フリードリッヒ2世の十字軍(講演記録)

第421回 イタリア研究会 2015-7-9

フリードリッヒ2世の十字軍

報告者:高山博(東京大学教授)

橋都:皆さんこんばんは。足元の悪いところ、第421回イタリア研究会例会にようこそおいでくださいました。私は、先ほどの総会でイタリア研究会運営委員長を退任したばかりの橋都です。運営委員会代表になったのですけど、相変わらず司会はやりますので、よろしくお願いします。
 今日は、東京大学大学院教授の高山博先生にご講演をお願いしております。高山先生にはこれまでにもイタリア研究会では何度かご講演をお願いしていますけれども、今日は「フリードリヒ2世の十字軍」ということでお話をお願いしております。
 最初の会報では「フェデリーコ2世」と出ましたけど、われわれにとっては「フリードリヒ2世」のほうが多分通じやすいのではないかと思います。この方は、お話があると思いますけど、最初の近代人ということもよく言われておりまして、ローマ法王と丁々発止やり合い、俗に言う無血の十字軍を成功させたということで大変有名な方です。今日はそのフリードリヒ2世の、いわゆる無血十字軍というのはどのようにして達成されたのかということをお話ししていただきます。
 それでは、高山先生のご略歴をご紹介したいと思います。高山先生は1956年福岡県のご出身で、東京大学文学部の西洋史学科のご卒業です。大学院で修士・博士課程を終えられまして、エール大学の歴史学研究科博士課程を終えられて、エール大学のPh.D.を取られております。そして、一橋大学助教授を経て、1993年に東大助教授、そして2004年から東京大学の教授、その後、改編で大学院教授になられたということで、大変ご高名な方です。著書としては、皆さまお読みになった方が多いかと思いますけれども、『中世地中海世界とシチリア王国』、その他シチリアの歴史を中心として大変たくさんの著作、論文をお持ちの方です。
 今日は「フリードリヒ2世の十字軍」ということでお話をしていただくので、私も大変楽しみにしております。それでは高山先生、よろしくお願いします。(拍手)


高山:ご紹介どうもありがとうございます。最初はイタリア語の「フェデリーコ2世」でご連絡したのですけれど、日本では「フリードリヒ2世」のほうが一般に知られておりますので、今日は「フリードリヒ2世」で通すことにいたします。
 それでは、早速始めさせていただきます。最初に、世界の歴史の中で十字軍という言葉は、異教徒、異端に対するキリスト教徒の聖なる戦いという意味で、中世以降もさまざまな軍事遠征に対して広く用いられております。しかし、一義的には、聖地をイスラム教徒の手から取り返して保持するためになされた1096年から1170年にかけてのキリスト教徒による一連の東方軍事遠征を指します。
 11世紀の末からほぼ200年にわたって続いた十字軍は、その始まりの時から今日に至るまで、キリスト教徒による異教徒討伐の聖戦として人々の記憶に長くとどめられてきました。アメリカのブッシュ大統領が「テロに対する十字軍」という表現を用いて批判を浴びたのを覚えておられる方も多いと思います。十字軍は、自覚しているか否かにかかわらず、今でも私たちの歴史観や世界観に影響を与え続けているということが言えると思います。
 今日は、この十字軍の歴史の中で、戦いによらず交渉によって聖地エルサレムを取り返したフリードリヒ2世の十字軍に焦点を当てて、そして最後に文明の交流と衝突について考えてみたいと思っております。
 今日は、3つに分けてお話をしようと思います。ちょっと違和感のある図かもしれませんが、これはNHKの「高校講座」の番組で使用したものです。そのため講義内容となっていますけれど、この3つに分けて話を進めていきたいと思います。最初は、十字軍の始まりと十字軍の一般的な性格について。そしてその後に、今日の中心テーマですけれど、フリードリヒ2世の十字軍について。そして最後に、このフリードリヒ2世の十字軍に焦点を当てることによって、私たちの歴史を見る目がどういうふうに変化するのかということをお話ししたいと思います。
 最初は、十字軍の始まりです。十字軍が始まるのは1096年ですが、この11世紀の末という時代はヨーロッパにとってどういう時代だったのか。ここでは3つの重要な点を指摘しておきたいと思います。1つ目は広域秩序の回復を含むヨーロッパ社会の変化、2つ目は巡礼熱の高まり、そして3つ目はローマ教皇庁の変化。この3つを少し詳しく見ていきたいと思います。
 ここに2枚の地図があります。左側はバイキング、マジャール、イスラム教徒の侵入を示した地図です。十字軍が始まる直前、つまり11世紀の西ヨーロッパは、バイキングの侵入などによる混乱状態から、広い範囲にわたって秩序が回復し始めた時期に当たります。この広域秩序の回復に伴いまして、人々の活動が活発になっていた時代です。右側は11世紀末のヨーロッパの地図です。これは日本で作られた歴史地図で、境界が非常にクリアに書かれていますけど、あまり信用しないでください。受験生のために、こういう境界といいますか、王国の範囲がどれぐらいだったかが描かれていますけど、実際にはよく分かっていませんので。
 もちろん、王国の範囲は時代によっても大きく変動しますし、ここで色分けされているように王や皇帝の支配が及んでいたかというと、必ずしもそうではありません。だから一つの目安としてご覧ください。
 この時期、農業では鉄製の農具が普及し、すきの改良が行われて、耕地を増やすための開墾が盛んに行われるようになっております。社会の安定化と農業の発展は、商業の発展を促しました。人々が集まる教会や修道院、交通の要所では、生産物を交換するための定期市が開かれるようになります。司教の所在地、それから王侯の宮廷があった場所、こういった所は商人や手工業者が住む都市へと発展していきました。こうして新しい都市が生まれて、寂れていた古代ローマ時代の都市が復活してまいります。そして、沈滞していた遠隔地交易も活発化し始めるということです。地中海沿ではイタリアのベネチア、ジェノバ、ピサ、こういった海港都市が早くから地中海交易に従事し、東方から香辛料や絹などを西ヨーロッパにもたらして富を蓄積しておりました。
 この時期までにローマ・カトリックのキリスト教は西ヨーロッパに広く普及しておりまして、その影響は農村部にまで及んでおりました。そして11世紀には人々の間に宗教熱が高まりました。かつての使徒と同じような質素な生活を送ることを目指す人々が増えて、聖地への巡礼が流行し始めます。年代記作家グラべールは、11世紀の前半、全世界から数え切れないほど多くの人々がエルサレムのキリストの墓を詣でるようになったと記しております。この年代記作家によりますと、身分に関わりなく、下層の人々も中流の人々も王侯や高位聖職者など身分の高い人々もこの巡礼に出掛けていきました。そして、それまで見ることのなかった女性たち、高貴な夫人から下層の女までもがこの巡礼に加わっておりました。そして、この巡礼者たちの多くが故郷に戻ることを考えず、聖地で生を終えることを願っていた、そういうふうに記されております。
 他方、フランス中東部のクリュニー修道院を中心に生まれた教会改革運動の波が、11世紀半ばの神聖ローマ皇帝によるローマ教皇庁の改革を引き起こしました。それまでのローマ教皇は、ローマの貴族たちによって決められる力のないローマ司教にしかすぎませんでしたが、この改革運動の中で西ヨーロッパ教会の首長としての地位を固めていくことになります。同時に、ローマ教皇を頂点とし、大司教、司教、司祭という教会組織の階層性も確立していきました。
 1073年に教皇に即位したグレゴリウス7世は、教会の悪弊を改めて俗人による聖職者の任命を厳しく禁じようとしました。しかし、司教や修道院長を重要な統治の手段としていた神聖ローマ皇帝はこれを受け入れることができず、教皇と激しく衝突することになります。
 こうして始まった叙任権闘争の中でグレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世を破門に処しました。大諸侯たちの離反を招いたため、皇帝は結局1077年、イタリアのカノッサに教皇を訪ねて謝罪することになります。これが有名なカノッサの屈辱です。ここにある絵は、そのハインリヒ4世がトスカーナ女伯に教皇へのとりなしを頼んでいる場面を描いたものです。第1回の十字軍が始まる直前のヨーロッパはこういう状況でした。
 では次に、十字軍がどのように始まりどのように展開したか、また十字軍の影響と特徴を簡単にまとめてお話ししようと思います。
 まず十字軍の始まりですが、十字軍が始まる直接のきっかけは、セルジューク朝の勢力拡大でした。11世紀の末に聖地エルサレムを支配しておりましたセルジューク朝がアナトリア(小アジア)に勢力を拡大してビザンツ帝国を脅かし始めます。そうしますと、ビザンツ皇帝はローマ教皇ウルバヌス2世に、西ヨーロッパの王や諸侯の救援を求めました。そのために教皇は1095年、クレルモンの教会会議で、聖地回復のための十字軍遠征を呼び掛けたのです。左側の絵がクレルモンの教会会議の様子、右側が演説するウルバヌス2世です。この時、教皇ウルバヌス2世は次のように話したと言われております。キリスト教徒であるあなた方には、世界の中心にして天の栄光の王国であるエルサレムへ行き、異教徒と戦って、キリストの聖地を汚辱から救い出す義務があります。乳と蜜の流れる国は神があなた方に与えた土地なのですと。こうして第1回十字軍が招集されることになります。
 教皇の代理として、フランスのル・ピュイ司教アデマールが総司令官に任命され、彼の指揮下、世俗君主率いる4つの軍団が組織されました。この遠征軍は地中海東岸のアンティオキアとともに聖地エルサレムの征服に成功し、その地に十字軍国家を樹立することになります。この絵は十字軍士たちがエルサレムを攻撃している場面です。ここに記してある文章はモリソンの『十字軍の研究』(クセジュ文庫)から引用したものですが、モリソンが年代記の記述からまとめたものです。「都に入城した巡礼たちは、ソロモン神殿前にまでサラセン人を追い詰め皆殺しにした。そこではわが兵士たちはくるぶしまで血の池に浸かって進むほどの大虐殺が行われた。やがて十字軍士は町中を走り回り、金銀や馬、ロバなどを略奪し、富にあふれた家々を荒らし回った。次いでわが兵士たちは、歓喜の果て、幸福に酔い、うれし泣きに泣きながら、われらの救い主、イエズス・キリストの墓に詣で、キリストに約束した彼らの義務を果たし終えた」。
 この十字軍遠征の結果、聖地エルサレムを含む地中海東岸の土地を十字軍士たちが征服し、十字軍国家が建てられます。紫の線で囲ってあるのが、この第1回十字軍で占領した地域です。しかし、周囲をイスラム諸国に囲まれた中で、これらの国家を維持するのは困難を極めました。聖地や主要都市がイスラム教徒に奪回されるたびに新しい十字軍が派遣されることになります。200年間に7回の大きな十字軍が招集されましたが、ほとんどが失敗でした。
 十字軍は、史料の中でしばしばエルサレム巡礼や聖墓詣で、あるいは道行きと書かれていますが、聖地解放という軍事的な目的を持つ巡礼でした。その参加者には、留守中の家族と財産の保護が認められ、贖宥、許しが与えられました。初期の十字軍には多くの農民や都市民が参加しましたが、彼らは戦うための装備も準備もしていないただの巡礼の徒でした。実際の戦闘では、兵士たちの足手まといとなったり、戦いの犠牲者となったりしました。しかし、彼らにとっては、聖地解放よりも巡礼の苦難を経て聖地で死ぬことのほうが重要だったと言われています。
 13世紀になりますと、十字軍はこの巡礼的な性格を弱めて、より軍事的な遠征となります。十字軍は人々の信仰心と宗教的情熱により引き起こされましたが、教皇の政治的野心、諸侯や騎士の領地獲得欲、そして商人の利権拡大、こういったものが絡み合って当初の目的から次第に逸れていきます。そして、十字軍の失敗により教皇の権威は損なわれ、参加した騎士の多くは没落したと考えられています。しかし、その輸送と補給を行ったイタリア海港都市は、その後、東方との交易で富を蓄積し、地中海の覇権を手にすることになりました。
 この十字軍は、従来言われてきたように、ヨーロッパの経済的発展に大きく寄与したわけではありませんし、騎士階級の没落や王権の強化を引き起こしたわけでもありません。東方文化のヨーロッパへの輸入という役割も、スペインや南イタリアに比べればそれほど大きなものではありません。しかし、十字軍は少なくとも3つの点でその後の歴史に大きな影響を与えました。
 ここにまとめてありますが、1つ目は、異教徒を敵と認識することによって、キリスト教徒の共同体としてのヨーロッパが、初めて多くの人たちの意識の中で共有され始めたということです。そして、聖なる戦いの最高指揮官である教皇が権威と影響力を強め、十字軍をヨーロッパ内部の異端撲滅や政敵攻撃のために利用し始めました。しかし、十字軍の失敗とともに教皇の権威は損なわれることになります。また、第1回十字軍開始後の大規模なユダヤ人虐殺に見られるように、人々の異教徒、異端への不寛容を増大させました。
 第2に、この一連の軍事遠征は、攻撃されたイスラム教徒の側にも異教徒に対する不寛容を増大させ、イスラム諸国に住むキリスト教徒やユダヤ教徒への弾圧、攻撃を引き起こすことになりました。第3に、ビザンツ帝国を蹂躙した1204年の第4回十字軍に典型的に示されておりますように、東と西のキリスト教徒たちの間の亀裂と不信を決定的なものにしました。このように十字軍は国際政治関係と人々の意識において、ローマ・カトリック西欧世界、ギリシャ正教ビザンツ世界、イスラム・アラブ世界の対立の構図をはっきりと浮かび上がらせることになったわけです。
 十字軍は、理念の上からは常にキリスト教徒の、異教徒との戦いでした。その戦いは、キリスト教徒共同体の指導者である教皇により提唱され鼓舞された聖なる戦いでした。後に、キリスト教内部の異端、時には教皇の政敵に向けられることもありましたが、基本的にはキリスト教徒共同体を守る戦いであり、外敵を征服して自分たちの世界を拡大する戦いでした。
 このように自分たちの集団外の人々を異質なものとする認識は、この十字軍に限ったことではありません。20世紀に至るまで、あるいは21世紀に至るまで、古今東西、勢力を拡大するどの集団にも見られました。十字軍に固有なのは、キリスト教という宗教がその原動力となり続けたということ、教皇が主導的な役割を果たし続けたということです。十字軍は、キリスト教徒とイスラム教徒が対峙して戦う宗教戦争ではなくて、十字軍士による一方的な征服戦争でした。他者集団への無知、そして教皇による正当化のために異教徒への攻撃は凄惨を極めました。
 この血で血を洗う十字軍の歴史の中で、唯一、一度の戦闘も交えることなくエジプトのスルタンとの交渉だけでエルサレム回復に成功した十字軍があります。それが神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の第5回十字軍です。この十字軍は一般にはあまり知られておりませんでした。それどころか十字軍研究者たちのほとんどが注目することも重視することもしませんでした。彼らの多くはこの十字軍を正式なものと見なさず、番号を振ることさえしませんでした。そのため、この十字軍は今でも単に「フリードリヒの十字軍」と呼ばれたり、第5回十字軍の一部と見なされたりすることが多いと言えます。その理由は主として2つあります。1つは、フリードリヒが十字軍遠征を行った時、教皇から破門された状態にあったために、この十字軍を正式の十字軍と見なしてこなかったということ。もう一つは、フリードリヒが率いた軍隊が一度も異教徒と戦わなかったために純粋な十字軍とは見なされなかったということです。
 しかし、まさにこの戦闘を行わず交渉によってエルサレムを回復したという点が、実は現在の私たちの関心を引く最大の理由です。西ヨーロッパ中の老若男女が十字軍熱に浮かされて、聖地で殉教することを求め、諸侯、騎士の多くが異教徒との戦いで武勲の誉れを勝ち取ろうとしていた時に、このフリードリヒ2世は異教徒と戦わず交渉する道を選びました。
 ここで、このフリードリヒ2世がどういう人物だったかをお話ししておきたいと思います。この像はバルレッタの市立博物館が所蔵しているもので、フリードリヒ2世の像と考えられているものです。このフリードリヒ2世は、中世ヨーロッパに生きた人間の中で私が最も興味を引かれて、いつの日かその伝記を書いてみたいと思っている人物です。
 彼は、シチリア王と神聖ローマ皇帝とエルサレム王の3つの冠を手にして、ドイツとイタリア、そして地中海東岸を含む広大な領土の支配者となりました。彼は、当時のヨーロッパ世界の君主には珍しく、盲目的な十字軍熱に侵されることもなく、交渉によってエルサレムを取り返しましたが、こうした態度は当時のヨーロッパ世界では理解されることも受け入れられることもなく、ローマ教皇から2度にわたる破門を宣告されております。その結果、20世紀以前の教会史研究者たちは、彼を「専制的で放縦な無信仰者」、「教皇権の否定者」と呼んでおりました。ただ、ブルクハルトという歴史家が、「王座にある最初の近代人」と呼んで以来、近代国家の祖として引き合いに出されることも多くなりました。このフリードリヒ2世の中に見られる合理的で現実的な態度は、彼の育ったシチリアの政治・社会状況の中で形成されたものです。彼は神聖ローマ皇帝として知られておりますが、ノルマン・シチリア王国で生まれ育ちその伝統を受け継ぐシチリア王であって、神聖ローマ皇帝の位は単に併せ持っていたにすぎなかったと言えます。
 左側にフリードリヒ2世の系図があります。ここではラテン語表記していますのでフリードリヒは「フレデリクス」となっていますけれど、このフリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝とシチリア王の娘の子として1195年にこの世に生を受けました。3代目のシチリア王に息子がいなかったため、シチリア王位はフリードリヒ2世の父の手に移り、その父の死後、3歳のフリードリヒ2世に与えられることになりました。彼は母の胸に抱かれたまま、1198年、パレルモでシチリア王として戴冠しました。しかし、幼いフリードリヒは同じ年に母を失って孤児となってしまいます。形式的に教皇の後見下に置かれはしましたけれど、そのままパレルモのイスラム教徒たちによって育てられたと言われています。7歳以後の5年間、彼に関する情報は途絶えてしまいます。しかし、12歳の時までには既に武術、馬術に長じて、知的探究心も旺盛になっていたということが知られております。彼は1208年に14歳で成人の式を迎えて、教皇が選んだ24歳のアラゴン王女と結婚しました。そして、この年上の妻の指導の下で君主として成長していくことになります。
 彼が継承したノルマン王国は、異文化の共存によって繁栄した王国でした。12世紀のノルマン王の時代、パレルモのイスラム教徒たちは郊外に自分たちの居住区を持ち、自分たちの裁判官を持ち、自分たちの法と慣習に従って生活していたことが知られております。イスラム教徒同士の問題はその共同体の中で解決されていました。イスラム教徒たちはノルマン王の下、自治を認められていたわけです。フリードリヒ2世のシチリア王国は、このようなノルマン王国の特徴を受け継いでいました。つまり異文化集団が併存し、ノルマンの統治が採用されていたということです。
 この石板はご覧になった方もおられると思いますけれど、4種類の文字が刻まれた12世紀の墓碑です。言語としては3つです。ヘブライ文字で書かれたアラビア語が上、下がアラビア語、左側がラテン語、右側がギリシャ語と、当時のシチリアを象徴するような遺物です。
 次にお見せするのは、私が使っている史料です。この羊皮紙にはアラビア語、ギリシャ語が併記してあります。併記といっても、最初の序文と最後の跋文がギリシャ語で、間がアラビア語、人名がアラビア語で書いてあるという史料です。こちらの羊皮紙文書は1145年に作られたものです。恐らく最初の部分にアラビア語が書かれていたと思われますが、その部分は残っていません。その後に農民の名簿があって、これはアラビア語とギリシャ語併記、両方が書いてあります。最後の部分はアラビア語です。このように先ほどの羊皮紙文書とは言語の配置がだいぶ違っています。こちらは最初と最後がアラビア語、真ん中が2言語併記という構成になっています。
 フリードリヒ2世は、かつてのノルマン王たちと同じく、イスラム教徒の役人、軍隊を抱えていました。つまりイスラム教徒たちとは日常的に接していたということです。彼の宮廷がイスラム教徒を含む優れた学者たちの活躍の場となっていたこともよく知られております。彼はまたイスラム世界の政情にも通じており、イスラム教徒を異教徒として敵視することもありませんでした。他のヨーロッパの王侯たちがキリスト教世界しか知らなかったのとは全く違っていたということです。彼は他のヨーロッパ君主たちと違って、キリスト教徒、教皇を中心とした世界観、価値観から自由だったと言うことができます。彼の意識の中で自分と対立・衝突していたのは異教徒ではなくて、同じキリスト教徒の諸侯であり、神聖ローマ皇帝となって以後はとりわけ教皇でした。
 この写真の絵は、左側が4代目の王タンクレドゥスの書記たちを描いたものです。左からギリシャ人、アラブ人、それからラテン系と、その書記たちが描き分けられています。
 フリードリヒは1215年にドイツ王として戴冠した時、そしてさらに1220年に神聖ローマ皇帝の冠を受けた時、十字軍に行くことを誓約しました。そして十字軍の準備を始めていました。
 しかし、1221年にバイエルン公指揮下のドイツ軍が南イタリアのタラントを出航した時にも、1224年に準備が整った時にも出発しませんでした。1225年には教皇ホノリウス3世と、1227年の8月15日に十字軍に出掛けるということを誓約して、再度十字軍遠征の準備を始めました。
 そういう中で、1226年、フリードリヒの元に、イスラム君主であるエジプトのスルタン、アル・カーミルの使節がやってまいります。このアル・カーミルはシリアを支配していた弟がホラズムと同盟したことに脅威を抱いて、フリードリヒ2世に助けを求めてきたわけです。アラブ年代記作家マクリーズィーによりますと、アル・カーミルは、もしフリードリヒ2世がアッカーへ来て弟を攻撃してくれるなら、現在イスラム教徒支配下にあるパレスチナ諸都市を譲り渡そうという申し出を行ったと言います。
 その翌年の1227年の夏、南イタリアのブリンディジに十字軍兵士が集結して、フリードリヒ2世も出発の準備を整えておりました。ところが、疫病が発生して彼自身も病気になったために、彼の十字軍遠征は再度中止となります。時の教皇グレゴリウス9世は繰り返される十字軍の延期に怒り、十字軍の約束不履行を理由にフリードリヒを破門に処しました。
 このような状況の中で、1228年6月、フリードリヒ2世は十字軍を率いてイタリアを出航しました。同じ年の9月7日、シリアのアッカーに上陸したフリードリヒ2世は、当地の十字軍士たちに歓呼の声で迎えられましたが、彼らの期待に反してイスラム教徒への攻撃を開始することはなく、エルサレム奪還のためにエジプトのスルタン、アル・カーミルとの交渉を始めたわけです。そして、5カ月後の1229年2月11日、このアル・カーミルとの間にエルサレムを明け渡す条件を取り決めた条約が締結され、一滴の血も流すことなくエルサレムがキリスト教徒の手に渡されました。
 この交渉は容易ではありませんでした。何度も使節が往来しましたが、交渉に進展は見られず、両者はそれぞれの陣営で困難な状況に立たされることになります。しかし、かつてシチリアの宮廷を訪れ、フリードリヒ2世との友好を深めておりましたファフル・アッディーンがアル・カーミルの使節代表としてやってきた時、交渉が動き始めました。両者は会談を重ねて、エルサレム引き渡しに関するさまざまな議論が行われました。フリードリヒはファフル・アッディーンとの困難な交渉を続ける一方で、この交渉とは全く関係のない哲学や幾何学や数学の難問をアル・カーミルに送って、アル・カーミルはこれらの問題を学者たちに解かせて回答を送り返してきたと言われております。
 アラブ年代記作家イブン・ワーシルによりますと、フリードリヒ2世はファフル・アッディーンに次のように言ったといいます。もしフランク人たちの間で私の威信が失墜することを恐れなければこのような条件をスルタンに押し付けたりはしなかったでしょう。私にはエルサレムあるいはその他の都市を手に入れたいという野望はありません。私は単にキリスト教徒たちの間での私の名声を守りたいだけなのですと。
 両者は合意に達して、1229年2月11日、ついにアル・カーミルはフリードリヒ2世にエルサレムを明け渡すというヤッファ協定が結ばれました。この協定では、エルサレムにおけるキリスト教徒、イスラム教徒の平和的共存が取り決められました。
 このヤッファ協定により、エルサレムとともにナザレとベツレヘムなどが返還されました。エルサレムは皇帝の統治下に置かれましたが、この聖都の内部にあるイスラム教徒の聖なる場所、すなわち岩のドームとアクサー・モスクを含むハラム・アッシャリーフ区はイスラム教徒の管理下に置かれて、イスラム教徒はこの場所に自由に出入りし礼拝を行うことを認められました。キリスト教徒はこの聖なる場所に祈りに来ることを認められ、イスラム教徒は皇帝の管理下に置かれたベツレヘムへ行くことを認められました。イスラム教徒共同体への自治も認められました。また、フリードリヒ2世はいかなる状況になってもアル・カーミルを攻撃しないこと、彼を攻撃するキリスト教徒を援助しないこと、彼の支配地として残る部分を守ることなどを約束しました。
 そして、1229年3月17日、フリードリヒ2世はエルサレムの町に入城しました。そしてその翌日、聖墳墓教会に行き、総大司教が承認を拒んだエルサレム王の冠を自らの手で自分の頭に乗せたわけです。
 しかし、この交渉によるエルサレムの委譲と、キリスト教徒とイスラム教徒の平和的共存を取り決めた協定は、キリスト教徒の間でもイスラム教徒の間でも評価されませんでした。それどころか、それぞれの世界で激しい非難の渦を巻き起こしました。現地では聖ヨハネ騎士団とエルサレム総大主教がこの取り決めに激しく反発して、フリードリヒと敵対することになります。さらにはローマ教皇グレゴリウス9世が軍隊をフリードリヒ2世不在のシチリア王国へ侵入させました。フリードリヒ2世は即座にイタリアへ帰還し教皇軍を撃退します。彼はその時の和平条約で、教皇による破門を解かれることになりましたが、その後1250年に他界するまで再び聖地を踏むことはありませんでした。
 イスラム教徒の間でも激しい非難の嵐が沸き起こっておりました。アル・カーミルの裏切りを糾弾する集会がバクダードやムスル、アレッポ、ダマスクスのモスクで開かれ、甥のアル・ナーシルとの間に戦端が開かれます。アル・カーミルはこの戦いで甥を下しましたけれど、彼が死去した翌年の1239年11月、アル・ナーシルがエルサレムを急襲してこの町を占領することになります。聖なる都がイスラム教徒の手に戻ったということで、その時イスラム世界は歓喜に包まれたということです。これは2人の間の休戦協定が失効して約3カ月後のことでした。
 このように2人の君主による平和的なエルサレムの委譲は、同時代人にはほとんど評価されませんでした。また、2人による取り決めは10年間の期限付きであり、実際にエルサレムの平和共存は10年間しか続きませんでした。しかし、10年間という短い期間ではありましたけれど、2人の君主が生きている間、この約束は守られ続けました。異教徒への敵対的感情が渦巻き、宗教的熱情が支配的な時代の10年です。
 以上がフリードリヒ2世の十字軍の経緯です。
 十字軍の歴史は長い間ヨーロッパにとって、そしてキリスト教徒にとっての意味を求められ続けてきました。それは、ヨーロッパのキリスト教共同体にとって聖なる戦いであり、正義の戦いであると同時に、失敗の歴史でもありました。既に話しましたように、フリードリヒ2世の十字軍はそのような正義の戦いの十字軍の歴史の中で特異な例として扱われ、交渉によるエルサレム回復も否定的に扱われてきました。しかし、今私たちはこのフリードリヒの十字軍を、キリスト教ヨーロッパの視点ではなく――衝突と交流を両方含むわけですけれど――2つの文化圏の接触という視点から見ております。ヨーロッパ文化圏とイスラム文化圏とを同時代に存在する2つの文化圏と見なして、その関係を認識しようとする視点に立っているということです。これは十字軍に対する見方の大きな変化を示しています。この変化は私たちが生きている現代世界の政治力学の変化の反映であると同時に、私たちが持っている世界史認識の変化の反映、ヨーロッパを中心とする世界史認識から複数の文化圏が併存する世界史認識への変化の反映でもあります。
 フリードリヒ2世とアル・カーミルの和平協約締結に至る過程は、別々に形成されてきた異なる集団の歴史、つまりヨーロッパ史とイスラム史とが交わる部分を克明に映し出します。そして、ヨーロッパ史とイスラム史の枠を越え、両者を包摂するより大きな枠組みの歴史像を構築することを求めることになります。このような異なる集団の歴史を包摂する歴史が今私たちに切実に必要とされているのだと思います。
 異なる文化的背景を持つ人々が恒常的に接触している現在、特定の集団を中心とした従来の歴史像は急速に意味を失いつつあります。今必要とされているのは、ヨーロッパが拡大していく歴史や、ヨーロッパを先頭に人類が進歩していくという単線的な歴史像ではなくて、複数の集団、さまざまな文化圏を包含する世界史、いわば人類史と言えるような歴史像です。たとえお互いに直接的な接触や交流がなくても、地球上に存在していた多様な人間集団がどのような社会を築いてどのようにそれを変化させてきたのか、それらの人間集団の間の関係がどのように変化してきたのか、これらを説明できるような複線的な歴史像です。それは、地球上で活動してきた人類を一体と見なして、その構造や内部関係の変化を重視する人類の全体史と言うこともできます。
 フリードリヒ2世とアル・カーミルに焦点を当ててヨーロッパ史とイスラム史の枠を越えた歴史事象を見ようとする行為は、まさに地球上のさまざまな人間集団の歴史を包摂する、そのようなグローバル・ヒストリー構築への第一歩ではないかと思っております。
 ところで、現代世界を文明で区分けして、その文明間の対立を国際政治の基調とする考え方があります。よくご存じだと思いますけれど、有名なハーバード大学教授ハンチントンが出した考え方です。
 そこでは文明という言葉が歴史の中で固有の文化と価値体系を作り上げてきた集団という意味合いで用いられ、異なる価値体系を持つ巨大な文明集団が衝突するという具合に理解されています。このような文明による区分けに対して恐らくは私の同僚たち、多くの歴史家たちが違和感を持っているのではないかと思います。歴史家は、他の地域と比較して際立って高度な文化活動を行う中心的集団が存在して、その文化的影響が広い範囲に及ぶ場合に、その文化活動の総体を「文明」と呼んで、文化的影響が及ぶ範囲を「文明圏」と呼んできたからです。そこでは一つのまとまりが想定されてはいますけれど、それは人々の活動を強く規制する政治的なまとまりではありません。文明は政治的枠組みで説明できない集団を指し示すために使われる非常に緩やかな概念だったのです。そのため、文明をインダス文明やエジプト文明のように過去の世界を表現するための歴史概念として用いることはできても、現実の事象を分析するための分析概念として使うことはできませんでした。「文明」という言葉が持つ曖昧性が、文明集団の恣意的な選択と極端な単純化をもたらすために、分析概念として使えなかったというのが本当のところです。
 しかし、たとえ文明が現代世界を説明する上で不適切な言葉だとしても、私たちが異文化衝突や摩擦をはらむ世界に生きていることは間違いありません。グローバル化の進展と国家の規制力の弱まりが犯罪や狂信主義者のテロ活動を世界規模に拡大して、私たちの生きる世界の安全性を大きく損なっていることも確かだと思います。人々の意識も社会構造も全く異なる現在と十字軍の時代とを単純に比較することはもちろんできませんけれど、宗教的対立が支配的だったこの十字軍時代においてすら、キリスト教徒対イスラム教徒という単純な対立の図式は成立しませんでした。キリスト教徒対イスラム教徒という理念的、イデオロギー的対立が存在する一方で、宗教の違いとは関係なく、利害に基づく君主間の政治的対立が現存していたわけです。
 多様な価値観が併存し人々の流動性が増した現在、文化や価値体系に基づく単純な対立の構図が成立しないということは明らかです。現代世界を正しく把握するには、過去の世界を把握するのと同じく、過度に単純化された図式に惑わされることなく、人々の間の対立軸、衝突要因、利害関係を注意深く冷静に見極めることが重要なのではないかと思っております。
 以上が今日の私の話です。「フリードリヒ2世の十字軍」をテーマに、十字軍の背景から十字軍一般の話、そしてフリードリヒ2世の十字軍の話、そしてそれがわれわれにどういう意味を持っているか、われわれの歴史観をどう変えるかということを話しました。
 では最後に、このスライドをごらんください。実は3~4年前に、「フリードリヒ2世の十字軍」という英語の論文を書き、それがイギリスの雑誌に掲載されました。このスライドは、その論文がベストセラーになっていることを示すベストセラーのランキング表です。この英語論文は十数年かけて書いたもので、フリードリヒ2世の十字軍のことが詳しく書かれています。
 この論文で明らかにしたことは、フリードリヒ2世と先任のノルマン王たちが、イスラム世界の君主との外交関係を長い間維持していたということです。フリードリヒ2世の場合、アル・カーミルとの間に外交関係がずっと続いていて、それが彼の十字軍遠征の伏線となっていました。つまり、彼の十字軍遠征は、両者の長い外交関係の一場面として捉えるべきだという趣旨の論文なのです。フリードリヒ2世の十字軍は十字軍の歴史の中で特異なエピソードという具合に捉えられてきましたけれど、そういう見方では彼の十字軍はよく理解できません。ノルマンの君主たち、それからその延長にあるフリードリヒ2世は、イスラム教徒の君主たちと使節をずっと取り交わし続けていました。使節の交換は、フリードリヒ2世の前からあり、フリードリヒ2世が死んだ後も続きました。この論文は多くのアラビア語史料を調べて書いたもので、インターネットで申し込めば読むことができます。
 なお、この論文の日本語版が、8月末に出版される私の論文集(『中世シチリア王国の研究―異文化が交差する地中海世界』東京大学出版会)に収録される予定です。この論文集は、これまで私が英語で発表してきたシチリア関連の論文を集めて日本語で刊行するもので、専門的な内容であり価格も安くはないと思いますが、関心のある方は手に取ってみてください。どの史料にどういうことが書いてあるかを含め、具体的で詳細な情報が記されています。ということで、今日の私の話は終わりにしようと思います。(拍手)


橋都:ありがとうございました。それでは、時間は十分にありますので、質問のある方からお受けしたいと思いますけれども、いかがでしょうか。
 では最初に口火を切らせていただいて、私から質問したいのですが、私は十字軍の歴史を読んだり聞いたりしている時に、「十字軍国家」という言葉に違和感をいつも抱いているのですけれども、あれは本当に国家であったのでしょうか。統治のシステムとかそういう面で、本当の国家であったのかどうかということです。その点を、先生のお考えをお願いしたいと思います。
高山:「国家」というのは、それこそ私の専門で、研究テーマの一つなのですけれど・・・。中世においていろいろな地域で王国と呼ばれているものが果たして国家であったのかという議論は、研究者の間で、18世紀、19世紀からずっと続いてきております。ヨーロッパ中世には国家はなかったと言う人ももちろんいます。でも、国家の概念をどういうふうに規定するかによって変わってくると思いますが、いろいろな人たちが実際に「国家」という言葉を使ってきているわけです。
 ご質問に対する答えを探すやり方は、2つあると思います。一つは、私たちが持っている国家概念を明らかにして、その国家概念に該当する、そういう政治的な組織体というものがあるかどうかを見るということです。もう一つの別のやり方は、中世や古代の言葉で「国家」を表現していると思われる概念や「国家」を指すと思われているような言葉――例えばラテン語だと、よく知られているのは「レース・プブリカ」とか、あるいはステートの元になった「スタトゥス」とか、いろいろな言葉が想定できるのですけど――、その言葉や概念がどのように変化してきたかを探る。これが別の方法というかアプローチの仕方だと思います。それで何が分かるかというと、実際には何も分からないかもしれません。だけれど、少なくともわれわれが考えている「国家」と過去の現実との違いやかずれが見えてくると思うのです。それによって、私たちがもっている「国家」概念がはっきりしてくるでしょうし、過去の現実と現在の現実がよりはっきり認識できるようになるのではないかと思います。
 このことを前提とした上で、いわゆる「十字軍国家」と呼ばれているものが果たして「国家」だったのかというご質問なのですけれど・・・。国家を、ある強制力が機能している人間集団というふうに非常に単純化して考えれば、やはり国家と呼べるような、ある人間集団の政治体があったとは言えると思います。しかし、強制力がどの領域に対してどれぐらい機能していたか、現実がどうであったかということを知りたいということであれば、非常に難しい問題になってきます。これは、過去のどの社会を対象としていても同じことだと思います。たとえば、私たちが神聖ローマ帝国と呼んでいるものを考えた場合、皇帝の力が非常に強い時期であっても、皇帝が実際にどれぐらいの範囲で強制力を行使できたのか、これはなかなか分からないのです。
 同じ王の下、あるいは同じ諸侯、伯の場合でも、特に戦争に勝った時などには、強制力の存在が強く感じられ、人間集団のまとまり、政治的なまとまりが表に強く出てきますが、平和状態が長く続くとそのようなまとまりがあまり感じられなくなり、果たして国家と呼んでよいものなのかどうか分からなくなります。慣習に従ってそこで生活している人たちがいるだけではないかとも思えてくるのです。
 この問題は、今のわれわれについても言えることです。現代世界においてわれわれが国家と思っているものは何なのか、あるいは国家だと思っているものは本当に国家なのか。「破綻国家」という言葉を最近よく聞きますが、「破綻国家」とは、機能不全に陥っているけれども「国家」として機能している状態を意味しているのか、それとも、既に国家ではない状態を意味しているのか。強制力が機能しているある範囲、ある人的集団に対して強制力が機能している状態が、一番広い意味で許容できる国家概念なのかなという気はしています。
橋都:他にいかがでしょうか。はい、どうぞ。
長手:長手と申します。大変有益な面白いお話をありがとうございました。特に最後のほうの文明に対する先生の見解というか見方、これは歴史に興味を持つ者にとっては非常に、ああこういうふうに考えるのだなとか、こう考えていくのだなと、歴史の見方に対する変化を感じさせていただきました。ありがとうございました。
 私の質問は、たまたま塩野七生さんの『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』をごく最近読み終わって、ちょっと思い出してみると先生のお話と2~3カ所、まああちらは物語作家ですから違うのは当たり前と言われるかもしれませんが、塩野さんはあくまで第6次十字軍として今のフリードリヒ2世の十字軍を捉えていらっしゃいました。だから8次まで行ってしまうのです。だけども、先生のような歴史の見方からいくと5次プラスアルファだというのがきっと今までの見方なのだろうと思います。それが一つ。
 それから、破門も、塩野さんは確か3度あったように書いていましたけれど……。
高山:この後もう一回破門されますから、3回ですね。
長手:そのことと、さらに細かいことですが、第8次にチュニジアへ行ったというのは私は全く理解ができなくて、確かにあの辺はイスラム圏だからそこからずっとエジプトを通ってエルサレムへという道はあり得るのでしょうけど、何でそんな所へ上陸したのかなというのが分からなかったのです。
 最後に、もうひとつ。この間、高校生の孫の教科書を見て、索引でフリードリヒ2世と引いたら、プロシアのフリードリヒ2世しか出てこないです。これほど今見直されている彼のことが一行も教科書に載っていないので、これから載る可能性はないのでしょうか。先生などがもっと宣伝しなければいけないのではないかと思っているのです。
高山:ありがとうございます。十字軍の数え方は研究者によって異なります。十字軍の遠征には長い時間をかけていろいろな人が出かけますので、それらをどこで区切るかという問題が出てきますし、どれを1つの十字軍と捉えてどのように番号をふるかは研究者によって異なります。これは昔からそうでした。だから、フリードリヒの十字軍が第5回十字軍の一部だと言われたり、第6回十字軍の一部だと言われたりしているのです。このような違いはあまり気にしない方がいいと思います。
 ルイ9世のように何世という表現がありますが、これも研究者の間で統一する動きはありますけれど、数え方に違いがあります。王国が成立した時を起点に王を一世と数え始める場合もあれば、王国が成立する前から、つまり、初代の王の祖先から数え始める場合もあります。シチリアで言えば、シチリア伯ルッジェーロ1世の息子がルッジェーロ2世で初代の王です。王としてはルッジェーロ2世が初代だからルッジェーロ1世と呼んでも不思議はないのですが、慣用的にルッジェーロ2世と呼んでいます。要するに、昔の古文書を読む時に同じ名前の王様がいっぱい出てくるから区別するために番号を付けて何世と呼ぶようになったわけですが、別の王を同じ王と取り違えたりして人によって数え方が違ったりするのです。それが、例えば教科書に書くときにはあまりずれると問題だから、これは1世にしておこうということで大体統一されてきますが、絶対的なものではありません。
 西暦だってそうですよね。キリストが生まれた年から数えるのが西暦の定義(キリストの生まれた年の翌年が紀元元年)です。だけど、実際は紀元前0年(現代の紀年法では紀元前1年)より前に生まれているわけで、それが後に分かったのです。このように、間違いが後にすべて修正されるのではなく、そのまま使用され続ける例は数多くあります。あまり気にしないでください。
長手: 破門は3回ですか。
高山:死ぬまでに3回です。
橋都:はい、高崎さん。
高崎:知らないことがたくさんあったので大変面白かったのですが、第一の質問は、ユダヤ人がお話の中であまり出てきませんでした。でも、今パレスチナ問題などでもユダヤ人は大変ですよね。イスラエルといったらやはりユダヤ人がいて、ローマが徹底的に破壊したこともありますね。そのユダヤ人との関係では、当時フリードリヒ2世はどうだったのでしょうか。
 もう一つは、確か『ルネッサンス』というフランス人か誰かが書いた本の中で、フリードリヒ2世のことが随分書かれていたと思うのですが、先生の言われる、文明間の対立というよりも融和というか、そこを乗り越えるというフリードリッヒ2世の発想はすごくいいと思うのですが、西洋の人で、ハンチントンではなくて、同じような発想を言っている人たちはいるのでしょうか。
高山:最初の質問、ユダヤ人に関しましては、ユダヤ人はフリードリヒ2世の下にもいました。有名な役人や学者がフリードリヒ2世の宮廷におりました。それから、私の専門のノルマン王国にもユダヤ人はおりました。地中海をまたぐ交易活動はかなりユダヤ人によって担われていました。ただ、他方で、ヨーロッパの他の地域もそうですけど、ユダヤ人は差別され、活動が制限されていました。フリードリヒ2世の勅令の中にもユダヤ人に関するものがあります。
 文明間の対立という認識に対する批判についてですが、私と同じように見ている人たちが個人的な知り合いにはいますけれど、表立って書物とかの形で出ているものはあまりないように思います。ただ、シチリアに関心を持つ研究者がここ十数年ですごく増えました。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスで、若い優秀な研究者たちが中世シチリアに関する本や論文を次から次に出しており、ヨーロッパとイスラムの関係が若手研究者の間で強い関心を持たれてきているのではないかと思います。
 研究者の間にはある種の空想的な寛容世界というのがあって、かつてはシチリアやスペインにおける文化の共存が非常に肯定的に評価される傾向がありました。それは、文明の衝突というスケールの大きな話ではなく、文化のレベルですけれど・・・。イベリア半島やシチリアにおいて異なる宗教を持つ人たちが平和的に共存していた、これはわれわれにとってのモデルにもなるし教訓でもあるのだという議論が結構盛り上がった時期がありました。しかし、近年では、逆に、現実はそんなに甘いものではなく、非常に厳しい対立が続き、平和共存は難しかったという議論が出てきました。
橋都:エルサレム、パレスチナには、当時ユダヤ人はいたのでしょうか。
高山:もちろんいました。
橋都:他に。
猪瀬:猪瀬ですけど、大変興味深いお話をありがとうございました。
 ちょっと聞きたかったのは、フリードリヒ2世とアル・カーミルの間で使節を交わし、このように平和裏にエルサレムを回復したということなのですけれど、両者がそれぞれお互いをどう見ていたかです。だからフリードリヒ2世はアル・カーミルをどう見ていたか、アル・カーミルはフリードリヒ2世をどう見ていたか、そういうものが分かるような史料というのは何か残っているのですか。
 それが1点と、もう一つは、これだけのことができるということは、お互いに相手のことをよく分かって、共通の話し合いの土俵というのがそこに形成されていたと思うのです。だから、フリードリヒ2世はイスラム教徒の良き理解者であったはずだし、アル・カーミルはカトリックの良き理解者であったはずなのですけど、どういうきっかけでそういうお互いに良き理解者になったのでしょうか。その辺を少し伺いたかったのですが。
高山:さっき外交のことをお話ししましたけれど、ノルマン王の時代からイスラム君主との間で使節の交換が定期的に行われていました。使節の交換ですから、イスラム教徒がパレルモの宮廷に来たり、キリスト教徒がエジプトに行ったりということをやっていて、使節団は行き帰りの時には大体同じ船に乗っていました。パレルモに来たアル・カーミルの使節がエジプトに戻る時に、フリードリヒ2世の使節がその船に同情するということが繰り返されていました。それぞれの宮廷では相手方の使節とじかに会う機会もありました。
 君主同士が直接会うことはありませんでしたけれど、使節団はそういう形で往来していました。君主同士も含め、書簡の交換、手紙の交換は頻繁に行われていました。そのような手紙の一部が現在も残っています。アル・カーミルとフリードリヒ2世の間ではかなりの信頼関係があったようですし、そのことを示す手紙も残っています。もっと手紙を書いてくれとか、自分のところで何が起こったか、例えば教皇の軍隊が理不尽にも入ってきたとかそういうことを伝えていますし、今度十字軍がそっちに行くことになっているから気を付けろとか、商人に化けて偵察が入ってくるという話を聞いたから気を付けろとか、そういうことも記しています。お互いに情報の交換をやっていたということです。
 アル・カーミルはもちろんイスラム教徒で、フリードリヒ2世はキリスト教徒です。フリードリヒ2世は、キリスト教世界での名声や評判を気にしていましたし、自分はキリスト教の擁護者であるということを公言してもいます。しかし、彼は、イスラム教徒もキリスト教徒と同じように神を信仰しているし、彼らには彼らのやり方があると記しています。
 そういえば、有名なエピソードがあります。塩野七生さんも書いていたかもしれないですし、翻訳が出たカントーロヴィチの『皇帝フリードリヒ二世』、よくできている古い本なのですけれど、そこにも出ていたような気がします。年代記に記されている、フリードリヒ2世がエルサレムに入った時のエピソードです。彼がこの町に入った時、アザーン、つまり、礼拝の呼びかけの声が聞こえなかったので、案内役に何で聞こえないのだと尋ねたら、フリードリヒ2世がキリスト教徒だから、それをみんな気にして、控えているのだという答えが返ってきたということでした。それに対し、フリードリヒ2世は、自分はせっかくイスラム世界に来たのだから、みんなの普通の状態を知りたいのだ、だから自分に気を使ってほしくはないと言ったということです。これは一つのエピソードにしかすぎませんけれど、少なくともフリードリヒ2世はイスラム教徒に対して好意的な感情を持っていたということがわかります。イスラム側の年代記には、フリードリヒ2世は隠れムスリムだったという表現も出てきますし。非常にムスリムに対して好意的だったという記述もあります。
猪瀬:小さい頃、イスラム教みたいに育てられたのですよね。それがやはりかなり大きかったのでしょうか。
高山:それはやはりそう推測されます。彼は小さい頃はパレルモで育っていますから、パレルモには当時当然イスラム教徒が多くいたわけで、イスラム教徒に育てられたという話もあります。だから、少なくとも小さい頃からイスラム教徒とは接していた、それは間違いないと思います。
橋都:交渉に用いられた言語は、ギリシャ語ですか。
高山:フリードリヒ2世がですか。
橋都:フリードリヒ2世とイスラム側との……。
高山:何語だというのは出てこないですね。ただ、フリードリヒ2世はアラビア語ができたとは言われています。でも、交渉したのはもちろん彼自身ではありませんから。使節の人たちが何語で交渉していたのかは分かりません。
橋都:他にいかがでしょうか。はい、どうぞ。
一色:一色と申します。今日はどうもありがとうございました。
 今のフリードリヒ2世の話を聞いて、余計に思ってしまうのですけれども、最初に第1回の十字軍の背景と、教皇が呼び掛けてというお話がありました。私は全く素人なのですけど、大体そこにすごく無理があるのではないかと思ってしまうのです。距離的な問題もあると思いますし、もちろんキリスト教が布教して教会が権力を持ってその権力を示そうというような意向もあったと思うのですが、純粋に聖地を回復するために、勝つかどうかも分からないのにお金と人を送り込んで、それを宗教的なものという言葉で置き換えていると思うのですけれど、本当の狙いは何だったのと思ってしまうのですが、俗っぽい質問なのですけど、その辺はいかがでしょうか。
高山:ご質問は、教皇の側の本音はということですか。
一色:何のためにということです。
高山:想像しかできないのですけど、それはやはりキリスト教世界での自分の権威と権力を高めるという思いがあったから動いたのだと思います。
橋都:他にございますでしょうか。
佐藤:佐藤と申します。今日は貴重な話をありがとうございました。
 お話を聞いていて思ったのですけども、現実に今進行していることというのは、やれ宗教だ、言葉だ、あるいはあるかどうか分からない民族だとかいうものの違いを強調して、より排他的というか、寛容の心を失うようないろいろなムーブメントが多くなっているかなと思います.先生のご専門の歴史学の話とはちょっと違うかもしれないですが、こういう動きに対する処方とかはあるものでしょうか。
高山:現在の話で・・・。実は今朝、東大で西洋中世史の概説の講義をやってきました。今日が最後でしたので、中世の話ではなくてグローバリゼーションの話をしてきました。現在のグローバル化がいかに大変なものであるか、今われわれがどんなに大変な時代に生きているのかということを話しました。しばらく前までは国境が非常に強くて、他の価値観とか他の考え方を持っている人たちとの間に壁があったけれど、グローバル化が進行することによっていろいろなものが行き来するようになりました。人ももちろんそうですけし、情報、資本、お金、いろいろなものが国境をすり抜けています。そういう状況の中で、以前でしたら自分の存在を否定するというか、自分と違う価値観をもつ人がそばにいるということはあまりありませんでした。しかし、今は、自分には全く理解できないような価値観、行動パターンを持っている人たちがそばにやってきているのです。また、昔だったら隣の国で何を言おうが私たちまで伝わってこなかったけれど、今は何か言えばすぐ伝わってきます。これはお互いにです。そういう状況にいるから、意識の上ではやはり非常に厳しくつらいのだと思います。
 このような状況の中でどう対処したらいいかということですが、答えるのが非常に難しい質問です。学生に言ったことをここでも繰り返すしかありませんが、結局今われわれが置かれている環境、グローバル化が進行する世界の状況、その中での日本社会の変化というものをきちんと認識するしかないということではないかと思います。そのような状況の中で自分が生活しているのだということが分かるようになれば、対処の方法もある程度は見えてくるのではないでしょうか。しかし、それを知らないと、あるいはそういうことに関心がなければ、常に自分は摩擦にさらされてしまうことになると思うのです。つらい状況ですが、そういう具合にしか答えようがないです。
佐藤:分かりました。
橋都:他にいかがでしょうか。
 一つ、現実的な問題として、必ずしも豊かでない人が巡礼に行ったということですけど、イスラム世界だとメッカに行くというのは大変名誉なことなので、その巡礼はどこに行っても手厚くもてなされるということがあったようですけど、キリスト教の世界でそういうことがあったのでしょうか。貨幣経済がそれほど発展していない時に、貧民が旅行するということが可能だったのか、ちょっと興味があるのですけど、いかがでしょうか。
高山:やはりそれは大変だったと思います。もちろんお金があればいいですけれど、お金がない人たちも多く出かけています。多分途中で、聖地に行き着く前に死んでしまうということもあったのではないかと思います。
 それから、巡礼にはいろいろな要素があります。ある意味では日本でもそうですけど、旅行という側面もありました。
 非常に信仰心の強い人たちはもちろん聖地で死ぬのだという思いを持って行くかもしれませんけれど、他方では聖地と考えられている所を巡礼して、旅行気分を楽しむという、これも同時にあったと思います。
橋都:よろしいでしょうか。
 民族間の寛容といいますか、そういうのは大変難しいものだと思いますけれども、それを中世に行った偉大な君主と言ったらいいのでしょうか、われわれがフリードリッヒ2世から学ぶことは大変多いのではないかと思います。
 それでは、もう一度高山先生に拍手をお願いしたいと思います。(拍手)
高山:どうもありがとうございました。