい謎〉としておられる点です)。「ナチス・ドイツと結ぶという過ちを犯しはしたが、ムッソリーニ以上に有能な政治家がイタリアにいただろうか」ともプレッツォリー二は述べています。また、イタリアから距離を置いた冷徹な観察者として「資本主義と自由主義の危機を克服するために世界でさまざまな方法が発見され、それがロシアでは共産主義、ドイツではナチズム、アメリカではニューディール、英国では帝国主義的社会主義、そしてイタリアではファシズムであった」「イタリア人がいくら否定しようと、ファシズムこそイタリアというこのどうしようもない国をどうにか世界に顔向けのできる国にしたのではなかったか」といった興味深い言葉も残しているのです。

講演後の質疑応答では、ファシズムとプレッツォリーニの関係について、あるいは塩野七生が『サイレント・マイノリティー』のなかの「真の保守とは…」の章に引用した彼の言葉について、などなど、数名の方から熱心な質問があり、その一つ一つに小林さんが丁寧にお答えくださいました。

また、講演中、日本に関わる話題が数多くとりあげられたことも会場の関心を大いに高めたようです。フィレンツェの〈雑誌文化〉に関連して正岡子規の『ホトトギス』と漱石の『吾輩は猫である』の関係、プレッツォリーニが人々の繋がりの輪の中心にいたことに関連して山口昌夫の著書『内田魯庵山脈』に言及されるとともに、昭和天皇の葬儀で来日したスパドリーニ首相、また来日時に小林さんが通訳を務めたペルティーニ大統領にまつわるホットな思い出話も語ってくださいました。

つねにさまざまな人物のネットワークのなかに身を置きながら、知性に対する忠実さを堅持しながら公正に歴史を見つめる細心の、そして「窓際の」(「路上の」ではない)観察者であることを心掛けたプレッツォリー二。 このバランスのとれた冷徹な批評家に寄せる小林さんの深い「愛」が、じわじわと静かに伝わってくる1時間半でした。日本における知名度が不当にも低く、おそらく今回初めて名前を聞いた方も少なくなかったであろうプレッツォリー二という人物に注ぐ、遠慮がちながら熱い想いのこもった貴重なお話を、小林さん、ありがとうございました。                      (SY)

 

1930年代のイタリアの対日文化活動とプロパガンダ(概要)

9月例会(471回) 

・日時:2019年9月6日 (金) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:Corrado Molteni  コッラード・モルテーニ氏(ミラノ国立大学教授)

   経歴:イタリアのComo市生まれ。ミラノのボッコー二大学を卒業した後、1977年から日本に留学。

    一橋大学で修士・博士号(地域研究)を取得。帰国後、ボッコー二大学の東アジア研究所での

    研究員を経て、1998年からミラノ国立大学の教授。2007年から2017年まで駐日イタリア大使

    館で文化・学術担当官。専門は日伊関係。イタリア共和国のCommendatore勲章叙勲(2018

    年)。

・演題:1930年代のイタリアの対日文化活動とプロパガンダ

 概要:

最初の出会いから文化交流は日伊関係の重要な要素になっています。戦間期もそうでした。とりわけ1936年以降、両国の関係が密接になるにつれてファシズム政権は日本との文化交流を一層促進しましたが、同時にプロパガンダの色彩が濃くなってきました。当時の政治・外交関係を視野にいれながら、主な活動の内容・趣旨と目的を紹介し、1942年のLeonardo Da Vinci展までの歴史的な意義を検討します。       

                                  (コッラード・モルテーニ)

 

イタリア研究会第471回の例会が開かれました。演題名は「1930年代のイタリアの対日文化活動とプロパガンダ」、講師は国立ミラノ大学教授で、2007年から2017年の間、在日イタリア大使館の文化担当官を務めた皆さんご存知のコッラード・モルテーニさんです。モルテーニさんは大使館勤務時代に、このテーマに興味を持ち、大使館の文書はもちろん、イタリアで公文書館に残る文書を探索して研究を続けています。

 

1928年から1931年にかけて、日本では一種のムッソリーニブームがあり、なんと宝塚歌劇場でもムッソリーニを主人公とする出し物があったということです。この時期イタリアにおいても、ガブリエレ・ダンヌンツィオ、下井春吉らの活動により日本文化への関心が高まっていました。ムッソリーニもある程度は日本に関心を持っていたようですが、アジアでは日本よりもインド、中国との関係を大事にしており、日本の経済発展と輸出攻勢にむしろ警戒心を抱いていました。しかし日・独・伊三国が国際連盟から脱退して急速に接近したことから、1936年を境に対日政策も大きく変わることになります。

 

とくに1933年から1940年まで日本に滞在したAuriti大使と文化担当官のArdemagniは積極的に広範な活動を行い、政治に限らず文化的な交流も広がり、教官や学生の交流も行われるようになりました。しかし1939年以降イタリアの対日文化政策はプロパガンダ色が強まり、「ファシスト伊太利展覧会」は、1939年に日本全国を巡回し、満州国首都の新京でも開催されて、多くの観客が訪れてファシズムが日本人にとって身近なものとなりました。こうした展覧会ではファシズムがローマ帝国を継承するような印象が強調されたのですが、ドイツとの競合という側面もあり、日本側との認識のズレも色々あったようです。1943年にムッソリーニは一度失脚し、復活するものの1945年4月に処刑されますが、驚いたことに、戦線が拡大していた1942年に日本でダヴィンチ展が開かれたことです。その正式名称は「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会」で、レオナルドの戦争工学が強調され、総力戦の象徴という位置付けであったようです。このダヴィンチ展でファシズム期の対日文化政策・プロパガンダは終わりを告げるのですが、この時期に設立された日伊協会を始めとして、当時の文化交流が戦後の日伊交流にも断続せずに引き継がれていると言うこともできます。

 

講演後には、当時建立されたイタリア大使館の庭園にある赤穂浪士慰霊碑や、イタリア側の日本認識など、数々の質問が出て盛り上がりました。モルテーニさんありがとうございました。

                                       (橋都浩平) 

     

カルチョの国のスポーツ、そしてラグビー(概要)

8月例会(470回) 

・日時:2019年8月30日 (金) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:佐藤徳和氏(スポーツライター)

 経歴:1972年東京都生まれ。1998年、ローマに語学留学し、同市内のアマチュアサッカークラブ、ロ

    ムーレアの練習に参加。帰国後、語学書の編集プロダクションを経て、サッカー専門出版社に勤

    務。2007年、フリーに。専門サイトの「サッカーキング」で、カルチョのコラムを執筆中。

    2014年、FC東京でイタリア人GKコーチの通訳を務める。2018年11月、イタリアの至宝、ロベ

    ルト・バッジョへのインタビューを実現。2019年6月には、U-21欧州選手権でイタリア代表の

    試合を取材した。カルチョだけでなく全てのアッズーリをこよなく愛し、日伊協会会報誌

    『CRONACA』では、イタリアに特化したスポーツ記事を連載している。日伊協会では講座「カ

    ルチョで旅するイタリア」も開講中。9月には上田市で行われるラグビー・イタリア代表のトレ

    ーニングキャンプに通訳の1人として参加する予定。イタリア語検定協会事務局員。著書『使え

    るイタリア語単語3700』(ベレ出版 2017年11月 共同執筆) 

・演題:カルチョの国のスポーツ、そしてラグビー

 概要:3人に1人がサッカーに関心を持つと言われるカルチョの国イタリア。まずは、1990年ワールド

           カップ以来のビッグイベントとして今年6 月に開催されたU-21欧州選手権の現地取材をレポート

           するとともに、サッカー以外にどんなスポーツに人気があるのか、競技人口など数字を用いて解

            説します。また、イタリアは郷土色が豊かな国であることが魅力の一つですが、スポーツもまた

           その地域によって個性が色濃く表れています。地域によっては、必ずしもサッカーが最も人気の

           高いスポーツとは限らず、その土地独自に愛されているスポーツがあることも見られます。そう

           いった個性的な地域も紹介します。そして、9月下旬には日本でのワールドカップ開催を控えてい

           るラグビーをとりあげ、ラグビーが盛んな地域、リーグの構造、注目の選手、過去の大会実績な

           どを説明します。写真や映像を多く使いながら、スポーツにそれほど関心がない方々にも楽しん

           でいただけるように講義を進める予定です。 (佐藤)

 

 8月30日(金)、イタリア研究会第470回例会が開かれました。

演題は「カルチョの国のスポーツ、そしてラグビー」。

講師は、今年6月にイタリアで開催されたサッカーU-21(21歳以下のアッズリーニ) 欧州選手権の現地取材から帰国して間もないスポーツライター佐藤徳和さん。  

1.サッカーについて   2.イタリアで人気のあるカルチョ以外のスポーツについて  3. 間もなく東京でWCが開催されるラグビーについて と大きく3つのテーマに分けて話をすすめてくださいました。

 

1.サッカー

まずは今回の取材中、印象に残ったエピソードの紹介がありました。

佐藤さんが6月に取材した、1990年ワールドカップ以来のビッグイベント(U-21欧州選手権のイタリア)対スペイン戦では、サポーターがいつの間にか国歌やレジスタンスの歌を歌いだすなど(日本のように誰かが音頭をとるのではない)自然発生的な応援の力が試合を勝利に導いたこと。 2014年来日の折に佐藤さんが東京で通訳を務めた71歳の現役ゴールキーパーコーチ、エルメス・フルゴーニ氏との再会。きみもトレーニングに参加しろと言われて訪問すると、日本代表のユニフォーム姿で迎えてくれたそうです。そして彼の練習場では、小さい子どもが大きい子のプレーをみて自然に学ぶという、日本ではなぜかむずかしいことが実践されていたこと、そしてコーチが決して声を荒げないのは孤独なポジションであるGKを守ってやらねばならないから、といった言葉が心に響いたこと。

さらに昨年来日したロベルト・バッジョへの佐藤さん自らによるインタビューのお宝映像も披露してくださいました。

オリンピックの出場権は逃しましたが、イタリア人にとってこれは大した問題ではない、 大事なのはむしろ、オリンピック前に開催されるヨーロッパ12会場(開幕戦はローマ)での欧州選手権なのだそうです。

なにはともあれ、イタリアでのサッカー人気は不動です。2017年のアンケートでは、「興味のある(観戦したい)」スポーツはカルチョと答えた人は3000万人でだんとつトップ、イタリアの全人口は約6000万なのでふたりにひとりがカルチョを挙げたことになります。テレビ視聴率も、サンレモ音楽祭と1~2~3位を争っています。ちなみに「観戦したい」スポーツの2位は自動車レース、3位は自転車レースでした。

 

2.イタリアで人気のあるカルチョ以外のスポーツ

同じアンケートで、「自分でやってみたい」スポーツの1位は水泳で、2位のカルチョをわずかに上回ります。また、親が子どもにさせたいスポーツは、1位が水泳、2位はテニス、3位はバレーボール。カルチョが上位に入っていないのは、暴力やお金にまつわるダーティーなイメージがあるためでしょうか。

水泳ではイタリアで最も愛される女子アスリート、フェデリカ・ペッレグリーニが2008年に200m自由形で金メダルをとり、2009年に200m自由形の世界記録保持者となっています。このほか、バレーボール、ゴルフなどについて、イタリア事情が紹介されました。

そして、イタリアではスポーツにも郷土色が色濃いとの指摘は新鮮でした。たとえば、バスケットボールがカルチョより人気が高い町は、北イタリアのヴァレーゼ*。イタリアの家電製品メーカー〈イグニス Ignis〉をスポンサーとするチーム「パッラカネストロ・ヴァレーゼ」が、イタリアを7回、ヨーロッパを5回も制覇しています。

野球場が数か所あるのは、ラツィオ州ローマの南に位置するネットゥーノ。第二次世界大戦の終わりにネットゥーノ近郊の米軍基地の兵士たちが現地の人々に野球を伝授したのが始まりです。当時の米軍の映像にも見ごたえがありました。カルチョに比べたら浸透の度合いははるかに低い野球とはいえ、イタリア随一の強さを誇っていたネットゥーノでしたが、ここ10年ほどのあいだに野球はローマを通り越して北上し、現在の中心地はエミーリャ・ロマーニャ州だそうです。

このほかローラーホッケーの町としてローディ(ロンバルディア州)が紹介されました。

 

3.ラグビー

イタリアのラグビー上位12チームはいずれもローマ以北、18-19シーズンはうち6チームがヴェネト州を本拠地とします。ランクがひとつ下の30チームの中でも南イタリアを本拠地とするのはただ一つ、べネヴェント(カンパーニャ州)のチームです。サッカーはラグビーと違って、審判に暴言を吐くだけでなく、異議を唱えたり不満を示すことさえも許されません。サッカーでは、得意のジェスチャーでいつも審判に詰め寄るイタリア人たちも、ラグビーでは、そのような大人気ない態度は見せないことも驚きだったそうです。

さて、いよいよ東京でのワールドカップが始まります。イタリアはワールドカップに1987年の第一回大会から8大会連続で出場していますが、グループリーグを突破したことは一度もありません。今回も、ニュージーランド、南アフリカと同組とあって突破は極めて厳しい状況にありますが、南アフリカには2016年にいちど勝利をおさめたこともあるそうです。期待をかけましょう。

 

  以上が講演のごく大雑把な概要です。まもなく通訳として、再度、イタリア・ラグビーチーム合宿地である長野県菅平入りする佐藤さん、会場からの質問に答えて、母語をイタリア語としない選手への対応法についても話してくださいました。

冒頭の現地取材のエピソードのなかにはまた、今年5月のジロ・ディアリアの初日ゴール地点であったボローニャ郊外のサントゥアリオ・デッラ・マドンナ・サン・ルーカ教会にまつわるものもありました。佐藤さんも、自ら自転車で同じ道を走りたいと思ったけれど、地元の人に「やめておけ」と言われて断念。徒歩で行ってみたら想像以上にきつい勾配で、やめておいてよかったと思ったこと...そして、この教会を含め、意外なことにボローニャには世界遺産がひとつもない、という事実の発見!

狭くスポーツの内側にとどまらない幅広い視点からのコメントが豊富でした。サッカー中継テレビ視聴率とのからみから、サンレモ音楽祭のほか、人気の高い刑事ドラマ「モンタルバーノ」シリーズへと話題は広がり、また、バスケットボールの盛んなヴァレーゼ*が、『チポリーノの冒険』『二度生きたランベルト』などたのしい作品が日本語にも翻訳されている「児童文学作家ジャンニ・ロダーリが少年時代を過ごした町」として紹介された時には、ニンマリした方も会場にきっといらしたことでしょう。

  貴重な実体験のエピソードを散りばめたヴァラエティ豊かなお話で、スポーツ好きにはもちろん、スポーツ音痴にとってもたのしく充実した90分でした。 佐藤さん、ありがとうございました。 

                                (白崎)

 

イタリア食文化をマーケティングする (概要)

7月例会(469回) 

・日時:2019年7月31日 (水) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:磯部泰子氏(いそべ やすこ)(プロデユーサー 学習院女子大学国際交流学部非常勤講師 地域

           食文化論)

 略歴:学習院大学経済学部卒業(マーケティング、流通専攻)後、フジテレビの幼児教育番組「ひらけ!ポ

    ンキッキ」の制作に7年間従事。その後、博覧会・コンベンション、海外の食育の視察、日本の

    食文化の普及のイベント等の企画プロデュースを行う。2004年~2015年学習院マネジメント・

    スクール事務局長として、産学協同プロジェクトのコーディネィトに携わる

    主なプロデユース関係

    ・ビジネスプログラム開発「タイムライフ経営大学院」

    ・チベット密教芸術のアートパフォーマンス「マンダラ」  

    ・「日本の遺跡展 in Paris」

    ・ブルガリア日本文化月間「篠笛と琵琶の響き」 

    ・デイズニー「FAMILY TIME」サイト、コンテンツプロデユース 

    ・ 農水省委託事業 日本食・食文化の世界的普及プロジェクト「Nippon 美味しい使節団」in

     東欧

・演題:イタリア食文化をマーケティングする ~スローフード活動の発展:文化的なプロジェクトからビ

     ジネスへ~

 概要:イタリアに本部がある国際スローフード協会が企画した様々な食文化を軸としたプロジェクトが

    展開しビジネスへと実現していく様子を考察、お話しします。食科学大学の設立で食文化のアー

    カイブ化や世界中をネットワーク化、地域の活性化に貢献。

    食育スーパー「Eataly」を通して、世界にイタリアの食文化を情報発信し、マーケティングの成

    功事例にもなっています。食の物語性、付加価値など現在の日本のメーカー、流通がテーマとし 

    ている源流を発見でき、日本における地域振興の参考にもなっています。 (磯部泰子)

 

7月31日に第469回イタリア研究会例会が開かれました。

演題名は「イタリア食文化をマーケティングする」、副題が“スローフード活動の発展:文化的なプロジェクトからビジネスへ”、講師は学習院女子大学国際交流学部非常勤講師でプロデューサーの磯部泰子さんです。

スローフードという言葉は、日本でも市民権を得つつあるように思われますが、その本質が必ずしも正しく理解されているわけではなく、どのような戦略で発展してきたかについては、さらに知られていません。しかしこうした運動は経済的に成り立たなければ、長期間にわたって継続は難しく、そこにはイタリアらしい様々な戦略があるのです。

スローフード運動はトリノの近くにあるブラの街で、カルロ・ペトリーニによって始められました。単にゆっくりと食事をしようという意味ではなく、伝統的な食材、料理を発掘し、守り、それを広めることによって、地域にも経済的な恩恵をもたらそうというのがテーマです。そこで必要なのは、異なる分野の専門家(哲学者、歴史学者)の知恵を借り、物語性を持たせること、若者を呼び込み世界中にコンセプトを広めること、企業や行政とのコラボレーションに積極的に取り組むことです。こうした活動によって失業者の多い労働者の街だったブラの近郊には、食科学大学ができて世界中から学生が集まり、地元の若者たちも意欲を持って起業しようという雰囲気が盛り上がっているということです。日本では高級食材スーパーと考えられている「Eataly」も、元々はスローフード運動から生まれており、トリノ市内の廃工場を60年間無償で借りて再生するというプロジェクトによって、日本とは異なり安価に高品質な商品を提供しているということです。

カルロ・ペトリーニというカリスマの存在は大きいにせよ、企業のような長期的な事業計画に基づいて事を行うのではなく、プロジェクト・ベースで進んでゆくというやり方は、我々にも大きな示唆を与えてくれるように思います。講演後の質疑応答でも、多数の質問があり、活発な議論が行われました。

磯部さん、面白いお話をありがとうございました。(橋都浩平)

 

近世の都市ローマ−ローマ人のローマを探る(概要)

6月例会(468回) 

・日時:2019年6月18日 (火) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:原田亜希子氏(慶應義塾大学講師)

   略歴ː  慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。2008年イタリア政府奨学金にて

            ローマ第三大学に、2013年日本学術振興会若手研究者海外派遣プログラムにてボローニャ大学に

            留学。近世イタリア史、特に都市ローマの歴史を研究している。現在、大阪市立大学都市文化研

            究センター研究員。慶應義塾大学にて講師を務める。

・演題:近世の都市ローマ -「ローマ人」のローマを探る-

   概要:「永遠の都」ローマ。現在でも歴史の痕跡が至る所に溢れるローマは訪れる者を魅了し、多くの

    歴史家がその生涯を捧げてきました。しかしその一方で、古代や近現代に比べると、近世のロー

    マの研究は多くはありません。ルネッサンスやバロック芸術が華開く16,17世紀は美術史や建築

    の分野では研究が進む一方で、歴史学においてはリソルジメント期のイタリア人特有の歴史観の

    影響から否定的に捉えられ、もっぱら「教皇庁」のローマとして扱われてきました。そこで、本

    講演ではこれまで見過ごされてきた都市固有の社会構造や行政組織に注目し、「ローマ人」の 

    ローマの魅力を、最新の研究状況や史料をご紹介しながらお話ししたいと思います。

   (原田亜希子)

 

イタリア研究会第468回例会が開かれました。演題は「近世の都市ローマ−ローマ人のローマを探る−」。講師は慶應義塾大学講師の原田亜希子さんでした。

講師の原田さんは小学生の時期にローマ在住の体験があり、慶応大学でイタリア語を学んだことからイタリア史に興味をいだき、ローマ第三大学、ボローニャ大学に留学して、史学研究の面白さに嵌まってしまったという経歴の持ち主です。ここで言うところのローマ人はもちろん古代ローマ人ではなく、江戸っ子と同じような意味でのローマ人です。

ローマは歴史が重積した街で、古代ローマの遺跡が残る街、そして教皇領(教皇国)の首都としての側面ばかりが強調されがちですが、他のイタリア都市と同じように都市政府がありコムーネとして働いていたことも忘れてはなりません。近世の都市ローマの発展は1420年のマルティヌス5世のアビニョンからの帰還に始まりますが、その頃のローマの人口は多く見積もっても3万人で、城壁の中にも空き地が多く、牛や羊がさ迷っているという状態でした。そこに教皇庁が豊富な資金を投入して、キリスト教の本山にふさわしい街づくりを進めたわけですが、これまで都市政府が果たした役割は教皇庁に較べるときわめて限定的と考えられていました。それには都市政府側の資料が乏しいことも影響しており、原田さんは評議会議事録、裁判資料など膨大な資料を読み解くことによって、都市政府も重要な役割を果たしており、教皇庁と相互補完的な働きを持っていたことをあきらかにしました。

面白いのは、何年かに一度からならず巡ってくる、現教皇が亡くなって、次の教皇が選ばれるまでの空位期間を都市政府が巧みに利用していたこと、都市政府からは排除されていたオルシーニ、コロンナなどの名家とも時には合従連衡するという巧みな戦略を使って、都市政府が力を発揮していたという点かもしれません。まさにマキアヴェッリの世界です。ローマの歴史にご自分の研究成果を織り込みながら、きわめて内容の濃い90分の講演とする原田さんの力量に聴衆は感心し聴き入っていました。原田さん、ありがとうございました。(橋都浩平)

 

ウンガレッティにおける生死の詩情(概要)

5月例会(467回) 

・日時:2019年5月21日 (火) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:マルティーナディエゴ氏(詩人・翻訳家)

 略歴:1986年イタリア生まれ。ローマ・ラ・サピエンツァ大学東洋研究学部日本学科(日本近現代文学

    専門)学士課程を終了後、日本文学を専攻、修士課程を修了。東京外国語大学、東京大学に留学。

    谷川俊太郎作『二十億光年の孤独』などを伊語訳、刊行。2018年刊行の自身初の詩集『 元カノ

    のキスの化け物』は、読売新聞において「2018年の3冊」として、歌手一青窈氏に選出され、書

    評を頂く。

・演題:ウンガレッティにおける生死の詩情 

 概要:エルメティズモ派の先駆者と言われるイタリアの詩人ジュセッペ・ウンガレッティ(1888年

    -1970年)をテーマとした講演会。 第一世界大戦へ出征した詩人は、生と死に触れ、その体験を

    詩に委ねる。1916年に発行される彼の処女詩集『埋もれた港』等の詩を読み解きながら、エルメ

    ティズモ派の詩への理解や、ウンガレッティの詩情を究めていく。(マルティーナディエゴ)

 

イタリア研究会第467回例会が開かれました。演題名は「ウンガレッティにおける生死の詩情」、講師は詩人で翻訳家のマルティーナ・ディエゴさんです。マルティーナさんは昨年、日本語による処女詩集「元カノのキスの化け物」を出版され、また谷川俊太郎の詩集をイタリア語に翻訳されており、翻訳というものについても一家言を持っています。

ひと言で言えば、たいへん「熱い」講演だったと思います。ジュセッペ・ウンガレッティは1888年に生まれ1970年に亡くなった20世紀イタリアを代表する詩人の1人です。彼はエルメティズモ派に属しており、その詩は簡潔で、難しい言葉を用いてるわけではありませんが、逆に多義的な解釈を許し翻訳は簡単ではありません。日本では河島英昭さんが全詩集を翻訳しており、須賀敦子さんもいくつかを翻訳しています。マルティーナさんは彼のいくつかの詩の原文と、河島さん、須賀さん、マルティーナさんによる翻訳を提示して、それを朗読しながら話をされました。

エルメティズモはイタリア語の音感を重視しており、脚韻よりも頭韻を重視しています。そしてウンガレッティは第1次世界大戦への従軍体験を元に詩作を始めましたので、その詩では当然のことながら生と死とが重要なモチーフになっています。しかしそれを直裁的に表現したのでは、それは散文としては成り立っても詩ではなくなってしまうとマルティーナさんは主張します。そしてウンガレッティの短い詩で用いられる少ないイタリア語に彼がどのような意味を持たせ、どのような響きを与えようとしていたのかを詳しく語ってくれました。途中で質問を受け付けながらの講演は、聴衆の反応も熱を帯び、さまざまな解釈や質問が続出しました。僕たちのイタリアの詩、そしてイタリア語そのものに対しても、蒙を啓いてくれた講演であったと思います。マルティーナさん、ありがとうございました。

最後に彼のもっとも有名な詩「Soldati」をマルティーナさんの翻訳とともに挙げておきます。

Soldati (luglio 1918)

Si sta come
d’autunno
sugli alberi
le foglie

兵士たち(1918年7月)

我々は
秋の
木の
葉のように

(橋都浩平)

イタリア鉄道の歴史1839−2019(概要)

4月例会(466回) 

・日時:2019年4月23日 (火) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:山手昌樹氏(日本女子大学文学部学術研究員)

 略歴:広島県生まれ。2007年、イタリア政府給費奨学生としてトリノ大学へ留学。2011年、上智大学

    大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。2018年、博士(史学)。現在、日本女子大学文学

    部学術研究員。専門はイタリア近現代史(ファシズム、農村、ジェンダー、鉄道)。

    著書に『教養のイタリア近現代史』(共編著、ミネルヴァ書房、2017年)。

・演題:イタリア鉄道の歴史 1839-2019

 概要:1839年10月、ナポリでイタリア半島初の鉄道路線が開通した。それから180年、イタリアにお

    いて鉄道はどのような役割を果たしてきたのか。その歩みは、イタリア統一、ナショナリズム、

    ファシズム、経済の奇跡、ヨーロッパ統合といった、イタリア史上の重要なできごとと密接に関

    係してきた。イタリア鉄道180年の歴史を振り返るとともに、今後も展望していきたい。

   (山手昌樹

 

4月23日にイタリア研究会第466回例会が開かれました。演題名は「イタリア鉄道の歴史1839−2019」、講師は日本女子大学文学部学術研究員の山手昌樹さんです。

イタリア鉄道の歴史はじつは長く、日本よりも30年以上早く1839年にはナポリからポリディチまで7kmの路線が作られ営業を開始しました。しかし1861年のイタリア統一まで多くの国に分裂していたイタリアでは鉄道の延長は思ったようには進みませんでした。鉄道を初めとする文明化に反対する教皇もいたくらいだったのです。しかし統一の立役者の一人であるカブールは鉄道にも大いに関心を持っており、統一後には北部を中心に鉄道網が発達して行きました。

しかしあまりに沢山の鉄道会社が乱立した弊害も見られ、1865年に完全民営化されていた鉄道は1885年には上下分離方式(基盤と運営との分離)が採用され、1905年には国営化されました。これによって老朽化した施設や機関車が刷新され、長大なトンネルも建設されて鉄道は黄金時代へと向かうことになります。ファシスト党も鉄道を民意獲得の1つの手段として重要視し、電化、高速化を進めるとともに近郊型の気動車リットリーナも導入されました。しかし一方でミラノ中央駅からユダヤ人が貨物列車に乗せられて強制収容所へと送られたというイタリア鉄道の負の歴史も忘れるわけには行きません。

戦争中に破壊された鉄道も多かったのに対して、戦後は政府がモータリゼーションに力を注ぎ高速道路の建設に多くの予算が使われたため、鉄道の復興は遅れることになります。そして鉄道が南から北への国内移民の輸送に使われたために、「鉄道=貧者の乗り物」というイメージが定着し、遅れも頻繁であったことから鉄道に対するマイナスのイメージが定着してしまいました。しかしモータリゼーションの弊害も目立つようになり、EU全体の方針としての都市間高速鉄道網の建設が順調に進んだことから、21世紀のイタリアの鉄道は大きく変わりつつあります。都市内の交通手段としても各地でメトロが建設され、トラムの復活やさらに小型のミニメトロの導入など、一部では日本の鉄道事情を凌駕する発展も見せているのです。しばらくイタリアに行っておられない方は、イタリア鉄道の現況にびっくりされるのではないでしょうか。

山手さん、分かりやすく面白いお話をありがとうございました。(橋都浩平)

 

都市とオペラ:ミラノという街が生んだオペラの殿堂スカラ座(概要)

3月例会(465回) 

・日時:2019年3月7日 (木) 19:00-21:00

・場所:東京文化会館 4F大会議室

・講師:井内美香(いのうちみか)氏 (音楽ジャーナリスト/オペラ・キュレーター) 

 略歴:学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。

 ミラノ国立大学人文学科で  音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとしてオペラ関係のライ

 ター、コーディネーター、通訳として20年以上活動。2012年2月に帰国後はオペラに関する執筆、通

 訳、講演の仕事をしている。
 著書「バロック・オペラ―その時代と作品(共著)」(新国立劇場運営財団情報センター刊)他。

・演題:都市とオペラ 〜ミラノという街が生んだオペラの殿堂スカラ座〜

 概要:都市と劇場は密接な関係を持っています。街の特徴を反映するのが劇場と言えるでしょう。ミラ

 ノ・スカラ座が世界屈指の歌劇場になったのも、ミラノという都市のもつ地理的、歴史的、人種的な特 

 徴が大きく関わっています。その過程を、スカラ座の今と昔を検証しながら考えたいと思います。 

( 井内美香)

 

3月7日にイタリア研究会第465回例会が開かれました。講師は音楽ジャーナリスト・オペラキュレーターの井内美香さん、演題名は「都市とオペラ:ミラノという街が生んだオペラの殿堂スカラ座」でした。

井内さんは学習院大学哲学科を卒業した後、オペラ評論家の永竹由幸さんとオペラ関連の仕事を始めたのをきっかけにミラノに渡り、20年間に亘り数多くのイタリアのオペラ劇場の日本への引っ越し公演のコーディネーター、通訳を務められました。スカラ座の公演には何度行ったか分からないというくらいのオペラ通、スカラ座通ですが、その体験からなぜミラノという街に世界一と言って恥じることのないスカラ座ができたのかを語ってくれました。それには歴史、文化、人が深く関わっています。

ミラノは古くから交通の要衝であり、歴史的に栄えてきましたが、それは現在も変わらずミラノはイタリアの経済、金融、ファッションの中心です。そうした経済的な基盤と、オーストリア支配が長く啓蒙主義の中心地であったことがスカラ座誕生の契機になりました。王宮内にあったオペラ劇場が焼失した後に、貴族達がお金を出資し合って建設されたのが現在のスカラ座で、1778年の事でした。当時の桟敷席は現在で言えば分譲マンションのような感じで、貴族は自分の好みで内装を整え、食事をしながら社交の場として利用してきました。しかしスカラ座を作ってきたのは貴族達だけではありません。いわゆる「天井桟敷族」の庶民達が喝采をし、容赦の無いブーイングを浴びせて現在のスカラ座を育ててきました。スカラ座には2度の大きな危機がありました。1861年の共和国成立で貴族の力が弱まりオペラが衰退して、スカラ座も一時閉鎖の憂き目を見たのですが、この時にはヴィスコンティ侯爵が中心となって経済的に立て直しを図り再開にこぎ着けました。興行主制から支配人制になり、桟敷席も貴族の私有から財団の所有へと変化したのです。

2度目は第2次世界大戦中の空爆による劇場の破壊です。しかしミラノ市当局と市民は何よりもミラノの象徴であるスカラ座の復興を優先とし、驚くべき速さでスカラ座は再開されました。この時の立役者がその後長く総裁を務めることになる実業家のアントーニオ・ギリンゲッリです。彼は報酬を受け取らず、資材を無利子で貸し出すなどしてスカラ座がまさに世界一の歌劇場となる事に貢献したのです。現在スカラ座はチケットが高価すぎるために一部の富裕層のものとなっているという批判を浴びながらも、ゲネプロを若者に安価に提供する、街中でライブビューイングを行うなどの努力をしています。ミラノという街と人とに支えられたスカラ座はこれからも世界一の歌劇場としての地位を保ち続けるでしょう。

井内さんお薦めのスカラ座紹介のユーチューブはこちらです。

https://www.youtube.com/watch?v=AeT_m7VnGzo

(橋都浩平)

イタリアに勤務して感じたこと、考えたこと(概要)

2月例会(464回)
・日時:2019年2月18日 (月) 19:00-21:00
・場所:東京文化会館 4F大会議室
・講師:坂口尚隆氏(元外務省職員)
   略歴:1957年岡山生まれ、1980年早稲田大学政経学部卒業後、外務省に入省。
   在外はイタリア(イタリア大、ミラノ総)、タンザニア、ラトビアに勤務。
   2017年アルバニア大使館開設業務に従事。現在、行政書士。
・演題:イタリアに勤務して感じたこと、考えたこと
   概要:外務省に在職中は、イタリアには都合3回(80年代、90年代、2000年代初め)在勤し、
   本省(東京)ではイタリアを所掌する課に2回勤務しました。
   イタリアと関わりのある現場に長年いた一人として、「日本にとってのイタリア」、「イタリアと日本
   との関係」などにつき感じたこと考えたことをお話ししたいと思っております。 (坂口尚隆)

 

 イタリア研究会第464会例会が開かれました。講師は30年来のイタリア研究会会員で永年外務省にお勤めだった坂口尚隆さん、演題名は「イタリアに勤務して感じたこと、考えたこと」でした。
坂口さんは1980年に外務省に専門職員として入省し、イタリア語の研修が割り当てられました。当時のイタリアには現在のような食やファッションに秀でたオシャレな国というイメージはまったくなく、周囲から同情されるような状況だったそうです。しかも当時のイタリアは政治的、経済的に不安定な時期で、坂口さんがイタリア在住中にも赤い旅団事件、ボローニャ駅爆破などのテロも連続して起こっていました。しかしイタリアの経済が安定し、日本も同様に経済成長が著しく外貨が獲得できるようになると、日本人の間でイタリア旅行、イタリアのファッションがブームとなり、イタリアのイメージが大きく変わりました。そして1989年にベルリンの壁が崩壊し、東欧の共産主義政権が次々と倒れると、共産党が強かったイタリアの政治風土にも大きな変化が起こりました。
イタリアを理解するためには、イタリアがヨーロッパの中で英、仏、独と肩を並べる地位につきたいと常に意識していることを理解する必要があります。ですからイタリアはG7サミットで主導的な立場に立ちたい、国連の常任理事国になりたいというオブセッションを抱き続けています。とくに隣国のフランスに対しては特別なライバル意識を持っているということです。坂口さんが外務省在任中にも、大使館の役割・業務は大きく変わりました。かつては電報と電話しかなかった通信手段がメールやSNSを含むIT化により、高度にそして容易になりました。大使館もみずから情報発信を行う必要性に迫られています。またかつては大使館は「民事不介入」の原則を貫いていたのが、日本のブランドの売り込みやビジネス環境の改善にも努めるようになっています。
イタリア人は食やファッションだけではなく自国の技術に誇りを持っており、それを知っておく必要があります。またイタリア人の特徴として、現実的かつ臨機応変な対応が得意である、議論にタブーがなく自由な討論を好む、相手が何を言われたら喜ぶかを良く知っている褒め上手である、などが挙げられるという事です。またイタリア語は世界共通語となった英語、外交用語としての地位が確立されたフランス語、公用語となっている国の数が多いスペイン語と較べて特殊な言語と考えられがちですが、スペイン語との近親性を含め汎用性、普遍性があるので学んで損をしない言語であると坂口さんは強調されました。これはイタリア研究会会員にとって励みとなる情報です。
坂口さん、みずからの経験に基づいた広範な話題を分かりやすくお話し下さりありがとうございました。
(橋都浩平)